映画「ノストラダムスの大予言」(1974、東宝)のDVDをこのほど入手した。確かまだオレが子供だったころ映画館で観てえらく衝撃を受けた記憶だけはあるのだが、実際には細かいところは全部忘れていた映画である。
なので前々からなんとかして観たかったのであるが、後述するようにこの作品は国内ではDVDとかが一切販売されていない「幻の映画」である。なのでイタリアのアマゾンで売っていたのを取り寄せて今回ようやく念願がかなったという次第。実際鑑賞をしてみるといろいろと物思うところがあった。以下、その辺の感想文を書いてみたい。
これがジャケット。なんで西洋人が出てきているのかよくわかりません
そういう映画に何で「大予言」などという名前がついているのかというと、この映画は、当時大ブームを巻き起こした五島勉のベストセラー『ノストラダムスの大予言』を「下敷き」にしているのである。
*ちなみになんで丹波がそんな予言に入れ込んでるのかというと、彼の祖先は幕末期にすでにノストラダムスの本を入手しており、以来、一族の人間は黒船来航やら原爆投下やらを予知しては「何いっとるんじゃ!」といって周りのアホな奴らに迫害されてきた――みたいな設定になっているのである。
というわけで、何となく全体の構成というものは察しがついたと思うのであるが、おそらくこれが当時かなり深刻だった公害を「何とかしなくちゃ!」的な時代の流れに棹さす映画でもあったためだろう、公開当時は文部省推薦なんかももらっていたンだが、しかし国内ではビデオやDVDとかで発売されることがついぞ無かった。放射能か何かが降り注いできたニューギニアでその影響によって原住民が人食いを始める場面だとか、先に言った仮想の核戦争後の世界に生き残った人類が化け物みたいに描かれているシーンとかが「被爆者を愚弄しているのか!」的な抗議を受けて、事実上販売不能になってしまったのであった。
閑話休題。ずいぶん前振りが長くなってしまったが、以下はこれを実見して思ったことである。
①「ノストラダムス」は刺し身のツマである
記憶の中では、もっと「ノストラダムスがどうたらこうたら」という話が延々展開されているように思っていたのだが、実はそんな感じではない。先に言ったように、丹波哲朗は時々「××巻××にこう書いてある」とかいって詩を読み上げるのだが、それも全編通じてせいぜい数回である。
あと、岸田今日子があの癖のある声でやはり詩を読み上げ、「失われた乙女の輝き――それは再び戻ることがない」みたいな不気味なナレーションを入れるシーンがところどころあるのだが、こっちもせいぜい数回である。
結局、パニック映画のコンセプトが根底にあって、たまたまベストセラーで名の売れたノストラダムスをつっかえ棒としてチョコッと利用する――基本的な映画の構造はそんな感じなのだった。
②時代は変わってしまった
だがしかし。今の時代にこういうセリフを語らせたらどうでしょう。「いや、人類が滅びるとか、そういう話はどうでもいいから。どんな状況だろうが女を産む性だとか決めつけるのはやっぱり駄目でしょ! そういうイデオロギーを刷り込もうとする映画なんて許せない!」とかいって、皆さんから袋だたきになるのではないでしょうか?
