■第13章 悪い情報
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調査員に正しい情報を7年間与え続けてみよう。そして8年目の最初の日、あなたが彼を思うがままにしたいと考えて間違った情報を伝えたら、く彼はそれを信じてしまうかもしれない。――『心理戦ケースブック』 (1958年)
「我々はリンダに良い情報と悪い情報を渡した。彼女は悪い情報を選んだ」。リックの言葉は私の心にこびりついて離れなかった。ラフリン・コンベンションが終わろうかという頃、私はディーラーズルームに戻った。そこではたくさんの人々が自分の商品を値引きして販売していた。数多くの本、数多くの雑誌、そして大量の知識。私はちょっと悲しい気持ちになって、こんな風に考えた。ここに並んでいるのは全部悪い情報なのだろうか。仮にそうだとしたら、これはどこからやってきたのだろうか。
■ブラックゲーム
第二次世界大戦中に若き印刷工であったエリック・ハウは、何の拍子か、英国の政治戦執行部(PWE)で働くことになった。彼が部下として就いたのはデイリー・エクスプレスの元外報記者であったデニス・セフトン・デルマーであった。デルマーは英国の敵を欺き、士気をくじいてしまう策を編み出す「ブラックアート」の専門家で、自らを兵士というよりは芸術家だと見なしていた。デルマーの最も悪名高いプロジェクトの一つとして「グスタフ・ジークフリート・アインス」というラジオ局の運営があった。この局は、1941年6月から1943年12月まで、謎のドイツ貴族「デア・シェフ」(指導者の意)による反ナチスの激しい演説をドイツに向けて放送した。デア・シェフのセンセーショナルな演説は、イギリスの情報機関が集めた本当の情報と、政治的腐敗や性的放蕩といった話も含めたナチ高官への誹謗をまぜこぜにしたものだった。デルマーは次のように書いている。「我々が広めたいのはドイツ人たちに打撃を与えて彼らを混乱させてしまうようなニュースだ。それは高尚な政治的動機というよりは普通の人間の弱さに訴えかけることで人々の政府への不信を募らせ、彼らが政府に背くよう仕向けていくことになるだろう」
デルマーのもとで働いていたエリック・ハウの専門分野は印刷で、その仕事は切手や配給カードの偽造にはじまって、より精巧な出版物の製作まで手掛けていた。その一例が「仮病の人 the Malingerer」として知られる104ページの小冊子で、これはヨーロッパ全域のドイツ軍に広く流通した。この小冊子ではヴォールタートと名乗る医学博士(ドクトル・ドゥ・グッド)が、兵士たちが病気や負傷を装って軍務を回避するための様々な方法を推奨していた。その内容は激しい症状を引き起こす薬草の蒸留法から始まって、医師の処方箋の偽造法、靱帯損傷や記憶喪失を装う方法にまで触れていた。この冊子は敵に相当な影響を与えたようである。というのもすぐにドイツ製のバージョンが現れて、それが連合軍兵士の間でも広がったからである。
PWEの最も奇抜な印刷プロジェクトの一つとしては、1942年から1943年までの間に6号まで発行された偽の占星術雑誌「天頂 Der Zenit」があった。エレガントなデザインのこの雑誌は、もともと迷信深かったナチスの心理に影響を与えたのだが(ヒトラーとヒムラーはいずれもお抱えの占星術師を雇っていたほどだ)、その記事は、占星術の見地からヒトラーの主治医の選択からUボートの発進のタイミングに至るまで、ありとあらゆることに疑問を唱えていた。また、この雑誌は巧妙に歪曲されたデータやその解釈をデッチ上げるため本物の占星術師を起用しており、それは多くの真っ当な占星術師ですらしばらくは騙されてしまうほどの説得力を持っていた。こうしたブラックプロパガンダの効果はすぐに明らかになるわけではなく、数ヶ月、時には数年を要することもある。しかし、一度疑念の種が撒かれれば、それはやがて不信の森へと成長する可能性があるのだ。
デルマーのPWEはほぼ白紙の状態から立ち上げられたのだが、第二次世界大戦後、ニセ情報の技術は次第に洗練されていった。冷戦時代には、KGBやアメリカの数多くの情報機関がそれぞれ偽造専門部門を持つようになった。ソビエトがニセ情報活動に費やした金額は推定で年間約30億ドルだが、アメリカはそれを上回る規模で、CIAだけで35億ドルをブラックアート(ないしはグレイアート)に投入していたと推定される。
