マーティン・ガードナーのフォート論はこれが最後です。オシマイのほうは直接フォートではなく、アンソニー・スタンデンという化学者を批判することに終始していますね。そこはちょっと残念。(前回はこちら



英国の化学者で現在は米国籍を得ているアンソニー・スタンデンは1950年、『科学は聖牛なり』と題した著書で「科学主義」を手ひどく批判し、大きな反響を呼んだ。スタンドンはセント・ジョンズで1942年から46年まで教鞭を執ったが、「カトリック・ワールド」(1950年2月号)によれば、その体験は「最終的に彼をキリスト教への改宗に導いた」。

スタンデンの見るところ、現代の科学者たちをひとかたまりのグループとしてみるならば、彼らは自信過剰にして傲慢、自惚れ屋であって、自分たちが思っているほど賢いわけではない。対して、古典主義に情熱を燃やす教育者たち――つまりモーティマー・アドラーやロバート・ハッチンズのような人々は、謙虚で控えめな人物といえるだろう。さらにジョン・デューイは、文明の未来は科学的なモノの見方が広がるかどうかにかかっていると示唆したことについて苦言を呈している。ヒレア・ベロックは「科学が広まれば広まるほど世界は悪化する」と述べていないだろうか、と(ベロックの科学に関する知識については第11章で考察したい)。

ここにはアリストテレスを称えるおなじみの太鼓の音が響いている。曰く――このギリシャの哲学者が「重い物体は軽い物体より早く落下する」と言ったのは、最終的に正しかった。なぜなら空気抵抗が物体に及ぼす影響は物体が重いほど小さいからである。そうしてみると、ガリレオがあれほどまでに賞賛されるのは如何なものだろう。それに、ガリレオはピサの斜塔から二つのおもりを一緒に落としたことなどない。それは他の塔で行ったことだったのだ、等々。だがここでスタンドンが語っていないことがある。アリストテレスは、落下物体の事例を「真空は存在しえない」という全く的外れな主張の証拠として持ち出していたのである。

スタンデンはこう告げている。「科学の第一の目的は神の御業を通じて神を学び、神を讃えることである」。社会学者たちは愚かなことに、自分たちは神学抜きで倫理の科学を発展させることができると考えている。生物化学者たちは我々に「進化のプロセスは徐々に階梯を踏んで進むものだ」と信じさせようとしている。だが実際には、「進化は大きな飛躍を経て進んできた」という考えを支持する余地も同等にある(スタンデンはここで自らの真の意図を明かしていない。もし進化が飛躍を経て進むのであれば、人間の魂は動物のそれとは歴史的にみて明らかに断絶したものであり得る――彼はそう言いたいのだ)。生物学者が「基本的に動物の生命が目指すものは快適さである」というような戯れ言を吐いたなら、「これに対して必要十分な答えはこうである――たわごとだ」

彼は結論づける。「科学者たちが我々を騙そうとしないか、我々は注意深く見守る必要がある」。チャールズ・フォートも同じ考えをこう表現した。「…もし誰も天文学者たちの言うことを確かめようとしなかったら、彼らは好きなことを何でも言える自由を得ることになる」

スタンデンは「科学は現代の偉大なる聖牛である」と記している。。少しでもユーモアのセンスを持っている科学者であれば、自分たちが科学の前に深く頭を垂れているという図に笑いを禁じ得ないだろう。だが、同じ牛なら、科学者たちはフォートが引いているこちらの話のほうをより面白がるのではないか。

1899年5月25日、トロント・グローブ紙は、或る雌牛が二頭の子羊と一頭の子牛を出産したという記事を載せた。

フォートはこうコメントしている。「これが皆の心にどう響くかはわからない。だが標準的な生物学者はどうかといえば、私が『象が自転車二台と子象一頭を生んだ』と話しても、いずれも馬鹿げた話として五十歩百歩の扱いをするだろう」

古き良きフォートよ! 空に向かって進むんだ!(おしまい)