発売停止の原因ともなった「ニューギニアの人食い人種」「核戦争後の異形の人類」といった表現も、まぁ当時だからアリだったんだろうという気がする。やっぱりこの映画も1970年代だから作れたンだろうなあとオレはすっかり遠い目状態である。
③何だかよくわからない演出
目立ったのは「意図がよくわからない演出」である。由美かおるはバレエ教室の先生という設定になっており、その流れなのか彼女と黒沢年男がダンスの公演を見に行くシーンがある。すると、黒沢の目にダンサーたちが巨大化して写り、わが目を疑う――みたいなシュールな一コマが出てきたりする。放射能だか化学物質とかの影響で黒沢おかしくなってます、という表現なのだろうか? その割には最後まで黒沢年男、元気なのだが・・・。意味不明。
あと、さっき書いたように由美かおるは妊娠するのだが、そのことを黒沢年男に告げたあと、「アハハハー」(めでたい!)みたいなニュアンスで、海辺の砂丘みたいなところで踊りまくるシーンがある。由美かおるのダンスシーンを見せたかったのかもしらんが、「あんた妊娠してるんでしょ?」というツッコミが喉まで出かかる。ちなみに監督は舛田利雄。
④その他のツッコミどころ
もっとも、そういう「つまづきの石」を無理矢理はねとばしてストーリーを前へ前へと進めていく原動力というのもあって、それは丹波哲朗の圧倒的な演技力(?)である。無理無体はもちろん承知。それでもあの独特の節回しと声量で有無を言わさず説得にかかる。「さすが霊界の宣伝マン」とでもいおうか、ああいう圧倒的な存在感をもつ役者は最近いないなぁとしみじみ思うのだった。
さて、まとめ。いろいろアラもある映画である。だがしかし、とても興味深い映画であるのも間違いはない。
最後にひとつ言っておくならば、「当時のノストラダムスブームというのはのちのオウム事件などにも影響を与えた」などとも言われているところであり、そういう意味ではこの映画なども当時の世相を理解する上ではとても貴重な文化遺産である。確かに被爆者団体からすれば神経を逆なでされるシーンがあったのかもしらんが、後世に広くこの映画を伝えていくこともまた重要なのではないだろうか。東宝さんもここはひとつ、元号も「平成」から「令和」に代わることでもあるし、蛮勇をふるってDVD化等を検討していただきたいものである。
なので前々からなんとかして観たかったのであるが、後述するようにこの作品は国内ではDVDとかが一切販売されていない「幻の映画」である。なのでイタリアのアマゾンで売っていたのを取り寄せて今回ようやく念願がかなったという次第。実際鑑賞をしてみるといろいろと物思うところがあった。以下、その辺の感想文を書いてみたい。
これがジャケット。なんで西洋人が出てきているのかよくわかりません
この映画、簡単にいうと、公害とかに端を発する天変地異で日本が無茶苦茶になっていく様子を描いた一種のパニック映画である。劇中、主人公の科学者(丹波哲郎)が来たるべき最悪の世界を物語るシーンの中で全面核戦争後の世界なんかも描かれる。どうやら、その前年に映画「日本沈没」をヒットさせて味をしめた東宝が二番煎じ的に作った作品ということであるらしい。
そういう映画に何で「大予言」などという名前がついているのかというと、この映画は、当時大ブームを巻き起こした五島勉のベストセラー『ノストラダムスの大予言』を「下敷き」にしているのである。
五島のノストラダムス解釈によれば、20世紀末の人類というのは公害とか天災とか戦争とかで破滅の危機に瀕する(ことになっていた)。それをどう劇映画の中に組み込んだのかという話になるワケだが、この映画の中の丹波哲郎は、科学者のクセにその予言詩を諳んじることができるほどノストラダムスに通じている人物という設定になっていて、そこから劇中にノストラダムスが引き込まれる仕組みになっている。
もちろん、丹波が語るノストラダムスの解釈は「五島流」である。であるから、彼は「ノストラダムスは世界がヤバイことになると予言している」と信じ込んでおり、事あるごとにその詩を朗唱しては「別にオレは予言を信じているわけではないけれども、放っておくと世界はこの予言通りにハメツしてしまうぞ」というよくわからない理屈を持ち出しては事あるごとに説教をおっぱじめるのだった。
