2024年06月

■第5章 鳥たちの会議
    「ヤツらが恐ろしいほどのスピードで空を飛ぶのを可能にしている力は何か? 乗っているのは誰……というか何なのか? どこから来たのか? なぜここにいるのか? コントロールしているものたちにはどんな意図があるのか?... 暗い空のどこかに、それを知る者がいるかもしれない」――「宇宙からの訪問者は来ているのか?」LIFE誌(1952年4月7日)
ここはネバダ州ラフリン。ホテルとカジノが連なる長さ2マイルほどのその街路は、ネバダ州最南部にあって東側のアリゾナ州、西側のカリフォルニア州の間を流れるコロラド川に接している。1964年にミネソタの元毛皮業者ドン・ラフリンによって創設されたこの町は、現在ネバダで3番目に人気のあるギャンブルの街となっており、気遣いを込めた表現でいうならば「低額ギャンブラー」たちを引きつけている。彼らは、ヌードマジックショーやベット・ミドラーのコンサートに大金を使うようなことはしない。というのも彼らは地元民であるか、さもなくばそんなおカネを使う余裕がないのである。ラフリンのカジノはスロットとテーブルゲームが中心であり、他にやるようなことはほとんどないのだが、それでも多くの訪問者を引き寄せている。

1983年以来、毎年4月には「ラフリン・リバー・ラン」というイベントが開催され、7万人ものバイク愛好者たちが詰めかける。残念ながら、このイベントが町の名を歴史に刻んだのは、2002年のリバーラン暴動の現場としてであった。この事件では、ヘルズエンジェルスとモンゴルズというバイカーギャングの間で激しい戦いが繰り広げられ、3人が死亡したほか、多くが重傷を負った。

そして、国際UFOコンベンションもある。それは1991年以来当地で開催され、アメリカで最大規模のUFO大会の一つとなっている。毎年参加する約600人のUFO研究家やUFOファンたちは、リバー・ランの参加者ほどビール、ガソリン、アンフェタミンを消費しないかもしれない。だが彼らは、バイカーのように粗野だったり貧乏臭かったりする代わりに、夢のようなことを口走る熱情をたっぷりと持ち合わせているのだった。

それは2006年2月のことであった。ジョンと、撮影スタッフのジラー・ボウズ、音響技師のエンマ・ミーデン(この二人はいずれもジョンの映画学校を最近出た連中だ)、そして私は、ラスベガスからラフリンへと向かう90マイルの道のりをクルマで走っていた。私たちの目的は、セルポのリーダーたるビル・ライアンの近況を追い、ポール・ベネウィッツ事件について講演する予定のグレッグ・ビショップに話を聞き、そして何よりもリチャード・ドーティを見つけ出してインタビューすることであった。

辺りに何もなく、単調で赤い火星の砂漠を思わせる光景を見ながら進んでいくと、道路脇の標識だけが私たちが今どこにいるかを示すものとなった。コンクリートでできた獰猛そうな恐竜、巨大なサボテン、手描きの隕石広告、インディアン・ジュエリー、木の切り株の化石、そしてサソリのペーパーウェイト――。道端のほこらは、乾ききった永遠の猛暑の中にあって、高速道路で起きた悲劇の瞬間を後世に伝えるものだ。そんなほこらが路肩に点在している。白い十字架、プラスチックの花、風化したぬいぐるみがきちんと並べられ、壊れた金属片だとか破れたゴムといった車両の残骸の脇に置かれていた。

こうした残骸はロズウェルのUFO墜落事件へと改めて私の思いを誘った。それは何十年にもわたって増幅された音のように響き渡り、最終的にその音は原点におけるそれよりもはるかに大きいものとなった。ロズウェルはアメリカ西部の大いなる神話の一つとなり、人間の世界にはおさまりきらない悲劇となった。それは現代アメリカが誕生して時点における無垢の物語であり(それは楽園の物語ですらある)、喪失の物語、希望や真実に対して恐怖や秘密主義が勝利した物語でもある。さらにいえば、私たちや他のUFOコンベンションの参加者をこの荒涼たる地に引き寄せたのも、その物語なのだった。

ゴツゴツした崖の上から下っていったところで、我々の目前にはラフリンへと続く着陸灯の如き灯火が広がった。目的地はフラミンゴホテル。その双子の塔は巨大でかつ光り輝いており、真っ暗な砂漠の夜にあって連星軌道を描く宇宙ステーションのようであった。私たちはクルマを停め、高さ40フィートの女性器のようなピンクのネオンをくぐってホテルに入った。中に入ると、そこはもはや比喩どころではない子宮である。それが逃れられない現実であった。

ここには必要なものがすべて揃っていた。ホテルは自己完結型の冷房環境を提供しており、そこは外の過酷な砂漠からは隔離されていた。仮にそこから出ていこうとしても、女神サイレンの歌声があなたを呼び戻す。入口から数フィートの場所には何百台ものスロットマシンが並んでおり、その一台一台から流れる音楽は、ひとりひとりの心に染み入ってうまずたゆまずハーモニーを作り出す。それは魂に栄養をほどこすかのようであって、あたかも当地を最初に探検した開拓者たちにコロラド川が施したものもかくやと思われた。

それは胎内の音楽であり、幼児用おもちゃ1000個が鳴り響く音のようであった。心地よく、安心感があり、圧倒的に甘い。どこを見ても人々は椅子に座り続け、低レベルのてんかん発作の如き状態にあり、明滅するライトが光ったままの目に反射していた。中には、プラスチック製のクレジットカードをコイル状のゴム製コードで自分のマシンに接続したままの者もおり、一方の手には大量のコインが入った大きなバケツ、もう一方の手にはコーヒー、ビール、炭酸飲料が入ったさらに大きなバケツ。ここには時間がなく、時計もなく、昼夜の感覚もなく、場所の感覚もなかった。いったんズラリと並んだゲーム機の列を越えると、巨大なゲームフロアの出口は、ジグザグに曲がって光に満ちた廊下の先で見えなくなっていた。いったい誰がここを離れたくなるだろうか?

今日は日曜日であることを思い出した。UFOコンベンションは一週間続く予定で、その一週間、この場所が私たちの家となるのだ。会議で聞く予定のトピックのリストを見返した。プエルトリコやカリフォルニア沖の水中エイリアン基地。ノバスコシアやロズウェル、アズテックでのUFO墜落。人類のET起源説。ミステリーサークル。2012年の黙示録到来。目に見えぬエイリアンによるミューティレーションとユタ州の牧場のワームホール。ETと人間のハイブリッドプログラム。UFOの推進装置――要するに、私がこの手の話に夢中になっていた10年前とほとんど変わっていなかった。

私はUFOコンベンションをカジノと繋げているものに気づいた。信仰である。次に賭けるコインが財産を築き、人生を変えてくれるだろうという信仰。ETは私たちの間にいて、自らの存在を明らかにし、我々の生活すべてを変える準備をしているという信仰。あなたがフラミンゴホテルに入ったときに信仰を持っていなかったとしても、UFOコンベンションの一週間が終わるころには、確実に信じるようになっていることだろう。

UFOコンベンションが行われている会場は三つあった。まずは会議が行われる大きな部屋があり、一方には演壇、その前にはフェイクの赤いベルベットや金をあしらった数百のチェアが並んでいた。この部屋が満席になることは稀だったし、観客のかなりの部分は常にうとうとしているように見えた。講演スペースはメインホワイエに開設されていて、そこがいわば本番の場所であった。コーヒーとケーキが散らばったテーブルを囲んでの小会議、ネットワーキング、ひそひそ話。それはこんな具合だ―― 「俺は頭の中でビリヤードをやっていたんだよ」「ビームにはまっていたけど、今はオーブに夢中だ。写真を撮るたびにオーブが出てくる」「昔はナッツ&ボルト派だったけど、今はもう何でもいいよ」

三つ目の部屋は重要なディーラー・ルームで、ここでは信仰が売買され、さらには信仰が強化されるのだった。UFO文献とメディアのプールは非常に広く、ここに展示されている数千冊の書籍、DVD、そしてほとんど絶滅しかけているVHSテープは、巨大な母船サイズの巡回図書館の何たるかをよく示していた。ここには様々な人からの報告が供される。自分の身に何が起きたかを語るUFO体験者。経験者の体験について論じる研究家。UFOとは何であり何故ここにいるのかを説明する科学者。UFOは××ではないと説いて、なぜUFOなどないのかを説く科学者(当然ながらこのタイプは非常に少数)。UFOがどこから来てなぜここにいるのかを説明するチャネラー。地球上のどこにUFOが隠されているのかを明かす陰謀論者。UFOが何であるのか、どこから来てなぜここにいるのかを説明するエイリアン――それらは情報(インフォメーション)というよりは病害の蔓延(インフェステーション)であった。膨大な素材を整理して、UFOについて一貫した物語を作り上げようなどというのはほぼ不可能であった。『未知との遭遇』のフィナーレにおけるエレガントな5音階による解決などというものはありえないのだ。なぜならば、仮にちゃんとしたシグナルがあったとしても、それは耳障りな騒音の中で失われてしまっているからだ。

気分転換のためにホワイエに戻ると、そのヘリに設けられた小さな会議ルームには、それぞれに珍しい鳥の名前がつけられていることに気づいた。そこにはオオハシ、オウム、そして極楽鳥というものがあった。これ以上に完璧なことは望めまい。1970年代半ば、UFOに魅了された科学者、情報専門家、軍関係者たちで作る緩やかなグループが、自分たちの知識と人脈とを利用して、この状況を理解する試みを始めたことがあった(そのほとんど全員は今日にあってはヴィクター・マルティネスのメールリストに名を連ねている)。やがて彼らは調査の成果を精選してまとめたものを作り、これを「コアストーリー」と呼んだ。このコアストーリーの多くは、セルポ文書のベース部分を形作っており、ロズウェルの墜落、ETの生存者たるEBE、ホロマン空軍基地への着陸などといったものが含まれている。リチャード・ドーティや、その米空軍特別捜査局(AFOSI)での同僚によって研究者のビル・ムーアがこのネットワークに引き込まれたとき、ムーアは彼らに「アヴィアリー(鳥の会)」というニックネームを付け、鳥の名前で彼らを識別した。そして今、我々はラフリンのアヴィアリーでリチャード・ドーティに会う準備をしているのだ。

このコンベンションはサイエンス・フェアや情報ブリーフィングの集まりというよりは、むしろ伝道集会のようなものだったが、さて、それでは政府のインサイダーたちが「UFOというのは単なるウワサ以上のものであり、真剣に受け止めるべきものだ」と説得されてしまったのは何故だったのか? ケネス・アーノルドと『未知との遭遇』の間の30年間に何かが起こったに違いない。彼らは何かを見たか聞いたかしたに違いない。しかし、それは何だったのか?

■彼らはどこから来るのか?

1947年にやってきたUFO目撃の最初の波は、米国の軍司令部内に不安感を募らせていった。真珠湾攻撃まで、アメリカは奇襲攻撃に対して案ずることはないと考えられていたが、今や状況は変わっていた。長期的に考えればソビエトによる原子爆弾の脅威というのは考えたくもない悪夢であったが、同時にゴーストロケットの謎や続発する空飛ぶ円盤の目撃は、空からの侵入に対してこの国は脆弱なのではないかという懸念を生み出していた。こうした恐怖は、新設された空軍にとっては悪いことではなかった。自国の空を守ることが彼らの仕事であったのだから。人々が空からの攻撃を恐れ続ける限り、米空軍は予算削減や海軍との予算争いで悩まされることはない。

1947年9月23日のトワイニング将軍による報告書に続いて(ちなみにそれは空軍がUFOについて発した初の公式文書だった)、空軍はいささか控えめな形ではあったが空飛ぶ円盤の問題に関する公式調査を開始することを決定した。それが「プロジェクト・サイン」で、その目的は空飛ぶ円盤とは何なのか、そしてどこから来るのかを解明することであった。プロジェクトはライト・パターソン空軍基地で運営された。そこには米空軍の航空技術情報センター(ATIC)が置かれており、その組織は外国の技術の研究、ならびに可能な限りにおいて行うリバースエンジニアリングに特化した組織であった。彼らは多数の航空機とともに多数のドイツ人技術者を捕獲していたが、それは第二次大戦終末期に密かに行われたもので、そこには彼らととともに押収した大量の技術文書を読解する狙いがあった。

プロジェクト・サインが一番懸念していたのは、円盤がナチスの設計に基づいたソビエト機である可能性だった。しかし、ドイツの設計図を調べ、それを円盤の驚異的な飛行能力と照らし合わせた結果、プロジェクトチームはそれとはまた別の、そしてさらに衝撃的な結論に達した。それは、円盤は「我々」の手になるものではないということ、つまり「人間が作ったものではない」ということだった。

1948年秋までに、プロジェクト・サインのチームは「状況評価」なる極秘文書の作成準備を進めて完成させたが、それはちょうどレイ・パーマーの新しい雑誌「フェイト」の初号が発行された頃であった。ちなみに、その表紙には壮観な空飛ぶ円盤のイラストが描かれていた。この文書が実際に何を「評価」したのかは不明だが、それが空軍参謀総長ホイト・ヴァンデンバーグに届けられるや、彼はその内容に激怒し、すべてのコピーを破棄するよう命じた。その結果、1949年2月に発行されたプロジェクト・サインの最終報告書は、地球外生命仮説(ETH)を軽視する内容となっていた。シンクタンク「ランド・コーポレーション」のジェームズ・リップ博士による補足文書は、ETHの足らざる部分についてまとめているが、その結論は60年前と同じく今日もなお有効である。

    技術的に進んだ種族が飛来し、我々にはナゾとしか思えないような能力を誇示し、それから何もせずに去って行く、などということはおよそ考えられない……さまざまな事例においてハッキリとした目的が見て取れないのもまた不可解である。唯一こういう動機は考えられるかもしれない。すなわち、宇宙人たちは我々が好戦的な態度を示すような事態を回避しつつ、その防衛体制を「手探りで探ろう」としている、というものだ。だが、もしそうであれば彼らは、人類には自分たちを捕まえることはできないことを知って満足しているに違いないのだ。彼らにしてみれば、同じ実験を何度も繰り返すことに意味はないと考えているのではないか……宇宙からの訪問は可能であるかもしれないが、その可能性はほとんどないものと思われる。

リップの最後の言葉は次のような事実を踏まえると興味深い。というのは、1946年5月、リップ博士はランド・コーポレーションの報告書ナンバーSM-11827、すなわち「地球周回宇宙船実験の予備設計」を共著者の一人として執筆したのである(これはドイツのV-2を基にした多段式宇宙ロケットについての計画で、海軍のロケット計画に対抗するために考案された)。この報告書は次のような予言で始まっている。

未来を映す水晶球は曇っている。が、二つのことは明らかなように思われる。
1、適切な機材を搭載した衛星は、20世紀において最も有力な科学的ツールの一つとなるだろう
2、アメリカが衛星打ち上げに成功すれば、それは人類の想像力をかき立て、原子爆弾の爆発に匹敵する反響を世界に引き起こすであろう

スプートニクとテルスター衛星の登場はそれから10年後のことであったが、空飛ぶ円盤は、アメリカで夜明けの時を迎えようとしていた宇宙時代の最初の前兆となったのである。

