2024年05月

■第2章 円盤の出現

    「いま真実というものが失われているのなら、明日現れるのは神話だろう」 ――ユーリ・ハリトン

■2004年9月、カフェ・ブリス(ロンドン・ダルストン)

容赦ないほどに脂っこい朝食が消化器系に与えるインパクトにちなんで名づけられたブリス(至福)という店――そのお気に入りの店で、ジョン・ランドバーグと私は顔を合わせていた。ジョンと私が初めて会ったのは1998年だった。その時、私はミステリーサークルを作る彼のグループに加わった。そう、ミステリーサークルというのは例外なく人工的な産物なのだ。それも1970年代半ばからずっと。

ジョンと彼の仲間たちは1990年代初頭から毎夏ミステリーサークル作りに精を出してきた。それは今も変わらない。私は「フォーティアン・タイムズ」誌のジャーナリストとして彼らと出会ったのだが、しまいには彼らのチームに加わることになった。私は何年もの間この仕事に取り組んだが、それほど上手な作り手だったとはいえない。しかし(雨が降っている時を除けば)夜空の下の畑で働くことに飽きることはなかったし、ナゾのミステリーサークルを信じ込んでいるビリーバーたちがこねくり回す理屈というものに常に魅せられていた―その理屈というのは、この現象にスピリチュアルな意味でも情緒的な意味でもおカネの面でも入れ込んでいない人間にしてみればおそろしいほど明白にようにみえることに対し、真正面から向き合うのを避けて彼らが作り上げたものであったわけだが。

しかし、その日、私たちが話していたのは、ミステリーサークルのことではなかった。ジョンは映画製作に忙しく、政府とトラブルになったミステリーサークルの研究者にかんする短編ドキュメンタリーをまとめたところだった。私の向かいのシートにすべり込んだ彼は、いつものiPodのイヤホン、軍用の緑のパファージャケット、エイフェックス・ツインのスウェットシャツを身につけていた。バイキング系の名前が示唆するように背が高くて頑健で、髪を刈り込んだ彼はいつも笑顔だったが、そうでなければ威圧的に見える人物なのかもしれない。彼がベジタリアンの朝食を注文するや否や、我々は仕事の仕事を始めた。

「CIAのさる人物と話をしているんだ」。彼はひそひそ声で言った。「これまで彼が私に話したことは、結局全部がウソだった。でも彼は友好的な人物で、何かしらのことは知っているとボクはにらんでいるんだ。話の最後に彼は言ったよ。もしUFOに興味があるのなら、リチャード・ドーティーという人物についての映画を作ったらいいよ、って。君はこの人物を知ってるかい?」

私はベイクド・ビーンズを飲み込み、お茶を一口含み、深呼吸をしてから話し始めた。リチャード・C・ドーティーはUFO文書の地下世界に出没するメフィストフェレスとでも言うべきキャラクターだった。一部の人々にとってのドーティーは「暗黒の騎士」――かつて自らが活動していた諜報の世界と、彼自身が「エイリアンは地上にいる」という信じがたい情報を渡したUFO研究家たちが形作る世界の間にあって、捕らわれた暗黒の騎士であった。他の人々にとってのドーティーは「はぐれ者」――政府の陰謀のための道具にしてニセ情報を撒き散らす者、UFOの秘密を打ち破ろうという大義への裏切り者であった。言ってみれば、ドーティーは我々にとって近しいタイプの人間なのだった。UFOやミステリーサークルのような真偽の境界線上にある現象に引き寄せられてくる人間――それはジョンや私にとっては永遠の魅力の対象である。こうした事象は真空の中では生じない。その現象を育み、奇っ怪なその姿を現出させるためには、ドーティーのような人物が――そして我々のような人間もであるが――存在する必要がある。日常の世界における事実と、精巧なフィクションとの間のどこかに横たわる者が。換言するならば、もしUFOが森の中に着陸し、それを誰も目撃していなかったのなら、UFOは本当に存在したといえるのだろうか?

1970年代後半から1980年代初頭にかけて、ドーティーは米空軍特別捜査局(AFOSI)に勤務していた。この組織は、空軍内部におけるFBIのような役割を果たしている。通常、AFOSI(一般にはOSIと呼ばれているが)は、国内外の米空軍基地で発生した犯罪、例えば窃盗、薬物取引、殺人などを調査している。また、AFOSIは空軍とその作戦に対する脅威を発見・抑止する任務や、対敵情報活動、対敵諜報活動などの役割を担っており、それらは敵に対して技術的優位を維持するために極めて重要なものとなっている。米空軍は何十年にもわたって、新しい航空技術の開発において世界のリーダーであり続けてきたが、AFOSIはこの点において重要な役割を果たしてきたのである。

ニューメキシコ州のカートランド空軍基地に駐在するAFOSIの特別捜査官として、ドーティーは戦後期において最も奇っ怪な諜報活動のひとつに関わりをもつことになった。この話はもともと公にされるはずがないものだったが、実際には表沙汰になってしまった。その露見がドーティーの責任であるのか、それとも彼が大規模な作戦のスケープゴートに過ぎなかったのかは定かでないが、この事件は空軍の最も機密性の高い策謀を公衆の目に晒し、多くの人々が常に疑っていたこと、つまり米政府がUFOについてウソをついていたことを初めて明らかにしたのだった――ただしそれは、UFOコミュニティが望んでいたような形でなされたものではなかったのだが。

それは1979年、優れたエンジニアで物理学者でもある人物として50歳代前半に頭角を現したポール・ベネウィッツに関わるストーリーとして始まった。彼の経営する「サンダー・サイエンティフィック」社は、カートランド基地との境にある工場で、空軍やNASA向けに温度計やコンパスといった機器類を開発していた。ベネウィッツ自身は、カートランドの北側にある高級住宅街フォーヒルズに家族と共に住んでおり、そこからは基地やマンザノ山脈を見渡すことができたが、この山脈には当時、米国最大規模を誇る核兵器の貯蔵施設の一つがあった。

その年の7月、ベネウィッツは自宅の屋上デッキから、マンザノ地域周辺に飛び交う奇妙な光を撮影するとともに、それらに関連していると思しき無線通信を記録し始めた。彼は市民としての責任感をもつ人間だったし、空軍と契約を結んでいることもあったため、1980年になってからカートランド基地のセキュリティにいま起きていることを報告することにした。非常に優れた科学者ではあるものの、多くの優れた人々にはままあるように若干風変わりな面もあったベネウィッツは、その光体というのは高度に進歩した地球外生命体による乗り物であるに違いないと結論づけた。また彼は、彼らの意図は決して友好的なものではないと推測し、その旨を空軍に伝えた。

ここまでのところでも既に相当奇妙なストーリーではあるのだが、話はさらに奇妙で非常に不吉なものになっていく。2003年に75歳で亡くなったベネウィッツは、善良な人物で真の愛国者であった。空軍はこういってぞんざいに彼を追い払うこともできただろう。「ご協力ありがとうございます。これらは我が軍が機密にしている航空機なので、これは見なかったことにして誰にも話さないでください」。しかし、代わりに彼ら、つまりAFOSIは、ベネウィッツの無害な妄想を後押しするにとどまらず、それを増幅して最終的には彼を狂気の淵に追いやってしまうことを決めたのである。AFOSIはその後の数年間、彼に政府のUFO文書と称するニセ文書を渡し、悪意のある地球外生命体からの通信を受信しているように見えるコンピューターを供与し、はるか離れたニューメキシコの地にニセモノのUFO基地を作り上げた。これら全ては一人の風変わりな科学者をだますために行われたのである。

リチャード・ドーティーの役割は、ポール・ベネウィッツと親しくなって、彼を「宇宙戦争」の空想にさらに引き込むことであった。同時にドーティーは、少なくとももう一人、名高いUFO研究者であるウィリアム・ムーアとも秘密裏に連絡を取り合っていた。ムーアはUFO研究の世界で進められている最新の調査・研究の詳細をAFOSIに提供していたのである。ムーアの情報はニセの政府文書を作成するために利用され、それは「政府のトップレベルでUFOの隠蔽が行われている」というUFOコミュニティの疑念を補強し、ムーアの仲間の研究者たちを「人間とエイリアンの間には長年関わりがあった」とする偽史(それは2000年間にも及ぶということになっていた)に引き込んでいった。これについてムーア自身は、自分はホンモノの政府文書を提供してもらえるという約束で協力させられたのだと言い張った――ちなみにその文書では、地球外生命体は本当に地球を訪れており、米政府は人類史上最大のこのストーリーを隠蔽していることが証明されるはずだった。

このねじくれた作戦1980年代後半まで続き、最終的にはアメリカのUFOコミュニティ、そしてポール・ベネウィッツの精神の双方を破壊した。ドーティーの行動は最終的には暴露された。西ドイツでAFOSIの任務についた後、彼は空軍から退役し、ニューメキシコ州の州警察官となった。それが、私であれ他の誰であれ、リチャード・ドーティーについて当時知っていたことの全てであった。

