■第10章 牛・盗聴器・地下のエイリアン
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第3条: 両締約国は、ミサイル警戒システムによって未確認の物体が探知された場合、またはこれらのシステムや関連する通信設備に干渉の兆候が現れ、そうした出来事が両国間の核戦争勃発のリスクを引き起こす可能性がある場合には、直ちに互いに通知をする義務を負う。
――米ソ偶発核戦争防止協定(1971年9月30日)
翌朝。もう会議の準備が始まろうとしている中、軽い二日酔いを引きずりながら、ジョンと私はフラミンゴの「アヴィアリー・ラウンジ」で落ちあい、常に用意されているコーヒーを喉に流し込んだ。それはユーフォロジストたちにとっての必需品だった。9時きっかりに始まる講演は午後5時まで続き、昼食の時間以外に休憩時間はなかった。本日の議題は次のようなものだった。2012年12月に何が起こるかを予測するイギリス人の話。それとはまた別のイギリス人による「英国軍がミステリーサークルの研究の隠蔽を図っている」という陰謀についての話。邪悪なネイティブアメリカンの霊がいるというユタ州の牧場についての発表。次元を超えたワームホールの話。そしてもちろんUFOである。
リック・ドーティが現れたのは午前10時半頃だった。我々に会えた彼は嬉しそうで、明るい表情だったが、実は朝の5時45分、会議に参加していた国防情報局(DIA)の知り合いに起こされてしまったということだった。DIAの職員が話をしたいというので、彼らはホテルの駐車場で会い、レンタカーに乗って町の外れまで移動し、そこで話をしたのだという。ただし、その内容は口外無用とのことだった。リックには、その日の午後にも同様な面談の予定があった。しかし彼は「こうした面談は公のものではないのだ」と言って、自分が「一般市民」として会議に参加していることを強調した。
その日のプレゼンテーションについて雑談をした。「スキンウォーカー牧場」という名で知られる、ユタ州のあの牧場はどうなんだという話になった。1990年代初頭、牧場の所有者は何頭かの牛がミューティレーションの餌食になっているのを発見した。血は抜かれ、生殖器は綺麗に切り取られ、耳(そして時には舌)は取り除かれ、直腸はくり抜かれていた。しかし、牛たちが抵抗した形跡は全くなかった。この異常なパターンには、1970年代に牧場主たちを悩ませた同様のミューティレーションを思わせるものがあった。さらに死んだ動物の近くにビッグフットのような生物が現れたり、空に奇妙な光が見えたりしたこともあった。
「スキンウォーカー? あれはデッチ上げじゃないのか?」とリックは一蹴した。「正直に言うと、こういった話の90パーセントはデタラメだ。真実はこういうことだ。宇宙人は存在している。そしてしばらく地球にいた。我々は2体を捕まえて、彼らのテクノロジーを手に入れた。そして彼らは1965年にセルポ・チームを連れて地球を去っていった。実際にあったのはそういうことだ。残りの話は全部たわごとだよ。特に例のアブダクションなんていうのはね」
「本当に?全部が全部?」
「まあ、一つだけ謎のアブダクション事件があった。(アリゾナ州)フォー・コーナーズの辺りで女性が誘拐されたんだ。ニューメキシコ、コロラド、ユタ、アリゾナの州境が接する辺りだ。あそこは岩とヘビしかない土地でね。彼女はある夜、車に赤ん坊を置き去りにしたまま連れ去られた。彼女の夫は空軍に所属していたので、AFOSIに調査を依頼したわけだ」。リックは笑ったが、突然真剣な顔つきになり、何か未知のものに直面したかのように一瞬黙り込んだ。「あれは何だったのか、結局わからなかったよ。私は家に素晴らしい望遠鏡を持っていて、それをコンピューターに繋いでいるんだ。深宇宙の天体を観察するのが好きで、そこには何があるのだろうと考えてしまう。向こうには何かがある。そう思っているよ。全体の35パーセントぐらいは分かってるると思うが、残りはね……まあ、何が起こっているのか知っているヤツはいる。それは確かなことさ」
我々が話していると、見覚えのある人物がテーブルに近づいてきた。講演の最中、2人の屈強な付き人と一緒にいた、あの風雨にさらされたような顔つきの男だ。彼は我々のテーブルを通り過ぎつつリックに目配せをし、意味ありげに「分かっているよ」といった風に頷いてみせた。我々はそれを見なかったかのように振る舞ったが、私は内心恐怖に震えていた。彼はリックと関係のあるDIAの一人なのだろうか?
