■第8章 ユーフォロジストたちの中で

    気がつくと、円形のドーム型の部屋にいた……それはまるで真珠のような神秘的な物質でできており、繊細な色彩が光を放ちながら虹のように輝いていた。そこへ音楽が聞こえてきた。聞き覚えのあるメロディー、それは私の大好きな曲「フールズ・ラッシュ・イン」だった……私は、彼らと一緒にいることでどれほど安心できるかを悟った。彼らは私のすべての考え、夢、そして大切にしている希望を知っている存在だった。
     ――オルフェオ・アンジェルッチ『円盤の秘密』 (1955)


ラフリンのフラミンゴ・ホテルの部屋から、輝きまたたくネオンライトの列が砂漠の夜空の星々をかき消す様子を眺めていた。1995年の晴れた日に私や友人たちが目撃したものが何だったのか、私は全く真相に近づけていなかったのかもしれない。だが、私やジョン、そして何百万もの人々が魅了されてきた物語がどのようにして形をなしてきたのかは、よりハッキリと理解できるようになっていた。

空飛ぶ円盤の現象の背後に軍や情報機関がいるという信仰は、私にはUFO伝説にまつわる他の荒唐無稽な話と同じくらい見当違いで、妄想狂的であるように思われた。しかし、アメリカ空軍、海軍、CIA、NSAなど、この手の謎めいた略語集団に括られる機関が、UFOについて意図的に国民を欺き、時にはお互いに騙しあってきたことは明らかだった。それぞれが自分たちの目的のためにこの現象を利用し、それによってUFO神話の展開に影響を与えていたのだ。UFOが本当に空を飛び回り、地面に墜落し、我々に呼びかけたり、誘拐したりしていたかどうかはともかく、そうした話の背後にはすべて人間の痕跡があった。

しかし、私はもどかしさを感じていた。今にいたるまでこうした奇妙な物語は、古い書籍や記事、その時々の政府文書、逸話や風説の断片、そして多くは推測混じりの直感によって組み立てられていた。確固たる証拠はほとんどなかったが、私は何を得られるのだろう? 秘密は情報機関にとっていつも吸っている空気のようなものであり、仮にUFOの作戦が今なお秘密裏に続けられているなら、その歴史が簡単に明らかになるはずもない。情報機関の界隈に昔から伝わる格言にこういうものがある。「推測というのは、何も知らず、そして知ることが不可能な時に行うものである」

UFO伝説の最初の波を形作った戦略家やエージェントたち、つまりオリジナルの「蜃気楼の男たち Mirage Men」は、すでに皆いなくなっていた。ジョンと私が彼らと話をすることはもうできない。しかし、ビル・ライアンを追ってセルポの物語を追跡し、盛況を極めるラフリン・コンベンションへと至った我々は、彼らの後継者に出会えることを期待していた。

■完全な公開

CIAのロバートソン・パネルは1953年、民間UFO団体を厳重に監視すべきだと提言した(「監視」とはおそらく「潜入」と読みかえるべきだろう)。そこで実名を挙げて名指しされたのは、空中現象研究機構(APRO)とシビリアン・ソーサー・インスティゲーション(CSI)だった。UFOコミュニティの中の賢明な者たちが、自分たちは政府によって監視され時には干渉されていることに気づいていたとしても、彼らは「それは地球外生命体が訪問しているという真実に自分たちが近づきすぎたからだ」と信じる傾向にあった。その30年後、政府の関与について見えてきた構図はそれと全く違うものだったわけだが、それは多くのUFO研究者たちが(おそらくは薄々本当のところは知りながら)あえて目をそむけてきたものだった。こうした出来事すべての中心にいたのは、ユーフォロジーの世界における最初の内部告発者で、英雄的な研究者から裏切り者・はぐれ者へと立場を転じたウィリアム・ムーアだった。

