2022年01月

易占は或る出来事をまえもって知る技法ではなく、ある種のボンヤリとした常識を基礎において事物の展開を受け止めていくための技法ではないかという話をこないだ書いた。

その補足ということで書いておくが、よくプロ野球で「流れが変わる」ということを言う。例えば無死満塁の好機で一点も取れなかったり、あるいは無死ランナーなしからエラーでランナーを出したりすると「流れは相手に行ってしまう」という、例のアレだ。

これなんかもそういう場合に相手が勝つ確率がホントに上がるのかどうか考えると、統計学的には必ずしもそうではないのかもしれない。ただ、心理的にはこの「流れが変わる」というのは絶対的な真理と目されている(おそらくプロ野球ファンが十人いたら九人ぐらいまでは同意するだろう)。

統計的には必ずしも真理ではないが、心理的には絶対間違いないと誰もが考えている命題がある。おそらく易占というのはそういう論理世界をバックグラウンドに据えた言説の体系なのではないか。




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 Nighthawks, 1942 painting by Edward Hopper

言わずと知れたエドワード・ホッパーの代表作「ナイトホークス」である。

ソフト帽をかぶっている男たちはどこか泉昌之のマンガの登場人物のようでもあるが、格好いい。

そして、カウンターの中のオヤジはヤッパリ「二つで十分ですよ」と言っているのだろうか?






オマケ: パロディもいろいろ描かれているのだがコレなんかは有名だな。

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いぜんコロナ禍が続いている。

オレの住んでいる東京ではこのところ一日の新規感染者数が連日過去最高を更新中だ。昨日(2022年1月20日)時点で8638人に達した。数日中には1万人を突破することだろう。

ただ、こういうコロナ患者の増減というのはいったいどうして起こるのか、オレには今もってわからない。

「いや、対策を怠れば感染者が増える。対策を強化すれば減る。そういうことでしょ?」と言う人がいるかもわからんが、昨年夏にあったいわゆる「第5波」のことを思い出して頂きたい。アレは東京の場合だと8月半ばに新規感染者が5000人を超えたのだが、あんまり打つ手もない感じだったのが何故かしらんがそれからドンドン減っていった。年末まで総じて平穏な日々が続いたことは皆さんも記憶に新しいところだろう。

もちろん「ワクチン接種が地味に進んだ」みたいなバックグラウンドはあったんだが、あの急減を因果的に説明できるロジックは専門家も構築できていないようである。

要するに、あの第5波のピークは時が過ぎることによって自然に減っていった。いったん増えてもやがて減る。理屈はわからない。しかしなぜかそういうサイクルが生まれていた。

そして、これはおそらくいま進行中の第6波もそうだ。やはり理屈はよくわからないが、今回のオミクロン株の洗礼を一足早く受けた英国などの先例をみれば、一日当たりの感染者はおそらくこの2、3週間のうちにピークを迎える。そして、それから急速に下がっていくのではないかということが言われている。

ここで思うのは、こういったサイクルの因果論的な解明というのはなかなか難しいということである。そこで我々を納得させてくれるのは、むしろごく一般的な世間知というものなのかもしれない。つまり「異常な状態なんてものは長くは続かない。いつかは元に戻る。バランスは戻るんだよ」といった、薄ボンヤリとした常識だったりする。

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実はオレは最近、易占の自習をはじめたのだが、ここで説かれているのも実はこの「ボンヤリとした常識」に似ているのではないかと思う。きのう黄小娥『易入門』(サンマーク出版)をパラパラめくっていたのだが、たとえば「天雷无妄」(読み方はいろいろあるらしいが、ここでは「てんらいぶもう」とルビにある)という卦について彼女はこう書いていた。

欲望も作為もない自然のままのはたらきを「无妄」というのです。天のなすまま、人為的な技巧をもてあそぶことなく、自分のありのままの姿でいることが自然の理法にかなうということです。(中略) 自然のなりゆきにまかせるほか手のほどこしようがない。「メイファーズ」という言葉そのものがこの卦にピッタリです。


