2011年10月

どうも最近新聞など既存マスメディアに世間の風当たりが強い、っつーかマスメディアが国民の信を失いつつあるような気がするのだが、これはなんでか。ちょっと考えたことがあるのでメモっとくか。

一つの仮説なんだが、これは記者でもディレクターでも何でもいいんだが、「情報の送り手」たちが「この問題は絶対に伝える価値があるし伝えなきゃならん!」みたいな自らの中心軸を失ってきてるから、じゃないのか。まぁいささかベタな議論ではあるとは承知してはいるんだが、何か自分の信念とか人生観とか、そういうとこに根ざした言葉はやはり強い。反発を買うこともあるンだろうが、そういう深いところから発しているものは良くも悪くもひとの魂に突き刺さるんでないか。

むかし朝日新聞に本多勝一という名物記者がいた。ベトナム報道とかあるいは日本の中国侵略の問題とかをルポして、ある意味、日本を代表するジャーナリストと称されるまでになったわけだが、左派からは支持されるものの右派からは蛇蝎の如く嫌われるという毀誉褒貶の多い人物であった。これなんか象徴的で、つまり冷戦時代にあって、彼なんかは心の底から「米帝よ反省しろや!」みたいなことを叫んでいたワケで、もちろん今になって「じゃあ対抗勢力としての社会主義陣営はどうだったのよ」というツッコミをするのは簡単なんだが、ともかく彼は命のかぎり信じるところのもの(というか彼が見切ったと信じた事実)に拠って強い言葉を発し続けたのだった(本多勝一については「リクルート接待問題」とかいろいろあるが、ここではそうした問題は措いておく)。

最近はどうか。オレが思うに、どうも報道にたずさわってる人間からそんな「信念」みたいなものは失われてしまったように思うのである(一部はのぞく)。もちろん「不偏不党」みたいなタテマエもあるので、アプリオリにある種のイデオロギーを是とするような姿勢はまずいけれども、重ねていえば「やっぱこりゃどう考えたっておかしいだろ」みたいな、プリミティブな怒りとか憤りとかそういう感情に支えられない言葉はどうにも弱い。体温が低さが如実に伝わってきてしまう。


そういやぁ、こないだの鉢呂経産相の「死の街」発言事件も一連の報道は実に醒めた調子だった。新聞とかの記事を読んでも、決して「こりゃ絶対許せん!」みたいなトーンで書いてるわけじゃなかった。そのあと「そういや記者たちに向かって『放射能つけちゃうぞ』みたいな発言もしてたぜ」みたいな話が蒸し返されて、合わせ技で鉢呂はトドメをさされたんだが、この「放射能つけちゃうぞ」の時点では記者さんたちはまったく問題にしてなかった。つまり、「この発言はマズイ」みたいなことは誰ひとり思ってなかったんだろうな。

つまりは、「なんとなく」報道して、「なんとなく」続報書いて、で、「あぁいつのまにか鉢呂やめざるをえない雰囲気になっちゃったね」みたいな感じ。他人事である。ネット界隈で「なんでこんなんでやめるんか! 言葉狩りじゃねーか」という反応が出るのももっともなのだ。メディア側が「いや、あの発言はどう考えたってまずい。100%鉢呂は辞任に値するッ」みたいに胸張って、つまりは確固たる信念をもって反論するんだったらそこにまた議論が発生するからまだいいんだが、そうはしない、否、できない。こいつはある意味で「俺たち実は何も考えてません」と言っているに等しい。受け手の側にしてみりゃ、こりゃ信用できなくなるわな。

なんでそういうことになってしまったのか。オレが思うにこれは「ペルソナ」の病なんだな。

ちょっと説明すると、社会の中で生きていく人間というのは、大なり小なり「ペルソナ=仮面」をかぶっていかなきゃならない。「××という会社に勤めていて、××という町に住んでて、子供が××人いる××歳の既婚男性」みたいに人にはそれぞれに様々な属性が賦与されているんであって、その場その場にあってその「ラベル」にふさわしい振る舞いをすることが社会的には期待されている。女装趣味がある男性がいたとして、しかし彼は決して会社に女装して出かけてはいかない。それぞれの仮面を適切な場面でつけかえる。そういう話だ。

