■第5章 鳥たちの会議
- 「ヤツらが恐ろしいほどのスピードで空を飛ぶのを可能にしている力は何か? 乗っているのは誰……というか何なのか? どこから来たのか? なぜここにいるのか? コントロールしているものたちにはどんな意図があるのか?... 暗い空のどこかに、それを知る者がいるかもしれない」――「宇宙からの訪問者は来ているのか?」LIFE誌(1952年4月7日)
ここはネバダ州ラフリン。ホテルとカジノが連なる長さ2マイルほどのその街路は、ネバダ州最南部にあって東側のアリゾナ州、西側のカリフォルニア州の間を流れるコロラド川に接している。1964年にミネソタの元毛皮業者ドン・ラフリンによって創設されたこの町は、現在ネバダで3番目に人気のあるギャンブルの街となっており、気遣いを込めた表現でいうならば「低額ギャンブラー」たちを引きつけている。彼らは、ヌードマジックショーやベット・ミドラーのコンサートに大金を使うようなことはしない。というのも彼らは地元民であるか、さもなくばそんなおカネを使う余裕がないのである。ラフリンのカジノはスロットとテーブルゲームが中心であり、他にやるようなことはほとんどないのだが、それでも多くの訪問者を引き寄せている。
1983年以来、毎年4月には「ラフリン・リバー・ラン」というイベントが開催され、7万人ものバイク愛好者たちが詰めかける。残念ながら、このイベントが町の名を歴史に刻んだのは、2002年のリバーラン暴動の現場としてであった。この事件では、ヘルズエンジェルスとモンゴルズというバイカーギャングの間で激しい戦いが繰り広げられ、3人が死亡したほか、多くが重傷を負った。
そして、国際UFOコンベンションもある。それは1991年以来当地で開催され、アメリカで最大規模のUFO大会の一つとなっている。毎年参加する約600人のUFO研究家やUFOファンたちは、リバー・ランの参加者ほどビール、ガソリン、アンフェタミンを消費しないかもしれない。だが彼らは、バイカーのように粗野だったり貧乏臭かったりする代わりに、夢のようなことを口走る熱情をたっぷりと持ち合わせているのだった。
それは2006年2月のことであった。ジョンと、撮影スタッフのジラー・ボウズ、音響技師のエンマ・ミーデン(この二人はいずれもジョンの映画学校を最近出た連中だ)、そして私は、ラスベガスからラフリンへと向かう90マイルの道のりをクルマで走っていた。私たちの目的は、セルポのリーダーたるビル・ライアンの近況を追い、ポール・ベネウィッツ事件について講演する予定のグレッグ・ビショップに話を聞き、そして何よりもリチャード・ドーティを見つけ出してインタビューすることであった。
辺りに何もなく、単調で赤い火星の砂漠を思わせる光景を見ながら進んでいくと、道路脇の標識だけが私たちが今どこにいるかを示すものとなった。コンクリートでできた獰猛そうな恐竜、巨大なサボテン、手描きの隕石広告、インディアン・ジュエリー、木の切り株の化石、そしてサソリのペーパーウェイト――。道端のほこらは、乾ききった永遠の猛暑の中にあって、高速道路で起きた悲劇の瞬間を後世に伝えるものだ。そんなほこらが路肩に点在している。白い十字架、プラスチックの花、風化したぬいぐるみがきちんと並べられ、壊れた金属片だとか破れたゴムといった車両の残骸の脇に置かれていた。
こうした残骸はロズウェルのUFO墜落事件へと改めて私の思いを誘った。それは何十年にもわたって増幅された音のように響き渡り、最終的にその音は原点におけるそれよりもはるかに大きいものとなった。ロズウェルはアメリカ西部の大いなる神話の一つとなり、人間の世界にはおさまりきらない悲劇となった。それは現代アメリカが誕生して時点における無垢の物語であり(それは楽園の物語ですらある)、喪失の物語、希望や真実に対して恐怖や秘密主義が勝利した物語でもある。さらにいえば、私たちや他のUFOコンベンションの参加者をこの荒涼たる地に引き寄せたのも、その物語なのだった。
ゴツゴツした崖の上から下っていったところで、我々の目前にはラフリンへと続く着陸灯の如き灯火が広がった。目的地はフラミンゴホテル。その双子の塔は巨大でかつ光り輝いており、真っ暗な砂漠の夜にあって連星軌道を描く宇宙ステーションのようであった。私たちはクルマを停め、高さ40フィートの女性器のようなピンクのネオンをくぐってホテルに入った。中に入ると、そこはもはや比喩どころではない子宮である。それが逃れられない現実であった。
ここには必要なものがすべて揃っていた。ホテルは自己完結型の冷房環境を提供しており、そこは外の過酷な砂漠からは隔離されていた。仮にそこから出ていこうとしても、女神サイレンの歌声があなたを呼び戻す。入口から数フィートの場所には何百台ものスロットマシンが並んでおり、その一台一台から流れる音楽は、ひとりひとりの心に染み入ってうまずたゆまずハーモニーを作り出す。それは魂に栄養をほどこすかのようであって、あたかも当地を最初に探検した開拓者たちにコロラド川が施したものもかくやと思われた。
それは胎内の音楽であり、幼児用おもちゃ1000個が鳴り響く音のようであった。心地よく、安心感があり、圧倒的に甘い。どこを見ても人々は椅子に座り続け、低レベルのてんかん発作の如き状態にあり、明滅するライトが光ったままの目に反射していた。中には、プラスチック製のクレジットカードをコイル状のゴム製コードで自分のマシンに接続したままの者もおり、一方の手には大量のコインが入った大きなバケツ、もう一方の手にはコーヒー、ビール、炭酸飲料が入ったさらに大きなバケツ。ここには時間がなく、時計もなく、昼夜の感覚もなく、場所の感覚もなかった。いったんズラリと並んだゲーム機の列を越えると、巨大なゲームフロアの出口は、ジグザグに曲がって光に満ちた廊下の先で見えなくなっていた。いったい誰がここを離れたくなるだろうか?
