■第十三章 ワニにかまれた傷を確実に治す法


さて、キールはここまで「様々な超常現象とUFO現象というのは元をたどれば同じものである」ということを執拗に主張してきた。その延長線上で、この章では「聖母マリアの顕現」に代表される宗教的な奇跡もやっぱり根っこは同じなんだよネ、聖母として出てくるのも実は「超地球人」なんだよネという――おそらくはカトリック教徒が激怒しそうな――ことを主張している。ということで以下、議論は聖母マリアの顕現を中心に展開していく。


まず彼が紹介するのは、1846年、フランスのラ・サレットで、10代の子供2人が原野で「聖母マリア」を目撃した事例である。聖母はその際、アイルランドの飢饉やヨーロッパでの小麦の凶作を予言した(実際その通りになった)。さらに1858年、フランスのルルドでは14歳のベルナデッダ・スビルー(邦訳ではベルナデット・スビル)が聖母と出会う。有名な「ルルドの奇跡」である。


次いで、これは聖母とは全然関係ないハズなのだが、たぶん「ヤツらとの遭遇が<良きもの>をもたらした事例」ということで連想がはたらいたのだろう、1965年9月3日夜、テキサス州ブラゾリア郡でクルマでパトロール中の警官が楕円形の光体と遭遇した事例をキールは紹介している。この時どんな「良いこと」が起きたのかというと、警官の一人はたまたまペットのワニにかまれて(!)左手の人差し指にひどいケガを負っていたのだが、おそらくは物体が発する光線を浴びたことで、彼のそのケガはすっかり治ってしまったのである(本章のタイトルはここから来ている)。


ちなみに、ちょうどこれと全く同じ日、ニューハンプシャー州エクセターでは、走行中のクルマが楕円形の赤い物体に追い回されたのを発端に、大勢の人間がUFOを目撃する事件があった。これがいわゆる「エクセター事件」であるが、ヒル夫妻事件を取材した『中断された旅 The Interrupted Journey 』で名高いライターのジョン・フラーが『エクセターのできごと Incident at Exeter』(未訳)という本を書いたこともあり、この事件は広く人々に知られることになった。


こうなると、同じ日に起きた事件でありながら「ワニ事件」のほうはどうしたって比較されて「冗談でしょ?」という扱いを受ける。ところがキールは、エクセター事件のほうこそ「まことにつまらない目撃」だと言い放ち、むしろ「ワニ事件」が重要なのだと主張する。事の真相に迫るには、むしろこの手のワケのわからん「ばかげたケース」のほうが大事だというのだった。このあたり、実にキール節全開ナリ。



ここでキールは、しばしばUFOと同時に現れて空を飛び回る「翼のある生き物」の話を唐突に始める。1877年のニューヨーク・ブルックリン。1922年のネブラスカ。1963年11月16日の英国ケント州。とどめは1966-67年のウェストヴァージニア州ポイント・プレザントにおけるいわゆる「モスマン」事件で、これについてはリアルタイムで取材したキールがのちに『プロフェシー The Mothman Prophecies』を著したことでも有名だ。


なんでそんな話をイキナリ持ち出すのだろうとオレは一瞬思ったのだが、たぶんこれは「空中に出現する聖母、翼で空飛んでるヤツ、どっちも同類ですから」という理屈なのだろう。キールにありがちな「流れぶったぎり」パートから話は再び「聖母」へと立ち戻り、ここからは有名な「ファティマの奇跡」をめぐるストーリーが始まるのだった。



この話は皆さんもよくご存じだとは思うが、改めて簡単に説明すると、まずは1917年5月13日、ポルトガルのド田舎のファティマで、小さな子供たち3人が光る球体と遭遇する。うち2人には「自分は天国から来た。これから6か月間、毎月13日にここに来るがよい」といった声が聞こえた。それが「聖母マリアの顕現だ!」という話になっていく。

実際に聖母は毎月13日にその場所に出現し、次第に多くの人が詰めかけるようになる(ただし、こうした野次馬には光こそ見えたが聖母を目にすることはできなかったようである)。あれやこれやあった末、やがて最後の顕現の日となる10月13日が来る。現場には7万人の群衆が詰めかけた。そこでは回転する銀色の円盤が乱舞するさまが誰からも目撃されたという。


この一件に関しては「聖母が三つの預言を残した」とか色々な逸話があるのだが、ここではその辺は一切省略。で、キールがこれについてどう言っているかという話になるわけだが、彼は子供3人の中で最年長のルシア・ドスサントス*が1915年以来、たびたび天使のようなものと出会っていたことに注目し、「ヤツら」はルシアがあらかじめ「心の準備」をするよう事前に仕込みをしていたのだと言う。そう、彼にしてみれば、この出来事は明らかに「超地球人」が仕組んだもの、そんなことは当然至極、当たり前のことなのだった。

