2012年09月

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尖閣諸島をめぐる日中激突であるが、いぜん収拾の可能性が見えてこないンである。まぁ中には「怯むな」「脅しに屈するな」的な威勢のいい発言もあるわけだが、問題解決のためには、そういうのはまず下策といわざるを得ない。その前に事をおさめる知恵が必要なのである。

・・・・・・などと、どっかで聞いたような話を偉そうにこんな場末のブログで書いても仕方ないんであるが、今回の件でひとつ言っておきたいのは、こういう時こそジジイたちよ愛国のため立ち上がってくれ、という話である。

どういうことか。いささか長くなるけれども私見を披露させていただく。

こういう事態になると中国はかならず搦め手というか、嫌がらせ的なことをしてくるのであって、端的にいうと日本製品のボイコットとかレアメタル輸出を抑えにかかったりという、主に経済方面でいろいろと執拗なことをやってくる。

いや、別に中国人に日本製品なんて買ってもらわんでいいよ、中国製品なんて買いたくないし、日本に旅行に来たりしてもらわんでもいいし、とオレなどはついつい考えてしまうのだが、どうも日本経済全体を考えるとそういうワケにはいかないのであって、中国との貿易抜きではモノづくりもできないし、経済も回っていかないという所まできているのであった。

まぁしかし、こういうチャイナリスクに対して日本側も打つ手ナシで、キンタマ握られっぱなしで恫喝されるとシュン、というのも哀しい話ではある。やはりここは、中国抜きでもそこそこ経済を回せるよう知恵を絞る必要があるンではないか。

そこでジジイたちの出番なのである。

これはこのあいだ「「さわかみファンド」で有名な投資家・澤上篤人の本を立ち読みしていて知ったのだが(以下、数字等はうろ覚えでイイカゲンかもしれんので違っていたらごめんなさい)、日本の金融資産の約半分にあたる700兆円は、高齢者たちがガッツリ溜め込んでいるのだそうだ。

もちろん「日本の政治が頼りないので、カネは手元に溜め込んでとっておく」という心理はわからんではないが、しかし明らかに死ぬまでにそんな使いきれんだろうというカネを囲い込んでいるジジイも多いらしい。日本に金持ちのジジイは多いのだ。で、使わない。だから経済が回らない、という仕組みである。

そこで先の澤上篤人氏の発言に戻るのだが、仮にその溜め込んだ資産の1割(と書いてあったと記憶する)でも使ってくれたら、日本経済は一気に好景気になって、諸々の問題の多くは解決してしまうのダ、みたいなことを書いておった。オレ的にはこれは「ユリイカ!」と叫びたくなるような発見だった。

だいたい、こういう「国難」に際して「武力衝辞さず。毅然と対応しろよ」みたいに先頭で旗を振るのは、自分には火の粉がかからぬ年寄りと相場が決まっているのである(今は徴兵制がないからあんまり露骨な構図はないだろうけど)。しかし、そもそも経済的にキンタマを握られているのであれば、中国抜きの経済でもしばらくは耐えられる体制を作るのが大事であって、それこそがつまりは一番「愛国的」なのではないか。

そういうわけだから、小金をもったジジイたちが、いま真に「愛国的」な行動を取れるとしたら、それは偉そうに好戦的なことを叫ぶことではなく、溜め込んだカネをバンバン使うことなのである。まぁホントに70兆で内需拡大→日本経済バンバンザイとなるかどうかはオレにはわからんが、話の筋道としては実に道理が通っていると思うが、どうか。

こないだツイッタにチラッと書いた話だが、これまた全くフォロワのいない場末のツイッタでもあり、後世に記録を残したい(笑)という意味も込めて重ねて主張してみた次第。ほんとにジジイたちには頑張ってほしいぞ。

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また朝日新聞が今朝の新聞でトンチンカンなことを書いていたので、念のため指弾しておこう(笑)。

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その1 蒼井そら

昨今の尖閣をめぐる日中関係悪化をふまえて、一風変わった「日中友好」活動にとりくんでいる人たちへのインタビューがオピニオン面に掲載されている。

で、その一人としてAV女優の蒼井そらが登場している。ご承知の方も多かろうが、彼女は中国版ツイッターの「新浪微博」というところにしばしば書き込みを行っており、もちろん彼の地の男どもも彼女のAVビデオをさかんに見ているということなのだろう、「性の師匠・蒼井空老師(蒼井そら先生)」(byウィキペディア)みたいに呼ばれて熱烈なファンを獲得しているらしい。

そういう流れで紙面に登場したのでしょう蒼井そらさん、まぁ確かに彼女がここで言っていることは至極まっとうであると思うし、それはそれでいい。しかし、朝日新聞にはひと言いっておきたいことがある。

