ジェフリー・クリパルによるジャック・ヴァレ論の冒頭部。続きは気が向いたら。


不可能なるものの書き手たち ジェフリー・クリパル
第三章 フォークロアの未来テクノロジー ~ジャック・ヴァレとUFO現象

    もし圧倒的な質感をもった3次元のホログラムを作り、それを時を超えて投影するような事ができるものと仮定すれば、私としては「それこそがまさにこの農夫が見たものではなかったのか」と言ってみたい気がするのだ・・・我々は、そこには確かに人間が住んではいるのだが、いま・ここに帰還することを断念して初めて赴くことのできるような平行宇宙の問題を取り扱っているのではないか?・・・そして、そのようなミステリアスな世界から、意のままに物質化して出現し、あるいは「非物質化」して姿を消すことのできるようなモノが投影されているのではないか? となると、UFOとは「物質」というよりは「窓」というべきではないだろうか?
     ――ジャック・ヴァレ『マゴニアへのパスポート』

    十分に発達したテクノロジーは魔術と区別がつかない。
     ――アーサー・C・クラーク


初めてジャック・ヴァレを読んだとき、私はすぐさま思ったものだ。西洋の秘教の歴史、伝統的なフォークロアの真実、現代のSFの神秘的なまでの魅力、超常現象のリアリティといった事どもについて――ヴァレの言い方によるならば「人間の意識のうちに明らかに存在する魔術的性質」[1] にかかわってある「イメージの世界のリアリティ」や「呪われた事実」の一切合切に関して、ということになるわけだが――我々に教えるに足る「何か」を手にした書き手を私は発見したぞ、と。言い方を変えるならば、私はそこで、自分はいま、もう一人の「不可能なるものの書き手」に出会っている、ということに気づいたのだった。

 それは単にヴァレの書いている内容のゆえ、というわけではなかった――もちろん、それだけで「不可能なるものの書き手」たりうることができないのは当然だ。その要諦は彼のものの書きよう、彼が「不可能なものを可能にする」際のやり方にこそあった。そこで彼は、自らの疑問を整理していく際の如才なさであるとか、いわばピースがバラバラになってしまったパズルを組み立てるため、彼の知る歴史的データというパーツを比較考量しながら嵌め込んでいくような手の込んだ手法といったものを用いていた。

私はまた、彼が古代・中世から我々の生きている超近代的な世界にいたるまで、様々な素材を関連づけていく方法にも魅せられてしまった。これは明確に言えることだが、彼は特定の「時代」というものを絶対視していないし、ある地域の文化を他との比較におけるモノサシとして絶対視するようなこともしない。彼にとっての歴史研究というのは、「われわれ」と「かれら」を区別するものではなく、自分たちの時代や言語、その文化に基づくものを「我尊し」とばかりに特別視するものでもない。それは汎地球的な「わたしたち」を対象とするものであって、その領域は時間的にいえば何千年もの期間に渡り、広大なるサイキック・システムがそれぞれのかたちをとった無数のものどもを含み込んだものなのである。

同様に重要なことなのだが、ヴァレの比較対象を旨とするイマジネーションは、知識というものが或る一つの秩序の中に閉じこめられてしまうことを断固として拒否する。結局、ここにいる人物は、先駆的なコンピュータ科学者にしてベンチャーキャピタリストでありながらも、同時にパラケルススの稀少本を購入し、神秘的なものへの志向をもつ人文学者でもあるのだ。彼は若いころ、文化系か技術系かということで進路を選ばなければならない教育の仕組みの不備をあざ笑い、SFをバカにする科学者たちに対しても嫌悪以外の感情をもつことができなかったという。少なくとも彼にとって、ファンタジーというのは真面目な思索のひとつのかたちであった。[2]