ビル・ムーアはこの分野で最も尊敬されていた人物の一人だった。彼には40年間も埋もれていたロズウェル事件を掘り起こした大きな功績があり、彼のベストセラー本『ロズウェル事件』は、このジャンルに対する大衆のイメージをますます改善させた。しかし、1989年にラスベガスのアラジン・カジノ・ホテルで開催されたMUFON(相互UFOネットワーク)の会議において、彼が発表に立った時点ではUFOコミュニティは完全な混乱状態になっていた。この会議は、事実上、内戦の様相を呈していたのだ。比較的穏健なMUFON公認のイベントがアラジンで開催される一方で、近くの別の場所では、分派による会議が開かれた。こちらの講演者はより過激なUFO現象の「暗黒面」を説き、エイリアンによる地球の植民地化は着々と進んでおり、政府はこれを隠蔽する陰謀を謀っているなどとして警鐘を鳴らしていた。ちなみにこの主張では、政府は進んだ軍事技術を入手する見返りに、ETが恐ろしいアブダクションで人間の遺伝子を得ることを認めているということになっていた。

ムーアが「公認」イベントのステージに立ったとき、彼はこれが自分が公の場に出る最後の機会になるかもしれないことを知っていた。なぜなら彼は、ユーフォロジーの世界に生じたカオスの少なからぬ部分は自分に責任があることを知っていたのだ。彼はまさにその話を全世界に告白しようとしていたのだった。

ムーアのスピーチの記録として残っているのは、粗い画質のビデオテープが唯一のものである。音声は別途録音されているが、時折、同期がずれたり、完全に途切れたりすることがある。ムーアは、灰色か茶色のスーツを着た熊のような男で、厚いヒゲ、黒い眼鏡、そしておかっぱ頭によって顔はほとんど隠れている。演壇に上った彼は神経質な様子で、1000人に及ぶ立ち見席の聴衆を前に体を左右に揺らしていた。彼は咳払いをしてから話し始めた。「皆さん、私の友人も私に反対している方も、協力者の方も同僚の方々も、つまりはUFO研究者の皆さんということなのですが、まず自己紹介をさせてください。皆さんは私の名前を知っていると思いますが、同時にビル・ムーアとは何者で、何を企んでいるのかと疑問に思っている方も多いでしょう……自分自身は私がずっと何をしてきたかを知っているわけですが、問題は他の誰も私がしてきたことを知らなかったことなのです……これはあなた方にとって聞きたくない話かもしれませんが、それでも本当の話なのです」

それからの2時間、ムーアは落ち着いた調子ながらも力強く自らの物語を語った。その話は、UFOコミュニティに新たな視点をもたらす風穴を開けるようなものとなった。彼は、チャールズ・バーリッツ(彼自身も元陸軍情報将校だった)との共著になる2冊の書籍、『フィラデルフィア・エクスペリメント』(1979年)と『ロズウェル事件』(1980年)で成功を収めたが、その後、労使関係の専門家としての職を辞し、アリゾナ州に移り住んで執筆活動に専念することになった。また彼は、ツーソンに拠点を置くAPRO(空中現象研究機構)の特別調査部長にも就任した。

1980年9月の始め、ラジオ番組で『ロズウェル事件』の宣伝をした直後のムーアは、放送局で電話を受けた。「我々が見るところ、彼が何を言っているのか分かっているのはあなただけだと思います」。東ヨーロッパ訛りのある匿名の男性はそう言い、そのまま電話を切った。数日後、ムーアがニューメキシコ州アルバカーキの別のラジオ局にいたとき、その男は再び電話をかけてきて、同じメッセージを伝えた。ムーアはこの時、この人物と地元のレストランで会う約束をした。男は赤いネクタイをしていくということだった。ムーアは、ロバート・リンゼイの著書『ファルコンとスノーマン 友情と陰謀の真実の物語と』にちなんで、この人物に「ファルコン」という名前を付けた。ムーアはファルコンの地位や正体を明かしておらず、ただ彼は「情報機関において重要な位置にいた人物だ」とだけ語っている。