私にとって本当に興味深かったのは、ドーティーとベネウィッツというのは、1980年代初頭以来出現した多くのUFO神話にかんして、そのソースではなかったとしても流出ルートにはなってきたということだった。墜落したUFO。悪いETと米政府が結んだ協定。エイリアンによる家畜の収奪や人間のDNAの操作。そうした話は、無数の書籍、記事、映画、テレビドキュメンタリーを通じて何度も語り継がれることで信憑性を増していった。ここは20世紀後半におけるフォークロアの生成の場であり、冷戦期のアメリカの夢想の中心、ミステリーサークル作りを通じて私とジョンがすでにその一部を成していた世界であった。

ドーティーが勝手に動く一匹狼だったのか、あるいは同じ任務に従事する多くのエージェントのうちの一人だったのかはわからない。ただ、確かなのは、アメリカの諜報機関は常にUFOのストーリーにクビを突っ込んでいたということだ。UFOコミュニティでは、CIAや国家安全保障局(NSA)といった組織は真実を隠蔽するための道具であるとされてきた。だが、ベネウィッツをめぐる出来事は、その話は逆なのかもしれないということを示唆していた。つまり、実際には、UFOをめぐる神話の多くはそうした機関が発していたのかもしれないということだ。

冷戦初期、アメリカはラジオ送信機を使ってソビエト深奥部に向けてプロパガンダを流していた。ロシアの大都市では「干渉活動」が行われており、何百人もの「ジャマー」が電子音やテープ録音、ガラガラ音や音声を使ってこれらの敵対的なアメリカからのシグナルを妨害していた。ノイズを作りだし、情報に何か付け加えたりニセ文書を作ることは――業界では「データ・チャフ」と言われるものだが――諜報活動や防諜活動では常套手段となっている。ベネウィッツ事件の真相というのはそういうものではなかったのか? 仮にそうなら、彼らが隠そうとしていたシグナルとは何だったのか?

私は、実際にUFOと諜報活動とが絡み合った話を読んだことがある。1950年代初期、CIAはハンガリーの王冠の宝石を「UFOの部品だ」と偽って国外に持ち出した。1991年にはMI6が、国連事務総長候補のブトロス・ブトロス=ガーリを地球外生命体に関する途方もない話と結びつけて中傷しようとした。こうした逸話は、諜報の世界の人々が地球外生命体の現実を覆い隠すために必死になっていたことを示唆するものとは思われず、むしろUFOというのは必要に応じて持ち出されるオモチャの一つに過ぎないことを示している。

では、なぜCIAのネタ元は、リチャード・ドーティーについての映画を作るようジョンに頼んだのか?確かに興味深いアイデアではあった。だが、それはトントン拍子で進むとは思えないシロモノだ。ドーティーはUFOの現場から離れて久しく、彼にインタビューできるるチャンスがあるとは思えなかった。さらに、UFOシーンがほぼ10年間停滞していたことも我々の足を引っ張った。インターネットの中ですら、異星人への関心は薄れているように見えた。関心のピークは1997年で、それは「Xファイル」が絶頂期を迎えた時であったし、その年の3月には非常に巨大な物体がアリゾナ州フェニックス上空を静かに移動していくのが目撃された。しかし、それ以来、このテーマに対する熱はすっかり醒めており、「フォーティアンタイムズ」誌に送られてくるUFOニュースの切り抜きが少なくなってきたことがそれを如実に示していた。当時の話として私が覚えているのは、英国のUFO組織の閉鎖と「ユーフォロジーの死」に関するものだけだ。ダメだ。UFOを追いかけるべき時期ではなかった。いや、UFOに関する話を追いかける時期ですらなかった。しかし、だからといって私たちは立ち止まっていいのだろうか?

私たちはリチャード・ドーティーについて、そして諜報の世界とUFOコミュニティの関わりについての映画を作ることに決めた。ひょっとしたら映画が完成する頃にはUFOが再び流行しているかもしれない。思いがけないことはこれまでにもたくさん起きてきたのだから。

新しいプロジェクトに興奮したジョンと私は別れた。しかし、家に帰って、自分が何にアタマを突っ込んだのかを考え始めると、最初の熱意は次第に消えていった。私は最後に世界がUFO熱で盛り上がった当時のことを思い出した。当時の私は、他の多くの人々と同様、UFO信仰の最前線にどっぷりと浸かっていた。果たして私は本当にあれと同じことを繰り返したいのだろうか?

■UFO:ノーフォークの日常

1995年のヨセミテでの目撃後まもなく、私はUFOに対するこだわりを反映しているかのような夢を見た。それは奇妙で強烈な夢であり、何年も無意識の中に染みつくようなものであった。その夢の中で、私はパディントン・ベアのようにしてエリザベス2世にお茶に招待された。私は輝く銀色の馬車で女王に会いに行った。宮殿の外観は覚えていないし、それが建物であったかどうかも定かではないが、内部は観光パンフレットに載っているような豪華な装飾で、赤いビロードと白貂の毛皮が掛けられ、宝石と金箔で飾られていた。女王は礼儀正しかったし、もちろん私もそうだった。私たちはボーンチャイナのティーカップでお茶を飲み、何かを話したが、その内容は覚えていない。そして、辞去する時が来た。

女王は私を宮殿の入口まで案内した。入口の敷居は輝く黄色い光で満たされていた。女王が私の手を取り、別れを告げるために前かがみになって頬にキスをしようとした瞬間、恐怖に包まれた。私の視点からは、化粧が剥げた部分が見え、その下には冷たく灰色で革のような異星人の肌があった。

フロイト派の解釈者であれば、これを幼児性の権力に対するファンタジーと解釈し、併せて女性から疎外されていることの表れだと指摘するのではないか。ユング派の解釈者は、これを内なるアニマ、つまり内なる女神との出会いと読みとるかもしれない。デイビッド・アイクは――私がこの夢を見た数年後に、彼はこのような出来事について一生懸命書いていたけれども――自在に姿を変え、人の血をすする爬虫類型異星人の支配者の恐ろしい現実を垣間見たものだとみなすだろう。UFOコミュニティの面々の多くは、これをホンモノの異星人に誘拐された体験を隠す「スクリーンメモリー」と考えるかもしれない。おそらくそれら全てが正しいのかもしれない。が、よくよく考えればそれは私がUFOに関する本をあまりに読みすぎていたことのあかしでもあった。

その秋、イギリスに戻った私は(当時はノリッジに住む学生だったのだが)ノーフォークUFO協会(NUFOS)に参加した。数か月後、グループの若い創設者がマリファナによる神経衰弱を起こしたため、私はリーダーを務めることとなった。

NUFOSの会合は、2週間に一度、ノリッジのウェンサム川沿いにある「フェリーボート・イン」で行われた。時には100人もの人々が集まることもあったが、中心メンバーは約20人で、退職した警察官や英空軍(RAF)の要員も含まれていた。多くのメンバーは自身の奇妙な経験に対する答えを求めていた。もっとも、その当時はUFOに関するストーリーがメディアで盛り上がっていて(そのほとんどは米政府によってエイリアンが解剖されたというインチキフィルムに関するものだったが)好奇心を募らせた人々もたくさんやってきていたのではあったが。


協会の会長として、ふだんは私がプレゼンテーションを行った。話したことといえば、「リモートビューイング」を試みるアメリカのサイキック・スパイプログラム、火星の人面岩、ネバダ砂漠のエリア51で本当に行われていること(私はアメリカでの旅で基地の周辺まで行ってきたのだった)、世界が2012年12月に終わるのか――といったもので、要するに今では使い古されたUFOの話題であった。当時はインターネットが普及する前だったので、これらの話題はそれほど知られていなかったのだ。そう、少なくともノリッジでは。

NUFOSは調査活動も行っており、地元の新聞に取り上げられることもあった。ある晩、私は空に奇妙な形の明るい光を撮影した男に会いに行った。が、それは再三UFOと間違われる金星であって、彼のビデオカメラの内部シャッターメカニズムによって異常に角張って映ったものであった。また別の時には、地元紙が空に漂うオレンジ色の光を映したビデオの静止画を掲載した。それは典型的なUFO映像で、形の定かならぬ光の塊が暗い夜空を背景にして浮かび上がっていた。それは何とでも言えそうなものだった。そのフィルムに関するニュース記事には私の家の電話番号が掲載されたので、その結果、奇妙な光を見たのだが何なのかという電話が数件かかってきた。私の標準的な対応はこういうものだった。目撃者に「寒くて耐えられなくなるか、飽きるまでその光を見続けてください。翌晩同じ時間に外に出て、また光があれば、こちらにもう一回電話してくる必要はないですね」。それでもう電話はかかってこなかった。

これは単純にして明快な解法であった。メディアでUFOの目撃が報じられると、好奇心旺盛な人々は空を見上げるわけだが、ほとんどの人はふだんそんなことをしていない。すると彼らはそれまで見たことのないものを目にして「UFOではないか」と思う。それは私自身何度も経験したことであった。最も一般的な犯人は明るい星や惑星(特にシリウスと金星)、衛星、流れ星、そして降下する飛行機であり、その前部のライトが空中で静止しているように見えることであった。これらの目撃がほとんどすべてのUFO報告を占める。そしてこれからもそうであろう。しかし、そうではないUFO報告もあり、私たちもそうしたものはいくつか受け取っていた。

