■第7章 宇宙のパイオニアたち
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友よ、残念だが地球は錯乱した狂人の手のうちにあるのだ。彼らはあまりに常軌を逸しているが故に、真実を語る我々をウソつきといって糾弾するのだ。 ――ディノ・クラスペドン「我が空飛ぶ円盤との接触」(1957)
ラフリンのコンベンション会場を見回すと、そこにはエイリアンの像、フィギュア、ステッカー、本、風船人形が果てしなく並んでいる。これを見たら未来の考古学者たちが「21世紀の人間たちは無表情な小人を神として崇拝していたのだろう」と考えても不思議ではないだろう。が、実際のところグレイ(とエイリアンたちは呼ばれるわけだが)と「自分はエイリアンたちとコンタクトしている」と信じる人たちの関係というのは、よく言っても曖昧模糊としたものだ。エイリアンによるアブダクションに対するパニックが最高潮に達した1980-90年代、我らが隣人たるエイリアンとの関わりで最も普通だったのは、「最後に外科用メスを持ち出されてしまう」というものだった。多くの人たちがこうした外科手術に至るような接近遭遇をトラウマ的なものと感じた一方で、モルモットにされた人間のうち僅かな人たちは、そうした体験をポジティブなものと捕らえ直すことに成功した――つまり、「自分たちを捕まえた者からは愛や平和のメッセージ、差し迫った環境災害について知らされたのだ」といって。ラフリンではエイリアンたちが自らについて語ることを聞くことはほとんど無かったけれど、それは常にそうだったわけではない。1950年代にさかのぼると、映画『地球が静止する時』に出てくる説教好きなヒューマノイド「クラートゥ」がそうだったように、知恵を授けるETたちの小さな宣教団は地球に下りてきて、人類に如何に行動すべきか・何をしてはならないかを教えたようなのである。
ケネス・アーノルドによる目撃やモーリー島、ロズウェル、アズテックにおける事件はUFO時代の夜明けを告げたが、それらはその後も続くUFO神話の基本要素を二つ確立した。UFOは構造体をもつ乗り物であり、それは私たちの飛行機と同様に墜落する可能性があるということだ。ライフ誌や男性誌トゥルーの特集が出るまで、多くの人々はこれらの乗り物がアメリカ製またはロシア製だと考えていた。しかし、今やそれらは外宇宙――おそらくは金星や火星、あるいは土星の月のどこかから来ていることが明らかになった。次なる問いは「では誰がそれを操縦しているのか」ということだった。
1952年、世界はその答えを知ることになる――サンディエゴとロサンゼルスの間にあるパロマー山のふもとで「パロマー・ガーデンズ・カフェ」を経営していた61歳のポーランド系アメリカ人、ジョージ・アダムスキーの登場によって。パロマー山の頂上には当時世界最大だった200インチのヘール望遠鏡が設置されていたが、アダムスキーは自分で所有する15インチや6インチの望遠鏡を通りすがりの人々に貸し出し、天体を観察させていた。アダムスキーはまた神智学的な傾向のある神秘主義団体「ロイヤルオーダー・オブ・チベット」を運営しており、カフェでは彼を「教授」と呼ぶ小規模な支持者たちを集めては定期的に異教的なトピックについて講義を行っていた。
1949年、アダムスキー教授は、SF小説『宇宙のパイオニアたち:月、火星、金星への旅』を自分の名前で出版した。もっともそれは本当は秘書のルーシー・マクギニスが執筆したものであったわけだが。それからまもなく、彼は講義に空飛ぶ円盤の話を取り入れるようになり、宇宙船を見たり写真を撮ったことがあると主張するようになった。地元では彼の円盤の目撃者としての評判が高まり、1950年にはレイ・パーマーの雑誌『Fate』に取り上げられるまでになった。アダムスキーは瞬く間にカリフォルニアにおける「空飛ぶ円盤産業」の一人者となり、カフェのビジネスも波に乗った。
空飛ぶ円盤がニュースで大きく取り上げられるようになり、アダムスキーの神秘的な円盤グループは新たなメンバーを引きつけ始めるようになった。その中には、ウィリアム・ダドリー・ペリーの親しい友人だったジョージ・ハント・ウィリアムソンもいた。ちなみにこのウィリアム・ダドリー・ペリーはインディアナ州ノーブルズビル出身で、神秘主義的団体「シルバー軍団 Silver Legion」を運営していた人物である。もともとはシナリオライターとしてハリウッドで脚本16本を手がけていた。彼は乱暴な物言いで知られた過激派で、あらゆるものを憎悪し――例えば黒人、ユダヤ人、共産主義者、ルーズベルト大統領といったものだ――唯一彼が英雄と仰いだのはアドルフ・ヒトラーであった。「シルバー軍団」の支部はほとんど全州に置かれ、「シルバー・シャツ」と呼ばれたそのメンバーに銀色のナチス風の制服を着るよう奨励していた。「シルバー軍団」は多くの雑誌も刊行しており、1940年の始めまでにはFBIの注意を引くまでになっていた。真珠湾攻撃についての公式見解に公然と疑問を呈するようになったことで、彼は叛逆煽動罪に問われ、15年の刑を宣告されたが、1950年になって早期仮釈放された。