ディナーの席で、ファルコンはムーアに取引を持ちかけた。それは、ムーアが上手く立ち回れば、ファルコンはUFOコミュニティが最も求めているもの、すなわち政府によるUFO隠蔽の決定的な証拠を提供できる――というものであった。その代わり、ムーアは情報機関が何より求めているもの、つまり情報を提供することが求められた。「私は勧誘されていることに気づいた」とムーアは1989年に語っている。「でも、なぜそんなことをするのかは分からなかった」。ムーアが提案に同意すると、一通のマニラ封筒を渡された。中には空軍の文書があった。それは「プロジェクト・シルバースカイ」に触れたもので、民間人による空中「物体」の目撃情報と、「スパイク型飛行体」の回収について書かれていた。

ムーアとファルコンは9月30日に再び会った。ファルコンに同行していたのは、空軍特別捜査局(AFOSI)の若き捜査官、リチャード・ドーティであり、彼がムーアとファルコンの連絡役を務めることとなった。ムーアはすぐさま、シルバースカイの文書について二人を問い詰めた。彼は目撃者の名前を調べてみたが、該当する人物はいなかったのだ。その文書は偽造されたものだった。ファルコンは「最初のテストは合格だ」と祝福した。かくて彼は次の段階に進む準備ができた。

ファルコンは、自分が国防情報局(DIA)に所属しており、情報機関内にあってUFOに関する真実を大衆に伝えたいと考えているグループの代表なのだと明かした。ムーアは、彼らがその試みに取り組む上で信用できる人物と見込まれたのである。その見返りとしてムーアは、UFOコミュニティの中では誰が何をやっているかという情報を彼らに渡すこと、そして逆にUFOシーンに誤情報を流すことも求められた。ムーアは、偽情報ゲームに巻き込まれつつあったのだ。

実際、このゲームはすでに始まっていた。その年の初めに、ムーアはAPROの幹部から奇妙な手紙を渡された。それは、ニューメキシコ州アルバカーキのカートランド空軍基地駐在の若き空軍士官候補生、クレイグ・ウェイツェルが書いたもので、訓練中に10人の士官候補生が目撃した着陸したUFOと銀色のスーツを着た乗員について記述されていた。ウェイツェルは、その乗り物と乗員の写真を撮影していた。カートランドに戻ると、ウェイツェルは、黒いスーツとサングラス姿で黒っぽい髪の謎めいた男に接触された。ハックと名乗ったその男は、基地内のサンディア研究所の者だと言い、UFOの写真を要求してきた。動転したウェイツェルは、それらを渡してしまった。ウェイツェルは、この出来事をカートランドの警備担当者、ドーディに報告したと手紙の中で書き、手紙の最後には、墜落したUFOが基地内のマンザノ山の下に保管されていると述べていた。

常に用心深い調査者であるムーアは、ウェイツェルを追跡して彼に会った。ウェイツェルは、確かに銀色のUFOを見たと言い、それは突然加速して飛び去り、「今まで見たことのないような加速をした」と述べた。しかし、それは手紙に記載されていた場所で起きたわけではなく、搭乗者は見なかったし写真も撮っていなかった。当然ながらハック氏という不気味な男に会ったこともなかった。そして、もちろん「ドーディ氏」はリチャード・ドーティで、ウェイツェルの手紙はムーアを誘い出すための餌であった。AFOSIは狙っていた獲物を釣り上げたのだ。


ポール・ベネウィッツに会いにいったらどうかと最初にムーアに提案したのがAPRO(空中現象研究機構)だったのか、あるいはAFOSIだったのかはハッキリしない。どちらにとってもそう言って然るべき理由があった。ベネウィッツは1979年7月、マンザノの山々の上空を飛び回っている奇妙な光を撮影し始めた。さらに彼は自作の受信機で奇妙な信号を拾い始め、それはUFOから発せられているものに違いないと確信した。1980年5月、ベネウィッツがミルナ・ハンセンという若い母親と知り合ったことで、事態はさらに奇怪な方向に向かった。ハンセンと8歳の息子は、アルバカーキの北西約65マイルにあるイーグルズ・ネスト付近で、車の上に奇妙な青く輝く明るい光を目撃していた。彼女がこの出来事をAPROに報告したところ、APROはその地域の代表者をしていたベネウィッツを訪ねるよう彼女に勧めたのである。ベネウィッツの元で催眠術を施されたハンセンは、UFOに引き上げられ、そこで恐ろしいもの――すなわち、切り刻まれた牛や人体のパーツがタンクに入れられているのを見たと述べた。自分の身に起きたことへの恐怖と、答えを知っていそうなベネウィッツに対する信頼感から、ハンセンはベネウィッツ家に足繁く通うようになし、二人は不穏極まりない「感応精神病」へと陥っていった。