スキンウォーカー牧場でのキャトル・ミューティレーションについて話しているうちに、話題はポール・ベネウィッツ伝説の中でも最も奇妙な側面へと移っていった(それはリックが直接関わっていたものでもあった)。それは新たなUFO神話の中でも特に強烈で妄想めいた部分の、その土台を作り上げたストーリーでもあった。ニューメキシコ州の小さな町・ダルシェ(ダルシー)は、アルバカーキの北方約200マイルにあって、コロラド州との境に位置するジカリラ・アパッチ族の居留地であるが、この町を見下ろすメサ(台地)の地下にはエイリアンの基地が隠されているというのだ。
会議が終わって一週間後、ジョン、グレッグ・ビショップと私はダルシェを訪れた。町に入ってまず気づくのは、その小ささと貧しさである。次に目を引くのは、周囲の景色の美しさである。緑豊かな谷は雪を頂いた壮大な岩山の間に広がっており、さらに周囲を圧するようにして、巨大な氷河を思わせるアルチュレタ・メサの壁がそびえ立っている。メサはもっともっと小じんまりした台地で、異星人の地下基地がある場所としてはあまりにお粗末なところだろうと考えていたのだ。しかしそれは実際には陸地に浮かぶ島のようで、長さは約25マイル、幅は10マイル、高さは場所によっては300フィートもある。ここならエイリアンの基地だって幾つも収まりそうだ。
ダルシェでもう一つ目を引くのは、周囲から浮いた感じの「ベスト・ウェスタン・ジカリラ・イン・アンド・カジノ」である。これは町の中心と思しき場所にあり、ハイウェイ沿いに建っている近代的で相当豪華なホテルである。入口の前には2頭の巨大なブロンズの馬が立ち上がっている。客を歓迎するのにはどうかと思うが、ホテルのスタッフは私たちを喜んで迎えてくれた。ギフトショップではUFOのTシャツまで売っていた。そこには「友だちは宇宙人の検査を受けたのに私はこのショボいTシャツだけ」と書かれていた。この目立たない場所がどうして不吉な場所としてここまでの評判を得たのか? その答えは、ポール・ベネウィッツの心の中と、AFOSIが生み出した壮大な幻影の中に隠されているのだ。
■臓器泥棒たち
1979年4月20日はリチャード・ドーティがニューメキシコ州カートランドでAFOSIの任務に就くちょうど一か月前であったが、上院議員で月面を歩いた元宇宙飛行士でもあるハリソン・シュミットはその日、アルバカーキでちょっと前例のないような会議を主催した。会議には、ニューメキシコ州、コロラド州、モンタナ州、アーカンソー州、ネブラスカ州から集まった牧場主や法執行官たちが出席し、彼らは一つの問いに対する答えを求めていた。「誰が、あるいは何が、彼らの家畜を殺し、切り刻んでいるのか?」。この会議にはポール・ベネウィッツも出席していた。そして、おそらくカートランド基地からはAFOSIの代表者も目立たないようにして参加していたのだろう。
多くの牧場主や地元の警察は、こうした殺害の下手人は人間だと確信しており、おそらくは魔女や悪魔を崇拝するカルトが関与しているのだろうと考えていた。しかし、カンザス州立大学で行われた検死が明らかにしたのは、牛は人間ではなく動物に襲われたのだということだった。それでも牧場主たちはこの説明を受け入れなかった。1974年の終わりには武装パトロールを組織し、血塗られた殺害者たちを捕らえる態勢を整えた。が、何も見つけることはできなかった。その間も家畜の死は続いてアメリカ中の牧場地帯に広がり、ついには全国ニュースにまでなった。
オクラホマ州とコロラド州で行われた公式調査はいずれも人間の関与を否定し、こうしたミューティレーションは自然死や捕食者によるものと改めて結論づけた。だが、それでもミューティレーションと見える現象はやまなかったし、ウワサも消えなかった。恐怖の波が広がっていくにつれ、ストーリーはさらに奇怪なものになっていき、ミューティレーションの現場付近で奇妙な光やヘリコプターが目撃されたという報告も増えていった。あるコロラド州の新聞は1974年、或る保安官がミューティレーションの現場で手術用の手袋やメス、そして牛の陰茎が入った軍用バッグを発見したと報じた。が、ミューティレーションにおける最も不可解な点は、犯人が音もなく現場に出入りし、痕跡を残さずに去ることだった。そのため、誰かがこの事件とUFOとの関連を考えるのは時間の問題であった。
1975年、モンタナ州は奇妙な現象の津波に見舞われた。キャトル・ミューティレーション、卵型の航空機や標識のないヘリコプターの目撃、空軍ICBMサイロ上空でのUFOの目撃。そして最も謎めいていたのは、銃撃を受けても平然としているビッグフットのような生物の出現であった。これは単なるカルトの仕業ではない。そんな疑念が強まっていった。調査のほとんどは地元の保安官が行っていた。地域の軍や空軍は何が起きているのかを知っている様子もなく、気にもかけなかった。そして連邦政府は関わり合いになるのを拒んだ。事態は収拾がつかなくなってしまい、牧場主たちは武装した民兵隊を結成して家畜を守ることになった。恐怖は地域社会に広がり、いつパニックが爆発してもおかしくはなかった。モンタナ州の高校では、学生たちが切断犯の最初の人間の標的になるというウワサが広がり、保安官が呼ばれて生徒たちを落ち着かせる事態にまでなった。それはまさに、CIAのロバートソン・パネルが1953年に警告していた非合理的なヒステリーの典型であった。