両陣営がよく用いた手法の一つはニュース記事を「仕込む」ことであった。それは、国内外のニュース機関にエージェントを配置したり、あまり浸透できていない地域ではジャーナリストや編集者を買収したりすることで行われた。世界的なネットワークニュースメディアの成長により、例えばナイジェリアで仕込まれた話が数ヶ月、あるいは数年後になって対立国のメディアに毒のようにしみ出していく、といったことも起きるようになった。
KGBの偽情報専門部門である「アルファ部隊」が「積極的措置」として行った工作のうち最も成功した作戦は、1983年7月16日、インドの親ソ系日刊紙『パトリオット』に掲載された投書から始まった。そのタイトルは「エイズはインドに侵入するかもしれない:アメリカの実験によって引き起こされたナゾの病」で、執筆者は匿名の「著名な科学者と人類学者」とされた。内容は、エイズウイルスはメリーランド州フォート・デトリックでペンタゴンの生物兵器専門家によって作られたもので、もともと黒人やアジア人を標的にする「エスニック・ウェポン」として開発されたことをほのめかしていた。
このストーリーが成功への足掛かりを得たのは2年後だった。1985年10月、ソ連の週刊誌『リテラトゥールナヤ・ガゼータ』は、「インドで尊敬を集めている新聞パトリオット」からの引用だとしてこの手紙を掲載した。この新たなバージョンでは、アメリカがエイズを媒介する蚊を繁殖させ、他国に駐留している米軍兵士に感染させているという話が付け加わっていた。しかし快心の一撃が放たれたのは1986年だった。この年、ジンバブエで開催されたエイズ会議で、東ドイツの3人の科学者(東ベルリン生物学研究所の前所長ヤコブ・ぜーガル教授、その妻であるリリ・ぜーガル博士、そしてロナルド・デームロウ博士である)がこのテーマに関する論文を発表したことで、学術的な権威が付与され、まじめに考察される対象になったのである。
工作は成功した。1986年8月には、この説が『ロイヤル・ソサエティ・オブ・メディシン・ジャーナル』誌上で公然と議論され、10月26日には英国の日曜紙『サンデー・エクスプレス』の一面に「エイズは実験室で作られた-衝撃の事実」という見出しが踊った。この時点で、物語は制御不能となった。クウェートの新聞『アル・オアバス』にはエスニック・ウェポンの発射シーンを撮った写真が掲載され、ロイターにより配信されたのち、1987年3月にはアメリカのCBSイブニングニュースでも報じられるに至った。インドの新聞の取るに足らない記事から始まった話が、今や何百万ものアメリカの家庭に放送され、何百万ものアメリカ人の心に浸透していった。
ソビエトはそのようなストーリーを創作したことはないと終始主張していたが、1988年末、アメリカの圧力を受けて、これ以上この話を積極的に広めないことに同意した。しかし、すでに損害は生じていた。エスニック・ウェポンには「プラス・モービフィック・プラス」というコードネームさえ与えられていた。この話は主流メディアから姿を消したが、エイズ兵器の話はアンダーグラウンドの陰謀文化の中で根強く残り、今でもインターネット上で生き続けている。
当初は否定に回っていたKGBも、ソビエト連邦崩壊後には真相を明らかにした。1992年3月19日、ロシアの新聞『イズベスチヤ』で、ロシアの情報機関長官だったエフゲニー・プリマコフ(1998年に首相になった人物である)は、そもそもの話はアルファ部隊の特別工作によるものだったと認めた。「アメリカの科学者たちの巧妙な陰謀を暴露した記事は、KGBのオフィスで作成されたものだ」と彼は述べている。「プラス・モービフィック・プラス」は、冷戦中に両陣営のニセ情報の作り手によって作られた多くの話のなかの一つに過ぎないのだろう。
読者諸兄は「こんな話とUFOにどんな関係があるのか」とお考えかもしれない。その答えはこうだ――こうした話は一から十までUFOと関係しているのだ。1980年代半ば、PWEの文書偽造技術とKGBのアルファ部隊が巧妙に用いたターゲット型プロパガンダが融合するかたちで、アメリカで力を得つつあったUFOコミュニティの団結や信用をほとんど壊滅させてしまうような攻撃が行われた――おそらくそれは、空軍が関わった情報戦の中にあって最も壊滅的な集中攻撃というべきものであった。
■MJ-12