1949年2月、プロジェクト・サインは秘密裏にプロジェクト・グラッジへと衣替えをしたが、その目的は、空飛ぶ円盤の目撃を公的な立場から軽んじてみせ、国民の関心を減退させることだった。これを達成するため、彼らは空軍に理解のあるジャーナリスト、シドニー・シャレットに手を貸し、「空飛ぶ円盤について信じて良いこと」というタイトルの二部構成の記事を「サタデー・イブニング・ポスト」に執筆させた。この記事は4月30日と5月7日に掲載されたが、これは米空軍が情報機関に対して円盤に関する極秘サマリーを提出した数日後のことだった。シャレットの記事は、空飛ぶ円盤というテーマについて米空軍がはじめて詳細な公的声明を発したもので、この問題についてのプロジェクト・グラッジの不満をよく表しているという点ではよくできていた。空軍の戦略はうまくいったかに見えた。その年の終わりまでに、彼らはついに空飛ぶ円盤から手を洗うことに成功したかに見えた。

しかし、彼らの平穏は長く続かなかった。人気男性誌「トゥルー」の1949年12月号に、元海軍軍人でパルプフィクション作家のドナルド・キーホー少佐によるセンセーショナルな記事が掲載された。そのタイトルがすべてを物語っていた──「空飛ぶ円盤は実在する」。そして、その冒頭の一文は、グラッジチームの「早々に手を引けるのではないか」という思惑を完膚なきまでに吹っ飛ばした。――曰く、「この地球は過去175年間にわたり、他の惑星からやってきた観察者たちによって至近距離から組織的な調査をされている」

この記事は「トゥルー」を完売させたが、ここからこの現象に関する論客としてのキーホーのキャリアが始まった。「トゥルー」の編集者たちは、この号の成功をうまく活用すべく迅速に動き、1950年3月、いまひとりの海軍関係者、すなわちニューメキシコ州アラモゴードのホワイトサンズミサイル試験場で海軍部に所属していたロバート・B・マクラフリン司令官の手になる記事を掲載した。「科学者たちは如何に空飛ぶ円盤を追跡したか」と題したその記事は、気球の打ち上げを経緯儀で監視していた海軍科学者たちによる劇的な目撃体験を描いていた。マクラフリンは「それは空飛ぶ円盤であり、他の惑星からきた宇宙船であること、そして知的生命体によって操縦されていること」を確信した。さらに彼はこう言ってプロジェクト・グラッジを完膚なきまでに打ち負かした。「幻覚なのか? 光学的錯覚なのか? いやいや、錯覚が5人の訓練された気象観測者全員の身に同時に生じるとは考えにくい」。そこからさらに彼は自らの円盤目撃談を語った。

こうした二つの記事は、軍事機関にあって尊敬されるべき地位を占めていた者によるものだったから、空飛ぶ円盤の話を打ち消そうとした空軍のあらゆる努力を一瞬で無にした。さらに悪いことにそうした記事は、それまで神秘主義者やレイ・パーマーのSFを愛好していたファンの領域にあったものを、研究に値するもの、教育があってマジメな何百万人ものアメリカ人が話題にすべきものにしてしまったのだった。

しかし、すべてが一見した通りのスッキリした話だったわけではない。キーホーとマクラフリンはともに海軍の人物であった。地球外生命体がアメリカの空域に侵入しているという彼らの大胆な主張は、「空飛ぶ円盤の問題は空軍に任せておけば大丈夫」ということにしたい空軍の試みを無にし、さらに重要なことには空の守護者としての空軍の役割をも危うくしてしまった。こうした記事がこの時期に出たというのは、空軍にとって困った問題を引き起こしてやろうという狙いがあったのではないだろうか? 海軍はこの時もそうした戦術を用いて、空軍を困らせ、空軍の活動や指導力に対する疑念を煽りたてていたのではないか?

第二次世界大戦後、米空軍と海軍の間から友情は失われてしまったが、その友情が再び復活することがなかったのは周知の事実であった。双方の憎悪は1949年初頭には全面戦争に発展し、その春には下院軍事委員会の公聴会が開かれた。ここを舞台にした争いは、軍事戦略に関する深い相互対立を反映していた。空軍は、将来の戦争は核兵器による戦略爆撃によってのみ勝利すると主張していた。空軍は、この戦略に従えば海軍というのは時代遅れの存在になっていくと論じ、多くの国防総省関係者もこれに同意した。1949年4月、海軍出身の国防長官ジェームズ・フォレスタルが辞任し、その後任に空軍を支持するルイス・A・ジョンソンが就任すると、彼は海軍の「スーパーキャリアー」建造をキャンセルし、空軍の巨大なB-36爆撃機の製造を優先させた。これに対して海軍は、空軍の将軍がB-36の契約業者と不正取引をしたという告発文書をリークして報復した。両者の緊張関係があまりに高まったため、フォレスタルはうつ病で入院し、1949年5月22日に自殺した。下院軍事委員会は、各軍の間には「鉄の壁」──チャーチルの語った「鉄のカーテン」をもじったものである──が存在すると述べた。

キーホーとマクラフリンが書いた「トゥルー」の記事の背後にはこうした軍の間のライバル意識があったのか。それとも彼らの記事は別にそうした意図があったわけではないストレートなもので、それを利用して誰かがより大きな戦いを戦っていたのか。そこのところはよく分からない。当時は事態が込み入って混沌とした時代であり、空軍、海軍、情報機関が、程度の差こそあれ、それぞれの目的のために空飛ぶ円盤の話を利用していた可能性が高い。そしてこのストーリーは、ここで奇妙な展開を迎えることになる。

■フライング・ソーサーの背後にいる男たち

墜落した空飛ぶ円盤の話は、長い間UFOコミュニティ内で流布していたが、1970年代末まで真剣には受け取られていなかった。だがここに至って、匿名の空軍関係者からのリークにより、UFO研究者たちに多くの情報がもたらされるようになったのである。チャールズ・バーリッツとウィリアム・ムーアによる1980年の『ロズウェル事件』刊行はそうした流れの集大成であり、それ以降、数え切れないほどの書籍、雑誌、映画、そして関連グッズが生み出されていった。ラフリン・コンファレンスで販売業者の部屋を埋め尽くしていたものも、そんな物品の全体からいえばごく一部にしか過ぎない。

しかし、ロズウェルの物語の起源はロズウェルそのものにではなく、北西に約350マイル離れたニューメキシコ州の小さな町アズテックにある。辛口で人気のある「ヴァラエティ」誌のコラムニスト、フランク・スカリーは1950年、ノンフィクション『空飛ぶ円盤の背後に』を出版した。同書がスポットを当てたのは、1950年3月8日にコロラド州のデンバー大学で行われた奇妙な講演であった。それは学術的な講演というよりは市場調査の実験のようなもので、理系の学生90年が匿名の講師による空飛ぶ円盤についてのプレゼンテーションに呼び集められた。その話はキャンパス中に広がり、講演当日、ホールは満員になった。その50分間のプレゼンテーションで、謎めいた専門家は、空飛ぶ円盤は現に存在するのみならず、そのうち4機が地球に着陸し、さらに4機中3機はアメリカ空軍によって捕獲された――と言い放ったのである。

そのうち最も大きいものは幅100フィートで、ニューメキシコ州アズテックの近くに着陸。円盤とその内部にいて死亡した乗員は、調査のためライト・パターソン空軍基地に運ばれたのだという。が、この話自体は新しいものではなく、航空歴史家カーティス・ピーブルズによれば、1948年に「アズテック・インディペンデント・レビュー」が発行したいたずら記事にまで遡る(その記事には、円盤の墜落と小さな金星人の話が書かれていた)。ともあれ、フランク・スカリーによれば、捕獲された3機の機体には34体の異星人の遺体があった。これらの生物は人間に非常によく似ていたが、背丈が低く、肌が白く、髭はなかった。ただ、数人は「桃の産毛に似た細かい毛」を生やしていたという。

匿名の講師は円盤について詳細に述べていた。その内容は――。

    それは我々が設計してきたようなものとは全く異なっている。どの機体にもリベット、ボルト、ネジは一切使用されていない... 外殻はアルミニウムに似た軽量金属で構成されているが、非常に硬く、どんな熱処理を施しても破壊することはできない。その円盤は回転する金属の輪を持ち、その中心に操縦室があった。... 最初の円盤は任意の方向に操作可能であり...どこにでも着陸できるように設計されていた。最も小さいものには三輪の金属球を備えた着陸装置があり、その球は任意の方向に回転できるようになっていた。

デンバーでの講演の後、参加者たちは講師の話を信じるかどうかを尋ねられ、60%の参加者が信じると答えた。しかし、その数時間後、彼らの多くは空軍情報部の将校から質問を受けることになった。スカリーによれば、学生たちに対して行われたこの追跡調査では、「信じる」と答えた者の割合は60%から50%に減少していた。それでもこれは「空飛ぶ円盤は宇宙から来ている」という人の全国平均(スカリーによると約20%だそうだ)よりもはるかに高かった。この講演から得られるメッセージは明確だ。「説得力のある情報源に触れれば、聡明な大学生でさえもあり得ないことを信じるようになってしまう」ということである。

1950年3月17日、「デンバー・ポスト」紙によって、謎の講師の正体はデンバーを拠点とするニュートン・オイル・カンパニーの経営者、サイラス・メイソン・ニュートンであることが明らかにされた。一方、自著の中でスカリーは、ニュートンの円盤情報の源は「ジー博士」だとし、同時に、その名前は国家安全保障の理由で身元を保護する必要がある8人の科学者を合成した仮名なのだとした。しかし、ニュートンとジー博士の真相は、その触れ込み同様に興味深くはあっても、それほどまでには劇的ではなかったことが判明する。

ジー博士の正体はレオ・アーノルド・ジュリアス・ゲバウアーで、彼は幾つもの偽名を持ち、FBIによってその行動を記録した分厚いファイルが作られるほどの人物であった。ゲバウアーはかつて、アリゾナ州フェニックスのエア・リサーチ・カンパニーの研究所で働いていたが、1940年代初頭、アドルフ・ヒトラーを「素晴らしい人」と評し、「ルーズベルト大統領は射殺されてヒトラー総統のような人物に取ってかわられるべきだ」などと公言していたことからFBIの注意を引いていたのである。ゲバウアーは、「自分は墜落した空飛ぶ円盤の技術を解析する政府機関で働いており、そうした墜落円盤の中にはアズテックのものも含まれている」とニュートンに語っていた。ニュートンが実際にこれを信じたのかどうかは不明だが、ともあれ彼は、デンバーの学生たちにゲバウアーの話を広めることに躊躇することはなかった。

ニュートンの日記には、「デンバー・ポスト」紙によって自分の正体が暴かれた後、彼のもとに「米政府機関の秘密メンバー」2人が接触してきたことが記されている。彼らは、「あなたの語ったUFOの墜落話がデマであることを我々は知っている。でも、その話はこれからもずっとしゃべり続けてくれないか」と言ったという。その通りにすれば、「彼らはその雇い主ともども私とレオ(ゲバウアーのこと)の面倒を見てやると約束した」というのである。この謎の人物というのは、ニュートンの悪賢い想像の産物なのか、それとも空軍情報部のエージェントだったのか? あるいはFBIやCIAの職員、さもなくば米空軍にさらに厄介ごとを抱え込まそうとした海軍の関係者だったのだろうか? それはわからない。ただ、彼らが望んでいたことは実際に実現した。スカリーの本は間髪入れず1950年に出版された。この本は約6万部が売れ、当時のベストセラーとなった。これにより、空飛ぶ円盤神話の詳細はアメリカ人の想像力にさらに深く刻み込まれたのである。ニュートンは自らの仕事を見事に果たした。そして、おそらくニュートンを訪ねてきた謎の政府関係者たちも、約束を守ったのであろう。ニュートンとゲバウアーは1952年、「これはリバースエンジニアリングで解明した異星人の技術に基づいた先進的なものだ」と称して採掘装置を販売しようとし、詐欺罪で有罪判決を受けたのだが、そのとき二人はいずれも執行猶予付きの判決を受けたのである。

『空飛ぶ円盤の背後に』が成功を収めたにもかかわらず、アズテックの円盤墜落事件は、数年もするとほぼ完全に忘れ去られた。それが再び脚光を浴びるのは約30年後のことである。その重要な要素、すなわち「機体」「死亡した操縦者」「空軍の回収作戦」、そして「ライト・パターソン空軍基地におけるリバースエンジニアリング・プログラム」といったものは、ロズウェルの物語の基盤を形成することになった。1980年代初頭には、アズテック事件そのものが、UFOコミュニティに対する空軍特殊調査局(AFOSI)の情報操作キャンペーンの一環として利用されるようになった。この事件に関して「墜落は実際にあった」と喧伝する、さらなる一冊が出版されるに至ったのである。

かくしてこの半世紀の間に、新聞の悪ふざけから始まった物語は現実となったのち、いったんはデマとして否定されたのだが、それが1980年代になると再び米空軍とUFO研究者によって復活し、世に広く知られるようになった。これは、最終的には21世紀初頭に「真実ではない話」として葬られることになるのだろう(おそらく、ではあるが)。ともあれここから分かることは、空飛ぶ円盤というのは何度もリサイクルされて甦ってくるものだ、ということである。

民俗学者は、民間伝承が現実に浸出していくプロセスを「直示 ostension」と呼んでいる。しかし、これらの物語が本当に諜報機関によって生み出されたのだとしたら、これは単に「欺瞞」と呼んだほうが良いだろう。UFOの最初の10年を振り返ると、軍民を問わず諜報に携わる者たちがUFO神話の誕生において助産婦の役割を果たしていたことは明らかである。モーリー・アイランド事件においては諜報機関が「汚い詐術」を弄した痕跡が見られるし、サイラス・ニュートンの日記を信じるなら、少なくとも一つの諜報機関がアズテックにおける墜落UFOとその乗員に関するストーリーを広めるべく暗躍していたことになる。このパターンは、その後数十年にわたって繰り返されることとなる。UFOというのは、諜報機関のトリックスターどもが汚い仕事を遂行する上での一つの道具に過ぎなかったのである。

■スパイ、幽霊、吸血鬼、そして異星人

1947年7月26日、ハリー・トルーマン大統領は署名ひとつで米空軍を陸軍から分離し、戦時中の戦略情報局(OSS)を中央情報局(CIA)に変えた。当初は3つの軍事情報グループを組織するための機関として設立されたCIAであったが、数年ののちにそれは諜報カルトの大寺院となった。それは時として、世界を支配するだけでなく、世界中の全ての人々の心と頭を支配しようとするカルトのようでもあった。30年間にわたって、CIAを制御できる者は誰もいないように見えた。

ジョン・マークスとヴィクター・マルケッティは、『CIAと諜報のカルト』という本の中で、機関としてのCIAは長年にわたって制御不能であったばかりでなく、制御を超越した存在であったことを明らかにしている。

    CIAは…必要とあらば民間機関に浸透し、操作し、自らのための内部組織(『プロプライエタリー』と呼ばれる)を作り出す。エージェントやカネで動く人間を雇い、外国の公務員を買収したり脅迫したりして、道義に反することをさせる。目的を達成するために必要なことは何でも行い、その行為に伴って生じる倫理・道徳的な問題は全く考慮しない……その行動は、一般人にはうかがい知れぬ古めかしい規律の背後に隠され、それはこのナゾ多き機関が一体何を・なぜ行っているかについて一般市民はもちろん議会が知ることすら阻んでいる。

CIAの秘密保持に対する姿勢をこれ以上ないほど明確に示す実例は、「MKウルトラ」が露見した際にCIA長官リチャード・ヘルムズが示した対応だろう。MKウルトラとはこの機関が長年にわたって続けたプログラムで、薬物や催眠を用いて「洗脳」とマインドコントロール実験とを行うものであった。1970年代半ば、調査にあたった議会がMKウルトラにかかわる全文書の閲覧を要求した際、ヘルムズは文書類の破棄を命じた。そのもくろみはほとんど成功しかけたのだが、わずかな資料は残った。そしてその資料だけでも、CIAの実務に対して大幅な見直しを強いるには十分であった。