今日は日曜日であることを思い出した。UFOコンベンションは一週間続く予定で、その一週間、この場所が私たちの家となるのだ。会議で聞く予定のトピックのリストを見返した。プエルトリコやカリフォルニア沖の水中エイリアン基地。ノバスコシアやロズウェル、アズテックでのUFO墜落。人類のET起源説。ミステリーサークル。2012年の黙示録到来。目に見えぬエイリアンによるミューティレーションとユタ州の牧場のワームホール。ETと人間のハイブリッドプログラム。UFOの推進装置――要するに、私がこの手の話に夢中になっていた10年前とほとんど変わっていなかった。
私はUFOコンベンションをカジノと繋げているものに気づいた。信仰である。次に賭けるコインが財産を築き、人生を変えてくれるだろうという信仰。ETは私たちの間にいて、自らの存在を明らかにし、我々の生活すべてを変える準備をしているという信仰。あなたがフラミンゴホテルに入ったときに信仰を持っていなかったとしても、UFOコンベンションの一週間が終わるころには、確実に信じるようになっていることだろう。
UFOコンベンションが行われている会場は三つあった。まずは会議が行われる大きな部屋があり、一方には演壇、その前にはフェイクの赤いベルベットや金をあしらった数百のチェアが並んでいた。この部屋が満席になることは稀だったし、観客のかなりの部分は常にうとうとしているように見えた。講演スペースはメインホワイエに開設されていて、そこがいわば本番の場所であった。コーヒーとケーキが散らばったテーブルを囲んでの小会議、ネットワーキング、ひそひそ話。それはこんな具合だ―― 「俺は頭の中でビリヤードをやっていたんだよ」「ビームにはまっていたけど、今はオーブに夢中だ。写真を撮るたびにオーブが出てくる」「昔はナッツ&ボルト派だったけど、今はもう何でもいいよ」
三つ目の部屋は重要なディーラー・ルームで、ここでは信仰が売買され、さらには信仰が強化されるのだった。UFO文献とメディアのプールは非常に広く、ここに展示されている数千冊の書籍、DVD、そしてほとんど絶滅しかけているVHSテープは、巨大な母船サイズの巡回図書館の何たるかをよく示していた。ここには様々な人からの報告が供される。自分の身に何が起きたかを語るUFO体験者。経験者の体験について論じる研究家。UFOとは何であり何故ここにいるのかを説明する科学者。UFOは××ではないと説いて、なぜUFOなどないのかを説く科学者(当然ながらこのタイプは非常に少数)。UFOがどこから来てなぜここにいるのかを説明するチャネラー。地球上のどこにUFOが隠されているのかを明かす陰謀論者。UFOが何であるのか、どこから来てなぜここにいるのかを説明するエイリアン――それらは情報(インフォメーション)というよりは病害の蔓延(インフェステーション)であった。膨大な素材を整理して、UFOについて一貫した物語を作り上げようなどというのはほぼ不可能であった。『未知との遭遇』のフィナーレにおけるエレガントな5音階による解決などというものはありえないのだ。なぜならば、仮にちゃんとしたシグナルがあったとしても、それは耳障りな騒音の中で失われてしまっているからだ。
気分転換のためにホワイエに戻ると、そのヘリに設けられた小さな会議ルームには、それぞれに珍しい鳥の名前がつけられていることに気づいた。そこにはオオハシ、オウム、そして極楽鳥というものがあった。これ以上に完璧なことは望めまい。1970年代半ば、UFOに魅了された科学者、情報専門家、軍関係者たちで作る緩やかなグループが、自分たちの知識と人脈とを利用して、この状況を理解する試みを始めたことがあった(そのほとんど全員は今日にあってはヴィクター・マルティネスのメールリストに名を連ねている)。やがて彼らは調査の成果を精選してまとめたものを作り、これを「コアストーリー」と呼んだ。このコアストーリーの多くは、セルポ文書のベース部分を形作っており、ロズウェルの墜落、ETの生存者たるEBE、ホロマン空軍基地への着陸などといったものが含まれている。リチャード・ドーティや、その米空軍特別捜査局(AFOSI)での同僚によって研究者のビル・ムーアがこのネットワークに引き込まれたとき、ムーアは彼らに「アヴィアリー(鳥の会)」というニックネームを付け、鳥の名前で彼らを識別した。そして今、我々はラフリンのアヴィアリーでリチャード・ドーティに会う準備をしているのだ。
このコンベンションはサイエンス・フェアや情報ブリーフィングの集まりというよりは、むしろ伝道集会のようなものだったが、さて、それでは政府のインサイダーたちが「UFOというのは単なるウワサ以上のものであり、真剣に受け止めるべきものだ」と説得されてしまったのは何故だったのか? ケネス・アーノルドと『未知との遭遇』の間の30年間に何かが起こったに違いない。彼らは何かを見たか聞いたかしたに違いない。しかし、それは何だったのか?