ここ数日のことなのだが、蒼井そらさん、このたびの尖閣問題でこの中国版ツイッターで「日中友好」みたいなことを訴えたら「何いってやがる」的コメントが一気に寄せられ炎上中、という話がネット上ではガンガン広まりつつある。

ところが記事にはその「大炎上」のことがぜんぜん書いてない。確かに彼女、最近「日中友好」と書いた習字をアップしたらすぐに3万回転送されました、みたいなことを語っていて、つまりこれが例の問題なのだが、そのへんは何ともぼかした書き方である。


となるとだな、ひょっとしたら「日中友好=蒼井そらルート」というのは既に途絶しているのではないか? とすれば、けさの記事みたいにこのタイミングで「日中の架け橋」的存在として登場するのは完全に的外れなような気がするのだが、どうなのでしょう朝日新聞さん?

いや、その辺はまだ「蒼井そらルートはまだ死んでいない、擁護者も多い」という可能性もないではないので、とりあえずは良しとしよう。本当の問題はまた別にある。

まずオヤ?と思ったのだが、彼女の肩書きは「タレント」になっている。で、略歴には「セクシー女優として出演作がアジア圏で大人気」とある。それからインタビューの中では「私がかつて出ていたセクシービデオ」みたいな表現もある。

違うでしょうよ。

そもそも彼女が中国で人気になったというのは、AV女優がAV女優であることを隠そうともせず、いやむしろそういう自分に何ら恥じるところはないヨといって胸を張って公然大衆に語りかけたというところにあったんじゃないのか? 女裸一貫のいさぎよさっつーか、そういうものがあったからこその蒼井そら中国ブレイクなんであって、そこんところ誤魔化したら、ここに彼女が登場する意味はないンではないか。

であるだけに、ちょっと考えてしまうのだが、これは朝日新聞の側で「天下のクオリティペーパーでAV女優が時事問題を語る、っつーのはヤッパまずいでしょうよ」という意識が働いて、AV女優→タレント、AVビデオ→セクシービデオ、という言葉狩りが行われた可能性ナシとしない。もしこの想像があたっているのであれば、これはオレのよく言う「朝日新聞独特の貴族趣味」のアラワレということになる。

いや、もちろん彼女の事務所とかから「あからさまにAV女優とは書かないでヨ。これからバラエティとかで売ろうと思ってるんで」とか頼まれてこういう話になったのかもしれないので、そこんとこは何とも言えんのだが、仮にその場合でも朝日新聞の側には「いや、アンタはAV女優としてこういう地位を築いたんだから、そういう事なら話はなかったことにしましょうや」という権利ぐらいある筈なのである。そういうあれこれを想像すると、ヤッパリ朝日新聞は貴族趣味でいやらしいという結論になるのだった。



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その2 川島隆太

例の「天声人語を書き写すとタメになるので、やってみよー」というインチキムーブメントをさらに広めたいらしく、「まなぶ@朝日新聞」とかいう宣伝ページでこんな特集をしている。

 「天声人語書き写しノート」に脳トレ版
 プラス1分 記憶力鍛える

つまり
天声人語を1分間眺めて覚える→文章を思い出してマス目に書き入れる→正確に書けた文字数を数える

こういう練習を重ねると「脳の働きを著しく高める効果が期待できる」のでやってみよう、という新手の商売を始めたのだった。で、このセリフを吐いて広告塔の役割を果たしていらっしゃるのは、あの東北大の脳科学車・川島隆太さん。ニンテンドーDS用ソフト「脳を鍛える大人のDSトレーニング」の監修をして、一気に名を売ったあのセンセイである。

だがしかし、待ってくれ、このセンセイはもちろん「脳を鍛える大人のDSトレーニング」をやると脳が活性化されてヨロシイと主張されているわけだが、その議論はあんまり科学的でない、といって一部で批判されてたりしたのではなかったか?

つまり任天堂の脳トレやると脳血流が増加する→脳によろしい、というロジックらしいんだが、そういう因果関係は科学的には実証されてないじゃん、という批判である。そういうセンセイを連れてきてだネ、天声人語を暗記すると頭によろしいとか言わせるのは天下の公器として如何なものだろうか?

