昨日に続いて「天声人語」のことを書く。今朝の「天声人語」もオレには何だか納得がいかなかったからである。
今日の「天声人語」がどんな話だったのかというと、ひと言でいえば「とりわけ感受性の高い若い人間は自らの生涯を左右するような素晴らしい言葉と出会う瞬間がある。そういう言葉を大事にしてネ」というものである。要するに「杖言葉のススメ」みたいなものである。
実はこれ、朝日新聞が中高生を対象にやっている「私の折々のことばコンテスト」という事業の宣伝も兼ねているようで、そこは若干鼻白んでしまうところもないではないのだが、まぁそういう主張自体は悪くはない。悪くはないンだが、論の進め方に大いに問題があった。
どういう事かというと、冒頭部に置かれたエピソードがよろしくない。記事の冒頭部も貼っておくが、以下、オレ流にかみ砕いてしばし説明してみよう。
――中村メイコがボーイフレンドの永六輔を振って、別の男(つまり神津善行だろう)と結婚することになった。そのことを告げられた六輔が泣き出してしまったので、メイコはおそらくは狼狽したのだろう、「どうしよう?」ということで父親に電話をした。すると、父親(中村正常という作家のようだ)はこんなアドバイスを発したのだという。
「上を向いて帰りたまえ」と伝えたまえ。「涙がこぼれないように」とね。
それでメイコは親の言ったとおりに六輔に向けてこの言葉を発したのだが、六輔はよほどこの体験が忘れがたかっただろう、そのフレーズを後年名曲の「上を向いて歩こう」の歌詞にそのまんま用いたのだった・・・・・・とまぁこんな話である。
で、この導入部を読んだオレは何だか腹が立った。振られたからといって泣きだす六輔も六輔であるが、メイコもメイコである。振った相手が目の前で泣いてるのに「涙がこぼれないように上を向いて歩けばいいじゃないの?」とは何たる言いぐさか。いかに父親から伝授されたからといって、そんな言葉を六輔にぶつけるのは残酷すぎるのではないか。百歩譲ってそれがどっか心に染み入る言葉であったとしても、自分を振ったメイコから説教よろしく言われる筋合いはない。「どのツラ下げて!」ってなもんである。
もちろん「六輔は後年これを歌詞に昇華させたのだから、これはこれでイイ話なのだ」という考え方もあるだろうが、それは私小説作家が「こりゃネタになるわい!」といって我が身の破滅を喜ぶような倒錯的な心理に通じるものがあり、素直に肯んじるワケにはいかない。少なくとも世間の良識を重んじるブルジョワ新聞としては筋が通らないのではないか。ひょっとしたらメイコが書いた元々の文章を読んだら、そこにはもう少し微妙なニュアンスが込められているのかもしれないが、この天声人語を読む限りではそう断ずるほかない。
というワケで、オレ的には「なんだか酷い話もあったものだ」と思ったのだが、しかるにこのコラムでは、なんだかこれが「いい話」の実例みたいになって話は後段に続いていくのだった。
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ここでオレがふと対置してみたくなったのは、中島みゆきの名曲「化粧」である。これは振られた女の歌である。自分はつきあっていた男が大好きなのに振られてしまった。せめて「こんなことならあいつを捨てなきゃよかったと 最後の最後にあんたに思われたい」。だから「化粧なんてどうでも思ってきたけれど 今夜死んでもいいからきれいになりたい」。彼女は切に願うのだった。
そしていよいよバスに乗って男の前から立ち去らねばならぬ瞬間がくる。しかし涙はどうしたって見せられない。というか、そんなミジメな自分は見せたくない。それが彼女なりの最後の意地なのである。だから心でこう繰り返す。「流れるな涙 心でとまれ 流れるな涙 バスが出るまで」
さて、「別離の涙」に関して人間の真実に迫っているのは中村メイコの回顧するエピソードか、それとも中島みゆきの「化粧」か。その結論は言うまでもなかろう。コラムの冒頭にこの「上を向いて歩こう」を置くのは、どうしたってムリがあるのだ。天声人語の筆者は人間にたいする洞察力が甘い。そう言わざるを得ない。(おわり)
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