1970年代後半、ニューメキシコ州はミューティレーションの波に襲われていた。牧場主や地元の保安官は、上空を飛ぶ航空機に向けて銃をメクラ撃ちするようになり、今にも大きな事件が勃発しそうな状態になっていた。1979年のアルバカーキ会議は、シュミット上院議員が、家畜のみならず人間が傷害を負うようなことが起きる前に事態を収拾しようとした試みであった。この会議でポール・ベネウィッツは、ダルシェを拠点とするハイウェイパトロール隊員、ゲイブ・バルデスと初めて出会った。ダルシェは1975年以来、キャトル・ミューティレーションとUFO目撃に悩まされており、バルデスは地元の牧場主たちのために自ら調査を始めていたのである。
参加した会議が終わった翌週、私とジョンは、アルバカーキ郊外にある居心地の良さそうなバルデスの自宅を訪問した。現在は退職しているが、真面目で人当たりの良いメキシコ系アメリカ人である彼は、ミューティレーションの謎に今も強い関心を持っていた。1997年には、ラスベガスのホテル経営者ケビン・ビゲローが率いる超常現象研究組織「ナショナル・インスティテュート・オブ・ディスカバリー・サイエンス」のために、この問題に関する詳細な報告書を執筆していた。ちなみにビゲローは、私たちがラフリンで聞いたユタ州のスキンウォーカー牧場の調査にも資金を提供した人物である。
1970年代にまでさかのぼるバルデスの調査は、特に被害が大きかったマヌエル・ゴメスの牧場にスポットを当てていた。死んだり切断された動物のそばには、キャタピラの跡や紙片、計測器、注射器、針、ガスマスクなどが見つかった。また、ある現場では、レーダーを反射するチャフが一帯を覆っており、それは死んだ牛の口に詰め込まれていた。さらに、一部の動物は骨折していたが、手足にはロープの痕跡があり、宙吊りにされてから地面に落とされたことが示唆されていた。こんなことをした者の正体はともかく、これは人間によるもので、しかも組織的に行われたものだった。
モンタナ州と同様、ミューティレーションはUFOの目撃ラッシュと同期していた。バルデスや同僚たちは奇妙な飛行物体に何度か遭遇していた。ある時、バルデスのチームは野原でオレンジ色の光に肉薄したが、近づくとその光は消えた。それから、目には何も見えなかったのだが、彼らの頭上を芝刈り機のエンジンのようなくぐもった音が通り過ぎていった。これはまた別の時であるが、バルデスと2人の同僚は、円盤型でローターのない、まばゆいほど明るく光る物体を上空に目撃し、その真下にかがみ込むという体験もした。その物体が上空を飛び去った時に聞こえた音は「プップップッ」とか「カチカチカチ」といったもので、先進的な異星人の技術とはおよそ似つかわしくないものだったという。
ダルシェ周辺でのミューティレーションの凄まじさは、元サンディア研究所の科学者、ハワード・バージェスの関心も引きつけた。1975年7月のある晩、バージェス、バルデス、そして牧場主ゴメスの3人は、ミューティレーションの背後に人間がいるかどうかを確かめるため、直感に頼って或る行動に出た。3人は、まず100頭の牛の背中に紫外線ランプを当ててみた。すると、いくつかの牛には紫外線でしか見えない物質が付着していることが分かった。その印が付けられていたのは、すべて1歳から3歳の特定の品種であり、しかもゴメスの牧場で見つかった死んだ牛と同じ品種であった。ゴメスはすぐにこのプロファイルに合致する動物をすべて売り払った。
この発見を基に、3人は犯行の手口を再構成してみた。選ばれた牛にはカリウムとマグネシウムを含む水溶性のUVペイントで印が付けられており、これは犯行が行われる直前にマーキングがされたことを示していた。夜の闇に紛れて、犯行グループが手配した航空機がその地域に現れる。それから、周りからは見えないブラックライトのビームを使って、印の付けられた牛が特定される。選ばれた牛は、おそらくは空からライフルで鎮静剤を打ちこまれ、それからミューティレーションが行われる。それは現場の地上で行われる場合もあれば、運ばれていった他の場所でなされることもある(だから牛の中にはロープ痕が残ったものがある)。バルデスはそう考えた。バルデスは、切断犯たちはアルチュレタ・メサの頂上にある数多くの廃鉱の一つを手術室兼実験室として利用していたのだろうと言った。凄惨な作業を終えると、彼らは切断され血を抜かれた動物を牧場に戻し、それを不幸な牧場主が発見することになる――。
この問題に対するバルデスの情熱に疑いはなかったが、彼は同時に不安も感じている様子だった。ある時、彼はメサの頂上で軍事施設への入り口を発見したとほのめかしたが、さらなる情報を求められると即座に話すことを渋りだした。バルデスは何度かこうやって口を閉ざしたが、どうも彼は「言ってはならないことを言ってしまった」と感じているかのようだった。後に我々は、彼のためらいには相応な理由があったことを知った。1970年代に調査を進めていた際、彼は自分が監視されていると確信し、その疑念は電話機の受話器に仕込まれた盗聴器の発見によって裏付けられたのである。
とまれ、バルデスが私たちに語った内容は驚くべきものだった。コロラドスプリングス近郊のフォートカーソン基地はここから約300マイル北方にあるが、彼の考えによれば、軍はここからダルシェ地域までヘリコプターを飛ばしており、アルチュレタ・メサをキャトル・ミューティレーションの言質拠点として利用していた。さらに彼は、家畜切断犯の航空機に加えて「本物の」UFO、つまり空飛ぶ円盤が、おそらくは別の政府機関によって飛ばされていたのではないかとも示唆した。これは事態をさらに混乱させるため、さもなくば少なくとも地元の住民を混乱させるためだった、と彼は言った――この発言には私たちも困惑したのであるが。