秘密の戦争――すなわちスパイ活動と対スパイ活動、諜報と対諜報、心理作戦、ニセ情報の操作、そして秘密工作といったものだが――においては真実などというものは存在せず、誰にも気づかれない限り、どんなことをしても許された。時には、小規模な軍隊を動かす必要もあるし、難解なテクノロジーを駆使する必要が生じることもある。だが、優れた手品のトリックと同様、ちょっとした暗示だけで大きな影響を与えることができた事例もあった。

空軍大佐エドワード・ランスデールは、心理戦というアートの世界において早い時期に登場した達人であった。アメリカで最も恐れられ、尊敬された「冷戦戦士」の一人であったランスデールは、広告業者から諜報の専門家に転じた人物である。彼はその存命中に伝説となり、グレアム・グリーンの『おとなしいアメリカ人』の登場人物、オールデン・パイルの人物造形にヒントを与えたとされている。広告業界でのランスデールの経験は、諜報の世界で大いに役立った。彼は、知覚とプレゼンテーションの力を理解していたが、その知見を「アメリカが幸福であるためには第三世界を支配せなばならない」という確信と結びつけていた。要するにその目標は、現地の人々の「心」を勝ち取り、経済的にアメリカに依存する状態を作り出すことであった。

第二次世界大戦中、フィリピンで戦った経験を持つランスデールは、1950年代初頭にCIAにリクルートされ、現地の共産ゲリラ反乱軍、フク団(Huks)と戦っていたフィリピンの国防大臣を支援することになった。ランスデールはこの作戦の一環としてフィリピン民生部を設立し、心理戦作戦(PSYOPS)の拠点とした。ランスデールのチームは広告代理店の市場調査員のように現地の人々の心の中に入り込み、彼らがどのように生活し、何を最も望み、そして――当然のことであるが――何を最も恐れているのかを探ったのである。

あるPSYOPSプロジェクトでは、その姿が見えないよう分厚い雲間に小型の飛行機を飛ばし、フク団の領土上空に侵入させた。その飛行機はメガホンを使って「神の声」を流し、反乱軍に避難場所や食料を提供する村人たちには呪いが降りかかると警告した。また、別の作戦では、フィリピンの神話に登場する吸血鬼「アスワング」にまつわる田舎の迷信をうまいこと利用した。ランスデールのチームは、フクが占拠している地域にはアスワングが住んでいるという噂を流したのである。この血を吸う怪物の話はゲリラとその支持者たちの間に広まっていき、遂にある日、彼らの恐れは現実とものとなった。ゲリラの一人が、喉に刺し傷を負って血が抜かれた状態で発見されたのである。しかし、この不幸なフク団員はアスワングの犠牲者などではなかった。彼はランスデールのチームによって待ち伏せされ、殺害されて木に吊るされ、血が抜かれた後、仲間に発見されるように放置されたのだった。他のフク団の人々にしてみれば、これはアスワングの話を裏付けるものであったから、彼らは恐怖にかられてその地域を逃げ出した。1953年までに、共産主義者の反乱は成功裏に鎮圧された。ランスデールはその後、最初にベトナムに入った工作員の一人となり、アメリカがベトナムに介入する道を切り開いたが、その後も「マングース作戦」――これはフィデル・カストロの暗殺計画だったが計8回の試みはいずれも失敗した――で重要な役割を果たした。

ベトナム戦争でも現地の迷信は利用された。陸軍第6心理戦作戦大隊は、「泣き叫ぶ魂」と呼ばれた音声テープを兵士が背負ったりヘリコプターに取り付けたりしたスピーカーで定期的に流した。これは成仏していない死者にまつわるベトナムの言い伝えを悪用したもので、テープには、アメリカ軍と戦って死んだ父親のさまよえる魂とその幼い娘とのやりとりが録音されていた。この録音は、不気味なリバーブ効果と伝統的なベトナムの葬送音楽を用いたもので、夜間にジャングルをパトロールするアメリカ兵にも恐怖を与えたほどであった。

ランスデールのアスワング作戦や「さまよえる魂」作戦は、冷戦の激しい時期に行われた無数の心理的欺瞞作戦のほんの一例に過ぎない。トム・ブラーデンは、CIA国家秘密工作本部(the National Clandestine Service)*の前身にあたるCIAの計画本部(the Directorate of Plans)で国際組織部門の責任者を務めた人物だが――ちなみにこの計画本部はCIAの心理戦作戦、秘密工作、プロパガンダのほとんどを監督した――彼は1973年にこう記している。「冷戦最盛期にはあまりにも多くのプロジェクトがあったため、一人でそれらのバランスを取っていくのはほとんど不可能だった」
    *訳注:「国家秘密工作本部」は2015年に「作戦総局」(the Directorate of Operations)とさらに改称されている

共産主義との戦いにおいて、人々の心をガッチリと、しかもソフトにつかみ続けることは――よくいう「外柔内剛」というヤツだ――国外のみならず国内でも重要なことであった。国家安全保障法はCIAがアメリカ国内で活動することを明確に禁止していたが、それを可能にする抜け道はいくらでもあった。幾つものニセの会社を作って、それらで構成される「帝国」を立ち上げる(ちなみにそうした会社は登録地にちなんで「デラウェア」と呼ばれた)。味方をしてくれる企業団体を「物言わぬチャンネル」として抱き込み、そこから仲間を新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、実業界、草の根団体の要職へと送り込む。こうやってCIAが地道な活動をしている一方では、より大きな枠組みがCIA以上に秘密に守られた組織によって作られていた。が、その組織が解体される約50年後まで、そのことはほとんど知られることがなかった。

1951年、ハリー・トルーマン大統領によって設立された心理戦略委員会(PSB)は、国内外の心理作戦を調整し、さらにはアメリカとアメリカ人が外から見て「正しい存在」と映るよう仕向ける任務を負った。これではまるでジョージ・オーウェルの世界のようだが、実際それはその通りだった。最初に作られたその戦略文書の内容はいぜん機密扱いのままであるが、その断片は他の文書に引用されたものから見てとることができる。その一つによれば、心理戦略委員会の役割は「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を推し進め、「アメリカの掲げる目標に敵対的なドクトリン」に対抗する「組織」を発展させていくことだった。これを達成するためには、「人類学や芸術的創作といったものから社会学、科学的方法論に至るまで、知的な関心領域のすべて」を取り組んでいく必要があるとされた。

1952年5月、心理戦略委員会はCIAの心理戦プログラム「パケット」を引き継いだが、その目的は外国の指導者たちに「アメリカのやり方は他の何よりも――とりわけロシアよりも優れている」と説得することだった。アメリカのカリスマを国外で維持するためには、学術的な「セミナー、シンポジウム、特別な書籍、学術誌や図書館」から教会の礼拝、コミックブック、「民謡、民間伝承、民話、世界をめぐるストーリーテラー」にいたるまで、ありとあらゆるものをコントロールし、調達し、作り出す必要があった。

心理戦略委員会のメッセージは、テレビやラジオ、船舶や航空機を通じて世界に広められた。さらには「三次元の動く画像」の使用も、リアリズムを高めるために検討された(当時、アメリカの映画館では3Dブームが起きていた)。チャールズ・ダグラス・「CD」・ジャクソンは、アイゼンハワー大統領が選出された後の顧問であったが、心理戦略委員会における重要な戦略家であった。エドワード・ランスデールと同様、ジャクソンももともと広告業界の大物で、「タイム・ライフ」や「フォーチュン」など雑誌の出版から諜報の専門家に転じた人物であった。ジャクソンはアメリカの価値観の擁護者であり、戦後のアメリカのイメージを形作った見えない政府の中で最も影響力のあるメンバーと見なされていた。彼には、タイム・ライフ帝国を運営するヘンリー・ルースやハリウッドの大物ダリル・ザナックなど、芸術界における強力な友人がいた。ジャクソンと心理戦略委員会は、強い影響力を持っていないところにはそれを新たに創り出し、出版社、新聞、テレビやラジオの放送局、芸術家や芸術団体、オーケストラ、「エンカウンター」や「パルティザン・レビュー」といった小規模ながら影響力のある雑誌に影響力を持つようになった。心理戦略委員会が影響力を発揮するためには、たいてい然るべき相手に親しげな言葉をかけるだけで済んだ。しかし、時には金銭が必要となり、ターゲットとなる相手を完全に牛耳る必要が出てくることもあった。ある意見が必要になってくれば、心理戦略委員会はそれを作った。

心理戦略委員会は時に大胆で直接的な手段を取った。ジャクソンは1952年、原子力委員会委員長ゴードン・ディーンが「ライフ」誌に書いた記事について「首尾良くいっている」と記した。その記事は、「原爆を使ったことについてのアメリカ人の罪悪感を取り除いてくれるだろう」というのである。しかし、いつもはもう少し気を遣う必要があった。1954年にアイゼンハワーが「平和のための原子力」計画を開陳した際、ベルリンに原子力発電所を建設するという大統領の計画についてジャクソンは、いかなるプロパガンダが可能かというメモを記している。そこでジャクソンは、実際に発電所を建設する必要はないのだと指摘した。瓦礫の区域を囲い込み、警備員を配置し、謎めいた看板を立てることで、実際に発電所を建設したかのような強力なウワサを作り出すことができるというのだった。

1953年、心理戦略委員会は、より曖昧な名前の「作戦調整委員会(OCB)」に改編されたが、ジャクソンとそのチームによって始められた動きは1960年代を通じて継続した。それがようやく掣肘を受けたのは、フランク・チャーチ上院議員がCIAの活動に関する調査に立ち上がった1973年のことだった。この好ましからざる暴露の後、CIAはメディア内で働く400人の職員とエージェントを解雇せざるを得なかったが、この数は「低く見積もられ過ぎている」というのが一般的な見方だ。

では、こうしたものはUFOと何の関係があるのか?おそらくすべての面で関係はある。1950年代初頭に心理戦略委員会、CIA、そしてアメリカの政治と諜報のエリートがどのように働き、考えたかを理解することは、CIAが空飛ぶ円盤の問題に取り組む際に何が起こったのかを理解するための鍵となるのである。(05←06→07

 

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■第四章 発射

    「私の任務というのは、他の惑星についての様々な考えを受け入れるよう、大衆に心構えをしてもらうことであった。この目的のため、私は世界中の名の知れた新聞に記事を書いては関心をかきたてようとした。火星の運河だとか、いまだ説明がついていない月面の白い筋といった、むかし議論を呼んだ話を復活させたのである」 ――バーナード・ニューマン『空飛ぶ円盤』(1948年)

ジョンと私が映画制作を考え始めてから数ヶ月後、私はグレッグ・ビショップによる『プロジェクト・ベータ』という本のゲラ刷りを入手した。彼はロサンゼルスの作家にしてUFOの研究家でもあった。グレッグと私は何回か会ったが、ユーフォロジーと神秘主義、ポップカルチャーのオーバーラップする部分に強い関心をもっているという点で、私たちはすぐに意気投合した。その本は米空軍がポール・ベネウィッツに対して行った働きかけをテーマにしたものだったが、グレッグはその取材の過程で、何時間かドーティーと面談していた――その場所はニューメキシコ州の片田舎のデニーズレストランだったそうだ。その会話を録音したりノートを取ったりすることは禁じられたが、それでもこれは大きな突破口ではあった。空軍サイドからこのストーリーが語られたのはそれが最初だったのだ。

同時に『プロジェクト・ベータ』は、我々が知る限り、これまで誰も手に入れたことのなかった重要なデータを私たちに示してくれた。それは2000年に写真スタジオで撮影された白黒の写真で、そこには驚くほど普通に見えるドーティの姿があった。写っている男は40代後半。ジャケットにネクタイ、ストライプのシャツという服装で、ひし形をした顔は穏やかに傾いた肩の上に乗り、髪は警察官風に短く刈り込まれていた。笑顔はぎこちなかった。口の左側がわずかに上がった表情は奇妙な感じを与え、その上にはかすかに上がった眉毛があった。顔一面の汗は、どこか不安気な様子をうかがわせる。しかし、私はこの「獲物」の写真にあまりに多くのことを読み込みすぎていたのかもしれない。その日のニューメキシコは暑かったのかもしれないし、ぶっちゃけて言えば、写真を撮られるのが好きな人なんていない。

『プロジェクト・ベータ』出版後の2005年初頭、グレッグ・ビショップはアメリカで非常に人気のある深夜のトークラジオ番組「コースト・トゥ・コースト」にゲスト出演した。「コースト・トゥ・コースト」は、アメリカ人の抱くイメージの中で――とりわけ深夜にラジオを聞いているアメリカ人のイメージということになるが――どのような怪異が流行っているのかを取り上げ、かつその世界に影響を与えている番組だ。UFOはこの番組が週に何時間も費やして何度も採り上げるお気に入りのネタで、このほかにはおなじみの幽霊やビッグフット、超能力、ヒーリング、地獄への門や黙示録、燃料不足、エイリアンの支配、マヤの神々の帰還、惑星Xとの衝突などが続く。奇怪なもの、疑惑を呼ぶものの形作るパノラマがいつ絶えるともなく続くのである。

その番組でグレッグは、自らの本と、UFO分野においてニセ情報が果たしてきた役割について語った。続いて彼は、特別ゲストとしてニューメキシコから生中継で参加するリチャード・C・ドーティを紹介した。我々はこれで写真に加えるにその声を知ることもできたわけだが、それは予想外に高い声でオタクっぽく、いきなりクスクス笑いでも始めそうな感じだった。ドーティは自分は民間人だと自己紹介し、UFO分野での活動は1980年代にやめたと語った。彼はポール・ベネウィッツには友情と尊敬を覚えていたとし、彼の身に起きたことへの悲しみ、そして彼の精神の問題を食いとめられなかったことへの思いを語った。そして、爆弾発言をした。奇妙な信念を人に植えつけるエージェントとしてこれまで見聞きしてきたありとあらゆるものに照らしてみた結果、「私自身も地球上には地球外生命体が存在すると信じている」というのだった。

エイリアンやUFOに関していえばこの人物の名前はほとんど「欺瞞」とイコールなのだが、そんな彼が「すべては真実だ」と私たちに伝えようとしていた。そればかりではない。彼はそれを信じてもらおうとしていた。ドーティは「コースト・トゥ・コースト」のリスナーを舐めきり、それぐらいの変わり身をみせれば無罪放免で逃げられるとでも思ったのだろうか? 彼は世界に向けて自分をネタにして内輪受けするジョークを放ったのだろうか? それとも彼は米空軍特別捜査局(AFOSI)時代の誓約に縛られていたのだろうか? あるいは彼はまだ現役の諜報員で、ラジオ出演はその仕事の一環だったのだろうか? 最も大胆な仮説はこういうものだ――「彼は本当にそう信じていた」。その場合、彼は本当に何かを知っているのか、さもなくば自らの考えを変える何かを見たのかもしれない。あるいは長い年月を経るうちに、UFOにまつわる話が彼の心に影響を与えるようになったのかもしれない。ウソつきはしばしば自分のウソを信じ始めてしまい、、自らウソと一体化してしまうことがある。彼は最初からそうだった可能性もあって、だからこそ米空軍諜報部は彼を雇ったのではないか――彼の中に、その役割に没頭するあまりメソッド・アクターのように自己を滅却してしまえる才能を見いだして。ともあれ、我々は僥倖に恵まれた。我々はリチャード・ドーティの写真と声を手に入れた――いや、少なくとも自らリチャード・ドーティと名乗る男のそれを手に入れたのだ。