*ちなみになんで丹波がそんな予言に入れ込んでるのかというと、彼の祖先は幕末期にすでにノストラダムスの本を入手しており、以来、一族の人間は黒船来航やら原爆投下やらを予知しては「何いっとるんじゃ!」といって周りのアホな奴らに迫害されてきた――みたいな設定になっているのである。
というわけで、何となく全体の構成というものは察しがついたと思うのであるが、おそらくこれが当時かなり深刻だった公害を「何とかしなくちゃ!」的な時代の流れに棹さす映画でもあったためだろう、公開当時は文部省推薦なんかももらっていたンだが、しかし国内ではビデオやDVDとかで発売されることがついぞ無かった。放射能か何かが降り注いできたニューギニアでその影響によって原住民が人食いを始める場面だとか、先に言った仮想の核戦争後の世界に生き残った人類が化け物みたいに描かれているシーンとかが「被爆者を愚弄しているのか!」的な抗議を受けて、事実上販売不能になってしまったのであった。
ただ、このあいだネットで「イタリアのアマゾンでDVD売ってる!」という情報を見た。半信半疑ではあったものの、注文したらそれが今回本当に届いたのだった。
なぜイタリアでそんなものが発売できたのかはナゾなのだが、とりあえず再生してみると、ネットにも書いてあったようにその画質は相当ひどい。ネットには「VHSの3倍速程度」といった話も書いてあり、オレなどは3倍速がどれほどプアだったかもはや記憶が薄れているのでこれについては何とも言えないが、「ときどき画像が乱れるのでぶっ叩いて直していた大昔のポンコツテレビ」の画像がこんな感じだったような気もする。なのでコレ、たぶん海外で映画を公開した時のフイルムのコピーか何かからムリヤリ起こしたものではないのだろうか。なんとなくアングラな感じがするけれども、それはこの際、仕方がないのである。
閑話休題。ずいぶん前振りが長くなってしまったが、以下はこれを実見して思ったことである。
①「ノストラダムス」は刺し身のツマである
記憶の中では、もっと「ノストラダムスがどうたらこうたら」という話が延々展開されているように思っていたのだが、実はそんな感じではない。先に言ったように、丹波哲朗は時々「××巻××にこう書いてある」とかいって詩を読み上げるのだが、それも全編通じてせいぜい数回である。
あと、岸田今日子があの癖のある声でやはり詩を読み上げ、「失われた乙女の輝き――それは再び戻ることがない」みたいな不気味なナレーションを入れるシーンがところどころあるのだが、こっちもせいぜい数回である。
結局、パニック映画のコンセプトが根底にあって、たまたまベストセラーで名の売れたノストラダムスをつっかえ棒としてチョコッと利用する――基本的な映画の構造はそんな感じなのだった。
もっとも、今でこそ「ノストラダムス? そんなもの全部こじつけでしょw」という感じになっているけれども、当時のノストラダムスというのはみんなマジ怖がってたネタであるから、その詩がところどころに引用されるだけで皆さん震え上がってしまって結構強烈な印象を残したんではないかとも思う。
実際、オレの記憶の中では「アレって相当に恐ろしい映画」という印象が残っていたのであるし。今から考えれば「刺し身のツマ」。しかし、当時はそれだけでも十分にインパクトを与えることができた。そういう事情があったのではないかと思われる。
劇中、丹波哲朗の娘役で由美かおるが出てくるのだが、彼女は黒沢年雄といい仲になって妊娠する。で、「女の務めは子供を生んで育てることです」みたいなことを言う。
これには背景があって、丹波の妻の司葉子がちょうどその時期に死んでしまうのだった。つまり「一方で死ぬ人あれば、一方に生まれる命あり」という、いわば「古事記」のイザナギ・イザナミの話にも通じる人間賛歌みたいな文脈でこういう話が出てくるのである。「人類、そう簡単に滅びてなるものか!」的なメッセージと取っても良い。
だがしかし。今の時代にこういうセリフを語らせたらどうでしょう。「いや、人類が滅びるとか、そういう話はどうでもいいから。どんな状況だろうが女を産む性だとか決めつけるのはやっぱり駄目でしょ! そういうイデオロギーを刷り込もうとする映画なんて許せない!」とかいって、皆さんから袋だたきになるのではないでしょうか?