では、バルデスをはじめとする人々がダルシェ上空に出現するのを目撃した、「カチカチ」という音を発する謎の航空機とは何だったのか。それは、陰謀論でよく語られる伝説の「黒くて音を立てないヘリコプター」だったのだろうか。テクノロジー時代における神話として「音を立てないヘリコプター」というのはUFOと同様強力であり、これまでずっと妄想狂が抱くもう一つの幻影と見なされていた。もっとも、もし音を立てないヘリコプターが実在するならば、なぜそれが戦場だとか一番役立つはずの都市作戦で使用されないのかという疑問が生じる。その答えは「それは実際は使用されていた」というものである。我々はそのことを最近まで知らなかっただけなのだ。音を立てないヘリコプターはただ実在するというだけでなく、1972年にはすでに飛行していたことが明らかになっている。それはヒューズ社の500P(Pは侵入者の意)と呼ばれるヘリで、操縦した者たちはこれを「ザ・クワイエット・ワン(静かなヤツ)」と呼んでいた。
国防総省の高等研究計画局(ARPA、現在のDARPA)は、1968年からサイレントヘリコプターを開発しようと試み、そのベースとしてヒューズ500という軽量観測ヘリコプターを使用していた。その成果を現場で活用したのはCIAであり、特殊作戦局航空部門用に2機を購入、南東アジアで秘密任務を行う悪名高きい「スパイ」会社、エア・アメリカに提供した。
このヘリコプターの存在に対して常々どのような議論がなされていたかを考えると皮肉なことではあるのだが、クワイエット・ワンは、ロサンゼルス警察がその活動に際してあまり騒々しくない都市用ヘリを求めていたところから生まれた。ヒューズ社は最初、500型のテールローターのブレードを2枚から4枚に増やし、それらをハサミのように配置することで、騒音を半減させた。ARPAはこのロサンゼルス警察のヘリコプターの話を聞いて静かなヘリコプターは自分たちにも非常に役立つことに気づき、さらなる研究に資金を提供した。
ヘリコプターの「ワップワップ」という音は「ブレード渦相互作用」によって生じる――言い換えれば、ブレードの先端が高速回転によって生じる小さな竜巻を叩くことで発生する。ヒューズ社は、メインローターにブレードを1枚追加し、かつブレード先端の形状を変更することで、この効果をほぼ完全に排除できることを発見した。さらに500型の排気口にはマフラーが取り付けられ、空気取り入れ口には防音板が設置され、機体全体が鉛とビニールパッドで覆われた。その結果、完全に無音ではないものの、その音はヘリコプターのそれとは思われないものに変わった。クワイエット・ワンはほぼ無音というだけではなく、ほぼ不可視でもあった。赤外線カメラを搭載し、灯火を使わずに飛行・着陸することが可能だったからだ。だが、この機能は当時の軍事技術の最先端であったものの、改良初期につきものの多くの問題に悩まされた。
クワイエット・ワンのテスト飛行はエリア51とカリフォルニアで行われたが、その飛行中にいくつかのUFO報告を引き起こした可能性がある。そして1972年、クワイエット・ワンは実戦配備された。CIAの2機の500Pがラオスのジャングル奥深くにある秘密の飛行場に運ばれたのである。クワイエット・ワンの存在は誰にも知らされていなかった。写真撮影は禁止され、このヘリ用に偵察機や衛星の目を逃れるために特別な格納庫が用意された。クワイエット・ワンは非常に静かだった。基地に駐留していた兵士たちは、このヘリが上空を通過する際、その音は遠くを飛ぶ飛行機のそれのように聞こえたと言っている。そんなシロモノを目前にした者はさぞや仰天したことだろう。しかし、そのほとんど魔法のような能力にもかかわらず、クワイエット・ワンは現場ではそれほどうまくいかなかった。1972年12月、一機は敵地背後に盗聴器を設置する任務に成功したが、もう一機は訓練中に壊れてしまった。生き残ったヘリコプターはカリフォルニア州のエドワーズ空軍基地に戻され、解体されたとされる。
クワイエット・ワンの記録はワシントンDCにあるCIAのフロント企業「パシフィック・コーポレーション」に行き着いたが、その先どうなったかは不明で、ヒューズ 500Pや他の「静かな」ヘリコプターについてそれ以降の記録は存在しない。しかしそれは、こうしたヘリが以後製造されなかったということを意味するわけではない。その予算は政府の拡大し続けるブラック・バジェットの中に隠されていた可能性がある――もちろんそんな証拠があるわけでもないが。クワイエット・ワンの話が示しているのは、このような航空機の技術が1972年末にはすでに完全に実現していたということで、「その後継機が1975年までにはモンタナ州やニューメキシコ州上空を飛ぶようになっていたかもしれない」と考えても、そこにさほどの飛躍はないということである。この地域で目撃された謎のヘリコプターとミューティレーションの因果関係を証明することはできないけれども、ゲイブ・バルデスと彼の仲間たちは、ダルシェのあの夜、頭上を急襲された。そしてミューティレーションされた家畜のそばには誰かがガスマスクや軍の備品を残していった。なお疑問は残る。誰がやったのか。そしてなぜ?