いや、仮に百歩譲って、こういう丸暗記のトレーニングが「脳に良い」としても、なんでそれが「天声人語」でないといかんのか? これまで散々言ってきたが、別にこのコラムは素晴らしいことばかり説いているわけじゃなくて、かなり眉唾なことをダラダラと書いてきている。どうせ文章を読んで丸暗記して筆記せよ、というんだったら、四書五経とかのほうが良いのではないだろうか。古典だし。あるいはそれこそ般若心経の写経でもいいかな。いやむしろ作家とかどうだろう。幸田文あたりがいいかな? 少なくとも「天声人語」などよりはるかに良いであろう。


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久米晶文『「異端」の伝道者 酒井勝軍』を読了。

面白かったのだが、う~ん、何か複雑な思いが去来する本であった。

オレは半端なオカルトファンなので、酒井勝軍という人物については、これまではきわめて断片的なことしか知らなかった(たぶんそうした情報は「ムー」みたいな商業雑誌で読んだのだろう。よく覚えてないが)。

もともとキリスト者ではあったらしいんだが、戦前の日本で日ユ同祖論(日本人とユダヤ人は祖先を同じくしている、というアレですな)をぶったり、何か「日本にもピラミッドはあった」とかいって全国回ったり、つまりはオカルト界隈でいろいろ話題を提供していたアブナイジジイ、みたいなステレオタイプの印象しかなかったのである。

が、今般、その本格的な評伝が出たというので買った。それが本書。読んでみると、ふむ、ナゾ多きこの人物の半生がなるほどそういうことだったのか、と見えてくる。

山形は上山の産。没落した士族の裔で、苦学して今の東北学院大に進む。米国留学も果たし、帰国後は賛美歌による宣教運動なんかでそこそこ名を売るンだが、やがて著述家としての活動も開始。例の「竹内文書」に出会ったりして、最終的に「超古代、日本は世界の文明の中心地であった!」「モーゼやイエスも日本に来て天皇家の感化を受けて帰っていったのだぞ!」「近々ハルマゲドンがやってくるが、その後の世界を統べるメシアとは、何を隠そう天皇なのだ!」みたいな、とにかく破天荒なことを口走って死んでいった人なのだった。

個人的なことをいうと、むかし仕事の関係で山形市に住んでたから上山には土地勘はあるンだが、戦後有名になった無着成恭の「山びこ学校」の舞台も上山だ。酒井勝軍という男、あの寂しい町から出て這い上がっていったんだなー、と思うといささかの感慨もある。

あるいは、酒井が仙台時代に少女時代の相馬黒光と「デート」した、みたいなエピソードが書いてあるんだが、黒光が嫁入りした相馬愛蔵はオレの故郷・信州安曇野の人であったりする。音楽教育絡みでチラッと出てくる伊沢修二なんかも信州・高遠の産。あぁいろんな因縁があったんだ、と思ったりもする。

というわけで、いろいろ教えていただいて有り難う、という気持ちはあるんだが、さて、著者の酒井勝軍論はどうなのかというと、いささかクビを捻りたくなるところがある。

その言わんとするところはわからんではない。世間からキチガイ呼ばわりされてきたこの男だが、実はそうそう捨てたもんでもないぞ、もっと光を浴びてもいい人物なんだぞ――そういう思いがあったからこそこういう本をお書きになったんだろうが、しかし、その「褒めかた」がいささか苦しい。

たとえば、天皇天皇というから誤解されやすいが彼の思想は決して「復古」などではなくて、近代合理主義の病理がはびこっていた時代に、そこを超えてもうひとつの「オルターナティブ」を立てようとしたものだった、などという。あるいは、キリストの青森渡来とか広島のピラミッドとか、こういうハナシは得てして地元で「町おこし」的に消費されてきたんだが、酒井の場合はそこに常に「思想」があった――つまりその意味を世界の文明史的レベルにつなげて語っていたエライ人なのである、的なこともいう。

だが、よくよく考えてみると、そもそもこの人がキチガイ扱いされたのは、実証的な研究レベルからいうと全く箸にも棒にもかからない、つまりは妄想レベルのことを言っていたからであって、そういう妄想の上に文明論とか思想を語られても困るのである。彼が論拠にした竹内文書だって、オレは全然中味は知らんのだが、本書を読むと、たとえばモーゼやキリストがあっちとこっちを何度も往復したようなことが書いてあるらしい。紀元前の時代にそんな大冒険活劇はムリでしょう。神代文字にいろいろ書いてあった、とかいっても、ハナからそんなものの存在は否定されてるわけでしょう。

むろん著者も竹内文書が偽書であって、あとから都合よく捏造されていったことは認めてる。認めてるんだけれど、「いやでも、これは宗教文書なんだから。宗教的テキストを真偽のモノサシではかってはいかんでしょ。酒井もその論理の根っこには神秘主義的体験があったわけだし。そんな理詰めだけじゃわからんでしょ」みたいなことも言う。

そりゃ宗教なら宗教でハッキリしてくれりゃあいい。じっさい、このブツは竹内巨麿絡みなんで「宗教的テキスト」といえなくもないし。だけど、本書を読んだ限りだと、酒井勝軍も表向きは「証拠の上に史実を構築する」という方法論をとっていたようにみえる。それならそれで実証ベースでやっていただくしかないではないか。それとも、「これは神の声で明らかになった話。信じて頂くしかありません」みたいな論法も併用していたのだろうか?

