死んだままのブログだと思われるのもシャクなので、たまに、どうでもいいこと。

安倍晋三というひとがわからないのである。

こないだの戦後70年談話というのは、もう発表前の段階で四方八方からいろいろ言われていて、つまり「日本は(戦前も含めて)全然悪くないんでちゃんと世界に向けてアピールしてくれ」という<お仲間>からの激励もあれば、「ここでアンタの持論をぶったら日本は世界の孤児になるんで気持ちはわかるが頭下げといてくれ」という所謂「現実主義者」のブレーンとかテクノクラートの方々からの懇願もあるし、もちろん(安倍晋三に聞く耳はないが)「戦争で迷惑かけた人たちにちゃんと謝っておかんといかんぞ」という人々の声もある。

で、結局この70年談話では、「未来永劫・子々孫々まで誤り続ける気はさらさらありませんから」ということを言って<お仲間>の顔を立てている。日露戦争は西欧列強の植民地化の動きに対抗してやむにやまれず立ち上がったもので、日本の戦いは植民地下のアジア人民にも勇気を与えた、などと司馬遼太郎 にかぶれた史観を一席ぶっている箇所もある。たぶん、「大東亜戦争はアジア人民解放の戦いだった」などという一部の右翼が言っている主張は流石に苦しいけれども、帝政ロシアを悪玉に仕立てるのであればあんまり批判も来ないので、こういう言い方をしているのではないか。けっきょくのところあの人は、「戦前の日本は悪くない」と思っているのだろう。

しかし、同時にその手の議論ばっかりだとハラの底が丸見えになってしまうので、「反省」もしてるし「謝罪」もしてます、という事も同時に言っている。もちろん「これまでの日本政権はさんざん謝ってきたではないか。そこんとこは変えません(キッパリ」といって、自分自身に謝る気があるのかないのか明言しない言い方をしているのがなかなかコスイのではあるけれども、いちおう頭を下げるかたちをとって体外的な配慮もみせてはいる。まぁ、各方面にそれなりにナットクしてもらおうという苦心の作であったことはわかる。

ただ、こういう談話をみていてつくづく感じてしまうのは、もっともっと原理的な部分での疑問なのである。こういうロジックの人が、なぜいま、戦前の世界を仕切っていたアメリカと同盟関係を結んで仲良くしよう、と言ってるのかがわからない。


最近では威光もかげってきたとはいえ、いまだ世界の強国であるアメリカと手を組んでりゃ安心だ、というのは国際政治のリアリズムからいえば、安倍晋三の立場もわからんではない。だが、戦後の世界史を考えてみりゃあ、第三世界にさんざっぱら介入して、「反共だったら援助すっからね」とかいって腐敗政権支えてきたのもアメリカだ。「日露戦争がアジア人民に勇気を与えた」とか言ってんなら、そういう「米帝」の策動は批判して「アジア人民の自主独立」を応援するのがスジであって、そういうアメリカのゴーマンな体質は戦前も戦後も変わっとりゃせんのではないか。

*もっとも、アメリカには「もうオレたちヨソのことには関わりあいたくないから」という「モンロー主義」の伝統も一部にあって、それこそ第二次大戦の時なんかもチャーチルの「参戦して助けてよ」という要請になかなか応じなかった。最近も、勢い込んでイラクぶっつぶした迄はいいが、そのあとグチャグチャの泥沼作っちまった反省から「中東に深入りするのはこりごりだ」的なトレンドもあるらしいので、ま、その辺は相対的な問題ではあるんだけどね。



閑話休題。もちろん「靖国の英霊」をたたえる心情というのは、「親米」とは両立しないと思う。実際、安倍は靖国に参拝するたびにアメリカの偉い人たちから怒られてしまい、ここんとこ全然行けなくなってしまった。

いや、そもそも戦後日本の右翼というのは、「反共」から思考を組み立てているので、反共の大親分であるアメリカとべったりで生きていくというのが別に不思議ではなかったのだろうというのはわかる。わかるけれども、この歴史的に生まれた「親米右翼」というのが理屈からいえば何とも不可解な存在であることは結構むかしから指摘されてきたわけである。

ところがこの安倍晋三というひとは、その辺の「矛盾」には全然無頓着なようなのだ。なぜなのか。それとも、ハラん中では「今んとこはアメリカの手下で甘んじるしかねーが、今にみていろ、何かあったら一泡吹かせてやるからな」とかスゲーこと考えてんのか。アンタ石原莞爾かよ、みたいな(笑)。

ともあれ、少なくともそのあたりの「わけのわからなさ」を解消すべく、自らの思想を明瞭に言語化して説明してほしい。そういうことのできる人なのか、って? うむ、オレもそこんところが疑問なのである。一国の首相があまりに頭が悪く、そうした応答責任さえも果たせないような人物であった、というようなことは御免被りたいンだが・・・。