ウィリアムソン夫妻はそれまでウィジャ盤を使って空飛ぶ円盤の乗員との接触を試みていたのだが、この当時、アダムスキー教授がスペース・ブラザーズとコミュニケーションを取っている録音テープを聴いた。これにいたく感銘を受けた二人はグループに参加することになった。さらに彼らは1952年11月20日、アダムスキー、ルーシー・マクギニス、そして円盤愛好者であるアルフレッドとベティのベイリー夫妻とともにカリフォルニア砂漠をドライブ中、車の上を飛ぶ巨大な葉巻型物体を目撃するに至った。彼らはこれを機にグループの中心的なメンバーとなる。アダムスキーは同乗者たちに「これはスペース・ブラザーズの飛行船の一つだ」と言い、「自分をここに下ろしていってくれ」と頼んだ。
一時間後、教授は驚くべき体験を携えて戻ってきた。望遠鏡とカメラを手にして砂漠の中に一人いたアダムスキーは、先ほどのより小さく、美しい乗り物が半マイルほど離れたところに着陸するのを見た。その乗り物から出てきたのは「この世界の者とは思われぬ人間」で、身長は約5フィート6インチほど。見たところ20代後半で、長い金髪、高い頬骨。額は広かった。彼は上下がつながった茶色の服と赤い靴を身につけ、非の打ち所のない笑顔を浮かべていた。かわされた言葉はわずかだったが、そのほとんどはテレパシーとボディランゲージによるものであった。
北欧系の外見をした宇宙人はオーソンという名だった。彼は、母星である金星からカリフォルニアにやってきたのだが、それは彼の種族が人類に対して抱いている関心のため――とりわけ原子爆弾の使用に対する憂慮を伝えるためだった。オーソンは、アダムスキーに彼らのメッセージを広める手助けをしてくれるよう頼み、会合が終わると、オーソンは乗り物に乗って飛び去った。残されたのは一つの靴の跡だけだったが、アダムスキーとその仲間たちはその足跡を石膏で保存することができた。その石膏には奇妙な印が見て取れたが、その中には星や鉤十字などもあった。
アダムスキーは約束を守り、間髪入れずその驚くべき出会いについて語り始めた。1953年、彼の話は(このたびもクララ・L・ジョンによる代筆ではあったのだが)『空飛ぶ円盤は着陸した』(訳注:邦訳題『空飛ぶ円盤実見記』)というベストセラー本に収録された。そこには、アイルランド貴族のデズモンド・レスリーの手になる古代の空飛ぶ円盤に関するエッセイも含まれていた。アダムスキーは世界中を旅してスペース・ブラザーズとの出会いについて語ったが、最初の接触の後も彼らとのコンタクトは続いた。教授との面談を希望した人の中にはオランダのユリアナ女王や、伝えられるところによればローマ教皇ヨハネ23世もいたという。その間も、スペース・ブラザーズたちは時折カフェに立ち寄り、彼らの新しい地球の友人と情報を交換し、彼を宇宙空間への旅に連れて行ったが、これについては、彼は1955年に出した『宇宙船の中で』(訳注:邦訳題『空飛ぶ円盤同乗記』)という別の本の中で記述している。
のちに行われた調査は、このポーランド人教授に対して好意的なものではなかった。彼の象徴ともなったUFO写真は、鶏の餌箱や1952年初めに出回った技術論文に描かれていた空飛ぶ円盤のデザインに不思議なほど似ていた。その日砂漠で実際に何が起こったのか、アダムスキー以外に知る者はいない(おそらくオーソンを除いては)。しかし、彼の遭遇があったタイミングはこれ以上ないほど絶妙なものであった。それはワシントンDCでの目撃フラップからわずか数ヶ月後、CIAと米空軍が円盤の問題を沈静化させる方法を議論している最中であったのだ。
アダムスキーの物語は、空飛ぶ円盤の問題に対して人々が渇望していた答えを差し出した。その乗員は悪意のあるロシア人ではなく、平和を愛する金星人だったのだ。急成長していた科学志向のUFOコミュニティ(その代表格がレオン・デビッドソンだ)は彼の話を嘲笑したが、よりスピリチュアルな志向を持つ者や一般大衆はそれを受け入れた。アダムスキーの名声が広がるにつれて、別の「コンタクティー」たちが数多く現れた。彼らはこもごもに慈悲深いスペース・ブラザーズだとか外宇宙への楽しい旅行といった似たような物語を語った。