というか、本書を読んでて思ったんだが、ひょっとしたら「酒井勝軍には思想家として注目すべきところもあったからこういう本を書くのだ」みたいなリクツは「あとづけ」で、この著者、ほんとは酒井が好きで好きでたまらなくて、だからもう居ても立ってもたまらずに評伝を書いてしまったのではないか。それならそれで、ハッキリそういう書き方をすれば良かったと思うのだ。

たとえば最近出版されてノンフィクション賞を総なめにしている、増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という本がある。表紙に主人公の写真をでっかく配した分厚い本、といった点で、この2冊の本は似ている。が、著者のスタンスは微妙に違う。「木村政彦」のほうからは、自分は木村政彦が大好きで、しかしその業績が世の中から忘れられていて、それが悔しくて悔しくて、だから書いたのだ、という思いがヒシヒシと伝わってくるわけで、著者自身もそのことを隠そうとしない。一方の「酒井勝軍」のほうは、そこで自らにリミッターをかけている感がある。もちろんアカデミズムのほうの方らしいから自制も必要だったのだろうが、どうせオカルト系の人物の評伝なのだ(というと語弊があるけれども)、はっきりと「好きだから書いた」と信仰告白すれば良かった。

とまぁいろいろ難癖をつけてきたのだが、ともかくこういう人物の評伝を世に送り出したという、ただその一点で本書は評価に足る。今後、酒井を語る際にはキホンのキとなる本であることは間違いない。

P.S.
最後に付け加えていえば、関係のある人の肖像写真とかもかなり収録している。これは素晴らしい(写真といえば、表紙にも使われている酒井の正装写真なんだが、胸にいっぱい勲章みたいなのがついてるのが気になった。こういう人も勲章をもらったのだろうか? しかし、誰から? ナゾであるw)。あと、参考資料についての注などもついていれば良かったが、学術書ということでもなければそれは無いものねだりか。




「異端」の伝道者 酒井勝軍/久米 晶文 著
「異端」の伝道者 酒井勝軍

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか/増田 俊也 著
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか


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天声人語の珍妙なロジックを定期的に拾い上げてネタにしているんだが、朝日新聞にはときおり一般の記事でもけっこうツッコミどころのある逸品が掲載されることがあるので、カテゴリー「朝日新聞を嗤ふ」というのを作ることにした。

で、ちょっと前なんだが、またちょっと嫌なかんじの記事があったので、遅ればせながら紹介しておこう。こういう話である。

北杜夫さんは窒息死? 医師の説明不適切、解剖行われず(2012年9月9日11時11分)


 昨年10月に84歳で亡くなった作家の北杜夫(本名・斎藤宗吉)さんは、死亡診断書で死因を「腸閉塞」とされたが、吐いたものを気道に詰まらせた窒息死だった可能性があることがわかった。当時、医師が不適切な説明をしたため病理解剖は行われず、入院先の病院は死因を確定できなかったことなどについて遺族に謝罪した。


 北さんは昨年10月23日午後、脱力感と吐き気を訴え、救急車で東京都目黒区の独立行政法人国立病院機構・東京医療センター(松本純夫院長、780床)に運ばれた。その際は普通に会話ができ、救急外来の医師は「緊急性はない」と話したため、家族は午後8時ごろ病院を出た。ところが翌朝に容体が急変、午前6時過ぎ、死亡が確認された。


 長女の斎藤由香さん(50)によると、死亡を確認した30歳代の内科の男性当直医は「死因は腸閉塞による敗血症性ショック」と説明。病理解剖に応じるかどうかの意思を確認する際、「解剖すると(すぐには)自宅に帰れなくなる。(体を)ガッと開けるので見栄えのこともある」などと言ったという。(以下は有料記事)



「え、なんで? 別にいいじゃん? 何がまずいの?」とお考えの向きもあろう。しかし、つねづね朝日新聞の貴族趣味に閉口してきたオレなんかからすると、ちょっとムカつく。説明させていただこう。

確かに北杜夫の死因について、遺族が不信感を抱くようなふるまいが、病院側にはあったのだろう。しかしコレ、まぁ別に誤診されて死んだとかそういう致命的な過誤があったとかいう話ではないようだ。言ってみれば「人の生き死ににかかわる病院側はもうちょっと真摯な対応してくれよ」的な話である。

