2012年08月

ジャック・ヴァレ「マゴニアへのパスポート」はとても良い本で、とりわけ巻末付録の「UFO着陸の1世紀」は、19世紀半ばから1968年にいたる世界各地のUFO接近遭遇事例を簡単にまとめている点で、長いことその分野の先駆的試みとされてきた。

が、しかし、その事例集の中にはどうやらガセがかなり混入しているようで、とりわけ日本関係の事例はかなり怪しい。事例390、事例459、事例589が日本絡みの事例なのだが、これらはみな実に曖昧で、何を言ってるかよくわからない。

そんな中で、事例458は比較的具体的な記述のある唯一の事例である。こんな感じだ。

458. 1958年1月26日 16:00 島田市(日本)
非常に明るく輝く物体が、化学工場の多数の従業員の前で着陸した。彼らによれば、さらに複数の生命体がパラシュートもなしに空から降下してきた。彼らは奇妙な服を着ており、未知の言語でしゃべっていた。(「フライング・ソーサー・レビュー」1958年5-6月号より)

ふむ、この事件に限っては、何らかの出来事が実際にあったんではないか。そう思っていた。

ではこの事件の一次資料はいったい何なんだろうかとツイッターでつぶやいたところ、事例458の直接の出典である英国の「フライング・ソーサー・レビュー」に民間研究家のmagonia00氏があたってくれて、オリジナルのソースは静岡新聞であると教えてくれた。そのあたりのことはこのtogetterに書いてある。

有り難や、である。で、図書館で調べてきました。以下に見つけてきたそれらしき記事を貼ります。

その1。静岡新聞1958年2月1日朝刊3面
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その2。静岡新聞1958年2月3日夕刊3面
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こうやって種明かしされてみると、なんともあっけないものだ。しかし、いろいろと思うことがあるな。

英国で出ている「フライング・ソーサー・レビュー(略称FSR)」という雑誌は、今はどうなのかよく知らんですが、かつては相当に権威のある研究誌、というステータスを誇っていた(ような記憶がある)。いわば「世界に冠たるFSR」というイメージである。で、こういう雑誌に書いてあった、というとかなり信憑性が高いような気になってしまうのですが、今回の日本の事件についていうと、ちょっと危ういところもあったんだなーということがわかる。

この事件、おそらくは日本のUFOファンが「こんな記事でてましたゼ」とかいって、FSR本部に御注進に及んだのであろう。ところが、2日後に出た「違いました」という記事のことは、ちゃんと連絡しなかった。で、本誌にガセがしっかり出ちまった、という話だろう。FSRにしても、はるか極東の話だし、いちいち裏を取らなかったんですね。現場でちゃんと取材するという鉄則を守っていない情報はかなり危ないのであって、たとえFSRでも軽々に信用してはいけないことがわかります。

・・・とゆーことでまとめてしまってもいいんだが、

いやしばし待たれよ、

ここにはもう一つ大きな問題があるんではないか。

続報の記事が無視されてる点も不可解なんだが、そもそも「初報」の囲み記事自体、「コレかなり眉唾だから」というニュアンスで書かれている(ようにしか読めない)。ふつうの言語能力をもってる人間なら、こういうのを軽々にFSRに通報したりしないと思うのである。あと、FSRでは搭乗員が「未知の言語でしゃべっていた」という話になってんだが、これなんかもどこかで誰かが話を改竄しているわけである。現場も、隣接してるとはいえ島田市に変わっちゃってるし。

以上の状況証拠を踏まえて考えてみますと、もちろん推測の域を出ないのではあるが、おそらくは日本側の「通報者」が、確信犯的に「ちょっと筋の悪い話なんだけど、ちょっと話を面白く改竄して送ったら、天下のFSRに載っけてくれんでねーか」と考えたんではないだろーか。

まったくの想像ではあるが、仮にそんな推測が当たっているとしたら、UFO研究後進国の人間が、先進国たる欧米の人間に揉み手をしながら近づいていくという植民地根性をここから読み取ることもできるわけで、ポストコロニアリズム的視点から日本のUFO研究史を捉えることもあながち無意味なことではないのである(ってオイww)。