こうしたコンタクティーたちは、UFO愛好者を集めて最初の大規模集会を開催したが、その規模はこのラフリン・コンベンションを恥じ入らせるほどのものであった。この種のコンベンションの一例としては、コンタクティーにして航空機会社のダグラスでエンジニアをしていたジョージ・ヴァン・タッセルが組織し、モハヴェ砂漠のジャイアント・ロックで長年開催されたものがあるが、そうしたところには、数千人ものUFO信者が、お気に入りの話題に関する最新のニュースや理論をわかちあうため集まってきた。コンタクティーたちのビッグウエーブは、UFO現象に対して大衆や政府が示す態度に変化を生み出した。それはレオン・デビッドソンやキーホーの真剣なアプローチとは全く対照的なUFO愛好者のイメージを作り出したのである。テクノロジーの問題として謎を解明しようとする真剣な科学者の姿は消え去り、その場所は変人、霊媒師、狂人たちが占めることになった。
アダムスキーや他のコンタクティーたちは(政府の)情報ゲームに巻き込まれていたのではないかという憶測は1950年代からあった。レオン・デビッドソンはアダムスキーが彼の遭遇を公にした直後に彼と連絡を取り、数年間にわたって彼と何度か手紙を交わした。デビッドソンがオーソンや他のスペース・ブラザーズについて何か奇妙な点があるかどうか尋ねたところ、アダムスキーはこう答えた。「彼は間違いなく人間です……髪を切ってビジネススーツを着ていれば、どこでも誰とでも怪しまれることなく一緒にいることができるでしょう」
当然デビッドソンは、アダムスキーの遭遇の背後にアレン・ダレスの仕掛けがあることを感じ取った。彼の外宇宙への「旅」の模様は著書『宇宙船の中で Inside the Spaceships』(邦訳題『空飛ぶ円盤同乗記』に記されているが、それは常にスペース・ブラザーズが彼を黒いポンティアックで拾い、砂漠へと連れていくところから始まった。そこでアダムスキーは、着陸した「偵察船」に乗り込んで椅子に座り、対になったスクリーンに星が流れていくのを見た(乗り物の窓は常に閉まっていた)。だが彼は、飛行中には「全く動きを感じなかった」と言っている。こうした旅の最中、スクリーンには「金星のニュース映画」が映し出され、スペース・ブラザーズは様々なトピックについて講義を行ったが、その間、アダムスキーには奇妙な色の飲み物が与えられた。疑い深いデビッドソンはこう指摘している――1955年、ディズニーランドに「ロケット・トゥ・ザ・ムーン」という乗り物が作られたが、それはバックプロジェクションを使用して宇宙を飛行している感覚を再現していた。アダムスキーの宇宙旅行は、同様のハリウッドの特殊効果を使って捏造されたものなのか? そして、スペース・ブラザーズが提供した機内飲料には何が入っていたのだろう?
アダムスキーの冒険の背後に誰がいたにせよ、「シルバー・シャツ」のジョージ・ハント・ウィリアムソンが彼のサークルに関与していたことは、「ロイヤル・オーダー・オブ・チベット」は禁酒法時代に密造酒を製造するための隠れ蓑だったという根強いウワサも相俟って、FBIの注意を引きつけるには十分であった。そして、アダムスキー自身もその活動の初期からFBIの注目を集めていた。1950年9月のFBI報告書には、鮮明な描写がある。教授はFBIのエージェントにこう語っている。「お聞きになりたいのなら話しますが、彼らの政府はおそらく共産主義者のそれです……それはより進歩した未来の政体なのですよ」。彼はこうも予言した。「ロシアは世界を支配し、それから1000年間に及ぶ平和の時代が訪れるでしょう」。彼はまた、ロシアはすでに原子爆弾を持っていることを指摘し、次のように述べた。
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今後12ヶ月以内にサンディエゴは爆撃されるでしょう……今日のアメリカ合衆国は、崩壊前のローマ帝国と同じ状態にあり、ローマ帝国が倒れたように崩壊するでしょう。この国の政府は腐敗した政府であって、資本家は貧者を奴隷化しているのですよ。
すべてのコンタクティーが共産主義者であったわけではない。例えば、カール・ユングのお気に入りで、ジョージ・ヴァン・タッセルと同様に航空宇宙産業で働いていたオルフェオ・アンジェルッチは、明らかにアメリカの側に立っていた。「共産主義は、目下のところ地球にとって根本的な敵であり、その旗の下に悪の統一勢力の穂先を隠している……[それは]必要悪であり、毒のある生物、飢饉、疫病、天変地異のように地球上に存在している。これらすべては人間の内にある善のネガティブな力なのであって、そうしたものを発動せしめる」
FBIがコンタクティーたちを監視していたことは明白であるが、彼らの中に、アメリカ政府や、事によればソビエト政府の働きかけを受けたり操られたりした者がいたかどうかは不明である。レオン・デビッドソンは、CIAはアダムスキーや彼の仲間に「関わっていた」と確信しており、大きく言えば平和主義的で反原爆に立つ彼らのメッセージは、国際的な平和運動が成長する上での重要な要素であったと見なしていた。この平和運動は、1958年にアメリカ、イギリス、ソビエト連邦の間で短期間の核実験禁止が合意されることで頂点に達した。これらはすべてアレン・ダレスのマスタープランの一部だったのだろうか?
