2011年08月

文科省が、いまさらながらセシウム汚染土壌マップ(リンクは朝日新聞記事)というのを出してきた。フクイチ100キロ圏の6月時点のデータらしい。
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(図表は朝日記事添付)

この朝日の記事によると、チェルノブイリ原発事故では555Kベクレル/平米を超えた地域は「強制移住」の対象になったんだが今回の調査でこの値を超えた場所は約8%に上った、とか、ちなみにチェルノブイリの汚染地図が完成したのは事故3年後であった、みたいなことが書いてある。

この手の「チェルノブイリの強制移住地域なみの汚染」という表現はしばしばネットなどにも出てきて俺たちを動揺させているんだが、上の記事にもあるように、そのデータは事故後かなりたった時点のものらしい。それにチェルノブイリのほうは確かセシウム137オンリーのデータであったはずだが、今回の文科省のデータはセシウム134とセシウム137の合算値のようだ。よって「両者の数値を比較する」というのはあんまり意味ないような気がする。

もっとも、朝日の記事についている図表(上図参照)をみると、これはセシウム137のみの数値をプロットしたもののようだ。まぁチェルノブイリとの比較を無理にでもしたい、ということであれば、こっちを見たほうがいいような気もするが、原稿のほうは一貫して134、137合算値のことをいってるようなので一貫性がない。読者をミスリードするおそれがあるように思う。

このへんの問題については、ホットスポットといわれる柏市在住の若手理系研究者の方のサイト「柏夜話」というところで文系にもわかりやすい冷静な解説がなされていて、一時期よく拝読したものなのだが、詳細はすぐ忘れてしまうのだな(笑)。

ちなみにこのブログの主の水琴さんによると、The International Chernobyl Project -Assessment of Radiological Consequences and Evaluation of Protective Measures-という1991年の国際調査の報告書があるらしく、ちゃんと読まねば、とずっと思っているのだが、なかなかできん。というわけで、とりあえずこの報告書の記載について上のページから引用させていただくのだが

このなかで、ソビエトが1990年に導入した移住プログラムについても述べられています。

(1)137Csによる地表汚染が、37~555kBq/m2の地域では、補償として15ルーブル/月。ただし、移住はサポートしない。

(2)137Csによる地表汚染が、555~1480kBq/m2の地域では、補償として30ルーブル/月。また、妊婦と子供は移住させる。その他の人々は、移住を望めばサポートする。

(3)137Csによる地表汚染が、1480Bq/m2~の地域では、全住民を移住させる。

ということです。

「強制移住」っつーと、「全員逃げ出せ!!」みたいなイメージがあるんだが、これを読む限り有無を言わさず移住しなさい、っつーのは1480Kベクレル/平米以上なんでないか?

まぁ、チェルノブイリに倣ったらOKとかいう問題でもないんだが、放射線を「正しく恐れる」ためには、正しい比較をするのが大前提だよな、と思うきょうこのごろ。

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さて、けさの朝日新聞。天声人語子が、近日公開の映画「ライフ」を観てきたと書いている。どんな映画かというと

「命をつなぐ」をテーマに、動物たちの生への執念を英BBCが6年かけて収めた。とりわけ打たれたのは子への愛だ

というハナシ。で、締めくくりはこんな感じである。

わが同類には知恵と情熱に欠ける親もいて、虐待事件が後を絶たない▼〈リボンつけしままに眠れる幼子を目守りつつをり泪ぐむまで〉大野誠夫。目元にあふれたのは、この子を命がけで守るという気負いだろう。どんな親にも本来、悲しいくらい純な愛が宿る。カエルやタコに教わることではない。

動物はちゃんと子育てしてて偉いんだが人間はどうよ、というのが結論であるらしい。最後に「カエルやタコに教わることではない」とか言ってるけれど、全体の文章の流れからすると、この個所は「カエルやタコに教わっちまったよなー。ホントはそんなことじゃいけないんけど」というレトリックであって、つまりこの方はカエルやタコを見習おうと言っているのである。

だが、ちょっと待ってくれ。動物の中にも「子殺し」はあるというぞ。たとえばゴリラ。ハーレムのボスを駆逐したボスは、群れの中のメスと前のボスとの間にできた子供を殺してまわる、みたいな話もあるらしい。まぁ人間界になぞらえていえば、離婚したコブつきの女が新しい男とつきあい始めたはいいが、新しい男は前夫の子供を事あるごとに虐待して最後には殺してしまいました、母親も別段それを止めずに傍観しておりました、みたいな話であって、なんかニュースでよく見聞きするパターンのような気もする。

ここで「なるほど人間もゴリラもダメだなー、動物って進化するにつれて堕落するのネ」みたいな反応をされるのも困るので言っておくのだが、ウィキぺディア「母性本能」によれば、一般的にいって動物の母親は「常に自分の子に尽くすわけではない」。天声人語子は、うるわしき「愛」ゆえに動物はわが子を守る、みたいなことを言いたいらしいが、冷静にみると、動物の行動を律するのは「じぶんの遺伝子を後世に残すこと」。例の「セルフィッシュ・ジーン」の考え方だ。だから、「いま・ここで」自分の子を見捨てることが長期的には「自分の遺伝子を残す」ために有効となれば、情け容赦なくわが子を見捨てたりもする、そういう話だろう。

まぁなんだ、「動物は純真な愛に従って行動するのでよろしいが、人間はゴーマンになってしまったので愛を忘れてしまった。反省しましょう」みたいな彼の説教は何となくもっともらしく聞こえるんだが、それは端的にいってウソなのだ。そういう言い方がお気に召さなければ、「あらまほしき幻想」といってもいいけど。