中でも刮目すべきものは「空飛ぶ三角形」であり、そのバリエーションは今でも世界中で見られる。有名なものとしては、1989年のノーフォーク海岸沖の油田での事例があって、三角形をした黒い乗り物が(それはノース・シー・デルタと呼ばれることになる)2機のF-111戦闘機に護衛される中で米国のKG-135給油機により燃料補給されているのが目撃された。これは凧やカモメの誤認ではなかった。目撃者のクリス・ギブソンは王立防空監視軍団の元隊員であり、航空機には詳しかった。

これらの「空飛ぶ三角形」というのはほぼ確実に最新式の軍用機などと思われるわけだが、UFOの物語においては繰り返し登場するキャラクターである。それらはオーロラ、ブラック・マンタ、TR-3Bといった名前で知られている。大きさはアメリカンフットボール場3つ分から普通の軍用機のサイズまでさまざまであり、速度もホバリングから瞬きする間に消えるほどの高速にいたるまで、こちらも様々に報告されている。彼らはしばしば無音飛行、透明化、重力を無視する能力といった特殊な力を持っているとされる。

NUFOSは、ノーフォークの湖沼に浮かぶ運河船の上でホバリングする「黒い三角形」や、一家が高速道路で追跡されたという驚くべき報告を受け取っていた。その家族は、もし箒が車の中にあれば箒の箒の柄で突けるほど近くを飛んでいたと述べていた。これらの報告は興味深く、通常の空に見える光よりもはるかにエキサイティングであったが、私たちはそれにどう対処すればよいのだろうか?地元の英空軍に相談すれば、国防省に正式な報告をするように言われるだろうが、防衛省が極秘で飛ばしている飛行機をスパイしてくれたからといって記念のバッジをくれるはずもなかった。

「どう対処すべきか?」は私たちの会議における定番の問いであった。私は、ランカシャーUFO協会のリーダーが同様の「空飛ぶ三角形」の報告に直面したときに行ったようなことはしたくなかった。彼は、そのナゾの飛行機が駐機しているとされた英空軍のウォートン基地に侵入することを提唱したのだった。面白いアイデアではあった。だが、NUFOSのメンバーの多くは自分たちの地域の軍事施設の階段を登るのすら苦労するだろうし、ましてやフェンスをよじ登るのはなおさらだろうと思った。

私たちの仲間の中には、UFO現象と非常に複雑で個人的な関係をもっている者もいた。ある女性は、自宅の上空に赤い光の球が現れることを、彼女が患っている慢性疲労症候群(CFS)と関連づけていた。別の年配の女性は、どの医師も診断できないほどの奇病のため車椅子から離れることができなかったが、それは異星人と関係していると確信していた。初めて話をしたとき、彼女は積み上げた木の上で丸太に「擬態」した異星人を見たと話してくれた。彼女もまた、CFSの女性と同じく、自宅の上空に赤い光を見たことがあった。時間が経つにつれ、私は彼女が毎回のNUFOS会合の間に、私たちが前回の集まりで話し合ったことを体験することに気づいた。彼女は、公には「空想性傾向のある人格」と呼ばれる心理学的なモデルケースにあたるのではないか。私はひそかにそう疑っていた。

そして、サイキックもいた。UFO現象は常にそうした者たちを引き寄せてくるのだった。1945年、つまり世界が初めて空飛ぶ円盤の話を耳にする2年前のことであるが、アメリカの超能力者ミード・レインは、ボーダーランド科学研究財団を設立し、エーテリアンと呼ばれる異星人とのチャネリングを始めた。1950年代半ばまでに、「ナッツ・アンド・ボルト」派のUFO研究者とチャネラーやコンタクティーの間には明確な線が引かれた。前者は科学志向の研究に傾倒し、しばしばプロフェッショナルな科学的背景を持っていたのに対し、後者はよりスピリチュアルな指向性を持っていた。NUFOSにはその両方がいたのである。

メンバーの一人、ショーンは、身なりに構わないやせ細った男で、目の下には黒いクマがあり、常に千年先を凝視をしているようだった。彼が言うには、自分は英国政府のためサイキック関連の仕事をしており、保守党の黒魔術作戦に対抗する秘密組織の一員だということであった。ある時、ショーンはギネスビールを飲みながら、ノーマン・テビットというのは保守党の悪魔崇拝集団のリーダーであって、それは「彼の目を見ればわかる」と言った。私の在任期間が終わった後、数年経ってから、ショーンは資金と資産を盗んだとしてNUFOSに訴えられた。

ジョージと彼の妻ジャネットは、遅れてグループに参加した。二人は仲の良い夫婦で、とても真剣な雰囲気を漂わせていたが、このジョージとジャネットは宇宙人からのメッセージをチャネリングで受け取り、テレビ画面で未来のビジョンを見せられたと言っていた。そのビジョンの中には、2000年になると地球に多くの宇宙人が着陸し、黙示録さながらの光景が展開されるというものもあった(それはミレニアムバグ――2000年問題が話題になるずっと前のことであった)。

NUFOSにおいては風変わりであることはアリだが、あいまいであることは許されなかった。1996年の初夏のある日、会議が招集されて、私たちはフェリーボート・インの奥の部屋に集まった。そこで私は、「あなたはこのグループのリーダーにふさわしくないとの決定がなされた」と告げられた。私は皆に友好的で、若く、そこそこ頭もきれた。だが、私は「答え」を持っていなかった。実際、私のプレゼンテーションというのはいつも新たな疑問を生みだすもので、それはUFOの謎を解明する助けには全くならなかった。NUFOSが求めていたリーダーというのは、グループに規律を植え付け、方向性を示し、そして・・・そう、答えを与えてくれる者だったのだ。

かくて彼らは、ジョージを新しい会長に選出した。テレビを通じてエイリアンのメッセージを受け取ってきたあのジョージである。裏切られたように思った、といえば言い過ぎだろう。私は学業を終えて、数ヶ月以内にロンドンに向けて発つ出発をしていたのである。ただ、私はグループとその将来に危惧を覚えた。ノーフォークの寒い夜、彼らは水路を越えて集まってきて、ポータブルテレビの明かりに照らされる中、「空飛ぶ三角形」に乗せてもらうのを待っている――私はそんな光景を想像していた。

振り返ってみると、私はNUFOSの運営者として最適の人物ではなかった。私が理想と考えていたのは懐疑的な中立地帯にあること――つまり、事実が旗幟鮮明な立場を取るよう求めてくるまでは或る理論を肯定も否定もせず、さらに特定の立場を取った後もなお疑問を持ち続けるということであったわけだが、こうした集団の中でそれを維持することは不可能だった。そもそも、私はそこで何をしていたのだろう? 本当にUFO団体を運営していたのか、それとも、ドロ沼にはまりこんでしまった、不器用で不誠実な参与観察者だったのだろうか? それはいまでもわからない。私はそのあとロンドンに移った。その際、一枚のマンガを持っていったのだが、それはグループにいた元警官のハリーが描いたもので、フェリーボート・インの駐車場にビーム光線とともに下ろされるエイリアンの姿が描かれたものだった。

その後、私をとりまく状況は変わり、UFO現象との関わり方も変わってしまった。ロンドンの空は、街灯や高層ビルに覆われ、日々行き交う航空機でいっぱいだった。ノーフォークの何もない空間が大きく広がっている空と比べると、得られるものはほとんどなかった。次第に空を見上げることをやめ、UFOに対する関心も薄れていった――私以外の世界もまたそうであったように。それでもUFOの話を読むのは好きで(特にそれが奇妙であればあるほど良かった)、何か新しい展開がないかUFO関係の噂話に耳を傾けていたのである。だが、私に――そしておそらくUFOシーンにとっても強い印象を残すようなものは現れなかった。

UFOコミュニティからやむことなく聞こえてくる「真実はそこにある」といった金切り声にはウンザリしてきた。要するに、人類史上最大の出来事、つまり異星人とのやりとりがアメリカのどこかの軍事基地の格納庫でひそかに行われているというのである。そんな出来事があったのなら、どこにその兆候があるのか? 歴史の流れの中のどの時点で、そんな突然の逸脱が起きたのか? ETのテクノロジーはどこにあるのか? それを秘密にし続けていることで利益を得ているのは誰か? マドンナやスティーブン・スピルバーグ、アラブの首長やオリガルヒの連中よりも多くのカネと権力を持つ者がいるということなのか? 陰謀論者が信じているように、もし秘密の組織のようなものが真実を手にしているのなら、彼らはそれをどう利用しようとするのか?