■狂った牛と平和的な爆弾
ハリソン・シュミットの会議の後、すなわち1980年に出たFBI報告書が結論づけたように、いわゆるキャトル・ミューティレーションのいくつかは動物の自然死や捕食者の襲撃によるものであって、それが不安を感じた牧場主によって何やら邪悪なものへと変えられてしまった可能性が高い。しかし、捕食動物が牛にUVペイントをつけたり、ヘリコプターを飛ばしたり、残骸を残したりしていたという考えに納得できないなら、そして人間ではない宇宙人や悪魔といったものを持ち出さないのであれば、犯人として残るのは人間である。
パニックが起きた初期、牧場主や報道機関は、犯人をカルトの信者、つまり悪魔崇拝者やウィッカ信者、あるいは変質者と考える傾向があった。未確認の目撃証言の中には、ローブを着た人々が畑や道路沿いを歩いていたというのもあるが、こうした不気味な輩に話しかけたり、その行き先を確認したりした者はおらず、この線の調査はすぐに行き詰まってしまった。ミューティレーションの現場の多くがアクセスしにくい場所にあること、動物の不審死には奇妙な光やヘリコプターの目撃がつきものであることから、調査官たちは別の方向に答えを求めることになった。
1975年にモンタナ州でミューティレーションが相次いでいた間、地元住民はその時期にICBM(大陸間弾道ミサイル)サイロの上空で目撃されていた謎の光と動物の死とを結びつけた。少なくとも幾つかの事例において、その光体は、ダルシェ周辺で「プップップッ」という音を立てながら飛んでいるのが目撃された飛行機と同じものだったのではないか?モンタナ州の核ミサイルサイロ上空を飛んでいたのは特異な照明装置を備えた静かなヘリコプターで、その目的なサイトの警備体制をテストし、担当者が謎の航空機にどう反応するかをチェックするためだったのではないか? 兵士たちは、その航空機に発砲したりスポットライトを当てたりしないよう命じられていたと言われている。もしそれらが本当にどこから来たのかわからないものであったのなら、これは奇妙な命令である。あるいは、その侵入行為は、その少し前にノースダコタ州ネコマに建設された弾道ミサイル防衛システム、「セーフガード」の目標追尾能力をテストするためだったのかもしれない。この複合システムは全国的な防衛ネットワークの一部として唯一完成したものだったが、1976年に解体された。おそらくそれは「友好的な幻の航空機」を発見するのにあまり役立たなかったのではないか? いずれにせよ、そのどちらの説でも――あるいはまた別のものでもいいのだが――地元の法執行機関が軍によってツンボ桟敷に置かれていたことの説明はつく。彼らは単に知る必要がなかったのだ。
こうしたモンタナ州での事件は地元の新聞ではしばしば報じられていたが、全国紙で取り上げられたのは4年後で、1977年に『ナショナル・エンクワイアラー』へのリークがあった後のことだった。その直後、つまり1978年にはエンクワイアラー誌にニセのエルスワース文書が送られたワケだが、そこには事件をETやUFOに結びつけようという狙いがあったようだ。それはおそらく、全国紙がさらなる調査を行うことを防ぐための策略であった。大手新聞の記者たちにとってICBM事件に関心を持つことは、すわなち変人やUFO陰謀論者、そしてより悪いことには『ナショナル・エンクワイアラー』と同列に見られてしまうことを意味していたからだ。
我々はミューティレーションが如何に行われたかについて幾つかの手がかりを得たが、なおそんなことが行われたのかという動機を問わねばならない。「ETによる遺伝子実験」説を除けば、この現象は疫学に関係していると考えるのが一番もっともらしい説明ということになる。多くの研究者は、このミューティレーションが秘密の研究や実験の一環であった可能性を提起している。切断者が取り去るのは、ふつう唇、舌、肛門、乳房、そして性器であるわけだが、これらは汚染や感染の影響を最も受けやすい部位である。つまりは動物が食物を摂取したり排泄したりする柔らかな部分であり、バクテリア、ウイルス、化学物質が最も出入りしやすい部分、そして人間からすればそうしたものを一番見つけやすい場所である。さて、それではその正体不明の人間は一体何を探していたのか?
一つの可能性は放射線である。その意味では、ダルシェ周辺というのはアメリカの核の歴史においてとりわけ特異な位置を占めている。ダルシェの南西約25マイルに位置するカーソン国立森林公園には、周囲が開けた場所に小さなプレートが設置されている。そこには次のように書かれている。
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低生産性ガス貯蔵層に刺激を与えるためアメリカで最初に行われた地下核実験の場所。29キロトンの核爆弾がこの場所の地下4227フィートで爆発した。(1967年12月10日)
この爆発は、核の平和利用を目的とした「プラウシェア計画」の一環で、天然ガスで満たされた直径80フィート、高さ335フィートの空洞を作り出し、一定の成果を収めた。残念ながらガスは爆発によって危険なレベルの放射能を帯びてしまったため、商業的価値は失われ、この場所は永遠に封鎖された。ミューティレーションを行った者たちは、このガスバギー実験による放射線が周辺地域に漏れ出し、環境に与えた影響を調べていたのではないだろうか?