つまりだな、人間の倫理の根拠というものは別に動物界から引き出してくる必要はないのであって、「ダメなものはダメ」というロジックは自分たちで構築すりゃいいのである。その倫理というものは、別に本能に基礎づけられていなくたってアリなんであって、自前で四苦八苦して作り出していけばいいのである。苦しいけど。

今日の天声人語のヘンなところは、どっかに無謬の素晴らしき世界があって「そこに向けてわれわれも努力せねばナラン」といった、なんか無邪気というか、浮世離れした啓蒙主義みたいなものに完全に毒されているところなのだ。だからその議論が現実からすっかり遊離してしまったのである。

むろん、その背後に「啓蒙の先頭に立つのはオレサマ」的な、天声人語子のうぬぼれた自画像があるのは言うまでもない。

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自称超能力者のユリ・ゲラーが1970年代はじめに来日した時、テレビの生放送で「止まっている腕時計を取り出して握っていてください。念力を送って動かしてみせますから」と視聴者に呼びかけた。しばらくするとアラ不思議。全国から「時計が動いた!」と電話が殺到。「さすがユリ・ゲラー!!」という話になった。

しかし、よく考えれば何のことはない。当時の腕時計は機械式。視聴者が持ち出した時計の中には、油が回らなくなって止まっていたものもあったと思われるのだが、それを手の中で温めていたら、たまたま動くようになるものが出てきて当たり前。仮に全国各地で百万世帯がテレビをみていたとして、その中で時計を持ち出した家庭が100軒に1軒、さらにその時計が100個のうち1個という割合で動き出したとしたら、全国でカチコチいいはじめた時計は計100個。まぁ別に電話が殺到してもおかしくはないのである。――とまぁ、細部はやや違っているかもしれないが、こんな種明かしをどこかで読んだ記憶がある。と学会の本だったかな。失念。

こんな話をするのは他でもない、原発の放射線絡みで各地の人々の体にさまざまな「異変」が起きている――「鼻血を出す子が増えている」とか「出産が予定より早まる人が増えている」とか――みたいな話を蒐集してきては「起きていることをそのまま書いている」などといってネット上から広めてる人がいて、「あ、これ、ユリ・ゲラーのパターンと似てるよなー」と思ったからなのだった。

そりゃあ、そこそこ名の知れた人が「身に覚えがある人はご連絡を」なんて一般大衆に呼びかけたら、その手の話はいくらでも集まるって。血液型による性格判断をやってる人が、自分の本の読者にアンケートにこたえてもらって、「ほら、このアンケート結果みてよ。性格判断当たってるでしょ!」みたいなバリエーションもある。これは山本弘氏の本に書いてあった。でもそれじゃ全然「真実」に近づけないんだよなー。

ま、血液型とか念力とかなら笑い話で済むにしても、放射線絡みでその手の「都市伝説探し」みたいなことをするのはちょっとヤバイのではなかろうか。放射能は「正しく怖がる」ことが大事だというんだが、この種のノイズを排除していくことはとても大事だと思う。
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ここんとこ小林よしのりはどうも苦手だったのだが、「サピオ」9月14日号の「ゴーマニズム宣言」を見て、ちょっと唸ってしまった。「英霊にこたえ、保守すべきもの」と題する作品なんだが、これが意外にイイ!

原発事故で故郷を追われた無辜の人々を尻目に「いや、でも原発がなけりゃ経済が成り立たないだろ」論をぶっている自称保守派の人々にたいして、「いや、カネなんかよりもっと大事なものがあるだろ! 愛する故郷をみんなから奪っておいて、保守派がきいてあきれるゼ」(意訳)とタンカをきっているのである。先にNHKスペシャルでやっていた飯舘村レポートの内容なんかもおりこんでいて、けっこう泣かせる。で小林よしのり、そんなカネカネカネカネいいやがって、英霊に申し訳ないと思わんか、とゴーマンかますのである。

実はこのところ、同じ保守派といっても、反共を意識するあまりかアメリカべったりの戦後日本を肯定してきた従来の保守派に対して、「いや、もうちょっと民族の誇りをもたんといかんだろ」的な主張をする人たちもいて、けっこう内部で議論があったりするのだった。

そういう保守派内部の緊張関係みたいなものも当然小林の主張の背後にはあるわけなんだが、まぁ俺なんかも年をとるにつれて、やっぱり大事にすべきはパトリだよな、村の鎮守の神様を見捨てて故郷離れなきゃならん人の悲しさをどうしてくれるのよ、的なことをいわれるとグッときてしまう民族派的心性に毒されてきており(笑)、こういうベタというか直球ストレートの主張にもう簡単にヤラレてしまうのであった。

まぁそんなこたぁどうでもいいんだが、ともかく原発問題については、右派左派を超えてアンチの人々が共闘できる余地はあるんだよね。人間が積み重ねてきた経験知に信を置く保守主義のスタンスからすれば、人類史的スケールでいうとほんのつかの間われわれの前に現れただけに過ぎない原子力発電の世界は基本的に懐疑すべきもののような気もするし。そういう意味でもちょっと考えさせられる今週の小林よしのりであった。

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というわけで、夏の甲子園青森県代表(笑)として準優勝した光星学院ですが、野球部員たちの不祥事が明らかになってしまいました。部員自らネットに自らの武勇伝?を書き散らして自爆してしまったようですね。

