2012年02月

巨人の沢村が、速い球を投げるにはパワーをつけないといかん、だから筋力をつけて体重を増やすのだ、などとさかんに言っているらしい。

古いプロ野球ファンとしては、「そういう考え方はありなのか?」と疑問に思うところではある。

俺たちのころ(いつのことだw)は、「一流ピッチャーというのはなで肩でないとイカン。筋骨隆々のピッチャーなど大成せん」と言われていたものだ。感覚的な話だが、何か「力任せに剛球を投げる」というのではどうしたって生きた球にならん、という常識があったやに思う。

もちろん今では「ピッチャーにウエイトトレーニングはアリだ」という風に常識が転じているのかもしれないのだが、なんか経験則的にいうと、やはり「筋骨隆々の名投手」というのはなかなか頭に思い浮かばぬ。というわけで、阪神ファンである俺は個人的にも沢村という男がなんとなくいけ好かないこともあり、彼の挑戦は失敗に終わり、かならずや二年目のジンクスに絡め取られるだろうとここで予言しておく。
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木嶋佳苗被告の話だが、愛人契約をして月150万円稼いでいた、と証言したそうである。

そういうショーバイは眉目秀麗な女性がやって初めて成立するものだと思っていたのだが、これが本当ならオレはこんな中年になるまで世の中を完全に誤解していたことになる。

世の中って、じつはケッコー甘かったりするのだろうか? 見る前に跳べとかなんとか大江ノーベル健三郎センセイもおっしゃっていたが、やってみればできるじゃないか、という世界がまだまだあるんだろうか? 裁判の行方とは関係ないところで、じつは励まされてる人おおかったりして。

人生いつまでたっても勉強することばかり。
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パオロ・マッツァリーノさんが「反社会学講座ブログ」で良いことを書いていたので紹介しておこう。

先に芥川賞をとった田中慎弥さんが、受賞会見で無愛想まるだしの応答をして時の人になってしまった(オマケに本まで爆発的に売れはじめてしまったらしいが)アノ件について、である。「私と純文学」というエントリー

 田中さんといえば、受賞後のぶっきらぼうなインタビューで有名になりました。私は田中さんの作品は読んだことありませんが、たぶん、変人なんだろうなと思います。それでいいんです。純文学作家は、人をイラつかせるような変人でないとダメなんです。

 受賞後のマスコミ報道を見てると、田中さんを、じつはいい人なのだという方向へ持っていこうとしてる印象を受けました。母親からいい話を引き出そうとしてたりね。田中さんご本人は、それ望んでるのかな。なぜマスコミのみなさんは、変人を変人のまま讃えてくれないんですかね。賞をもらうのはいい人でなきゃいけないんですか。むしろ、芥川賞は変人賞なんだ、変人を讃える賞なんだと認識を変えたほうがいい。

100%同意である。純文学なんてものは、世の中の常識とか良識をひっくりかえしてナンボ、である。揉み手しながら世間様のご機嫌取るようじゃお話にならないのである。むしろ「勝者」とかエスタブリッシュメントを震撼させるぐらいないと純文学に意味はないのである。

もっとも、あの変態小説「家畜人ヤプー」の作者は判事だったんじゃ?みたいな話もあるし、みた目は品行方正で真面目そうな紳士なんだが、文章書かせりゃ反社会性まるだし、みたいな作家もそれはそれで面白い。
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車で昔の岡林信康を聴いていてふと思ったんだが、1970年の前後、彼を筆頭とするフォーク歌手たちがプロテストソングを歌い出したっていうのは、実は当時としてはとんでもないメディア革命だったんじゃないだろうか(誰かがさんざん言ってるような話だが)。

もちろんそれまでにも添田唖蝉坊とかある種の社会批判を込めた唄をうたってた人々はいるにはいたんだろうが、70年代フォークっつーのは、ごくふつうに学生やってたような連中が「あ、そーか、フォークギター一本あれば、オレの考えてることみんなに伝えられるじゃん!」みたいなユリーカ体験をして、で、実際に街頭に飛び出していったという事象だったのだ。たぶん。

つまり、何もマスメディアなんかに頼らなくても「発信」はできることに気づいた。もちろん「わたしコード知りません」みたいな人間にゃあまだまだ敷居が高かったんだろうが、しかしガリ版刷ってビラ配ったり同人誌作ったりしなくても良くなったというわけで、ともかくもフォークソングというものが「自前のメディア」として発見された。