複数のパズルが互いにはまりあうことはなく、証拠もなかった。前々から言われてきた「真実は明らかになる」という話も実現しなかった。明らかなことは、本当にUFOが実在していたとしても、それについてよく分かっている者はいないということだった――世界政府(そんなものが密かに作られているのかどうかはともかく)でもそんなことは理解していないし、ましてやUFO研究家などは論外である。UFO問題に関する或るコメンテーターの言葉を借りれば、UFO研究家たちはUFOについて何でも知っているのだが、例外はある――それは「UFOとは何か」「UFOが来るのは何故か」「それがどこから来るのか」「UFOを操っているのは誰か」といったことだ。私はかつて「非人間存在はやってきていて、UFO現象の背後には異星人がいる」といった感覚をもっていたのだが、そうしたものはほとんど消え去ってしまった。人々がUFOを目撃し続けていることに疑いはない(これまでずっとそうだったし、これからもそうだろう)。しかし私は、ほとんどのUFO目撃事例において最も重要な部分というのは、目撃者の内面で起きたもので、決して外部ではないと感じるようになった。

結局、私はNUFOSと連絡を取らなくなったが、このグループは今も存在している。NUFOSやそれに似た多くのグループは、世界中のUFOコミュニティの完璧な縮図であり、もっといえばミステリーに関心を有するあらゆるコミュニティの縮図でもある。実際のところそうしたグループは、真実と意味とを求める永遠の探究を掲げながらも、実際には日々生じてくる小さな抗争であるとか、皆を支配する圧倒的な官僚主義が想像力をジワジワ締め付けていくことによって常に苦しめられている。そうしたグループは、おそらく人生そのもののメタファーとしてあるのだろう。他の惑星での文明生活も、実はこれとそれほど異なっていないのではなかろうか? (01←02→03

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マーク・ピルキントン『ミラージュ・メン』(2010)

■第1章 境界部へ

「船はそこにあるのさ。見上げた人々の目には見えるんだ」 ――グレイ・バーカーの『アダムスキの書』(ソーサリアンブックス、1965


 「あのクソったれは何だ!」とティムが叫んだ。彼の声は恐怖というよりも驚きをにじませていた――それは初めてUFOを見た人間にとってはさもありなんというものだった。

 1995年の7月中旬、明るく晴れた午後のこと。友人のティム、当時のガールフレンドのリズ、そして私は、パンクしたタイヤを取り外す作業をしていた。場所はヨセミテ国立公園の東の境界から27マイル離れたティオガパス・ロード沿いのテナヤ湖。私は22歳だったが、私が前輪を取り替えようとしていたクルマも同い年だった。それは1973年製のオンボロで青空のような色をしたフォード・ギャラクシー500。バックシートにはマットレスを敷いていた。私たちは80日以上かけてアメリカを一周する旅に出ていて、ほとんど2ヶ月ほどが過ぎていた。しかし、そのクルマは限界に達していた。直近でクルマを点検した整備士たちは、あえぐように走る2トンのケダモノで私たちが旅を続けるのをやめさせようとした。そこから私たちは200マイルほど進んできたわけだが、私がスパナを握りしめてそのクルマの下に入り込んでいたのにはそんな事情があったわけだ――そこでティムが叫び声を上げた。

 ティムは私の前に棒立ちになり、信じられないという風に言った。「あれは何だ?」。私は「わからない。でも30分ほど前に同じものを見たぜ。ここから数マイル下のほうで」と応じた。

 私はタイヤのナットを回し続けたが、心もまるでコマのようにグルグルと回転し続けた。私たちが見たものが何であれ、それは20分ほど前に道路上で目撃したものと全く同じものだった。

 ヨセミテからここに向かう途中で、クルマのタイヤはパンクしてしまった。新しいタイヤを持ってこようと、リズと私は最寄りの町、リー・ヴァイニングへヒッチハイクをして向かった。それはモノ湖のわきにあって、石灰に覆われたような殺風景な光景の広がっている、かつては採鉱業の最前線にあった小さな町だった。仕事が済んだ私たちは、通りかかった2人乗りのコンバーチブルスポーツカーに乗り込んだ。リズは前に座り、髪をきれいになでつけたドライバーとぎこちない会話をしていた。一方の私は、ドライバーシートの後ろの空間に足を突っ込んで、修理されたホイールを抱えながら座っていた。

 風の強い二車線の舗装道路を走りながらヨセミテへと戻ってくると、涼しい山の空気が吹き付けてきた。樹木が密集した北側の森のところをカーブした時、木々の間に光るものが目に入った。防火帯になっている直線道路の90フィートほど先、高いモミの木の間に全く予想もつかないものがあったのだ。それは地表3フィートのあたりに滞空しているようで、静止していた。

 それは光を反射する銀色の完全な球体で、直径はおそらく8フィート。磨き上げられた巨大なクリスマスツリー用のオーナメントのようだった。それは私にルネ・マグリットの謎めいた作品『La Voix des Airs 天の声』に描かれた、緑豊かな風景の中に吊されたベルを連想させた。それは美しく、穏やかで、不気味で、そして違和感に満ちていた。

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  La Voix des Airs 

 私が自分が見ているものがどんなものかを認識した途端、それは木々の後ろに消えてしまった――私たちが曲がりくねった道路を走っていく間に。数秒後、私たちはまた別の防火帯用の道路を通過していったのだが、さきほどと同じ場所に目をこらした。それはまだ同じ場所にいた。水銀のように輝き、不動で、奇妙なほど完璧だった。一瞬の閃光を放ってからそれは木々の間に消えたのだが、それからまた別の曲がり角、別の道路を経て、再びあのいまいましい球体が出現した。私は、頭の中で説明を探したけれど、それを口に出すことはなかった。リズやドライバーは特に異常なものを見たような様子もなかったし、仮に私が何を言うべきかわかったとしても、爆音するエンジンと風の音の中でそれを伝えることは不可能だった。

 球体と森を後にした私たちは、自分たちのクルマに戻ってきた。それはきらめく湖と険しい岩山の間に挟まれた場所にあった。クルマをジャッキアップしてその下に潜り、ホイールを取り付ける作業をしている間、私は自らが見たものについて口にすることはなかった。ティムが叫び声を上げたのは、その時だった。私の視界にあったのは彼の足首と足だけだったが、彼とリズは興奮して大きな声を上げた。

 「早く!これを見ろ!いったい何なんだ!?」

 立ち上がった時、私はそこで何を見ることになるかは分かっていた。

 午後の日差しを受けて、それは湖の上を意志を持っているかのように滑り、私たちに向かって進んできた。穏やかに浮かんでいるさまは、まるでどこかの粘性のある流れに運ばれているかのようだった。それは先に見た球体とまったく同じように見えたが、同じものではなかった。というのは、それは約1/3マイル離れた湖の反対側からやってきたからだ。それは私たちの頭上約50フィートほどのところを飛んでいたが、全く音をたてず、急いでいる感じもなく、それでもどこか決然としたものを感じさせるような動きだった。そして、丘の穏やかな輪郭に沿うようにしてそれは視界から消えていった。この間の時間は1分足らずだった。

 「あれ、何だったの?」。リズが私たち全員の思いを代弁するように言った。虚無が一帯を満たした。頭は答えを探そうとしたが、何も出てくることはなかった。

 クルマの下に戻った私は、さらに少しナットを外して、不安が忍び寄ってくる感覚を抑えようとした。が、無理だった

 「まったくもって信じられない!もう一つ来るぞ!」とティムが叫んだ。

 急いで体を出すと、ちょうど間に合ってもう一つの球体を見ることができた。前のものとまったく同じで、湖の上をゆっくりと私たちに向かって進んできた。そのルートは先ほどのものとまったく同じだった。そして、それは丘を越えるように上昇し、まるでそこを毎日通っているのだという風に穏やかに進んでいった。

 私はカメラを取りにクルマに飛び込んだが、間に合わなかった。球体は消え去っていた。それが最後だった。

 おそろしく奇妙で、本当の話である。これは他の何千ものUFOの物語とも似ている。この話には、その当時私がUFOに多少興味を持っていたという事実によって、いささか奇妙さの度が増しているところもある。正直に言うと、その当時私はUFOに取り憑かれていた。私はこれまでずっと超常現象と異常なものに興味を抱き続けてきた――ほとんどの子供がエニド・ブライトンを読んでいる間に、私はH.G.ウェルズやブラム・ストーカーを読んでいたのだ。 しかし、どういうわけか1980年代後半になると、徐々にUFOが私の主要な関心事になっていったのである。

 1989年、16歳の時、私はスペイン南部で最初の目撃をした。友達と私は、9つの光るオレンジ色の球が地平線沿いに振幅の大きい正弦波を描くようにして転がっていくのを見た。私はそれらが次々と過ぎていったのを覚えているが、それはまるで粘っこい液体の中を見えない糸で結ばれて動いているかのようだった。私も友人もその光景にそれほど仰天したわけではなかったし、それが「エイリアンの宇宙船」だという可能性も頭には浮かばなかった。しかし、私はその出来事を何度も思い返しては、こう思ったものだ――私たちが見たものはいったい何だったのだろう、と。

 1990年代の初め、UFOは私にとってのすべてになっていた。後から考えると、私は無意識のうちに千年紀前夜の時代精神に捕らえられていたのかもしれない――星々の魅力に魅せられてしまった他の何千人もの人々と同様に。一方には冷静にしてハイテク技術をめぐるワクワク感に満ちたティモシー・グッドのUFO本(そこでは明らかにありえない航空体と軍とのコンタクトが論じられていたのだ)があり、他方にはホイットリー・ストリーバーの魂を揺さぶるエイリアン誘拐の回想録があった。そのはざまにあって、エイリアンとのコンタクトの可能性、そして我々の世界のそれとは違う生命体がいる可能性、島のようなこの地球を離脱できる可能性、そうしたものは大いにありそうなことと思われるようになっていたのだ。