飲酒、パチスロはじめとして、ジャーマネとの不純異性交遊?とかバリエーション豊かです。メディアではもっぱら飲酒の話がメーンのようですけど、ま、いってみりゃあいわゆるワルのしそうなこと総まくり的な感じですな。

ちなみに事の発端としては、2ちゃんのチア板で非リア充のみなさんがグダグダしていたところ、この学校の野球部のジャーマネが可愛いとかナントカ話題になり、いろいろ調べていってくだんの武勇伝に行き着いてしまった、という説が有力らしいようです。それはそれでお前ら凄いじゃんと言いたい。

で、俺の言うことは今回もステレオタイプなのですが、「青春の汗と涙と感動の中で生きている高校球児」みたいな幻想と、げんじつに甲子園に出てきてる高校球児の実像が、もうあまりにもかけ離れてるからこういう悲喜劇が起こってしまうのですね。

青森あたりの田舎の私立高校が、さてこれから少子化の時代どうやって乗り切ろうかと考えたとき、まず思いつくのは「スポーツで名前売って生き残ろう」ってアイデアでしょう。で、手っ取り早いのは甲子園出場。都会の激戦地とは違って数回勝てば行けてしまうんだから、室内練習場とかちょっと設備投資して、それから野球のさかんな土地から「外人部隊」をかき集めてくれば、そこそこラクに達成できる目標ともいえます。

もちろん野球留学してくる連中の側にもメリットはある。大阪あたりの高校だと、相当なレベルだとしても勝ち上がって甲子園いくのは容易じゃない。田舎に行けばグンとハードルは下がる。甲子園に出られれば、大学にスポーツ推薦でいくのもラックラク(よく知らんがたぶんw)。万一大活躍でもしようものなら、プロからお声がかかるかもしれん(光星の実例=巨人・坂本)。チャンスじゃん。

というわけで両者の利害あいまって、今回の光星学院のようにベンチ入りする選手のほとんどが「外人部隊」という奇妙な青森代表(笑)ができちまうんですなー。学校側からすれば有望選手はメシのタネ。「生活指導」なんてちゃんとしているのかどうか。選手も選手で、いってみれば最初から打算に打算を重ねた上で地方に流れてきてるんだから、もう、そんな「清く正しく」なんてちゃんちゃらおかしい、ってなもんでしょ?

ま、そういうわけで、しょせん甲子園なんて、大学野球部やプロ野球のセレクションだよね、それはそれとして楽しめばいいよね、という割り切りができればいいんですよ。

しかし、ここで朝日とかが「地元の期待を背負って日々努力を重ねる熱き青春の息吹」みたいなキレイゴトの文脈を我々に押しつけてくるわけです。だからね、光星学院のみなさんも「なんで? そんなタテマエ通用しないよ」と心の内では思ってるに違いない。可哀想といえば言えないこともない。そもそもウン十年も前から、「実は甲子園にでてくる高校球児ってワルばっかりだよね」みたいな話はジョーシキ化してたわけだから。その乖離が、もう極限まできてると思う。

となりますと、「もう外人部隊みたいな高校野球ビジネスやめて、ホント地場産選手限定でしばるアマチュアの大会(笑)にする」、あるいは「清く美しい高校野球は絵空事なので、プロ志望者セレクション大会と割り切る」、潔くこの2つのどっちかにハッキリ決めりゃいい。個人的には後者のセミプロ高校生セレクション大会でいいんじゃねーか、と思っております。

そりゃ「クソ、セミプロ高校生ども蹴散らして公立高校頑張ってくれよ」と思ってはいるんだが、これって米軍に竹槍で挑むみたいなもので、もうそういう夢を語るのも虚しくなってきた。

どうです朝日新聞さん、この提案は。そうすりゃ、今回みたいな不祥事にどう対応すべきか、みたいなことで苦労することもありませんゼ。もう毎年毎年、この手の話でご苦労されてるのを見るのもしのびなくてネ(と悪魔の誘惑w)。











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ハインズ博士再び「超科学」をきる: 代替医療はイカサマか?

ハインズ博士再び「超科学」をきる: 代替医療はイカサマか?

  • 作者: テレンス・ハインズ
  • 出版社/メーカー: 化学同人
  • 発売日: 2011/08/25
  • メディア: 単行本



内容確認してないけれども、これは買いでしょうたぶん。装丁はちょっとナンだし(笑)、若干高いけど。
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8月10日のサッカー日韓戦はテレビで見てたのだが、試合結果はともかく、いまなおショーゲキ的だったなぁと思い返すのは、試合開始前の国家独唱で「君が代」を歌った男のあまりにもイタイ歌唱であった。この男の話はネットでも話題になったようで、こんなサイトがあった→「日韓戦でカラオケレベルの国歌斉唱を披露したアクアタイムズ・太志、あまりの酷さに炎上騒ぎに」

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で、コイツ何者かというと、ロックバンドAquaTimezのボーカル太志(31)、だそうだ。俺は全然知らんが紅白歌合戦にも出たことがあるらしい(つーか紅白なんて何年も見てないし)。俺は右翼でも何でもないが、やはり「君が代」を歌いこなすにはそれ相応の歌唱力がないとダメなのだ。一種呪術的な情念をコントロールできない歌い手でないと完全に位負けしてしまうのである。勢いで「君が代」を歌うと酷い目に遭ってしまうのだった。