■彼らはどこから来るのか?
1947年にやってきたUFO目撃の最初の波は、米国の軍司令部内に不安感を募らせていった。真珠湾攻撃まで、アメリカは奇襲攻撃に対して案ずることはないと考えられていたが、今や状況は変わっていた。長期的に考えればソビエトによる原子爆弾の脅威というのは考えたくもない悪夢であったが、同時にゴーストロケットの謎や続発する空飛ぶ円盤の目撃は、空からの侵入に対してこの国は脆弱なのではないかという懸念を生み出していた。こうした恐怖は、新設された空軍にとっては悪いことではなかった。自国の空を守ることが彼らの仕事であったのだから。人々が空からの攻撃を恐れ続ける限り、米空軍は予算削減や海軍との予算争いで悩まされることはない。
1947年9月23日のトワイニング将軍による報告書に続いて(ちなみにそれは空軍がUFOについて発した初の公式文書だった)、空軍はいささか控えめな形ではあったが空飛ぶ円盤の問題に関する公式調査を開始することを決定した。それが「プロジェクト・サイン」で、その目的は空飛ぶ円盤とは何なのか、そしてどこから来るのかを解明することであった。プロジェクトはライト・パターソン空軍基地で運営された。そこには米空軍の航空技術情報センター(ATIC)が置かれており、その組織は外国の技術の研究、ならびに可能な限りにおいて行うリバースエンジニアリングに特化した組織であった。彼らは多数の航空機とともに多数のドイツ人技術者を捕獲していたが、それは第二次大戦終末期に密かに行われたもので、そこには彼らととともに押収した大量の技術文書を読解する狙いがあった。
プロジェクト・サインが一番懸念していたのは、円盤がナチスの設計に基づいたソビエト機である可能性だった。しかし、ドイツの設計図を調べ、それを円盤の驚異的な飛行能力と照らし合わせた結果、プロジェクトチームはそれとはまた別の、そしてさらに衝撃的な結論に達した。それは、円盤は「我々」の手になるものではないということ、つまり「人間が作ったものではない」ということだった。
1948年秋までに、プロジェクト・サインのチームは「状況評価」なる極秘文書の作成準備を進めて完成させたが、それはちょうどレイ・パーマーの新しい雑誌「フェイト」の初号が発行された頃であった。ちなみに、その表紙には壮観な空飛ぶ円盤のイラストが描かれていた。この文書が実際に何を「評価」したのかは不明だが、それが空軍参謀総長ホイト・ヴァンデンバーグに届けられるや、彼はその内容に激怒し、すべてのコピーを破棄するよう命じた。その結果、1949年2月に発行されたプロジェクト・サインの最終報告書は、地球外生命仮説(ETH)を軽視する内容となっていた。シンクタンク「ランド・コーポレーション」のジェームズ・リップ博士による補足文書は、ETHの足らざる部分についてまとめているが、その結論は60年前と同じく今日もなお有効である。
- 技術的に進んだ種族が飛来し、我々にはナゾとしか思えないような能力を誇示し、それから何もせずに去って行く、などということはおよそ考えられない……さまざまな事例においてハッキリとした目的が見て取れないのもまた不可解である。唯一こういう動機は考えられるかもしれない。すなわち、宇宙人たちは我々が好戦的な態度を示すような事態を回避しつつ、その防衛体制を「手探りで探ろう」としている、というものだ。だが、もしそうであれば彼らは、人類には自分たちを捕まえることはできないことを知って満足しているに違いないのだ。彼らにしてみれば、同じ実験を何度も繰り返すことに意味はないと考えているのではないか……宇宙からの訪問は可能であるかもしれないが、その可能性はほとんどないものと思われる。
リップの最後の言葉は次のような事実を踏まえると興味深い。というのは、1946年5月、リップ博士はランド・コーポレーションの報告書ナンバーSM-11827、すなわち「地球周回宇宙船実験の予備設計」を共著者の一人として執筆したのである(これはドイツのV-2を基にした多段式宇宙ロケットについての計画で、海軍のロケット計画に対抗するために考案された)。この報告書は次のような予言で始まっている。
未来を映す水晶球は曇っている。が、二つのことは明らかなように思われる。
1、適切な機材を搭載した衛星は、20世紀において最も有力な科学的ツールの一つとなるだろう
2、アメリカが衛星打ち上げに成功すれば、それは人類の想像力をかき立て、原子爆弾の爆発に匹敵する反響を世界に引き起こすであろう
スプートニクとテルスター衛星の登場はそれから10年後のことであったが、空飛ぶ円盤は、アメリカで夜明けの時を迎えようとしていた宇宙時代の最初の前兆となったのである。
1949年2月、プロジェクト・サインは秘密裏にプロジェクト・グラッジへと衣替えをしたが、その目的は、空飛ぶ円盤の目撃を公的な立場から軽んじてみせ、国民の関心を減退させることだった。これを達成するため、彼らは空軍に理解のあるジャーナリスト、シドニー・シャレットに手を貸し、「空飛ぶ円盤について信じて良いこと」というタイトルの二部構成の記事を「サタデー・イブニング・ポスト」に執筆させた。この記事は4月30日と5月7日に掲載されたが、これは米空軍が情報機関に対して円盤に関する極秘サマリーを提出した数日後のことだった。シャレットの記事は、空飛ぶ円盤というテーマについて米空軍がはじめて詳細な公的声明を発したもので、この問題についてのプロジェクト・グラッジの不満をよく表しているという点ではよくできていた。空軍の戦略はうまくいったかに見えた。その年の終わりまでに、彼らはついに空飛ぶ円盤から手を洗うことに成功したかに見えた。
