2021年08月

ロルフ・ヴィルヘルム・ブレードニヒ編『ジャンボジェットのネズミ』(白水社、1993年)という本を読んだ。
今回はその感想文を書いてみたいのだが、これは要するにドイツの民俗学者が当地の「都市伝説」をまとめた本である。

もっともこの本では基本的に「都市伝説」ではなく「現代伝説」という用語がもっぱら用いられている。そこには著者なりの何らかの理屈があるようなのだが、まぁそれはオレには関係のないことなので話を先に進めると、この本の原著が刊行されたのは1990年である。ちょうどベルリンの壁の崩壊直後ということもあるのだろう、旧西独に入ってくる旧東独の連中がドロボーしたりズルをしたりする話がかなり収録されていて、一般大衆の間には「チッ、統一なんかすると貧乏な東独の連中ドンドン入ってきて厄介ごとが増えるじゃねーかクソ」という身も蓋もない不快感が満ち満ちていたことがよ~くわかる(笑)。

まぁそんな具合で、現代ドイツ(といってももう30年前だが)の人々が何を恐れ、何を案じていたのか――みたいなことがジワジワッと伝わってきてなかなかに面白い本であった。と同時に、実はオレとしては本文だけでなく、この本の末尾に訳者の池田香代子氏が書いていた「あとがき」がとても面白かった。何でかいうと、この彼女の文章を読んでたら、最近の「陰謀論」の隆盛は実はこうした「現代伝説」を生み出す心理と地続きになっているんではないか、みたいな気がしてきたからだ。

なので、この「あとがき」に沿ってその辺りを説明していきたいのだが、彼女はまず、そもそもこうした「現代伝説」だとか「うわさ」といったウソくさいものが、これだけマスメディアの発達した時代になんで流布したりするんだろうか――といった問いを立てる。そこで示される考察は以下のようなものだ。



 わたしたち受け手は、情報の飽和状態にある。すると、マスメディア情報の価値が低下するらしい。誰でも知っていることは軽んじられるのだ。その延長線上に、稀少情報の価値の高騰ということが起こる。そして、稀少情報はマスメディアに乗らないのだから、マスメディアに乗らない情報こそ価値がある、というおかしな逆説が成立することになる。そうした情報の多くは、マスメディアに乗せる価値がないと判断されたものなのかもしれないのに、だ。

 この奇妙な現象の底に流れているのは、マスメディアへのそこはかという不信感だろう。本当に価値ある情報は誰かが握って流れないようにして、そこから独占的にうまい汁を吸っている、という不信の念が、わたしたちが生きている今とここをうっすらとおおっているらしいのだ。


そして



 マスメディアによるたてまえのことばやしゃれたことばに封じられたかに思えたわたしたちの肉声が、現代伝説やうわさという形をとって、ふらふらとさまよい出る。それとても、しょせんは人から聞いた話の口移しにすぎないが、しかしテレビのことばの受け売りとは決定的に違うなにかが、そこにはある。なにかとは、ひとことでいってしまえば、わたしたちの本音ということだろう。現代伝説やうわさは、圧倒的なマスメディア状況でわたしたちが自前のことばを取り戻すための装置のひとつであるらしい。


この文章は当然インターネットが一般化する以前に書かれたものであるが、「情報を一方的に押しつけてくるマスメディアへの懐疑」みたいなものは当時からあったということだろう。ただし、当時の大衆には反論・反発する手段はない。

メディアで語られていることは本当なのか。怪しい。本当の世界は違うのではないか。そのように考えた大衆が、「蟷螂の斧」かもしれないけれどもとりあえず一矢報いる手段として用いたのが「現代伝説」。釈然としない思いをはらすべく、人々はウワサみたいなものを語り出すのである。そして、池田氏はそんな「作法」に理解を示す。




 大きなことばで語りえないことに、わたしたちの生身のことばをあたえるのが現代伝説であるならば、その守備範囲はそのままわたしたちの「世間」と重なるだろう。その世間には、今、さまざまなブラックボックスが増え続けている。

 たとえば、企業というシステムを考えてみよう。企業は顧客の側にはにこやかなセールスマン顔しかみせないけれど、その笑顔の影ではなにをしているか知れたものではない。利潤の追究こそが企業の存在理由なのだから、という「邪推」は、企業がわたしたちにとってはブラックボックスであることを証している。だから現代伝説のなかでは、安くておいしいハンバーガーは食用ミミズ製ということになってしまう。