より最近では、分子生物学者のコルム・ケレハーが、キャトル・ミューティレーションとプリオン関連疾患、すなわち狂牛病(BSE)と呼ばれるウシ海綿状脳症の広がりとの関係を指摘している。ケレハーが示唆するところでは、ミューティレーションは野生の鹿やエルクに見られる慢性消耗病(CWD)の発生と結びついており、CWDやBSEを引き起こすプリオンは野生の鹿から家畜の牛へと種の壁を越えて移り、最終的には人間の食物供給に入り込んだのではないかという。彼は、このプリオン感染の起源はメリーランド州のベセスダやフォート・デトリックにある米政府の研究所にまでさかのぼることができるとしており、そこには致命的な神経疾患であるクールー病に感染した人間の脳が1950年代後半からずっと保管されているのだという。
この二つの疫学的説明のいずれもが、ミューティレーション現象に関してしばしば提起される疑問の一つに答えている。もし政府や他の機関が家畜の不審死の黒幕ならば、実験用に自ら牛を購入して繁殖させればよいではないか、という問いだ。その答えは「彼らが必要とするサンプルは、最終的に私たちのハンバーガーになる牛そのものだからだ」ということになる。しかし、なぜ彼らは遺体を置き去りにするのだろうか。これは答えるのがより難しい問題である。遺体を処分するのが難しかったのかもしれないし、「牧場主が高価な家畜の保険を請求できるようにしてやろう」という意図があったのかもしれない。あるいは、「牧場主たちは恐怖のあまりさらなる調査など行わないだろう」と考えたのかもしれない。また、悪魔崇拝や血に飢えた宇宙人のウワサが広まったことで、切断者たちはその奇妙な行為によって生まれた混乱が自分たちに有利に働くと感じたのかもしれない。
本当のところは、我々にはまだ分かっていない。しかし、ミューティレーションは北米や南米で今なお続いている。牛の群れがいる場所であれば、そう遠くないところに切断者たちもいるのだろう。それはUFOの目撃報告も同じことである。
■エイリアン基地の建設方法
1979年にアルバカーキで開かれたミューティレーション会議で、ゲイブ・バルデスがポール・ベネウィッツに出会った頃までには、牛の死亡事件とUFOとを関係づける考えはしっかり確立されていた。そして、1980年5月25日、コロラドで発生したミューティレーションをテーマに、リンダ・モールトン・ハウが脚本・制作を手がけたドキュメンタリー『奇妙な収穫 A Strange Harvest』が、ET犯人説による説明を国中に広めた。このドキュメンタリーには、エイリアンに誘拐された人物に対してコロラド大学の心理学者でUFO研究者のレオ・スプリンクルが行った逆行催眠の模様も描かれていた。こうなってみれば、スプリンクルとベネウィッツがルナ・ハンセンを催眠にかけた際(彼女は同年5月初めに「アブダクションされた」といってベネウィッツに助けを求めてきたのだ)、彼女が「連れ去られた地下基地で、子牛と人間が切断されるのを目撃した」と述べたのも決して不思議なことではあるまい。
アルバカーキでの会議の後、ベネウィッツとバルデスは文通を続け、最終的にはダルシェ地域でミューティレーションの謎を解明するための共同調査を行うようになった。ダルシェは、ベネウィッツのET神話において徐々に重要性を増していき、1981年半ばまでには、彼は「エイリアンたちはアルチュレタ・メサの奥深くにある基地からアブダクションとミューティレーションのミッションを実行している」と信じるようになった。もちろん、彼はこのことをリチャード・ドーティやビル・ムーアに伝えた。この時までAFOSI(空軍特別捜査局)が行ってきた工作は、ムーアを経由して渡すニセ文書や、コンピュータを通じて送られてくる「ETのメッセージ」でベネウィッツの妄想をさらに煽ることであった。ドーティの役割は、友人としてベネウィッツに接近し、UFOやETについての彼の研究が「正しい方向に進んでいる」と穏やかに励まし、後押ししていくことだった。そこで事態はさらに劇的な展開を見せ始める。
ベネウィッツの関心をカートランドから逸らすべきタイミングだと考えたAFOSIは、彼が地下基地だと信じているアルチュレタ・メサを、よりそれらしく見せかける準備を始めた。夜の間に古びた軍事装備が曲がりくねった山道を越えてメサの頂上まで運ばれ、小屋や壊れた車両、通気孔といったものが計算づくで配置された。そこが活動の行われている場所であるかのように装ったのである。さらに低木を取り除いて、そこがヘリコプターの着陸パッドに――そしておそらくはUFOの着陸地に――見えるようにした。ドーティはさらに、雲の上に光を投影するシステムを設置したとも言っている。UFOの目撃報告を増加させて、ベネウィッツやバルデス、その他の人々を引き続きその場所に引きつけようとした、というのである。