で、こっから思い切り風呂敷を広げさせてもらう。もちろんTPOに応じて仮面を用いることは当たり前なのだ。ただし。もはや何か絶対的な規範なり基準点なんてものはない(ということになってしまった)このポスト・モダンという時代のせいなのかもしれないが、以前であれば「あ、たまたま今はこんなペルソナを被ってるけれども、これあくまでも仮面だからね」とうそぶいていた俺たちが、いまじゃ「あれ? これって仮面だっけ? ホントの自分だっけ?」とかワケ分らんことになってるんじゃねーか。俺ってホントは何を是とし、何を非として生きてきたんだっけ――そんなことさえわかんなくなってしまうのがペルソナの病であって、メディアもまたそんな病理に侵されつつあるんじゃねーか。

もちろんあらゆる商業メディアには大なり小なり「社論」みたいなものがあるから、最低限のところで分裂病的な事態は避けられてるんだろう。でもメディアを構成するひとりひとりの人間のレベルにまで目を向けてみれば、そんな「社論」みたいなものが個々の実存の根っこに組み込まれてるワケじゃねーから、それだって幾つかある仮面の中のひとつ。けっきょく、魂に根ざした言説みたいなものはマスメディアから消え失せちまった、ってとこだろう。

さっきの鉢呂事件だってそうだ。あくまで推測なんだが、ほとんどの記者は「この発言がそんなに問題か?」とか思ってはずだ。だが、最初はおずおずとではあったけれども、連中は書いた。で、その思考の流れをたどっていくのは決して難しくはない。

「自分自身は大したこととは思わない」
「でも、これだけ政治家の失言が問題になる時代だ」
「よその新聞は書いてくるだろうな。ウチだけ落とすわけにはいかねえよな」
「しょうがねえから書いとくか」

現在のマスメディアの世間相場を横並びで互いにチラチラ確認しあい、いわば「仮面」に操られるようにして書いちまう。こうやって大したことのない「失言」が、いつのまにか「大問題」に仕立てられちまうわけだ。うむ、何か紅衛兵による吊し上げ、それが言い過ぎならチクリ大会と化した小学校の反省会(笑)みたいな世界。「ウチは書かない。各メディアが大騒ぎするようならその現象自体の理不尽さをメタ視点で報道する」。そんな見識があれば大したものだったんだが。

こんな時代だからなかなか難しいんだとは思う。が、日々迷う身ではあっても、一歩立ち止まって考えれば少なくとも鉢呂事件で騒ぎ立てたことの馬鹿馬鹿しさぐらいは誰でもわかるんじゃねーか。マスメディアはまだ終わってないと思いたい。
mixiチェック

井村宏次氏というと、1970年代以降ということになるのか、関西で「生体エネルギー研究所」という組織を作ってサイ科学の研究をしていた人で、かの松岡正剛氏の雑誌『遊』に登場するなどその筋では有名な人であった。オレの記憶によれば、阿含宗の桐山靖雄あたりが「キミも超能力者になれる!」的なコピーで名前を売っていた時代で、つまりは日本でも「精神世界」のブームが広がっていた時期である。

で、この井村氏であるが、その後も鍼灸師などをしつつずっと超常っぽい研究に取り組んできたらしく、ネットで検索すると雑誌なのかムックなのかよくわからんが「地球人」という出版物の編集に今もかかわっているようだ。「編集責任/帯津良一 企画編集委員/上野圭一 太田富雄 井村宏次」とあるから何となくそのトーンは想像できる。

実のところオレなんかは1980年代とかには何故かこの人に全く関心がなかったンだが、のちにオレが私淑している或る宗教学者の方が若い頃この人のところに出入りしていたという話をきいて「相当な人物だったのだ」と認識を改め、爾来なにか機会があれば本でも読んでみたいな~と思っていたのだった。

前振りが長くなってしまったが、さて。先日ふと通りがかった古本屋でこの井村氏の書いた『サイ・テクノロジー』(工作舎)を発見、購入するにいたった。主著であるらしいし、500円と安かったしな。今回はこの本を読んでの感想文である。