彼らがCIAの操り人形であったかどうかにかかわらず、アダムスキーと他のコンタクティーたちは、ロバートソン・パネル報告書のいくつかの重要な勧告を実行に移した。彼らの行動により、UFOの問題が再び真剣に受け取られるまでには長い時間が流れることとなった。また、彼らの大会はUFO信者たちを一箇所に集めることになり、情報機関が彼らを監視することを非常に容易にした。この伝統は今日まで続いている。
■ブラジル版モーリー島事件
アダムスキーと彼の仲間のコンタクティーにとって、宇宙人との遭遇は非常に深い経験であり、彼らの乗り物に乗ることは他に類を見ないスリルであった。スペース・ブラザーズは、その高度な知性と技術にふさわしい慈愛と知恵を放ち、その知恵は人間の乗客に「これを他の人と分け合おう」というインスピレーションを与えた。しかし、もし出会うのが宇宙から来た説教師ではなく、人を誘拐し、薬を盛り、レイプし、興奮した犬のようにうなり声や吠え声をあげるエイリアンの悪魔であったらどうであろうか?これはまさに1957年に若いブラジル人農夫、アントニオ・ビラス・ボアスの身に起こったことである。
ビラス・ボアスの物語には、興味深い前触れがある。それはその年の9月にリオデジャネイロで起こった。リオの「オ・グローボ」紙の人気コラムニストであるイブラヒム・スエッドは、読者の一人から飛行円盤の破片が送られてきたと記事に記した。普段はセレブのゴシップを扱うことが多いこのコラムで、スエッドはこれまでUFOに興味を示したことはなかったのだが、彼はそこで読者からの手紙の一部を再掲した。
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あなたのコラムの愛読者、そしてあなたを尊敬する者として、新聞記者であれば一番関心があるであろうもの――そう、空飛ぶ円盤にかかわるものをお送りしたいと思います……数日前のこと……私はサンパウロのウバトゥバの町に近い場所で、友人たちと一緒に釣りをしていたのですが、そのとき空飛ぶ円盤を目撃しました。その円盤は信じられない速度でビーチに接近し、海面に衝突しそうになったのです。最後の瞬間、ほとんど水面に衝突しようというところで、それは上方に向かって鋭いターンをし、驚くべき勢いで急上昇しました。私たちはその光景に驚いて目を奪われましたが、その時、円盤が炎に包まれて爆発するのを見たのです。円盤はバラバラになって数千の燃える破片になり、輝く光を放ちながら落下しましたが、辺りはすごく明るくなりました……これらの破片のほとんどは海に落ちましたが、一部の小さな破片がビーチの近くに落ち、私たちはこの軽い紙のような素材を大量に拾い集めました。その一部を同封します。
このコラムはオラヴォ・フォンテス博士の目にとまった。彼は若くして尊敬を集めていた医師で、ブラジル消化器栄養学会の副会長を務めたのち、1968年にガンで亡くなった。まだ30代であった。フォンテスは、1954年末にブラジルで起きたドラマティックなUFO報告に魅了され、自ら個々の事件の調査を始めたのち、1957年初めにアメリカのUFO組織APROに加入した(ちなみにこれはロバートソン・パネルが観察することを推奨していた団体である)。
ウバトゥバでの墜落事件についての報告を読んだ後、フォンテスは直ちにスエッドに連絡し、その軽量の金属素材をブラジル農業省の国立鉱物生産局で分析する手配をした。また、そのサンプルは米国大使館を経由してアメリカ空軍にも送られた。その試料はマグネシウムと判明したが、その中には普通はありえないほど純度の高いものもあった。このほか奇妙な成分が含まれているものもあったが、これらは事後的に添加することも容易だったと考えられる。
この調査結果は全国ニュースとなり、フォンテスをブラジルを代表するUFO研究家として押し上げたのだが、それは彼自身が奇妙な近接遭遇をする上での布石ともなった。1958年2月、フォンテスは「ウバトゥバの素材について話をしたい」というブラジル海軍省の情報将校2人の訪問を受けた。彼らは、フォンテスに「関係のないことに首を突っ込むな」と警告した後、UFOの秘密について知っていることをすべて話した。彼らが言うには、世界の諸政府は地球に来ている地球外生命体の存在を認識しており、それを隠すためにあらゆる努力をしているという。