地下基地にはスタッフもいるよう見せる必要があったため、カートランドの特殊部隊ユニットがその地域に派遣され、忙しく活動しているように見せかけた。AFOSIは、メサの反対のコロラド側にあるフォート・カーソン陸軍基地にも連絡し、その場所を訓練演習に使用するよう提案した。ドーティによれば、AFOSIはこうした陸軍演習に補助金を提供し、「こうした動きは反ソビエトの諜報活動の一環なのだ」と説明した。これはある意味で本当にそうだった。ある時、ゲイブ・バルデスとテレビクルーは、ベネウィッツと共に地元のUFO目撃についてのニュースを撮影していた。すると、ブラックホーク・ヘリコプターが彼らのヘリを追尾してきた。慌てたニュースクルーは着陸し、ブラックホークもそれに続いた。バルデスは乗っていた黒ずくめの兵士たちに対し、自分はハイウェイ・パトロールマンとしての管轄権を有していることを主張して怒りをぶつけたのだが、追い払われる前に一人の兵士のパッチをよく見た。それはフォートカーソンのエリート部隊であるデルタフォースのものだった。
ベネウィッツ自身も熟練したパイロットだったから、彼はエイリアン基地の入口を探してメサ上空を定期的に飛行していた。また、リック・ドーティとカートランドの警備主任であるエドワーズ大佐に案内され、少なくとも3回、通気孔やその他の設備が設置されている場所を見せられた(もちろんそれらの設備はAFOSIが取りつけたものである)。AFOSIの勧めもあって、ベネウィッツは基地に関する報告を定期的にUFOコミュニティに配布したが、そこには自分で撮影したボンヤリした「UFO」だとか、不明瞭なメサの地表の写真も添付した。こうした報告は、ダルシェのエイリアン基地にまつわる精巧な神話を生み出したが、そうした神話の中には基地内部の詳細な図だとか、米軍と基地内のET居住者の間の壮絶な対決を描いたストーリーなどといったものも含まれていった。
もっとも、ベネウィッツは1985年の後半、実際に何かしら普通でないものに出くわしていた可能性がある。ベネウィッツがいつものようにカメラを携えてメサ上空を飛行していると、メサの最もアクセス困難な場所の一つで、彼が言うところの「墜落したデルタ翼の航空機」を発見した。ベネウィッツはすぐに、この目撃情報をゲイブ・バルデスやビル・ムーア、ニューメキシコ州のピート・ドメニチ上院議員などを含む幅広い連絡先に報告した。彼はその墜落機の写真を数多く撮影し、いくつかを米空軍に提供したが、その他の写真は盗まれた可能性が高い。彼の当時の手紙によると、これはよくあることであった。現在残っているのは、彼の描いた墜落機の図と、片付けられた後の現場写真だけである。ベネウィッツは手紙の中でこう言っている――その残骸は米空軍が秘密裏に飛ばしていた核動力のテスト機なのだが、一帯をコントロールしているのは誰かを政府に思い知らせるべくエイリアンによって撃墜されたのだ。現場には墜落機の燃料電池から漏れ出た放射線が染みこんでおり、ベネウィッツはこのことを非常に案じていたという。
同年11月初め、ゲイブ・バルデス、ベネウィッツ、ジカリラ族の一人、そしてドメニチ上院議員から派遣された政府科学者は、ガイガーカウンター持参で苦労して現場に到達した。放射線は検出されなかったが、墜落の痕跡は見つかった。倒れた木や地面に残った溝、そしてバルデスによると、政府支給のボールペンが一本あったという。
ベネウィッツが目撃したのは墜落したステルス機だったのだろうか? それは十分にあり得ることだ。F-117A ステルス戦闘機は少なくとも1981年から飛行していたが、1988年まで極秘にされていた。ベネウィッツの描いた図により類似しているのはB-2 ステルス爆撃機であるが、その開発は1981年に始まり、1985年までには試作機が飛行していた可能性がある。もしその飛行機の一機がメサで本当に墜落したのなら、空軍が放射線の話をでっち上げて、掃除が行われる間、ベネウィッツや他の好奇心旺盛な者たちを遠ざけようとした可能性がある。この時点でドーティはすでにこの事案から外れていたが、AFOSIは依然としてベネウィッツを監視していた。「道に迷った物理学者がエイリアンを探していた場所で偶然空軍機の残骸を見つけてしまった」ということであれば、その皮肉にAFOSI本部では目を丸くした者がいたに違いない。
■ダルシェへの道
これらすべては20年以上前の話であるが、ダルシェ周辺では今でも時折UFOが報告されており、この場所には未だ揺るぎない神秘のオーラが漂っている。奇妙な過去の痕跡が、これから現代の好奇心旺盛な探求者たちによって発見されるようなことはあるのだろうか?
