

久々に天声人語ネタである。
オレは常日ごろ天声人語子の高踏趣味・貴族主義にはヘキエキしているのだが、今朝のヤツがまさにその典型であつた。
どういう話かというと、ただ単に「東京都美術館でエゴン・シーレ展をやっているのを観に行きました」という、ただそれだけのことなのだが、それではコラムにならない。なので適当に理屈をデッチ上げている。それが最後のパートであって、エゴン・シーレのような「とんがった芸術」は平和な時代でないと 受け入れられないのだ皆さん平和を守りましょう、みたいなことを主張している。
ここでイロイロと疑問が兆す。
まず「とんがった芸術」というのは何なのか。とんがるも何も芸術というのはそもそも唯一無二のやむにやまれぬ表現行為であるハズだから、部外者であるアンタの主観で「これはとんがってる」「これはとんがってない」などと判定を下すのは不遜である。
さらに、百歩譲ってこの「とんがった芸術」なるものが特別なモノとして存在するとして、それが人々に理解されるためには平和が必要だという主張は正しいのだろうか。確かにこのコラムの中段にはナチスドイツが「退廃芸術」と称して一部アートをダンアツした事例が紹介されているワケだが、だからといって「平和じゃないとダメ」という一般化がどこまで可能かは相当に論証が難しい問題のような気がする。
とまぁここまで書いてきたのは実は本筋とはあまり関係ない話である。オレがこのコラムを読んでスコブル不快になったのはその冒頭部分なのだった。天声人語子は「実はオレ(ワタシかもしらんがとりあえずオレということで)、39年前にイタリアで高校生だった時にエゴン・シーレ観てるンだよね」と言っている。
だがしかし。よくよく考えると、この「若き日にイタリアでエゴン・シーレを観て衝撃を受けた」という話は最初に紹介したこのコラムの本筋とは殆ど関係がない。別にイタリアで観ようが日本で観ようがそこに本質的な違いはなく、高校生で観ようがジジイになってから観ようがこれも別に関係はない(いや「若い時に見たら違う」という議論もありえるがオレ自身がジジイだということもありここではその説は却下するw)。
天声人語子は39年前におそらく親の仕事かなんかでイタリアに住んでいたのであろう。最近の「日本の安月給じゃもう死ぬので外国に脱出します」みたいな人とは違い、当時海外で生活していた人というのは相当に社会的階層が上のほうの人たちである。要するにエリートである。この39年前の話には当然そういう含意がある。
つまり天声人語子はここで「やっぱ若い頃に本場でアート鑑賞とかしてねーとホンモノはわからんよね」とさりげなく自慢をしている。そういうオレサマがコラムを披瀝しているのだからして、シモジモの者どもは謹んで静聴セヨという威圧的な空気が漂ってくるのである。
アホらしい。エゴン・シーレを観るのにそんな能書きは要らん。というか、そんな上から目線でエゴン・シーレいいよネみたいな話をされたら、フツーの人間は「けっ、そんなもん観に行くかよ」となってしまう恐れがある。逆効果である。オレが何度も注意をしてあげているのに、どうも朝日新聞の悪しきエリート主義は改まることがない。
PS ついでに言っておくと、朝日新聞社は東京都美術館でやっとるエゴン・シーレ展の主催者の一角を占めている。「なんか書いてよ」と事業部から頼まれたのかもしれない(笑)。
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