2019年04月

映画「ノストラダムスの大予言」(1974、東宝)のDVDをこのほど入手した。確かまだオレが子供だったころ映画館で観てえらく衝撃を受けた記憶だけはあるのだが、実際には細かいところは全部忘れていた映画である。

なので前々からなんとかして観たかったのであるが、後述するようにこの作品は国内ではDVDとかが一切販売されていない「幻の映画」である。なのでイタリアのアマゾンで売っていたのを取り寄せて今回ようやく念願がかなったという次第。実際鑑賞をしてみるといろいろと物思うところがあった。以下、その辺の感想文を書いてみたい。

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これがジャケット。なんで西洋人が出てきているのかよくわかりません


この映画、簡単にいうと、公害とかに端を発する天変地異で日本が無茶苦茶になっていく様子を描いた一種のパニック映画である。劇中、主人公の科学者(丹波哲郎)が来たるべき最悪の世界を物語るシーンの中で全面核戦争後の世界なんかも描かれる。どうやら、その前年に映画「日本沈没」をヒットさせて味をしめた東宝が二番煎じ的に作った作品ということであるらしい。


そういう映画に何で「大予言」などという名前がついているのかというと、この映画は、当時大ブームを巻き起こした五島勉のベストセラー『ノストラダムスの大予言』を「下敷き」にしているのである。

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五島のノストラダムス解釈によれば、20世紀末の人類というのは公害とか天災とか戦争とかで破滅の危機に瀕する(ことになっていた)。それをどう劇映画の中に組み込んだのかという話になるワケだが、この映画の中の丹波哲郎は、科学者のクセにその予言詩を諳んじることができるほどノストラダムスに通じている人物という設定になっていて、そこから劇中にノストラダムスが引き込まれる仕組みになっている。

もちろん、丹波が語るノストラダムスの解釈は「五島流」である。であるから、彼は「ノストラダムスは世界がヤバイことになると予言している」と信じ込んでおり、事あるごとにその詩を朗唱しては「別にオレは予言を信じているわけではないけれども、放っておくと世界はこの予言通りにハメツしてしまうぞ」というよくわからない理屈を持ち出しては事あるごとに説教をおっぱじめるのだった。

*ちなみになんで丹波がそんな予言に入れ込んでるのかというと、彼の祖先は幕末期にすでにノストラダムスの本を入手しており、以来、一族の人間は黒船来航やら原爆投下やらを予知しては「何いっとるんじゃ!」といって周りのアホな奴らに迫害されてきた――みたいな設定になっているのである。

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これは丹波のオヤジ?が特高にいじめられてるシーン


というわけで、何となく全体の構成というものは察しがついたと思うのであるが、おそらくこれが当時かなり深刻だった公害を「何とかしなくちゃ!」的な時代の流れに棹さす映画でもあったためだろう、公開当時は文部省推薦なんかももらっていたンだが、しかし国内ではビデオやDVDとかで発売されることがついぞ無かった。放射能か何かが降り注いできたニューギニアでその影響によって原住民が人食いを始める場面だとか、先に言った仮想の核戦争後の世界に生き残った人類が化け物みたいに描かれているシーンとかが「被爆者を愚弄しているのか!」的な抗議を受けて、事実上販売不能になってしまったのであった。

ただ、このあいだネットで「イタリアのアマゾンでDVD売ってる!」という情報を見た。半信半疑ではあったものの、注文したらそれが今回本当に届いたのだった。

なぜイタリアでそんなものが発売できたのかはナゾなのだが、とりあえず再生してみると、ネットにも書いてあったようにその画質は相当ひどい。ネットには「VHSの3倍速程度」といった話も書いてあり、オレなどは3倍速がどれほどプアだったかもはや記憶が薄れているのでこれについては何とも言えないが、「ときどき画像が乱れるのでぶっ叩いて直していた大昔のポンコツテレビ」の画像がこんな感じだったような気もする。なのでコレ、たぶん海外で映画を公開した時のフイルムのコピーか何かからムリヤリ起こしたものではないのだろうか。なんとなくアングラな感じがするけれども、それはこの際、仕方がないのである。