ハンセンは、科学者にしてUFOの専門家であるということでベネウィッツを信頼していたが、彼がAPROに送る手紙は次第に奇怪なものになっていった。例えば彼は、ハンセンを掠った宇宙人は彼女の体内に追跡装置を埋め込んでおり、その装置で彼女の一挙手一投足を追跡しているほか、その思考もコントロールしているのだと断定していた。ハンセンの身の安全とベネウィッツの精神状態を懸念したAPROは、ビル・ムーアに彼の元を訪ねて調査をするよう依頼した。一方ではアメリカ空軍もまた、ベネウィッツの元を訪ねることをムーアに求めていた。空軍が彼に吹き込んだニセ情報がどれほど成果を上げているか確認したかったのである。

アメリカの情報公開法を通じて公開されたカートランド空軍基地の内部文書には、ベネウィッツに対する工作がどれほど迅速に進行したかが記されている。ベネウィッツ博士が、カートランド基地の警備責任者であるエドワーズ少佐に最初の目撃情報を報告したのは1980年10月24日だったが、エドワーズはこの件をAFOSIのドーティに引き継いだ。彼らの報告書にはその後の経緯がこう記されている。

    1980年10月26日、[特別捜査官の] ドーティは、空軍試験・評価センターの科学顧問であるジェリー・ミラーの協力を得て……ベネウィッツ博士と彼の自宅で面談した。その場所はアルバカーキ市フォー・ヒルズ地区で、この地区はマンザノ基地の北側境界に接している。ベネウィッツ博士は……電子記録テープを何本か示してみせたが、彼によればそれはマンザノ/コヨーテ・キャニオン地区から発せられている磁気が高まっている時期の記録だった。彼はまた、アルバカーキ地域上空で撮影された飛行物体の写真もいくつか提示した。彼は、いくつかの電子監視装置をマンザノに向け、高周波の電磁パルスを記録しようとしている。ベネウィッツ博士は、これらの空中物体がこれらのパルスを発しているのだと主張している……ミラー氏は、ベネウィッツ博士が収集したデータを分析した結果、何らかの未確認飛行物体が撮影されているのは確かだとした。しかし、これらの物体がマンザノ/コヨーテ・キャニオン地域に対して脅威を与えているかどうかについては結論が得られなかった。ミラー氏は、電子記録テープは決定的なものではなく、ありきたりな [磁気の] 発信源から得られたものではないかという印象を抱いた。この地域では他に目撃情報は報告されていない。

11月10日、ベネウィッツはカートランド空軍基地に招かれ、基地内の各部署の責任者たちに自身の調査結果を明かした。彼のプレゼンテーションが終わる時まで残っていたのはAFOSI(空軍特別捜査局)とNSA(国家安全保障局)の代表者だけであったが、彼らは、どういうワケかはわからないがベネウィッツは自分たちが実験的に行っている通信を傍受していることに気づいた――その通信というのは、彼らが知る限り、フィルムに映った光とは何の関係もないものだったのだが。NSAは彼が信号を傍受するのを放置しておくことにした。それによって、どのように彼が傍受をしているのかを把握し、自分たちにとって彼が何か役立つのかどうかを見届けようとしたのである。

11月17日、AFOSIの新たな協力者であるビル・ムーアは初めて彼らのオフィスに召喚され、UFO研究の現状についてに報告するよう求められた。リチャード・ドーティは会議後、AFOSI内部の機密通信のためのテレタイプ・ディスプレイをムーアに見せた。そこには新しい文書が表示されていた。そこには「秘密」というラベルが付けされており、ベネウィッツが撮影した3枚の写真と8mmフィルム2巻についての分析が記載されていた。文書の最後には「プロジェクト・アクエリアス」に関する言及があった。