あと、これは別にUFOとは関係のない話なんだが、続報の記事には地元の坊さんが出てきて、狼狽する人々に向かって「慌てるでない。コレこの通り、これは単なるアドバルーンじゃ、カッカッカッ」と大笑する場面があるわけで(ないってォィ)、この頃までは地域に発生した怪異を地元の名刹(かどーかは知らんが)の坊さんが「おさめる」、みたいな構図を皆さん当然視していたんじゃなかろうか。今だったらどうか。こういうシチュエーションで坊さんお呼びじゃないだろう、たぶん。

ま、戯れ言はともかく、こういう新聞記事読むと、無造作に「火星人」とかいう単語が飛び出してくるあたり、なんか当時の空気がしのばれる。改めて調べてみると、初の人工衛星であるソ連のスプートニクが打ち上げられたのは事件前年の1957年10月だった。これに対抗してアメリカがエクスプローラー1号を打ち上げたのは1958年1月31日で、つまりこの大井川事件が起きた1月26日の数日後である。月面に最初の一歩をしるしたアームストロングは最近死んだばかりだが、この奇譚、実にアポロ計画なんかよりはるか以前のお話だったのである。

 【追記】

 なお、その後、ここに出てくる「磐石寺」についてググってみたのでメモっておく。正しくは「盤石禅寺」で、新聞記事中の「磐石」という字は誤記のようだ。このお寺、今も静岡県焼津市中島にあって、「東海道と川筋の往来文化」というページによれば「文明12年(1480)曹洞宗南明寺派の玉翁周琳大和尚により曹洞宗寺院として開創された」とあるから相当に由緒のあるお寺だ。戦国時代の武将として有名な山内一豊から送られた寺領安堵の書状なども残されているとのこと。
*その後、この「東海道と川筋の往来文化」というサイトは閉鎖されてしまったようだ。残念。

 事件は55年も前のことなので、おそらく現在のご住職は記事に出てくる梶田祖俊師の二代ぐらいあとではないか。となると、この事件が語り継がれているかどうかは微妙ではあるが、お近くの方は訪ねていってお話などうかがってきたら如何であろう(そんな好事家はいねーかw)。

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今回も天声人語批判じゃないんだが、夏の甲子園の欺瞞が浮き彫りにされるニュースがあったので、朝日新聞つながりということで念のためここに記しておこう。

閉会式の大会総評で、奥島孝康・日本高野連会長がとんでもないことを言ったらしい。ニッカンスポーツのサイトから引用してみる。

大谷見られず残念、高野連会長発言に抗議


閉会式での大会総評で甲子園がざわつくシーンがあった。奥島孝康日本高野連会長(73)が「地方大会では有力校が次々と敗退するなど、夏を勝ち進む難しさを痛感させられました。その中で全国大会に駒を進めた49代表は、記録と記憶に残る戦いを演じてくれました」と話した後、「とりわけ残念なのは花巻東(岩手)の大谷投手をこの甲子園で見られないこと」と異例の個人的見解を述べた。その直後から大会本部には「盛岡大付が岩手代表で出場しているのに失礼ではないか」という数件の抗議電話が寄せられた。大会本部の関係者は「ああいう場で申し訳ない」と、会長の発言について陳謝した。 [2012年8月24日8時29分 紙面から]



何度も書いていることを繰り返すようでナンだが、これまで高野連とか朝日新聞は、「高校野球は教育の一環」だとか何とかさんざん綺麗事を並べ立て、だからこそ野球部員が万引き事件でも起こそうものなら「連帯責任」で公式戦出場停止、とか、つまりはガリガリのアナクロ頑固ジジイのスタンスを墨守してきた。

ところがここにきて、例の「作新学院の部員が強盗事件を起こしたのにお咎めなし」という一件が象徴するように、「もう小うるさい能書きなんてやめたやめた、さぁ皆さん、超一級の高校球児のプレイを満喫して楽しんでくださいよ、明日のプロ野球のスターもきっといますゼ」とばかりに、盛り上がりさえすりゃ何でもアリ路線にひそかに舵を切っているのである。

