2013年01月

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さて、女子柔道の監督が、「監督に暴力をふるわれたッ」といって選手たちから訴えられた一件が話題になっておる。

なんか、ここンとこ「スポーツの指導だからって体罰振るっちゃマズイでしょ」という世論が盛り上がりつつあって、これなんかもそのトレンドに棹さすエピソードだと思うのだが、生来のヘソマガリなので、ここは敢えて「そんなにマズイことなのかネ」と主張してみたい。

まず今回の一件で気になるのは、選手たちが「おおそれながら・・・」といって訴え出たのが昨年9月だったという点である。つまりロンドン五輪のあと。もちろん彼女たちにも釈然としない思いはずっとあったんだろうが、しかし五輪の後までは堪え忍んだ。これはどういうことかというと、ま、五輪を前に内紛めいた話が浮上するとまずかろうというオトナの分別を働かせたという面はあるんだろうが、ともかく五輪が終わるのを待ったというところには微妙な心理のアヤがあったように思われる。

以下はオレの推測になるんで反論もあると思うのだが、そこではたぶん、選手たちのこころの中にこういう意識が働いていたんではないか――あのバカ監督のヤロー、さんざん殴りやがって・・・ホントにアイツについてったら、あたいら勝てるのか? うー、わからんなぁ。でもああいうシゴキに耐えてきたんだし、やっぱ勝てるような気もするんだ。とにかく五輪だ五輪、ガンバロー!

ところが五輪が終わってみれば、女子柔道は全然ダメ。結果は残せなかった。選手たちの憤懣はつのったことだろうよ。「くそー、アイツのこと信じてここまでついてきたのに、全然通用しなかったじゃねーかヨ。殴られ損かよ! クソー、腹立った、訴えてやる~」みたいな。

まぁかなり憶測が入っている。しかし、オレには前から思っていたことがあって、たとえば女子のマラソンの小出監督と教え子たちなんかが典型的なんだが、スポーツの女子選手というのは「コーチを100パーセント信じてついていく」みたいな一種の信仰めいた世界というか、ほとんど擬似恋愛みたいな世界をくぐりぬけないと能力を発揮できないところがあるンではないか? もちろん「女子に手を挙げるのは如何なものか」という「良識」も一方にはあるんだろうが、逆のベクトルで「シゴキもコーチの情熱の一部だ」という言い訳が許される素地も用意されているんではないか。

で、最終的に結果がでれば、このコーチに対する信仰あるいは擬似恋愛は「よかったよかった」で大団円。でも一歩裏目に出れば、ふと正気に返って「あれ、あたいたちってば騙されてたのと違う?」という話にもなりかねない。これまではそういう意味でさほど破綻のなかった女子柔道ではあったが、今回、みごとにこの後者のパターンにはまってしまったのではないか。これがオレの仮説である。

以下、そういう仮説の上での話である。勝てば官軍、負ければ地獄。確かに結果を出せなかったのではあるが、だからといって遡及的に過去の「厳しい指導」が「ありゃまずかったよネ」と否定されるのはフェアでないンではないか。だって、そのシゴキが行われていた時点では、「これは絶対マズイ!」みたいな問題意識は関係者一同、全然共有してなかったわけでしょ? 少なくとも、「ま、スポーツにはこれぐらいのシゴキがあっても仕方ないかもネ」あたりがコンセンサスだったわけで。

さらにヘソマガリなことを言わせてもらうのなら、桑田真澄あたりが「シゴキでは一流選手は生まれない」みたいな正論をいってココんとこ喝采を浴びているようなんだが、オレの認識では、超一流のアスリートのほとんどは野生の動物に近い存在であって、ムチを入れれば反射的にパワーを発揮する生き物である。理性とか悟性による指導は、まぁ並みの選手には通用しても、こういう超一流の素材には通用しないと思ったほうがよかろう。桑田なぞはなまじ頭が回るものだからああいう正論を語ってしまったのだが、プロ野球の中でも桑田みたいなヤツは例外と考えたほうが良い。