これまでに直径30フィートから100フィートの空飛ぶ円盤6機が墜落しており、そのうち3つはアメリカ(2つは良好な状態で)、1つはイギリス、1つはサハラ砂漠、1つはスカンジナビアで墜落した。そのすべてに小柄なヒューマノイド型の乗員が搭乗しており、いずれも生存者はいなかった。科学者たちは現在、これらの円盤のリバースエンジニアリングを試みているが成功していない。が、その動力は、回転する強力な電磁場と原子の構成要素によって生じるものと思われる。UFOの乗員の側は人類との接触に興味を示しておらず、追跡する飛行機を何機か破壊していることもあって、極めて敵対的であると考えられている。このUFOの問題は最高機密とされており、ブラジル大統領でさえもその詳細を知らされていない。事が重大であるだけに一部の目撃者や研究者は情報漏洩を防ぐために暗殺された――彼らはそう警告した。
フォンテスはこの訪問に戸惑いながらもひるむことはなかった。彼はここで、我々であっても当然問うであろう質問をしたかもしれない。もしUFOの問題が大統領にさえも知らされないほどの秘密であったなら、なぜ海軍将校の暴露譚がこれほど多く一般の書籍や雑誌に掲載されてきたのか? そして、なぜ彼らはフォンテスにそんな話をしたのか?――実際のところフォンテスは、その情報を直ちにAPROのディレクターであるコーラルとジム・ロレンゼンに伝えたのだったし、二人はそこで似たようなウワサは他の情報源からも来ていたことを確認しているのだから。これは誰かがフォンテスとAPROにこうした話を信じてもらい、広めて欲しかったということなのだろうか?――あたかもサイラス・ニュートンが、1950年に墜落円盤の話を広めるよう何者かに促されたように。
■誘拐の元祖
オラヴォ・フォンテス博士が謎の「黒服の男たち」(os hometis de preto)の訪問を受けたタイミングは、「不吉」というのとは違うにしても不思議なタイミングであった。というのも、その数日前、博士は若い農夫から「宇宙から来た誘拐者たち」に関する奇妙で恐ろしい話を聞いたばかりだったからである。
彼らがアントニオ・ビラス・ボアスを連れ去ったのは、1957年10月16日。スプートニクが地球を周回する最初の人工物となってからわずか2週間も経たない時期であった。場所は、ブラジル南東部ミナス・ジェライス州のリオ・グランデ川沿いにあるサンフランシスコ・デ・サレス近く。23歳のビラス・ボアスは一家の農地を耕していた。彼は太陽の日射しを避けるために一人で夜中に働いていたのだが、それだけに彼は不安だった。
その2日前、ビラス・ボアスと彼の兄ジョアンは同じ畑を耕していたが、輝く赤い光に驚かされた。その光は目を刺すようで、時折「夕日のように」眩しい光を放っていた。彼らがその光に近づこうとすると、光は素早く逃げて行き、突如として消え去った。
10月16日午前1時、その赤い光がまたやってきて、「トラクターと周囲の地面を昼間のように照らした」。その直後、物体はリオ・グランデ川の土手から約150フィートの距離に着陸した。その瞬間、トラクターのガソリンエンジンが止まり、ライトが消えた。
「それは奇妙な機械だった」とビラス・ボアスはフォンテスに語った。「形はやや丸く、周囲には小さな紫色のライトが点灯しており、前部には巨大な赤いヘッドライトがあった…それは大きな、細長い卵のような形をしていた…機械の上部には高速で回転しているものがあり、蛍光を思わせる強力な赤い光を放っていた」。翌日、ビラス・ボアスは機体の残した三脚の跡を測定し、その長さを約35フィート、最も幅の広い部分を約23フィートと推定した。
飛行物体が着陸した時、ビラス・ボアスは逃げようとしたが、「奇妙な服装」をした、背の低くて力の強い人物に荒々しく捕まえられた。続いて3人の背の高い存在が現れ、彼を金属製のハシゴに押し上げ、跳ね上げ式ドアになっているハッチを通して中に押し込んだ。ビラス・ボアスはこうした存在の服装について詳細な説明をしてみせた。彼らは黒いストライプの飾りがついた灰色のオーバーオールを着ており、頭には布製と思しきヘルメットがあった。ヘルメットは薄い金属片で補強されていたが、鼻の部分には三角形の金属片があり、2つのレンズが付いた目の穴の中間に配置されていた。ヘルメットの頂部は通常の人間の頭の高さのほぼ2倍にまで延びており、額は広いように見えた(この詳細はアダムスキーのオーソンと共通している)。ヘルメットからは細い銀色のチューブが出てオーバーオールの背中に接続されていた。誘拐者たちはそれぞれ、硬い感じがする五つ指の手袋、厚底のゴム製のブーツ、そして胸にはパイナップルの輪切りほどの大きさで、丸くて赤い反射板を一つ装備していた。