確かに遺族にとっちゃ無念だろう。だが、しかし。その程度の話なら、オレたちの身の回りには掃いて捨てるほどあるだろうが。「あの医者のヤロウ、いいかげんなこと言いやがって!」とか。それを、なんでこんなにデカデカと報道するのか。そこらへんから朝日の貴族主義的人間観がぷんぷんと臭ってきて、読む側もいたたまれなくなってしまうのである。

いや、そりゃ朝日にも言い分はあるだろうさ。読者相談室に電話をかけてきいてみたら、たぶんこんな「模範解答」が帰ってくるんじゃないのかな。

「いや、そういう病院への不信感みたいなもの我々は日頃感じているわけでしょ? だから、あの有名人の北杜夫さんの家族だってそういう目に遭った、と報じることはですネ、まぁこういう有名人ということですと皆さんの注目も引くでしょうから、病院に対する反省を強いるというか、患者不在の医療という現状に一石を投ずる意味でも重要だと考えたのでして」云々。

しかし、別に有名人がそういう目に遭おうが遭うまいが、「こういう現状にはおおいに問題アリ」というんであったら、一般大衆に取材してとっとと話にすりゃよかったんじゃねーの? 

やっぱね、こういう記事の背景には、「まぁそこいらの一般庶民が病院に泣かされてたりしたって、ま、当たり前のことなんでニュースにゃならねーが、一流の作家センセイがこういう目に遭ったからにゃあ、やっぱ問題視して取り上げねーとまずいゼ!」という気持ちがあるのだ。ひごろ、進歩主義の砦として「人の命に貴賤ナシ」みたいな偉そうなことを言ってるクセに、こういう時には「大先生>一般庶民」という貴族主義的ホンネがポロリと漏れ出てくるのである。


そりゃ、個人的なことをいえば、北杜夫はわが故郷の旧制松本高校の出で、どくとるマンボウ青春記とか素晴らしい本も遺してくれたし、無類の阪神ファンだったというからその辺の親近感もある。死んだ時には「あぁ惜しい人を亡くしたなー」と感無量だったんだが、しかし、それはそれ。オカシイものはオカシイ。二枚舌、ダブルスタンダードはいけない。

いやそうじゃない、というなら、これからでもいいから病院の死因判定に異議アリとかいってキャンペーンでも始めなさい。


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詩心など皆無なのだが
山之口貘と高橋新吉は好きで
あと、イレギュラーに会田綱雄の「アンリの扉」を口ずさんでいた頃もあったなぁ

さわりだけでもちょっと紹介。




「アンリの扉」会田綱雄

摩天楼のてつぺんの
その扉のまえで
さんざんためらつたあげく のはてに
ノックもせず
アンリはいつもひきかえす
エレヴェイタアがきらいで
かれはそこまであるいてのぼるから
もういまにもたおれそう
それでも歯をくいしばり
アンリはいつもひきかえす
靴音をたてないように
あらい息づかいをおさえながら
それこそやつとの思い
アンリは摩天楼の玄関におりたつ
そして
こんどこそほんとうにたおれてしまう
ゆうぐれ
しめつた風がふきこんでこないとすれば
そのまま参つてしまわないともかぎらぬ
さいわいアンリが気がつくころには
摩天楼の玄関をまさにとざそうとする
重つくるしい鎧戸のきしめき
あわてて飛びだしてから
アンリは街路でふりかえり
もういつぺん摩天楼をみあげる
夜になりはじめる空に
それはのびあがりせりあがる
そして
かの扉のあるてつぺんのあたりすれすれに
はやくもまたたきひかるものの
なんといううつくしさ
アンリはわれをわすれてみほれる
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日本学術会議が、高レベル放射性廃棄物を何万年も安全に管理するギジュツはまだないので、つまり「最終処分」するギジュツはまだ日本にないので、そういうギジュツがみつかるまでは仮置き場みたいなものを暫定的に作って置いとくしかないですよ、と言い出したらしい。

で、笑っちゃったんだが、この「暫定的な保管期間」っつーのは、何年ぐらいだと思います? まぁわれわれの感覚からするとせいぜい数十年くらいかなーと思うわけだが、ナント、この「暫定的な保管期間」とゆーのは場合によっちゃ「数百年」に及ぶらしいですな。以下ソース。


 原発のごみ「最終処分撤回を」 学術会議提言


 日本学術会議は11日、原発から出る高レベル放射性廃棄物の量を総量規制し、数十~数百年間暫定的に保管するべきだとする提言をまとめ、内閣府原子力委員会に提出した。現行の地中に廃棄する最終処分政策を白紙に戻し、抜本的な見直しを求める内容。提言を受け、原子力委員会は年内にまとめる国の原子力政策大綱の議論に反映させる。