ことほど左様に、一流アスリートの連中というのは我々のツマラン常識でははかれない化け物なのでアル。いつも言っていることだが(ってそんな熱心な読者はいねーヨと自ら突っ込んでおくw)、そういう世界にクビを突っ込んで常人のジョーシキを振り回すのは愚かなことである。

とゆーわけで、全柔連あたりが今回の件で「まぁそんなに致命的なことじゃねーだロ」的なリアクションをみせているとゆーのも、そこにはそれ相応の暗黙知とゆーか、ロジックがあるはずなのだ。もっとも柔道界のエライ方々にしてみれば、「柔道選手はキホン筋肉バカなので、そういう理屈では動かンのです」みたいにぶっちゃけた話をするわけにもイカンのだろう。苦しいお立場であろうと同情申し上げる(笑)。

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ゴルフ6の小物をチマチマと買っているのだが、さらに若干の追加購入。今回は「マニアックス」なるワーゲン系に強いパーツ販売会社の通販から以下の4点。

1、Golf6 右低屈曲ミラー
2、SUCTION CUP(吸引式ミラー外しツール)
3、KTC フラットタイプヘラ
4、VW純正タッチアップペイント トルネードレッド(LY3D)

以下、おぼえがき。

日本で売っているゴルフ6の右ドアミラーは「高屈曲ミラー」がデフォらしい。何となく映り具合に違和感があったのでネットで調べてみたところ、これは鏡面の右3分の1あたりのところに縦に点線がプリントされていて、そこを境に内側は通常の鏡&外側は若干凸状に加工して広い範囲を映し込むようなしかけである。オレは知らなかったが外車ではけっこう一般的だという。

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【参考】借り物写真だが、これが高屈曲ミラー。点線の外側に映ってる電線をみると微妙に歪んでるのがわかる

高屈曲ミラーの理屈は分かった。しかし脳が混乱するのだろうか、やっぱりいつまでたってもなんとも見にくい。そこでペッタンコの普通のミラーに換装した。これが「右低屈曲ミラー」。いちおう純正らしい。

ちなみに「サクション・カップ」というのはトイレ掃除の時に「カッポン」するヤツの弟分みたいなやつ。既存のドアミラーを外す時に吸い付けて引っ張る吸盤である。今回もDIYでやることにしたが、取り外しの際に「素手では力の加減が難しく、ミラーが割れるかもしれない」と脅されたこともあり、それほど高価でもなかったので買った。しかし、そもそもワーゲンのミラー外し以外には役立たずの道具のようだ。何か平時の使い道はないのだろうか? いや、自分で「ミラー外しツール」と名乗ってるぐらいなのでやっぱり一芸グッズか。

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ちなみに「ヘラ」というのは自動車の内装剥がしとかに使うヤツで、、ドアミラーを引っ張って抜き取る時に隙間に差し込んでコジると良かろう、という思惑で購入。オレの場合は吸盤だけでほとんどスムーズに取り外しができたンだが転ばぬ先の杖、あった方が安心できるだろう。作業的には、古いミラーにつながってた熱線デフロスター用のコードを新しいミラーにつなぎ替え、パッチンと嵌め込むだけ。マニアックスの参考ページはココ

タッチアップペイントは、もちろんキズがついた時の備え。前車レガシィはバンパーがへこんで盛大にキズがついてたが、「車はしょせん道具。ヨーロッパではバンパーのキズなんて誰も気にしてねーゼ。縦列駐車でスペースに余裕がないときなんか、止まってる車の間に割り込んで、前後のバンパーぶつけて押し出して場所確保するっつーゼ(ソース不明の伝説。本当かどうかは知らんw)」とうそぶき、修理もせずそのまま乗り潰したオレである。今回も妙に神経質な扱いはせぬ積もりだが、サビ等につながるキズにはそれなりに対応しないといかんので。

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ゴルフ6用にいろいろ買い増したパーツ類についてのチラ裏的メモ。