まるでバック・ロジャースの連続ドラマや『地球が静止する日』にも似た安っぽい話のようでもある。乗り物の内部も1950年代に想像された未来像を反映したもののように思える。部屋は丸くて、白く、明るく、特徴がない。家具といえばあるのは金属製のテーブルと回転するスツールだけで、すべて床に固定されていた。天井には四角い蛍光灯があり、リングのように全体をひとまわりしていた。
うなり声や鳴き声でコミュニケーションを取りながら、ヒューマノイドたちは捕らえたビラス・ボアスの服を脱がせ、湿ったスポンジで体を拭き、大きくて柔らかなベッドのある部屋に連れて行ったが、ベッドは灰色のシーツで覆われていた。血を集める「吸い玉」のような装置を顎の下に当てられた後、彼は放置された。部屋は壁の穴から入り込んできた灰色の煙で満たされ、それは吐き気を催させた。それから、背は低いが非常に美しくて全裸の女性がドアの戸口に現れた。彼女は人間だったが、顔立ちをみると随所が奇妙なほど尖っていた。髪はほとんど真っ白で、中央で分けられていたが、陰毛は鮮やかな赤色だった。彼女の目は大きくて青かった。その目は丸いというよりは細長く、切れ長のつり目だった。それは、少女たちがアラビアの王女風のファンタジックな化粧をした時の目を思わせた。
その女性はビラス・ボアスに体を擦りつけてきたので、彼は自制できないほど興奮してしまった。次から次へと事は運んだ。「それは通常の行為でした」とビラス・ボアスは語った。「彼女はどんな女性でもするようなことをした」。彼は、その興奮を誘拐者たちが彼の体に塗りたくった液体のせいにしたが、そんな状況下で催淫薬が必要であったかどうかは疑わしいだろう。行為が終わると、その女性は笑顔を見せ、自分の腹部と空とを指差した。それを見たビラス・ボアスは、彼女は自分たちのハイブリッドとなる子供を生むつもりなのだろうと思った。
ビラス・ボアスが服を着た後、彼は乗り物の外部を案内され、それから「別れる時間だ」と告げられた。事態に困惑し動揺していた彼は、その乗り物が大きなうなり声を上げつつ離陸するのを見守った。そのライトは様々な色に点滅していたが、最後には明るい赤色になった。回転している上部は、機体が地上からゆっくりと浮き上がっていくにつれて、ますます速く回り始めた。その三本の脚は機体の腹部に引っ込んでいった。それは100フィートほど上昇し、大きなブンブン音を立てた後、突然の衝撃とともに弾丸のように上空に飛び出した。若い農夫は強い衝撃を受けた。「彼らはやるべきことが十分に分かっていました」と彼はフォンテス博士に語り、同時に「彼らは人間だった。ただ別の惑星から来た人間でした」とも語った。
時間は午前5時30分になっていた。この出来事は約4時間にわたって続いていた。ビラス・ボアスはトラクターを動かそうとしたが、エンジンはまだかからなかった。エンジンのバッテリーの配線が外されていたのだ。ローテクではあるが、逃走防止としては効果的な手段だった。彼はよろめきながら家に戻ったが、彼の姉妹は、そのとき彼が黄色い液体を吐いたこと、アゴに黒っぽいあざがあったことを覚えている。続く数週間、彼は体の痛みや目の刺激、さまざまな体の不調に苦しんだ。
この事件の直後、彼は人気のある「オ・クルゼイロ」誌の編集者ジョアン・マルティンスに手紙を書いた。するとビラス・ボアスはリオデジャネイロに空路招かれることとなり、そこでインタビューを受けるとともに、フォンテス博士に検査されることになった。マルティンス自身はビラス・ボアスの話を雑誌に載せなかった。だが、その話は1962年にマイナーなブラジルのUFO雑誌に掲載され、1960年代半ばには英語圏のUFO雑誌に初めて紹介された。フォンテスはこの若い農夫の誠実さに感銘を受け、奇妙な話ではあるけれども、彼の証言を信じた。ちなみにビラス・ボアスは、マルティンスが「儲けることができるよ」と示唆したのにもかかわらず、新聞に話を売ることはなかった。