 現行の政策では、原発から出る使用済み燃料はすべて再処理される。再処理で出る高レベル放射性廃棄物は国内の地下300メートル以深に廃棄することになっている。現在、政府は使用済み燃料の再処理について見直しを含めて検討している。


 原子力発電環境整備機構が2002年、候補地選びに向けて自治体を対象に公募を始めたが難航している。状況を打開しようと、原子力委員会は10年9月、政府の特別機関として学者らが政策提言をする日本学術会議に提言のとりまとめを依頼。学術会議は検討委員会を作り議論してきた。(朝日新聞)


ちなみに、いまから数百年前の日本はどうだったかっつーと、戦国時代とかいって内乱やってて、それから江戸時代の太平が200年ちょっとあって、で、近代日本が始まって・・・みたいなレンジです。そういう長きにわたって「暫定的に」保管をしていかなくちゃならないんですな。

うーん、これどういうことかっつーと、たとえば徳川家康のお触れが400年後の今も生き延びていて、国民の総意としてそれがずっと守られている、みたいな状況を想定しないといかんのですな。100年後の日本の姿だって想像つかんのに、誰も数百年後のことになんか責任とれんでしょう、とオレなんかは思うんだが。

しかし、少なくとも原発推進派の皆様は「いや何とかなるだろう」と言ってこれまでやってきたわけで、今も「原発全廃したら日本の産業ガタガタになっちまうから止めたらマズイよね。廃棄物処理とか問題はとりあえず先送りでおk」と言っているのである。「とにかくオレたちの都合優先させていただくんで、100年200年後300年後に日本列島に住んでる人たちに、なんとか上手く最終処分する方法あみだしてもらえばいーじゃん」ということになるのだろう。

もっとも、すでに大量の放射性廃棄物を作り出しちまった以上、それがすこし増えようがどうしようが大勢に影響ないから毒をくらわば皿までヨ、まだまだ原発でGOという考え方も成り立つとは思うが(苦笑)。

しかし、とんでもないものに手をだしちまったものだネ我々は。


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今回も「天声人語」ネタではないんだが、きょうの朝日新聞夕刊のミニコラム「素粒子」が噴飯モノだったので、念のため突っ込んでおこう。こんなことを言っているぞ。

米大統領選を見るたびに考え込む。候補者の弁舌に熱狂する聴衆ら。そんな演説を一度聞いてみたい。日本語で。

言うまでもなく、近々ある民主党、自民党の党首選びと米国の大統領選を対比させての一節なんだが、あのさー、そういうのを「ないものねだり」というのだよ。

アメリカの大統領選びで群衆がワーワー言って熱狂する。「あぁ政治ってのはこういうンじゃないとダメだよねー。日本のリーダー選びは、何かオレらの知らないところで根回しばっかやってて全然盛り上がれねーじゃねーか。ツマラン」。ま、こういう心境を吐露されたのだろう。その気持ちはワカランではないが、長屋の八っつぁんクマさんじゃないんだから。天下の公器でそういう思慮皆無の文章を書いてはならない(笑)。

演説聞いて熱狂して拍手する。そういうことができればいいと思ってらっしゃるようだが、はて、仮に素晴らしい演説をする政治家とかが出てきたとして(ま、出てこないと思うがソレはまた別の話なのでここでは追究しない)、そもそも聴衆としてそういうリアクションをする人間が身近にいたら、オレたちはどう思うか? 言うまでもない、「変な人!」でオシマイでしょう?

よく考えると、日本にはもともとそういう「文化」がないのである。気に入らなかったらブーイング、お気に召したら拍手万雷、そうやって万機公論で意見を表明していく、っつーのは、まぁ日本人にとっては教科書的な民主主義ではあるけれども、そういう行動ができたらスッキリしてていいな、とは思っても、現実には取りたくても取れない、いや気恥ずかしくてできない。

いや、そりゃ「これからはグローバリズムの時代だから」ってんで、「ハッキリ自己主張しないで身内同士で以心伝心みたいなことを言ってたらこれから通用しないゼ」といった議論は正論ではあるんだが、そもそも「演説聞いて口笛ピーピー」みたいな行動パターンはオレたちの身体に血肉化されてないのである。「かくあらねばならぬ」とかいっても、そんなことはできないのである。

じゃあどうするか。そういう議論をしてほしい。「オマエもアメリカ人みたいになれ」と説教されても何にも進まないのである。ハッキリものを言いたくてもなかなか言えなくて、結果寂しい笑いを口元にうかべて黙ってしまうような、そう、あの小津安二郎の映画にでてくる笠智衆みたいな、「含羞」というものを知る人たちがどうやって共同性を獲得していくか。問題はそういうところにあるのではないのか。