で、まさに今回の高野連会長の発言であるが、語るに落ちた、というのか、奥島孝康サンは今回そのホンネをはからずも口走ってしまったわけだ。

俺なんかは、たとえば地方の無名の公立高校が並み居るセミプロ野球部を撃破して勝ち上がっていく、そういうストーリーのほうがよっぽど面白えや、と思うのだが、奥島サンは、やっぱり超高校級の一流選手がいっぱい登場して大会がおおいに盛り上がったほうがよほどいい、とお考えなのである。夏の甲子園が、プロ野球予備軍のセレクション大会になりつつある現状に「これでよし!」とお墨付きを与えているわけである。

であれば、奥島サンは一切謝罪する必要はなかろう。「無名の高校が快進撃、なんていうのより、超高校級のプロ予備軍が大活躍する試合のほうが見てえだろ? いいじゃん、それで」とハッキリいえばいいのである。ま、それと同時に「高校野球は教育の一環などではありません」とも言い添えていただければイイのである。朝日新聞にも、とうぜんそういう報道をしていただこう。

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天声人語ネタじゃないんだが、夏の甲子園が終わったので、あらためて朝日新聞の記事をみて嗤おうというエントリーである。

結果的にきょうの決勝戦、大阪桐蔭高校が青森県代表(笑)の光星学院を下して優勝したわけだが、それを報じる本日の朝日新聞の夕刊(東京発行4版)はなかなか面白かったぞ。

社会面は青森県代表(笑)の光星学院の健闘をたたえる記事を書いている。しかし、やっぱりウソは書けないから、たとえばこんなくだりがある。

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そう、主力はどう考えたって外人部隊、という事実は朝日新聞でも認めざるを得ないのである。まあエースピッチャーが地元・八戸出身の金沢君だったので、かろうじて青森代表としての面目を保ったと言えば言えないことはないンだが、しかし基本的に「仕事は野球」という外人部隊であるからして、地域の人が何か差し入れにきて「がんばってケロ」とかいって交流するような心温まるエピソードは残念ながらなかったようで、そのあたり、朝日新聞青森支局員の苦労を思う(苦笑)。

そりゃこの子たちが「じゃあ俺はこれからもずっと青森で暮らしてくぞ」とかいうんだったらね、俺もこんな辛辣なことは言わないんだが、どうせ連中は卒業したら大阪とか自分の地元に帰っていくのである。そういう意味じゃ、「田舎に行って甲子園出場にショートカット→ざまーみさらせ」という連中の腹の中はミエミエである。いや、実のところ、この朝日の社会面にもそのあたりの機微を伺わせる一節が、さりげなく書いてあったりする。

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そう、つまりこの北條君にとっての甲子園というのは、地元の名門・大阪桐蔭にフラれちまって都落ちを余儀なくされたけれども、「クソー今に見返してやる」って心に誓って、んで何とか頑張ってここまでやってきた、というストーリーなのである。「清く正しい高校球児」という朝日新聞の基本フォーマットとはちょっと違うんだが、むしろこういう一節のほうがリアリティを感じさせて心を打つ。かつて巨人を追われた三原脩が、はるか九州の西鉄を率いて日本シリーズで遺恨を晴らした、みたいな。

というわけで、「清く正しい高校球児」という幻想を称揚しようとするんだが、なかなかそういう風にはいかずに、むしろその背後にある高校球児のギラギラした野望みたいなものがどうしようもなく浮かび上がってしまったあたりに、この夕刊の記事の面白さがあるので、購読者の方もぜひその辺を味わいながら読んでほしい。

ちなみにこの夕刊の一面にはこんなことも書いてある。

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この太田幸司氏の発言は、もちろん「もう東北の高校野球を遅れてるとはいわせない」という意味なのだが、これを逆にいえば、今の時代、東北代表だ、北海道代表だとかいって地域の栄誉を担って甲子園に出て行くというタテマエは実質崩壊しつつある、ということでもある。別に島根県に縁もゆかりもない指導者・選手が、たまたま島根県で野球をやっている、みたいな世界である。

