たまには何か書かないとそのまま消え失せてしまいそうなブログなので、今回はジャック・ヴァレにかんしてのお話を一つ。
たびたび書いているけれどもオレは世界的ユーフォロジストであるジャック・ヴァレの勝手連的エヴァンジェリスト(「宣教師」といったイメージである)を気取っており、彼が本に書いてきた議論を世に広めたいと考えているのであるが、しかしその著書を訳したものを勝手にネットにアップしたりすると著作権法違反になってしまうのだった。
ただし、いわゆる「批評」という営みの中で「批評が主:引用が従」という構成を守れば批評に必要な部分の引用は正当なものとして認められる(と言われている)。その厳密な要件というのは今ひとつよくわからないのであるが、今回のエントリーはかくの如き批評文であるという前提のもと、以下、彼の文章を引く。
言うまでも無いが、これはフランスの「ルルドの泉」についての話である。1958年2月11日、薪拾いをしていた14歳の少女ベルナデッタ・スビルーは突如顕現した聖母マリアと出会い、やがてそこからは病人を癒やす力があるとされる「泉」が湧き出し、最終的には「聖地ルルド」が誕生することになる。引用した部分は、そのありがたい「泉」が出現した時のストーリーである。
いや、もちろんジャック・ヴァレはこれを「ありがたいお話」として語っているわけではない。
UFOの搭乗員は目撃者に向けてしばしばナンセンスとしか思えない言葉を発するという。そして、年来の持病やケガに悩んでいた人間がUFOと出会ったのちに快癒してしまったという逸話も多くある。よくよく考えれば、「ルルド」のような奇跡もまたUFO現象に類似したストーリーとして理解できるのではないか。それがここでのヴァレの含意である。
誤解されるとイカンので念のため言っておくが、これは別に「ルルドに出現したマリアは宇宙人だった!」というような、いかにも雑誌「ムー」が好きそうな浅薄なことを主張しているわけではない。UFO現象というのは、ある種の宗教現象にも似て、人間存在の根源に関わるような何かとてつもない重要な意味をもっているのではないか。彼はここでそういう問題を提起している。
これは大事なことであるからこそ敢えて耳目を引くような挑発的な議論をする――ヴァレの狙いはおそらくはそのようなものであり、だからこそ彼はカトリックの聖地ルルドを引き合いに、カトリックの信者にとっては瀆神的ともいえるような挑発的な主張を敢えて展開しているのである。
同様にして、彼はメキシコの「グアダルペの聖母マリア」なんかも同書で取り上げている。ここで彼が射程に入れているのは、いわば現代における「生きた神話」としてのUFOだ。
なかなか痛快ではないか。面白いではないか。
UFOの目撃も最近ではめっきり減ってしまって、じゃあなんでそんなに重要なUFOがいなくなってしまったのよ――などといったツッコミも想定される。が、少なくとも20世紀の半ばから終わりにかけて、UFOは確かに「神無き時代」の最先端を走っていた。それにしてもアレは何だったのかというのは、なお考えるに足る問いである。だからいまいちどヴァレに光を。オレはそんなことを思っている。
たびたび書いているけれどもオレは世界的ユーフォロジストであるジャック・ヴァレの勝手連的エヴァンジェリスト(「宣教師」といったイメージである)を気取っており、彼が本に書いてきた議論を世に広めたいと考えているのであるが、しかしその著書を訳したものを勝手にネットにアップしたりすると著作権法違反になってしまうのだった。
ただし、いわゆる「批評」という営みの中で「批評が主:引用が従」という構成を守れば批評に必要な部分の引用は正当なものとして認められる(と言われている)。その厳密な要件というのは今ひとつよくわからないのであるが、今回のエントリーはかくの如き批評文であるという前提のもと、以下、彼の文章を引く。
聖母マリアの第9回目の出現にあたって、ベルナデッテは「泉のところまで行って体を洗い、その水を飲みなさい」という指示を与えられた――しかし、実際にはそんな泉はなかった! ベルナデッテは泉を探したけれど全くみつからず、絶望した彼女は砂地を掘り返しはじめるという有り様だった。
そこににじんできた水はやがて穴を満たし、土とまざってドロドロになった。ベルナデッテは顔を洗おうとしたが、かろうじてできたのは、その泥を自分の顔に塗りたくることだけだった。彼女はその水を飲もうとし、さらには草を食べようとしたのだが、そんな時、集まった群衆の笑い声はひときわ高くなった。
ベルナデッテはその穴を「ほとんど意識が朦朧とした状態で」掘ったのだけれど、しかし、なんと彼女は「泉」を掘り当てるためにはまさにドンピシャの時、ドンピシャの場所で穴を掘っていたのだった。
じっさい翌日になるとその場所には、か細いけれど奇麗な流れが姿を現し、その流れは野を下ってガブ川に流れ込むようになった。ルイ・ブリエッテという盲人がその泉の水を目にひたしたところ、彼は視力を取り戻した。死に瀕していた赤ん坊が完全に健康を取り戻した。かくて、群衆の態度は一変した。
(ジャック・ヴァレ『見えない大学』第7章より)
言うまでも無いが、これはフランスの「ルルドの泉」についての話である。1958年2月11日、薪拾いをしていた14歳の少女ベルナデッタ・スビルーは突如顕現した聖母マリアと出会い、やがてそこからは病人を癒やす力があるとされる「泉」が湧き出し、最終的には「聖地ルルド」が誕生することになる。引用した部分は、そのありがたい「泉」が出現した時のストーリーである。
いや、もちろんジャック・ヴァレはこれを「ありがたいお話」として語っているわけではない。
UFOの搭乗員は目撃者に向けてしばしばナンセンスとしか思えない言葉を発するという。そして、年来の持病やケガに悩んでいた人間がUFOと出会ったのちに快癒してしまったという逸話も多くある。よくよく考えれば、「ルルド」のような奇跡もまたUFO現象に類似したストーリーとして理解できるのではないか。それがここでのヴァレの含意である。
誤解されるとイカンので念のため言っておくが、これは別に「ルルドに出現したマリアは宇宙人だった!」というような、いかにも雑誌「ムー」が好きそうな浅薄なことを主張しているわけではない。UFO現象というのは、ある種の宗教現象にも似て、人間存在の根源に関わるような何かとてつもない重要な意味をもっているのではないか。彼はここでそういう問題を提起している。
これは大事なことであるからこそ敢えて耳目を引くような挑発的な議論をする――ヴァレの狙いはおそらくはそのようなものであり、だからこそ彼はカトリックの聖地ルルドを引き合いに、カトリックの信者にとっては瀆神的ともいえるような挑発的な主張を敢えて展開しているのである。
同様にして、彼はメキシコの「グアダルペの聖母マリア」なんかも同書で取り上げている。ここで彼が射程に入れているのは、いわば現代における「生きた神話」としてのUFOだ。
なかなか痛快ではないか。面白いではないか。
UFOの目撃も最近ではめっきり減ってしまって、じゃあなんでそんなに重要なUFOがいなくなってしまったのよ――などといったツッコミも想定される。が、少なくとも20世紀の半ばから終わりにかけて、UFOは確かに「神無き時代」の最先端を走っていた。それにしてもアレは何だったのかというのは、なお考えるに足る問いである。だからいまいちどヴァレに光を。オレはそんなことを思っている。
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