風呂敷はデカイ。西洋の分析的な思考ではとらえきれない宇宙の実相をサイ科学的な視点から再構築してみようじゃないの、みたいなスタンスである。で、それこそ鍼灸的な「経絡」とか「生体オーラ」「山オーラ」「音波オーラ」(ちなみにヴァンゲリスの音楽は青オーラだそうだ!)とか、その手のテーマをところどころ科学機器による計測データとかを差し挟みながら探っていくのである。「アトランティスの霊視」みたいな話まで出てくるのは如何なものかという気もするが、とにかく気宇壮大。もうひとつの科学としての「気の科学」を打ち立てねばならん、というわけで、「どんなもんじゃい! こちとらニュー・エイジだオラオラオラ」みたいな鼻息の荒さが感じられ、これが80年代だったのだなぁ~と感慨を禁じ得ないのだった。

そして、ある意味もっと面白かったのが、行間から浮かび上がってくる井村氏自身のたたずまいであった。オーラ視のできる人間を(言い方は悪いが)とっつかまえて仲間に引き入れる。で、いろいろ実験するンだが、「予備知識とかがあるとちゃんとした実験にならない」ということらしく、説明抜き、行き場所とか全く知らせないであちこち引っ張り回して実験実験実験みたいな雰囲気があったようで、周囲の人たちにとってみりゃ「困ったなぁ」ということもあったンじゃないかと思うわけだが、まぁそういうところを補うに足るカリスマのある人物なのだろう、ときおり現代社会を批判して悲憤慷慨するくだりなんかは文学青年みたいでなかなかイケてる。

で、コンテンツ自体についての感想。生活にくたびれ果てて人智を超えた不思議などなかなか信じられなくなっちまった中年男にしてみりゃあ、もちろん著者の語ることにいちいち「ご説ごもっとも」とか頷いていられないのは当然なのだが、時に理屈を超えて「何かそういうことってあるかもな~」と一瞬折伏されそうになってしまう瞬間があるんだよなー。たとえば彼が霊能者に未来を予知させる実験のくだりがあって、そこで能力者が漏らしたというこんなセリフを読んだ瞬間、オレはギョッとしたぞ。

「北日本は、人が住めない感じ……」(243頁)

北日本を襲うという凶作について語っていたときの言葉で、さらにいえば1980年代の予知らしいンで残念ながら「当たり」じゃないんだが、今読むとホント気持ち悪い。当たってはいなくても、なにかグサリと胸に刺さるものがある。無視してもいいんだが、しかしなんなんだコレは、というザラッとした違和感みたいなものが残る。

この手の超常現象というのは逃げ水のようなもので、いつまでたっても「その場所」には行き着けないものだと今のオレは思っている。だがその周辺には、いつだって「SENSE OF WONDER」というか「何かがある/いる」的感覚は漂っているのだ。そしてそういう世界のナゾに魅せられた人の生きざまというのも何か他人事とは思えないものがある。この本を読んでそんなことをオレは考えた。


サイ・テクノロジー―気の科学・気の技術

サイ・テクノロジー―気の科学・気の技術

  • 作者: 井村 宏次
  • 出版社/メーカー: 工作舎
  • 発売日: 1984/07
  • メディア: 単行本



mixiチェック

船橋アンデルセン公園で5マイクロ・シーベルト



 千葉県船橋市金堀町の「ふなばしアンデルセン公園」の一角で、市民団体が12日に放射線量を測定したところ、毎時5・82マイクロ・シーベルトが検出されていたことがわかった。



 市民団体によると、2階建ての施設の雨どいから雨水が流れ落ちる地点で、地面から1センチの高さを測定した。


 これを受け、市が13日午前、同じ場所を測定したが、1・41マイクロ・シーベルトだったため、再度調査を行うという。

(2011年10月13日13時18分 読売新聞)


ということで、このまえ江戸川区立の小学校に通う子供が学校行事でアンデルセン公園にでかけていった話を書いて、「なにも居住地より放射線量の高いところにワザワザいかなくたっていいだろ」とぼやいたところだったのだが、今日になってこんなニュースが流れてきた。

まぁ仮に雨樋下がホントに5μSv/hあったとしても、そこに何時間もとどまっていたわけではないし、まぁ仮に2時間バッチリ被曝したとしたって10μSv、いま住んでる場所で仮に平均0.1μSv/h程度被曝しているとすると一日で約2.5μSv/hだから4日分余計に喰らった程度、それでいえば「ただちに問題がある」ワケではないといやぁそりゃそうなんだが、重ねていうけれどもなんでワザワザ好きこのんでこういう場所に行くのか。そういう神経がわかんない、というのである。学校が悪いのか教育委員会が悪いのかわからんが、ともかく江戸川区のエライ方々よ、もうちょっとマジメにやってくれないだろうか。