で、上のまとめサイトを見ていたら、「一方にはこういう人もいるんだぞ」ということなのだろう、昨年の高校野球センバツ大会で、アカペラで見事「君が代」を歌いきった広島の女子高生(当時)の映像が出てきた。

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聴いてみると、まとめサイトにも書きこみあったんだが、ホント「君が代」専属歌手を務めていただきたいぐらいの貫禄・迫力。今は声楽家修業をしている野々村彩乃という女の子らしく、ググってみると個人サイトもある。やがて名をなすのではないかなぁ、この子。言っちゃ悪いが太志君との器の違いは歴然だ。そしておそらくそれは修練の差でもあるのだろう。

本当は恐ろしい「君が代」、といったところか。
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日本テレビのプロデューサーをしていて、原発事故後、なんか社の方針と衝突したとかいってフリーになったらしい木下黄太氏という方がいる。基本的に放射線被害をもっと警戒しろよ、という主張の方で、ブログとかツイッターとかで警鐘乱打してるようだ。

ブログはこちら→放射能防御プロジェクト 木下黄太のブログ  「福島第一原発を考えます」

ここで、ちと話は飛ぶ。「まもなく関東に大地震が来る来る来る」と何年も言い続けていて、たまさか(関東ではないが)大地震が起きたことで「この人当たる!」とか勘違いしてしまった信者が急増?し、その筋で有名になってしまった小林朝夫という方がいる。その発言を小生はここんとこずっとフォローしているんだが、それは地震や放射能を警戒するのはいいとしても、そういうインチキ予言を根拠にして「怖がる」のはきわめて危険なことであるからだ。

で、最近この小林氏が、福島第1原発の敷地内で「地割れ」が生じ、そこから蒸気が上がってる、これは地下に落ち込んだ核燃料がなんかすごいことになっているからだ、みたいなことを言い出している。あ、またデマかと思っていたんだが、実は先に挙げた木下黄太氏もブログで同じようなことを書いていたのだった。ソースは「福島第一原発の作業員」で、「メールで情報が地元関係者に届いた」のだという。「政府内の情報源」にあたってウラを取ったようなことも書いてある。うーん、と俺は考え込んでしまった。

街のインチキ予言者なら、まぁ許せる(いやホントは許せないんだがw)が、いちおう「ジャーナリスト」を名乗る人が、この種の怪しげな「情報」を広めるのはかなりまずいのではないか。少なくとも専門家に当たらないといけない。格納容器を破って核燃料が落ち込んでいる可能性はある。だが、それが熱源となって土中に蒸気を発生させ、地割れを起こし、噴出する。そのようなメカニズムは想定可能なのか? 何らかの「見間違い」の可能性はないか? そのあたりを詰めねばなるまい。平たく言えば、彼は「裏をとりきっていない」。

実は、以前からこの木下氏、ジャーナリストを名乗るにはいささか危うい人だと思っていた。というのも、この方、「首都圏でいきなり鼻血を出す人が増えている。これは低線量被曝の影響ではないか」みたいなことも書いていた。専門家のコメントも何もつけずに、である。そりゃ高線量を一気に被曝したら髪が抜けたり、鼻血が出たりもするだろうけど、話は首都圏ですよ、マイクロシーベルト単位の被曝でそんな急性症状が出るとは医学的には驚天動地の話じゃねーかと、まぁ素人の俺ではあるけれども、思ったのだった。

ちなみにこの木下氏、日テレ時代には確かオウム取材とかでならした人物のはずだ。そういう修羅場では、まぁ業界でいう「とばし」(裏を取りきらずに先走った報道をすることだな)はアリだったのかもしらんが、問題は低線量被曝の影響みたいな、ハッキリしたことのいえない世界で「こういうこともありうる、ああいうこともありうる」と吹いて回るのは如何なものか、という話である。

また脱線するけれども、内部被曝はスゲー怖いとか吹いて回ってるクリス・バズビーのECRRなんかだって、反原発サイドに立つ京大の今中哲二氏からは厳しい批判を浴びてるわけであってね、もう何でもかんでも危ない危ないといって回るのは違うと思うのである。

それこそ広瀬隆氏みたいに「反原発運動家」みたいなスタンスでそういう発言をするなら良い。だが、しかし「ジャーナリスト」の範疇というものはおのずからあるだろう。ただでさえメディアへの風当たりが強い時代である。使命感をもって仕事をなさるのは結構だが、そこんとこはちゃんとしていただきたい。


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頑固爺が世にもの申す系の、「唇からナイフ もしくは余計なお世話」というブログを発見したのだが、これがとてもすばらしいのでここに記しておく。

原発事故絡みでもいろいろ良いことを言っているんだが、心に染みいったのは、「脱原発で生活が心配か」というエントリーであるな。「原発が無くなったら暮らしはどうなる」という危惧の声に対して、このブログの主・偏屈ルキウス氏は、黒澤明『七人の侍』の村の長老のこんな言葉を対置する。「手前の首取られようってときに、ヒゲの心配してどうするだ」――。

まさにその通りである。
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「セシウム汚染:汚泥が満杯、自治体ピンチ 下水処理場など」という記事を毎日新聞が書いている。放射性セシウムが濃縮された汚泥が各地の浄水場などから大量に出てきているわけだが、埋める場所もないし、いったいどうしたもんやら、と各自治体が困っている、という話だ。

記事によれば、浄水場の汚泥は「14都県で約9万2000トン」、下水処理場の汚泥や焼却灰は「13都県で約2万7000トン」、それぞれ処分先が決まらずに浮いているとのこと。俺の家の近くにも都の下水処理場があるので、ホント他人事ではない。こいつは困った。