ドーティがラジオ出演した後、私はUFOが忘れ去られた状態から復活する兆しがないか、注目していた。だが、そんなことは起きていなかった。インターネット上にはUFOのウェブサイトが溢れていたが、誰もがみんなおなじ古い話を繰り返し、何年も前にインチキ判定されたおんなじピンボケ写真を持ち出していた。このテーマには電気ショックのようなもの、つまりUFOを表舞台に押し出してくるような予期せぬ展開が必要だった。私が恐れたのは、こんな冬眠状態があまりにも長く続いたため、アマチュア無線家や鉄道ファン同様、UFO愛好家たちは時代遅れの存在と見られるようになってしまったのではないか、ということだった。そこに奇跡が起こった。始まりはインターネットの片隅の目立たない場所で、さざ波として始まった。だが、それは間もなくホンモノの波になった。UFOの世界で何かが動き始めていた。

■リクエスト・アノニマス

「まずは自己紹介をさせて下さい。私の名前はリクエスト・アノニマスです。私は米国政府の元職員です。過去について詳しくは語りませんが、特別なプログラムに関与していました...」

このように始まるメールをヴィクター・マルティネスが受け取ったのは2005年11月のことだった。彼はアメリカ西海岸の代用教員であったが、インターネット上で最も注目すべきメールグループの一つを運営していた。約200人に及ぶそのメンバーは掛け値なしに重要な人物たちで構成されており、その面々は過去30年の間にUFO現象に興味を抱いた、あるいは直接関係をもったことのある科学者、軍人、諜報関係者たちであった。さらにいえば、その中にはCIA、国防情報局(DIA)、国家安全保障局(NSA)の現職・元職、米国政府のリモートビューアー、フリーエネルギー研究者、理論物理学者、ベンチャーキャピタリスト、さらに神秘主義者、魔女、エイリアンコンタクティー、アブダクションの被害者という触れ込みの多くの人々なども含まれていた。

そこに登場したのがリクエスト・アノニマス、通称アノニマスだった。マルティネスによれば、アノニマスは約6か月間リストをチェックしたのちに自ら名乗りを上げ、「特別なプログラム」を明かした。彼は一体何者なのか? 間髪入れず疑心暗鬼がとびかうこととなったが、アノニマスはその正体を隠し通した。マルティネスも彼の正体を暴こうとはしなかった。「もし私がその正体を暴こうとしていることを知ったら、彼はただ荷物をまとめて別のUFOリストの管理者を見つけ、そっちで彼の驚くべき話を発表しただろうね」

アノニマスの膨大な記録は「驚くべき」という言葉がふさわしいもので、分量にして毎月数千語ずつ増えていった。メールが送られなくなるまでの3年間で、「リリース」は31回あり、その総量は数万語に及んだ。そして、アノニマスによれば、これらはすべて1970年代後半にDIAが編纂した3000ページにわたる極秘報告書の抜粋にすぎなかった。この分厚い文書がどこにあり、アノニマスがそれをどうやって手に入れたのかは謎であったが、一つ言えるのはそれは彼の地元の図書館にはなかったということだ。

以下は、そのリリースが伝えようとした内容を大幅に簡略化したものである。


1947年、ニューメキシコ州にETの宇宙船2機が墜落した。ちなみにこれは、1970年代後半以降「ロズウェル事件」として知られるようになった出来事である。墜落で6体のETが死亡したが、1体は生存していた。彼らの宇宙船の残骸はオハイオ州デイトンのライト・パターソン空軍基地に運ばれ、生存したETはEBE1(イーバ1)というニックネームでニューメキシコ州のロスアラモス研究所に収容され、1952年までそこで生活した。この間、EBE1は母星との連絡を試みた。残念ながらその呼びかけに応答があったのは彼の死後であったが、それはアメリカにとっては歴史的な瞬間であった。この時点から、アメリカ政府はEvens(イーヴンズ)と呼ばれる地球外種族と定期的に連絡を取るようになった。唯一の問題は、その事実を世界に伝えることができなかったことであった。

1962年末、ケネディ大統領は暗殺された。一部の人々によれば、彼はUFOの真実をアメリカ国民に明かそうとして、それを果たす前に暗殺されたのだが、それ以前に彼は宇宙規模の外交交流にゴーサインを出していた。特別に訓練された人間12人のチームはそれぞれその身元が抹消され(諜報業界で言う「sheep-dipped」である)「プロジェクト・クリスタル・ナイト」と呼ばれるプログラムで、イーヴンと共に彼らの惑星に向かうことになっていた。イーヴンと人間の双方の大使の顔合わせの準備が行われ、1964年4月24日に2機のイーヴン宇宙船が地球の大気圏に入った。そのうちの1機はニューメキシコ州のホロマン空軍基地近くに着陸。宇宙船に乗り込んだアメリカ政府の高官チームは、「イエローブック」と呼ばれるホログラフィック装置を贈られたが、その装置には地球という惑星の全歴史が収録されていた。人員の交換はその翌年に行うことで合意が得られ、1965年7月、人間の訪問チームはイーヴンの宇宙船に乗り込んだ。1体のET(通称EBE 2)は地球に残った。

訪れた人間たちが「セルポ」と呼んだETの惑星は、地球から38光年離れたゼータ・レティキュリ星系にある。アノニマスによれば、セルポは地球より少し小さく、太陽は2つある。土地は平坦で気象は暑く乾燥しており、環境としては厳しいが居住は可能で、特に北部は涼しいことから人間はそこに居住した。訪問チームはセルポで13年間を過ごし、何度か災難に見舞われたものの、イーヴンズには歓迎され、自由に動き回ることができた。セルポには約65万人のイーヴンズが住んでおり、惑星全体に約100の小さな自律的なコミュニティが点在していた。中央政府はなく、イーヴンの産業と資源のハブとして機能する大きな中央コミュニティが一つあっただけであった。すべての人が働き、その見返りとして質素だが幸福な生活を送るために必要なものを供給された。この準社会主義的ユートピアに犯罪は存在しなかったが、戦争はそうはいかなかった。3000年前、イーヴンズは他の惑星の文明と100年にわたる大規模な星間戦争を戦い、その結果、敵を撃滅させたもののその代償として自らの母星を居住不能にしてしまった。それ以来、イーヴンズは銀河間の漂流者となり、現在の母星に定住するまで、地球をも含む他の種族や文明を訪問していた。

1978年に人間のチームが地球に戻る時までに、2名は死亡していた。またセルポに残ることを選んだのは2名で、彼らは1988年まで地球と連絡を取り続けた。帰還したメンバーはセルポの双子の太陽による高い放射線にさらされており、これが最終的には彼らを死に至らしめた。最後の一人は2002年にフロリダで亡くなった。

奇妙なことにアノニマスは、イーヴンズの文化や生活習慣、消化器系に至るまで詳細を明かしているにもかかわらず、エイリアンが実際にどんな外見をしているのかについては何も述べていない。アノニマスの話を擁護する者は、これは報告書が本来送られる先の人々は――すなわちアメリカにおけるUFO問題のインサイダーたちのことだ――すでにETの外見を知っていたからだと説明した。ロスアラモスには捕獲されたイーヴンがいたのだから、というのである。報告書の完全版には写真も含まれており、アノニマスはこれも世界と共有しようと約束したが、その中にはイーヴンズがサッカーのようなゲームをしている写真もあったという。こうした画像が公開されることはなかったが、数か月後になって双子の太陽がみえる砂漠の風景写真はいくつか流出した。だが、それらはすぐに「フォトショップで作成された、しかもかなり質の悪いもの」だとして退けられた。

アノニマスの最初のメッセージは大爆笑で迎えられたとお考えかもしれないが、実際にはそんなことはなかった。この件はヴィクター・マルティネスのメールリストのメンバーであるポール・マクガヴァンとジーン・レイクス(時にはロスコウスキーとも呼ばれる)によって検証され、二人はアノニマスの主張を裏付ける背景資料を提示した。マクガヴァンはエリア51に駐留していた元DIAのセキュリティ主任だったことが明らかにされ、レイクスもまたDIAにいた人物と見られた。しかし問題があった。マクガヴァンとレイクスの経歴は目を引くものだったが、その身元はマルティネスのメールリスト以外の場所では確認できなかったのである。ただ、もし彼らが本当に軍事諜報の闇の世界でキャリアを積んできたのなら、これはそれほど驚くべきことではなかった。しかし、さらに大きな問題は、「セルポの話もポール・マクガヴァンとジーン・レイクスの身元も、両方間違いはない」というもう一人の人物の存在であった。リチャード・C・ドーティである。

数週間が経過して、セルポはインターネット上で話題になり始めた。ロンドンの通勤者向け新聞でも言及された。セルポ文書はその簡潔にして軍事色を漂わせた一人称の口調で、トム・クランシーのスリラーの緊迫感と、エドガー・ライス・バローズのスペースオペラのようなパルプマガジン的魅力を兼ね備えていた。それは、完全に事実でもなく完全にフィクションでもないという、奇妙な領域を占めていた――それは、聖ブレンダンやマルコ・ポーロのような地上の探検家の物語や、天を行く多くの聖者の旅物語と同様、他界にかかわる物語がいずれも分かちもつ領域であった。新しいリリースが出るたびに、それは古いRKOシリーズのエピソード「キング・オブ・ザ・サーペンメン」 [訳注:不詳] の公開さながらに、新たな希望やワクワクドキドキをもたらした。写真が公開されるかも。交換クルーの名前が明かされるかも。生存者から話を聞けるかも。そういった期待があった。しかし、もちろんそんなことは一度も実現しなかった。

セルポ事件が他の目的を果たせなかったとしても、それが何年間もの停滞期に落ち込んでいたUFOコミュニティの注意を引きつけ、沈みかけていた熱意の炎を再び燃え上がらせたのは確かだ。有名なエイリアンアブダクションの被害者にしてホラー作家のホイットリー・ストリーバーは「コースト・トゥ・コースト」で、1990年代にUFOコンベンションで出会った老兵士との会話を回想した。その男はストリーバーに「別の惑星に行ったことがあるか」と聞いてから――ストリーバーの記憶によればであるが――「セルピコ」という言葉をつぶやいた(ちなみに「セルピコ」とは1973年のアル・パチーノ主演の警察スリラーの名前である)。さて、それから10年ほどが経って、ストリーバーには全てが理解できた。そして、ストリーバーの支持に加え、ラジオやインターネット上で情報が流通しチャットが続けられていく中で、「セルポ」は実際に起こったことのように感じられるようになってきた。さらに驚くべきことに、UFOは数年ぶりに再度ホットな話題になったのである。

セルポの興奮が広がる中、イギリス系カナダ人の自己啓発トレーナー、ビル・ライアンは、アノニマス情報の受け渡し場所としてウェブサイトを設立しようと考えた。ビルがセルポ資料に出くわしたのは偶然だった。彼は或る日、ガールフレンドが反ジョージ・X・ブッシュのメーリングリストから転送してきたメールを受け取ったのだが、そのメーリングリストの運営者がヴィクター・マルチネスだった。彼はもともと政治関係のリストとUFO関係のリストは別々に運営していたのだが、セルボ資料があまりにも重大なので、「これは世界全体に広めねばならない」と考え、それを政治関係のリストにも載せた。それが結果的にビルを引き込むことにつながった。

ビルはフリンジ方面に詳しいわけではなかったし、その手のものは最初は認めていなかった。ただ、かつて熱心なサイエントロジーの信者だったことがあった。実際あまりに熱心だったため、創始者のロン・ハバードのオリジナルの教説が新世代のサイエントロジストたちに無視されているとみなすレトロ・サイエンスフィクションの教派に加わり、オルグに参加していたほどである。またビルは、「間違いなくエイリアンだ」と思っていた女性とデートしたことも認めていた。こういう来歴もあったし、そもそもL・ロン・ハバードの宗教というのは地球外に起源をもつものだ。だが、ビルはUFOの世界では新参者だった。ビルはすぐさまアノニマスの物語の熱心な支持者となり、そのウェブサイトを維持運営するのにすべての時間とエネルギーを費やした。かくてそのサイトは、ほどなく多くの人々を引きつけるようになった。意図したかどうかはともかく、ビル・ライアンはセルポの新たな顔役となった。ジョンと私は、彼と話をする必要があった。

ビルと会う算段を付けるのは簡単だった。伝道者の精神に満ちた彼は、セルポにまつわる話を広めることに喜びを感じており、2005年12月、ジョンと私に会うためにロンドンにやって来た。彼の到着を待っている間、私はビルに何を期待しているのか分からなくなっていた。だが、何を期待しようが、その通りのものが得られるわけではなかった。ビルはあなたが普通考えるような経営コンサルタントではなかった。彼は感情表現豊かな40代後半の男性で、日焼けしたフレンドリーな風貌、肩にかかった赤い薄毛の持ち主だった。その靴の底からボロボロになったフェルトのアウトバックハットのてっぺんまで、彼の衣服はすりきれて穴だらけだった。

ヒューレット・パッカードやプライス・ウォーターハウス・クーパースのような企業で働いたと主張する人間にしては、ビルは確かにカジュアルな印象であった。私はいつも他人の身なりについてアラ探しをするようなことはしないが(そもそも私自身の日々の服装もアラだらけなのだ)、ただビルは数日間車で生活していたように見えたし、たぶん本当にそうだったのだろう。セルポのストーリーに入れ込みすぎたことでビルとガールフレンドの関係は深刻なことになっていたし、彼はその当時、自分の家がどこにあるのかも分からなくなっていたのだ(UFOは日々の暮らしを大いに損なう可能性があることを読者諸兄には改めてご注意申し上げたい)。

ビルのセルポに対する確信には揺るぎないものがあった。彼はその物語に完全に取り込まれていた。インタビュー中も、彼は常にアップルのラップトップ(当然バッテリーはボロボロ)でメールをチェックしていた。新しいアノニマスのリリースが近日中にあるという噂があり、ビルは次なるエピソードを熱狂的に待ち望みつつ、やむことなく押し寄せてくるセルポ関連の質問に一生懸命に答えていた。

ビルのやる気は本物だったかもしれないが、彼はUFOビジネスには素人同然で、それは予想していたほど順調には進んでいなかった。天文学者たちは報告書にでてくる軌道データ(それは有名な天文学者カール・セーガンが提供したものとされていた)について疑問を呈していたが、私を悩ませる、より基本的な問題というものもあった。私がとりわけ注目していたのは、メインイベントとしてのETと人間の相互訪問ではなく、セルポの話には「既存のUFO伝説には出てこなかったもの」が何もないということだった。映画ファンなら誰でも、スティーブン・スピルバーグのUFO大作『未知との遭遇』との明白な類似点を指摘できるだろう。この映画は、ワイオミング州のデビルズ・タワー近くの秘密の場所に巨大なディスコボール型UFOが着陸する場面でクライマックスを迎える。そこでリチャード・ドレイファス演じるキャラクターは、12人の軍人と共にETの宇宙船に乗り込み、おそらく友好的なエイリアンの惑星に連れて行かれる。それこそがセルポだった、ということなのだろうか? UFOコミュニティの多くの人々は、『未知との遭遇』やスピルバーグの『E.T.』は「エイリアンは地球に来ている」という真実に我々を慣れさせるために作られたと信じており、その試みは1951年の映画『地球が静止する日』から始まったとされる。仮にそれが本当だったら、スピルバーグは [敵対的な宇宙人が現れる] 黙示録的な映画『宇宙戦争』で一体何を伝えようとしていたのか、我々は疑問に思わざるを得ないところである。だがセルポ・ウォッチャーズにとっては、『未知との遭遇』の公開された1977年が、セルポの搭乗者が帰還するちょうど1年前であったことは偶然ではなかったのだ・・・

ビルはセルポの怪しげな部分をあげつらうようなことはしない。彼は、その首尾一貫しない部分というのは、実際にはそれがインチキ話の同類である可能性を減らしていると感じた――そのように込み入った話を時間をかけて捏造するような人間は、天文学的に正しい事実をストレートに入れ込もうとするはずだ、というのである。私にはそうは思えなかった。そもそも彼らが天文学的な事実に無知だったらどうなるのだろう?