原理的に人知では知り得ない世界というものがある。その状況を呑み込むためのロジックを求める人は、アトランダムに選び出した章句に我が身を投じ、周囲を見直すための別の視点をそこに求めてみる。実は「当たる/当たらない」などというレベルを超えて、こういう世界の再構築という意味で易占には大いなる意味があるのではないかなぁと思ったりする。

というわけで易の勉強、しばらく続けていきたいと思っている。





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昨日に続いて「天声人語」のことを書く。今朝の「天声人語」もオレには何だか納得がいかなかったからである。

今日の「天声人語」がどんな話だったのかというと、ひと言でいえば「とりわけ感受性の高い若い人間は自らの生涯を左右するような素晴らしい言葉と出会う瞬間がある。そういう言葉を大事にしてネ」というものである。要するに「杖言葉のススメ」みたいなものである。

実はこれ、朝日新聞が中高生を対象にやっている「私の折々のことばコンテスト」という事業の宣伝も兼ねているようで、そこは若干鼻白んでしまうところもないではないのだが、まぁそういう主張自体は悪くはない。悪くはないンだが、論の進め方に大いに問題があった。

どういう事かというと、冒頭部に置かれたエピソードがよろしくない。記事の冒頭部も貼っておくが、以下、オレ流にかみ砕いてしばし説明してみよう。

――中村メイコがボーイフレンドの永六輔を振って、別の男(つまり神津善行だろう)と結婚することになった。そのことを告げられた六輔が泣き出してしまったので、メイコはおそらくは狼狽したのだろう、「どうしよう?」ということで父親に電話をした。すると、父親(中村正常という作家のようだ)はこんなアドバイスを発したのだという。



「上を向いて帰りたまえ」と伝えたまえ。「涙がこぼれないように」とね。


それでメイコは親の言ったとおりに六輔に向けてこの言葉を発したのだが、六輔はよほどこの体験が忘れがたかっただろう、そのフレーズを後年名曲の「上を向いて歩こう」の歌詞にそのまんま用いたのだった・・・・・・とまぁこんな話である。

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で、この導入部を読んだオレは何だか腹が立った。振られたからといって泣きだす六輔も六輔であるが、メイコもメイコである。振った相手が目の前で泣いてるのに「涙がこぼれないように上を向いて歩けばいいじゃないの?」とは何たる言いぐさか。いかに父親から伝授されたからといって、そんな言葉を六輔にぶつけるのは残酷すぎるのではないか。百歩譲ってそれがどっか心に染み入る言葉であったとしても、自分を振ったメイコから説教よろしく言われる筋合いはない。「どのツラ下げて!」ってなもんである。

もちろん「六輔は後年これを歌詞に昇華させたのだから、これはこれでイイ話なのだ」という考え方もあるだろうが、それは私小説作家が「こりゃネタになるわい!」といって我が身の破滅を喜ぶような倒錯的な心理に通じるものがあり、素直に肯んじるワケにはいかない。少なくとも世間の良識を重んじるブルジョワ新聞としては筋が通らないのではないか。ひょっとしたらメイコが書いた元々の文章を読んだら、そこにはもう少し微妙なニュアンスが込められているのかもしれないが、この天声人語を読む限りではそう断ずるほかない。

というワケで、オレ的には「なんだか酷い話もあったものだ」と思ったのだが、しかるにこのコラムでは、なんだかこれが「いい話」の実例みたいになって話は後段に続いていくのだった。

   *  *  *  *  *  *  *

ここでオレがふと対置してみたくなったのは、中島みゆきの名曲「化粧」である。これは振られた女の歌である。自分はつきあっていた男が大好きなのに振られてしまった。せめて「こんなことならあいつを捨てなきゃよかったと 最後の最後にあんたに思われたい」。だから「化粧なんてどうでも思ってきたけれど 今夜死んでもいいからきれいになりたい」。彼女は切に願うのだった。