で、考えたのだが、もうこういう状況だし、政府は思い切って各地のゴルフ場を強制収用して、そこに処分場を作っちまう、というのはどうか。今となっては、ゴルフも決して金持ち階級の道楽とはいえないのだろうが、この狭い国であんなに場所をとるスポーツをするというのは、よくよく考えれば贅沢の極みである。

俺はあんまりつきあいがないのでよくわからんのだが、愚考するに、原発推進の旗を振ってきた我が国の「ベスト・アンド・ブライテスト」の方々は、おそらくこういう優雅なスポーツが大好きなのではなかろうか。とすれば、ノブレス・オブリージュというのは大げさかもしらんが、そういうエライ方々も、今回のような国難にあたっては自分の楽しみをいかほどかガマンして「よし、この際、ゴルフはあまりに贅沢に過ぎるので放射性物質の捨て場に転用することにいたしましょう」とか言えばいいのじゃないか。

もちろん経営者の方々には買い上げにご協力いただかんといかんし、周囲の住民の方々にも補償なり何なりをする必要があろうが、まぁゴルフ場の周囲はもともと農薬汚染ギワクなども持ち上がることしばしばであるからして、ある程度の理解は得られるものとする。総じてゴルフ場は人里離れた山のほうにあるらしいから、水源地への汚染の拡大などに気をつければさほどの問題も生じまい。

ま、よく考えれば、昔から人間というのは「畏れ多くて近寄りがたい土地」みたいなものを思惟してきたわけで、現代文明が生み出した負の遺産としての「忌み地」が21世紀に出現しても、それほど奇異ではなかろう。

「むかし、原発というものがあってのぅ、それが爆発したのじゃ。で、このあたりにも放射性物質が風に乗って飛んできたんじゃが、それが下水処理場とかに溜まりに溜まって、やむなく、Golfっちゅうスポーツをする場所だったこの山の中に、運んで埋めることになったんじゃな。人間がいかに愚かな生きものか。この汚泥の山をみるたびに、ワシはそうやって反省しているんじゃ」。で、こんな風に土地のジジイが語りついでいく、と。

ということで、とりあえずはコンクリートプールでも作って、汚泥を密閉しとけばいいだろう。ちなみに、25メートルプールの容量はだいたい400トンぐらいかな。で、さきほどの記事に出てきた、行き場のない汚泥等が現時点で約12万トン。ふむ、割り算するとプール300個に収まってしまうのか。

ちなみに国内にはゴルフ場が2300以上あるらしい。一か所で面積が100ヘクタールぐらいあるとすると、これは3000メートル×3000メートルみたいな感じだな。この中に25メートルプールの百や二百作ったって屁でもないのではないか。するってーと、仮に一か所100個としても2300×100×400=92000000トン=9200万トンの容量があるということで、おぉ、まだまだ余裕ありますな~。

とまぁ、こんな机上の空論を語ってみたのも、「けっきょく原発はこれからも動かしていくしかないありません(キッパリ」みたいなことをいうエスタブリッシュメントの皆様が、なんかこの状況に全然「痛み」とか「畏れ」を感じてみたいで腹が立つからなのであった。アンタ方はいまこの状況で何か大事なものを賭けているのか。自分たちの選択の帰結として生じたその災禍を何かのかたちで埋め合わせたい、みたいなことは思わないのか。せめてゴルフぐらいあきらめろよ。

なお、俺の中じゃあゴルフってぇのは、まだまだそういう階級の方々の娯楽だというハラがあるものだから、ここではあえてゴルフ場に敵役になってもらいました。じっさいにはゴルフ場が突如処分場になったりしたら、近くの人は「冗談じゃない!」って思うだろうし、安サラリーマンでも「いやゴルフはスバラシイ」とか言う人はいるだろうけどね、ここはひとつの思考実験ということで許せ。

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夏休みをとって長野県の実家に帰省してきた。いまNHKの朝ドラでやってる「おひさま」の舞台、いわゆる安曇野のあたりだ。

ちょっと脱線するが、俺の母親は昭和ヒトケタの生まれで、地元で小学校の教師をしていた経歴がある。井上真央がやってる主人公よりはちょっと下の世代になるのだろうが、主人公も教師をやってたという設定だし、当時の雰囲気を取材してシナリオに反映させようということなのだろう、かなり前にツテをたどってNHKの人間がやってきて、当時の思い出話を聞いていったそうだ。そういう意味ではついつい見てしまうドラマなのだな、あれは。

ついでにいえば、信州ネイティブではない出演者陣の中にあって、主人公の舅を演じている串田和美の信州弁は比較的板についているような気がする。流石というべきか。

閑話休題。ここで書きたいのはそんな話じゃなかった、この間、愛機(笑)DoseRAE2で測ってきた放射線量のことである。いずれも5分間ぐらいは動かずにいて、ある程度数値が落ち着いたところで出た数字なので、相対的な目安ぐらいにはなるんでないだろうか。

中央高速道談合坂SA 8/9午後
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安曇野。木造家屋2Fの窓際 8/10日中
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松本市内。ソバ屋の店先 8/10昼過ぎ
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大町温泉郷。とある旅館の一室 8/10夕方(なぜか高かった)
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同上。夕食をとった大広間 8/10夜
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信州・安曇野から大町あたりにかけては、基本的にフクシマから放射性物質が飛んできてないはずなので、このへんの数字は自然放射線のものだと思うのだが、花崗岩が多いせいなんだろうか、比較的数値が高い。江戸川区の自宅あたりとほとんど変わらんか、時に若干高めだったりする。こういうデータ↓もあるし、その辺はすでに折り込み済みではあるわけだが。