しかし、彼らの平穏は長く続かなかった。人気男性誌「トゥルー」の1949年12月号に、元海軍軍人でパルプフィクション作家のドナルド・キーホー少佐によるセンセーショナルな記事が掲載された。そのタイトルがすべてを物語っていた──「空飛ぶ円盤は実在する」。そして、その冒頭の一文は、グラッジチームの「早々に手を引けるのではないか」という思惑を完膚なきまでに吹っ飛ばした。――曰く、「この地球は過去175年間にわたり、他の惑星からやってきた観察者たちによって至近距離から組織的な調査をされている」
この記事は「トゥルー」を完売させたが、ここからこの現象に関する論客としてのキーホーのキャリアが始まった。「トゥルー」の編集者たちは、この号の成功をうまく活用すべく迅速に動き、1950年3月、いまひとりの海軍関係者、すなわちニューメキシコ州アラモゴードのホワイトサンズミサイル試験場で海軍部に所属していたロバート・B・マクラフリン司令官の手になる記事を掲載した。「科学者たちは如何に空飛ぶ円盤を追跡したか」と題したその記事は、気球の打ち上げを経緯儀で監視していた海軍科学者たちによる劇的な目撃体験を描いていた。マクラフリンは「それは空飛ぶ円盤であり、他の惑星からきた宇宙船であること、そして知的生命体によって操縦されていること」を確信した。さらに彼はこう言ってプロジェクト・グラッジを完膚なきまでに打ち負かした。「幻覚なのか? 光学的錯覚なのか? いやいや、錯覚が5人の訓練された気象観測者全員の身に同時に生じるとは考えにくい」。そこからさらに彼は自らの円盤目撃談を語った。
こうした二つの記事は、軍事機関にあって尊敬されるべき地位を占めていた者によるものだったから、空飛ぶ円盤の話を打ち消そうとした空軍のあらゆる努力を一瞬で無にした。さらに悪いことにそうした記事は、それまで神秘主義者やレイ・パーマーのSFを愛好していたファンの領域にあったものを、研究に値するもの、教育があってマジメな何百万人ものアメリカ人が話題にすべきものにしてしまったのだった。
しかし、すべてが一見した通りのスッキリした話だったわけではない。キーホーとマクラフリンはともに海軍の人物であった。地球外生命体がアメリカの空域に侵入しているという彼らの大胆な主張は、「空飛ぶ円盤の問題は空軍に任せておけば大丈夫」ということにしたい空軍の試みを無にし、さらに重要なことには空の守護者としての空軍の役割をも危うくしてしまった。こうした記事がこの時期に出たというのは、空軍にとって困った問題を引き起こしてやろうという狙いがあったのではないだろうか? 海軍はこの時もそうした戦術を用いて、空軍を困らせ、空軍の活動や指導力に対する疑念を煽りたてていたのではないか?
第二次世界大戦後、米空軍と海軍の間から友情は失われてしまったが、その友情が再び復活することがなかったのは周知の事実であった。双方の憎悪は1949年初頭には全面戦争に発展し、その春には下院軍事委員会の公聴会が開かれた。ここを舞台にした争いは、軍事戦略に関する深い相互対立を反映していた。空軍は、将来の戦争は核兵器による戦略爆撃によってのみ勝利すると主張していた。空軍は、この戦略に従えば海軍というのは時代遅れの存在になっていくと論じ、多くの国防総省関係者もこれに同意した。1949年4月、海軍出身の国防長官ジェームズ・フォレスタルが辞任し、その後任に空軍を支持するルイス・A・ジョンソンが就任すると、彼は海軍の「スーパーキャリアー」建造をキャンセルし、空軍の巨大なB-36爆撃機の製造を優先させた。これに対して海軍は、空軍の将軍がB-36の契約業者と不正取引をしたという告発文書をリークして報復した。両者の緊張関係があまりに高まったため、フォレスタルはうつ病で入院し、1949年5月22日に自殺した。下院軍事委員会は、各軍の間には「鉄の壁」──チャーチルの語った「鉄のカーテン」をもじったものである──が存在すると述べた。
キーホーとマクラフリンが書いた「トゥルー」の記事の背後にはこうした軍の間のライバル意識があったのか。それとも彼らの記事は別にそうした意図があったわけではないストレートなもので、それを利用して誰かがより大きな戦いを戦っていたのか。そこのところはよく分からない。当時は事態が込み入って混沌とした時代であり、空軍、海軍、情報機関が、程度の差こそあれ、それぞれの目的のために空飛ぶ円盤の話を利用していた可能性が高い。そしてこのストーリーは、ここで奇妙な展開を迎えることになる。
■フライング・ソーサーの背後にいる男たち
墜落した空飛ぶ円盤の話は、長い間UFOコミュニティ内で流布していたが、1970年代末まで真剣には受け取られていなかった。だがここに至って、匿名の空軍関係者からのリークにより、UFO研究者たちに多くの情報がもたらされるようになったのである。チャールズ・バーリッツとウィリアム・ムーアによる1980年の『ロズウェル事件』刊行はそうした流れの集大成であり、それ以降、数え切れないほどの書籍、雑誌、映画、そして関連グッズが生み出されていった。ラフリン・コンファレンスで販売業者の部屋を埋め尽くしていたものも、そんな物品の全体からいえばごく一部にしか過ぎない。