さて、実際には何が起こったのだろうか?アントニオ・ビラス・ボアスは本当に性的に飢えたエイリアンに誘拐されたのだろうか? あるいはすべては夢だったのか、あるいは幻覚だったのか――その夢や幻覚は、おそらく意識を失ったあとにアゴのアザを説明しようとして生み出されたものではないのか? そうであれば人間の正常な心理の範囲内におさまる可能性が高い。彼と兄はその月の初めに空に赤い光を見たことがあり、新聞にはUFO目撃の報告が載っていた。それらが彼を刺激してエイリアンのファンタジーを見せたのかもしれない。しかし、さらに別の可能性もある。それは「実際にエイリアンの誘拐があった」という考えと同じほど馬鹿げているのかもしれないが。
■洗脳マシン
ボスコ・ネデレコビッチは1999年にバージニア州フェアファックスで亡くなるまで、ラテンアメリカ諸国の未来の指導者を教育するインターアメリカン・ディフェンス・カレッジの通訳兼翻訳者であった。ユーゴスラビア出身のネデレコビッチは1978年、アメリカのUFO研究者リッチ・レイノルズにこんな告白をした――1950年代から1960年代にかけ、CIAはプロジェクト「オペレーション・ミラージュ」として世界各地でUFO事件を意図的に作り出していた、と。さらにネデレコビッチ自身も、1956年から1963年の間、米国際開発庁(AID)の名のもと、ラテンアメリカでCIAのために働いており、こうしたでっちあげ事件のいくつかに参加していた。そして、その一つがビラス・ボアスの誘拐事件だった――と。
ネデレコビッチの主張によれば、彼は1957年10月中旬、ヘリコプター・チームの一員として、ブラジルのミナス・ジェライス州で心理戦と幻覚剤のテストを行っていた。そのチームは、彼、他のCIA職員2人、医師、2人の海軍士官(1人はアメリカ人、1人はブラジル人)、さらに3人のクルーから構成されていた。ヘリコプターには様々な電子機器と、長さ約5フィート、幅約3フィートで金属製の「キュービクル」というものが搭載されていた。ネデレコビッチはそれが何のために使用されたのかは知らされなかったが、軍事の心理戦作戦に使用されるものだと聞かされていた。
最初にチームは、作戦基地のウベラバ(サンフランシスコ・デ・サレスの東約150マイル)周辺を飛行し、電子機器のテストを行った。数日後、彼らはリオ・グランデ沿いを飛行し、夜間掃討を行った。熱感知カメラを使用したところ、彼らは地上に一人の人影を確認した。ヘリコプターは約200フィートの高さまで降下し、エアロゾル状の鎮静剤を放出した。ヘリコプターが着陸すると、その男は逃げ出したが、3人のCIA工作員が彼を追いかけ、ヘリコプターに引きずり込んだ。その際、彼の顎がデッキにぶつかった。ネデレコビッチは、彼らが機内でその男性に何をしたかについては言及していないが、数時間後にまだ意識を失ったままの彼をトラクターの横に残して立ち去ったのだという。
では、この男性はアントニオ・ビラス・ボアスだったのだろうか?ネデレコビッチの証言の個々の要素は、ビラス・ボアスの話と一致している。例えば、その時間、場所、気象条件、そして被害者のアゴのアザといったものだ。同様に、ビラス・ボアスの話の多くの要素(例えば誘拐者の服装だ)を見ても、相手はエイリアンではなく人間だったように思える。彼らの飛行機も、彼自身の想像力だとか狡猾なSF風の意匠によって修正されてはいたが、実際にはヘリコプターだった可能性もある。機体の外部に取りつけられた白色を含む様々な色のライトはUFOっぽい雰囲気を醸し出していたかもしれないし、上部の「回転する」ドームはローターブレードだった可能性がある。ただしこれには反論もできるだろう。大型のヘリコプターは大きな騒音を発するものだし、「静音」ヘリコプターが実際に運用されるのはまだ数年先のことだった。人里離れた土地の夜間のこととはいえ、当時のブラジルの農村では珍しいヘリの音が聞こえれば誰かしら聞いていただろう。
このストーリーの他の部分にも、真実味はある。事件があった当時、CIAと米軍はブラジルやラテンアメリカ全域にしっかりと拠点を築き、地域の政治的動向を注視していた。ブラジルは特にセンシティブな国と見なされていた。その広大な面積、豊富な天然資源、そしてアメリカに近い位置といったものは、ソビエト拡張主義の対象として魅力的であった。事態は1964年にヤマ場を迎えた。CIAは、ジョアン・グラール大統領を追放し、次なる2年間権力を握る残虐な軍事政権を成立させるクーデターに参加したのである。
1957年になるとCIAはMK-ウルトラ計画にも深く関与するようになった。薬物、外科手術、テクノロジーを用いた精神および行動改変技術の研究である。彼らは多くの精神活性物質(幻覚剤、鎮静剤、興奮剤、精神異常発現薬といったものだ)の実験を行ったが、それはしばしば事情を全く知らされていない対象に対して行われた。CIAが自国の管轄地域外でテストを行った可能性はあるのか? 問うまでもない。この時期のCIAにとっては世界全体がその管轄内にあった。
