読ませる新聞コラムにはオチが必要だ。そこまで読んできた読者を「あぁなるほどそうなんだ!」と納得させられるかどうかがコラムの生命線である。

さて、そこで今朝の朝日新聞「天声人語」である。一読して仰天した。最後の一句、いったい何を言いたいのか全然わからないのだ。

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要するにこのたびのトンガの火山大噴火について書いている。「大変であろう、心配だ」というようなことを言いたいらしい。だが大災害に際して大変だ心配だというのは誰でもできる。そこから一歩進んで、何か新たな切り口、新たな視点でもみせてくれるのだろうと思って読んでいくわけだが、最後「太平洋の真ん中で起きた大地の慟哭である」といってイキナリ終わってしまった。

「何ソレ? 慟哭ってナニ?」とオレは思った。

もちろん「慟哭」という言葉の意味は知っている。「悲しみに耐えきれないで大声をあげて泣くこと。号泣すること」である。つまり天声人語子は今回の噴火について「大地が嘆き悲しんで泣いているのだ」と言っているのである。いやいや違うだろう、泣きたいのは現地の住民だろうとオレは思った。大地が泣くというのは一体どういうことなのか全然わからない。

「ひょっとしたら大噴火でみんなが困っているのを見て泣いているということかな?」と思ったが、しかし自分が大爆発を起こしといてソレはないだろう。支離滅裂である。こうなってみると「慟哭」の文字につけられたルビが痛々しい。

ひょっとしたら筆者はいわゆるガイア仮説、つまり
地球を「自己調節能力を持ったひとつの生命体」と考える奇っ怪な理論にかぶれていて、環境を無茶苦茶にされた地球が泣き叫んで爆発したと言いたいのかなと思ったのだが、いかんせん文章はココで終わっているので確証がもてない。仮にそういうことを言いたいのなら、分かるように書かないとダメなので、いずれにせよ失格である。

どうしてこんなワケのわからないコラムを書いてしまったのか。

以下はオレの推測だが、たぶんこの筆者は「大噴火だ
大変だ心配だ」というコラムを書こうと思ったのだろう。だが別に内から湧き出る深い洞察があるわけでもない。ダラダラと書いていってそろそろオチを作らねばならないがアイデアもない。

「しょうがない何か雰囲気のある文句でも一発ぶちかまして終わるとするか。そうだ大地が泣いているというイメージはどうだ? なんとなくそれっぽくネ?」といって不用意にこんな文章を書いてしまったのである。もともと「擬人化」というのは天声人語お得意のテクニックである。ただ、この場合は大地を擬人化する必然性がない。論理的に考えると全く意味不明である。だが雰囲気なんかあるよネで強行突破してしまったのである。たぶん。

こんど高校の国語に「論理国語」という科目ができるようだが、その授業でこんな文章を書いたら0点必至である。書いてる人はここいらでもいちど高校行って「論理国語」勉強してきたら良いんでないか。そんなことを思った今朝の天声人語であった。(おわり)