 彼は明らかに、こうした若き日の理想を大切に守りながら生きてきた。ヴァレは、SF小説のネタにふさわしいような多元宇宙論や、神話的なコントロール・システムといったものについての思索を深めてきた(実際に彼自身もSF小説を5作ものしている)。だが同時に彼は、火星の地図を作る仕事に携わったり、パルサーの基本周波数であるとか、さらにはビジネス戦略とか情報テクノロジーに関する本も出したりしてきた。彼のビジネスマンとしてのキャリアと文化にかかわる活動というのは、こうした二つの顔を反映したものなのだ。ヴァレは、シリコンバレーのコンピュータ産業や発展期のインターネットにかかわる初期の起業家だった。そして彼は同時に、スティーブン・スピルバーグによるSF映画の古典「未知との遭遇」でフランソワ・トリュフォーが演じたフランス人科学者、クロード・ラコームのモデルとなった人物でもあったのだ。

 私がいま取り組んでいる考察の視点からすれば、ジャック・ヴァレは、まさに現代において霊知を知る者が住まうべき場所、すなわち、現代的なかたちをとった霊知もしくは「禁じられた知識」(それは「条理」を超越し、さらには「信仰」をも完全に超越したものだ)の真っ只中で生きている。もちろん、そう言っているのはこの私であって、これは彼自身の言葉ではない。だが、驚くべきことに、彼の言葉にはそのような表現がまことににふさわしいような響きがある。

結局のところ、彼もまた、自らの取り扱う問題を言い表す際には「条理を超えた」という表現を用いているわけだし、自らの人生は「禁じられた科学」への探究に情熱を注いだものだと言っている――ちなみに「禁じられた科学」というのは、可能性の極限を追求すべく、条理を重んじる主張をラディカルに否定してみせた日記を彼が出版した際につけたタイトルでもある。[3] 彼はそのような物言いで、「新たにフランス流の思考の元締となった、融通のきかない合理主義者たち」に軽蔑のまなざしを投げかけているわけなのだ(『禁じられた科学』1192頁)。

同じようにして彼は、啓蒙・合理主義にたつ哲学者たちに対しても、退屈きわまりない「官僚的なオリの中に200年間にわたって」(同197頁)われわれを閉じこめている、とのあざけりを浴びせている。彼は、UFO問題の実在を否定する「古い科学者たち」に対してもほとほとウンザリしている、という。1961年、自らの日記に次のように記した時点で、彼はすでに合理的で世の受けは良いけれども馬鹿げた彼らの言い分に対して飽き飽きしていたのだ――「我々のリサーチは、彼らの創造性の欠如や、何でもかんでもひとしなみに画一的なものの中に落とし込んでしまおうという欲求(それを彼らは誤って「合理主義」と名づけているわけだが)によって骨抜きにされてしまうだろう」(152)

が、ヴァレが自らのうちに秘めたその深遠なる霊知主義に照らせば、教義を有する宗教ならばドグマに満ちた合理主義よりはマシ、といった話になるわけでもない。彼は既成の宗教には徹頭徹尾懐疑的で、概していえばそれを社会的なコントロールシステムの如きものであって、永遠の真実を託すに足るものなどとは全く考えていない。かくて彼は、自らは「一般的なイメージでいうところの神への信仰などはない」と告白する。それは、彼がスピリチュアルな感受性をもっていない、という意味ではない。のちに見ていくように、実際には彼の霊的な感受性には実に奥深いものがあるのだけれど、彼はそれを宗教的なものというよりは、神秘主義の領分にかかわるものだとしている。

ヴァレにとって、神秘主義というのは宗教やその教義の体系とは全く関係のないもので、「通常の時空から離れたところに意識を方向づけるものであり、思考を差し向けるもの」である。[4] そして、これもあとで見ていくことになるが、彼は文字通りの意味でそのような主張をしているのだ――科学界からは「禁じられている」けれども、彼にしてみれば至極科学的な方法を用いることによって。

かくてヴァレは「条理」と「信仰」のいずれをも超越した場所で、秘された知識(すなわち霊知である)の保持者――いや、それに取り憑かれた者というべきかもしれないが――としての立場から文章をつづっている。そのような、「知」における第三の道というのは、彼の言う「より高次元にある精神」と密接に結びついている。それは伝統的にはイマジネーションやファンタジーの世界を介して、さらに近年でいえばSFを通じて表現されてきたものである。そんな彼にとっての「知の世界におけるヒーロー」というのは、次のような人々だった。