「これを信じなさいと強いるつもりはありません」とビルは説明した。「可能性があるのではないかと考えて欲しいのです、ただ私は、これが単純な捏造やイタズラである可能性はないと思います。それにしてはあまりに複雑すぎるし、多くの状況証拠が符合しています。誤情報というものは、すべて一つのカテゴリーに放り込むことができる。そこに入ったものはすべてが偽りだということになる。ただ、この話がニセ情報である可能性はある。ニセ情報というのは、半ば真実であり、半ばはフィクションであるということです。そして、フィクションの部分が全体の5%もあれば、ストーリー全体がおかしな話ということにされてしまう」

ニセ情報。ノイズ。セルポというのはそんな類のものだったのだろうか? それはUFOコミュニティに情報を植え付けるためインターネットを利用した試みだったのだろうか――米空軍特別捜査局(AFOSI)が、ベネウィッツ事件で偽の文書を用いたとの同じように? 私たちは正体を見定めがたい、新たな集中砲火が情報戦争に用いられているのを目にしているのだろうか? セルポとマルティネスのリストは情報の実験場なのだろうか? セルポは社会学的または心理学的な研究プロジェクトで、一つないしは複数の情報機関・大学によって(しかもおそらくはおそらくはマルティネスのリストのメンバーによって)行われているものではないか? 我々はそれを「ミームの追跡」実験と考えることができるかもしれない。ウェブ上を情報が流れていくルートを追うことは、我々の生きているデータ飽和の時代においては有益な試みということになるだろう。クジラに発信機を取り付ける。病院の患者の消化器系でバリウム入りの食事が移動していくのを追跡する。そうした試みは、「追跡されているもの」と「それが通過する場所」の両方について多くのことを教えてくれる。情報機関では、これを「印のついたカード」という隠語で呼んでいる。

セルポが情報機関の世界にその起源を持っているとすれば――実際のところ多くの観察者はそのように見ていたようだが――それはUFOとは無関係だったのかもしれない。そのリリースには機密情報が暗号として埋め込まれていたのかもしれない。あるいは、それは情報機関が「偽旗作戦」と呼んでいるものだったのかもしれない――つまり、UFO関係者の仕業に見せかけ、外国人や産業スパイをその罠に引き込むことを意図していたのかもしれない。マルティネスのUFOリストに多くの情報機関と軍の関係者がいたのは偶然だろうか? セルポは隠れていた何者かを引き出すための試みだったのだろうか?

オンラインで提起された興味深い考えが一つある(もっともそれはすぐに反論されたのではあるが)。これは「アノニマスは実際に本物の政府文書に出くわした。ただ、それはもともと誰かを――例えばロシアだ――欺すために作られたものだった」というものだ。イーブンたちの幸福ではあるものの剛健なコミューンの存在は、1960-70年代のロシア統治機構に、自らが作っている世界の宇宙&ユートピアバージョンとして眩しく映ったのではないか。そんなことを考えることもできるだろう。

もう一つの可能性は、セルポの資料はアリス・ブラッドリー・シェルドン(1915-87)によって作られたというものだ。シェルドンは1940年代に米空軍情報部で働き、1950年代にCIAの工作員として活動した後、ジェームズ・ティプトリー・ジュニアの偽名でニューウェーブののSF作家として名を馳せた(正体を明かしたのは1977年だった)。SFを書く才能とCIAとの関係を持つシェルドンは、1960年代もしくは1970年代にセルポ文書を書くために雇われたのではないのか? それは別のプロジェクト――たとえば1963年に米空軍が始めた高機密の軌道偵察プログラム、「有人軌道実験室」(MOL)からロシアの目をそらすために仕掛けられた、複雑なニセ情報ゲームの一部だったのではないだろうか?

当時としては非常に高度なこのプロジェクトとセルポの物語には確かに類似点がある。17人のアメリカ空軍の隊員たちは、続けて一か月間、宇宙船の狭い空間で生活する準備訓練を受けたが、彼らとその上司以外に訓練の目的を知る者はいなかった。この計画は試験飛行が一度行われた後に中止された。必要なコストは天文学的であり、乗組員にとっての潜在的な危険性は受け入れがたいほどに高かった。それがこの当時、人間の乗組員が行っていたことの多くが無人衛星で実行できるようになったのである。シェルドンは文書を執筆した上に、MOLのスケジュールすら書いた可能性がある。MOLのスケジュールは1963年に開始され、1970年代半ばまで続くとされていたが、それはジェームズ・ティプトリー・ジュニアの短い生涯、セルポとの間で行われたとされる相互訪問のいずれとも符合する。

だが、残念ながらここまで書いてきたことは事実ではない。シェルドン/ティプトリーが一枚噛んだという話は、セルポ伝説の初期に匿名の人物のメールで明かされたものだし、MOLについて色々述べたことは私自身が書いたものだ。シェルドンの逸話の背後にいる人物は後に、「セルポ伝説の一切合切は自分たちが大学の社会学コースの一環として作り出したものだ」と明かし、その後デジタルの闇に永遠に消え去った。

その起源が何であるかはともかく、セルポはUFOカルチャーに待望久しい一撃を撃ち込み、かつて栄光の日々を過ごしていたキープレーヤーたちがゾロゾロと這い出してくる手助けをした。それはまた、UFOと陰謀論分野では非常に人気のある2つのオンライン掲示板に隆盛をもたらした。すなわち、「オープン・マインズ Open Minds」と「アバブ・トップシークレットAbove Top Secret」である。

こうした掲示板はUFO情報を受信したり発信する場として機能し、マルティネスのリストと同様、互いに共通点のないUFOハンターや疑似政治学の愛好家たちを一か所に呼びよせた。ここで人々は、あらゆることについてそれぞれの見解を披露しあった。それは「911攻撃の起源」や「月にある秘密の米政府基地」から最新の軍事技術の進展に至るまで、多岐に渡った。そのため、ここは米国をはじめとする国際的な情報機関の工作員にとっても有用な場所となり、彼らはそこに入りびたっては、多種多様なオタクや過激派を監視した。そして、おそらくではあるが自らも当事者となった。

2008年後半に報じられた或るニュースは、情報機関が掲示板やフォーラムを使ってどのように作戦を行っているかを明らかにした。2006年頃、マスター・スプリンター(Master Splynter)というハンドル名のハッカーが、クレジットカードのハッカーやデータ窃盗犯の主要な情報交換所である「ダークマーケット」というウェブフォーラムに参加した。ここでは、データやデータを収集するための技術、偽のクレジットカードを作成するための技術が売買されていた。数ヶ月を経て、マスター・スプリンターは徐々に運営役を引き継ぐようになっていった。そして2008年10月にはダークマーケットの閉鎖を宣言した。

    このフォーラムが、世界各地の多くの公的機関(FBI、SS、インターポールのエージェント)から並外れた注目を集めているのは明白だ。これは時間の問題であったと思う。実に残念である。なぜなら、我々はダークマーケットを英語圏でビジネスを行うための主要フォーラムとして確立していたからだ。これが人生というものだ。トップにいる者を人々は引きずり下ろそうとするものなのだ。

マスター・スプリンターがどうしてこうしたことを知っていたのかいえば、彼の正体がFBIサイバー犯罪エージェントのJ・キース・ムルスキーだったからだ。彼は大規模な国際的なクレジットカード詐欺組織を閉鎖するために、サイトに潜入していたのである。「オープン・マインズ」や「アバブ・トップシークレット」、さらには他の無数のUFO・陰謀論サイトが同様の作戦の場として存在しているのかどうかは分からないが、先進的な軍事ハードウェアやUFOが議論されているところでは、情報機関は常に耳を傾けているのである。

ウェブサイトの立ち上げ以外のことで言えば、セルポはビル・ライアンを瞬時にしてUFO学のセレブリティにした。サイトを立ち上げて数週間のうちに、ビルは2006年の「ラフリン国際UFOコンベンション」の基調講演者として招待された。このコンベンションは、世界最大とは言わずとも、米国では最も大きな集まりの一つである。ラフリンのコンベンションは3月開催の予定で、ビルの存在を告げ知らせるかのように、アメリカの「UFOマガジン」誌2006年2月号がセルポに関する特集号を発行した(同誌は英語圏で唯一ニューススタンドで売っているUFO関連の出版物である)。ビルの記事を補完する形で掲載された記事は、以下のように始まる。 [訳注:UFOマガジンは2012年終刊]

    私の名前はリチャード・ドーティ。元空軍特別調査局(AFOSI)の特別捜査官で、現在はニューメキシコ州に住む一般市民である。過去数年間、私はUFOマガジンの熱心な読者である(中略)
    1979年初め、若手の特別捜査官としてカートランド空軍基地に着任した後、私はAFOSI第17区の対諜報部門に配属された。私は特別な区分プログラムに関する説明を受けた。このプログラムは、米国政府と地球外生物との関係を扱っていた。初めてのブリーフィングの際、私は政府のEBEへの関与に関する完全な背景情報を与えられた。この背景説明にはロズウェル事件に関する情報も含まれていた……総じていえば、その内容はアノニマスが公開した情報と全く同じであった。

元情報機関のエージェントにして、10年以上も姿を消していたドーティは、大衆の目にさらされることにも無頓着になっていた。彼はヴィクター・マルティネスのメールリストでも定期的にコミュニケーションを取り、セルポに関するアノニマスの主張を裏付ける情報を提供していた。ジョンと私は連絡を取るべき時が来たと決意した。ドーティへのメールで、私たちはUFOに関する情報機関の関与についての映画を作っており、彼の経験について話を聞きたいと説明した。我々はラフリンUFOコンベンションでビル・ライアンを撮影する予定であることにも触れた。さて、我々はニューメキシコでドーティと会えるのだろうか?

返事はすぐに来た。ドーティは、インタビューのことは考えておくが、アルバカーキでやったらどうだろうと書いていた。が、もっと良いことがあった。彼はラフリンに行く予定で、「そこであなた方と会えるのを楽しみにしている」という。

やるべきことはただ一つ。ネバダに行こう。 (04←05→06


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久しぶりに佐野ラーメンを食いにいく。今回は「大和」。しばらくご無沙汰してるうちに移転していて、今度の店舗は前がけっこう広い駐車場になっていた。裏側にも第二駐車場が確保されている。

ここではまず受付マシーンで順番を確保し、それから自販機で食券を買うシステムになったようだ。行列店ならではの合理的システムといえよう。

今回もホロホロのチャーシューが旨い。ごちそうさまでした。

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 これが新店舗。小洒落た感じになった




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■墜落

モーリー島事件が明らかにしているのは、諜報機関がUFO問題については当初から高い関心を払っていたということだ。現在ではほとんど忘れられているが、アーノルドの最初の目撃の数日後に起こったもう一つの事件が、UFO神話の礎石をなすことになる。1947年7月初旬、ニューメキシコ州ロズウェルで起こったとされる空飛ぶ円盤の墜落――それによってアメリカのUFO伝説は生まれ、アメリカ政府は状況を初めて理解し、そして宇宙の中で我々がどんな位置にいるのかということも明らかになったのである。その神話によれば、異星人の乗り物とその搭乗者を捕獲したことはあまりにも深刻な結果を招き、それがためにとても深いレベルの隠蔽体制が確立され、それは60年を経た今も続いているというのである。

実際には、我々が聞き知っているようなロズウェルの物語は1970年代後半になってようやく形を成し始めたもので、それが確固たるものとなったのはウィリアム・ムーアとチャールズ・バーリッツによる『ロズウェル事件』が出版された1980年のことだった。それまでの間、その事件というのは、数日で価値がなくなってしまうニュースの見出しの上にしか存在していなかった。ちなみにそのニュースは1947年7月7日にロズウェル陸軍航空基地が発したプレスリリースに拠るもので、オリジナルの発表文は今では失われてしまったが、その冒頭は以下のようだったと考えられている。

    空飛ぶ円盤に関して飛び交っていた数多くのウワサは現実のものとなった。昨日、ロズウェル陸軍航空基地の第509爆撃群の情報部は、地元の牧場主とチャベス郡保安官事務所の協力を得て円盤を手に入れる幸運に恵まれたのである。その飛行物体は先週のうちにロズウェル近くの牧場に着陸した。

この話は瞬く間に世界中に広まったが、7月8日の夕方には(それは多くの新聞がこの記事を掲載した日だった)テキサス州フォートワース陸軍航空基地の将校たちが、その残骸は「気象観測気球」とそのレーダー反射用の板だったと認定。すかさず残骸を基地の情報部長ジェシー・マーセル少佐が手にしている写真が撮影された。かくてこの「空飛ぶ円盤」の話は撤回された。世界のメディアからすればこれは本当にあったことだろうと疑う理由もなかったから、そこで話は終わった――少なくとも30年間は。

「空飛ぶ円盤」のプレスリリースをいったん発表してから撤回した陸軍航空隊の行動というのは、今から考えれば奇妙に見えるかもしれない。が、その行動によってこの話が30年間うまいこと封印されたということは念頭に置いていただきたい。とりわけ落ちてきたものが通常の気象観測気球ではなく――陸軍航空隊はリリースの撤回によって我々をそのように説得しようとしたわけだが――それが軍事関連の機微に触れるモノだったとすれば、全ては計算尽くでなされたことだったのかもしれない。

ロズウェルで起きた出来事が宇宙人とは関係ないということを証明する最も有力な証拠は、皮肉なことではあるが、かつては機密扱いされていた二つの内部文書である。そのひとつはFBI、もうひとつは新設された米空軍のものである。このうちFBIのメモは1947年7月8日付で、残骸がフォートワースからライト・フィールド(現在のライト・パターソン空軍基地)に移送されたことを記している。重要な部分は以下の通り。

    円盤は六角形の形状で、直径約20フィートの気球にケーブルで吊るされていた。カーティン少佐は、この物体がレーダー反射板を取り付けられた高高度気象観測気球に似ているが、彼らのオフィスとライト・フィールド間の電話でのやりとりではその裏付けは得られなかったと報告した。

次の文書は、1947年9月23日に航空資材司令部のネイザン・トワイニング将軍から送られた空軍の内部メモである。トワイニング将軍は空軍の兵器・技術に責任を持つ立場の人物だった。このメモは、UFO目撃に関する空軍の調査が本格化する前に書かれたもので、この問題について空軍が初めて公式に発したものであったが、アメリカの空域の統制にあたる最高レベルの者たちの間でも何が起きているのかを把握している者は全くいなかったことを示している。メモは「現象は実在するものであり、空想や架空のものではない」と述べたのち、三つの考慮すべきポイントを示している。

1.これらの物体が国内起源である可能性—本司令部が関知していない機密性高いプロジェクトの産物である可能性
2.これらの物体の存在を確実に証明する墜落回収物といった形での物理的証拠の欠如
3.我が国の知識を超えた、おそらくは核を利用した推進システムを他国が有している可能性 

空軍司令部の最高レベルで書かれ、長年秘密にされてきたこの内部報告書には、ロズウェルで異星人の宇宙船が回収されたといったことは書かれていない。では、それが宇宙船でなかったとすれば何だったのか?