ゲイブ・バルデスは、ジョンと私に「かつてミューティレーションの実験室があったかもしれないメサの古い鉱山へと続くアクセス用のトンネルを知っている」と話してくれ、嬉しいことには私たちとグレッグ・ビショップをそこへ案内してくれると約束してくれた。しかし、私たちに出かける準備ができた頃には、ジカリラ族が一帯でのテレビクルーの撮影を禁止することを発表していた。一つの理由としては、ゲイブが日本の撮影クルーを許可なくメサに案内したことがあったという。秘密の実験室には行けないことに失望したが、私たちはそれでもダルシェを訪れることにした。
ジョンが山の中で撮影をしている間、グレッグと私はメサに近づき、万が一質問された場合に備えてウソの話を作り上げた。グレッグは熱心なパラグライダー乗りだったが、アルチュレタ・メサというのは小さなモーターとパラシュートを背に大空に飛び込むのには最適な場所だった。グレッグのパラシュートをトランクに積み込んだ我々は、メサの麓へと続く小さな曲がりくねった道を進み、上へ登っていく。メサの底まで約3マイルの道のりで、私たちは牛たちや雷で焼かれた木々を通り過ぎた(牛は無事だった)。グレッグと私はメサの引力、未知のものが放つ緊張感を感じ取った。それはまるでラジオ信号のように頂上から発信されているかのようだった。ここは我々にとっては巡礼の地であった。頂上に近づくにつれ、道端に明るい赤い看板が現れ始め、ここはジカリラ族の私有地であると警告していた。許可なく入ると逮捕され、多額の罰金が科せられることにもなりかねない。ダルシェの留置所で一夜を過ごすつもりはない。私たちは引き返して、町の別の場所を探索することにした。
ベストウエスタンホテルの近くにある、寒々しいコンクリートで覆われた集会所で、私たちは二人の酔っ払ったインディアン、ハンフリーとシャーマンに出会った。いずれも年齢はおそらく40代。アルコール依存症はインディアン居留地における重大な問題である。失業率は高く、インディアンの住民はダルシェで生活するためにかなりの補助金を受け取っているが、それでも多くの人が酒に溺れてしまう。
二人のうち、より酔っていたのは、狂気じみた目をした長髪のハンフリーであった。シャーマンはかなり整った外見で、悲しそうな表情をしていた。彼らは異父兄弟だと私たちに話してくれた。多くのインディアンと同じように、シャーマンは幼い頃に複数の居留地を転々としていたが、現在はダルシェが自分のふるさとだと感じていた。ハリウッドの西部劇で育った私たちは、インディアンを砂漠の住人と考えがちだが、シャーマンは、彼の部族であるアパッチ族は19世紀には緑豊かなカナダに起源を持ち、そこから南の砂漠に追いやられたんだと教えてくれた。そしてカナダに来る前は……彼らは地球の中心から来たのだという。
シャーマンは自分がアルコール依存症であることを認めたが、かつては部族の警察官をしており、ゲイブ・バルデスを知っていると言った。彼はゲイブが良い人間だと言った。彼は私たちがダルシェで何をしているのか尋ねたので、私たちはグレッグのパラグライダーのことを話し、メサから飛んでみたいのだがどうだろうと聞いてみた。するとシャーマンの顔は真剣な表情に変わった。
「いや、あそこには行けない。あそこは危険地帯だ。危ない」
私たちは耳をそばだてた。彼はUFOだとかミューティレーションに気をつけろというのだろうか?
「あそこはとても危険だ。気流がメサの壁に向かって吹き返してくるから、ひょっとしたら死ぬかもしれない」
そういうことか。私たちは話題を変えてみた。あそこにはよく行くのかとシャーマンに尋ねた。
「ああ、よく行くよ。ダートバイクで行くのが好きだ」
「じゃあ、何か変わったものを見たことはあるかい? なんでこんなものが、ってヤツ」
「ああ、もちろんだよ。たまに動物の角を見つけることがあるんだ、牛の角だ。売り物になるんだ!」
その時、ハンフリーがふらふらと私たちの方へやってきた。目がぐるぐる回り、腕を振り回している。
「俺もあそこに行くよ……牛を追っていくんだ……そうさ……でもあのメサには行かないほうがいい、ああ絶対にだ。あそこでは悪いことが起こるんだ……あそこに行くやつらは、飲みすぎて……そして転落するんだ…」
ハンフリーは言った。「おい、秘密のインディアンの魔法を見たいかい?」
「もちろん」
東に数マイル離れた山々の上に集まり始めた暗い嵐の雲に向かって、ハンフリーは腕を振った。彼は詠唱し、何かポーズを取り、最初に空を、次に地面を指でさしてみせた。ささやくような、あるいは何やらつぶやくような言葉は私には理解できなかったし、おそらくアパッチ語を話せる人にも理解できなかったのではないか。それから彼は一瞬しらふに戻ったような顔で私を見た。
「自然というものをお前に見せてやろう!」
狂ったように笑いながら、ハンフリーは最後に腕を上げた。私が笑いを返そうとしたその瞬間、2つの雷が近くの丘の頂上に轟音を立てて落ちた。
私は感銘を受けた。そう伝えると、彼はもったいぶった様子で私の耳元に近寄り、ささやいた。「見たことは誰にも話すな」。それから私の手を握って笑ってみせた。良いショーを見せられたことに満足したように。
その夜、安全なベストウエスタンホテルの部屋に戻った私は、奇妙な夢を見た。ジョン、グレッグと私は、ダルシェの風景の中を歩いていた。広大な平原は険しい岩山に囲まれていた。19世紀の幌馬車隊がゆっくりと、きしみながら私たちの方に向かってきていたが、やがてその姿は遠くに消えていった。隊の先頭には、風雨に晒されたような感じの白髪交じりの男がいて、老いを感じさせない日焼けした顔はステットソン帽の乾いた革と一体化しているようであった。その男は帽子のつばに手をかけてうなずき、微笑んだ。私は笑みを返し、それから振り返ってみた。ジョンとグレッグに「時代錯誤のようだけれど心地よいものじゃないか」と言ううために。