ま、しかし、大きな流れでいえば、別に「これはまずいよなー」「朝日新聞もいよいよ苦しいな」みたいな声はあんまり盛り上がっていないみたいなのだよ。そういえばロンドン五輪の卓球女子団体戦の準決勝で日本が戦ったシンガポールの代表なんかも、中国から帰化した選手ばっかりだったし、猫ひろしがカンボジア人になっちまった件もあったし、世の中そういう方向に向かってんのかな。グローバリズムの時代だし、とかいってな(笑)。

というわけで、「朝日新聞を嗤ふ」とかいいながら、客観的にみれば嗤ってるのは俺一人(笑)ということにもなりかねない状況もコレあり、なんかこんなこと書きながらチト哀しくなってきたりもするのだった。



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夏の甲子園もいよいよ佳境。勝ち進んでいた名門・作新学院は本日負けて惜しくもベスト4を逃した、などというニュースが流れてきた。しかし、「頑張ったのに惜しかったネー」などということは、生来ヘソマガリの俺なので絶対に言わないのである(笑)。

そう、作新学院といえば、こともあろうにこの夏の甲子園大会開会中、同校の野球部員が「16歳の少女に抱きついてけがをさせたうえ現金を奪う」という事件を起こして強盗容疑で逮捕される事件を起こしてしまったことで有名な学校である(話は横道にそれるが、この少年は女の子に抱きついてるんだから強盗罪プラスアルファで逮捕すべきではなかったかというのが俺の個人的見解ではある。ま、どうでもいいが)。

で、俺などは頭が古いものだから、「あぁこれはまずい。教育の一環としての高校野球だから、やっぱり仲間が凶悪犯罪を起こした以上、野球部はいさぎよく今後の試合を辞退して栃木に帰るんだろうな」と思って、高野連の対応を見ていたのであった。ところが大会本部サイドは今回、「個人の犯罪だから」とかいって、野球部にはおとがめなし。で、チームはその後も素知らぬ顔で試合を続けて今日に至った、という話である。

あれ?と思った。俺はこれまで、大会本部=朝日新聞が、たかがガキの野球をこれほどまでに大きく報道するのは、高校球児というのは純真無垢で努力精進を惜しまぬ青少年のカガミであるがゆえに、その清きスピリットを顕彰しよう――というリクツがあるからだと考えていた。

だからこそ、高校球児は清く正しくあらねばならぬ。イマドキのジョーシキからいえば古くさい「連帯責任」なんて概念をもちだしては、「あ、オタクの学校は野球部員が万引きしたから甲子園は辞退してネ」みたいな言い草を、さんざん振り回してきたのである。

いや、俺は別にこれを責めているわけではなくて、それはそれでいい、と思っていた。いかにアナクロでタテマエ的なものであれ、「青少年かくあるベシ!」とかいって揺るがない、こういう頑固ジジイみたいな人たちがいるというのはそれはそれでアリだと思っている。むしろ、こういうジジイみたいな連中は、社会にニラミを効かせるためにもずっと存在していて頂きたいような気さえする。

あぁそれなのに! 今回の大会本部の「ものわかりの良さ」は何なのだ? 「個人の犯罪」だって? じゃあ、これまで「連帯責任」をとらされて甲子園への道を絶たれてしまった連中は納得いかんだろうが? ダブルスタンダード、ってか?

