2020年04月

さて、以前このブログで中村省三『宇宙人大図鑑』のネタ本となったとおぼしき Patrick Huyghe『The Field Guide to Extraterrestrials』について書いたことがあるが、今回はこのネタ本には掲載されていたものの『宇宙人大図鑑』では採用されなかった事例をひとつご紹介しよう。イラストが衝撃的だったので。

名称未設定



1972年8月28日
アルゼンチン・ブエノスアイレス州バイアブランカ
目撃者:エドゥアルド・フェルナンド・デデウ Eduardo Fernando Dedeu

午前3時、自動車の修理工である目撃者は、古いクルマで家に向かっていたが、ラジオのアンテナの調子がおかしかったので直そうとクルマを止めた。その時になって、彼は道ばたにヒッチハイカーがいるのに気づき、乗せてやった。デデウは彼と話をしようとしたが、その男は意味不敬の音を発するだけだったので諦めた。

その奇妙なヒッチハイカーの身長は6フィートよりちょっと高く、帽子のようなものをかぶり、また襟を立てたコートを着ていた。その男は頭部を別にすれば普通の人間のようにみえた。その頭部はイースター島の石像のそれのようだったのだ。彼のアゴは、ほとんど胸の中程にまで届こうかというぐらい長かった。

15マイルほど行ったところで、クルマは突然止まり、ライトも消えてしまった。デデウはその時、前方の道路上にひっくり返った大きなバスのようなもの――それは光っていた――があるのを見た。彼がもっとよく見ようと止まったクルマから出ていったところ、その「バス」はUFOだということが分かった。その物体は実際は地面の上を移動していて、窓からは白い光、真下には緑の光が見えた。

デデウが振り返ってクルマに戻ってくると、例のヒッチハイカーはいなくなっていた。助手席のドアは開いており、ハンドルは取り外されて床に落ちていた。それから物体が去って行くと、クルマは正常に動くようになった。デデウはそのヒッチハイカーがいないかと辺りをグルッと回ってみたが、彼は見つからなかった。近くにいた夜間警備員はのちに、その辺りに不思議な光が滞空していたことを証言した。

これと同様の「長いアゴ」をもつヒューマノイドは、UFOと関連するかたちでそれ以降7ヶ月間にわたってアルゼンチンで目撃された。また最近では1994年9月にも米国で目撃されている。

【ソース】
ジェーン・トーマス「宇宙から来たヒッチハイカー」=『フライング・ソーサー・レビュー』18,no.6(1972年11-12月)23-24p
「宇宙から来たヒッチハイカー 詳報」=『フライング・ソーサー・レビュー ケース・ヒストリーズ』補遺14(1973年4月)iiip


冷静に考えると「異常にアゴが長い男がヒッチハイクをしていた話」であって、必ずしもこの男とUFOに関係があったとは言えない。

しかし、掲載されているイラストを見ると、顔の長さは1.5フィート、つまり約45センチほどもあったようだ。日本人男性の顔の長さというのは、「日本人頭部寸法データベース2001」なるサイトをみると約23センチ。つまりこのアゴ男の顔の長さは、なんと通常の日本人の2倍もあったことになる!

ちなみに、顔の長さで知られるあのタレントの「なすび」=写真=でも、ググってみると顔の大きさは30センチで、アゴ男はこれをも軽々と上回る。となると伝説の巨人プロレスラー、アンドレ・ザ・ジャイアントはどうだったのか知りたくなるところだが、残念ながら調べてみてもこの情報は得られなかった。

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ともかく、このアゴ男の顔のデカさはおそらくギネス級。となると、そうそう偶然が重なるとも思われず、直後に出現したUFOとコイツの間にはなんらかの関係アリと考えたくなる気持ちも分からんではない(参考までにギネスのサイトをチェックしてみたが、ザッとみたところ「世界で一番顔の長い男」という項目は見当たらなかった)。