むかしむかし、新田次郎原作の「聖職の碑」という小説があって映画化されたりもしたんだが、確かこの作品、子ども達が学校登山の途中に遭難するという話で、教師が発する「この子たちはわたしの命だ!」みたいな名セリフがあったと記憶している。そういうことを言える教師がいた、というか、「いたとしてもおかしくない」と考えられていた時代というのは、よく考えると凄い。

時代はすっかり変わってしまった。いまじゃ「聖職」という言葉も死語同然。親たちから尊敬されることもなく何かっつーと難癖つけられることばっかり多い教師の皆さんにしてみりゃあ、「子どもたちがオレの命、だって? んなわけねーじゃん。もうやってらんねーよ」みたいな気分になってもおかしくないとは思う。

思うんだが、しかし仮にも教育に携わっている人たちである、どっかに「この子たちはわたしの命だ!」みたいな思いがカケラでも残っていたとしたら、やっぱ「ちょっとこの時期、学校行事には慎重を期していきたいよネ」という発想になるんではないか。いや、やっぱり、もうこういうことを期待するのは完全にないものねだりなのか?

あえて問いたいッ。江戸川区の公立学校の先生方、それから教育委員会のみなさん、区内の子どもたちは「あなたがたの命」ですか? ・・・・・・あぁ違いますかそうですかヤッパリねorz

 【追記】

誰に話をもっていっていいものやらよくわからんので、とりあえず教育委員会のエライ人たちにイヤミを言ってみたのだが、せっかくだからメンバーの方々のお名前を記しておこう。

委員長 土田アイ子(元公明党区議会議員) 月額報酬31万1千円
委員長職務代理者 吉野弘保(保護者) 月額報酬25万2千円
委員 松原秀成(元校長) 月額報酬25万2千円
委員 早川大府(医師) 月額報酬25万2千円

データは江戸川区議・上田令子氏のブログから引かせていただきました。多謝。ここでも教育委員会サイドの「いや別に問題ないから俺らなんもしないよ」(意訳)という考え方が示されているので、関心のある方はぜひ読まれたし。

それからイヤミついでにもうひとつ、いや二つ言っておく。

俺は公明党や創価学会に偏見はなくて、世間にはイロイロいう人はいるけれども、いやけっこう貧乏人・弱者のために頑張ってんじゃねーの、という印象があったのだが、この区議OGの土田アイ子という人がこんな委員会の長にデンとおさまっているのをみて、「あぁやっぱり政権与党に入ったりいろいろあったせいなのか、公明党も権力側にいっちまったのかナ、残念だな、貧乏人の味方だった古き良き公明党よサヨウナラ」という思いを禁じ得ないのだった。

あと、この松原秀成という方は明らかに教育者でおられたようだから敢えて言っておくが、少なくともこの方の教育理念のなかには「この子たちはわたしの命だ!」といった語彙はなかったのであろう。まぁそんなこと考えてる先生は、功成り名を遂げて教育委員にまでご出世なさるなんてこたぁないんだろうけどね、このご時世。
続きを読む
mixiチェック

「UFOの怪光線で殺された」とされるニュージーランド人、エイモス・ミラーというのは実在した人物なのか?

amos_miller.jpeg

何のことかわからんという人はこのページを見てもらうと話は早いのだが、エイモス・ミラー事件というのは1968年にあった事件として昔からたびたびUFO本に出てくる話である。しかも,、ここにも貼っておくけども何かおどろおどろしい死体の証拠写真?が記事についてくるのがお約束である。ただなぁ、「あからさまにUFOに殺された」なんて事件がありゃ、こりゃ末代まで語り継がれるというか、そもそも国家安全保障上の大問題であって、ニュージーランド全土が恐慌状態に陥っても不思議ではないぐらいの大事件だと思うんだが、外国の文献などには一切出てこない(俺の知る限り)という実に不思議な事件なのであった。

というわけで、もう40年近く前になるんだろうかやっぱりこの話が載っていた南山宏「UFO事典」を読んで以来、エイモス・ミラーはオレの頭を占拠し続けている謎なのであった。であるからして、ここ数年、気が向いたときなどオレはインターネットに「Amos Miller」「New Zealand」「UFO」などと検索ワードを入れては実行キーを押しているのだが何もヒットしやしない。実話であれば英語圏の話なのだから何かしら引っかかる筈なんだが。