(中略)

 なにかと素材を求めては、飽くことなくこうした物語をつむぐわたしたちという奇怪な存在をみつめるとき、そこにみえてくるのは、ブラックボックスに囲まれていることには耐えられない、とつぶやいている、しごく健康な感性だ。悪趣味な物語の衝撃力を借りて、ブラックボックスをドンドンたたいているわたしたち、荒唐無稽であれなんであれ、説明を加えることによって不安を少しでも和らげ、ブラックボックスとなんとか共存しようとする、けなげなわたしたちだ。



現代伝説をつむがざるを得ない人々への共感に満ちた言葉である。

だがしかし。「自らを疎外する社会に一矢報いてやりたい」という姿勢も、現実社会に対して無力である限りは鷹揚に受け止めることができる。しかし、根拠薄弱な伝説が実際に多くの人を動かすパワーを持ってしまったらどうなるか。そう、それこそが近年の陰謀論であり、言いかえてみれば、陰謀論というのはかつての現代伝説の「正統なる末裔」ではないのか。

いうまでもなく、1990年の時点では、「現代伝説」を意図的に広めていくようなことは困難だった。しかし今はインターネットがある。いかに怪しげな言説であれ、広くメッセージを発してくことは誰にでも可能だ。

「何だか釈然としない」ことがあったら自ら声を上げ、場合によっては一つの政治勢力を形成することすらできる。アメリカあたりを考えても、「何だか多国籍企業のエスタブリッシュメントたちがガンガンカネ儲けしてるというのにオレたちの暮らしは酷くなるばかりだ一体どうなってんだ」という貧乏人たちが必死で納得できるロジックを求めたところに、ポイと差し出されたのが陰謀論。そして、多くの人たちは「なるほどそうか」ということで納得してしまった。

というわけでいまオレはしみじみと思うのだが、かつて池田氏が「けなげ」と評した大衆の思いは、「現代伝説」の世界から飛び出すことによって、いまやQアノンみたいな化け物になってしまったのではないか。オレにも「現代伝説を語るわたしたち」を大事にしたい気持ちはある。しかし、そこには思わぬ陥穽もある。この本が刊行されてから約30年。世界はそれなりに――そしておそらくはあまり嬉しくない方向へと変わってきたのである。


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さて、今回の東京五輪である。

そりゃ日本勢の活躍で我々国民もそれなりに盛り上がった大会といえなくもないが、無観客での開催というすこぶる異様な競技大会であったことは確かだし、コロナ対策そっちのけで開催をゴリ押しした政府の狂態、そして開会式・閉会式のあんなこんなのグダグダぶりなどを見せられた日にゃ、なんだか「あぁ日本はこんなにも劣化してしまったのだなあ」みたいな感慨を抱かざるを得なかった。

で、今回はそれに関連してひとつ痛感したことがあったので、そのことを指摘しておきたい。日本のスポーツ実況の劣化という話である。

これはご記憶の方も多いかもしれないが、とりわけ8月2日に行われた野球の日本対米国戦のテレビ実況は酷かった。これはTBSの初田啓介なるアナウンサーが担当した試合であったが、平凡な外野フライを「伸びた、入った、ホームラン!」などと叫んで解説の宮本慎也にたしなめられるなど、随所で大ボケをかましてくれた。ヒットと凡打の区別すらつかず、バッターの当日の打撃成績も頭に入っていなければ次の試合日程もチェックしていない。全国の野球ファンもさすがにあきれかえったらしく、この初田アナ、ツイッターでもボロクソに叩かれまくっていた。

そもそもTBSというのは、かつては「スポーツのTBS」と言われたぐらいで、スポーツ実況では民放屈指の実力を誇っていたものである。それがいつのまにかこのザマである。これはどこまで一般化できるかは分からないが、最近のアナウンサーというのは技量を磨く地道な努力・精進というものを怠っているのではないかと思った。

