■第十二章 壮大なぺてん師たち

「超地球人」をめぐるキールの思索は、ここにきて歴史的な考察へと歩みを進める。要するに、連中は今でこそ「宇宙人」を偽装して姿を見せるようになったけれども、かつては「悪魔」のような存在として人間の前に出現していたのではないか、というのである。出没自在で、平気で壁を通り抜けたりするところは「悪魔」も「宇宙人」も変わらない。



悪魔やその化身やにせ天使たちは、むかしの人間に嘘つきや略奪者として認められていた。この同じ詐欺師たちが、いまは長髪の金星人として現われているのである(212頁)


もちろん、彼らに対して警戒を怠ることはできない。なんとなれば連中は「善人であることもあるが悪人であることがずっと多い」(213頁)からである

さらにキールは、「彼ら」は人間が出現する以前から「先住者」として地球にいたのではないか、と言い出す。こうした話は聖書の偽典である「忘れられたエデンの書」に書いてあるとか何とか言っているが、この辺の主張は流石に根拠薄弱である。もっとも、最近の話題にひっかけていうと何だかエヴァンゲリオンを連想させるようなところもある。面白いといえば面白い。


「面白いこと」といえば、この辺りでキールはもうひとつ興味深いことも言っている。UFOの乗員たちはしばしば武器のようなもので人間を麻痺させる。だが、よくよく考えればこれはホントに「攻撃を受けたから麻痺した」のだろうか――彼はそんな疑問を提起している。つまり、順番としては麻痺が最初にあって、そのあとに超常的存在が現れるのではないのかというのである。


それってどういうことよと我々は思うワケだが、彼は説明のために「その存在(注:超地球人のこと)は知覚者自身のエネルギーを利用することによってすがたを現す」(214頁)という超心理学方面のアイディアを紹介する。要するに、身体を駆動させるエネルギーが失われる≒身体が麻痺するのと同時にそのエネルギーが吸い取られ、「彼ら」を実体化させるために利用されるんじゃないか、そういうことを言っているのである。こういうエキセントリックな発想もまたキールの魅力の一つだろう。


同時にキールは、こういう現象に関わりをもつのは「ヤツら」の介入を招くので、とても危険なことだともいう。彼に言わせれば、研究家や目撃者につきまとうとされる黒衣の男、すなわち「メン・イン・ブラック」は、黒い肌と東洋人風の顔をしている点で吸血鬼に似ている。それぐらい恐ろしいということなのだろう。そして、「UFO現象に夢中になった若い男女がこうした幽霊からおそろしい訪問を受け(中略)こわくなってUFOの探求を断念したといったケース」(215頁)は何百とある。




だからわたしは、親たちに、こどもたちが夢中になるのを禁ずるように強く勧めるのである。学校の教師やほかのおとなたちも、ティーンエイジャーたちにその問題に興味を持つようにすすめたりすべきではない(216頁)



うーん、オレなどは今や絶滅危惧種であるUFOファンを何とか増やしていきたいと考えているのだが、キールから

「やめたほうがいい」

と言われてしまった。いや、だがこれは、そう言われれば言われるほど「じゃあやってみたい!」と考えてしまう人間心理を踏まえた彼一流のレトリックではないのか。一筋縄ではいかないキールだけについついそんな深読みもしたくなってくるのだが、どうなんだろう。


もっともキールは、いったん読者を怖がらせた後で、「彼ら」は時として病気を癒やしたり人を助けたりすることもあるという。良き天使としての側面である。また、「彼ら」はどうやら両性具有であるとか意味不明のことを言い出す。要するに「彼ら」のことはよくわからんのだった。



さて、キールは本章の後段で、西洋でいう「四大の霊」、つまりは「
地・水・風・火の四大元素を司る四種の霊魂」であるとか妖精・小人のたぐいは、いわゆる「宇宙人」の同類ではないのかという話を始める。この辺のことはいろいろ詳しく書いてあるが、ここでは省略してひと言でいってしまえば、要するにこういうことなのだ。



現れるものは、歴史を通じてずっと同じである。それらのできごとについてのわれわれの解釈だけが変化してきたのである(227頁)


ついでに言っておくと、「彼らが姿を現すためには生物のエネルギーが必要なのではないか」というアイデアは先ほども紹介したところであるが、改めての「ダメ押し」として、彼はこんなことも書いている。




これらの生きものが、自らを具体的な形体に再構成することを可能にする生命エネルギーを必要としているのだということは推測できる。フラップ地域で、よく犬や家畜が消えるのは、そのためかもしれない(229頁)


「彼ら」が犬に執着を示したいわゆる「イヌ事例」、あるいは家畜が狙われる「キャトル・ミューティレーション」について、これなんかは一つの示唆を与える指摘でもあろう。



次いでキールが注目するのは「心霊術」である。1848年、ニューヨーク州ハイズヴィルに住んでいたフォックス姉妹の周囲に起きた心霊現象をきっかけに近代スピリチュアリズムが勃興したことは広く知られているが、モノが現れたり消えたり飛んだりするポルターガイストなども含め、心霊現象全般もまたUFO現象に通底しているというのが、ここでのキールの主張である。


ちなみに彼はここでちょっとした「心霊うんちく」も傾けている。

モルモン教の創始者であるジョゼフ・スミスが一時期住んでいた場所とハイズヴィルは数マイルしか離れていなかったこと。

フォックス一家が「その家」に引っ越してくる前、すなわち1847年にはミッチェル・ウィークマンという人物の一家がそこに住んでいて、やはり幽霊騒ぎがあったこと。

若干時代をさかのぼった1820年頃には、テネシー州ロバートソン郡のジョン・ベルという人の家で盛大なポルターガイスト現象が起き、「ベル・ウイッチ」と称されて今に至るもとても有名な事件として記憶されていること。

*ちなみに「ジャクソニアン・デモクラシー」で知られる後の大統領、アンドリュー・ジャクソンもベル家を訪問したことがあったという。その際、乗ってた馬車が止まってウンともスンとも動かなくなったンだが、突然「将軍、馬車を動かしてください」という金属的な声が聞こえてきて、すると馬車は再び動き出した――という話があるらしい。で、どうやらこのジャクソンの話はウソらしいんだけど、「ヤツらは自動車ばっかじゃなくて馬車をも停めた」という意味ではすこぶる面白い

・・・・・・といった感じで、こういう話はオレは全然知らんかった。キールを読むことはとても勉強になるのだ(しかし何の勉強だw)。


さて、この章は、キールも力が入ってるのかずいぶん長い。ここまで書いてきたら、こっちも疲れてしまった。なので、この辺から後の細々した議論も端折りたいが、ただ235-236頁あたりでは19世紀のUFO報告(むろんUFOという言葉は当時なかったけれども)とポルターガイストの件数をグラフ化した試みが紹介されていて、その両者の増減はリンクしていたとキールは言っている。統計が取られた範囲などハッキリしないので何だか怪しいデータには違いないが、こういうハッタリめいたうんちくは話半分でもそそられるものがある。


いよいよ章の最後のほうになると霊媒の話も出てくる。降霊会で「当人が知るはずのない言語でしゃべりだす」といったような、合理的な説明がしにくい現象が起きたりすることもないではない。だが、そこでは一方で見え透いたウソが語られたりもする。要するに、こうした心霊関係のさまざまな出来事においても、その背景には常に「超地球人」がいる。

もっといえば、およそ不思議な現象というのは心霊だろうがUFOだろうが、すべて「彼ら」が仕切っている――極めて乱暴に総括してしまえば、キールはそのようなことを主張しているようだ。なんと素晴らしい大統一理論だ!(つづく