閑話休題。ずいぶん前振りが長くなってしまったが、以下はこれを実見して思ったことである。


①「ノストラダムス」は刺し身のツマである

記憶の中では、もっと「ノストラダムスがどうたらこうたら」という話が延々展開されているように思っていたのだが、実はそんな感じではない。先に言ったように、丹波哲朗は時々「××巻××にこう書いてある」とかいって詩を読み上げるのだが、それも全編通じてせいぜい数回である。

あと、岸田今日子があの癖のある声でやはり詩を読み上げ、「失われた乙女の輝き――それは再び戻ることがない」みたいな不気味なナレーションを入れるシーンがところどころあるのだが、こっちもせいぜい数回である。

結局、パニック映画のコンセプトが根底にあって、たまたまベストセラーで名の売れたノストラダムスをつっかえ棒としてチョコッと利用する――基本的な映画の構造はそんな感じなのだった。

もっとも、今でこそ「ノストラダムス? そんなもの全部こじつけでしょw」という感じになっているけれども、当時のノストラダムスというのはみんなマジ怖がってたネタであるから、その詩がところどころに引用されるだけで皆さん震え上がってしまって結構強烈な印象を残したんではないかとも思う。

実際、オレの記憶の中では「アレって相当に恐ろしい映画」という印象が残っていたのであるし。今から考えれば「刺し身のツマ」。しかし、当時はそれだけでも十分にインパクトを与えることができた。そういう事情があったのではないかと思われる。


②時代は変わってしまった

劇中、丹波哲朗の娘役で由美かおるが出てくるのだが、彼女は黒沢年雄といい仲になって妊娠する。で、「女の務めは子供を生んで育てることです」みたいなことを言う。

これには背景があって、丹波の妻の司葉子がちょうどその時期に死んでしまうのだった。つまり「一方で死ぬ人あれば、一方に生まれる命あり」という、いわば「古事記」のイザナギ・イザナミの話にも通じる人間賛歌みたいな文脈でこういう話が出てくるのである。「人類、そう簡単に滅びてなるものか!」的なメッセージと取っても良い。

だがしかし。今の時代にこういうセリフを語らせたらどうでしょう。「いや、人類が滅びるとか、そういう話はどうでもいいから。どんな状況だろうが女を産む性だとか決めつけるのはやっぱり駄目でしょ! そういうイデオロギーを刷り込もうとする映画なんて許せない!」とかいって、皆さんから袋だたきになるのではないでしょうか?

発売停止の原因ともなった「ニューギニアの人食い人種」「核戦争後の異形の人類」といった表現も、まぁ当時だからアリだったんだろうという気がする。やっぱりこの映画も1970年代だから作れたンだろうなあとオレはすっかり遠い目状態である。


③何だかよくわからない演出

目立ったのは「意図がよくわからない演出」である。由美かおるはバレエ教室の先生という設定になっており、その流れなのか彼女と黒沢年男がダンスの公演を見に行くシーンがある。すると、黒沢の目にダンサーたちが巨大化して写り、わが目を疑う――みたいなシュールな一コマが出てきたりする。放射能だか化学物質とかの影響で黒沢おかしくなってます、という表現なのだろうか? その割には最後まで黒沢年男、元気なのだが・・・。意味不明。

あと、さっき書いたように由美かおるは妊娠するのだが、そのことを黒沢年男に告げたあと、「アハハハー」(めでたい!)みたいなニュアンスで、海辺の砂丘みたいなところで踊りまくるシーンがある。由美かおるのダンスシーンを見せたかったのかもしらんが、「あんた妊娠してるんでしょ?」というツッコミが喉まで出かかる。ちなみに監督は舛田利雄。

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この踊ってるのが由美かおる


④その他のツッコミどころ


ついでに書いとくと、「世界はハメツに向かっている」というストーリーを成立させるため、作中では奇っ怪な出来事がいろいろ起こる。「SSTが瀬戸内上空で爆発したためオゾン層が破壊され、超紫外線が降り注ぐ」というシーンでは、田舎の農家の茅葺き屋根が火を噴き、屋外に逃げ出した人間が熱線に焼かれて倒れていく。

あるいは、亜鉛鉱の近くに住む人々の中に「フツーに歩いているのに異常にスピードが出てしまう子供」「異常にジャンプ力がある子供」が出現する、などという意味不明のエピソードも出てくる。このあたりは、うーん、もうちょっと「それっぽい話」を作れなかったのかなぁと思いました。