発売停止の原因ともなった「ニューギニアの人食い人種」「核戦争後の異形の人類」といった表現も、まぁ当時だからアリだったんだろうという気がする。やっぱりこの映画も1970年代だから作れたンだろうなあとオレはすっかり遠い目状態である。
目立ったのは「意図がよくわからない演出」である。由美かおるはバレエ教室の先生という設定になっており、その流れなのか彼女と黒沢年男がダンスの公演を見に行くシーンがある。すると、黒沢の目にダンサーたちが巨大化して写り、わが目を疑う――みたいなシュールな一コマが出てきたりする。放射能だか化学物質とかの影響で黒沢おかしくなってます、という表現なのだろうか? その割には最後まで黒沢年男、元気なのだが・・・。意味不明。
あと、さっき書いたように由美かおるは妊娠するのだが、そのことを黒沢年男に告げたあと、「アハハハー」(めでたい!)みたいなニュアンスで、海辺の砂丘みたいなところで踊りまくるシーンがある。由美かおるのダンスシーンを見せたかったのかもしらんが、「あんた妊娠してるんでしょ?」というツッコミが喉まで出かかる。ちなみに監督は舛田利雄。
④その他のツッコミどころ
ついでに書いとくと、「世界はハメツに向かっている」というストーリーを成立させるため、作中では奇っ怪な出来事がいろいろ起こる。「SSTが瀬戸内上空で爆発したためオゾン層が破壊され、超紫外線が降り注ぐ」というシーンでは、田舎の農家の茅葺き屋根が火を噴き、屋外に逃げ出した人間が熱線に焼かれて倒れていく。
あるいは、亜鉛鉱の近くに住む人々の中に「フツーに歩いているのに異常にスピードが出てしまう子供」「異常にジャンプ力がある子供」が出現する、などという意味不明のエピソードも出てくる。このあたりは、うーん、もうちょっと「それっぽい話」を作れなかったのかなぁと思いました。
西丸震哉なんかも協力スタッフに名前が出てたンで、いやしくも科学者の端くれだったらこういうトコなんとかしろよ、みたいな。あと超常現象アドバイザーだか何だかで斎藤守弘の名前もチラッと見えた。まぁ・・・この人には特に言うべきことはない(笑)。
もっとも、そういう「つまづきの石」を無理矢理はねとばしてストーリーを前へ前へと進めていく原動力というのもあって、それは丹波哲朗の圧倒的な演技力(?)である。無理無体はもちろん承知。それでもあの独特の節回しと声量で有無を言わさず説得にかかる。「さすが霊界の宣伝マン」とでもいおうか、ああいう圧倒的な存在感をもつ役者は最近いないなぁとしみじみ思うのだった。
さて、まとめ。いろいろアラもある映画である。だがしかし、とても興味深い映画であるのも間違いはない。
最後にひとつ言っておくならば、「当時のノストラダムスブームというのはのちのオウム事件などにも影響を与えた」などとも言われているところであり、そういう意味ではこの映画なども当時の世相を理解する上ではとても貴重な文化遺産である。確かに被爆者団体からすれば神経を逆なでされるシーンがあったのかもしらんが、後世に広くこの映画を伝えていくこともまた重要なのではないだろうか。東宝さんもここはひとつ、元号も「平成」から「令和」に代わることでもあるし、蛮勇をふるってDVD化等を検討していただきたいものである。
【追記】
なお、このイタリア版DVDは当然ヨーロッパのPAL形式なので、日本のNTSCとは互換性がない。フツーのプレーヤーでは映らないので、お買い上げになったらとりあえずPCで観るのが早道である。今はAmazon.itのココで売っているが、あなたがご覧になっている時点で売っているかどうかはわからない。
【追記2】
この映画で一番感心した役者は、しかし丹波哲郎ではなくて「浜村純」であった(浜村淳ではない)
これが浜村純