ユーフォロジーに関するSNSの書き込みなどで、最近「スピ系」というコトバを見かけることが増えてきた。文脈的にはUFOやその「搭乗者」を宗教的・霊的なアイコンとして盲信する人々・営為を指すコトバのようで、どうやらそこには揶揄の調子もいかほどか含まれているようだ。だがそれは果たして真っ当なワーディングといえるのか。私見ながら、ここには大きな問題がある。

 もちろん当方も、個人的にはUFOと霊的存在を重ねて考えるような人々・営為には疑念をもっている。もってはいるんだが、しかしここで何故「スピ」という語句が持ち出されねばならないのか、よく分からないのである。

 言うまでもなく、ここでいう「スピ」というのは「スピリチュアル」の略であろう(ちなみにスピリチュアルと似て非なる「スピリチュアリズム」というのは、一般には死後の霊魂存在や霊との交信を肯定する「心霊主義」を指しており、ここでいう「スピ」とは若干位相を異にしているものと思われる)。

 だが、「スピリチュアル」というコトバには当然歴史的に積み重ねられてきた意味がある。この「スピ系」というのは、そうした従来のスピリチュアリル/スピリチュアリティと如何なる関係にあるのか。そこで想定されている「スピリチュアル」とは一体何なのか。このあたりを曖昧にしたまま「スピ」というコトバを無自覚的に用いてしまうのであれば、それはユーフォロジーではなく床屋のおっさんから聞かされるUFO話とたいして変わらない。ネトウヨの皆さんが「左翼」の何たるかも知らずに反対者を「パヨク」と呼んで、「オレからみればその程度よ!」と悦に入っているようなものであろう。

 では「スピリチュアル」とはそもそも何なのか。たまたま今読んでいる吉永進一『霊的近代の興隆』(国書刊行会)にその辺にかかわるくだりがあったので、以下引用してみる。



 
アメリカにおいて、現在「スピリチュアリティ」と総称される領域は、それ以前には「ニューエイジ」と呼ばれていた領域とほぼ重なり、歴史を遡って十九世紀後半であれば、スウェーデンボルグ主義、スピリチュアリズム、催眠術、マインドキュア(ニューソート)、神智学、東洋宗教などが含まれる。個人志向の傾向がつよく、既成のキリスト教に対して批判的なスタンスをとり、自然科学に対して親和的である。信仰よりも学習や修行を重視する傾向がある。内的な霊性(スピリチュアリティ)を重視し、世界を善と見ることが多く(以下略)」(156頁)




 この引用部を読んだだけでも分かるだろうが、スピリチュアルという概念には相当に重層的な意味が込められている。「スピ系」という括り方はいささか雑すぎるのである。

 さらに言えば、わが国では宗教学者の島薗進が、いまさら宗教には帰れないけれども近代合理主義を越えた「霊的」な価値を希求せずにはおれない現代人の心性を捉え、「近代」と「宗教」にかわる第三の道としての「スピリチュアリティ」を肯定的に捉え直す議論を続けてきたことも広く知られている。同じく宗教学者の堀江宗正も、現代日本における「宗教的なもの」のありようをつかみ取る上で「スピリチュアリティ」という概念はとても重要であると主張している。かような知的営為を踏まえてみると、「こいつらスピ系な!」みたいな物言いはいささか脳天気に過ぎるのではないかと思えてくる。

 ちなみに私見では、こうした研究でいうところの「スピリチュアリティ」は、「組織・団体に頼らず個人として内面を掘り下げていく」というところに大きな特徴があるのだが、「スピ系」というコトバにはそんな含意もなさそうだ。結局のところ、「スピ系」というのは「なんか宗教っぽい」ぐらいの符牒にしかみえないのである。

 もちろん、かつて一世を風靡した江原啓之が「スピリチュアリスト」などと称していたこともあり、スピリチュアリティというのはイコール「霊魂がどうこうみたいな話」程度の浅薄な理解が一般に広まっているのも事実だろう。だからこそ「スピ系」といった軽いコトバで大衆にアプローチしたいという意図も分からないではないが、先にも述べた通り、そのような言説はユーフォロジーではなく与太話に終わってしまう可能性がきわめて高い。

 まぁ学術研究のようにいちいちコトバの定義から始めよとまでは言わんけれども、「なんとなく」や「雰囲気」に乗っかった議論というのは、如何に世間的に胡散臭いユーフォロジーであっても警戒せねばならぬものだと思う。というか、胡散臭いユーフォロジーであるからこそ避けるべきものだと思うのだがどうか。(おわり)