米空軍の公式見解は、『ロズウェル報告:ニューメキシコ砂漠の事実vs虚構』(1995年)に示されているが、それによるとロズウェルに墜落した物体というのは、「プロジェクト・モーガル」の一環としてレーダー装置を搭載した気球群だったとされる(プロジェクト・モーガルというのは、ソ連の原爆実験が発する音響データを収集するための極秘ミッションであった)。これを荒唐無稽などということはできまい。当該のモーガル気球は6月4日に近隣のアラモゴードから打ち上げられたが、数日後に行方不明となった。残骸について牧場主マック・ブレイゼルが語った言葉、つまり「ゴム片、アルミ箔、かなり頑丈な紙、棒などでできており、広い範囲にばらまかれた残骸」というのは、モーガル気球の残骸と考えても矛盾がない。

1995年の報告書を執筆したのはリチャード・ウィーバー大佐で、彼は最近空軍を退役した人物である。皮肉なことではあるがこのウィーバーは、米空軍でセキュリティ・調査プログラムの担当をしていた。それが意味しているのは彼はニセ情報の専門家だったということで、彼は1980年代初頭には特別調査局でリチャード・ドーティの上官の一人でもあったのだ。その時期というのはまさにドーティと米空軍特別捜査局(AFOSI)が、ポール・ベネウィッツに「エイリアンの宇宙船はロズウェルに墜落した」と信じ込ませようとしていた頃である。そしていま、政府は「UFO業界の連中はなぜ自分たちのことを信じてくれないか」と不思議がっているというわけだ!

1995年の報告書を監督した会計検査院は、「事件に関連する多くの書類がなくなっていたため調査は困難であった」と認めた。この事実は、「ロズウェルにはETの乗り物が墜落したのだ」と信じる者たちをますます勢いづける結果となった。だが、そうした書類は、エイリアンとは関係のない「不都合な真実」を隠すために破棄された可能性はないだろうか。ロズウェルがホワイトサンズのロケット試験場に近接していたことを考えれば――それは当然陸海空の3軍も分かっていたことだ――それが何であれ飛行物体は試験場のほうからやってきた可能性が高い。それがエイリアンの宇宙船でもモーガル気球でもなかったとして、それでも他に候補として考えられるものはたくさんある。アメリカ政府が過去に恐ろしい行為をおかしたことを認め、のち謝罪に追い込まれた事件は幾つもある――例えば1950年代まで続けられた致死量相当の放射線を人間に浴びせる実験、1972年まで科学の名の下に行われてきた黒人男性が梅毒で死亡するのを看過した事例、1962年に自国民に対して爆弾を仕掛け、その罪をキューバになすりつけようとした「ノースウッズ事件」等々である。我々としては、それがあまりにも恐ろしい企てであったために未だ語られていない出来事がロズウェルで起きた可能性についても考えざるを得ないのだ。

もしそれが従来型とは違う気球やロケットの墜落であったとしたら、なぜロズウェル陸軍航空基地は数々のUFO伝説を生むようなプレスリリースを発表したのだろう? 円盤の墜落譚は機密実験をうまいこと隠蔽する無害なめくらましと見なされたのだろうか? そのプレスリリースが特定の意図を持って発信されたことは確かだろう。ロズウェルに駐留していた第509爆撃群は、世界一といっていいかはともかく、全米一のエリート飛行部隊であった――この部隊は、第二次世界大戦を終結させた二発の原子爆弾を投下したのだから。それが世界唯一の原子爆弾部隊であった以上、基地周辺のセキュリティは極めて厳重であったろうし、ミスが起こるのも非常にまれで、かつ仮にミスがあっても厳重な対処がなされていたに違いない。

そのようなエリート部隊、厳しい機密保持が日常になっていた部隊が、空飛ぶ円盤だとか秘密の気象観測気球プロジェクトといった潜在的に非常に機密性の高い事柄に関して、なぜプレスリリースを出してしまったのか? 農場主のマック・ブレイゼルに感謝をした上で、「これは国家安全保障上にかかわるから」といって口を閉ざすよう依頼すればよかったのに、なぜ彼らはこの件を表に出してしまったのか? もしそれが事故だったとしたら、そこで起きた出来事を管理すべき立場にあった基地司令官、ウィリアム・H・ブランチャード大佐は、なぜそののち非常に輝かしいキャリアを全うすることができたのか?

当時の政治的な状況や、アーノルドの目撃事件直後ということで「空飛ぶ円盤」に対してメディアが沸き立っていた時代を考慮すると、このストーリーが意図的に仕掛けられた可能性は考えられないだろうか? 米軍の内部には、空飛ぶ円盤はソビエトの先進技術に拠るものではないのかという深刻な懸念があった。「空飛ぶ円盤が捕獲された」と発表することでソビエト側に波紋を投げかければ、その反響を然るべき情報機関が追跡することもできただろう。あるいは、その発表によって、何が起きているのかを確かめようとするソビエトのスパイをロズウェルやライトフィールドに誘い込む意図があったのかもしれない。潜在的なリスクはあるが、一定の意味のある戦略だろう。

これとはまた別のミステリー――そしてそこにはまた別の魅惑的な可能性があるのだが――がある。それは、1948年刊行のイギリスの薄ボンヤリとしたスパイ・スリラーの行間に隠されている。

■空飛ぶ円盤

1930年頃から1968年に亡くなるまでの間、イギリスの作家バーナード・ニューマンは、フィクションとノンフィクションとを問わず100冊以上の本を執筆したが、そのほとんどはスパイ活動や戦争をテーマにしたものだった。第一次世界大戦中、ニューマンは諜報活動に従事し、戦間期にはヨーロッパ中を旅して講演を行ったが、彼は英国政府のエージェント、もしくは少なくともインフォーマント(情報提供者)ではないかと疑う向きもあった。ニューマンのスパイ小説の多くは駄作だったが、彼は諜報の世界で尊敬を集め、一部の本はスパイの活動に関する洞察に優れたものだとして高く評価された。

1948年に出版された『空飛ぶ円盤』はそうした高い評価を受けた本ではなかったが、世界初のUFO本という特別な栄誉に浴している。そのあらすじは、国籍の壁を越えた科学者たちが「敵対的な宇宙人が侵略を謀っている」という偽りのストーリーをデッチ上げることで、世界の人々の同胞意識を生み出し、世界の一体化をもたらそうとする――といったものである。この本は、1947年3月の国連会議でイギリスの外務大臣アンソニー・イーデンが行った実際の演説に触れるところから始まる。イーデンは、人類が直面するかもしれない人為的な破局の可能性に触れ、「私はこんな風に考えることがある――この混乱した惑星の人々は、火星にいる何者かに対して怒りを感じる時が来ない限り、真に団結することはできないのかもしれない」と述べたのだった。

ニューマンの小説の中の科学者たちは、世界各地の重要な場所に「宇宙からのミサイル」が落ちてきたという事件をデッチ上げる。二つ目のミサイルはニューメキシコに落下するのだが、そこには謎めいた象形文字が記されている。ちなみにこのモチーフは、1970年代後半に至ってロズウェルの残骸に関連付けられるようになる。そのメッセージが解読された結果、火星文明の脅威が明らかになり、次いで人気のない森にミサイルが打ち込まれる。その後に打ち込まれたロケットからは異星人の遺体が発見され(それは実は動物の体の部位をつなぎ合わせたものだったのだが)、小説はクライマックスへと向かう。ここに至って生きている「エイリアン」たちは世界各地に着陸する。かくて侵略の脅威を前にしたアメリカとソ連は敵対するのをやめ、最も小さい国にいたるまで核兵器が広まることによって世界には平和が訪れる。

この『空飛ぶ円盤』は、意図的にフィクションと事実とを融合させているようだ。この作品にはニューマン自身が主人公として登場しているのだが、それはこれが単なる物語以上のものであることを示唆しているようでもあるし、同作には「デッチ上げられた墜落」という中心的なアイデア以外にも多くの興味深い記述が登場してくる。ニューマンは、最初に火星のロケットがやってきた後の話として、空飛ぶ円盤が目撃された地域の広がりを現実に合わせて正確に記述しているのだが、そこでは目撃者が報告する円盤の形状、大きさ、色、発する音があまりに多様で一貫性がないことを指摘しており、この事実は後にアメリカ空軍の分析官を実際に悩ませることになる。また、ニューマンは多段式ロケットを描いているのだが、これはアメリカ空軍と海軍がともに極秘裏に検討していたものである。さらに、試作段階の兵器の爆発に人間の囚人がさらされる様子も描かれているが、これはアメリカの原爆実験中に実際に起こったと噂されていたことである。エイリアンの兵器に触れた部分では、同書に登場する主要な科学者であるドラモンド博士が、航空機や車のエンジンを停止させることができる携帯型の電磁波装置を開発している。

    ドラモンドの装置は新しいアイデアに拠ったものではなく、古いアイデアを発展させたものであった。もう長い間、科学者たちは電荷や光線の放出によってエンジンの電気プロセスに邪魔をし、エンジンを停止させるすべを知っていた。問題は、そのためには巨大で複雑な装置が必要で、かつその射程が短いことであった。そういう意味では、実際にエンジンを停止させるために用いられていたのはもっと簡単な方法であった――例えば「弾丸を撃ち込む」といったような。

車を停止させる光線だとか破壊的な「殺人光線」といったものは、第二次世界大戦当時に語られた技術的な都市伝説の一つであった。殺人光線は、1948年1月7日、UFOを追跡中に死亡したケンタッキー州兵パイロット、トーマス・マンテルの死因とされることもあった――実際にはそれは海軍が秘密裏に開発したアルミニウム製気球「スカイフック」であったのだが。車のエンジンの故障やラジオの受信障害も1950年代半ばのUFO報告における重要な要素となったのだが、これはドラモンドの描いた光線兵器と関連があったのだろうか。

ニューマンは、ロズウェル事件について何かを知っていたのか、あるいは知っていると考えていたのだろうか? 彼は諜報の世界の関係者からその内情を聞き出したのだろうか? それは誰にもわからない。しかし、ニューマンがフォークロアが如何に流布するかを理解していたことは確かである。本書の中では或るパイロットがUFOの墜落について話をデッチ上げ、そのあと新たな報告の波が引き起こされるのだが、それは彼が公の場でその真相を告白してからも変わらない。かくてニューマンはこう記すのである。「一度始まってしまった話が完全に消えさるということはない」 (03←04→05

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■第三章 UFO 101

    「人々は悲しみ、絶望の中で空に向かって手を伸ばした。プルーデントおじさんとその仲間は空飛ぶ機械に連れ去られ、誰も彼らを救出することができなかった」 ――ジュール・ヴェルヌ 『征服者ロビュール』(1886年)

かくて私は、再びUFOを追うことになった。あれから十年経って、少しは賢くなっていれば良いのだが、と私は思った。だがジョンと私はどこから調査を始めれば良かったのだろう?空飛ぶ円盤、三角形ないしは菱形のUFOなんてものには誰も興味を持ってはいないように思われた。実際、自分自身がまだ興味を持っているかどうかすらわからなかった。それに、世界はもっと緊急の問題に直面していた。戦争が続いていたのだ。

2004年。前年夏にジョージ・ブッシュが「任務完了だ」と大見得を切ったのとは裏腹に、イラクでの戦争はまだ終わったどころではなかった。中東状況の混迷が続く中で、あらゆる視線はそこに向けられていた。だがそうやって注視をしていたのは果たして人間だけだったのだろうか? 4月になると、イランでは劇的なUFO目撃のウエーブが起こった。しょっぱなはテヘランの上空で目撃された明るく輝く円盤であり、北部のビレスアヴァールに出没した2本の「腕」を持つ球体であった。これらはいずれも撮影され、映像は国営テレビで放送された。UFOはイランの原子力施設の上空でも目撃されたが、そこは次第にイランに対して攻撃的になってきた米国側の言説の中にあって「標的」とされたものでもあった。噂が急速に広まって、UFOのウエーブは瞬く間に勢いを増した。これらの光は観察にやってきたETによるものなのか、それともイランが開発中の原子力施設をスパイしているアメリカまたはイスラエルの偵察機によるものなのか?

12月になると、アメリカでの反イラン的な言説がエスカレートするのに伴って、UFOの目撃報告も増加した。イラン空軍の報道官は、いずれも核施設を擁する地域であるブーシェフル州とイスファハン州での目撃情報を詳細に語り、一方ではウラン濃縮施設があるナタンズの上空では明るく輝く物体が浮かんでいるのが目撃された――とした。彼は「イランの領空に侵入した飛行物体に対して、全ての対空部隊と戦闘機に撃墜命令が出されている」との警告を発した。一連の目撃情報を受けて、UFO問題を研究するためにの軍事・科学委員会が招集されたとの報道もあった。だが、その後の続報はなかった。

テヘランが懸念するのも無理はなかったのだ。こういったUFO騒動があったのは初めてではなかった。1976年9月、正体不明の光体が市内上空でイラン空軍のF-4戦闘機2機に追跡される出来事があった。戦闘機がUFOに接近すると無線通信は妨害され、通りがかった民間旅客機の通信も同様に切断された。この事件は視認された上にレーダーにも記録されており、最も謎めいたケースの一つとして残っている。ただし、その光が地球外起源であったことを示唆するものはいまだに何もない。

そして、同様に現代のイランをETが偵察しているという証拠もない。この状況には、むしろ1986年にリビアでほぼ実行されかけたシナリオを思い起こさせるものがあった。当時、CIA、アメリカ国務省、国家安全保障会議は、コードネーム「VECTOR」と呼ばれた戦略を企てた。それは、アメリカが支援する大規模なクーデターが差し迫っているとカダフィ大佐に信じ込ませることで、いまいましいその体制を転覆させようというものだった。この計画のカギとなる部分は、ニセのレーダー反応と無線通信を用いて「幽霊飛行機」をリビア上空に飛ばすことだった。リビア空軍が迎撃機を飛ばしてもそこに何もみつからないとなれば、高位の者たちは幻惑され不安を覚えるであろう。そんな効果が期待された。その狙いは、こうした「UFO」を他の不安定化戦略とともに用ることで、カダフィとその政権の妄想をかきたて、政権弱体化と体制変革につながる環境を作ろうというものだった。VECTORはアメリカの報道機関に漏れてしまったことで中止されたが、これはアメリカの情報機関が敵国に仕掛ける典型的な作戦ということがいえる。

VECTORは実行されなかったが、イラン上空に謎の航空機を飛ばすというアイデアは、同様の不安定化作戦の一環として計画されたもののようにも思われる。イランの原子炉を観察していたのが誰であれ――つまりエイリアンであれ、アメリカであれ、イスラエルであれ、ということだが――その者は衛星や偵察機を用いるなどして、イランの注意を引くことなくそれを遂行する技術を持っていたはずである。ところが、イラン上空を飛んでいたものが何であれ、それは目撃されることを意図しており、UFOの話を広めることを目的としていた。小さな非合理のさざなみが大きな波を作ることがある。これは、アメリカが1940年代後半にあった最初のUFO目撃ブームの際に学んだ事実である。これらの目撃は、奇妙なことではあるが、アメリカの新たな原子力計画の中心地、例えばニューメキシコ州のロスアラモスやロズウェル、テネシー州のオークリッジの周辺で顕著に発生したのである。

■アルバトロスからツェッペリンまで

常に大空の下に身をさらしてきた我々人間は、常に空に関する物語を語り続けてきた。人類が空を飛ぶようになった時、そこには既にドラゴン、大蛇、船、そして軍隊といったものが満ち満ちていた。これらの空の存在についての物語は私たちの歴史と同じくらい古くからあり、空の幻影は中世からこの方、人間にまつわる地上の出来事の予兆、投影、そして反映として絵画やパンフレットに描かれてきた。

現代においてUFOフィーバーが最初に認められたのは、19世紀末のカナダ、アメリカ、そしてヨーロッパにおいて不思議な飛行船が相次いで目撃された時のことであった。これら大型で葉巻型の飛行船は、多くが目をくらませるようなヘッドライトを装備しており、ジュール・ヴェルヌの1886年のSF小説『征服者ロビュール』から飛び出してきたもののようであった。この作品の中では、異端の発明家がプロペラで飛行する飛行船「アルバトロス」に乗って世界を旅している。