というワケで、オレ的には「どうやらこりゃ誰かが捏造した日本オリジナルのデマだな。人騒がせだなー」という心証が形成されつつあったのだが、ナントここにきて何気なくまた「Amos Miller」検索をしてみたら英語のウェブページがヒットしたではないか! ユリイカ! 何か昔の少年雑誌風イラストの下に事件の簡単な解説とおぼしき文章もついてる。というわけでさっそく読んでみたぞ。

チョコベーダーズ・コンタクティー・ファイル04

怪光線を撃ってきた!メロン頭のエイリアン

場所: ニュージーランド・オークランド

UFO: キャノピーつきUFO



1968年2月2日、牧場を経営しているエイモス・ミラーは、円盤形をした奇妙な後者が家に隣接した森に着陸するのを目撃した。ミラー氏は、息子が引き留めるのもきかず近づいていこうとした。そのとき、メロンを思わせる頭をしたエイリアンが奇妙な叫び声をあげて横から出現し、それから光線銃を撃って彼を吹き飛ばした。このあとすぐ、エイリアンはUFOに乗り込んで飛び去った。



このあとしばらく、ミラー氏はとても神経質な性格になってしまった。検査をしたところ明らかになったのだが、彼の体内からは大量のリンとカルシウムが失われていた。


ふむ。ミラー氏は即死したんじゃなかった? それに「メロン頭」とは初耳ナリ。ま、細部に異同があるのはよくある話だ……と一瞬思ったんだが、ん? 文末にこうある。「Artwork created by: Taishiro Kiya」。キヤ・タイシロウ? このナイスなイラストを描いたのは日本人ってこと? なんで? そこでふと気づく。そういや「チョコベーダーズ」ってなんじゃ? それにこのページ、市井のUFOファンのサイトかと思えばさにあらず、写真共有サイトFlickrなんだよナ…………………どうもアヤシイ。

で、しばしネット上で探索作業。その結果、案の定というべきか、ガックリと肩を落とすことになった。可哀想なオレ(笑)。おおむね以下のような話であるらしい。

▼その昔、キヤ・タイシロウ氏は友人のオカベ氏が経営していた「ビルドアップ」という会社でデザイナーとして働いてた経緯があり、その後、キヤ氏はハリウッドで一旗揚げようとLAに渡ったりイロイロあったんだが、2000年頃になると、この2人の間で突如「チョコベーダー・プロジェクト」始動ッ!!という話が持ち上がったのだった

▼というのも、当時の日本では「チョコ・エッグ」といって中に動物のフィギュアを仕込んだ食玩が人気になっていた(そういえば何かそういうのありましたなー)。その延長線上のビジネスとして彼らが考え着いたのが「チョコベーダー・プロジェクト」。動物のかわりに、「実話」にもとづいてUFOやエイリアンのフィギュアを入れたらいいんじゃねーか、というのがキモのアイデアで、彼らはUFO話をイロイロリサーチをしたらしいが、最終的には「この際、自分たちで作った話も入れちまおうや」というワケで、結果的に「創作ネタ」は全体の40%にも及んだとのこと

▼キヤ氏がこのフィギュアのデザインなど仕上げる一方で、オカベ氏は企画の売り込みに奔走。で、結局トミーと森永と組んだ食玩プロジェクトがスタート。最終的には「チョコベーダー」はゲームボーイのゲームとかにもなって、大成功をおさめたのであった

▼一方、海の向こうに住むAstronitさんは、この手のアヤシイフィギュアが大好き。ふとしたきっかけ?でこの「チョコベーダー・プロジェクト」を知り、コレクションを開始。遂には写真共有サイトFlickrにフィギュアの写真をアップしたりして自慢を始めたのだった

▼そうこうするうち、Astronitさんはキヤ氏とコンタクトをとることに成功。キヤ氏のほうからは、それぞれのフィギュアにまつわるストーリーとかイラストが送られてきたので、Astronitさんは得意満面(と想像する)。それらをFlickr上に次々とアップする。で、その中に例のチョコベーダーズ・コンタクティー・ファイル04「エイモス・ミラー事件」があった、というワケなのだった