実際、今大会の実況に関してはもう一つ、この「初田事件」に劣らずかなり気になる出来事があった。

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    西矢椛選手



何の話かというと、今大会、スケボーの女子ストリートでは13歳の西矢椛選手が金メダルを取ったのだが、その実況でフジテレビの倉田大誠アナウンサーが

「13歳、真夏の大冒険!」

と絶叫して話題になったのだという。オレはこれを見ていなかったのだけれども、どうやらSNSなどではこれが「名実況」などと評判になったンだそうだ。

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               倉田大誠アナ

が、オレに言わせればこれは名実況でもなんでもない。

だいたい今回五輪競技になったスケボーというのは、いろいろな報道を見聞きした限りでは従来の競技とはだいぶん色合いが違うスポーツのようだ。各選手には「国家を背負っている」というような悲愴なところはない。お互いにとても仲が良くて、競技をしていても友だち同士でワイワイ遊んでいるような雰囲気がある。まぁもともとストリートスポーツということもあるのだろう、「いまの技すごい~」「いいねッ!」みたいな会話を交わしながら技量を競い合う。そんなフレンドリーな世界であるようなのだ。

ということでいうと、今回金をとった西矢選手にしてみれば、いくら「五輪の晴れ舞台」などといっても、自分にとってみれば日ごろ仲間たちと楽しくやっている競技の延長線上。気負いも何もなく無心にやったら金だった。そんな話ではなかったのか。

そこで「13歳、真夏の大冒険!」である。確かに彼女は「13歳」である。「真夏」だったというのもウソではない。しかしおそらくそれは「大冒険」なんかじゃなかった。勝手知ったる仲間たちと競い合ったその一日は、彼女にとって当たり前の「日常」ではなかったのか?

「13歳が金メダル」だというので何とか実況をドラマチックに盛り上げたい。倉田アナはそんな風に考えたのだろう。13歳がすごいことをやってのけた、これは大冒険だ――こう言いたくなった気持ちはわかる。わかるけれども、それは「実況」ではあるまい。目の前に展開されている世界から目をそむけて、自分で作り出した言葉に酔っている。あるいは「仮に彼女が金を取ったらば・・・」ということで、事前にこしらえておいたセリフだった可能性すらある。いずれにせよスポーツ実況としては邪道だろう。そして、こんなものを褒めてる連中の目も「節穴」である。

本当のプロの仕事を軽んじる。みかけを取り繕うことにばかり精を出す。そして世間も「それでいい」と思っている。これではいかんだろう。衰えゆく日本の姿はこんなところにも顔を出しているんではないか。そう、これも確かに此度の東京五輪の一断面であった。











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さて、UFO研究家のジャック・ヴァレが今年刊行した『Trinity』という本が話題を呼んでいる。いや、別にそんなに話題を呼んでるワケではなく、単にオレが関心をもっているだけの話なのだが、まぁそれぐらいは話を盛ってもいいだろう。




これはパオラ・ハリスというイタリアの女性研究者とヴァレの共著なのだが、要するに「1945年8月、米国の原爆実験地として有名なトリニティの近くでエンバンの――というかホントはアボガド型なのだが――墜落事件があり、これを当時9歳と7歳の少年が目撃。そこにはカマキリみたいな生物もおりました。機体や生物は米軍に最終的に回収されてしまったようだが、少年たちはスキをみて機体から何か部品みたいなものを持ち帰りました」という話があり、これについていろいろ書いた本である。

まだ全然読めてないのでアレだが、これって最初はイギリスの研究家、ティモシー・グッドが発掘して自分の本にチラッと書いた事件らしい。しかしあんまり筋がよくないと思われていたのか、殆ど誰も相手にしてなかった。そこに現れたのがこのパオラ・ハリスさん。目撃者2人にインタビューするなどいろいろ頑張っていたところで、別ルートで調査を始めたヴァレと遭遇。一緒に本を出すことになったという流れのようだ。

で、今回なんでコレが注目されてるかというと、ジャック・ヴァレというのは「UFOが地球外の宇宙から来てるなんて考えたら大間違いだから。アレって妖精とかそういう昔からある奇現象の一つだから」ということを言いだして名前を売った一流ユーフォロジストなのだが、この本が出たということは、そういう人が今回「エンバンの墜落事件があった」みたいなことを言いだすに至った、ということに他ならない。

ご承知のようにエンバンの墜落というのは、これまで宇宙人の死体回収とセットで語られてきたストーリーだったワケで、そうすると「あれ、ジャック・ヴァレって宇宙人否定論者だったんじゃないの? 宇宙人説に鞍替えしたの? だったら大いなる変節じゃん!」ということになってしまうのである。長年の読者に対する裏切りではないか。そういう話である。