ビラス・ボアスは、その体験中ならびに体験後に繰り返し吐き気を感じ、加えて不快な生理的影響も受けていたが、フォンテスはこれを放射線被曝に関連したものと考えた。ネデレコビッチが語った「キュービクル」は、放射線被曝の影響をひそかにテストするために使用されたのではないか? ヘリコプターのフライトの際にどんな服装をしていたのかについてネデレコビッチは語っていないが、ビラス・ボアスが証言した誘拐者たちの服装・ヘルメットは、放射線防護具だったとも考えられる。
こうした考究をさらに一歩進めると、催眠や幻覚剤の影響下で、人に実際には体験していないことを「体験した」と信じさせることは可能なのかという問いが浮かび上がる。その答えは明らかに「イエス」である。そのことを言うのに多言は要しない。2001年、ワシントン大学の心理学者たちは、子供のころにディズニーランドに行ったことのある人々に、園内にバグズバニーのいるニセの広告を見せた。その際、被験者のいる部屋に段ボールから切り抜かれた巨大なバグズが置かれたケースもあった。後に質問されたとき、広告を見たグループの3分の1はディズニーランドでバグズ・バニーに会ったことを覚えていた。また、切り抜きが置かれた部屋で広告を見たグループの40%も同様だった。被験者たちは催眠術にかけられたわけでも薬物を摂取したわけでもなかったのに、である。そもそもディズニーランドでデカい声で話すウサギに会うことはありえなかった――ワーナー・ブラザースとウォルト・ディズニーの弁護士がそれを許すことは決してありえないのだから。
偽の記憶を作り出すのは比較的簡単であるが、UFOの遭遇に関していえば、これは「諸刃の剣」となる。UFO事件やエイリアンによる誘拐について単に文章を読んだりしただけでも、それが睡眠麻痺や解離状態といった、珍しいとは言えないけれども普通とも言えない経験と結びついたら、「自分は何かしら現実の遭遇体験をしたのではないか」と疑う人がいるかもしれない。ヴィラス・ボアスに起こったのはこういうことだったのかもしれない。彼の体験は、現実には根拠のない鮮やかな幻想だった可能性がある。しかし、エリザベス・ロフタスの研究とネデルコビッチの証言を組み合わせると、また別の絵図が浮かび上がってくる。
ハンガリーの作家ラヨシュ・ラフは1959年、『洗脳マシン』という著書の中で、1953年に共産党に誘拐され、収容所の「マジック・ルーム」に連れて行かれた経験を描いた。そこには、薬物を投与された被験者を心理的に不安定にするため、ありとあらゆる仕掛けが施されていた。壁は丸く、家具は床に固定されていた。奇妙でサイケデリックな照明が用いられており、回転する色つきのジェルやレーザー光線のようなものもあった。さらにスクリーンには性的・暴力的な写真や映像が映し出された。ある時、ラフは性交している女性の映像を見せられたが、相手の男性の顔にはぼかしが入っていた。そのあと目が覚めると隣にはその女性が横たわっていて、フィルムの中の映像が実際に起こったことであるかのように話した、それから彼女はラフと性交した。「マジック・ルーム」では現実と幻想が曖昧にされた。その目的は犠牲者を心理的に「破壊」することだった。
ラフはアメリカに逃れ、議会で「洗脳」の実態について証言した。しかし、話はそれほど単純ではない。ラフは確かにハンガリーで拘束されている間、恐ろしい心理的拷問を受けたが、アメリカに政治亡命者として逃れてきた彼は、議会や大衆のためにその体験を誇張するよう促されていた可能性がある。彼の恐怖に満ちてセンセーショナルな著書『洗脳マシン』はその一環であったろうし、CIAの工作員によって書かれたものである可能性がある。それは冷戦期にはよくあるプロパガンダの手法であった。
しかし、ラフの「マジック・ルーム」が虚構であったとしても、MKウルトラは虚構ではなかった。CIAがアメリカのパルプSFや1947年以来発展してきたUFO神話に触発されて、心理操作を行った可能性はあるのか? 我々としてはこう言わざるを得まい。「おそらくはイエスだ」と。(08←09→10)
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