いまさら何でこんなことを言ってるかというと、そういや、この10年20年でウェブサイトからブログ、SNSにいたるまで、考えてみりゃあ「自前のメディア」はスッゲー進歩してるじゃん、もうギター弾けなくなっていいんだし、俺たちのこの数十年はまさに革命の時代だったんだなー、全然気がつかなかったけど、みたいなことを岡林を聴きながら思ったのだった。

俺たちは岡林から始まって、ずいぶん遠くまできてしまったようだ。加速度的に進む革命の時代。だがそれはこれから何を生み出していくのか? その辺になると中年にはなかなか見通せないものがあるんだが、たとえば東浩紀「一般意志2.0」あたりはその可能性をけっこうつかみ取ってるのかもしれないな。いろいろ批判はあるみたいだけど、「熟議があれば世の中良くなるって? 誰もそんなこと信じてねーじゃん」みたいなところまで俺たちは来ちまったんだから。

ともあれ、死ぬまでそんな景色の移り変わりを見続けていく。



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冷たい雨の降る日。都会の地下街をフラフラ歩いていると、柱の陰のあたりにしゃがみこんでいる浮浪者がいることにふと気づく。目が合ったわけではないが、何か一瞬、その男の寂しさとか心細さが伝わってきたような気がした。

そうか、彼には居場所がないんだ、と思う。いかに東京とはいえ、こんな日、ふきっさらしの場所にうずくまっているのは辛いだろうな。でも行く場所もない。

ふとオレ自身のことを考える。ここンとこ会社でも窓際的なポジションに追いやられていて、なんかちょっと居心地が悪い。ここはオレの居るべき場所なのかなぁと思ったりする。オレもまた「居場所」を失いつつあるのかもしれないな。もちろんそれは社会的な意味の「居場所」であって、帰るべき家とか家族とかはある。この浮浪者のように物理的な居場所まで奪われているのとは全然違うのだけれど。

しかしオレみたいに、そうやって物理的な居場所を確保したとしても、どこか不全感に襲われちまったりするっていうんだから人間ってのは厄介なものだ。「オレは社会から必要とされている」とか何とか、そんな手ごたえがないと不安になっちまうんだから。とりわけサラリーマンとかだったら、別にアンタがいなくなっても会社はあしたも平気で回っていくってことは誰だってわかってるはずなのにね。

悲しいけれどそれが人間というものか。だから「コンチクショウ」とか胸のうちでつぶやきながら、歯を食いしばって生きていく。


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最近なんとなく思ったこと。

琴欧洲が「注文相撲」をしたということで評判を一気におとしたらしい。で、某A新聞の投書欄をみていたら「高位の力士がそういうことをしないように規制せよ」みたいなことを言ってる人がいた。バカだなーと思った。

高い地位にある力士がそういうことをしてこなかったのは「誇り」とか「モラル」とか、あるいは「美意識」のゆえであって、別に「禁止されてるから」ではないのだ。もちろん注文相撲をする自由はある。あるけど、やったら「卑怯」とか「コスイ」とか言われる。それだけは嫌だとおもって、そういうことはしない。できるけどやらない。それが相撲の世界ではないのか。そういうことがわからない人間が出てきたとき、「禁止する」とか言い出したら、もうすでにその人間のロジックに巻き込まれてしまっているのだ。

あぁ、わかんないヤツもいるんだなヤレヤレ、ということでいいのではないか。

どうも最近、その手の「白黒ハッキリさせようや」的な雰囲気が世の中に満ち満ちてきているような気がするのだ。ルールをハッキリきめて、グレーゾーンの存在は許さないというのは、ま、正論といやあそうなんだがネ、年をとってきたせいもあるのか、「そればっかじゃ息苦しくネ?」とオレは思う。

早い話、オレなんかもいつも苦汁を飲まされてる「成果主義」(笑)みたいなものがあって、「はいアンタ10ポイント獲得ね。あ、そっちのあんたはポイントなしか。減点だネ」みたいな世界が広がりつつある。ますます世の中世知辛くなってるし、ビジネスの世界はまぁしょうがねーのかな、とガックリ肩を落とすわけだが、しかし相撲の世界までそういう話になっていいのか。

別にゴリゴリの保守主義者でもなんでもないんだが、しかし外国人には全然わかんないという「忠臣蔵」にかんして、「いややっぱりアリャ犯罪だから」のひと言で済ましてシンパシー全然感じない、みたいな人間ばっかりになったら日本はすでに日本ではなく、そんな国ではもうオシマイのような気がするのである。引かれものの小唄、とわらわば笑え。



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