 そして今や私は再び目撃を果たすことになった。

 ヨセミテでの出来事の奇妙さをさらに倍可させたのは、旅の途中で読んでいた本だった。それはカーラ・ターナーの『Into the Fringe』。心理学者にしてUFO研究者でもあった彼女は、私たちが目撃をした1年後に脳腫瘍で亡くなった。自分の家族のUFO体験について彼女が記した記録は、もともと奇怪なこの分野にあって、さらに折り紙つきの奇妙なものの一つであった。そこにはいくつかの浮遊する銀色の球体が登場しているのだが、ターナーはその球体を「貯蔵庫」になぞらえて、「そこでは人間の魂が何らかのかたちでリサイクルされるのだ」としている。その球体の中にあって、人間の魂は或る意味では他者 [訳注:原文はエイリアン] でもあるわけだが、それは母親の胎内に植えつけられる。それは外科手術のようでありながらもスピリチュアルなプロセスであり、UFO伝説の核心にある神秘的次元を医療のコトバで映したものなのだった。

 しかし、私たちがその日ヨセミテで見たものに、そんな魔術めいた要素は一切なかった。その遭遇に続く何年間か、「私たちの頭上を飛んでいたものについてありふれた説明はできないだろうか」という風に私は自問自答していた。

 あれはアルミ箔で覆われた風船だったのではないか?その可能性は否定できなかった。ただ、あれは風船というにはあまりに固いもののように見えた。もし私たちが岩を投げたら、カツンという音をしっかり立てただろう(投げなくて良かったが)。あれが飛んでいく時、水の上のコルクのように上下に揺れ動き、そして私たちの後ろの丘の輪郭に従ってスムーズに飛んでいった様子もまた、風船の動きとは全く異なっていた。風船であれば、ガレ場の斜面に無様にぶつかってから稜線を超えて飛んでいったことだろう。それだけではない。私の記憶では、気味が悪いことに、その物体を運んでいくに足るような風は少なくとも私たちが立っていた場所では吹いていなかった。

 もしかしたら、あれは球電やセントエルモの火のような珍しい大気現象だったのではないか? こうした電気的性格をもつ気体が泡だったものは、より超常的なUFO目撃のいくつかについては良い候補になろうし、昼間は銀色に見える可能性があるとされている。アメリカ空軍は何十年もの間、兵器化する可能性を探ってプラズマをの生成・コントロールするすべを探ってきた。しかし、再び言わせてもらえば、私たちが見た球体は明らかに固体で、「気体」ではなかった。

 あれは何らかのドローン機だったのか?私たちがいたのはチャイナレイク海軍航空兵器基地からそう遠くない場所だったが、その基地は海軍が新しいオモチャを試す試験場の一つであるから、その可能性はある。しかしかりにそうだったら、あれを空中に飛ばしていたテクノロジーはいかなるものだったのだろう。球状の物体がレーダーの訓練とその補正のために軍用機から投下されることがあるが、あれは垂直に落下していたわけでもパラシュートで降下していたわけでもなく、水平に飛んでいたのだ。

 こうしたプラグマティックな試みがうまくいかない場合、神秘的な説明だったらどうなるだろう? あの物体は、カーラー・ターナーの本に触発された私自身の無意識から湧き上がったもので、それから皆が共有できる現実にしみ出してきたものだったのではないか――そう、チベットの神秘主義における精霊トゥルパのように。違うだろうか? ふむ、一つの考えではある。そして告白せねばなるまいがそれは当時私が考えていたものだった。

 もしそれらが物理的な物体であったとすれば(私はそうだと信じているのだが)、アメリカ政府が秘密を保管している「ブラック・ボールト」や最新の軍事装備が収容されている倉庫にアクセスできない限り、「私たちがあの日見たものは何か」という問題に満足のいく答えを見つけることはできまい。そして、とらえどころのないこの現象ならではということになるが、少なくとも第二次大戦以降のUFO文献には同様な物体の報告が散見される。例えば1944年12月14日のニューヨークタイムズの記事にはこうある。「ドイツの新兵器が西部戦線に現れたことが本日明らかになった。アメリカ空軍のパイロットの報告によれば、彼らはドイツ領空上空で銀色の球体に遭遇している」

 謎の発光オーブは最初1942年にヨーロッパ上空で航空兵によって目撃された。これらの光の球は、黄色、オレンジ、銀色、緑、または青とその描写は一定しなかったのだが、航空機を追尾したとされ、激しい回避操作をしても攻撃したり、損傷を与えてきたりすることはなかった。イギリスのパイロットはこれらの光を「例のヤツ the thing」と呼び、アメリカ人は「フーファイターズ foo fighters」と呼んだ。これは人気のある漫画の消防士で、「フーのいるところ火事あり!Where there's foo, there's fire!」という決まり文句を持つスモーキー・ストーバーにちなんで命名されたものだった。元英空軍の情報将校(そして「グーン・ショー」のコメディアン)だったマイケル・ベンティンは、バルト海上空を飛行する際にパイロットを悩ませた怪光について、航空兵たちから報告を受けていたという。射撃手たちはその光に向けて発砲したが、それが応戦してくることはなかった。「その光は何をするでもなく、ただ脈動しながらあたりを飛び回っただけでした。我々は、それは疲労のせいだということで片付けましたが、のちに私がアメリカの情報機関G2に報告を出したところ、将官からは米軍の爆撃機でも空中に光をみていたと言われました――彼らはそれをフーファイターズと呼んでいたそうです」*

 フーファイターズの報告は、空軍省によって真剣に受け取られたが、他のパイロットからは笑い話とされることが多かった。それは球電のような珍しい自然現象だったのだろうか?それとも、多くの人が推測したように、秘密兵器、あるいは敵のパイロットに恐怖を与えるために意図された新しい種類の対空砲やデコイだったのだろうか?これらは無線で制御されていたのだろうか?他の航空機を追尾する仕組みを有していたのだろうか? ベンティンは、1943年のペーネミュンデ空襲に際して銀青色の球体に追跡されたというポーランドのパイロットから事情を聴取したことがある(ペーネミュンデはV2ロケットの生産地であった)。ここでまた別の進歩したテクノロジーが開発されていたことと、この件には関係があったのだろうか? それは定かでないし、今に残る戦時の記録に答えはない。ベンティンの個人的な結論は、もしそれがポーランド機を攻撃しなかったのだとすれば「それは大した兵器ではなかった」というものだったが、それはいささか鷹揚に過ぎるように思われるし、デコイや電子対抗手段(EMC)が戦争のスタンダードを占めている今日にあってはウブな考えでさえあるだろう。しかし、それは彼の上官の態度を反映したものであったわけで、我々の知る限り、上層部の人間はその問題に深入りしなかった。結局のところ、その時点で戦争は続いていたのだから。

 では、私がヨセミテで見た球体はどうだったのか?アメリカの諜報活動に関わったバックグラウンドを持ち、UFOに興味を持っている或る人物は、それはアメリカ軍の偵察用ドローンだったのだと私に語った。これはチャイナレイクの理論を支持するものかもしれない。また、アメリカ政府のために「遠隔視」(RV)を行ったと主張する超能力者は、球体は地球外に起源があり、そのことは一部の政府グループにはよく知られていると私に語った。また、あるアメリカ陸軍大佐は、球体はカンザス州のどこかに大量に集合していて、その一帯に幾何学的な模様を形作っていると彼女に [訳注:誰?] 語っていた。

 あり得る話だと読者諸兄も考えているかもしれない。ひょっとしたら、そういったものが広大なカンザス州の大草原にもミステリー・サークルを作っているのではないか? しかし、それから数年後、かつてサイエンスライターのパトリック・ハイグが著した『スワンプ・ガス・タイムズ』を読んでいた時のことが頭に浮かんできた。彼女は1980年代にカンザスの草原に住む人の話を記していたのだが、その農夫は、晴れた夜に最新式のコンバインで農作業をしているときの喜びについて語っていた。そういう場所が大好きだったと彼は言った。

    「ヤツらが来るまではね」
    「...ヤツらとは誰ですか?」
    「光が降りてきたんだ」と彼は言った。「ふと見るとヤツらはそこにはいない。次の瞬間、側面の窓から外を見ると、そこにいる。こっちと同じ早さで動き続けている。それから、まばたきしている間に、彼らは周りを回って反対側に姿をみせる」
    「UFOですか?」
    ...その男はそれが何であるかは言わなかった。ただ、「こういうものではない」というものの名を挙げた。「ヘリコプター、航空機、ヘッドライト、反射...」
    「で、これからどうしますか?」
    「やらなければならないことをするだけだよ。私はただ仕事をするだけだ」。そう彼は答えた。
    「最後にヤツらは空に飛び去って消えるんだ。本当に神経を逆なでするがな」

 ・・・おそらくカンザスの球体は1995年7月のあの日、ヨセミテで休暇を楽しんでいたのかもしれない。ちょうど私たちがそうしていたように。(01→02




 

