ロルフ・ヴィルヘルム・ブレードニヒ編『ジャンボジェットのネズミ』(白水社、1993年)という本を読んだ。
今回はその感想文を書いてみたいのだが、これは要するにドイツの民俗学者が当地の「都市伝説」をまとめた本である。

もっともこの本では基本的に「都市伝説」ではなく「現代伝説」という用語がもっぱら用いられている。そこには著者なりの何らかの理屈があるようなのだが、まぁそれはオレには関係のないことなので話を先に進めると、この本の原著が刊行されたのは1990年である。ちょうどベルリンの壁の崩壊直後ということもあるのだろう、旧西独に入ってくる旧東独の連中がドロボーしたりズルをしたりする話がかなり収録されていて、一般大衆の間には「チッ、統一なんかすると貧乏な東独の連中ドンドン入ってきて厄介ごとが増えるじゃねーかクソ」という身も蓋もない不快感が満ち満ちていたことがよ~くわかる(笑)。

まぁそんな具合で、現代ドイツ(といってももう30年前だが)の人々が何を恐れ、何を案じていたのか――みたいなことがジワジワッと伝わってきてなかなかに面白い本であった。と同時に、実はオレとしては本文だけでなく、この本の末尾に訳者の池田香代子氏が書いていた「あとがき」がとても面白かった。何でかいうと、この彼女の文章を読んでたら、最近の「陰謀論」の隆盛は実はこうした「現代伝説」を生み出す心理と地続きになっているんではないか、みたいな気がしてきたからだ。

なので、この「あとがき」に沿ってその辺りを説明していきたいのだが、彼女はまず、そもそもこうした「現代伝説」だとか「うわさ」といったウソくさいものが、これだけマスメディアの発達した時代になんで流布したりするんだろうか――といった問いを立てる。そこで示される考察は以下のようなものだ。



 わたしたち受け手は、情報の飽和状態にある。すると、マスメディア情報の価値が低下するらしい。誰でも知っていることは軽んじられるのだ。その延長線上に、稀少情報の価値の高騰ということが起こる。そして、稀少情報はマスメディアに乗らないのだから、マスメディアに乗らない情報こそ価値がある、というおかしな逆説が成立することになる。そうした情報の多くは、マスメディアに乗せる価値がないと判断されたものなのかもしれないのに、だ。

 この奇妙な現象の底に流れているのは、マスメディアへのそこはかという不信感だろう。本当に価値ある情報は誰かが握って流れないようにして、そこから独占的にうまい汁を吸っている、という不信の念が、わたしたちが生きている今とここをうっすらとおおっているらしいのだ。


そして



 マスメディアによるたてまえのことばやしゃれたことばに封じられたかに思えたわたしたちの肉声が、現代伝説やうわさという形をとって、ふらふらとさまよい出る。それとても、しょせんは人から聞いた話の口移しにすぎないが、しかしテレビのことばの受け売りとは決定的に違うなにかが、そこにはある。なにかとは、ひとことでいってしまえば、わたしたちの本音ということだろう。現代伝説やうわさは、圧倒的なマスメディア状況でわたしたちが自前のことばを取り戻すための装置のひとつであるらしい。


この文章は当然インターネットが一般化する以前に書かれたものであるが、「情報を一方的に押しつけてくるマスメディアへの懐疑」みたいなものは当時からあったということだろう。ただし、当時の大衆には反論・反発する手段はない。

メディアで語られていることは本当なのか。怪しい。本当の世界は違うのではないか。そのように考えた大衆が、「蟷螂の斧」かもしれないけれどもとりあえず一矢報いる手段として用いたのが「現代伝説」。釈然としない思いをはらすべく、人々はウワサみたいなものを語り出すのである。そして、池田氏はそんな「作法」に理解を示す。




 大きなことばで語りえないことに、わたしたちの生身のことばをあたえるのが現代伝説であるならば、その守備範囲はそのままわたしたちの「世間」と重なるだろう。その世間には、今、さまざまなブラックボックスが増え続けている。

 たとえば、企業というシステムを考えてみよう。企業は顧客の側にはにこやかなセールスマン顔しかみせないけれど、その笑顔の影ではなにをしているか知れたものではない。利潤の追究こそが企業の存在理由なのだから、という「邪推」は、企業がわたしたちにとってはブラックボックスであることを証している。だから現代伝説のなかでは、安くておいしいハンバーガーは食用ミミズ製ということになってしまう。

(中略)

 なにかと素材を求めては、飽くことなくこうした物語をつむぐわたしたちという奇怪な存在をみつめるとき、そこにみえてくるのは、ブラックボックスに囲まれていることには耐えられない、とつぶやいている、しごく健康な感性だ。悪趣味な物語の衝撃力を借りて、ブラックボックスをドンドンたたいているわたしたち、荒唐無稽であれなんであれ、説明を加えることによって不安を少しでも和らげ、ブラックボックスとなんとか共存しようとする、けなげなわたしたちだ。



現代伝説をつむがざるを得ない人々への共感に満ちた言葉である。

だがしかし。「自らを疎外する社会に一矢報いてやりたい」という姿勢も、現実社会に対して無力である限りは鷹揚に受け止めることができる。しかし、根拠薄弱な伝説が実際に多くの人を動かすパワーを持ってしまったらどうなるか。そう、それこそが近年の陰謀論であり、言いかえてみれば、陰謀論というのはかつての現代伝説の「正統なる末裔」ではないのか。

いうまでもなく、1990年の時点では、「現代伝説」を意図的に広めていくようなことは困難だった。しかし今はインターネットがある。いかに怪しげな言説であれ、広くメッセージを発してくことは誰にでも可能だ。

「何だか釈然としない」ことがあったら自ら声を上げ、場合によっては一つの政治勢力を形成することすらできる。アメリカあたりを考えても、「何だか多国籍企業のエスタブリッシュメントたちがガンガンカネ儲けしてるというのにオレたちの暮らしは酷くなるばかりだ一体どうなってんだ」という貧乏人たちが必死で納得できるロジックを求めたところに、ポイと差し出されたのが陰謀論。そして、多くの人たちは「なるほどそうか」ということで納得してしまった。

というわけでいまオレはしみじみと思うのだが、かつて池田氏が「けなげ」と評した大衆の思いは、「現代伝説」の世界から飛び出すことによって、いまやQアノンみたいな化け物になってしまったのではないか。オレにも「現代伝説を語るわたしたち」を大事にしたい気持ちはある。しかし、そこには思わぬ陥穽もある。この本が刊行されてから約30年。世界はそれなりに――そしておそらくはあまり嬉しくない方向へと変わってきたのである。