注:このあたりのキヤ氏の回顧談はこのページに出てくる

AstronitさんがFlickr上で書いていることを総合すると、どうやら以上のような経緯らしいのである。ということになりますと、これは単に「国内に流布してきたエイモス・ミラー伝説が<逆輸入>のかたちで英語圏のウェブに登場した」というハナシであって、キヤ氏じしん「創作もありだよねー」っつぅ姿勢であったわけだから、つまり信頼すべきデータでも何でもなかったのである。

で、そういう目で「チョコベーダー」シリーズの48体&SP版4体のラインナップを見てみると、うむ、いかにもうさんくさい。「ウンモ星人」「3メートルの宇宙人」「ポプキンスビルモンスター」あたりはいいんだが、Flickrに載ってるNo.12「美青年型エイリアン」の説明文はこんなだぞ

チョコベーダーズ・コンタクティー・ファイル12

Satanから来たハンサム野郎(注:From Satanって書いてあるんだがSaturnではないのか? 「悪魔から来た」でいいのか?)

場所:デンマーク・コペンハーゲン

エイリアン:ハンサム野郎エイリアン

UFO:五角形



大学生のカレン・ヤコブセンにはアダムという名のボーイフレンドがいた。彼は知能指数が200というのが自慢で、運動も万能だった。1991年4月のある日、2人は彼女の家でコーヒーを飲んでいたのだが、そのとき突然アダムの髪の毛が全部抜けてしまった! そこでアダムは「僕はほんとうは惑星サタンから来たエイリアンなんだ。でも地球人に正体がばれてしまったからには帰らないといけない」と言った。それから彼はUFOに乗って飛び去った。その後、カレンは、アダムのコーヒーに砂糖ではなくて塩を入れていたことに気がついた。


ナイスである(笑)。ちなみに、イラストで描かれるHandsome Guyが、なんかモナーみたいな格好をしているのが秀逸。このほか、No.16「インパネスのエイリアン」・No.18「掃除機をもった怪人」・No.32「宇宙デビルガール」の説明文なども読んでみたいが、残念ながらAstronitさんのところに資料が送られてきていないらしく、アップされていないのが残念である。
(参考ページ:Wikipedia「宇宙大作戦チョコベーダー」

閑話休題。エイモス・ミラーの件は振り出しに戻ってしまったんだが、さて。やはりこの謎を解くためには、その情報源の一人、いまやUFOシーンの長老格となった南山宏氏に直当たりするしかないとオレは睨んでいる。

【追記】

なお、その後になって、民間有志の働きにより、この謎はほぼ解明されつつある。関心をおもちの方は、こちらのtogetterをご覧いただきたい。


【追記2】
なお今日は2021年1月13日なのだが、久々に来てみたらリンクが切れておった。文中にもあるようにこれはリンク先の「Flickr」のページに書いてあった情報をもとに書いたエントリーなので、ちょっと意味が分かりにくくなっているかもしれない。ご容赦あれ。
mixiチェック

というわけで、浅草キッドの玉袋筋太郎が、時と場合によっては、というか露出メディアによっては「玉ちゃん」とかいって出てくることについて、俺は憤懣やるかたない思いを抱いている。

そもそもこの芸名、ビートたけしから「蟻の門渡哲也」等々、有り難い候補を示されたあげく自ら選びとったとても有り難いものではないのか。バカにされさげすまれてもウケを狙う芸人根性の、その塊のようなこの芸名をなぜ粗末にするのか。そこそこ売れるようになれば「いやーw」とか言って照れるのもアリなのか。

むしろ旗よろしく正義を掲げた「言葉狩り」に、芸人が「まぁポリティカルコレクトネスというものもあるよねー」とかいって迎合していいのか。・・・ま、「アリだよね」ということなのだろうが、俺はなんか寂しいぞ。と、たまたまつけていたNHKの番組をみながら思う。




mixiチェック

いぜん買ったKindle3に加えて、このたび購入したスキャナーS1500、裁断機DC-210Nで機材も揃ったので、いよいよ自炊を始めたのであった。であるが、いまだ自炊手順を確立するにいたっていない。どんなフォーマットでスキャンするべきか。Kindle用PDFはどのようにして作るべきか。そのあたりで迷っている。

基本的には文庫本を自炊しようと思ってるのだが、けっこう古い本が多いので黄ばんでいる。で、スキャナーには白黒モードがあるので、これで取り込めば白黒2値になる、すなわち簡単に黄ばみが取れる。ファイルサイズも小さく済む。いいではないか。ちなみにS1500では白黒モードで出力できるのはPDFのみ。ということなので、とりあえず考えた手順は以下のとおりで、これで何冊か処理してみた。