しかし、ロズウェルの物語の起源はロズウェルそのものにではなく、北西に約350マイル離れたニューメキシコ州の小さな町アズテックにある。辛口で人気のある「ヴァラエティ」誌のコラムニスト、フランク・スカリーは1950年、ノンフィクション『空飛ぶ円盤の背後に』を出版した。同書がスポットを当てたのは、1950年3月8日にコロラド州のデンバー大学で行われた奇妙な講演であった。それは学術的な講演というよりは市場調査の実験のようなもので、理系の学生90年が匿名の講師による空飛ぶ円盤についてのプレゼンテーションに呼び集められた。その話はキャンパス中に広がり、講演当日、ホールは満員になった。その50分間のプレゼンテーションで、謎めいた専門家は、空飛ぶ円盤は現に存在するのみならず、そのうち4機が地球に着陸し、さらに4機中3機はアメリカ空軍によって捕獲された――と言い放ったのである。
そのうち最も大きいものは幅100フィートで、ニューメキシコ州アズテックの近くに着陸。円盤とその内部にいて死亡した乗員は、調査のためライト・パターソン空軍基地に運ばれたのだという。が、この話自体は新しいものではなく、航空歴史家カーティス・ピーブルズによれば、1948年に「アズテック・インディペンデント・レビュー」が発行したいたずら記事にまで遡る(その記事には、円盤の墜落と小さな金星人の話が書かれていた)。ともあれ、フランク・スカリーによれば、捕獲された3機の機体には34体の異星人の遺体があった。これらの生物は人間に非常によく似ていたが、背丈が低く、肌が白く、髭はなかった。ただ、数人は「桃の産毛に似た細かい毛」を生やしていたという。
匿名の講師は円盤について詳細に述べていた。その内容は――。
- それは我々が設計してきたようなものとは全く異なっている。どの機体にもリベット、ボルト、ネジは一切使用されていない... 外殻はアルミニウムに似た軽量金属で構成されているが、非常に硬く、どんな熱処理を施しても破壊することはできない。その円盤は回転する金属の輪を持ち、その中心に操縦室があった。... 最初の円盤は任意の方向に操作可能であり...どこにでも着陸できるように設計されていた。最も小さいものには三輪の金属球を備えた着陸装置があり、その球は任意の方向に回転できるようになっていた。
デンバーでの講演の後、参加者たちは講師の話を信じるかどうかを尋ねられ、60%の参加者が信じると答えた。しかし、その数時間後、彼らの多くは空軍情報部の将校から質問を受けることになった。スカリーによれば、学生たちに対して行われたこの追跡調査では、「信じる」と答えた者の割合は60%から50%に減少していた。それでもこれは「空飛ぶ円盤は宇宙から来ている」という人の全国平均(スカリーによると約20%だそうだ)よりもはるかに高かった。この講演から得られるメッセージは明確だ。「説得力のある情報源に触れれば、聡明な大学生でさえもあり得ないことを信じるようになってしまう」ということである。
1950年3月17日、「デンバー・ポスト」紙によって、謎の講師の正体はデンバーを拠点とするニュートン・オイル・カンパニーの経営者、サイラス・メイソン・ニュートンであることが明らかにされた。一方、自著の中でスカリーは、ニュートンの円盤情報の源は「ジー博士」だとし、同時に、その名前は国家安全保障の理由で身元を保護する必要がある8人の科学者を合成した仮名なのだとした。しかし、ニュートンとジー博士の真相は、その触れ込み同様に興味深くはあっても、それほどまでには劇的ではなかったことが判明する。
ジー博士の正体はレオ・アーノルド・ジュリアス・ゲバウアーで、彼は幾つもの偽名を持ち、FBIによってその行動を記録した分厚いファイルが作られるほどの人物であった。ゲバウアーはかつて、アリゾナ州フェニックスのエア・リサーチ・カンパニーの研究所で働いていたが、1940年代初頭、アドルフ・ヒトラーを「素晴らしい人」と評し、「ルーズベルト大統領は射殺されてヒトラー総統のような人物に取ってかわられるべきだ」などと公言していたことからFBIの注意を引いていたのである。ゲバウアーは、「自分は墜落した空飛ぶ円盤の技術を解析する政府機関で働いており、そうした墜落円盤の中にはアズテックのものも含まれている」とニュートンに語っていた。ニュートンが実際にこれを信じたのかどうかは不明だが、ともあれ彼は、デンバーの学生たちにゲバウアーの話を広めることに躊躇することはなかった。
ニュートンの日記には、「デンバー・ポスト」紙によって自分の正体が暴かれた後、彼のもとに「米政府機関の秘密メンバー」2人が接触してきたことが記されている。彼らは、「あなたの語ったUFOの墜落話がデマであることを我々は知っている。でも、その話はこれからもずっとしゃべり続けてくれないか」と言ったという。その通りにすれば、「彼らはその雇い主ともども私とレオ(ゲバウアーのこと)の面倒を見てやると約束した」というのである。この謎の人物というのは、ニュートンの悪賢い想像の産物なのか、それとも空軍情報部のエージェントだったのか? あるいはFBIやCIAの職員、さもなくば米空軍にさらに厄介ごとを抱え込まそうとした海軍の関係者だったのだろうか? それはわからない。ただ、彼らが望んでいたことは実際に実現した。スカリーの本は間髪入れず1950年に出版された。この本は約6万部が売れ、当時のベストセラーとなった。これにより、空飛ぶ円盤神話の詳細はアメリカ人の想像力にさらに深く刻み込まれたのである。ニュートンは自らの仕事を見事に果たした。そして、おそらくニュートンを訪ねてきた謎の政府関係者たちも、約束を守ったのであろう。ニュートンとゲバウアーは1952年、「これはリバースエンジニアリングで解明した異星人の技術に基づいた先進的なものだ」と称して採掘装置を販売しようとし、詐欺罪で有罪判決を受けたのだが、そのとき二人はいずれも執行猶予付きの判決を受けたのである。