1984年12月11日、テレビプロデューサーであり、ビル・ムーアと共にUFOの調査を行っていたジェイミー・シャンデラの元に、アルバカーキの消印が押されたマニラ封筒が届いた。その中には35mmフィルムがあり、1952年11月18日の日付が入った文書が撮影されていた。その文書は、CIAの初代長官だったロスコー・ヒレンケッター少将によって作成されたもので、現職大統領であるドワイト・アイゼンハワーに対し、マジェスティック12作戦の存在を説明するものだった。「マジェスティック」または「MJ-12」と呼ばれるグループは、1947年のロズウェルUFO墜落事件の後、その残骸と乗員を研究するために選ばれた12人の科学者、軍関係者、及び情報機関の専門家で構成されていた。文書には、グループの研究を支援するため、データを収集する組織として「プロジェクト・サイン」、次いで「プロジェクト・グラッジ」が設置されたことも記されていた。さらに文書は、1952年にUFOの目撃情報が急増したことに触れ、MJ-12プロジェクトは新しい大統領の政権下でも「厳格なセキュリティ対策を課した上で」継続されるべきだと結論づけていた。ブリーフィング文書には添付資料リストも含まれていたほか、1947年9月24日付でハリー・トルーマンが署名したメモがプロジェクトを開始する旨を伝えていた。
政府のUFO文書に関しては、この時点でムーアは散々はぐらかされるような体験をしてきたが、「マジェスティック12」というグループにはなじみがあった。というのも、それはポール・ベネウィッツに渡すようリック・ドーティから託された「アクエリアス文書」に出てきたものだったし、実際この文書は彼らが準備していた本のベースになるはずのものだった。過去何年か、彼らは小出しにされた情報をたどってきたわけだが、この新たな文書というのは辿り着いた先にあった宝物なのだろうか? これは大鉱脈なのだろうか?
この文書をどうすべきかと考えたムーアは、しばらく手元に置いておくのがベストだろうと考えた。もっとも、限られた研究者仲間数人にはコピーを送っておくことにし、その中にはロズウェル研究者であるスタントン・フリードマンや航空宇宙産業に携わっていたリー・グラハムがいた。こうして何も起きぬまま時間が経過したことに、荷物の送り主は苛立ったのだろう。それからの数か月、ムーアとシャンデラの元にはハガキが何通か届いた。この時の消印はニュージーランドで、差し出し人はエチオピアのアディスアベバ、ボックス189とあった。ハガキには「リースズ・ピースズ」や「スートランド」といった短いフレーズが書かれていたが、ムーアたちには何の心当たりもなかった。その後、これは思いもかけない偶然が起きたというべきなのだろうが、カナダ在住のフリードマンから、「国立公文書館で最近機密解除された空軍文書があるので見てきたらどうか」とムーア、シャンデラに連絡があった。この国立公文書館がある場所は、メリーランド州スートランド。同文書館の主任アーキビストの名前はエド・リースだった。
果たせるかな、新文書コレクションのボックス189の中に、シャンデラとムーアはMJ-12文書を裏付けるように思われる証拠を発見した。その決定的証拠というのは1954年7月14日付のメモで、国家安全保障会議のメンバーで大統領補佐官のロバート・カトラーが、空軍参謀総長でMJ-12メンバーとされるネイサン・トワイニングに、MJ-12会議の日程変更を通知したものだった。
このメモにはアーカイブのカタログ番号が付いていなかったが、当時カーボンコピー用に使われていた「オニオンスキン」紙に印刷されていたため、一連の文書が撮影されていたフィルムよりは信用できそうだった。ただし、この時代のカーボンコピーにしては奇異に感じられる点もあった。この紙は折りたたまれており、まるでシャツのポケットに入れられていたもののようだった。
MJ-12文書を公開しようというシャンデラとムーアの気持ちを後押しするために、何者かが彼らににこの文書を発見させようとしていたのは明らかだ。しかし誰が? それに公文書館に密かに文書を持ち込むようなことがどうしてできたのか? 国立公文書館のセキュリティは厳重で、文書をシステムに滑り込ませることは、不可能ではないが難しい。もしそれが偽造であったとすれば、おそらく公文書館に収められる前にボックス189に挿入されたのだろう。しかし、もしそうであるならば、なぜ他の文書にはあるカタログ番号が付いていなかったのか?