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■オズ・ファクター

 ジェニー・ランドルズは著書『UFOリアリティ』(1983年)において、「現実世界から切り離され、異なる環境のフレームワークに運び去られてしまう感覚」について言及している。彼女は、この感覚がUFOの目撃者によって時折報告されることを踏まえて、こう述べている。「それは我々がUFOを理解する上でもとても重要なものの一つである。それはおそらく、目撃者は一時的に我々の世界から別の世界に――その世界の現実はこちらとは微妙に異なっている――運び去られていることを示唆している・・・『オズの魔法使い』の国にちなんで、私はそれを『オズ・ファクター』と呼んでいる」。サイキック現象を論じた『シックス・センス』(1987年)では、彼女はこのオズ・ファクターを心理学者や超心理学者が「変性意識状態」と呼ぶものと同一視している。

以下はUFOにかかわるストーリーの中でオズ・ファクターが報告された一事例である。それは1978721日、まだ暑さの残る夏の夜、午後1015分頃にイギリス・マンチェスターのデイヴィフルムで起こったもので、ランドルズが「W夫妻」と呼んでいるカップルが薄明の空に黒っぽい円盤が浮かんでいるのを目撃した。この円盤はオーラに包まれており、そこからは3040本の美しい紫色の光線が車輪のスポークのように様々な角度に発射されていた。その長さは真ん中にある円盤の直径の12倍ほどまで伸びていた。ランドルズの記すところでは、一分半ほどすると「光線は順番に内側にたたみ込まれていき、物体はゆっくりと消えていった。その大きさは向かいの家の屋根と比較しても相当に巨大なものであった」。W夫妻が当惑しつつ語ったことによれば、その目撃の間、いつもは賑やかな通りは不思議なほど静かで、クルマや歩行者は全くみえなかった。W婦人はのちに、二人でその物体を見ている間、自分は「特別な存在」になっていて、かつ「孤独」な感じだったと語った。

 もう一つの類似した事件は、ドーセット州プールのジーン・フィンドレーによって報告された。1980126日の朝91分、バスを待っていた彼女は「上を見なければ」という衝動を感じたが、それは「まるで頭の中で誰かの声が命令してきたような感じでした」。彼女は近くの木の上にホバリングしているドーム付きの円盤型UFOを見た。彼女は「魔法にかけられた」ような感じで、「平和、静けさ、温かさ」といった感情がわき上がる中、彼女はその物体が光線を放ち、一回転し、それから超高速で飛び去るのを見た。時計を見ると「時は飛ぶように過ぎていた」――ちょっとの間の出来事のように感じたが、実際には4分が経過していた。この目撃は繁華な都市のラッシュアワーにあったものにもかかわらず、彼女によれば、その間あたりは「静まりかえって」おり、周囲から人影は絶えていた(ランドルズ、1983年)。

 オズ・ファクターが関わっているかもしれない目撃事例は、1989415日のカリフォルニア州ノヴァトからも報告されている。この日の午後530分、自宅の前庭にいた父親と息子は、仰角75度のあたりで「軸のようなものでつながった二つの球体」――つまりはダンベルのような形をした物体がゆっくりと下降していくのを見た。二つの球体は金色で、その周りには白い光輪があった。

 5週間後に目撃者にインタビューした心理学者でUFO研究者のリチャード・F・ヘインズによると、「ダンベルの見かけの角度の大きさは、父親が腕を伸ばした先の親指の幅よりはやや小さく、だいたい1.5度であった」。さらにこれは双眼鏡越しだけでなく裸眼でも見えたのだが、その物体の近くでは四つの小さな金色の円盤が動き回っていた。ヘインズはこう記している。「父親は、物体を観察しているあいだ、通常はこの時間だと多くいるはずの子供や犬がいなかったのは奇妙だと語った」。さらに目撃者は「不思議なんだが、アレを見た人間は他には全然いなかった」とも述べた(ヘインズ、1989年)。ちなみにこの事件は新聞では報じられなかった。

以下に示す物理的効果を伴った刮目すべきオズ・ファクターのエピソードは―― これを専門用語でいえば第二種接近遭遇となるわけだが――195912月の或る日の朝、545分頃にカリフォルニア州プロベルタの南方半マイル地点で発生したとされている。ラリー・ジェンセンはその日、米ハイウェイ99号線を仕事にいくため走っていたのだが、ラジオが「パチパチ」という音を立て始め、ライトは暗くなった。そこで道路脇に車を止め、ヘッドライトを点検するために車から降りたところ、彼はヘッドライトが使い古しの電池で動く懐中電灯のように弱々しく光っているのを見て愕然とした。

 すると彼の視界の端に、巨大で明るい青緑色の三日月型の物体が、高さ60フィートのあたり、位置的には彼の後方四分の一マイルの場所でホバリングしているのが見えた。その物体は幅80から90フィート、厚さは15から20フィートほどあるように見えた。すると突然、不可解なことに、彼は自分の服がずぶ濡れになっていることに気付き、押しつぶされるような不安な感覚を覚えた。そればかりか、調査員に語ったところによれば、彼は「磁石に引き寄せられるように、宇宙へ吸い上げられる感じがした」。

 彼は車のドアに飛びつき、常に持ち歩いていたライフルを掴もうとしたが、代わりにサイドミラーにぶつかって後ろ側によろめいた。二度目の試みでやっと車内に入った彼は、バックミラーを覗いたが、物体は見えなかった。しかし、右側の窓から外を見ると、UFOが数マイル先で北東方向に向かい、シエラ丘陵を浅い角度で登っていくのが見えた。10秒も経たないうちにその姿は消えた。

 ジェンセンの車のライトは再び点灯した。ホッとした彼は再び出発したが、200ヤード進んだところで再び車を止めた。焦げたゴムの匂いがしたからである。ボンネットを開けると、バッテリーのキャップが吹き飛んでいた。バッテリー自体も「膨らんで変形し、びしょ濡れ」になっており、発電機は動かず、電機子とフィールドワイヤーが溶けて一体化していた。が、調査報告によれば、この体験にはさらに奇妙な要素があった。

     加えて彼の記憶に強く残ったのは、この出来事の直前からプロベルタの北半マイルに至るまで、ハイウェイ上で一台の車にも遭遇しなかったということである。これは彼の人生で空前絶後の経験であった。U.S.99Wはサンフランシスコからポートランドおよびシアトルへの主要幹線道路である。交通量は非常に多い(サーニー、タイス、スタバー、1968年)。


ランドルズの見解は以下の通りである。「オズ・ファクターの存在が、UFOとの遭遇の核心には目撃者の意識というものがあることを指し示しているのは明らかだ…客観的現実を上書きする主観的データは、内側から(つまりは我々の深層から)発しているものかもしれないし、外部から(例えば他の知性から)来ているものかもしれない。あるいはその双方から、ということもあるのかもしれないが」

 ――  ジェローム・クラーク編「UFOエンサイクロペディア第3版」より



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  ジェニー・ランドルズ(UFOlogy Tarotより)

       

       

       





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■ジャック・ヴァレ(1939年~)
 フランス・ポントワーズ生まれの世界的なUFO研究者で、スティーブン・スピルバーグ監督の「未知との遭遇」でフランソワ・トリュフォーが演じたフランス人科学者のモデル。天文学者、ベンチャー・キャピタリスト、小説『亜空間Le Sub-Espace』でフランスのジュール・ヴェルヌ賞を受賞したSF作家としても知られる。

1954年にヨーロッパで起きたUFOの目撃ウェーブを機に、UFOに関心を抱く。パリ天文台に一時勤務した後、1962年に渡米。ノースウェスタン大でコンピュータ科学の博士号を取得するなどの活動を続ける一方、J・アレン・ハイネックとの交友を深める中で本格的にUFO研究を始める。妻ジャニーヌとの共著『科学への挑戦 Challenge to Science』(1966年)でUFOにかかわるデータの統計分析に取り組むなど、当時は科学的な方法論に依拠したアプローチで知られていた。

ET仮説については当初肯定的な姿勢を取っていたが、1969年に刊行した『マゴニアへのパスポート Passport to Magonia』で、ヴァレはそのスタンスを一変させる。同書では、民俗学・宗教学的な知見を援用して、西洋における妖精や精霊の伝承とUFO現象の類似点を指摘。UFOは歴史を超えて人類が体験してきた奇現象に類したものだとして、一転してUFO=宇宙船説を否定する議論を展開した。

有力研究者であるヴァレの「転向」は、ET仮説が主流の米国では一大スキャンダルとなり、多方面から批判を浴びたものの、ヨーロッパのUFOシーンにおいては総じて好意的な評価を受け、UFO研究における「ニュー・ウェーブ」という流れを作り出す上で大きな役割を果たした。

次いで1975年に刊行した『見えない大学 The Invisible College』では、UFOとサイキック現象との関連性を指摘するとともに、「コントロール・システム」というユニークな概念を提唱する。室温を制御するエアコンのサーモスタットのように、「UFOは人間の信仰や意識をある方向に誘導する働きをしている」という主張である。そのコントロールを意図している主体が何者かは明示しておらず、いささか思弁的な議論として批判も多いが、単純なET仮説に甘んじることのないヴァレの真骨頂を示すものである。

このほか、『欺瞞の使者 Messengers of Deception』(1979年)、『レベレーションズ Revelations』(1991年)などの著書では、UFO現象をよこしまな活動の隠れみのとして利用しようとする組織の存在について考察を加えた。こうした一種の陰謀論もヴァレにとっては重要な一つのテーマであるが、その主張には論拠が乏しいとの批判もある。