    *訳書では「ルーシャ・アボボラ」。ちなみに「アボボラというのは original name」と書いてる資料があるので、彼女は何かの理由で改名したのかもしらん

もっといえば、キールによればこのファティマの奇跡というのは、「彼ら」にとっても乾坤一擲の大勝負であったようだ。時代はもう20世紀。人間もだいぶ科学的・合理的な思考をするようになってきて、「彼ら」が何か不思議な現象を起こしても「そんなのあるわけないジャン」とかいって人はなかなか振り向いてくれない。「じゃあ一大ページェントやって力づくで人間驚かせたるワイ」、そういう意図があったというのである。すなわち――




懐疑論が横行していたので、超地球人たちは、これらの予言へ目を向けさせる唯一の方法は、ほとんど反論できそうにない、そして聖職者に――そして世界に――こどもたちが言っていることは真実だと信じ込ませるような、慎重なデモンストレーションを演じることだと考えたのである。(258-59頁)



ただキールは、一連の出来事が「宗教的な奇跡」という文脈に回収されてしまったのは「超地球人」にとっては誤算だったのでは、とする。要するに、カトリックの人たちは「なんという奇跡だ!」とかいって感心してくれたかもしらんが、「宗教なんてもうイラネ」の人たちは「いや、もう聖母なんて話は御免被りますので」ということで、結局リーチできなかった。全体的にみればダメだったジャンという話。だからキールは次のように書く。




慎重に計画され、ファティマで意図的におこなわれたデモンストレーションは、したがって、超地球人たちに関する限り、失敗だったことになる。そういうデモンストレーションは、たしかに聖書時代にはひじょうに効果的だったが、時代は変わりつつあり、新しい方法が必要だった。人類は科学的になってきた――だから、その現象も一見、科学的な枠組のものに替えるべきなのかもしれない。(259頁)




ファティマ型の多くの現代の奇跡があったのだが、狂信者のサークル以外では、あまり大きな注目を集めなかった。空飛ぶ円盤のほうが、そうした奇跡よりもずっと宣伝効果があった。(同)



「いや、そんなことは最初から電通に相談すりゃよかったんだよマーケティング甘すぎるよ」とオレなどは思うのだが、ともあれ「彼ら」は次なる策として空飛ぶ円盤というイメージを用いることにしたというのである。


もっとも、「ファティマ」以降、こうした宗教的な幻像が消え去ったわけではない。キールはそんな事例をさらに幾つか紹介している。


例えば1961年6月18日、スペイン・ガラバンダルでは、12歳のコンチタ・ゴンザレスをはじめ4人の女の子が9歳ぐらいにみえる「天使」と出会った。彼女たちはその後も聖母や天使との遭遇を重ね、こうした目撃体験は1000回以上(!)に達した。1968年7月22日夕、カナダのケベック州セント・ブルノでは6人の少女たちが聖母マリアを目撃。1969年1月、メキシコ・ウルアパンでは7歳の女児が「グアダルペの聖母」と名乗る幽霊のようなものと遭遇した。


ということになると、これはキール自身がハッキリ言っているわけではないが、どうやらこうした現象は、「超地球人」と出会う人間の心のありよう――例えば特定の信仰があるとかないとか――によってコンテンツが微妙に変わってきたりするンではないのか。


いや、そこまでは言っていないのかもしれないが、少なくともキールは、UFOをも含む様々な奇現象は「超地球人」からの働きかけをうけた「人間」を起点として生まれるものだという意味のことを記している。




そのできごとや幻影は、現実にでなく、心の中だけで生じるのである。外に現れたものは、そのメカニズムの一部にすぎず、原因というよりはむしろ副産物なのである。(266頁)




接触者たちのほんとの体験は、ある強力な電磁気エネルギーのビームが、生物学的感覚チャンネルを無視して、その心に向けて送られているのだから、彼あるいは彼女の心の中でのことなのである。(同)


またぞろ「電磁気エネルギーのビーム」だとかエセ科学風の奇妙なことを言い出したのはかなわんが、最終的に言いたいことはだいたい分かった。そして、最終的にはまたこんな話になる。



「われわれは、これらの現われすべてを別々のカテゴリーや研究に分離するという人間的な誤りをおかしてきた。悪魔学者、天使学者、神学者、UFO学者はみな、同じ現象を少しちがった視点から調べていたのである。(同)



そう、悪魔学者も神学者もUFO研究者も実はみんな同じナカマ。「人類みな兄弟」(Ⓒ笹川良一)であったのだ。

それにしてもこの「超地球人」、基本的にはイタズラを仕掛けたり人を欺いたりするイヤなヤツだというのだが、その割にときどき当たる予言を教えてくれたり、ケガ・病気のたぐいを直してくれたりするというのはいったい何なのか。というか、そもそも人間にちょっかいを出してくる目的は何なのか。ここまで読んでも全くわかりません。(つづく


しかし毎回ついついダラダラとりとめのない長文になってしまう。反省。