ムーア、シャンデラ、そしてフリードマンはMJ-12文書を極秘にしていたが、その存在はUFOコミュニティの内輪に徐々に漏れ始めた。そして、何者かはその情報をさらに広めたいと思っていた。1986年、英国で最も有名なUFO研究者であるジェニー・ランドルズは、匿名の情報提供者から、アメリカ政府がUFOの証拠を隠蔽しているという証拠を提示された。しかし、彼女は騙されることを警戒し、その資料を受け取らなかった。
1987年初夏。同じくイギリスの新進気鋭のUFO研究者ティモシー・グッドは彼女のように選り好みはせず、エサに飛びついた。彼は、MJ-12文書を7月に出版予定の自著『アバブ・トップ・シークレット』の付録として発表することにしたのである。この話がビル・ムーアの元に伝わると、彼は公開すべき時は来たと判断し、1987年6月13日の全米UFO会議で発表した。主流メディアはすぐにこの話を取り上げ、数日内にはABCテレビの有名なニュース番組「ナイトライン」や『ニューヨーク・タイムズ』で報道された。
KGBのエイズ捏造と同様、MJ-12文書がどこか遠くの曖昧な話から全国ニュースに登場するまでには3年を要した。一方、ティモシー・グッドの『アバブ・トップ・シークレット』は国際的なベストセラーとなり、再びUFOが世間の注目を集めた。これこそが偽情報のあるべき形だった。MJ-12文書はUFOコミュニティ全体に巨大な亀裂を引き起こし、「この文書こそ長年待ち望んでいた証拠だ」として信用する者と、それはただの捏造だと考える者との間に対立が生まれた。25年が経過した今もなお、その対立は続いており、新たなMJ-12関連文書が次々と現れ、新たな論争と混乱を巻き起こしている。
1988年、FBIの防諜部門は、空軍特別捜査局(AFOSI)の依頼でMJ-12文書の調査を行った。FBIの訓練生が「トップシークレット」の印が押された文書のコピーを所持しているのが見つかったのである。これは機密情報の漏洩として、重大な連邦法違反となる可能性があった。
FBIの長期にわたる調査は、調査ジャーナリストであるハワード・ブラムが著書『アウト・ゼア』で詳述している。FBIの捜査官たちは文書のコピーを多くの政府機関に見せたが、どの機関もその文書について何も知らなかった。次に彼らは敵国であるソ連や中国に目を向けた。FBIは、CIAが冷戦工作の一環として敵対国にUFOの話を広めていたことを知ったため、MJ-12文書はその報復の一環ではないかと考えたのである。しかし、この仮説を裏付ける証拠は見つからなかった。
次にFBIは、AFOSI自体に――とりわけカートランド基地のAFOSIチームに目を向けた。だが、やはり手がかりは得られなかった。ブラムはこう記している。
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彼ら全員が、例外なくMJ-12文書の作成には関与していないと断言した。さらに問題を複雑にしたのは、多くの調査官が突然退職を決めてしまったことであった。彼らは今や民間人であり、そうなってしまえば――これは彼らが強硬に主張したところであり、或る時には呼ばれて立ち会った弁護士も繰り返し訴えたところであるが――彼らは今や民間人として憲法上のあらゆる権利を有していた。
あるFBIの捜査官は憤慨しつつこう結論づけた。「我々はこのMJ-12文書に関してワシントン中のあらゆるドアを叩いた。そこで分かったのは、政府は自分たちが何を知っているのかすらわかっていない、ということだった。秘密の層があまりにも多すぎるのだ……この文書が本物かどうかを永遠に知ることができないとしても、私には何の驚きもない」
結局、答えはAFOSIからもたらされた。彼らはこの文書が「完全な偽物」であることを認めたのである。AFOSIがMJ-12文書を作った者を知っていたとしても、それを明かすことはなかった。我々が知っているのは、リック・ドーティが捜査の一環として尋問を受けた一人であり、彼は1988年に空軍を退職し、一民間人になったということだ――ちなみに彼は西ドイツのヴィースバーデン空軍基地にいた1986年、詳細不明のある出来事の後にAFOSIを離れるよう求められていたのだという。