西丸震哉なんかも協力スタッフに名前が出てたンで、いやしくも科学者の端くれだったらこういうトコなんとかしろよ、みたいな。あと超常現象アドバイザーだか何だかで斎藤守弘の名前もチラッと見えた。まぁ・・・この人には特に言うべきことはない(笑)。

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これは何か空に現れた異常現象

もっとも、そういう「つまづきの石」を無理矢理はねとばしてストーリーを前へ前へと進めていく原動力というのもあって、それは丹波哲朗の圧倒的な演技力(?)である。無理無体はもちろん承知。それでもあの独特の節回しと声量で有無を言わさず説得にかかる。「さすが霊界の宣伝マン」とでもいおうか、ああいう圧倒的な存在感をもつ役者は最近いないなぁとしみじみ思うのだった。




さて、まとめ。いろいろアラもある映画である。だがしかし、とても興味深い映画であるのも間違いはない。

最後にひとつ言っておくならば、「当時のノストラダムスブームというのはのちのオウム事件などにも影響を与えた」などとも言われているところであり、そういう意味ではこの映画なども当時の世相を理解する上ではとても貴重な文化遺産である。確かに被爆者団体からすれば神経を逆なでされるシーンがあったのかもしらんが、後世に広くこの映画を伝えていくこともまた重要なのではないだろうか。東宝さんもここはひとつ、元号も「平成」から「令和」に代わることでもあるし、蛮勇をふるってDVD化等を検討していただきたいものである。

【追記】

なお、このイタリア版DVDは当然ヨーロッパのPAL形式なので、日本のNTSCとは互換性がない。フツーのプレーヤーでは映らないので、お買い上げになったらとりあえずPCで観るのが早道である。今はAmazon.itのココで売っているが、あなたがご覧になっている時点で売っているかどうかはわからない。

【追記2】
この映画で一番感心した役者は、しかし丹波哲郎ではなくて「浜村純」であった(浜村淳ではない)
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これが浜村純

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久しぶりに「天声人語」について。

統一地方選が終わったタイミングということもあってか、けさの「天声人語」は「地方議会で議員のなり手がいない」という話だった。

選挙にでるには会社を辞めなければならんのでリスクが多い。仮に当選してもたいした報酬が出るわけでもない。となると「プロとして責任を重くし、報酬も上げる」か、「アマチュアだと割り切り、兼業をおおいに認めて、報酬も日当程度にする」かの二択である。政治学者の待鳥聡史氏の議論をふまえてそういうことを言っている。

まあ、これは理詰めでいけばそういうことになるのだろう。ただ、最後まで読むとなんだか「また朝日が説教をしているなぁ」感が色濃くにじみ出てしまうのだった。こんな感じ。


何事も締め切りが大事だ。わが議会はどうするかの議論をすぐに始め、次の選挙までに必要な改革をする。それくらいのスピード感がほしい。4年後の統一地方選でまた頭を抱えないために。


なにか問題があったら「早急に対応しなければならない」というのは正論である。正論であるけれども、そういう正論に沿ってすぐに話が進まないのにはそれなりの事情というものがあるのだ。

今回の問題でも、たとえばこのご時世に「地方議員の報酬を上げる」などといったらアホな大衆が「オレらがこんなに貧乏しておるのに! そんなことは許さん!」といっていきり立つのは目に見えておる。

兼業OKにして議員になるハードルを下げようというアイデアも実際には難しい。いまだに多くの企業は労働者に対してテッテ的な滅私奉公を要求する。で、その割に終身雇用は保障しないし、内部留保はため込んでも給料は上げないという図々しい企業が増えているのがなんとも気に入らんのであるが、ともかくそういう企業が「兼業」などを軽々に認めるワケはないのだ(とゆーか、そんな柔軟な発想のできる企業が多かったら今の日本はこんな惨状に陥らなかったような気もする)。

そのへんをすっとばして、「何事も締め切りが大事だ」「スピード感がほしい」とか一般論をぶって何事かを言ったかのような気になってしまう。これが「天声人語」の悪いところなのだ。