そしていよいよバスに乗って男の前から立ち去らねばならぬ瞬間がくる。しかし涙はどうしたって見せられない。というか、そんなミジメな自分は見せたくない。それが彼女なりの最後の意地なのである。だから心でこう繰り返す。「流れるな涙 心でとまれ 流れるな涙 バスが出るまで」

さて、「別離の涙」に関して人間の真実に迫っているのは中村メイコの回顧するエピソードか、それとも中島みゆきの「化粧」か。その結論は言うまでもなかろう。コラムの冒頭にこの「上を向いて歩こう」を置くのは、どうしたってムリがあるのだ。天声人語の筆者は人間にたいする洞察力が甘い。そう言わざるを得ない。(おわり)




















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読ませる新聞コラムにはオチが必要だ。そこまで読んできた読者を「あぁなるほどそうなんだ!」と納得させられるかどうかがコラムの生命線である。

さて、そこで今朝の朝日新聞「天声人語」である。一読して仰天した。最後の一句、いったい何を言いたいのか全然わからないのだ。

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要するにこのたびのトンガの火山大噴火について書いている。「大変であろう、心配だ」というようなことを言いたいらしい。だが大災害に際して大変だ心配だというのは誰でもできる。そこから一歩進んで、何か新たな切り口、新たな視点でもみせてくれるのだろうと思って読んでいくわけだが、最後「太平洋の真ん中で起きた大地の慟哭である」といってイキナリ終わってしまった。

「何ソレ? 慟哭ってナニ?」とオレは思った。

もちろん「慟哭」という言葉の意味は知っている。「悲しみに耐えきれないで大声をあげて泣くこと。号泣すること」である。つまり天声人語子は今回の噴火について「大地が嘆き悲しんで泣いているのだ」と言っているのである。いやいや違うだろう、泣きたいのは現地の住民だろうとオレは思った。大地が泣くというのは一体どういうことなのか全然わからない。

「ひょっとしたら大噴火でみんなが困っているのを見て泣いているということかな?」と思ったが、しかし自分が大爆発を起こしといてソレはないだろう。支離滅裂である。こうなってみると「慟哭」の文字につけられたルビが痛々しい。

ひょっとしたら筆者はいわゆるガイア仮説、つまり
地球を「自己調節能力を持ったひとつの生命体」と考える奇っ怪な理論にかぶれていて、環境を無茶苦茶にされた地球が泣き叫んで爆発したと言いたいのかなと思ったのだが、いかんせん文章はココで終わっているので確証がもてない。仮にそういうことを言いたいのなら、分かるように書かないとダメなので、いずれにせよ失格である。

どうしてこんなワケのわからないコラムを書いてしまったのか。

以下はオレの推測だが、たぶんこの筆者は「大噴火だ
大変だ心配だ」というコラムを書こうと思ったのだろう。だが別に内から湧き出る深い洞察があるわけでもない。ダラダラと書いていってそろそろオチを作らねばならないがアイデアもない。

「しょうがない何か雰囲気のある文句でも一発ぶちかまして終わるとするか。そうだ大地が泣いているというイメージはどうだ? なんとなくそれっぽくネ?」といって不用意にこんな文章を書いてしまったのである。もともと「擬人化」というのは天声人語お得意のテクニックである。ただ、この場合は大地を擬人化する必然性がない。論理的に考えると全く意味不明である。だが雰囲気なんかあるよネで強行突破してしまったのである。たぶん。

こんど高校の国語に「論理国語」という科目ができるようだが、その授業でこんな文章を書いたら0点必至である。書いてる人はここいらでもいちど高校行って「論理国語」勉強してきたら良いんでないか。そんなことを思った今朝の天声人語であった。(おわり)



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桜家@三島市(2016年撮影)
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AS40GN(長さ:400mm)
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あけおめことよろ。今年は易占でもすこし学んでみようかということで、オレ的には「今年の顔」はこの人に決定。


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