1、ノンスモーカートレイ
以前も書いたが13,000円もする(笑)。既存の灰皿を取り外して換装。やり方を書いてあるサイト(たとえばマニアックス株式会社のココとか)もあったので見ながらDIY。シフトゲートカバーを外すときには、シフトレバーをくるんでいる革製のブーツ(というらしい)越しにカバーの裏側に指をかけ、ちょっと力を入れたらスポッと抜けた。そんなにいろいろ置けるものではないが、ケータイやガムとか放り込んでおくような使い方はできるだろう
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2、フォブ・シュランクのフロアマット
純正のペラペラのマットとは違うカーペット的なもので、クオリティには格段の差。ワーゲンのロゴが入っているのをみて、ウチの奥さんは「純正品じゃないのに何でマークついてんの?」とか言っておった。ふむ、どうでもよいが、やはりVWにナンボかロイヤリティを払って作っているのであろうか? なお、後部座席用のドリンクホルダーはフタを手前にカパッと開いて使うようになっているのだが、その際、リアセンターマットを敷いていると若干干渉してフタが途中までしか開かなくなる。構造上仕方がないのだが、これはいささか予想外のことであった
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3、荷室用カーゴネット
eBayで買ったブツ。送料込み18ドルぐらいだったから最近のレートだと約1600円といったところか。香港から送られてきた。ゴルフ6用とか書いてあったが、タグも何にもついてないので怪しさ満点。プラスチックのクリップ状の部品で車の四隅の金具にパチンと止める仕組みだが、うまくいかないので引っかけておくしかないようだ。もっとも純正を買ったら1万円以上するようだし、まぁこんなものであろう
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安倍首相は「日本の教育を何とかしたいッ」という思いが強いらしく、「教育再生実行会議」なるものを立ち上げたのだという。その初会合が今朝の新聞で報じられているんだが、ここに登場する有識者メンバー15人のなかには、実は教育学者がひとりもいない。

まぁ曽野綾子とか、ガチガチの保守論客(笑)みたいなのはいっぱい入っているので、こういうところは、いぜんの安倍政権が「おともだち内閣」と揶揄されたことへの反省はあんまりないようだ。

で、話をもとに戻すけれども、うむ、こういう場に教育学者が呼ばれないというのは、ひとつには教育問題の特殊性が一役買っているのだろう。

たとえば「集団的自衛権についてのあなたのお考えは?」とか聞かれて、滔々と弁じ立てることのできる人間は、たぶん日本国民の1パーセントもおるまい。ところが「いまの教育についてどうお考えですか?」とか聞いたら、100人が100人、それっぽいことを語れるだろう。そう、誰だって学校には行ったことがあるから、誰だって実体験に即した何らかの思いというものはある。バカでもチョンでも教育には一家言ある、という風にいえるのかもしれない。

しかしなぁ、だからといって、こういう問題にかんしては専門家は要らない、というところまで行ってしまうのはどうか。功成り名を遂げた経営者とかが「そもそも教育とは」みたいに語ったって、そりゃバイアスが相当かかっているのは明らかなんで、やはり客観的に全体を見通すことのできる専門家はいなきゃならんだろう。

そういえば読売新聞などはこの年頭に「甦れNIPPON」なる企画を打っておったが、 たしか「プロ軽視の大衆社会」とかいって、専門家の知見を大衆がバカにするポピュリズムめいた風潮に警鐘をならしておった。そういう視点からいうと、今回の教育再生実行会議の有識者の顔ぶれというのは、ホントまさにそういう風潮の象徴といえるんではないか。読売でなくてもよいから、「さすがにこういう会議はマズイんじゃネ?」的な議論を提起していただきたいものである。
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政府が「役人の待遇を見直すから消費税アップの件はよろしく」と言い出し、その流れで地方公務員の退職手当を削減することにしたんだが、その結果、埼玉あたりで「退職手当が削減される前に早期退職します」という学校の先生たちが相次いで「卒業式前に無責任じゃねーかコノヤロー」という世論が盛り上がっている、らしい。