それがうまくいかん背景というものがある。たぶんそれはこの国が抱え込んだ長年の宿痾のようなものと骨がらみなのであって、とりあえずそこに一太刀浴びせるぐらいのことをしてほしい。それでないと「名物コラム」の名が泣くというものである。

と同時にオレなどは、「隗より始めよ」というヤツで、朝日新聞サンも長期低落傾向にある新聞業界の立て直しに「スピード感」を発揮してほしいと思う。なぜ売れないのか。どうすれば新聞を守れるのか。そのあたりを考えた上で果敢に対策を実行する。「何事も締め切りが大事」なのだから。

せっかくなので、ここで一つ提案をして差し上げよう。まず急ぐべきは夕刊の廃止。ネット時代にあって夕刊の存在意義というのは急速に薄れており、こんなものにリソースを割いている余裕はない。じっさい、産経新聞は夕刊廃止にいちはやく踏み切っておる。

当然、販売店が「やめてくれ」といって泣きついてくるだろう。だが、正論に沿って大ナタを振るうべきだと自分で言っているのだから仕方あるまい。


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朝日新聞の連載企画「アロハで猟師してみました」が終わってしまったようだ。

例によってネット上ではカネを払わんと全文が読めないけれども、最終回の記事にいちおうリンクを貼っておこう。

で、オレもかねてから期待していたように、書き手の近藤康太郎記者は「ヒトは他の生物を殺めるという原罪を背負って生きていくしかないのダ!」というテーゼを強調して去っていったのでソコは大変結構である。あるけれども、この最終回はちょっとリクツが勝った感じで強引にまとめに入った感じもある。

推測するに上のほうのヒトから「ちょっと過激すぎるんじゃネ(怒」とか言われて――あるいは他のマスコミの記者を支局に招き入れて楽しく遊んでいるシーンとかあったのでそっちがマズかったのかもしらんが――とにかく終了したテイにせねばならず、そこでいわゆる「俺たちの戦いはこれからだ!」的なシメを強制された感もないではない。

それはちょっと深読みしすぎかもしらんが、なんかお上品な朝日新聞にアナーキーなテイストの記事が載ったのはなかなか痛快ではあった。二の矢、三の矢を待つ。

【追記】
その後、この筆者は「アロハで猟師、はじめました」という本を出したので、感想文を書いてみた→こちらへ

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もう何度も書いているような気がするのだが、会田綱雄の「アンリの扉」という詩があって、これがなんていうかスゲー好きである。

なんか「人の輪に入っていけないオレ」の気持ちを代弁してくれているようで、何だかとても嬉しい。部分的にちょっと引用していいだろうか(文化庁はいけないと言うのだろうが、ここはちょっとだけ見逃していただきたいw)。


(ああ
 今日もまた
 ノックさえしなかつた
 なんということだろう
 あれほどかたく
 ちかつたのに
 扉のなかからもれてくる
  やさしいきぬずれや
  ささやき
  かすかなわらい
  それがなぜきまつて
  おのれの火を
  ふきけすのか)


ま、そういう詩である。


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たまに昔かいたブログのエントリーをボーッと見てまわったりするのだが、これはいまだ「スマホ」が一般化するはるか以前の2006年、Nokiaのスマートフォン「Nokia6630」(写真)をドコモが扱うことになった――という話。

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当時は「スマホとかいっても所詮一部の人間が遊ぶためのガジェットだよね」というイメージがあって、こんなにみんな使うようになるとは全く思ってなかった。「タブレット型」という形状が一般化するということもわかんなかった。



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昔からちょこちょこKindleのリーダー端末は買ってきたのだが、今度はKindle Oasisまで買ってしまった。防水機能がついたヤツで、しばらく新しいのを買っていなかった間に画面調整とかの自由度もかなり増したみたい。かなり軽いし。三月末に6000円引きであったか、若干のセールをしていたのでついフラフラと、である。

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これまでも実際にはあんまり使ってこなかったのだが、なんというかこういうガジェットはついつい魔に魅入られたように買ってしまうものである。

で、とりあえずいろいろいじっているのだが、写真は自炊した文庫本のPDFを表示してみたところ。余白の処理とかをいじればもうすこし大きくできるのだろうが、とりあえずこのままではちとツラいようだ。


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