『空飛ぶ円盤の背後に』が成功を収めたにもかかわらず、アズテックの円盤墜落事件は、数年もするとほぼ完全に忘れ去られた。それが再び脚光を浴びるのは約30年後のことである。その重要な要素、すなわち「機体」「死亡した操縦者」「空軍の回収作戦」、そして「ライト・パターソン空軍基地におけるリバースエンジニアリング・プログラム」といったものは、ロズウェルの物語の基盤を形成することになった。1980年代初頭には、アズテック事件そのものが、UFOコミュニティに対する空軍特殊調査局(AFOSI)の情報操作キャンペーンの一環として利用されるようになった。この事件に関して「墜落は実際にあった」と喧伝する、さらなる一冊が出版されるに至ったのである。
かくしてこの半世紀の間に、新聞の悪ふざけから始まった物語は現実となったのち、いったんはデマとして否定されたのだが、それが1980年代になると再び米空軍とUFO研究者によって復活し、世に広く知られるようになった。これは、最終的には21世紀初頭に「真実ではない話」として葬られることになるのだろう(おそらく、ではあるが)。ともあれここから分かることは、空飛ぶ円盤というのは何度もリサイクルされて甦ってくるものだ、ということである。
民俗学者は、民間伝承が現実に浸出していくプロセスを「直示 ostension」と呼んでいる。しかし、これらの物語が本当に諜報機関によって生み出されたのだとしたら、これは単に「欺瞞」と呼んだほうが良いだろう。UFOの最初の10年を振り返ると、軍民を問わず諜報に携わる者たちがUFO神話の誕生において助産婦の役割を果たしていたことは明らかである。モーリー・アイランド事件においては諜報機関が「汚い詐術」を弄した痕跡が見られるし、サイラス・ニュートンの日記を信じるなら、少なくとも一つの諜報機関がアズテックにおける墜落UFOとその乗員に関するストーリーを広めるべく暗躍していたことになる。このパターンは、その後数十年にわたって繰り返されることとなる。UFOというのは、諜報機関のトリックスターどもが汚い仕事を遂行する上での一つの道具に過ぎなかったのである。
■スパイ、幽霊、吸血鬼、そして異星人
1947年7月26日、ハリー・トルーマン大統領は署名ひとつで米空軍を陸軍から分離し、戦時中の戦略情報局(OSS)を中央情報局(CIA)に変えた。当初は3つの軍事情報グループを組織するための機関として設立されたCIAであったが、数年ののちにそれは諜報カルトの大寺院となった。それは時として、世界を支配するだけでなく、世界中の全ての人々の心と頭を支配しようとするカルトのようでもあった。30年間にわたって、CIAを制御できる者は誰もいないように見えた。
ジョン・マークスとヴィクター・マルケッティは、『CIAと諜報のカルト』という本の中で、機関としてのCIAは長年にわたって制御不能であったばかりでなく、制御を超越した存在であったことを明らかにしている。
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CIAは…必要とあらば民間機関に浸透し、操作し、自らのための内部組織(『プロプライエタリー』と呼ばれる)を作り出す。エージェントやカネで動く人間を雇い、外国の公務員を買収したり脅迫したりして、道義に反することをさせる。目的を達成するために必要なことは何でも行い、その行為に伴って生じる倫理・道徳的な問題は全く考慮しない……その行動は、一般人にはうかがい知れぬ古めかしい規律の背後に隠され、それはこのナゾ多き機関が一体何を・なぜ行っているかについて一般市民はもちろん議会が知ることすら阻んでいる。
CIAの秘密保持に対する姿勢をこれ以上ないほど明確に示す実例は、「MKウルトラ」が露見した際にCIA長官リチャード・ヘルムズが示した対応だろう。MKウルトラとはこの機関が長年にわたって続けたプログラムで、薬物や催眠を用いて「洗脳」とマインドコントロール実験とを行うものであった。1970年代半ば、調査にあたった議会がMKウルトラにかかわる全文書の閲覧を要求した際、ヘルムズは文書類の破棄を命じた。そのもくろみはほとんど成功しかけたのだが、わずかな資料は残った。そしてその資料だけでも、CIAの実務に対して大幅な見直しを強いるには十分であった。
秘密の戦争――すなわちスパイ活動と対スパイ活動、諜報と対諜報、心理作戦、ニセ情報の操作、そして秘密工作といったものだが――においては真実などというものは存在せず、誰にも気づかれない限り、どんなことをしても許された。時には、小規模な軍隊を動かす必要もあるし、難解なテクノロジーを駆使する必要が生じることもある。だが、優れた手品のトリックと同様、ちょっとした暗示だけで大きな影響を与えることができた事例もあった。