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というわけで、外部被曝のことだけ考えれば自宅周辺だってそんなに大したことないジャン、そうするとやはり問題は内部被曝なんだろうナというところに話は戻るのである。

もちろん身近なホットスポットの発見・警戒といったことも大事なので、ようやく少しは学習してきたのか、区内の学校周りの砂場で放射線測定を始めるといいだした江戸川区ももっともっと頑張ってくれないと困るゼというのは従前から言っているとおりだし、いまは夏休みではあるんだが、そろそろ学校給食の食材とかもちゃんとチェックしてもらいたいし。


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『慈悲の怒り』という本を書いた上田紀行は、ちょっと風変わりな文化人類学者だ。

この人、若い頃、スリランカにフィールドワークに行って「悪魔払い」の研究をした。田舎のムラの話なんだが、そういうところでは時折「悪魔」に憑かれる人がでてくる。で、どうやら悪魔は孤独な人に憑くらしい。だからそういう時、村人は悪魔払いの儀式をおっぱじめる。みんなで集まってドンチャン騒ぎ。たぶんそれは「お祭り」みたいなノリなんだが、あれこれ騒いでるうちに悪魔は去って、憑かれた人も元気になる。

たぶん、こういうところでは誰もが人間の弱さを知っている。誰もが孤独になって、病んでしまうことはある。でもそういう人間を救い出す作法を彼らは知っているし、実際にそうやって救い出す。人間の社会に本来ビルトインされている筈の、そんな知恵を俺たちも大事にしていこうよ――彼の言いたかったのはたぶんそういうことだったんだろうと思う。

処女作にはその人のすべてが現れるという説があるけれども、確かに彼の『スリランカの悪魔祓い』という本には、彼の基本的な問題意識がよくあらわれているようだ。年間3万人も自殺者が出てしまう国。「人間は取り換えがきく存在だ」と若者たちに思わせてしまう社会。そんなんでいいのかい? みんな悩んでるんじゃないの? ひょっとしたら、これって宗教者の出番じゃないの? 何とかしようよ! 彼はそんな議論をずっと続けてきた。そうそう、この人、「癒やし」というコトバを世の中に広めたことでも知られている。

で、この人が最近よく言っているのは、「人間って怒るべきときには怒らないといけないよね」という話なのだ。この世の中、明らかにおかしいことがある。そういう時には怒らないといかんだろう。というわけで彼は、あのダライ・ラマ14世と対談したときにそんな疑問をぶつけたのだが、さすがダライ・ラマ、「たしかに慈悲にもとづく怒りは大事だよねー」、そういうコトバが返ってきたのだった。

偉い坊さんとかは「そうそう怒りなさんな。そういうのは人間ができてない証拠じゃ」とか説教しそうなイメージがあるんだが、公然と不正がまかり通っているような時は「それはイカン」といって怒れ、というのだった。

そういう流れの上で、彼は今回、『慈悲の怒り』という本を書いた。原発の現場で命がけで働いているような人たちには応援を送るべきだが、しかし人間のいのちをどうも軽視しているとしかみえない東電首脳部とか政府とかに対しては、「こりゃ怒らんとイカン」と説く。しかも特定の「ひと」というんでなく、その「行い」、あるいは俺に言わせれば「構造」をこそ問題にしろ、というのだな。なるほどその通りだ、と思ったのだった。

ちょっと話は脇道にそれるんだが、そういえばこの前、釜ケ崎で活動している本田哲郎という神父が書いた『聖書を発見する』という本を読んだンだが、この人も日雇い人夫とか非常に苦しい生活を送っている人々と日々接しながら生きているわけで、やっぱり明らかにオカシイ不正とかには戦わないとイカンだろ、イエスの教えは本来そういうものなのだ、みたいな主張をしていた。ま、この人、カトリックの偉い人たちからは睨まれているらしいんだが、このときもなるほどぁと思ったナァ。

宗教というと、世間的には「こころの平和を説くもの」「社会を安定させるもの」みたいなイメージが強いんだろうが、宗教社会学の知見を俟つまでもなく、宗教は時に社会を変革していくパワーの源にもなりうるわけで、そう考えると「ケンカ上等」という局面もあって然るべきなのである。特に不正を糺すという大義がある限りは。

閑話休題。そうこうしているうちに、作家の丸山健二のツイッターに出会った。文壇のなれ合いを嫌って信州・安曇野(というか実際は大町のほうらしく、安曇野出身の俺としては安曇野というなよ、という思いはあるんだが)に一人こもり、創作に打ち込んでいる孤高の人。そのつぶやきを読んでみると、いちいち心に響いた。

 金さえ入ってくれば、原発であろうが軍事基地であろうが受け容れてしまうという生き方から派生する悲劇の数々。企業にたかり、国家にたかって生きることを自立した人生よりも優先させてしまうという堕落した精神。そして最も恐ろしいのは、かれらにそれ以外の選択肢がないと思い込ませる洗脳の力。

 資本家とその手先である為政者たちは、国民を欺き、利用し、蔑ろにしているばかりか、この程度の知恵しか回らない、この程度の怒りしか覚えない、この程度の根性しかない連中など御しやすいものだと、そう高をくくっている。さもなければ、この期に及んであれほど厚かましく振る舞えるはずがない。

