東京五輪のエンブレムを作ったデザイナーが、「よそのデザインをパクったんじゃねえか」と騒がれている問題について、昨日8月19日の天声人語が触れている。が、今回も例によって奇妙な議論をしている。

まず、歌人としても有名だった今は亡き寺山修司について、若き日の寺山にはしばしば盗作疑惑がささやかれ、「模倣小僧」と呼ばれることすらあった、という話をする。

で、実例を挙げている。「向日葵の 下に饒舌高きかな 人を訪わずば自己なき男」という寺山の歌があるのだが、これは中村草田男の「ひとを訪はずば 自己なき男 月見草」のパクリではないか、そういう話があったという。

ただ、ここで天声人語子は寺山の非難に走るかと思えば、そうではない。「でも寺山の作品って愛されているよね」という話をする。こんな具合だ。

批判を浴びて歌人寺山は消えてもおかしくなかったが、そうはならず、歌は今も愛誦されている。この種の騒ぎの収まり方には実に微妙なものがある。

で、最後のシメはこんな風だ。
ついでながら、子規の名高い〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉は、親友の漱石が先に作っていた〈鐘つけば銀杏ちるなり建長寺〉を発展させて詠まれたという。触発し、触発される。人が行う創作行為には当然そうした面がある。

つまり通読しますと、「人間の創作には先人の業績を真似たり、パクったりして創造するという側面がある。よって、今回のデザイナーのパクリ疑惑もそんなに騒ぎなさんな」という事を言っているように読める。

しかし、う~ん、それでいいのか、とオレは思う。

みなさんよくご存じのように、日本の和歌の伝統においては「本歌取り」というものがある。名高い古歌を一部パクリ(というと下品なので「流用して」というべきかもしらんが)、自作の作品世界に奥行きを与えるという手法である。念のためウィキペディアをみたら、こんな実例が挙げてあった。


三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも かくさふべしや(額田王)
    ↓
三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ(紀貫之)


実際には本歌取りにもいろいろ「ルール」みたいなものがあるらしく、寺山修司の「パクリ」がその辺どうなのかは素人なのでよくわからん。ただ、少なくともここからわかるのは、「これはオレのオリジナルな表現だから。マネして使ってもらったら許さん」というような、権利意識に目覚めた現代人特有の発想は、もともと日本の詩歌の世界にはなかった(もしくは乏しかった)のではないか、ということである。そして、我々もどこかに「先人を作品をリスペクトしてなぞる、ってのはアリかもしれんなあ」という風に考えているところがあるんではないか。

ただ、しかし、おそらくそれは「日本の詩歌」という文脈だから許されていることだと思う。我々の血肉と化した日本語という領域にあっては、先人の作り出した表現もまた広い意味での「公共財」なので、ある種の「フェアユース」を許す。寺山が「許された」というのも、そういう文脈があってのことだと思うのである。

しかるに、今回のデザイン盗用疑惑はどうか。

こういう世界になると、詩歌なんかと違って、やっぱり勝手にパクったりするのはまずいだろう、というのが大方の日本人の感覚なのではないか。天声人語は「およそ創作であれば、ある程度のパクリは許されるべきではないか」というような主張をしているようだが、これは、その創作作品のジャンルであるとかその歴史的文脈を無視して簡単に言い切ることのできない問題であると思う。

かくの如く、今回の天声人語も「文化の何たるか」ということについて深く考えることをしないものだから、極めて乱暴粗雑な議論をしてしまった。残念なことである。