その後はUFO研究から距離を置いた時期もあったが、2010年には古代から1947年までのUFO類似現象をカタログ化したクリス・オーベックとの共著『ワンダーズ・イン・ザ・スカイ Wonders in the Sky』を刊行。2021年にはイタリアのジャーナリスト、パオラ・ハリスとの共著『トリニティ Trinity』を出版した。同書は1945年8月、米ニューメキシコ州未知の飛行体が墜落し、搭乗者ともども米軍によって回収されたという触れ込みの「サンアントニオ事件」を検証したもので、ヴァレはこの事件は現実にあった可能性が高いと主張。墜落物体を異星人の宇宙船とみなす立場からはなお距離を置きつつも、いわゆるUFOの墜落回収事件には懐疑的だったヴァレがそのスタンスを変えたことで大きな話題となった。ただし、同事件をめぐる関係者の証言には疑問点も多く指摘されており、軽挙妄動しない冷静なスタンスで知られたヴァレの「変節」を危ぶむ声も多い。現在は米サンフランシスコ在住。

邦訳書に『人はなぜエイリアン神話を求めるのか』 (竹内慧訳、徳間書店、1996年:原著は「Revelations」)、アレン・ハイネックとの共著『UFOとは何か』 (久保智洋訳、角川文庫、1981年:原著は「The Edge of Reality」)、『核とUFOと異星人』(礒部剛喜訳、ヒカルランド、2023年:原著は「Trinity」)。小説としては『異星人情報局』 (礒部剛喜訳、創元SF文庫、2003)がある。
注:
なお『人はなぜエイリアン神話を求めるのか』UFOとは何か』の著者名表記はジャック・ヴァレー

 ■主な参考資料

Jacques ValléeForbidden Science: Journals 1957-1969 2nd Edition』(North Atlantic Books,  1992)
Jerome ClarkThe UFO Encyclopedia2nd editionOmnigraphics Books, 1998


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ジェフリー・クリパルによるジャック・ヴァレ論の冒頭部。続きは気が向いたら。


不可能なるものの書き手たち ジェフリー・クリパル
第三章 フォークロアの未来テクノロジー ~ジャック・ヴァレとUFO現象

    もし圧倒的な質感をもった3次元のホログラムを作り、それを時を超えて投影するような事ができるものと仮定すれば、私としては「それこそがまさにこの農夫が見たものではなかったのか」と言ってみたい気がするのだ・・・我々は、そこには確かに人間が住んではいるのだが、いま・ここに帰還することを断念して初めて赴くことのできるような平行宇宙の問題を取り扱っているのではないか?・・・そして、そのようなミステリアスな世界から、意のままに物質化して出現し、あるいは「非物質化」して姿を消すことのできるようなモノが投影されているのではないか? となると、UFOとは「物質」というよりは「窓」というべきではないだろうか?
     ――ジャック・ヴァレ『マゴニアへのパスポート』

    十分に発達したテクノロジーは魔術と区別がつかない。
     ――アーサー・C・クラーク


初めてジャック・ヴァレを読んだとき、私はすぐさま思ったものだ。西洋の秘教の歴史、伝統的なフォークロアの真実、現代のSFの神秘的なまでの魅力、超常現象のリアリティといった事どもについて――ヴァレの言い方によるならば「人間の意識のうちに明らかに存在する魔術的性質」[1] にかかわってある「イメージの世界のリアリティ」や「呪われた事実」の一切合切に関して、ということになるわけだが――我々に教えるに足る「何か」を手にした書き手を私は発見したぞ、と。言い方を変えるならば、私はそこで、自分はいま、もう一人の「不可能なるものの書き手」に出会っている、ということに気づいたのだった。

 それは単にヴァレの書いている内容のゆえ、というわけではなかった――もちろん、それだけで「不可能なるものの書き手」たりうることができないのは当然だ。その要諦は彼のものの書きよう、彼が「不可能なものを可能にする」際のやり方にこそあった。そこで彼は、自らの疑問を整理していく際の如才なさであるとか、いわばピースがバラバラになってしまったパズルを組み立てるため、彼の知る歴史的データというパーツを比較考量しながら嵌め込んでいくような手の込んだ手法といったものを用いていた。

私はまた、彼が古代・中世から我々の生きている超近代的な世界にいたるまで、様々な素材を関連づけていく方法にも魅せられてしまった。これは明確に言えることだが、彼は特定の「時代」というものを絶対視していないし、ある地域の文化を他との比較におけるモノサシとして絶対視するようなこともしない。彼にとっての歴史研究というのは、「われわれ」と「かれら」を区別するものではなく、自分たちの時代や言語、その文化に基づくものを「我尊し」とばかりに特別視するものでもない。それは汎地球的な「わたしたち」を対象とするものであって、その領域は時間的にいえば何千年もの期間に渡り、広大なるサイキック・システムがそれぞれのかたちをとった無数のものどもを含み込んだものなのである。

同様に重要なことなのだが、ヴァレの比較対象を旨とするイマジネーションは、知識というものが或る一つの秩序の中に閉じこめられてしまうことを断固として拒否する。結局、ここにいる人物は、先駆的なコンピュータ科学者にしてベンチャーキャピタリストでありながらも、同時にパラケルススの稀少本を購入し、神秘的なものへの志向をもつ人文学者でもあるのだ。彼は若いころ、文化系か技術系かということで進路を選ばなければならない教育の仕組みの不備をあざ笑い、SFをバカにする科学者たちに対しても嫌悪以外の感情をもつことができなかったという。少なくとも彼にとって、ファンタジーというのは真面目な思索のひとつのかたちであった。[2]

 彼は明らかに、こうした若き日の理想を大切に守りながら生きてきた。ヴァレは、SF小説のネタにふさわしいような多元宇宙論や、神話的なコントロール・システムといったものについての思索を深めてきた(実際に彼自身もSF小説を5作ものしている)。だが同時に彼は、火星の地図を作る仕事に携わったり、パルサーの基本周波数であるとか、さらにはビジネス戦略とか情報テクノロジーに関する本も出したりしてきた。彼のビジネスマンとしてのキャリアと文化にかかわる活動というのは、こうした二つの顔を反映したものなのだ。ヴァレは、シリコンバレーのコンピュータ産業や発展期のインターネットにかかわる初期の起業家だった。そして彼は同時に、スティーブン・スピルバーグによるSF映画の古典「未知との遭遇」でフランソワ・トリュフォーが演じたフランス人科学者、クロード・ラコームのモデルとなった人物でもあったのだ。

 私がいま取り組んでいる考察の視点からすれば、ジャック・ヴァレは、まさに現代において霊知を知る者が住まうべき場所、すなわち、現代的なかたちをとった霊知もしくは「禁じられた知識」(それは「条理」を超越し、さらには「信仰」をも完全に超越したものだ)の真っ只中で生きている。もちろん、そう言っているのはこの私であって、これは彼自身の言葉ではない。だが、驚くべきことに、彼の言葉にはそのような表現がまことににふさわしいような響きがある。

結局のところ、彼もまた、自らの取り扱う問題を言い表す際には「条理を超えた」という表現を用いているわけだし、自らの人生は「禁じられた科学」への探究に情熱を注いだものだと言っている――ちなみに「禁じられた科学」というのは、可能性の極限を追求すべく、条理を重んじる主張をラディカルに否定してみせた日記を彼が出版した際につけたタイトルでもある。[3] 彼はそのような物言いで、「新たにフランス流の思考の元締となった、融通のきかない合理主義者たち」に軽蔑のまなざしを投げかけているわけなのだ(『禁じられた科学』1192頁)。

同じようにして彼は、啓蒙・合理主義にたつ哲学者たちに対しても、退屈きわまりない「官僚的なオリの中に200年間にわたって」(同197頁)われわれを閉じこめている、とのあざけりを浴びせている。彼は、UFO問題の実在を否定する「古い科学者たち」に対してもほとほとウンザリしている、という。1961年、自らの日記に次のように記した時点で、彼はすでに合理的で世の受けは良いけれども馬鹿げた彼らの言い分に対して飽き飽きしていたのだ――「我々のリサーチは、彼らの創造性の欠如や、何でもかんでもひとしなみに画一的なものの中に落とし込んでしまおうという欲求(それを彼らは誤って「合理主義」と名づけているわけだが)によって骨抜きにされてしまうだろう」(152)

が、ヴァレが自らのうちに秘めたその深遠なる霊知主義に照らせば、教義を有する宗教ならばドグマに満ちた合理主義よりはマシ、といった話になるわけでもない。彼は既成の宗教には徹頭徹尾懐疑的で、概していえばそれを社会的なコントロールシステムの如きものであって、永遠の真実を託すに足るものなどとは全く考えていない。かくて彼は、自らは「一般的なイメージでいうところの神への信仰などはない」と告白する。それは、彼がスピリチュアルな感受性をもっていない、という意味ではない。のちに見ていくように、実際には彼の霊的な感受性には実に奥深いものがあるのだけれど、彼はそれを宗教的なものというよりは、神秘主義の領分にかかわるものだとしている。