これは20世紀を通じて言えることなのだが、こうした神秘的な乗り物は、その時代からみると未来を感じさせ、虚構めいてみえる美学をまとい、常にその当時の航空技術のほんの少し先を行っていた。一部のニュース記事は「飛行船ブームを利用して読者をだましてやろう」という、悪戯好きなジャーナリストによるものだっただろう。エドガー・アラン・ポーは1844年に『ニューヨーク・サン』紙のために大西洋を横断する気球のホラ話を作り上げたことがある。他の目撃は、おそらくは自然現象の誤認であり、空を見上げて人々が興奮していた風潮と相俟ってより壮大なものに変貌してしまったものであった。しかし、一部の報告は、間違いなく真実の響きを持っているように思われる。

初期に類する1891年7月12日の報告は、その目撃ウエーブの典型例である。オンタリオ州オタワのセオドア通りの住民たちは、「片端に回転するプロペラがあり、先に伸びたもう一方に明るい光がはっきりと見える巨大な葉巻」を目撃して仰天した。これよりのち、1897年4月11日のイリノイ州の『クインシー・モーニング・ホイッグ』紙の描写は、ナビゲーションライトが正しい位置についている現代の航空機を描いたようだ。

    それを見た男たちはそれをこう描写した――葉巻型の長く細い胴体で、何か明るい金属、恐らくアルミニウムでできている・・・船体の両側には、外側に上に向けて突き出した翼のようなものがあり、船体の上にはぼんやりとした上部構造の輪郭が見えた。物体の前端にはヘッドライトがあり、船体の中ほどには小さなライト、右舷側には緑のライトがあり、左舷側には赤のライトがあった。

同様の報告はアメリカ全土から数百件と寄せられ、中には飛行船の操縦者と出会ったという話もあった。通常その操縦者というのは発明家や軍人のように描写された。このミステリーにまつわる興味深い逸品が見つかったのは、1969年、ヒューストンの古物店でのことだった。それはドイツ移民のチャールズ・デルシャウによるノートで、彼は19世紀半ばにアメリカに移住し、1923年にヒューストンで亡くなった人物だった。13冊のノートは、精緻ながら子供のそれを思わせる筆致で空想的な飛行船がいっぱい描かれており、それは富裕な発明家や飛行家のグループである「ソノラ・アエロ・クラブ」に捧げられたものであった。デルシャウのカラフルで風変わりな図の中には、初期の航空実験に関する新聞記事の切り抜きも混ざっていた。これらのノートはアウトサイダーアートの初期の例としてアートコレクターに買い取られたが、そこには「それ以上のもの」があったのではないだろうか? 初期の空飛ぶ円盤目撃ストーリーに先立つ逸話として、「ソノラの飛行家たちは19世紀、アメリカ軍のためにジュール・ヴェルヌ風の飛行船を秘密裏に建造していたのだ」という者もいる。しかし、デルシャウのチャーミングでモンティ・パイソンを思わせる絵を見ていると、そこに空想の世界を飛び回るイメージ以上のものを見てとるのは難しい。

飛行船の背後にいた者は、プレスや大衆から応答を求められていたにもかかわらず、不気味な沈黙を守った。しかし、時代はすくに彼らに追いついた。1900年7月、フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵はヨーロッパ上空で最初の飛行船の試験飛行を行った。次の二十年間で、空を飛ぶことはもはや神々やドラゴン、ナゾの飛行士だけの特権ではなくなり、少しずつその神秘性を失い始めた。第一次世界大戦では、気球や飛行機が偵察や空中戦で使用されたが、我々のいうUFOとして認識されるような報告は一切なかった。しかし、第二次世界大戦では事情はおおいに違っていた。マイケル・ベンティンのフー・ファイターズだけが空に現れた謎の航空機ではなかった。

■幽霊ロケット

1942年2月25日の早朝のこと。それは日本の真珠湾襲撃がアメリカに壊滅的な被害をもたらし、引き続いてアメリカが第二次大戦に参戦してから3ヶ月もたっていない時期だったが、ロサンゼルスの沿岸では、何者かに対する大規模な対空攻撃が行われるという事態が起きた。前日にはサンタバーバラで日本の潜水艦による攻撃があったばかりで、緊張状態にあった第37海岸砲兵旅団は1400発に及ぶ砲弾を空に向けて放った。が、落ちてくるのは自軍の砲弾ばかりで(それは6人の死者を出した)何も墜落してくるものはなかった。同夜、その地域では正体不明の飛行機が何機か目撃されたのだが、日本はその日にロサンゼルスを攻撃した事実はないと主張している。ではその砲撃を引き起こしたのは何だったのか? 迷子になった気球か。エイリアンの乗り物か。それとも単に戦争がもたらした神経衰弱が引き金をひかせてしまっただけなのか。

同年11月28日には、また別の不可解な事件が起きた。今度はイタリアのトリノだった。英空軍省の公式記録によると、ランカスター爆撃機に乗った乗員7人全員が、彼らの下方を時速500マイルで飛行する長さ300フィートの物体を目撃した。それは全部で4対の赤いライトを灯しており、排気ガスを出しているようには見えなかった。同機の機長は、3か月前にもアムステルダム上空で同様の乗り物を見たと主張した。これらのケースや複数のフーファイターの報告事例は今も真正のUFOミステリーであり続けている。ただ、我々がより関心を持つのはこの「ロサンゼルスの戦い」のほうだ。というのも、それは、UFO熱に取り憑かれた国であれば起きても不思議ではない大混乱が、実際に起こってしまった完璧な実例であるからだ(そしてその10年後、冷戦下のアメリカの守護者たちはそんな混乱が起きるのを実際に恐れていた)。実際に、UFO現象というのは第二次大戦の終結の翌年に始まった。1946年7月12日の「デイリーテレグラフ」は、次のように報じている。

    この数週間、スウェーデン東部のさまざまな地域から、南東から北西に向かって飛ぶ多数の「幽霊ロケット」が報告されている。目撃者によれば、それらは発光するボールのように見え、多少なりともたなびく煙を伴っているという。こうした多数の報告を単なる妄想で済ませてしまうことはできない。そのような現象は隕石のせいだとする確実な証拠もないことから、それは新しい種類の無線コントロール式Vロケット兵器で、その実験が行われているのではないかという疑惑が高まっている。

数日後、「デイリーメール」がアルプス上空における同様の目撃を報じた。同紙は、これはソビエト連邦によるロケット実験によるもので、それはドイツ北東の海岸部にあり、今はロシアが掌握しているヴェルナー・フォン・ブラウンのペーネミュンデV-2工場から得られた技術に基づくものではないかと示唆した。7月下旬、英国は選りすぐりのロケット技術者2人を密かにスウェーデンに派遣した。彼らは、その物体についての目撃者たちの描写がほとんど一致していないことに気づいた。火の玉のようだという者もいれば、ミサイルのようだったという者もいる。音がしたという証言もあれば、無音だったという者もいる。中には地面に墜落したり湖に飛び込んだものもあった。中にはたった3フィートの深さしかない海に飛び込んで「消滅した」ものもあった。

懸念は世界各地に広まっていった。8月下旬には、アメリカのロケット専門家2人がスウェーデンに「休暇」と称して向かった。が、そのナゾは秋になっても深まるばかりだった。スウェーデンとイギリスの当局者は、そのナゾの物体が機械なのか隕石であるのか決することができなかった。しかし、報道機関にそのような迷いはなかった。1946年9月3日、「デイリー・メール」きっての戦争特派員、アレクサンダー・クリフォードはこう断じた。「ロシア人は一切を語らぬものの公然と一種の機械の実験をしている。それはいかなる痕跡も後に残していないし、それは一見したところ幾つかの科学法則に反するようにも見える」

報道機関は古典的な「軍事絡みのミステリー」というストーリーを手に入れたが、イギリスの調査員たちは、なまじっかいかほどかの証拠を手にしてしまったが故に、このゴーストロケットにうんざりさせられていた。スウェーデン上空で炎に包まれながら落下してくる物体の写真は隕石に酷似していたけれども、分析に付されたロケットの断片と思しきものは、ありきたりなコークスの塊であることが判明した。9月6日付けの外務省からの極秘電報は、苛立ちを露わにしていた。

    我々はスカンジナビアの領土上空をミサイルが飛行したと確信するには至っていない…すべての目撃のうち多くの部分は、7月9日と8月11日にスウェーデンで目撃された2つの隕石によって説明される(一つは日中、もう一つは夜間)。その他の目撃は、時間・場所・国ともバラバラで、花火、白鳥、航空機、稲妻といったもの、さらには想像力に起因すると考えても不合理ではない。我々の経験からして、このような集団的幻覚は、大衆が興奮している状況においては決して珍しいものではない。

官僚たちがゴーストロケットのもたらす恐怖を「公衆の興奮」に起因するものと見なしていたとしても、この [ソ連秘密兵器説という] シナリオによって大西洋の両岸に巻き起こった不安を過小評価したら誤りだろう。ソビエトのスーパーウェポンに対する恐怖は、その後数年間でさらに高まった。それは軍関係者や一般大衆の間では「空飛ぶ円盤」の正体に関する説明の第一候補となり、アメリカを悩ませることになるのだった。こうしたロケットが実在したかどうかにかかわらず、それは来るべき事態の前兆となったのであって、迫りくる冷戦の序曲となった。

アメリカが空飛ぶ円盤に執着しはじめたのは1947年6月24日のことだった。この日、アイダホ州ボイシの消火機器セールスマン兼パイロットであるケネス・アーノルドが、ワシントン州のレーニア山付近で高速で飛ぶ9つの物体を目撃したのである。アーノルドの画期的な目撃があったのは、チャーチルの「鉄のカーテン」演説から1年後のことであり、その時点では新たなる [東西間の] 戦線が明確に引かれていた。わずか2年の平和の後、再び全体戦争の脅威が世界を覆い、広島と長崎の惨劇を経て、権力者たちは次の世界大戦が人類最後の戦争になる可能性があることを理解していた。

後知恵ではあるが、今からみると、アーノルドの遭遇とそれが引き起こしたメディアの嵐の中からは、あまりに変化が激しいため、歴史家や未来学者ですらどうにかこうにか追いつくのがやっとという当時の社会の反映を見てとることができよう。1947年という年は、チャック・イェーガーが音速を超えて飛行した年であった。それはまた、世界初のデジタルコンピュータENIACが稼働した年であり、トランジスタ、電子レンジ、立体カメラ、AK-47の年でもあった。同時にそれは、アメリカ空軍が独立した軍事部門として設立され、戦略諜報局(OSS)が中央情報局(CIA)に改編され、トルーマン・ドクトリンとラジオ放送「ボイス・オブ・アメリカ」が冷戦下において初の存在論的攻勢を始した年でもあった。それはアメリカが自国の未来を初めて真に垣間見た年であったわけだが、その未来は円盤の形をしていたのだった。

アーノルドが実際に何を見たのかは、今もなおUFOコミュニティ内で激しい議論の対象となっている。パイロット自身はそれぞれ異なる時期に、その物体を円盤型、クツのかかと型、半月型などとどっちつかずの表現で言い表したのであったが、後になって三日月型の絵を描いて見せた。しかし、その見た目だとか「その正体は何だったのか」といったことは、この目撃がアメリカの想像力に与えた影響の前では全然重要なものではなくなってしまった。それは異星人の宇宙船の編隊だったのか、蜃気楼だったのか、ペリカンの群れだったのか、誘導ミサイルだったのか、アメリカかソ連の秘密兵器だったのか、あるいは第二次大戦中のドイツの技術の産物だったのか――そんなことはどうでもよくなった。オレゴンの新聞記者ビル・ベケットの巧妙な言い回しのおかげで、それらは「飛ぶ円盤」となり、国民は制御不能なUFOブームに巻き込まれ、インテリアデザインから軍用機に至るまで、あらゆるものに影響を与えることになった。

5年もすると、空飛ぶ円盤というものは、雑誌をめくったり新聞を読んだり映画を見たりしたことのある全てのアメリカ人の心に刻み込まれてしまった。円盤は空を支配し、最初のフリスビー(つまり1948年に発売されたPipco Flyin' Saucerだ)のヒントとなり、無数の歌手、コメディアン、アーティストに素材を提供し、遂にはジェームズ・ディーン、エルヴィス・プレスリー、マリリン・モンローとともに全世界に向けた「アメリカ的なるもの」の先鋒としての地位を確立したのである。

■空を見上げよ!

UFO時代の最初の10年間はとりわけ注目に値するものである。今日のUFO伝説に見られるすべてのテーマは、この最初の重要な10年間に導入された。信じられないほどの速度で飛び、ありえない動きを見せるナゾの飛行物体の目撃。墜落した円盤と死んだ異星人の回収。空飛ぶ円盤の搭乗者との接触。恐ろしい誘拐。奇妙な実験。そしてこれは何よりも重要なのだが、真実を国民に知られることを恐れて、これらのことすべてに対して政府が行っている隠蔽――。だが、世界のほとんどの人々にとって空飛ぶ円盤というのは――それがUFOと呼ばれるようになったのは1952年のことだった――ビックリするネタ、そしておそらくは娯楽のネタだったのかもしれないが、新たに創設されたアメリカ空軍と情報機関にとってみれば、これは一つの大きな頭痛の種であった。

1947年6月にケネス・アーノルドが目撃したニュースは瞬く間に世界中に広がった。アーノルドは空飛ぶ円盤の大使としての役割を楽しみ、自らの遭遇について定期的に語り、物体が秘密の航空機であると信じていること、それはできればアメリカのものであって欲しいが、ソビエトのものかもしれないということ、それは原子力で動いている可能性があること――等々を語った。彼の発言は、軍部と、そしてレイ・パーマーという名のSF雑誌編集者の注意を引きつけた。この両者のおかげで、アーノルドは世界初の空飛ぶ円盤の目撃者というに留まらず、世界初の調査者、すなわち最初のユーフォロジストとなった。

レイ・パーマーは1938年に『アメージング・ストーリーズ』の編集者となって以来、地底世界や宇宙からやってくる訪問者のストーリーを世に送り出していた。アーノルドの目撃があった時点で、パーマーの雑誌は前例のない成功を収めていた。これは主に1945年に出版された「アイ・リメンバー・レムリア」や、地底に住んで高度な技術を持つ異界の者たち、すなわち「デロ」の脅威をテーマとした、同様にセンセーショナルで100%実話という触れ込みのストーリーのおかげだった。デロの物語は驚異的な人気を博し、『アメージング・ストーリーズ』の発行部数を月間25万部に押し上げ、筆者のリチャード・シェイヴァーを予想外のスターにした。それまでフォード・モーター・カンパニーで働いていた彼は、ウィスコンシン出身で妄想癖のある分裂症気味の溶接工兼画家であった。

パーマーはまた、空飛ぶ円盤の誕生にも一役買っていた。『アメージング・ストーリーズ』は1946年9月、科学ライターのW.C.ヘファーリンによる4つの短い記事を掲載したが、そのうちの1つ『サークル・ウィングド・プレーン』は、1927年にサンフランシスコ上空を飛行していた信じられないほどに進歩した航空機について記していた。この空飛ぶ円盤のプロトタイプとでもいうべきものは、謎めいたGhyt(ガス水力タービン)モーターで動き、時速1000マイルで飛行できた(公式の航空史では、チャック・イェーガーが音速を突破したのは1947年10月のことで、時速約887マイルに達したとされている)。操縦席は円形翼の中央のドーム部分にあって、この「パイロットの夢」は高度6万フィートに達することができ(公式にはU-2がこの高度に到達したのは1950年代半ばである)、「カモシカのように自由自在に動く能力をもつ」とされていた。『アメージング・ストーリーズ』の同じ号には、リチャード・シェイヴァーによる異星人による誘拐譚という恐ろしい物語も掲載されていた。1946年9月に『アメージング・ストーリーズ』を読んだ者の中に、この「サークル・ウィングド・プレーン」が1年以内に空飛ぶ円盤として現実のものになること、そして異星人による誘拐というシェイヴァーの悪夢のようなビジョンが、10年後に現実になることを予測できたものはいなかっただろう。

最初のUFO調査は、ケネス・アーノルドの目撃のわずか1か月後、彼自身の手によってなされたのだが、それはレイ・パーマーの雑誌を舞台に行われたものだった。それはアーノルドの運命的なフライトの数日後のことだったが、パーマーは手紙とともに岩のような物質の入った小包を受け取った。差出人はハロルド・ダールという人物で、そこにはアーノルドの目撃の3日前、つまり6月21日に、ワシントン州タコマ近くのピュージェット湾にあるモーリー島付近で発生した事件のことが記されていた。それによれば、謎めいた「空飛ぶドーナツ」が複数、ダールの頭上を通過していき、そのうちは1つはスラグや溶岩を思わせるような黒い物質を大量に放出したのだという。パーマーが手にしてものはまさにコレ――つまり空飛ぶ円盤のホンモノの破片であったのだ!