【手順1】
1、PDFで出力
2、スキャナー付属ソフトのAcrobatで余白をギリギリまでカット(Kindleの画面は小さいので、ギリギリまで字を大きくしたい。ためにこういう作業は必須)
3、Kindle3に取り込む

だが、改めてKindle3上でデータを見てみると、上の余白、下の余白が不揃いである。スキャンするときに、やっぱり微妙なズレが出てきてしまうので、字に食い込まないよう上下ともカット量をミニマムにせねばならんから、どうしてもこういう体裁になってしまう。

で、どうするかと考えたとき、ChainLPなるフリーウエアがあると知った。Kindleの解像度にあわせ、かつ余白をギリギリまで自動カットしつつPDFファイルを出力してくれるというすぐれものである。ただし、入力するデータはJPEGでないとイカン。となると、スキャニングもJPEGですることになろう。つまり以下の手順。

【手順2】
1、JPEGで出力
2、ChainLPなどをつかって、ヒストグラムなどいじりつつKindle3向け解像度にしてPDF出力
3、Kindleに取り込む

グレーモードJPEGの出力となると黄ばみや裏写りも目立つようになるが、これはヒストグラム調整などで挽回可能である。ちなみに藤-Resizer-などのフリーウエアを使っても黄ばみ除去=白色化というのは簡単にできるので、ChainLPにかける前にこっちをかます手もあるようだ。もちろんPhotoshopなどを使ってもよろしい。が、そんなのは持ってない。

ただし、ここでひとつ問題があることに気づく。上記のJPEGコースなんだが、先に書いたようにこの場合は白黒モードは使えない。カラーまたはグレーモードの二択なので、ふつうの文庫本だとグレーモードを使うことになる。さて、このスキャナーは画質選択ができるのだが、最高画質の「エクセレント」は取り込みにかなり時間がかかるので、実質的にはその下の「スーパーファイン」がデフォルトとされているらしい。ところが同じスーパーファインで比べると、「JPEGグレーモード」で出力するファイルの解像度は「PDF白黒」より一格さがってしまうのである。

【手順1】「スーパーファイン+白黒」(PDF出力)→解像度600dpiで出力
【手順2】「スーパーファイン+グレーモード」(JPEG出力)→解像度300dpiで出力

つまり、とりあえずは上の【手順2】でいいんじゃねーか、と考えたんだが、白黒PDFにくらべるとスキャンしてできるファイルは若干質が落ちる。そもそも自炊というのは、紙の本にバイバイして、そのかわりデジタル画像を今後保存していこうという話なのだから、このスキャンして残す画像というのは極力質の高いものであってほしい。となると、「若干問題はあっても、高画質のPDFでスキャンしてそれを保存版として取っておく」というのがスジなのではないか、と迷ってしまふ。確かにPC上で拡大などしてみると、解像度600dpiの白黒PDFのほうが、解像度300dpiのグレーJPEGよりかなりクリアにみえる。

あるいは、そもそも自炊画像たるもの、黄ばみを消したりするために一度は画像加工しなければならないのだとすれば、多くのS1500使いは「取り込んだ時点でちょっとばかしプアな画像だって関係ないよ」といってJPEG解像度300dpiで出力している――つまり上の【手順2】で出力している――のかしら?


あるいはまだ試してないが、次のような手順のほうがいいのか? 手間かかるけど。

【手順3】
1、PDF白黒600dpiで出力
2、JPEGにいったん変換
3、加工したうえで再度PDF化
4、Kindleに取り込む

この場合は、JPEG変換&加工後のJPEGデータを保存版にすればいいのかな? あるいはこういう手も考えられるぞ。かなり時間はかかりそうだけど。

【手順4】
1、「エクセレント+グレーモード」=JPEG解像度600dpiで出力
2、ChainLPなどをつかって、ヒストグラムなどいじりつつPDF出力
3、Kindleに取り込む

しかし、ひょっとしたらJPEGとかPDFに変換するたびに画像は劣化するのかな? いったいどうすれば合理的なのか? 素人の悲しさ、いよいよわからなくなってきたので試行錯誤は続く。
mixiチェック

↑このページのトップヘ