つまり、である。これまで「清く正しい球児」というタテマエを追ってきた朝日新聞も、いよいよここにきて「そりゃもう無理だから、もういいよ、現実追随でいくよ」と白旗を揚げてしまった、今回の出来事はそういうターニングポイントだと思うのである。

むろん、朝日新聞が「まぁ大したことじゃないし~」とかいってコトを穏便におさめてしまい、つまりはこれまで掲げてきた「清く正しき高校球児」みたいなフィクションをおそるおそる(笑)今回引っ込めてしまった背景には、それなりの流れというものがある。

いうまでもない、これまで各都道府県の代表が激突するという構図でやってきた甲子園大会も、実際には田舎の学校に大阪あたりのセミプロ選手(笑)が大挙助っ人でやってきては自称「××県代表」で出場するパターンが当たり前になっているわけで、もちろんそれは(俺がいつも書いているように)少子化の中で学校のPRをしたい田舎の学校と、「甲子園への近道→プロへの登竜門」という夢を描いている、利にさとい野球小僧(アンドその親)の俗情が結託して生みだした状況である。

高野連=朝日新聞も、どういうお考えかはしらぬが、結果的にそういう「プロ選手セレクション大会としての甲子園」を結果的には黙認してきた(たぶん大会を盛り上げるためにはスターが必要であり、スターを生むためには「野球名門校」に頑張ってもらわにゃ、といった発想があったのだろう)。

ま、しかし、今回の作新学院じゃないが、こういう名門校は部員が100人からいるというから、「教育としての野球」もクソもない、そもそも指導者の目なんか届かんだろう。そのとどのつまりが、今回の事件である(というか、この捕まった野球部員にしても、こういうことをすれば野球部に累が及ぶのではないか、と一瞬考えなかったか、と俺などは思うのだが、ある意味で高野連=朝日もこんなクソガキに足元を見られたというか、舐められていたといえるかもしれぬな)。

というわけで、朝日新聞のタテマエも、「いいよいいよ」と現実に追随しているうちに根っこが腐ってしまった、という次第。

ならばもう、いっそのことタテマエは全部辞めてしまってはどうか。ベンチ入りしている選手以外が凶悪犯罪おかしてもお咎めなし。野球留学、大いにけっこう。ひたすら強さを競う。明日のプロ選手の卵を鵜の目鷹の目で発掘する大会。それでいいではないか。サイは投げられた、のだから。



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なんとなく目に触れたのでつっこんでおくか。

天声人語の書き写し 青森県八戸市立是川中学 2012年7月16日15時27分



 発売以来100万冊を突破した「天声人語書き写しノート」を、県内でも学習に採り入れている学校がある。八戸市立是川中学校(三上斉校長、生徒数142人)は毎朝、授業の始まる前の15分間を、表現力向上のために使っている。木曜日と金曜日は、天声人語書き写しの時間だ。



 午前8時。「デイリーハンドの時間です」という放送で、全学年7クラスの生徒たちが、一斉に書き写しノートを開いて鉛筆を動かし始めた。同校は「読み」「書き」「聞く」「話す」「歌う」を、「五つの表現活動」として力を入れている。「デイリーハンド」は、「読み」や「書き」の活動を指す。



 三上校長は「将来のキャリアアップのための基礎作り」と話す。最初は言葉ごとに短くしか書き写せなかった生徒が、文節ごとに長く書き写せるようになり、内容の要約もできるようになったという。継続することで集中力や国語力が自然と身につくので、受験にも役立ちそうだ。




 書き写しノートは、近くのASA(朝日新聞販売所)から取り寄せ、昨年秋から学習に採り入れている。注文は、3冊(630円=税込み)から、近くのASAか、青森県朝日会(017・743・9797)へ。

日本列島に幽霊が徘徊している。「天声人語書き写しノート」の幽霊が(笑)。

こんなものを奴隷宜しく書き写すんじゃなくて、自分の頭で考えろよ八戸の中学生。文章を「長く書き写せるように」なったら偉いのか? 「権威」の言葉をオウム返しに語れるようになったら偉いのか? ここはひとつ、キューブリックの「時計じかけのオレンジ」でも見てきたら如何か

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むかしむかし、高校生だったときぐらいから経済学というものには「偏見」があった。

端的にいうと、「人はパンのみにて生きるにあらず」という、若者特有の気負いまじりの、何かそういう思い入れがあったのだろう、「経済学だと? そんなもので人間はわかんねーよ」とかうそぶいて、で、大学も文学部に進んでしまったのだった。