MJ-12文書は、カートランド基地のAFOSIがUFOコミュニティに対して行ったニセ情報キャンペーンにうまく合致していた。分かっている範囲でMJ-12について最初の論及があったのは1980年11月のことで、それはビル・ムーアがカートランドで見たアクエリアス文書の最後に登場した。この文書の唯一公開されたバージョンは、ムーアが自ら「手直し」してからポール・ベネウィッツやリンダ・ハウらに提供したものである。その最終段落にはこうある。「プロジェクト・アクエリアスについての米政府のスタンスとその帰結は依然としてトップシークレットであって、公的な情報ルート外には公開されず、そこへのアクセスもMJトゥエルブに制限されている」
「ナショナル・エンクワイアラー」の記者ボブ・プラットは、1982年1月にムーアと交わした会話の記録を残しているが、そこで彼は、のちのち小説に盛り込む予定だったMJ-12がいかなるものかについて、以下のようにスケッチしている。「政府…UFOプロジェクトはアクエリアスと呼ばれる。トップシークレットに分類され、アクセスはMJ 12に制限されている(MJは‘マジック’を意味するものと思われる)」。その一方で、ムーアとロズウェルの研究家であるスタントン・フリードマンは、もともとのアクエリアス文書に示されていた12人のメンバーというのは誰なのかについて延々と考察を重ねていた。そして、これには実に驚かざるを得ないのだが、そうやって推測した人々のうち11人は、後にジェイミー・シャンデラに郵送された文書の中に名前が記されていた。
この文書については、出所に関する問題の他に、技術面や事実関係にかかわる問題も多く存在している。中でも最も深刻なのは、ロズウェルUFO墜落事件の「現場とされる場所」である――ここにはMJ-12の存在意義がかかっている。元々のブリーフィング文書には、ETの宇宙船が発見された牧場は「ロズウェル陸軍航空基地の北西およそ75マイルの場所にある」と記されている。しかし、実際にはその場所までは空路で62マイル、道路を利用すると100マイル超となる。こんな細かいことにこだわるのは無意味だと思われるかもしれない。しかし、世界最大の秘密を守る者たちが新しくボスになる人物に報告を上げる時、事実を間違えないよう万全を期すのは当然ではないか。奇妙なことだが、ウィリアム・ムーアとチャールズ・バーリッツが墜落事件について初めて書いた『ロズウェル事件』にも、これと同じ距離が記されているのである――75マイルと。
では、誰がMJ-12文書を作成したのか。容疑者を指さすとすれば、その先にいるのは明らかにAFOSIだ。AFOSIはビル・ムーア、ボブ・プラット、スタントン・フリードマンが何気なく伝えた情報を捏造に利用したのかもしれない。しかし、その場合でも疑問は残る。もしAFOSIが偽造に関与していたとしたら、彼らは文書をAFOSIの本拠地であるアルバカーキから送付するほど間が抜けていたのだろうか。
推測できるのはこういうことだけだ。誰が文書を送ったにせよ(それは必ずしも文書の作成者や写真撮影者と同じとは限らない)、その人物は文書が基地から発せられたものだと思わせたかったのだろう。これはムーア自身も示唆していることだが、おそらく彼は「この文書が送られてきたのは、自分のAFOSIに対する貢献への論功行賞だろう」と思ったのではないか。あるいは、文書を作ったのが誰であれ、その人物はこれがニセモノだとばれても構わないと思っていたのかもしれない――バレるかどうかは重要ではなかったのかもしれないのだ。ハッキリしているのは、MJ-12文書がUFOコミュニティをターゲットに発せられたものだということだ(だから、ムーアとシャンデラが公開を控えている間に、文書は二人の英国のユーフォロジストに送られた)。そしてもう一つ明らかなことがある。作り手たちは人々がずっとUFOを信じ続けるよう仕向けたかったのだ。しかし、それは何故なのか?