確かにいまのうちに辞めれば150万円ほど「オトク」になるらしいのだ。さて、コイツはどう考えたらいいのか。

「教師のクセにカネに転びやがって!」というのが大方の反応であろう。わかる。まぁ教師への信頼というのはかなり揺らぎはじめているけれども、やはり教育に携わる者には、どこか大義とゆーか理想とゆーか、タテマエにとことんこだわって欲しいものだ、という気持ちはわれわれの中にまだある。「卒業直前の子供を見捨てるとは不届きデアルッ」と、ひとまずは言える。自分の子供の担任がこういうふるまいに出たら、もうガッカリである。教育地に堕ちたり、と嘆きたくもなる。

しかし。よくよく考えてみると、現場の教師とかの身になってみると、これはけっこう「究極の選択」であるのかもしれぬ。目の前に150万円。これを取れば「生徒を見捨てたナ」と罵声を浴びることになる。じゃあ、やせ我慢して取らずにおくべきか。しかし150万円というのは庶民にとってはけっこうなカネだ。150万円を「そんなものいらねーよ」といってドブに蹴込むことができるか。ま、少なくともオレだったらかなり迷った末にカネを取るような気がする。そして、オレ以外の人間に対しては「おまいらはカネは取るな」と説く(笑)。

つまり、こういう事例ではどうしたってカネに転ぶ人間は出てきてしまうのである(とゆーか、そういう人間が全然出てこないようだったら、その社会はけっこーコワイような気さえするゾ。全員が洗脳された社会みたいな感じで)。つまり、フツーの人間が生きている社会では、そういう金銭的なインセンティブによって大なり小なりヒトは動かされてしまうわけで、そのあたりは経済学が教えるところである。それはしょうがないことである。逆に言えば、150万に転んで「退職シマース」という人が大量に出てくることは最初から見えていたのだった。

もちろんヒトはいつでも「究極の選択」を強いられる可能性がある。大げさなことをいうなら、船が転覆して救命ボートがひとつ。乗員は8人生存しているが、ボートに乗れるのは7人。さてあなたはどうしますか、みたいな局面である。あるいは原発事故でもよい。ほっとくと原子炉が大爆発するんだが、いま決死隊が突入すれば何とか止められるかもしれない。そこで「いま行くとアンタは絶対死ぬ。でも行ってくれれば何百万人が助かるんで、行ってくれ」と頼まれたらどうするか。あるいは逆に、突入隊員の候補者に「アンタ行ってくれ」と頼めるかどうか。

そこで普遍的に正しい答えなどというものはない。そんな事態に直面した人間はとことん困ってしまう。だからこそわれわれの社会は、そういうどっちに転んでも後味の良くない「究極の選択」などしなくて済むように知恵をしぼったり、あるいはそういう選択が必要な局面など「そもそもありえないのだ」ようなフリをしてどうにかこうにかここまでやってきたのだった(もちろん上の原発事故の事例みたいに、もうどうしたって究極の選択をせざるを得なくなる局面はあるんだが、それはまた別の話)。

そうすっと今回の一件で一番反省すべきなのは、実はこういう二者択一を教師ひとりひとりに強いた政府なのではないか。どんな人間も持っている醜い一面を直視するのは辛いから、われわれは「そんなものはない」と否定するフリをしながら毎日を送ってきたのに、今回政府は教師たちに踏み絵をふませ、追い詰めてしまったことで「イヤやっぱり醜いものはある!」という事実を臆面もなくわれわれに突きつけてしまったのである。結果的に、ではあるンだが。

そういう人間の暗部を直視するような仕事は、本当は文学とかに任せておけばよいのだ。政治というのは、もうちょっとナァナァで、矛盾を矛盾と感じさせずに諸問題をうまくハンドリングしていくような営みなのではないか。「政治には理念や哲学が必要だ」みたいな議論もあるけれども、そこにはおのずから自制というものがあって然るべきなのである。安倍君にはそういう政治の機微みたいなものもゼヒ勉強をしていただきたいところなのだが、さて。
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天声人語はバカらしくて最近あんまり読んでない。しかし朝日新聞、腐っても鯛で、たまにオッと思わせる記事も出ている。本当に朝日は天声人語で損をしているナ(笑)。