ニコラ・テスラ――彼は現代に生きたアメリカの天才で、電気やレーダー、ラジオ技術といったものをあまりにも奇抜な方法でオカルトと融合させたという意味において天才と称すべき人物のひとりであった。アイザック・ニュートン――彼は正統的な科学に取り組む一方で自ら錬金術と占星術とを実践した人物だった。そしてヘルメス主義の哲学者にして物理学者でもあったパラケルスス――そのテキストについて、ヴァレは十分な注意を払いつつ研究を進めてきたのだった (196)。実際、パラケルススのような人物やそのヘルメス主義的な科学に敬意を払っていたヴァレには、「こうした古き時代のヘルメス主義者たちは、他にどんなことをしていようとも、現代思想の真の創設者として称賛されるべきだ」という強い思いがある (同書176)

ヴァレにとって、西洋の思想――それは表面を覆う合理主義と宗教を突き抜けたところにある「真の思慮」に満ちた思想のことである――というのは根本的に秘教的な営みなのであって、その全体像や、その意味といったものに対して、我々は最近になってようやく注意を払い始めるようになったに過ぎない。それはなお我々の手には負いかねる。だからこそ我々は、それを自分たちの目に届かないところに置いているのだけれど。

だが、ジャック・ヴァレが「禁じられた知識」という時、その「禁じられた」という側面がもっぱら彼の神秘主義にのみ由来するものでないことは強調しておくべきだろう。それはまた、米国政府の活動が生み出したものでもあるのだ。いや、より正確にいえば、ここは「米空軍の活動」というべきだろう。実際のところ、ヴァレは非公式な立場で4年間、政府のプロジェクト(すなわち「プロジェクト・ブルーブック」である)がまとめたファイルについて独立した立場から研究にかかわった人物なのだが、その相方はといえば軍所属のプロフェッショナルや科学者たちで、彼らは他の人間たちが知らない、そして知るべきでもなく、実際に知り得ることもできなかった事について「知っていた」者たちだった。

しかしヴァレは、そのような人々が、とても重要な或る事柄に限っては本当は「何も知らない」ことを悟ったのである。どういうことか? 彼らは、何とも愚かなことに「ここより外側にある」何ものかを追いながら、馬鹿げた、そして実ることのない行動を「この場所」で展開していたのである。彼らは、いわば「キッチリと組織された昆虫のコロニーが、予期せぬ出来事によって突然の災難に見舞われたときのような」反応をみせた(同書155)。彼らがその「リサーチ」で何をしようとしたかといえば、それはロケット科学者を集めて作戦遂行計画を作り、撃墜しようという意図をもってUFOをジェット戦闘機で追跡することに過ぎなかった。彼らにとってUFOとは、「この世界や我々の存在とはいったい何であるのか」といった問題について、我々の認識を大きく転換させる可能性を秘めた深遠なる謎などではなかったのだ。それらは単なる「ターゲット」に過ぎなかった。

彼がのちに著した英語の小説『ファースト・ウォーカー』(訳注:邦訳『異星人情報局』)で、彼は自らの考えを仮託するかたちで、作中の困惑したパイロットに語らせている。その登場人物はこう自問する。「オレたちは、自分たちの理解できないものはすべて撃ち落とさねばならない、といった具合で、空にある物体は何でもあっても自動的にターゲットになるんだと思ってきたんだが、いったいどこがまずかったんだろうか?」[5] こうした軍部ならではの思考は、愚かとはいわぬまでも、いかにも単純で思慮を欠いたものとしてヴァレに衝撃を与えた。それは明らかに無駄なことだった。

言い換えてみれば、ジャック・ヴァレが知るに至ったのは、厳密な意味で「これは主観的なものである」とか「客観的なものである」といった断定的な説明をするのは無効だ、ということなのだ。そうした説明は「ともに真である」ともいえるし、「ともに間違っている」ともいえる。ヴァレが超常現象のことを書く時――そしてこれこそが、私を彼の「不可能なるものを書く」営みに引きつけた理由なのだが――彼は純粋に心的なもの、ないしは主観的に存在するもの(それはそれで非常に興味深く、深遠なるものではあるが)についてのみ考えているわけではない。彼が考えをめぐらせている対象は、次のようなものなのだ――繰り返しレーダースクリーン上に出現する根源的に不可解な現象。過去何十年にもわたって各国の政府やその軍隊との間に深い関わりあいをもってきた、もしかしたら「潜在的な敵」であるかもしれない勢力。我々の最強のジェット戦闘機からも容易に逃げおおせてしまう、進歩した未来のテクノロジー。そして、我々のフォークロアや宗教、文化を何千年にもわたって裏面から規定してきた、不可解というしかない「神話的なもの」の存在・・・。つまり彼は、神話的でありながら同時に物理的にも存在し、スピリチュアルなものでありながら同時に物体でもある、そのような「何ものか」について考えているのだ。