1981年2月、ファルコンとドーティは、とある文書をベネウィッツに渡すようムーアに求めた。ひと目見た時、その文書は11月にテレタイプで見たものと同じように思えたが、よく見ると微妙に改編されていることに気づいた。その文書には次のように書かれていた。

    (S/WINTEL) 米空軍は公にはUFO研究に従事していないが、空軍は依然として米空軍の施設や試験場でのUFO目撃に関心を持っている。NASAを筆頭とするいくつかの他の政府機関は、偽装を施した上で真正の目撃情報を調査している。(S/WINTEL/FSA)
    そのような偽装の一例が、メリーランド州ロックビルにある米国沿岸測地調査所のUFO報告センターである。NASAは目撃情報の結果を然るべき軍事部門にフィルタリングして渡すが、公式な情報機関のチャンネル外に情報は配信されておらず、ただ「MJ12」に対してのみ制限付きのアクセスが許される。ベネウィッツに関するケースはNASAとINSによって監視されており、両者からは今後の証拠はすべてAFOSIを通じて送付するように要求されている。

1983年、空軍情報部はこの文書について「機密情報の不正な公開の可能性」というタイトルのもとで調査を行った。彼らはその文書にいくつかの問題があることを指摘しており、特にその情報源とされていたグレイス大尉という人物は実在しないこと、また文書の形式も機密文書にふさわしくないものであることを挙げた。さらに報告書は「この文書は文法的な誤りやタイプミスが多く、全体的に見て意味をなさない」と苛立ちを込めて指摘していた。つまり、この文書は偽造されたもので、専門家にとってはあまり説得力のあるものではなかった。問題はテクニカルなものだけではなかった。文書にはより根本的な問題があった。NASAがベネウィッツを監視しているという話は馬鹿げていた。NASAはカートランドに施設を持っておらず、監視業務も行っていなかった。また、米国沿岸測地調査所は1970年には業務を停止していた。この文書には「MJ 12」という当時誰も聞いたことのなかった組織への言及があったが、その名前はそれからの30年間、UFOコミュニティを悩ませることになる。

ファルコンとドーティは、ムーアに「プロジェクト・アクエリアス」の文書をベネウィッツに渡すよう執拗に求めた。彼らがムーアに他人を欺くよう求めたのはこれが最初で、ムーアはその一線を越えることをいったんは拒んだ。ムーアとベネウィッツはすでに定期的に連絡を取りあい、友人関係を築きつつあったからである。しかし彼の「調教師」たちは、もしムーアが協力しないのであれば、彼らの関係はその瞬間に終わると明言した。

ムーアはその夏、「サンダー・サイエンティフィック」社の研究所でベネウィッツにその文書を手渡した。これはベネウィッツが待ち望んでいた証拠であった。つまりそれは空軍が彼の研究を真剣に受け止めていることを裏付けるものだったし、ベネウィッツが正しい方向に進んでいることを示すものでもあった。「サンダー・サイエンティフィック」社が盗聴されていることを知っていたムーアは、ラジオの音量を上げて会話を聞こえないようにしつつ、誰にもこの文書を見せないようベネウィッツに懇願した。しかし、それは無駄だった。カートランドで得た通信や目撃体験や、そしてミルナ・ハンセンから引き出された情報が相俟って、ベネウィッツはいま・ここでエイリアンの侵略が進行していることを確信していた。彼はすでにアメリカ空軍に警告していたが、今やその警告は世界に発信されねばならなかった。

ベネウィッツはAPRO、地元の政治家(ニューメキシコ州の上院議員を含む)、元宇宙飛行士のハリソン・シュミット、さらには大統領ロナルド・レーガンにまで手紙を書いた。レーガンへの手紙には空軍長官室からの返信があり、空軍は1969年のプロジェクト・ブルーブックの終了と共にUFOの調査を停止したという標準的な回答が返ってきた。しかし、ベネウィッツはこれが真実でないことを知っていた。彼は、その時点においてカートランドでUFOを調査している空軍関係者を名指しで挙げることができたからである。