最近感心したのは、まず、これ。

ブラック企業と呼ぶ意義 提唱者の一人、今野晴貴と探る

昨日の文化面だったと記憶するが、この日本の社会状況を抉り出す社会科学的(風?)キーワードとして「ブラック企業」という言葉を捉え直し、今野晴貴氏に話を聞いてこようと考えた塩倉裕記者のセンスはとてもよい。ネット上ではカネを払わんと全部読めないのが残念であるが、つまり、最近の若者はマトモな職もなく可哀想な状況に置かれているんだが、「けっきょく連中はこらえ性もなくてすぐ会社辞めちまうし、自業自得よ」みたいなステレオタイプもいぜんとしてあって、つまりは何か全てを精神論のレベルに落とし込もうという潮流があるのに対して、「いや違うよ、こういう時代に生きる若者の立場の弱さにつけこんで跋扈してる悪い連中がいるんだよ、これ社会問題だよ」という指摘をしているのである。

ちなみに、およそ世間にはびこる世代論というのはほとんどインチキであって、まぁその辺は「俗流若者論」批判の後藤和智氏あたりの議論が参考になるけれども、オレのみるところ、強いて説得力のある議論があるとすれば、それは「団塊の世代は危ない世代だ」という説で、たとえば他と比べると犯罪を起こす率が高く、近年になって急に「キレる暴走老人」が急増したという話もそういう文脈で考えるべきなのである。

閑話休題。最近の朝日でもうひとつ感心したのがあって、

(インタビュー)刑務所から見えるもの 犯罪学者・浜井浩一さん

これも確か昨日の朝刊オピニオン面。ネットの記事は例によってカネを払わんと最後までよめず、読める範囲ではインタビュアーの名前が確認できんのだが、確か女性だったような気がするなあ。現物を引っ張り出して確認するのも面倒なのでその件は措いておこう。

さて、浜井氏は以前から「日本の治安は全然悪化していない、とゆーかここ数十年についていえば悪化したことなんかない、年々良くなってる(笑)」とゆー議論を一貫して展開してきた人で、つまりファクトに基づいた話のできる正論の人である。

で、今回のは、最近の日本の刑務所には再犯のジジイみたいなのが大量に入ってきているんだが、今の日本では生きるすべをうまく見つけられないそういうジジイたちをすくい上げるシステムがなくなってきちまってんじゃねえの、だから刑務所はジジイで満杯という状況が生まれてんじゃねえの?という議論を展開している。

ついでに、北大の山岸俊男氏の議論を援用して、「日本で犯罪が少ないのは結局となり三軒両隣とゆーか隣組とゆーか、そういう世間の目を気にして生きてきた相互監視体制が機能してきた結果であり、これからはそういうのも機能しづらくなっていくんじゃねーか、こっからが考え時だよネ」という話も展開している。これも実に良い視点である(なおここまでの内容要約はオレ流に意訳しているので誤解なきように。本当にこんな下品な言い方をしているわけではないw)。

とゆーわけで、「魚は頭から腐る」という言葉もあるので、こういった良い記事を書いた記者さんたちは、決して天声人語子のような記者にならぬよう心がけつつ精進されたい(とエラソーに言っておく)。


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東京に雪がふってもう何日もたつのに、道路のはしに雪のカケラが積み上がっていたり、路面が朝晩凍結していたりして、まだ何か危なっかしい。

都心だと積雪量はせいぜいが10センチぐらいだったワケで、北の方にいけばもう「雪が降った」という範疇にも入らないレベル。彼らの日常はこの程度の雪ではまったく何の変化もないわけである。逆にいえば、この東京というのは、この程度の環境の変化にも対応できない脆弱な都市なのだ。

確かに、経済のことなど考えても「この人工的環境が保たれる」という前提がある限り、都市というのはすこぶる効率が良い世界なのだろう。

しかし。我が世を謳歌した恐竜が絶滅したのは環境の変化に適応できなかったからだ、というのは有名な話。初期条件がガラッと変わったらどうなるのか。震災のことを想定するまでもなく、実はこの都市というのはきわめて危ういバランスの上に、つかのま成り立っている世界であるらしい。
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昨年末に買ったゴルフ6(コンフォートラインプレミアムエディション)であるが、年末年始の帰省とかでようやく800キロほど走ったところである。慣らし運転の目安は1000キロだというからもう少し。とりあえず現時点でのチラ裏的備忘録。