だがしかし、年をくって、老後の年金はどうもあんまりアテにならないかもしれないとかいって脅かされるような身分になってみると、やっぱり人間はカネで動くよなー、これデフォルトだよなーと痛切に思うようになった。

宗旨替えしたわけではないのだが、そもそも人間は基本的に「自分の利益」のために動くものである。まれに「いや、これはオレにとっては損なのかもしれないが、敢えてそっちの道をいく」といって行動する人もいるわけだが、そういうのは社会全体からみるとごくごく少数派。例外である。「われわれの社会」を考えるときには、とうぜん、こういう「人間は自分がトクなように動く」という大前提に従って物事を進めていかねばならないのである。

という風に考えてみると、経世済民の学=経済学とはよくいったもので、「世の中」の制度設計とかそういうものは、すべからく経済学的思考にのっとって進めねばならないのだろうな、と、なんか棺桶に片足つっこみはじめたジジイになって悟ったのである(笑)。

で、改めてそういう立ち位置にたってみると、いろいろと見えてくるものもある。

たとえば、ワタミの社長が「クラスでいじめが発覚したら担任教師の給料を下げるべきだ」とか言ってるらしい。なるほど、そういう話になったら教師だって奮い立って「ああそうか、じゃあ絶対いじめはさせないぞ」と考えるはずだ、という議論らしいンだが、待てよ、教師だって人間なので、ますは自分の「トク」というものを考えてしまうのではないか、そもそも「いじめ」というものが人間の社会にあってはどうやったって自然発生してしまうものだとすれば、いじめ発覚=減給という仕組みを作ったとき、教師は自らが知るにいたった「いじめ」を隠蔽することになるんではないか。

とまぁ、この小ずるい人間というヤツが寄り集まって、それでも何とかうまくやっていくためには経済学の知見は実に有益であるのだろうが、しかし今や数式必須の学問となっているという経済学である、きちんと学び直しをするにはいささか遅すぎるかなぁと苦笑する、夏の日の昼下がり。


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WOWOWでやってたので、つい見てしまう。

やはり邦画屈指の名作である。

主人公・渡辺勘治に扮した志村喬の名演(あの目をカッと見開いてまったくまばたきをしない演技!)は勿論であるが、小田切みきの輝きったらどうだ! 自分の親とおなじぐらいの世代で既に鬼籍に入っている人に言うことではないけれども、AKBの隅っこにいるような小娘なんかには負けない魅力をはなっておるぞ。

もちろん、助役を演じた中村伸郎のクソ憎たらしさといったらないし、いつもながらの左卜全、鶴太郎がよくモノマネしていたことで知られる浦辺粂子をみられるのも素敵。

で、よくよく考えると、この映画に出てた主立った俳優で、存命なのは昭和元年生まれの菅井きんぐらいしかいないのではないか。昭和は遠くなりにけり。

まぁしかし画質ボロボロでもこうやって60年後にひとを感動させたりできんだから、やっぱ映画というのは凄いものである。関係ないけど、むかしから映画監督が美人女優と結婚しちゃったりするケースは多いわけで、これもまた映画というマジックの力なのであろう。以上、チラ裏であった。

(しかし、この映画ポスターはどうにかならんものか。中居正広みたいなのが笑いながらブランコに乗ってるし、隣りには何か野人みたいな生物の姿ハッケン。今みると何か悪い冗談っぽくて、引いてしまうぞw)
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私的備忘録として。積ん読必至であるとしても。


ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

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もひとつ追加。


宗教概念あるいは宗教学の死

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けさの天声人語がまたまた奇っ怪なことを書いていた。

ロンドン五輪終幕を受けての話であるが、男子サッカー日韓戦終了後に韓国選手が「独島はわが領土」という紙を掲げてオリンピックに政治をもちこんでしまった残念な一件などをひいて、最後をこう締めくくっている。

次の聖火がリオの空にともる頃、世界は少しは前に進んでいるだろうか。日韓はうまくやっているか。それもこれも、人の肉体ではなく意思一つにかかる。例えば100㍍で9秒5を切るより、ずっと易しいはずだ。