 牛や豚や鶏のように、肉にされる運命をおとなしく受け容れる手はない。我々は人間であって、家畜ではない。やられっぱなしで死んでゆくことはない。徒死を迎える前に、せめて自分が人間であったことを知らしめようではないか。神妙な顔の裏であざ笑っている輩に一矢を報いてやろうではないか。


俺のような小者は渡世の義理やら何やらで、なかなかこうはできない、こうは言えない。しかし、そうやって譲歩に譲歩を重ねた結果が、今日の「フクシマ」を招いたのだとすれば、どうか。これは俺も俺なりに怒りの刃を振るわねばなるまい、それがたとえこんなショボいブログの中でふるう蟷螂の斧でしかないとしても。そんなことを俺はいま考えている。(完)


慈悲の怒り 震災後を生きる心のマネジメント

慈悲の怒り 震災後を生きる心のマネジメント

  • 作者: 上田紀行
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2011/06/17
  • メディア: 単行本



スリランカの悪魔祓い (講談社文庫)

スリランカの悪魔祓い (講談社文庫)

  • 作者: 上田 紀行
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/07/15
  • メディア: 文庫



ダライ・ラマとの対話 (講談社文庫)

ダライ・ラマとの対話 (講談社文庫)

  • 作者: 上田 紀行
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/05/14
  • メディア: 文庫



聖書を発見する

聖書を発見する

  • 作者: 本田 哲郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/11/27
  • メディア: 単行本



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朝日新聞といえば夏の高校野球。というわけで、あの手この手の宣伝をするのは仕方がないともいえるんだが、毎年毎年、いかにもわざとらしい宣伝を読まされる者の身にもなってほしいものである。

本日の「天声人語」も、またまた高校野球讃歌である。

例によって震災を乗り越えて出場する東北のチームに「心ゆくまで聖地を楽しんでほしい。その姿に、被災者も、我々にわか応援団も元気をもらう」とか、甘ったるいエールを送っている。でもさぁ、こういう「純粋な高校野球の世界」というストーリーを聞くたびにムカムカしてくるのである。「野球留学」の問題があるから。

たとえばこのコラムにも出てくる福島代表の聖光学院だって、俺の聞いてる範囲じゃ野球留学でけっこう生徒受け入れてんだよね。ベンチ入りの半分は外人部隊らしい。で、ちなみにこのコラムによると聖光学園、県内61連勝中だって。そりゃ強いよね。でもこれのどこが「福島代表」なんだろね?

いや、野球留学悪いとはいわんよ。でも野球留学って結局、野球の弱い県に留学すれば「甲子園への近道」だよなーっていう打算的なガキ(ないしその親)と、「甲子園に出りゃ宣伝効果で少子化時代の生徒集めもバンバンザイ」っていう地方私立高の思惑があいまっての、いってみりゃ「ビジネス」だろ?

そりゃ、たまたま福島にやってきた外人部隊のガキどもにしたって、実際に震災に遭ってんだから、大変だったろうなぁご苦労さん、とは思うぜ。でもなー、何か高校野球がいかにも欲得ヌキのピュアな世界である、みたいなのは明らかなフィクションなんだからさ、もうそういうカマトトやめてくれよ。世の中の苦い真実みたいなのものを直視しないから、アンタの「天声人語」は嘘くさいんだよ。偽善的なんだよ。

もちろん、外人部隊のガキの皆さんが「じゃあこれも何かの縁だ。高校出ても俺は一生福島に住んで復興に頑張るぞ!」と言い出したら、そりゃまぁ俺も「走れメロス」に出てくる暴君ディオニス王よろしく改心して、「あぁ人間って本当はすばらしい」とかいって真人間に戻りますんで、そんときはよろしく(笑)。
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俺は今回の原発事故にかんして、最初、これまで積極的に原発を止めようとしてこなかったあらゆる人々(それは当然俺を含む)に応分の責任はあると考えていた。確かに原発を推進してきた連中に「欺されていた」という言い方はできるのかもしれない。が、一方には「やはりあの技術は危険である」と必死に説いて回っていた高木仁三郎みたいな人々もいたのだ。彼らの言葉を真剣に受け止めず、「問題はあっても、まぁどうにかこうにか事故は起こさずにやっていくんだろうサ」とたかをくくっていた人間にはやはり責任があるはずだ、と思った。

その報いはやはり受けなければなるまい。たとえば人工放射線の年間被曝量を安全圏といわれている1mSvに抑え込みたい、といった考え方は、今となってはいささか厚かましいと思ってきた。もちろんそのような「選択」に一切かかわってこなかった者たち――たとえば子供たちに罪はない。彼らがそのような被曝を甘んじて受けねばならない筋合いは全くない。政府・自治体は一刻も早く、子供たちの安全を確保しなければならないと思う(もちろんそれが絶対的安全などというものではなく、相対的な安全でしかありえないのはとても悲しいことである)。ただ、心の底には「少なくとも俺のような人間に、東電を悪の権化のように罵る権利があるか」といった、どこか醒めた思いがあったのだった。

しかし。何か違うのではないか、という思いがいつからか心中に兆してきた。きっかけは何だったのだろう? 東電の重役が給与の半分を辞退すると言いだし、それでもなお彼らは年間3000万だかのカネを手にするのだ、という話を聞いたときだったのかもしれない。それはあまりにも分りやすい絵図だったから。ともかく、やがて「やはり原発はなくすわけにはいかない」といった議論が、最初はおずおずと、そして徐々に声高に語られるようになった。政界から、経済界から、メディアから。