空軍大佐エドワード・ランスデールは、心理戦というアートの世界において早い時期に登場した達人であった。アメリカで最も恐れられ、尊敬された「冷戦戦士」の一人であったランスデールは、広告業者から諜報の専門家に転じた人物である。彼はその存命中に伝説となり、グレアム・グリーンの『おとなしいアメリカ人』の登場人物、オールデン・パイルの人物造形にヒントを与えたとされている。広告業界でのランスデールの経験は、諜報の世界で大いに役立った。彼は、知覚とプレゼンテーションの力を理解していたが、その知見を「アメリカが幸福であるためには第三世界を支配せなばならない」という確信と結びつけていた。要するにその目標は、現地の人々の「心」を勝ち取り、経済的にアメリカに依存する状態を作り出すことであった。
第二次世界大戦中、フィリピンで戦った経験を持つランスデールは、1950年代初頭にCIAにリクルートされ、現地の共産ゲリラ反乱軍、フク団(Huks)と戦っていたフィリピンの国防大臣を支援することになった。ランスデールはこの作戦の一環としてフィリピン民生部を設立し、心理戦作戦(PSYOPS)の拠点とした。ランスデールのチームは広告代理店の市場調査員のように現地の人々の心の中に入り込み、彼らがどのように生活し、何を最も望み、そして――当然のことであるが――何を最も恐れているのかを探ったのである。
あるPSYOPSプロジェクトでは、その姿が見えないよう分厚い雲間に小型の飛行機を飛ばし、フク団の領土上空に侵入させた。その飛行機はメガホンを使って「神の声」を流し、反乱軍に避難場所や食料を提供する村人たちには呪いが降りかかると警告した。また、別の作戦では、フィリピンの神話に登場する吸血鬼「アスワング」にまつわる田舎の迷信をうまいこと利用した。ランスデールのチームは、フクが占拠している地域にはアスワングが住んでいるという噂を流したのである。この血を吸う怪物の話はゲリラとその支持者たちの間に広まっていき、遂にある日、彼らの恐れは現実とものとなった。ゲリラの一人が、喉に刺し傷を負って血が抜かれた状態で発見されたのである。しかし、この不幸なフク団員はアスワングの犠牲者などではなかった。彼はランスデールのチームによって待ち伏せされ、殺害されて木に吊るされ、血が抜かれた後、仲間に発見されるように放置されたのだった。他のフク団の人々にしてみれば、これはアスワングの話を裏付けるものであったから、彼らは恐怖にかられてその地域を逃げ出した。1953年までに、共産主義者の反乱は成功裏に鎮圧された。ランスデールはその後、最初にベトナムに入った工作員の一人となり、アメリカがベトナムに介入する道を切り開いたが、その後も「マングース作戦」――これはフィデル・カストロの暗殺計画だったが計8回の試みはいずれも失敗した――で重要な役割を果たした。
ベトナム戦争でも現地の迷信は利用された。陸軍第6心理戦作戦大隊は、「泣き叫ぶ魂」と呼ばれた音声テープを兵士が背負ったりヘリコプターに取り付けたりしたスピーカーで定期的に流した。これは成仏していない死者にまつわるベトナムの言い伝えを悪用したもので、テープには、アメリカ軍と戦って死んだ父親のさまよえる魂とその幼い娘とのやりとりが録音されていた。この録音は、不気味なリバーブ効果と伝統的なベトナムの葬送音楽を用いたもので、夜間にジャングルをパトロールするアメリカ兵にも恐怖を与えたほどであった。
ランスデールのアスワング作戦や「さまよえる魂」作戦は、冷戦の激しい時期に行われた無数の心理的欺瞞作戦のほんの一例に過ぎない。トム・ブラーデンは、CIA国家秘密工作本部(the National Clandestine Service)*の前身にあたるCIAの計画本部(the Directorate of Plans)で国際組織部門の責任者を務めた人物だが――ちなみにこの計画本部はCIAの心理戦作戦、秘密工作、プロパガンダのほとんどを監督した――彼は1973年にこう記している。「冷戦最盛期にはあまりにも多くのプロジェクトがあったため、一人でそれらのバランスを取っていくのはほとんど不可能だった」
共産主義との戦いにおいて、人々の心をガッチリと、しかもソフトにつかみ続けることは――よくいう「外柔内剛」というヤツだ――国外のみならず国内でも重要なことであった。国家安全保障法はCIAがアメリカ国内で活動することを明確に禁止していたが、それを可能にする抜け道はいくらでもあった。幾つものニセの会社を作って、それらで構成される「帝国」を立ち上げる(ちなみにそうした会社は登録地にちなんで「デラウェア」と呼ばれた)。味方をしてくれる企業団体を「物言わぬチャンネル」として抱き込み、そこから仲間を新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、実業界、草の根団体の要職へと送り込む。こうやってCIAが地道な活動をしている一方では、より大きな枠組みがCIA以上に秘密に守られた組織によって作られていた。が、その組織が解体される約50年後まで、そのことはほとんど知られることがなかった。
*訳注:「国家秘密工作本部」は2015年に「作戦総局」(the Directorate of Operations)とさらに改称されている