「名月をとってくれろと泣く子かな」。我が郷土・信州の生んだ小林一茶の句だ。「素粒子」をお書きの方は教養がおありかと思うので(笑)当然知っていると思うのだが、こういう文章を書いているようでは一茶あたりについても全く何もワカッテイナイのだろう。残念。
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今回もカテゴリー「天声人語」としているが、じっさいは天声人語ネタではない。たまには朝日新聞を褒めてやろうというエントリーである。

夕刊に連載されている「原発とメディア」であるが、ここのところ、朝日OBがいかに原発ムラに取り込まれて、原発賛美の広告塔をしてきたか、という話を取り上げている。江森陽弘、田中豊蔵といった実名もあげている。これは大変素晴らしい。

もちろん原発はどうしたって必要、という議論はあっていいと思うんだが、このたびの事故で「これまでの原発」はデタラメだった、というのは明らかになってしまったので、その後押しをしてきたことについては相応の責任をとってもらわねばならない。ましてや、金銭的な見返りをうけて広告塔役をしてきたというのであれば、そこはキッチリすべきなのだ。

しかるに、皆さんご存じのように日本の大新聞というのは基本的に自己批判というものをしない。おのれの無謬性を言い募るあたりは、新聞がしばしば批判の対象としている官僚とか旧日本軍にむしろよく似ている。

たとえばの話、原発問題についていえば、このたびの事故で保安院とか原子力安全委員会といったあたりが東電とズブズブでぜんぜん規制がきいてなかったことがハッキリしてしまったんだが、そのあたりをコミで「原発は危ない!」と警鐘をならす人々がいたにもかかわらず、「いやぁたぶん大丈夫でしょ」などと言い募り、それが今になって「連中はなにをやっていたんだ!」とか言い出すというのでは筋が通らない。朝日の場合はそこまで露骨ではなかったかもしれんが、そういうところもある。

であるだけに今回の朝日の企画は、こういう業界にあってはかなり画期的な試みとして評価したい。もっとも、すでに会社と切れたOBを槍玉にあげるというのは、まぁトカゲの尻尾切りというか何というか、そういう気がしないわけでもない。

本当は会社の中枢にあって「原発? まぁ安全だろうよ」という論調を3.11まで展開していた現役バリバリのエライ人がいるわけで、その辺に遠回しの利益誘導がなかったのかどうか(とゆーか、広告費がガッチリ入ってた時点で遠回しもクソもないのかもしれないがw)キッチリ検証していただきたい。そこまで突っ込めたら満点だ。

P.S.
で、新聞協会賞にこの朝日の「プロメテウスの罠」が選ばれたようだ。この企画も基本的には良いものだと思うンだが、しかし以前のエントリーで書いたように、「首都圏あたりで鼻血を出す人がでている→原発の影響では?」的な放射脳的風評を流布させた咎もあるので、そのへんはきっちり自己批判してから先に進んでもらいたいものである。

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どうも。時にヒトサマを嫌な気持ちにさせるかもしれないけれども、どうせ匿名でもあるし、「王様は裸だ」というべき時はいわざるを得ない、というんでしょうか、そういう拗ねた根性で続けている辺境ブログです。

で、今回のテーマは「やっぱり盛り上がらないパラリンピック」である。

もちろん大メディアはそこそこ報道に力を入れていて、「日本人初の金メダル!」とか懸命に騒いでいるんですが、国民の皆さんは笛吹けど踊らず、である。

何故か。オレの理論ではそれは最初から明白なのである。そりゃ身障者の皆さんがハンディに負けずに懸命に精励をされて世界の晴れ舞台で頑張る、というのは、そりゃ非の打ち所のない素晴らしい行いではありますが、オレ的理論でいいますと、ヒトが何故スポーツ観戦に夢中になるかといいますと、そのキモのところには「とにかく常人離れした超人、人類最高レベルのパフォーマンスを見たい」という、いわば見世物小屋ダイスキみたいな思いがある。

とにかく人類最強、最速の人間は誰か。詰まるところそういう単純明解かつ下世話な興味関心がある。だからこそ、いろいろ参加条件をつけていくごとにスポーツの魅力は薄れていく。たとえば「女子限定」となった途端にポイント減。格闘技とかで「××キロ級」とかいって区切った瞬間にポイント減。オリンピックに比べちゃうと国体はしょぼくみえてくるし、ましてや○○町会運動会とかになると、まぁ自分の子どもを応援する楽しみとかは出てくるんだが、「競技」ということでいうと大幅ポイント減。そういうかたちで迫力は削がれていくわけです。