この事件の名称が業界的にどういうことになっているかは知らんが、オレ的には「モアイ男事件」でいいと思う。続報を待ちたい(と無理な注文をして終わる)。


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この前のエントリーで書いたように、このたびの新型コロナウイルス禍というのは歴史上の大事件である。であればこそ、日本で感染爆発が起きても全くおかしくない今、東京の片隅で暮らしている一庶民がどんなことを考えていたのかというのを記録するのも、いかほどか意味のあることかもしれぬ。ということで、今、ちょっと考えていることを書いておきたい。


オレがたまに覗きにいくブログに「江草乗の言いたい放題」というのがある。ひと言でいうと、「へそ曲がりな拗ね者が世の中に向けて罵詈雑言を発する」というタイプのブログで、つまりオレの大好きなタイプのブログである。ここで最近、書き手である江草乗氏が「みんなで引きこもり」というタイトルのエントリーを書いていた。これがとても良かった。

リンクを張っているので直接とんでいって読んで頂くのが良いのだが、どういう事を言っているかというと、要するに、これまで「引きこもり」というのは世間的にはとても後ろめたい行為であった。だが、今回のコロナウイルスの感染症というのは、とにかく人が集まってワイワイガヤガヤすると一気に感染が広まってしまう病気である。すると、事情はかなり変わってくる。そう、今までずっと白い目でみられていた「引きこもり」というのは、一転してとても好ましい行動になってしまったのである。引きこもればウイルスを移すこともなく、移されることもない。そういうことでオカミも「もう外にでないで家の中にずっといてください」と懇願しているほどである。

この江草氏はそういった動向を鋭く見抜き、この文章を次のような力強い言葉で締めくくっている。「オレも引きこもりの道を模索しないといけないのである。がんばって引きこもらないといけない」。


一読して、全くその通りであると思った。と同時に思ったのは、これまで世間は「引きこもり」をさんざんバカにしてきたけれども、そんな常識なんてものは、しょせん特定の時代・場所でしか通用しないものなのではないか、ということだった。

改めて我々が生きているこの現代社会の常識というのを確認すると、人がいっぱい集まって賑やかで経済活動が盛んに行われているような場所はスバラシイということになっている。一方で、山間の限界集落とかでほとんど人が住んでいない過疎地というのはみすぼらしくてミジメである。

あるいは、人間のキャラクターなんてものを考えてみても、社交的でいろんな人と気軽にペチャクチャおしゃべりするような人は「明るい」とかいってみんなから愛され、好かれる。逆に人見知りをしたり人付き合いが苦手だったりして、口数の少ない人間・でしゃばることのできない人間は「暗い」とかいって敬遠される。先に出てきた「引きこもり」なんていうのも、おそらくそういう価値観の中でディスられてきた。

だが、しかし。先にも言ったように、新型コロナウイルスとの戦いにおいては、この「賑やかな都会」「ペチャクチャおしゃべりする社交的人間」といった従来はプラス評価をされてきたモノが、すげえ迷惑な存在になってしまっている。とにかくそういう場所・人間は感染をドンドン広げかねず、最悪の場合「文明」を破壊してしまうのである。であるからこそ、先の江草氏の指摘の通り、ずっとさげすまれてきた「引きこもり」が、今では逆に好ましいライフスタイルになっている。

まさに180度の価値観の大転換である。確かにコロナ問題にはオレなども心を痛めているのではあるが、一方で、オレなども先のキャラクター類型でいえば「暗い」とか言われがちなタイプなので、この大逆転劇に「そらみたことか。世の中の価値観なんて別に絶対的なものじゃねえんだよ! なんなんだ、引きこもりをさんざんバカにしやがって!」的なことを口走りたい気分もいかほどかある。


で、さらに思うのである。そもそも種としての生物が生き残っていくためには、突然変異によって平均値から離れた性質をもった固体が生まれてくることが重要である。環境というものは変わる。環境が変われば、生物はそれに適合していかねばならない。だが、特定の環境で生きていくのにピッタリというような固体ばっかりだったらどうか。その集団は変化に弱い。細々とであれ、集団の中に「主流に乗れない変わったタイプ」を生かしておく。そういった連中こそが、環境に大きな変化が起きた時、ちょうど活躍できるタイプかもしれない(できないことも多いだろうがw)。