で、Amazonのレビューみても「なんだヴァレも耄碌したな」みたいなことが書いてあったりするンだが、しかし、オレとしてはいちおう自分でちゃんと読んでからヴァレが耄碌したのかどうか判断したいと考えた。もっとも、そうはいいつつ英語力の限界もあるし、全然手がつかない。なんかイライラが募るのであった。


なので今回は、この本の「結論」というところをパラパラっとめくってみたのだった。辞書を引かないとなんだか三分の一も分からんのだが、その最後のところで、その「宇宙人地球外起源説=ET仮説」に関連するようなことを若干言っていた。そこを読むと、うーむ、ちょっとハッキリしないが、なんかやっぱりET仮説をディスってるみたいな雰囲気がないではない。とりあえずの備忘として、今回はそのあたりを訳出して以下に貼っておく。(原著293p)



 我々はサン・アントニオ近郊で起きた事件の重要性を十分に明らかにしたなどというつもりはない。

 その物体は地球外から来た乗り物だったのか? そうだとすると、進んだ技術であれば当然備わっていたハズの生命維持装置や航行装置といったものが何故か欠けている。

 他国から送り込まれたデコイ、ないしは警告だったのか? そうだとすると、なぜその乗員は既知の地球上の生物と大きく異なっていたのか。

 そして、映し出されたビジョンはどうだろうか?(訳注:目撃者がテレパシーで搭乗者とコミュニケートしたことを指すのかな) 材料の奇妙な特性についてはどうか?(訳注:全部読んでないのでよくわからないが、目撃者が乗り物から持ち帰ったという金属の物体のことを言っているのかもしれない)

 私たちに言えることは、ただこういうことだ――この出来事というのは、測定可能なハッキリとした痕跡があった上に信頼出来る目撃者もおり、シッカリと調査されたけれども、責任ある政府・科学者たちによる調査が尽くされた後もなお未解明のままになってしまった数多くの事例――ソコロやヴァレンソール事件などだ――の中の一つに数えることができるだろう。

 アカデミズムの科学者たちからはあからさまに無視されているが、こうした事件においては、我々の集合心理の中にサブリミナル的に注入されたイメージというものがふんだんに見て取れる。そしてそのイメージというのは、一流の知識人たちから無視されることによってなおさら強化される。

 そのイメージは今も我々の内側で働いており、世界中のメディアを通じて宇宙の真実といったものをそっと指し示し、人間の意識にインパクトを与え続けている。我々がそれを無視するのは危険なことである。

 これらの事件には否定しようにも否定できない謎がある。その故に、トリニティのUFO墜落事件のストーリーというのは、本のページを繰って早々に閉じてしまうようなことが許されず、我々がずっと読み続けていかねばならない人類史のドキュメントであり続けるのだ。



うーん、最後のところは禅問答風ですね。まぁヴァレも物理的実体としてのUFOというのはもともと認めているので、ブツとしての墜落エンバンは認めつつ、「でもそれって宇宙から来たんではない」と言っているのだろうか? その場合は「じゃあどこから来たのよ?」ということになるので、これはなかなか厄介な議論になりそうだが、そこを何とかうまいこと逃げ切ればヴァレの「名誉」はかろうじて守られることになろう(自称UFO問題評論家ならではの偉そうなモノ言いw)。

とまれ、ちゃんと読んでみないと二番底、三番底ということもある。いつになるかはわかりませんが、読了してからまた感想文でもかければ。

【追記】

一、その後、この本の内容を概説した一連のエントリー(ジャック・ヴァレ『Trinity』を読む)ならびにこの本に寄せられている批判を総まとめしたエントリー(『Trinity』批判を読む)も書いているのでよろしければご覧下さい

二、コメントの中で「この本は邦訳はされないんじゃないのかなぁ?」みたいな事を書いていますが、ゴメンナサイ、邦訳は出ています(『核とUFOと異星人』(ヒカルランド、2023年8月刊)。もっともこの翻訳書にはいろいろと問題があると考えておりまして、その辺のことはX(旧Twitter)に書き込んでいます(→ツイログのまとめ

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ちなみにこれが少年たちが持ち帰った金属製の「ブランケット」。
寸法がメートル準拠になってるらしく、米軍ではインチ制なのでつまり「米軍のものではない」みたいなことをヴァレは言っている

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