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・排気量1.4リットルながら、低回転域のトルク重視の直噴ターボというエコ・コンセプト車である。クラッチはDSG7速というメカで、端的にいえばマニュアル的AT=リアクションのよいAT、みたいなものらしいんだが、渋滞でノロノロという状態を除けば2000回転ぐらいでスパッスパッとギアがアップしていって結構軽快である。ワーゲンのDSGにはしばしば異常振動=ジャダーが出るという報告もあるんだが、そこはモデル末期で対策済みという風に考えたい。ま、ウォルフィプランとかいって余分なゼニを払って5年間は修理無料という迎撃態勢をとっているので、万一不都合がでるのであれば早めに出していただきたい(笑)

・よく聞く話であるが、アイドリングの音はかなり抑え込んであって、信号待ちの時などもエンジンがかかっていることを意識させない。騒音についていうと、高速巡航でも決して五月蠅いクルマではない。高速巡航といえば、クルマの挙動など流石に安定感はある。慣らし運転中ということもありあまりアクセルを踏み込むこともないので、高回転域のフィーリングはまだわからん。が、そもそも普通に走ってると2000~3000回転ぐらいしか使わないで済むクルマなので、まぁあんまりスポーティ走行を想定しても仕方ないのかもしれない

・日本向けの右ハンドル仕様車ではあるのだが、ウインカーの位置変更まではしておらず、日本車とは逆でレバーはハンドル向かって左側。ワイパーレバーは右側にある。しばしば間違う。大衆車でもあるので、この辺までは手が回らなかったということか。慣れるしかないのだろう。あと、日本車ならウインカーレバーあたりについてるライト系のスイッチも、ダイヤル式で右手奥のパネルについてるので、これも一瞬戸惑う

・燃費は良さそうである。高速でフツーに走ってればリッター17,18キロぐらいはいきそうである。欧米車の例にもれず日本ではハイオクを使わざるを得ないが、まぁカネのことをいえばレギュラーでリッター14,15キロ走る車と同等という風にもいえるワケで、ま、それほど悪くはない

・荷室の容量は、これまで乗ってたレガシィツーリングワゴンに比べると体感的には半分ちょっと、みたいな印象。ま、これまで何となく乗せっぱなしだった洗車用バケツみたいなものを下ろして、とりあえずは何とかなるのかな、といったところ

・これまで乗ってた5ナンバーレガシィとの比較ということでいうと、車幅は1790ミリとほとんど10センチも広がってしまった。車体外側にドアハンドルが都合30ミリほど突き出しているというので、実質的には1760ミリという考え方もあろうが、しかし確かにデカイよなーという感覚は禁じ得ない。いまだその感覚に慣れず、細い道などを走る時には若干神経を使う。この辺は慣れていくしかないか。もっとも、最小回転半径は5.0メートルで、前車よりほとんど50センチほども小さい。ここは利点

・カーナビは、結局、無料扱いでワーゲン純正の512SDCWというのをつけてもらった。その正体はクラリオンの2010年発売のNX710同等品ということで、ま、純正品にありがちなことではあるが、どうしても「ひと昔前」「割高」といった感はぬぐえない。ま、助手席用対応(笑)ということでテレビも見られるようセットしてもらったし、しょせんサービス品と思えば文句もいえまい。旧車のナビがクラリオンのNX208という廉価品だったこともあり、少しは賢くなっているということでヨシとしよう(笑)。ちなみに、ブルートゥース接続でiphopne5のハンズフリー通話なども試してみたぞ。あんまり使う機能でもないだろうが

・あと、日本車にくらべるとどうしても収納スペースは狭い。グローブボックスなど、ETCも収容していることもあってか、車検証入れを放り込んだらクルマの取説などは入る余地がないぞ。とりあえず家の中に置いてるのだが、さてどうするか。ちなみに禁煙を成し遂げたオレとしては灰皿も必要なくなったので、灰皿部分を換装してとりつけるノンスモーカートレイというのをネットで見つけて「フォブ・シュランク」という店に注文してしまった。13000円もするので腹が立ったが、この辺は「外車」なので仕方あるまい。届いたらDIYでとりつけよう。