侵略者に対する活動を強化すべく、ベネウィッツはコンピュータシステムを改造して「エイリアン」の通信を解読し、繰り返される信号を、例えば「UFO」「宇宙船」「アブダクション」といった具体的な言葉に翻訳してみた。エイリアンの計画を理解できれば、空軍が彼らの侵略を防ぐのに役立つと考えたベネウィッツは、解読されたメッセージをAFOSIの友人たちに送り始めた。彼らはベネウィッツの行動に引き続き大きな関心を払っていた。

1981年の半ば、ベネウィッツは高名な天文学者にしてUFO研究者であるJ・アレン・ハイネック教授の訪問を受けたが、ハイネックは新しいコンピュータを持参していた。UFO界の権威の訪問に、ベネウィッツは自分が重要なことに関わっているのだという確信をさらに強めたことであろう。ハイネックは、1948年にアメリカ空軍のプロジェクト・サインへの協力を依頼されて以来、UFOに深く関わっていた。当初はUFO現象に懐疑的だったハイネックだが、後にこの現象が何か実在する未知のものを示していると確信するようになり、1960年代後半には空軍に反旗を翻した。ハイネックは1972年の著書『The UFO Experience』でプロジェクト・ブルーブックを偽装と断じ、UFOとの遭遇を分類する独自のシステムを紹介した。その中には、UFOに乗船している存在との遭遇を指す「第三種接近遭遇」というカテゴリも含まれていた。この用語はスティーヴン・スピルバーグによる1977年の映画のタイトルとして使われ、映画の壮麗なるクライマックス場面には、トレードマークのパイプをくわえたハイネックがカメオ出演している。

ベネウィッツを訪問した当時、ハイネックはUFO研究センターを運営しつつ、エバンストン大学で教授職を務めていた。また、空軍から年間5千ドルの報酬を受け取っていたとも言われている。ハイネックは空軍のベネウィッツに対する工作を知っていながら、それに加わっていたのだろうか? もしそうなら、カーネル・サンダースさながらに親しまれた「科学的ユーフォロジーのゴッドファーザー」というイメージは明らかに確実に大ダメージを受けることになっただろう。しかし、ビル・ムーアの主張によれば、ハイネック自身は彼にこう語っていたという――「誰から渡されたかは彼に話さず、特別なソフトウェアが入っているコンピューターをベネウィッツに届けるように空軍に言われたんだ」

ベネウィッツは新しいコンピュータをセットアップし、それが伝えてくれる精度のより高いメッセージの解読に没頭するようになった。その新しいメッセージの一部を見るだけでも、彼がどれほどエイリアンの幻想に取り憑かれていたかは明らかだ。「勝利。我々の基地は母船から補給を受ける。時間が引き裂かれた。メッセージは星を打ち抜く。若返り方法で問題を引き起こした。6つの空。あなたに話すこと全てが助けになる」。このようなテキストが何ページにもわたって続く。ムーアは、新しいコンピュータは「すべての単語、文章の断片、時には文章全体」を、ベネウィッツの家に向けて発せられる「互いに異なった様々なエネルギー・パルス」の一つ一つに割り振っているのではないかと考えた。誰かがポール・ベネウィッツの幻想に油を注いでいた。しかし、それは誰だったのか?

ベネウィッツが送ってくる「研究プロジェクト」の手紙がカートランドの注目を集めるにつれて、監視も強化された。彼は自宅や車が侵入されていると確信し、向かいの家はエージェントが占拠していると信じるようになった。ムーアはある日、白いバンが二人のそばに――それは中から二人の写真を撮るのに格好の位置だった――停まったことを覚えている。ナンバープレートの所有者をたどると、それはコロラド州の北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)に登録されていた。アルバカーキのフォー・ヒルズ地区は、国家の情報機関の遊び場になっているかのようだった。

こうした出来事がベネウィッツの精神状態に良い影響を与えるわけはなかった。1982年、ベネウィッツはムーアに対して「基地の向こう側にあるメサ地域に光が見える」と言い出し、これはUFOが人間を遺伝子実験のために拉致している証拠だと語った。しかしムーアが調査すると、この時は軍用ヘリコプターが一帯でサーチライトを灯して捜索救助訓練を行っていたことが判明し、その事実はカートランドも認めた。しかし、すべてが幻想ではなかった。ある日、ムーアがベネウィッツの自宅を訪れたところ、家の研究室の天井近くに直径約12センチメートルの黄色い光球が浮かんでいるのを目撃した。その光はわずかに揺れ、淡くて青い輝きに包まれていた。ムーアが驚いた顔をすると、ベネウィッツは「このオーブはよく現れるんだが、正体が何なのかはわからない」と言った。