■秘密とステルス
MJ-12文書が公開されたタイミングというのは、ポール・ベネウィッツをペテンにかけるところから始まった一連の工作がピークを迎えた時期でもあったわけだが、それは米空軍が当時有していた秘密技術のうち筆頭格であったF-117A「ナイトホーク」ステルス戦闘機の初期飛行とも密接なつながりがあった。このステルス戦闘機の生産決定が下されたのは1978年だったが、それはエルスワースのニセ情報事件があり、UFO墜落事件の話空軍からリークされ始めた年でもあり、そうした動きはやがてロズウェル事件の復活へとつながっていった。この飛行機の最初の試作機は1981年6月に飛行し、完成機は1983年10月にエリア51から飛び立ったが、この飛行機は1988年まで極秘扱いであった。これら初期のステルス機はネバダのエリア51や隣接するトノパ試験場でテストされていたため、航空機マニアやUFOハンターたちの目をそこからそらしてカートランドやダルシェにおびき寄せ、MJ-12文書という紙のチャフ(欺瞞情報)を使って攪乱するというのは最善の策だったのではないだろうか。
関係者間を行き交った文書のやりとりをたどってみると、こうした主張には裏付けがあるようにも思われる。AFOSIとの協力関係にあったビル・ムーアが調査をするよう指示された人物の中には、リー・グラハムという人物がいた。彼はカリフォルニア州アズサにある「エアロジェット・エレクトロシステムズ」社で、ステルス戦闘機や防衛衛星の部品を製造していた。グラハムと彼の同僚ロン・レゲールはUFOにも興味を持っていて、機密技術に関わる仕事をしている折々にそうした話をすることもあった。自分たちが製造に関わっている航空機がどのようなものかを知りたいと思ったグラハムとレゲールは、飛行中のナイトホークをひと目見ることができないかと考え、しばしばトノパに出かけては「ステルス・ハンティング」を試みていた。むろん彼らは、請負業者としてそんなことが許されないことは重々分かっていたのではあるが。
リー・グラハムが最初にムーアに連絡を取ったのは、『ロズウェル事件』を読んだ後のことで、彼らはUFOに関するデータを交換しあった。両者の関係にはAFOSI(空軍特別捜査局)も驚いたに違いない。ほどなくしてムーアは、グラハムにアクエリアス文書、次いでMJ-12文書を提供するようになったからである。グラハムは或る日、こうした文書をどのように入手したのかムーアに尋ねた。すると、ムーアは国防調査局(DIS)のバッジを見せた。DIS(現在の国防安全保障局)は、政府プロジェクトの産業安全保障を担当していた。グラハムはムーアに疑念を抱き始めた。これ以上深入りすれば、自身の機密クリアランスが危険にさらされ、仕事を失うかもしれないと心配になったのである。グラハムはUFO文書をエアロジェットのセキュリティ責任者に見せ、ムーアの行動を調査するよう提案した。
ところが、捜査対象になったのはグラハムの方だった。最終的に彼は、FBIの捜査官と民間人らしき風体をした男の訪問を受けた。彼らはグラハムに「ステルス機を追い回すようなことはやめろ」と強い調子で言った。ところが、UFOについてはこれからもどんどん話して良いし、MJ-12文書も広めていくようにと促した。この矛盾した指示というのは、1950年代にオラヴォ・フォンテスやサイラス・ニュートンに与えられたものを想起させるものがある。
後にグラハムは、FBI捜査官と一緒にいた男がマイケル・カービー少将であることを突き止めた。彼は空軍立法連絡事務所の所長で、ステルス戦闘機の飛行をはじめとするやエリア51での秘密プロジェクトを担当していた。数年後、グラハムは自身に対するDISの調査報告書を入手した。そこには、彼は国家に反逆するような人物ではないが、とりわけビル・ムーアのようなUFO愛好家に騙されて機密データを流出させてしまう恐れがあると記されていた。