かように、時流に乗れないタイプの存在というのは、実は社会にとってはムダではない。先の江草氏の主張に沿っていえば、「家の中にずっと籠もって時が過ぎるのを待つ」というふるまいをつつがなく完遂できるのは実は大きな才能なのかもしれない。同様に、都会はエラく、田舎はミジメというのも大いなる幻想で、田舎には田舎の存在意義がちゃんとある。この騒ぎが終息したのち、そんな風に感じる人が少しでも増えていればいいのだが。







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というわけで、この3月に入って世界各国を一気に震撼させるに至った新型コロナウイルスは、我がニッポンでも着々と感染者を増やし続けているようである。

素人なりに色々なニュースなどをみていると、何となく今はどういう状況なのかが分かってくる。

結局のところ、1年だか1年半後だかしらんが、世界の科学・医学者たちが一生懸命作っているワクチンや治療薬ができるまでは、だましだまし感染の拡大を抑えていくしかないようである。

もちろん、いったん感染した人には免疫ができるので、国民の5割6割が罹患してしまうともう爆発的な感染はおこらず、つまり落ち着いていく。いわゆる「集団免疫」ができた状態である。その段階までジッと耐え忍ぶという手もないではないのだが、しかしこのウイルスの罹患者の致死率は1~2%とか言われているので、仮に日本国民1億2000万人の5割=約6000万人が罹患するとすると――そしてワクチン・治療薬がないとすると――致死率1~2%として自動的に60-120万人が死ぬ。

いま日本で1年間に死ぬ人は約130万人だというから、仮に1年間で60万人が死ぬと平時のほぼ5割増しであり、120万人だとほぼ2倍である。もちろん、ほっといても死にそうな人が新型コロナでとどめを刺されるケースもあるハズなので単純にそれだけ増えるワケではないだろうが、まぁ実感としては毎日そこらじゅうで葬式やってる感じになるだろう。

というか、第二次世界大戦で、兵士とかじゃなくて国内で犠牲になった市民は80万人だったというから、ほとんどそれに匹敵する感じでバタバタ人が死んでいくのである。

というところまで考えてくると、なんかどんよりした気分になってきて、そういえばこんな感じ前にもあったなぁと思い出すのは、例の東日本大震災のあとの「福島第一原発が爆発するんじゃないか」と言われていた日々のことだった。

そしてこういう無残な状態は外国でも起きている。日本は現時点ではまだマシと言われており、且つ今のところは死ぬのは爺さん・婆さんメインだと言われているので、まぁ心配な親族はいるけれども、まだ50代のオレは罹患してもたぶん大丈夫だとたかをくくっているのだが、冷静に考えると我々はいま世界史的な大事件に立ち会っているのだった・・・!


そう考えると、なんだか落ち着かなくなってくる。最近、スーパーとかでトイレットペーパーやら食糧を買い占める連中が出てきてニュースになったばかりだが、おそらくそういう連中も「なんとかしなければ」ゆうて、しかし何にもできんのでついつい買い占めをして気分を落ち着かせようとしたのだろう。わからんではない。

が、オレはそんなことをしても仕方ないので、とりあえずいまオレが住んでいて、感染爆発前夜といわれている東京都の感染者数のグラフなどを作って、現実を見据えてみようと思った。そもそも罹患の有無を調べる検査はオカミが極力絞り込む方針でやっているので、実際の感染者数から比べるとその数ははるかに少ないことが予想されるのだが、なんとなく「いま我々はどこに向かっているか」を確認してみたいという話である。

もっとも理系のセンスは全然ないので、こんなグラフに何の意味があるのかもよくわからんのではあるが、とりあえずの「何かやった感」にはなる。なんとも適当なグラフではあるが、ここに貼り付けておく。のちのちこれを見て、「あぁそんなこともあったなぁ」と笑って振り返る日がくることを願いつつ。


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