・ちなみに13000円の純正マットは予想通り安っぽく、やはり「フォブ・シュランク」で新しいのを注文したのだった(それから、eBayをみてたら荷室用のカーゴネットを20ドル弱で売ってたのをみつけてオーダー。香港から来るらしいのだが、ちゃんとしたものなのかまがい物かは不明w。こちらも到着待ちである)

・ディーラーで「グラスブルク」と称するガラス系?コーティング処理をしてもらったのだが、その効果は現時点では未知数でアル。「機械洗車すると剥がれるので手洗いで」とか言われたんだが、それってけっこうメンドイかもしれないなぁと今になって思う。確かに雨なんかはソコソコはじいてる風ではあるんだが。ネットで検索してもほとんどヒットしないし、ディーラーでもちゃんと説明聞かなかったので、いまだ謎の部分の多い「グラスブルク」であるw

・とりあえずの感想といえばだいたいこんなところ。あとは故障しないで走ってくれ、と願うばかりデアル(笑


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われわれ日本人というのはアジェンダセッティングというのが非常に苦手で、明治以降を振り返ってみると、なんつーか、こう「西洋先進諸国」のあとを金魚のフンのようにくっついて回っている分にはソコソコ達成というものがあったわけだが、古くはかの文豪夏目漱石が「現代日本の開化」で喝破していたように、それは全然「内発的」なものではなくて、畢竟「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」「涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない」のが近代以降の日本人の宿命なのである。

で、そういう流れは実は今になっても全然変わっていないのだなあと思う。

ここんとこ「日本人も世界のグローバル化に対応しなけりゃいかん」という話になっていて、つまりそれは皮相なレベルでいえば「ちゃんと自己主張する」「言うべきことは言う」=グローバル経済で生き残り可能、みたいなジョーシキとして流布している。

そういう流れの中で例えば「就活」という問題なんかを考えてみると、昨今の学生サンは「オレはこんなことができます、エライでしょ」「オレを雇うとこんなメリットがありますよ」という自己宣伝をさんざっぱらしないといけないらしい。世界標準からいってもそれが当たり前なんだから、とかいって。

バカらしい。

今月の「中央公論」で、最近就活小説を書いたことで話題になってる朝井リョウが言ってることを読んでナルホドと思ったのだが、かみ砕いていうと、われわれ日本人の文化の中にあっては「オレはこんなに有能です」みたいなことをシラフで語れる人間というのは、端的にいって「バカ」である。

本来オレたちの文化の中にあっては、そういうことを言うヤツは非常識で傲慢で鼻持ちならないヤツで、つまり基本的に相手にされない。にもかかわらず、企業の採用担当者なんかも、ハラん中では「だいたいオレ等の会社ン中だって、オレがオレが、みたいなヤツばっかいたらたまらんぞ。アホらしいよなー」と思いつつ、就活学生のイヤイヤながらの自己宣伝を感心した風に聴いていなければならないのである。

つまり、漱石のいうように、今になっても全然自分で信じていないモノサシに従って、こういう就活とかいうバカバカしいお芝居をみんなでしているのだった。いや、実際30年ぐらい前の、オレが「シューカツ」していた時からそういうバカバカしさっつーのはあったけれども、最近の学生さんたちは、もっともっと露骨な自己宣伝ゲームをやらなきゃいけないようなのでホント可哀想だ。

まぁ、そうはいってもそういう自己宣伝ゲームに連戦連敗で、内定とれない→オレってダメなんじゃないのか、みたいに落ち込む若者も多いだろうから言っておくんだが(我ながら偉そうだナw)、今の時代に夏目漱石が生きてたら「ケッ、いつまで猿芝居やってんだオマエラ」って嘆息するぞ。いやむしろバカ笑いするか。

「皮相上滑りの開化」に心の底からつきあう必要なんてないぜ。なんせこっちには漱石先生がついているんだから(笑)。




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