20年後にグレッグ・ビショップのインタビューを受けたリチャード・ドーティは、彼と国家安全保障局(NSA)のエージェント2人がベネウィッツの家の周辺を嗅ぎ回っていたある夜、彼らもこうした光球の一つを目撃したと主張している。「それはオレンジ色で、内側がキラキラしていた」とドーティは回想している。彼らはその時、道路の上に立っていたのだが、ドーティはNSAのエージェントたちに「あれはあんたらのものか?」と訊ねた。だが、彼らは「違う」と答えた。3人はその光がどこかから灯影されているのではないかと探してみたが、光源のようなものを見つけることはできなかった。

カートランド基地の治安部と接触を持ってから1年もたたないうちに、ベネウィッツはパラノイアのフィードバックループに陥ってしまった。そのループは彼の疑念を強化する一方、彼が自らの内心を空軍情報部にさらけ出してしまう事態をも生み出した。深刻な緊張状態に陥ることなくこのような状況が続くことはおよそありえないのだが、ベネウィッツの苦難は数年間に及び、終末が訪れるまでさらに奇妙な事態へと発展していった。ムーアが後に語ったところによれば、パラノイアに取り憑かれているにも関わらずベネウィッツは「優れた話術」を持ち、聞いてくれる人には誰にでも話し続けたという。「ベネウィッツの話を聞いた多くのUFO研究者たちは、さらなる調査をすることもなく、彼の話を鵜呑みにしていた」。その結果、ベネウィッツのパラノイア的な幻想はUFOの地下世界へと浸透していった。AFOSIは人々のUFOについての考えを直接操作し、ビル・ムーアを通じてフィードバックを得ていたのである。教科書通りの心理作戦のシナリオであった。

ビル・ムーアが新しい「雇い主」のために行っていたのは、ポール・ベネウィッツと彼を介して流した情報を監視するだけではなかった。彼のロシア語の流暢さを活かした古典的なスパイ活動もあった。ソ連国内にいるアメリカのスパイは、アメリカのUFO研究者に向け、しばしば情報を求めるようなふりをして絵はがきを送っていた。「ほとんどのはがきは無害なものだった……しかし、私が受け取ったはがきの中には(ロシアの)施設、兵器システム、そして防衛に関して暗号化された情報が含まれていたものがあった」。ムーアはこのようなはがきを受け取ると、探知不能な政府の番号に電話し、その内容を読み上げた。その時点で相手は「ありがとう」と言い、電話は切れるのだった。これは、それぞれのはがきには意図されたメッセージの一部しか含まれておらず、それらが集められて全体像が完成するという仕組みであった。連絡が取れた後、ムーアははがきをワシントンD.C.の郵便私書箱に送り、その内容が何であったのかを知ることはなかった。

ムーアや、後に彼が信頼して引き込んだ仲間たちは、ニセモノかどうかを知らされずに文書を手渡されることが時折あった。1982年初頭、ファルコンはムーアに電話をかけてきて「識別信号」――つまりはパスワードを伝えてきた。それは何かが近々彼の手元に届けられるということを示していた。次いで2月1日、或る男がムーアのところに近づいてきて、そのパスワードを言ってからマニラ封筒を手渡した。封筒には、1980年8月と9月にマンザノ周辺で目撃されたUFOに関するカートランド基地内部のセキュリティ文書が含まれていた。その文書は、ベネウィッツの話を裏付けるために捏造されたニセモノだった可能性が非常に高いが、当時のムーアには自分がアクセスを許された文書がどんなものなのかは分からなかった。

