

今朝の朝日新聞の「天声人語」は酷かった。冒頭と最後の部分を貼りつけておくけれども、要するに「スポーツ活動をしている子供は平等に試合に出してあげなさい。機会を奪われてスポーツ嫌いになったらいけないデショ」ということを言っている。あぁコレはあかんわ。一読オレはそう思った。
どこが酷いのか。以下、順を追って指摘してみたい。
その一
まず言っておきたいが、「多くの子供たちにスポーツを楽しんでほしい」という考え自体は一般論としては正しい。だが、スポーツの楽しみ方といっても、実際には様々なレベルがある。
一つには「勝敗なんか度外視して何かみんなで体を動かすのが楽しい」というのがある。一例を挙げれば、腹の突き出た中年オヤジがワイワイいいながらやっている草野球や草サッカーのようなものである。
だが、一方には、「大会優勝」というような或る種の「目標」を目指し、ギリギリまで心身を追い込んでいくところに生まれる楽しみというのもある。マラソンに入れ込んだ人が市民ランナーの勲章と言われるサブスリーをなんとか達成して「あぁ嬉しい!」というようなものだ。より一般化して言えば「試練・苦難を乗り越えたが故の楽しみ」ということになろうか。
しかし今回の天声人語は、この「試練を乗り越える」というスポーツの一側面を「勝利至上主義」と断じ、子供たちをそうした世界から隔離せよと主張している。個々の選手には力量差があるので勝利至上主義では浮かばれない子供たちがいる、だからみんな仲良く楽しむスポーツでいいジャン、オヤジたちの草野球みたいに遊んでやってりゃいいジャンと言っているのである。
いやだが、暇つぶしではないスポーツ、大げさにいえば「生きるか死ぬか」ぐらいの気持ちで取り組むスポーツというものは実際に存在しているのだし、それは天声人語言うところの勝利至上主義、優勝劣敗の原理とは切り離せないものだろう。これを「勝利至上主義だからダメ」と切り捨てていいものかどうか。或いは子供たちには酷だということなのかもしらんが、彼らの中にも「ライバルに勝ちたい」「少しでもうまくなってレギュラーを取りたい」といった競争心は旺盛にあるハズで、だからこそ練習もし努力もする。もちろんその努力が報われずに万年補欠で口惜しい思いをすることもあるだろうが、むしろ人間はそういう体験を経て成長していくものだ。
というわけで、今日の天声人語を読んだオレは、とある「都市伝説」(笑)を思い出した――とある小学校では、「負けた子が可哀想だ」という理由から運動会の徒競走でみんな仲良くおててつないでゴールすることにしている……まぁ流石にそんな学校は実在しないと思うのだが朝日新聞的にはこういう運動会が理想なのだろう。まさに人間の生きる社会を直視したこともない道学教師の言い分である。
その二
これも天声人語にしばしば出てくる論法であるが、今回のヤツも「スポーツ大国の豪州」の例を引いて「だから日本も反省しなさい」というロジックになっている。オレが再三批判しているように、この手の「出羽守論法」というのはその土地土地の文化であるとか歴史的経緯を無視しがちであり、よっぽど注意して使わねばならないのだが、その辺が全くなっていない。そもそも「スポーツ大国」というのは何なのだろう。勝手に持ち上げられて豪州もさぞや恥ずかしかろう。
その三
これは今回のテーマとは直接関係のないことであるが、文末の「・・・するといい」という表現には虫酸が走る。これはライバル紙・読売の同様のコラムにも頻出するので天声人語だけの問題ではないのだが、要するに「自分はモノが分かっているので忠告してあげるが、無知蒙昧なアンタらはオレが言うようにやってみたらエエんや」というニュアンスがある。なんか恩着せがましい感じに腹が立つ。
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