解説すると、世界の宥和というのは意思一つあればできるものであるから、実際に肉体を鍛え上げねば達成できない「100㍍で9秒5」よりはたやすい、と言っているわけである。

一読して、エッ?と思った。「100㍍で9秒5」が来る日はあっても、紛争のまったく無い世界、日韓が仲良くやってる世界なんてのはたぶん100年200年たっても実現しねーだろーなー、というのが真っ当な知能をもっている人間の常識ではないだろうか? それと正反対のことを言っているぞこのおじさんは。

こういうところに天声人語子の人間理解の浅さが出てしまうのだ。

そりゃ世界平和は「意思一つ」の問題といえば言えるかもしらんが、人間同士がその「意思を一つにまとめる」というのが如何に難しいことか。5人10人の集団でさえそうなのだ、ましてや事は国際政治のレベルである。

ある意味で、「オレタチ」と「オマエタチ」がどうしても仲良くできない、というのは、おそらくは何万年にも及ぶ人類の歴史の中に刻まれてきた、ある意味で人間の宿痾ともいうべき性格なのではないだろうか。それを「意思一つ」の問題で片づける。本気でそんな書生論が通用すると思っているのだろうか。

むしろ「100㍍で9秒5」のほうが遥かにたやすい、と俺は思う。確かに人類の中でも傑出した才能をもつ人間が、さらに血のにじむ努力を重ねた上でようやく成るか成らぬかというレベルの話ではあろう。が、「そのために何が課題になっているのか」といったあたりは、スポーツ科学の力なども借りて理詰めで進めていける部分が相当あるはずなのだ。そして「敵」がハッキリしている戦いほど戦いやすいものはない。

結局のところ、天声人語子は「意思一つの問題なんだから、世界平和のほうがたやすいはずだ」という素朴な願望をここで語っているに過ぎない。信仰告白である。が、しかし、お祈りすれば何でもかなうほど世の中は甘くできていない。上っ面の美辞麗句で世の中は動かない。お願いだから、もう少し勉強をしてほしいものだ。

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ロンドン五輪の場合、時差の関係で、日本時間でいうと朝刊最終版の締め切りギリギリ(日付が変わった午前1時過ぎですな)に結果が出ることが多い。

注目の選手だと、新聞は勝っても負けても結果を突っ込まねばならない。いろいろ文章を練ってるヒマはない。そういう事情があることは百も承知で敢えていいたいのだが、そうやって最終14版にギリギリで突っ込んだ原稿には問題が多い(ちなみにこうやって作られた最終版というのは都市圏に配られる)。

特に社会面の記事。だいたいこういう構成になっている。

パート1 「注目の選手が勝った(あるいは負けた)。彼(または彼女)の五輪は終わった」
パート2 「振り返ってみればここに至るまでにはいろんな困難があった(このパーツは選手自身の話でもいいし、支えてくれた裏方・家族の話でもいい)」
パート3 「そんなこんながあったけれども、ともかく終わった。お疲れ様」

各パートの分量は体感的には1:8:1みたいな感じで、ほとんどがパート2で占められている。これはどういうことかというと、記者たちは家族とかに事前取材をしておいて、事前にパート2のところを書き上げておく。で、ギリギリの時間帯で「勝った/負けた」の情報を付け加えて原稿を完成させる。こういうフォーマットを用いているのではないだろうか。

それが証拠に、よくよく読んでみると、パート2というのは勝とうが負けようが、どっちの文脈でも通用する(というか、矛盾をきたさない)ストーリーなのである。まぁ基本的にはポジティブな話が多いので、勝った場合にはそれほど違和感がないのだが、問題なのは負けた場合である。「頑張った。頑張ったんだけども運は味方しなかった」みたいな展開になってしまって、いささか苦しい。

社会面とかだと注目選手については勝っても負けてもそれなりのヒューマンストーリーみたいなのを取りあえず載せねばならんのでこういう無理が生じてしまうのであろうが、今回のロンドン五輪報道からは、何か「速報性」と「読ませる記事」の2つの方向性のはざまで苦悩する現代の新聞の姿が見えてくるようなのだった。

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