1983年、ムーアはまもなく重要な情報を受け取ることになると告げられた。そこから奇妙な「無駄足だらけ」の追跡が始まった。彼は全国の空港を飛び回り、最後にニューヨーク州のホテルに到着した。そこで、運び屋が彼の部屋にやって来て、例のマニラ封筒を手渡した。ムーアは19分間、その内容を調べることが許された。その間に彼は文書の写真を撮り、その内容をテープレコーダーに吹き込んだ。

その文書は、ジミー・カーター大統領のためのUFOについてのブリーフィング資料だとされていた。カーターはかつて、アメリカ政府がこの問題について知っているすべての情報を公にすると約束していた人物である。文書には、1981年のニセのAFOSI文書で言及されていた「プロジェクト・アクエリアス」とマジェスティック12(MJ-12)グループについて、さらなる言及がなされていた。この新たな文書が示していたメッセージは、MJ-12という秘密の政府組織が、UFOやその搭乗員の問題に対処するため、そしてETが実在していることを秘匿するために、少なくとも1950年代初頭には立ち上げられていたというものであった。これらの文書は後にムーアとAFOSIの二つのルートから他のUFO研究者たちの知るところとなったが、それがしつらえた土俵の上では、やがてUFOコミュニティが歴史上最も壊滅的な打撃を受けることになる。AFOSIによって植え付けられたエイリアンの種は、手がつけられないほどに成長し始めていた。

1989年のMUFON大会で、ムーアはプレゼンテーションの最後にUFOに関する自らの「状況評価」を発表した。彼のいくつかの発言は、現在の私たちから見ても理にかなったものであったが、その他の発言は当時のUFOコミュニティにはびこっていたパラノイア状況を反映したものだった――その影響はムーアのような地に足の着いた研究者にも及んでいたのである。ムーアは聴衆に語っている。
    ▼高度に進化した地球外文明が地球を訪れており、彼らはいま・ここに来ていることについて私たちの認識を積極的にコントロールしている
    ▼少なくとも2つの政府機関の一部はこのことを把握しており、極秘の研究プロジェクトに取り組んでいる。そのうちの1つのプロジェクトは、一部のUFOが人間以外の何者かによる高度な技術の産物であることを証明するデータを有している
    ▼アメリカ政府のカウンターインテリジェンス部門は、少なくとも40年間にわたってUFO現象に関するニセ情報を流してきた。少なくとも2つの機関の高レベルの工作員がこれに関与しており、両者はある程度協力しあっている。彼らはニセの文書を作成しつつ、UFOコミュニティの研究者や体験者について内部通報者を使って情報を収集している
    彼らはなぜこうしたことを行っているのか? ニセ情報というのは、非常に高いレベルで存在し、ごく一部のエリートだけが知らされている「本物のUFOプロジェクト」を安全保障上秘匿するために用いられているのである。
    ▼それはアメリカ政府の研究開発プロジェクトから注意をそらすために役立つ
    ▼それは、三極委員会のようなグループ――つまり宇宙からの未知の脅威を持ち出して世界統一を実現するためにUFO現象を利用しているグループにとって助けになる
    ▼それは、カウンターインテリジェンスに携わる工作員が欺瞞・ニセ情報工作の訓練をする上で格好の手段となる
    ▼それは、人間社会に自分たちの存在をゆっくり認識させていこうとしてエイリアン自身が操作しているものである

三極委員会に関するコメントは無視するとして(これは当時拡大していた「新世界秩序」の陰謀論に関して数多くあった符号の一つだった)ここになお残る事実がある。つまり、ムーアはインテリジェンス・サービスによって張り巡らされた欺瞞の網に深く関与していたにもかかわらず、依然として「地球外生命体は地球に来ている」という揺るがぬ信仰を語っていた――という事実である。

AFOSIとの関係に絡み取られてほぼ10年経った後もなお、ムーアは「UFOシナリオなんてものは丸ごとインテリジェンスの策略なのだ」といって一蹴することがなかった。これは驚くべきことだ。しかし、彼は依然として信じていたし、さらに驚くべきことに彼の「調教師」だったリック・ドーティもまた信じていた。そして今。彼が暗闇から押し出されて17年たった後、ジョンと私は彼に会う準備をしていた。(09←10→11