2022年02月

春のセンバツ高校野球の出場校選出をめぐって、問題が起きているのだという。

一般的に、春のセンバツというのは前年秋の地方大会の結果を踏まえて出場校を決めるシステムになっている。今回問題となったのは東海地区の選考であったのだが、この東海地区には出場枠が2つある。となると、昨年秋の東海大会の優勝・準優勝校が選ばれるのが当然ということになるわけだが、先の選考委員会では準優勝の聖隷クリストファー(静岡)が落ちて、4強止まりの大垣日大(岐阜)が選ばれてしまった。「いったいどういうことなんじゃ?」と一部関係者が怒っている。そういう話である。

さて、そういうバックグラウンドを踏まえての本日の朝日新聞スポーツ欄の記事である。

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一読オレは「奇妙な記事だ」と思った。とりわけ「いまだ釈然としない」という冒頭の一語である。

というのも、オレの目からみると、今回の騒動はそれほど意外ではなかった。「こういうこともあるだろうな」と思った。そして、それは高校野球を担当している記者でも同じで、こういう事態が起きることは十分に予期していたハズなのである。なのにカマトトぶっている。「釈然としない」とか今更言っている。それがウソくさい。こういう偽善が朝日新聞なのだよなあと改めてオレは思うのだった。

「いや、これって十分意外でしょ? こんなおかしな話があっていいわけないでしょ」という声が聞こえてきそうだが、じゃあなんでオレは「こういうこともありうべし」と言っているのか。よろしい、以下に説明しよう。


「特に投手力で差があった。春の選抜大会では失点の多いチームは厳しい」。選考にあたった関係者はこういう発言をしているらしい。つまり大垣日大には全国で通用するマトモな投手がいるんだが秋大会ではたまたま実力が発揮できず、その間隙をついて投手力の貧弱な聖隷クリストファーが準優勝をかっさらっていきやがった、コリャ大垣日大出したほうが勝てるやろ、という理屈なのである。

まぁこういう風にあからさまに言われてしまうとちょっと鼻白んでしまうワケだが、実はこういうロジックは既に高校野球界に蔓延しているのである。

ようするに、大会関係者は春のセンバツを盛り上げたいのである。スゲー才能のある野球小僧たちが160キロの剛速球投げるとか超ハイレベルなプレイを見せて、「おぉ!」とかいって国民に驚いてほしいのである。であれば、超一流の素材をもつ選手に登場してもらうにしくはない。「才能のある選手なんか皆無のどっかの公立高校の弱小チームが力を合わせ、あれよあれよという間に強豪を連破して甲子園出場」みたいなことになると、むしろ困るのである(聖隷クリストファーはそういうチームではないだろうが、相対的にはそういう「実力もないのに勝ち上がってきやがったヤツ」扱いをされている)。

そしてこういう状況は野球名門校の側にとっても願ったりかなったりである。各地の有望な野球少年をかきあつめて甲子園にでも出りゃPR効果はバツグンである。開催者側も超一流選手に出てほしいし、高校側も「ウチにはこんなのいまっせ!」といって超一流選手を送りだしたい。実は高校野球界にはこういう共犯関係があって、その結果どういうことが起きたかというと、春夏の甲子園大会は「プロ野球予備軍のセレクション大会」になってしまったのである。

今回の一件に即していうと、そうはいっても夏の甲子園に出るには勝って勝って勝ちまくるしかないのだが、春のセンバツは都合が良いことに(笑)秋大会の結果が絶対ではなくてモロモロの事情を勘案して出場校を決めるシステムになっている。「じゃあ大垣日大のほうがええやろ」。そういう判断を下したのであろう。


さて、ここまで説明すれば、先の朝日新聞の「いまだ釈然としない」という一句が如何にわざとらしいかが分かるだろう。この記者だって、最先端の高校野球が「プロ野球予備校」に化しつつあることぐらい知っているだろう、高校野球の担当してるなら。

今回の大垣日大騒動は、たまたまあまりにもあからさまな事をしてしまったものだから、問題の本質が露呈してしまっただけの話である。

しかし、オレが長年指摘しているように朝日新聞は「夏の甲子園」の勧進元ということもあり、そういう病理の根っこになかなか迫れず、いつまでも「教育の一環としての高校野球」みたいなお題目を唱えている。まぁそういう事情もあるので「いまだ釈然としない」とかいって、いったん怒ったようなフリをしてごまかしているのだが、それでいいのか。今回の記事を読んだオレは改めてそう思った。(おわり)


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石原慎太郎が亡くなった。

これを受けて本日の「天声人語」も石原追悼である。だが、やはりというべきか、またまた粗雑なことが書いてある。

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問題なのは


それでも人気は衰えず、政界で存在感を示し続けた。それも一因だろうか。「率直」と「乱暴」の違いをわきまえられない、幼稚な政治家が相次いでしまった

というくだりである。

確かにオレなども石原は乱暴極まりない男で政治家としては失格だったと思っている。

帰属問題で中国ともめている例の尖閣諸島などは、もともと民間人が所有しておったのを「これはオレ様が責任をもって管理してやろう」(意訳)などといって都知事時代の石原が東京都として買い上げようとしたもんだから、当時の民主党の野田首相が「いや、そういうことだったら国で買いますわ」といって国有地にした。

それまでは中国もいちおう「あそこオレの領土だから」といいつつ、どっかのオヤジが所有している島であるかぎりは実際上放置していたのであるが、ここが日本の国有地ということになるといわば日本政府から「改めて言うとくがここは日本のものだからな!」とケンカを売られたに等しく、それ以降ガンガン公船を出してきては中国が「ここはオレのもの」アピールをおっぱじめたのは周知の通りである。

まぁ専制国家中国が何をゴーマンなことを言うとるかとオレなども思うけれども、しかし外交というのは如何に向こうが理不尽であっても、そこは表向き無用な争いを避ける工夫をするのが常道である。隣家の下品なオヤジが如何に気に入らなくとも、よほどのことがなければそこは殴り合いにならないよう自制するのが大人というものである。


と、余計な話をしてしまったが、要するに石原にはそういう大人の知恵がなかった。日中激突の火だねを広げたのは彼である。そういう意味では「天声人語」が石原にネガティブな評価を下しているのは正しい。

だがしかし、「天声人語」は石原憎しのあまり、余計なことを書いてしまった。「幼稚な政治家が相次いで」いるのは石原が「政界で存在感を示し続けた」ことが一因かもしれない、などと言っている。

これはちょっと無理なロジックである。如何に石原が大衆の人気者であったからといって、他の政治家が彼のスタイルを真似たとはとても思えない。なんとなれば彼は一般の世間常識からすればとても異常な男だったからである(東日本大震災の際に「天罰だ」と言ったことは有名である)。

政界においても、作家上がりの単なる変わり種として珍重された面こそあれ、フォロワーがたんといたわけではない。あんなものが政治家のロールモデルになるワケがないのである。ワガママ放題のことができたのは、政治家失格でも彼には「文壇」という帰っていく場所があったからである。

そうしてみれば現代の政治家が「幼稚」なのは別に石原どうこうとは関係ないだろう。さしあたってオレがその理由として考えているのは「国民が幼稚になったから」であるが、それはここでは触れない。

要するに「天声人語」は、石原の死をなんとか日本社会のいまに接続して意味づけようとしたのだろう。そしてそれに失敗した。世の中は「天声人語」が考えているようなそんな簡単な図式で動いているワケではないのである。(おわり)

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