8万人とも言われる人々が故郷から引き離され、流浪の生活を強いられている。このたびの原発事故の検証もまだ緒についたばかり。何も終わってはいない。なのに、なぜそう先を急ぐのか。彼らの言いぐさはこうだ。曰く、「日本には原発のような安定した電力源がなんとしても必要だ」「原発が稼働できなければ電力料金は値上げ必至である。そうすれば企業は国外に脱出するしかない」「原発がなくなれば多くの人たちが路頭に迷ってしまうであろう」

こういう言葉を聞いていて、俺は思ったのだった。俺たちは「これまでの自分」を反省すべきだ。が、ともに深く反省してほしい「彼ら」は、実はなんにも反省していなかった! これは怒らねばならないことだ。放射性物質で国土を汚し、数十年、いや今後の展開次第ではあるいは数百年先までのわれわれの暮らしを脅かしてしまったことについて、彼らは「畏れ」など微塵も抱いていない。結局、考えているのは「カネ」のことだけだった! その論理で恫喝すれば大衆はまたあとをゾロゾロついてくる、といまだに考えているのだ!

冗談じゃない。確かに俺みたいにとりたてて何の才能もない人間は、村上春樹みたいに海外の別荘渡り歩いて好きなこといってそれで恙なく食ってけるような才覚は全くないんで、こうやって恫喝されたら返す言葉がない(注:偶然ここに迷い込んだ方は、なぜここで村上春樹が出てくるかわからんと思うのだが、その辺はココを読んでいただければ)。それはそうなんだ。ふだんなら黙りこむしかない。でも、もはやコトは人間の尊厳にかかわることなンだ。

ひょっとして俺たちはビンボーになってしまうのかもしれない。でも彼らの論理は、話の順序が逆じゃないか。食べ物に不安がある。公園のベンチに座って、その辺を転げ回って遊ぶ子供を目で追うような喜びも味わえない。平穏に生きる生活の基盤が壊されつつある。それは決定的にマズイことじゃないのか。そういう不安をとりあえず払拭できる方向に物事を運ぶ。それが始まりであるべきじゃないのか。それより何よりカネ、でいいのか。

とまぁ、そんなことを考えはじめるきっかけを与えてくれたものが、あるといえばあったのだ。たとえばそれは文化人類学者・上田紀行の著書「慈悲の怒り」であり、作家・丸山健二のツイッターであった。(つづく)
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何か最近とみに怒りっぽくなってきたような気がする。

で、つらつら考えてみたんだが、まぁ人間の一生というものを思うに、人が最も怒りっぽくなるのは青春時代ではないか。

自我が発達するとともに、ふと気づくと「なんだこの俺を取り巻く世界の腐敗ぶりは!」とかナントカ、突如目覚めちゃったりして、親や社会に反抗を始める。場合によっては道路の敷石を引っぱがして機動隊に投げつけたり、火炎瓶を作ったり、大学の講堂を占拠しちゃったり、果ては悪い教祖にあおられて毒ガスを作り始めたりするのである。

ところが、まぁ例の全共闘世代が象徴的なんだが、この「革命」に敗れた若者たちは「♪就職が決まって 髪を切ってきたとき/もう若くないさと/君に言い訳し」たりして、このクソツマラン社会に迎合して生きていく術を覚えて、で、かつての怒りを忘れちゃうのだった。もちろんその怒りが見当違いであって、周囲からみると失笑モノという例は多々あるわけだが、しかしともかく青臭い議論をスッパリ止めるというのは、「生きるため」にそーゆーことを封印せざるを得ない事情もあるのだった。

だが、しかし、中年の俺が怒りっぽくなってきたのも道理、というところがあってだな、つまり総じていうと年寄りは再び「怒りっぽくなってくる」のである。短気になってくるのである。

そのあたりにはもちろん生物学的な衰えとかがあって、思うようにならん体を引き摺っていかんとならんのでストレスが溜まる、とか、諸々の事情これアリかとは思うのだが、そこには社会的背景もあると俺は睨んでおる。つまり年を取るということは、会社員とかであればもうそろそろ引退を意識し始めたりすることを意味するのだし、じっさいに退職するということになれば文字通り会社の桎梏とかから逃れ出ることにもなる。

そもそも人が「怒り」を忘れるのはオトナになって社会的なしがらみに絡め取られていくからじゃないかと言ったわけだが、ならばそれまで生きてきた「社会」からフェイドアウトしていくことは、再び「怒ってもいい」環境に置かれることと同義なんではないか。

記憶違いであればナンだが、確か作家のなだ・いなだなんかが「老人党」とかいって「社会にもの申す」みたいな活動をしているのも、「これまで差し障りがあってイロイロ言えなかった人も、引退したら話は別。年寄りこそ世の中に自由に発言していける存在なんだから頑張ろうゼ」みたいな発想に根ざしていたんじゃなかったかなぁ。

といったワケで、まぁ俺自身もそろそろ人生先が見えてきたし、なんか諸方面に義理立てして「まぁそこはことを荒立てないで」的にコトを丸める処世術は如何なものか、やっぱり怒るべきは怒らんといかんのじゃないか、と考え始めているのだった。もちろん、とはいいながらこんなブログであっても匿名で書いているというのは全然ハラが固まっていない証左であって、情けない限りではあるんだが。

そしてもう一つ、最近「人間、怒らにゃならん!」と切に思うようになった理由がある。例の原発の問題である。その辺になると話が長くなるので、また回を改めて書いてみたい。(つづく)
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