港湾警備員であるダールは、沖合3マイルにある無人のモーリー島付近でボートを操縦していたのだが、その時、乗船していた息子や他の乗組員と共に5つの空飛ぶドーナツが音もなく旋回しているのを目撃した。さらに、その旋回の真ん中には何やらトラブルを起こしたと思しき6番目のドーナツが1機あった。ダールの描写によれば、その乗り物は「気球」のようで、形状は丸かったが上の部分は幾分か押しつぶされたようになっていた。直径は約100フィートだったが中央部には25フィートの穴があり、それ故にドーナツのような形に見えたのである。その乗り物の外側には周囲を取り巻くように舷側があって、それは「ビュイックのダッシュボードのように」輝いていた。彼らが見守る中、問題を起こしたと思しき中央の1機は地上500フィートあたりまで降下し、「鈍い音」を発しつつ大量の紙のような金属材と、溶けた黒い岩のようなものを吐き出した。その岩の一部は彼らが連れていた犬を直撃し、犬は死んでしまった。さらに一部はダールの息子の腕にヤケドを負わせた。ほうほうの体で岸に戻ったダールは、すぐにフレッド・クリスマンにその話をし――この手紙の中でダールは、クリスマンのことを「上役」と記していた――それから体を休めるべく自宅に戻った。

その翌朝。ダールの家を、黒い服を着た男が一人、1947年製のビュイックに乗って現れた。その男は「近くのダイナーで朝食をとろう」とダールを誘った。この奇妙な男は、1950~60年代のUFO伝説の定番ネタとなる「メン・イン・ブラック」の原型となるのだが、それはともかく彼はダールの体験の一部始終を再現するかのように語り、「このことは誰にも話さないように」と警告した。こうした成り行きに混乱したダールではあったが、彼はその忠告を無視してレイ・パーマーに手紙を出し、ドーナツが発したスラグの一部(それはダールの体験の翌日、フレッド・クリスマンが集めたものだった)を同封した。最初は「逃げ去っていったモノ」にかかわるダールの話に懐疑的だったパーマーであるが、やがて彼は考えを改めた。7月半ば、彼はアーノルドに対し、あなたは空飛ぶ円盤の発見者なのだから、この事件を調べるのにはベストの人物なのだと説いた。さらにパーマーは、決心を促すべくアーノルドに200ドル(現在の価値で約2000ドル)を渡した。

1947年7月25日、ボイシの自宅にいたアーノルドは、アメリカ陸軍航空部の諜報部員、フランク・ブラウンとウィリアム・デイヴィッドソンの訪問を受けた。彼らは空飛ぶ円盤の話の背後に何があるのかを突き止める任務を受けていたのである。これは友好的な会談となった。航空部の男たちはアーノルドの目撃談について質問し、パーマーの提案にも興味を示した――もっともアーノルドはこの時点でまだその提案を受け入れていなかったのだが。諜報部員たちはアーノルドの友人や航空関係者とも話をし、彼の「原子力航空機」説についても興味を示した。そうして接触した人物の中には「アイダホ・ステーツマン」誌の航空編集者であるデイヴィッド・ジョンソンもいた。ジョンソン自身も空飛ぶ円盤を目撃していた人物で、「調査にあたってはウチの新聞も経費を負担するから」といって、ダールの提案に乗って調査するようアーノルドを説得したのはこの人物だった。

7月29日、アーノルドはタコマへ飛んだが、その途中で再びUFOを目撃した。今回は真鍮色をしたアヒルのような物体が約2ダースほども、ものすごい速度で彼の方に向かって飛んできた。タコマ空港に着陸すると、アーノルドはすでに高級ホテルのウィンスロップ・ホテルに部屋が予約されているのを見つけた。奇妙なことだった。というのも、彼がその日にそこにいくことを知っていたのはジョンソンだけであったから。アーノルドは部屋を取り、それからダールと会った。ダールは、円盤が発した黒いスラグを保管していた秘書の家にアーノルドを連れて行った。その一部は灰皿として使われていた。UFOの破片はアーノルドには普通の溶岩のように見えたが、ダールは「それは自分のボートに当たったのと同じ素材だ」と主張した。少ししてからフレッド・クリスマンが現れた。アーノルドの目に映るクリスマンは押し出しがよく、自信に満ちた感じの人物であった。その印象はダールとは好対照だった。ダールはどこか臆病で鈍重な感じのする人物で、クリスマンがいるところでは会話にあまり加わろうとしなかった。

これはちょっと自分の手に余るかもしれないと考えたアーノルドは、この調査を手伝ってもらおうとE・J・スミスを助っ人に呼ぶことにした。このスミスも、空飛ぶ円盤を目撃したことのある人物だったのだ。その翌日、スミスとサシで話している時、クリスマンは「ダールが目撃したドーナツ型の乗り物は、アーノルドがレーニア山で見たのとは全く別物だった」と語った。さらに彼は、ナチスが戦争末期に空飛ぶ円盤を作っていたというウワサ話を持ち出して、アーノルドのそれもダールのそれも米軍が飛ばしたものとは考えられないとも言った。あるいはクリスマンは、スミスを介して「自分が見た乗り物はアメリカのものではない」とアーノルドに信じ込ませようとしていたのだろうか?

アーノルドとスミスにとって、事態はいささか奇妙な方向に転がり出した。ユナイテッド・プレス・インターナショナル(UPI)の記者から一本の電話が入ったのだが、記者はその電話で、ホテルの部屋で二人が話していた内容に触れていた。二人は部屋が盗聴されていると確信して部屋を調べた。しかし、怪しいものは何も見つからなかった。何か仕組まれているのではないかと案じたアーノルドは、7月31日、以前アイダホにアーノルドを訪ねてきた空軍情報部のエージェント、つまりデヴィッドソンとブラウンに電話をかけた。どういうわけかブラウンは基地の電話で話をすることを拒み、公衆電話から折り返しの電話をかけてきたのだが、そこでこの日の午後にはカリフォルニア州ハミルトンからデヴィッドソンとともに空路そちらに向かうと言ってくれた。その数分後、アーノルドのもとにまたUPIの記者から電話がかかってきた。今度の電話は公衆電話からだったが、そこで彼はマル秘の情報を明かした――「航空部は調査に入るようですね?」と。となると、これはブラウンがネタ元ということなのだろうか? この電話を切るや否や、また別の記者がホテルのロビーから電話をかけてきた。彼もまた、いま何がおきつつあるかを知っていて、それをすっぱ抜こうとしていた。この調査の件で彼らに情報を流していたのは一体誰だったのだろう?

夜になってやってきたブラウンとデヴィッドソンは、クリスマンからケロッグのコーンフレークの箱一杯に入った破片を手渡された。ただ、アーノルドの目には、それは以前見せられた破片と明らかに異なってみえた。そこでアーノルドはホテルの部屋が盗聴されていることをエージェントたちに伝えようとした。しかし、彼らは関心を示すこともなかった。そしてアーノルドに「すべては港湾警備員のデッチ上げだ」とほのめかし、真剣に受け止めないほうが良いと言った。

明けて1947年8月1日、2人のエージェントは「ドーナツ」の破片入りの箱を持ち、カリフォルニアへ戻るべくB-25機に搭乗した。が、離陸直後の午前1時30分、左エンジンで火災が発生し、飛行機はワシントン州ケルソ・ロングビュー近くに墜落した。ブラウンとデヴィッドソンは共に死亡し、他の2名の搭乗員は生き残った。生存者の一人の証言によれば、デヴィッドソンは荷物を守るために機内に残ることを選び、ブラウンは壊れた翼によって脱出を阻まれたということだった。8月1日はアメリカ空軍の日であり、この日をもってアメリカ空軍は陸軍から独立した。ウィリアム・デヴィッドソンとフランク・ブラウンは、その最初の殉職者となった。

これはアーノルドとスミスにとって辛い体験となった。エージェントの死に打ちのめされ、調査の解決が見えないことに苛立った彼らは、帰宅することを決めた。しかし二人はその前に空軍少佐のジョージ・サンダーと会い、残りのドーナツの残骸すべてを渡すよう頼んだ。彼らは渋々それに応じた。サンダーは彼らをモーリー島近くの半島に連れて行った。その先端にはタコマ製錬会社という大規模な工業施設があり、一体は黒いスラグの山で覆われていた。サンダーは「これがクリスマンが彼らに渡したUFOの破片なんだ」と言って、この一件すべてが手の込んだ詐欺であったことを再びほのめかした。

アーノルドは納得しなかった。しかし、彼とスミスは調査が行き詰まったこと認めざるを得なかった。最初は「大冒険」だったものが、最後は死と欺瞞、失望だけで終わってしまった。帰るべき時が来た。空港へ向かう途中、彼らは初日に訪れたダールの家に立ち寄ることにした。アーノルドは確かに正しい場所まで車を運転していった。ところがその家には「全く人気がなく、家具一つなかった。ただいたるところに埃と汚れ、クモの巣があるだけだった」。動揺し混乱した気持ちで飛行機に乗り込んだアーノルドは、途中給油のためオレゴンに立ち寄った。だが、離陸時にエンジンが突然停止し、緊急着陸を余儀なくされたため、衝撃で車輪が曲がってしまった。アーノルドがエンジンを調べると、燃料バルブが切断されているのを発見した。それは、苦しみとフラストレーションに満ちた旅の最後の災難であった。

このエピソードが如何なる問題にかかわるものであったのかはともかく、それは単に「空飛ぶ円盤」にとどまるものではなかった。アメリカ当局が当時、ソ連の脅威を如何に真剣に受け止めていたかを過小評価することはできない。1943年、米陸軍とFBIはソ連の諜報通信を解読するために「ヴェノナ計画」を開始した。その存在は極秘にされたため、ルーズベルト大統領やトルーマン大統領ですら知らなかったほどであった。ヴェノナは1946年12月に最初の劇的な突破口を開いたが、その結果は壊滅的なものであった。ヴェロナ計画により、ソ連のスパイは、原子爆弾を作ったマンハッタン計画や、戦略サービス局(1947年にCIAとなった)、陸軍航空隊、戦時生産委員会、財務省、国務省、さらにはトルーマン大統領の信頼を得たホワイトハウスの職員の中にまで入り込んでいたことが確認された。米国は猜疑心に駆られた――それには十分な理由があったにせよ。「アカ」はベッドの下に――しかもホワイトハウスの中のベッドの下にまでいたのだ。その結果、1947年3月21日、ハリー・トルーマン大統領は忠誠令として知られる大統領令9835号に署名し、FBIに現在および将来にわたって連邦職員全員を調査する広範な権限を与えた。この赤狩りは上院議員ジョセフ・マッカーシーの台頭と、全米各地における非米活動委員会による狂騒を引き起こした。

これがUFOが現れたときのアメリカの状況だった。その最初のスポークスマンとも言うべきケネス・アーノルドが、全国紙でアメリカの秘密の航空機やそのエネルギーとしての原子力について語り始めた時、彼は陸軍航空隊情報部(リチャード・ドティのAFOSIの前身である)やFBIなどによる大がかりな防諜調査活動とおぼしきものに巻き込まれたとしても驚くには当たるまい(ちなみにFBIはモーリー島事件について長大な報告書を作成している)。となると、モーリー島の一連の事件はアーノルドを試すために仕組まれたものだったのだろうか? ダールはその芝居のアクターだったのか、それとも心ならずも参加した引き立て役だったのか? 「空飛ぶドーナツ」の目撃というのはアーノルドのために仕組まれたものだったのだろうか? ダールは何度かその飛行物体を「気球」と表現していたから、もしかしたら彼が見たのは本当に気球だったのかもしれない。アーノルドによれば、雄弁なクリスマンと比べた時、ダールというのはいかにもお人好しの人物に見えたという。ちなみにダールはクリスマンを「上役」と呼んでいたが、その港湾警備艇はダールの名前で登録されていた。

フレッド・リー・クリスマンは、このナゾの中心にいる人物だ。第二次世界大戦中、クリスマンは陸軍航空隊の一員として東南アジアや太平洋地域に飛んでおり、米国の諜報機関である戦略サービス局(OSS)で働いていたという噂もあった。戦後、彼は退役軍人リハビリテーション協会の調査員を務め、モーリー島の騒動を経た1947年8月下旬には、名高き原子力委員会に職を求めた――それは言うまでもなく核兵器をも含むアメリカの核機密を守る組織である。さらにいえば、モーリー島というのは、世界初のプルトニウム処理施設としてマンハッタン計画に材料を提供したハンフォード核物質処理施設からそう遠くない場所にある。最初の「事件」というのは、本当はプュージェット湾での核廃棄物の不法投棄を隠すためのものであったという説もある。あるいは、アーノルドはハンフォードに連れて行かれ、もし彼がソ連のエージェントと関係をもっていれば、ソ連側も同様に興味を示したであろう施設に関心を示すかどうかを試されたのではなかったか?

それとも、我々はただこのミステリーに入れ込みすぎているだけなのだろうか?クリスマンについてのFBIファイルによれば、ダールとクリスマンは、単にレイ・パーマーから「空飛ぶ円盤の残骸」のネタで金を騙し取ろうとしただけだったのだが、調査のためアーノルドが登場し、さらにはFBIや陸軍情報部も巻き込んだことで、自分たちの手に負えない事態が生じてしまった――ということになる。その可能性もあるだろう。しかし、クリスマンの関与は、ここでもっと複雑なことが起きていた可能性を示唆している。

クリスマンは短くも華々しく波乱に満ちた生涯を送った。彼の名前は、議論を呼んだ地方検事ジム・ギャリソンによるジョン・F・ケネディ暗殺事件についての調査書にも登場する。ギャリソンは、クリスマンが武器売買の世界に潜入するエージェントとして働いていたことがあり、ケネディ暗殺の現場にいた可能性すらあると主張した。後に彼はワシントン州とオレゴン州の政界にも関わり、トラブルメーカーとしての悪名を轟かす一方、諜報機関との関係も絶えず噂されることとなった。クリスマンはCIAに雇われていたのではないかという疑惑を受けるにふさわしい人物であった。彼は1960年代後半、UFOへの国民的関心が高まった時期に再びUFOの世界に戻り、モーリー島事件は本当にあったUFO事件なのだと言い立てた。1975年、56歳で亡くなった彼は、没後にまで伝説的なミステリーを残していった人物だった。(02←03→04

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