ヴァレにとって、神秘主義というのは宗教やその教義の体系とは全く関係のないもので、「通常の時空から離れたところに意識を方向づけるものであり、思考を差し向けるもの」である。[4] そして、これもあとで見ていくことになるが、彼は文字通りの意味でそのような主張をしているのだ――科学界からは「禁じられている」けれども、彼にしてみれば至極科学的な方法を用いることによって。

かくてヴァレは「条理」と「信仰」のいずれをも超越した場所で、秘された知識(すなわち霊知である)の保持者――いや、それに取り憑かれた者というべきかもしれないが――としての立場から文章をつづっている。そのような、「知」における第三の道というのは、彼の言う「より高次元にある精神」と密接に結びついている。それは伝統的にはイマジネーションやファンタジーの世界を介して、さらに近年でいえばSFを通じて表現されてきたものである。そんな彼にとっての「知の世界におけるヒーロー」というのは、次のような人々だった。

ニコラ・テスラ――彼は現代に生きたアメリカの天才で、電気やレーダー、ラジオ技術といったものをあまりにも奇抜な方法でオカルトと融合させたという意味において天才と称すべき人物のひとりであった。アイザック・ニュートン――彼は正統的な科学に取り組む一方で自ら錬金術と占星術とを実践した人物だった。そしてヘルメス主義の哲学者にして物理学者でもあったパラケルスス――そのテキストについて、ヴァレは十分な注意を払いつつ研究を進めてきたのだった (196)。実際、パラケルススのような人物やそのヘルメス主義的な科学に敬意を払っていたヴァレには、「こうした古き時代のヘルメス主義者たちは、他にどんなことをしていようとも、現代思想の真の創設者として称賛されるべきだ」という強い思いがある (同書176)

ヴァレにとって、西洋の思想――それは表面を覆う合理主義と宗教を突き抜けたところにある「真の思慮」に満ちた思想のことである――というのは根本的に秘教的な営みなのであって、その全体像や、その意味といったものに対して、我々は最近になってようやく注意を払い始めるようになったに過ぎない。それはなお我々の手には負いかねる。だからこそ我々は、それを自分たちの目に届かないところに置いているのだけれど。

だが、ジャック・ヴァレが「禁じられた知識」という時、その「禁じられた」という側面がもっぱら彼の神秘主義にのみ由来するものでないことは強調しておくべきだろう。それはまた、米国政府の活動が生み出したものでもあるのだ。いや、より正確にいえば、ここは「米空軍の活動」というべきだろう。実際のところ、ヴァレは非公式な立場で4年間、政府のプロジェクト(すなわち「プロジェクト・ブルーブック」である)がまとめたファイルについて独立した立場から研究にかかわった人物なのだが、その相方はといえば軍所属のプロフェッショナルや科学者たちで、彼らは他の人間たちが知らない、そして知るべきでもなく、実際に知り得ることもできなかった事について「知っていた」者たちだった。

しかしヴァレは、そのような人々が、とても重要な或る事柄に限っては本当は「何も知らない」ことを悟ったのである。どういうことか? 彼らは、何とも愚かなことに「ここより外側にある」何ものかを追いながら、馬鹿げた、そして実ることのない行動を「この場所」で展開していたのである。彼らは、いわば「キッチリと組織された昆虫のコロニーが、予期せぬ出来事によって突然の災難に見舞われたときのような」反応をみせた(同書155)。彼らがその「リサーチ」で何をしようとしたかといえば、それはロケット科学者を集めて作戦遂行計画を作り、撃墜しようという意図をもってUFOをジェット戦闘機で追跡することに過ぎなかった。彼らにとってUFOとは、「この世界や我々の存在とはいったい何であるのか」といった問題について、我々の認識を大きく転換させる可能性を秘めた深遠なる謎などではなかったのだ。それらは単なる「ターゲット」に過ぎなかった。

彼がのちに著した英語の小説『ファースト・ウォーカー』(訳注:邦訳『異星人情報局』)で、彼は自らの考えを仮託するかたちで、作中の困惑したパイロットに語らせている。その登場人物はこう自問する。「オレたちは、自分たちの理解できないものはすべて撃ち落とさねばならない、といった具合で、空にある物体は何でもあっても自動的にターゲットになるんだと思ってきたんだが、いったいどこがまずかったんだろうか?」[5] こうした軍部ならではの思考は、愚かとはいわぬまでも、いかにも単純で思慮を欠いたものとしてヴァレに衝撃を与えた。それは明らかに無駄なことだった。

言い換えてみれば、ジャック・ヴァレが知るに至ったのは、厳密な意味で「これは主観的なものである」とか「客観的なものである」といった断定的な説明をするのは無効だ、ということなのだ。そうした説明は「ともに真である」ともいえるし、「ともに間違っている」ともいえる。ヴァレが超常現象のことを書く時――そしてこれこそが、私を彼の「不可能なるものを書く」営みに引きつけた理由なのだが――彼は純粋に心的なもの、ないしは主観的に存在するもの(それはそれで非常に興味深く、深遠なるものではあるが)についてのみ考えているわけではない。彼が考えをめぐらせている対象は、次のようなものなのだ――繰り返しレーダースクリーン上に出現する根源的に不可解な現象。過去何十年にもわたって各国の政府やその軍隊との間に深い関わりあいをもってきた、もしかしたら「潜在的な敵」であるかもしれない勢力。我々の最強のジェット戦闘機からも容易に逃げおおせてしまう、進歩した未来のテクノロジー。そして、我々のフォークロアや宗教、文化を何千年にもわたって裏面から規定してきた、不可解というしかない「神話的なもの」の存在・・・。つまり彼は、神話的でありながら同時に物理的にも存在し、スピリチュアルなものでありながら同時に物体でもある、そのような「何ものか」について考えているのだ。

読者諸兄がいま戸惑っておられるとしたら、それはむしろ結構なことだ。合理主義に基づく「確からしさ」や宗教的な信仰は、ここでは「敵」である――混乱は幸福を運ぶ天使である。不条理と疑念は、我々をはばたかせる翼である。だからこそ、いまこの状況に在る根源的な不可思議さというものは、改めて論ずるに足るものなのだ。

だからこそ注目し、強調したい点がある。

結局のところ我々は、西洋の文化史上、特異的な地点へと近づきつつあるわけだ。それは人間の意識のうちにある妖しくも神秘的な特性をターゲットとして政府が極秘の調査プログラムを開始した時代であって、いわば超自然現象が国家の安全保障の上で留意せねばならぬものになってしまったがために、各国の政府がレーダー上に出現したオカルト的なものを超音速ジェットで追いまわしているという世界である。[6]

一方では、我々は、フォークロア的な要素をもつ未来のテクノロジーについてイメージを得ることのできる地点にも接近しつつある。そのプロセスを通じて我々は、「平行宇宙」が存在する可能性や、我々の文化のソフトウエア的な部分を書き換えるべく、我々の意思とはかかわりのないところで、ホログラムの幻像が時間を超えてこちら側に投影されている可能性――といったものに思いをはせるようになるのかもしれない。そんな世界を想像してみる。そこでもなおUFOはモノとしての形をとった「物体」であり続けているかもしれない。が、それと同時に、UFOが或る種の象徴、ないしは他の次元に対して開かれた形而上学的な「窓」として、さらにいえば我々が「他の惑星から来たエイリアン」などではなく「別の時代から来た進化した人間」と遭遇するであろう時空への入り口として観念され、その役割を果たしていくということも考えられるのである。(つづく…?)


[1]
ジャック・ヴァレ「マゴニア・コレクション」(リファレンス・アンド・リサーチライブラリー)注釈付きカタログ第1巻「超常現象研究」(私家版、20027月)3

[2] ジャック・ヴァレ『禁じられた科学:1957-1969年の日記』(ニューヨーク:マーロウ&カンパニー、1996年)44頁。『禁じられた科学2巻:1970-1979年の日記』(ベルモント・イヤーズ社)は自費出版(著作権は2007年、ドクマティカ・リサーチ社)。以下では書名に続いて巻数と頁を記す

[3] 「条理を超えた」というフレーズは、ジャック・ヴァレ『マゴニアへのパスポート:フォークロアから空飛ぶ円盤へ』(シカゴ:ヘンリー・レグナリー社、1969年)110頁と、『ディメンションズ:エイリアンコンタクトのケースブック』(ロンドン:スーベニアプレス、1988年)136頁の2か所で章題として用いられている

[4] 『禁じられた科学』1147-148頁。この点に関する重要な記述は『禁じられた科学』 24261頁にもある

[5] ジャック・ヴァレ『ファースト・ウォーカー』(トレーシー・トームとの共著になる小説。バークレー:フロッグ社、1996年)22

[6] 1970年代半ばにいたる当時の状況については、デビッド・マイケル・ジェイコブス『アメリカのUFO論争』(ブルーミントン:インディアナ大学出版、1975年)参照のこと。ジェイコブスはプロの歴史家で、こののち、1980-90年代のアブダクションを巡る論争では、その目的はエイリアンと人間の交配種を育てることであると唱え、論争における重要な人物となった。この問題を論じた第二の著作が『シークレットライフ~一次史料により記録されたUFOアブダクションの報告』(ニューヨーク:ファイアサイド、1992年)である


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