そこでパラリンピック。

聞けば、各種目で、参加資格は「障害の程度」に応じてかなり細かく規定されているらしい。ふむ。しかし、「障害の程度」なんてものは一人一人で千差万別。そこに強引に線引きをするとなると、けっこう恣意的な割り切りが生じる。つまり主催者側の裁量というかハラひとつで、「あ、アンタは障害程度の軽いコッチに出てネ」「アンタはけっこう重いから、こっちなんじゃね?」という、けっこうアバウトな世界にならざるを得ない。原理的にそういうことになる。

とにかく「全人類の中で100メートルを一番速く走れる存在を選ぼう」→ボルト偉い、という非常に単純明快な世界とは違う。逆にいうと、規則が細かくなっていくごとに説得力が失われていくという、あの「オッカムの剃刀」状態がここに現出しているわけである。

そんなところへ、ちょうどこんなニュースが流れてきた。

ピストリウス、不満爆発=陸上〔パラリンピック〕


 陸上男子200メートルで連覇を狙ったピストリウスは序盤から抜け出し、コーナーを曲がったときには独走状態だった。しかし、残り100メートルを切り、ブラジル選手が猛追。ゴール直前でかわされた。

 2位に終わったピストリウスはレース後、「彼の義足は異様に長い。これは自分の得意種目だが、これでは彼のストライドの大きさに対抗できない」と不満を爆発。興奮した様子で「彼は素晴らしい選手だとは思うが、100メートルを過ぎてから8メートルもの差を追い付くなんてありえない」とまくしたてた。

 ピストリウスが問題視したことについて、国際パラリンピック委員会(IPC)は「規定にのっとっており問題ない。この試合に出場した全選手の義足を確認し、全員が規則に準じている」とのコメントを発表した。(時事)
(2012/09/03-12:50)



普通のオリンピックにも出たことで有名な義足のランナー、ピストリウスさんが、試合に負けて「アイツの義足長くて有利だったんじゃねーの?」とクレームをつけた、というんですな。

しかし。よく考えると、じゃあ義足の長さというのはどういう風に規制すればいいのか? 後天的に切断したんだったら「切断前の長さまで」ということでいいのか? いやしかし、だったら生まれつき脚がなかった人とかが出たいといったらどうすればいいのか? 「使いこなせるんであれば、いくら長くてもいい」という考え方がいいのだろうか? 今回国際パラリンピック委員会がどんな規則を当てはめたかはよく知らんが、何か、どんな答えを持ち出しても、どっかに疑問が残りそうだ。

とまぁ、こんな具合に、裸一貫で走る健常者の100メートル走と比べると、そこには「クラス分け」の問題から始まって「器具をどう規制するか」みたいなところまで、どうしたって人為が介在してくる余地が大きいのではないか(むろん健常者でもスパイクシューズの性能でパフォーマンスは変わりうる、とかいう議論はありうるが、パラリンピックの競技ほどの重要性はないだろう)。


してみると、パラリンピックの勝者がいかに偉い人、尊敬すべき人であっても、やはりスポーツの物差しに照らすと魅力には欠ける。悲しい現実なのですが、大メディアなどをみるとやはりそういう現実よりもタテマエが重要らしいので、そこそこ盛り上げねばならないと思ってしまうらしく報道してはみるんだが、そこに大きなギャップが生じてしまって痛々しささえ感じてしまう、そういうことになっているわけだ。

いや、しかし。いまちょっと思いついたぞ。

健常者スポーツだと器具でカバーっつっても限界あるだろうと書いたばっかりでイキナリ前言撤回みたいな話になるが、考えようによっては「器具」の性能がかなり重要な競技はあるような気はするぞ。マイナー競技であれば。たとえばボススレーとか、あれちゃんとしたの作るのにエライ金かかるんじゃなかったっけ? あるいは「器具」っていう言い方はよろしくないけれども、馬術なんかでも、アレ、すげー高い馬もってないとそもそも話にならないんじゃなかったかな?

であれば、もうそういう「器具」の介在を前提に、健常者&身障者の境を撤廃したスポーツを考案すれば、こういうポリティカル・コレクトネスがんじがらめみたいな状況を打破できるのではないか?

たとえば車いすを使った戦車競技とか如何だろう(いやしかし、どんな競技なのだ? ベンハーみたいなのだろうか?)。よくわからんが、ともかくそういう競技が出てきたときに、初めて身障者を疎外しないスポーツが誕生したといえるのではないか。たぶん身障者よりも車いす常用してる障害者のほうが強いぞ。名案だと思うのだけれど。
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