読者諸兄がいま戸惑っておられるとしたら、それはむしろ結構なことだ。合理主義に基づく「確からしさ」や宗教的な信仰は、ここでは「敵」である――混乱は幸福を運ぶ天使である。不条理と疑念は、我々をはばたかせる翼である。だからこそ、いまこの状況に在る根源的な不可思議さというものは、改めて論ずるに足るものなのだ。

だからこそ注目し、強調したい点がある。

結局のところ我々は、西洋の文化史上、特異的な地点へと近づきつつあるわけだ。それは人間の意識のうちにある妖しくも神秘的な特性をターゲットとして政府が極秘の調査プログラムを開始した時代であって、いわば超自然現象が国家の安全保障の上で留意せねばならぬものになってしまったがために、各国の政府がレーダー上に出現したオカルト的なものを超音速ジェットで追いまわしているという世界である。[6]

一方では、我々は、フォークロア的な要素をもつ未来のテクノロジーについてイメージを得ることのできる地点にも接近しつつある。そのプロセスを通じて我々は、「平行宇宙」が存在する可能性や、我々の文化のソフトウエア的な部分を書き換えるべく、我々の意思とはかかわりのないところで、ホログラムの幻像が時間を超えてこちら側に投影されている可能性――といったものに思いをはせるようになるのかもしれない。そんな世界を想像してみる。そこでもなおUFOはモノとしての形をとった「物体」であり続けているかもしれない。が、それと同時に、UFOが或る種の象徴、ないしは他の次元に対して開かれた形而上学的な「窓」として、さらにいえば我々が「他の惑星から来たエイリアン」などではなく「別の時代から来た進化した人間」と遭遇するであろう時空への入り口として観念され、その役割を果たしていくということも考えられるのである。(つづく…?)


[1]
ジャック・ヴァレ「マゴニア・コレクション」(リファレンス・アンド・リサーチライブラリー)注釈付きカタログ第1巻「超常現象研究」(私家版、20027月)3

[2] ジャック・ヴァレ『禁じられた科学:1957-1969年の日記』(ニューヨーク:マーロウ&カンパニー、1996年)44頁。『禁じられた科学2巻:1970-1979年の日記』(ベルモント・イヤーズ社)は自費出版(著作権は2007年、ドクマティカ・リサーチ社)。以下では書名に続いて巻数と頁を記す

[3] 「条理を超えた」というフレーズは、ジャック・ヴァレ『マゴニアへのパスポート:フォークロアから空飛ぶ円盤へ』(シカゴ:ヘンリー・レグナリー社、1969年)110頁と、『ディメンションズ:エイリアンコンタクトのケースブック』(ロンドン:スーベニアプレス、1988年)136頁の2か所で章題として用いられている

[4] 『禁じられた科学』1147-148頁。この点に関する重要な記述は『禁じられた科学』 24261頁にもある

[5] ジャック・ヴァレ『ファースト・ウォーカー』(トレーシー・トームとの共著になる小説。バークレー:フロッグ社、1996年)22

[6] 1970年代半ばにいたる当時の状況については、デビッド・マイケル・ジェイコブス『アメリカのUFO論争』(ブルーミントン:インディアナ大学出版、1975年)参照のこと。ジェイコブスはプロの歴史家で、こののち、1980-90年代のアブダクションを巡る論争では、その目的はエイリアンと人間の交配種を育てることであると唱え、論争における重要な人物となった。この問題を論じた第二の著作が『シークレットライフ~一次史料により記録されたUFOアブダクションの報告』(ニューヨーク:ファイアサイド、1992年)である