共産主義との戦いにおいて、人々の心をガッチリと、しかもソフトにつかみ続けることは――よくいう「外柔内剛」というヤツだ――国外のみならず国内でも重要なことであった。国家安全保障法はCIAがアメリカ国内で活動することを明確に禁止していたが、それを可能にする抜け道はいくらでもあった。幾つものニセの会社を作って、それらで構成される「帝国」を立ち上げる(ちなみにそうした会社は登録地にちなんで「デラウェア」と呼ばれた)。味方をしてくれる企業団体を「物言わぬチャンネル」として抱き込み、そこから仲間を新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、実業界、草の根団体の要職へと送り込む。こうやってCIAが地道な活動をしている一方では、より大きな枠組みがCIA以上に秘密に守られた組織によって作られていた。が、その組織が解体される約50年後まで、そのことはほとんど知られることがなかった。
1951年、ハリー・トルーマン大統領によって設立された心理戦略委員会(PSB)は、国内外の心理作戦を調整し、さらにはアメリカとアメリカ人が外から見て「正しい存在」と映るよう仕向ける任務を負った。これではまるでジョージ・オーウェルの世界のようだが、実際それはその通りだった。最初に作られたその戦略文書の内容はいぜん機密扱いのままであるが、その断片は他の文書に引用されたものから見てとることができる。その一つによれば、心理戦略委員会の役割は「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を推し進め、「アメリカの掲げる目標に敵対的なドクトリン」に対抗する「組織」を発展させていくことだった。これを達成するためには、「人類学や芸術的創作といったものから社会学、科学的方法論に至るまで、知的な関心領域のすべて」を取り組んでいく必要があるとされた。
1952年5月、心理戦略委員会はCIAの心理戦プログラム「パケット」を引き継いだが、その目的は外国の指導者たちに「アメリカのやり方は他の何よりも――とりわけロシアよりも優れている」と説得することだった。アメリカのカリスマを国外で維持するためには、学術的な「セミナー、シンポジウム、特別な書籍、学術誌や図書館」から教会の礼拝、コミックブック、「民謡、民間伝承、民話、世界をめぐるストーリーテラー」にいたるまで、ありとあらゆるものをコントロールし、調達し、作り出す必要があった。
心理戦略委員会のメッセージは、テレビやラジオ、船舶や航空機を通じて世界に広められた。さらには「三次元の動く画像」の使用も、リアリズムを高めるために検討された(当時、アメリカの映画館では3Dブームが起きていた)。チャールズ・ダグラス・「CD」・ジャクソンは、アイゼンハワー大統領が選出された後の顧問であったが、心理戦略委員会における重要な戦略家であった。エドワード・ランスデールと同様、ジャクソンももともと広告業界の大物で、「タイム・ライフ」や「フォーチュン」など雑誌の出版から諜報の専門家に転じた人物であった。ジャクソンはアメリカの価値観の擁護者であり、戦後のアメリカのイメージを形作った見えない政府の中で最も影響力のあるメンバーと見なされていた。彼には、タイム・ライフ帝国を運営するヘンリー・ルースやハリウッドの大物ダリル・ザナックなど、芸術界における強力な友人がいた。ジャクソンと心理戦略委員会は、強い影響力を持っていないところにはそれを新たに創り出し、出版社、新聞、テレビやラジオの放送局、芸術家や芸術団体、オーケストラ、「エンカウンター」や「パルティザン・レビュー」といった小規模ながら影響力のある雑誌に影響力を持つようになった。心理戦略委員会が影響力を発揮するためには、たいてい然るべき相手に親しげな言葉をかけるだけで済んだ。しかし、時には金銭が必要となり、ターゲットとなる相手を完全に牛耳る必要が出てくることもあった。ある意見が必要になってくれば、心理戦略委員会はそれを作った。
心理戦略委員会は時に大胆で直接的な手段を取った。ジャクソンは1952年、原子力委員会委員長ゴードン・ディーンが「ライフ」誌に書いた記事について「首尾良くいっている」と記した。その記事は、「原爆を使ったことについてのアメリカ人の罪悪感を取り除いてくれるだろう」というのである。しかし、いつもはもう少し気を遣う必要があった。1954年にアイゼンハワーが「平和のための原子力」計画を開陳した際、ベルリンに原子力発電所を建設するという大統領の計画についてジャクソンは、いかなるプロパガンダが可能かというメモを記している。そこでジャクソンは、実際に発電所を建設する必要はないのだと指摘した。瓦礫の区域を囲い込み、警備員を配置し、謎めいた看板を立てることで、実際に発電所を建設したかのような強力なウワサを作り出すことができるというのだった。
1953年、心理戦略委員会は、より曖昧な名前の「作戦調整委員会(OCB)」に改編されたが、ジャクソンとそのチームによって始められた動きは1960年代を通じて継続した。それがようやく掣肘を受けたのは、フランク・チャーチ上院議員がCIAの活動に関する調査に立ち上がった1973年のことだった。この好ましからざる暴露の後、CIAはメディア内で働く400人の職員とエージェントを解雇せざるを得なかったが、この数は「低く見積もられ過ぎている」というのが一般的な見方だ。
では、こうしたものはUFOと何の関係があるのか?おそらくすべての面で関係はある。1950年代初頭に心理戦略委員会、CIA、そしてアメリカの政治と諜報のエリートがどのように働き、考えたかを理解することは、CIAが空飛ぶ円盤の問題に取り組む際に何が起こったのかを理解するための鍵となるのである。(05←06→07)