グラハムのセキュリティファイルにはもう一つ、重要な人物の名前が記されていた。バリー・ヘネシー大佐である。ヘネシーの空軍での勤務歴によれば、彼は国防情報上級役員会のメンバーであり、かつ空軍長官室の対敵諜報および特別プログラム監視担当セキュリティ部長であった。そこには、彼は「安全保障と対敵防諜政策、ならびに空軍の全ての安全保障・特別アクセスプログラムの管理・監督に責任を有しており、そこには米国の防衛能力に大きな影響を与える可能性のある各種研究プロジェクトのセキュリティを保持する任務も含まれている」とあった。
彼がセキュリティ部長を務める前、MJ-12文書の公開やベネウィッツ事件が進行していた時期には、ヘネシーは国防総省でAFOSIの特別プロジェクト部門(PJ)を統括していた。1989年にリー・グラハムに送られた手紙には、PJの役割が以下のように記されていた。
「B-2およびF-117A航空機のような区分特別アクセスプログラムのためのセキュリティポリシーおよびその関連手続きを開発し、実施する。政府および産業界のプログラム参加者全員について、セキュリティに関連する活動を指導および監督する。特別な空軍の活動に対して対敵諜報およびセキュリティ支援を提供する。秘匿された場所に置かれた2つの分遣隊を運営している」
リック・ドーティとポール・ベネウィッツを邂逅させる作戦を担当していたのはヘネシー率いるPJ部門だったのだろうか? ドーティから提供された情報やムーアから得た情報を使ってアクエリアス文書やMJ-12文書を捏造したのは彼らだったのだろうか? 現在のところ、それが最良の答えということになる。となると、これが意味するのはヘネシーこそが「ファルコン」であって、ビル・ムーアに最初に接触してドーティを紹介した「赤いタイ」の男であったということだろうか? そうであれば完全につじつまがあうが、彼もムーアもそれは否定している。かくて研究者たちは別の可能性を探っているのだが、その中には、ドーティ以外に「ファルコン」たりうる者などいない、という信じがたい仮説も含まれている。だが、思い出してほしい。ドーティは、1988年10月のテレビ番組『UFOカバーアップ・ライブ!』には「ファルコン」として登場していた。
が、ファルコンが誰であろうと、この指揮系統の存在が示唆しているのは工作活動が上意下達で行われたということだ。そしてリック・ドーティは、その底辺近くにあって「現場」のエージェントとして活動していた。秘密のお宝を守るために米空軍はどんな手段を取り、どのようなことに注意を払い、UFOコミュニティに対してどんな対応を取るのか――こういった事について、ドーティ~ムーア~ベネウィッツ~グラハムと連なるエピソードは多くのことを物語っている。空軍にとって、UFO研究家は厄介な存在であり、時には必要な厄介者でもある。しかし、彼らが機微にわたるデータに手を出した時には――グラハムやおそらくポール・ベネウィッツのように――厳重に監視され、試され、時には利用され、そして時には無力化されねばならないのだ。
多くの研究者にとってのMJ-12文書は、「ロズウェルでのUFO墜落事件は本当にあったことで、その隠蔽は事件直後から始まった」ということを示すものとして、いわばUFO陰謀論における聖杯となっている。が、この問題の核心には奇妙なパラドックスがある。UFOコミュニティは、「米政府は真実を語らずウソをついてきた」と繰り返し主張するのだが、政府文書が然るべき形で提示されると、それは確たる証拠とされて真実を正当化するものになってしまう。
そうした信仰を持つ者たちにとってMJ-12文書が示しているのは、「権力の迷宮のどこかには地球外起源のUFO現象が本当にあると知っている者がいる」ということなのだ。これは即ち、いつの日にか情報開示が行われ、本当のことが暴露されるだろうということでもある。こうした情報開示は、ドナルド・キーホーの時代からこの方、UFOコミュニティにとっては希望の灯火であり続けてきた。その灯はこれからも消えることはないだろうし、意地でも灯し続けられるだろう。そして、この灯が燃え続けることは――1980年代や50年代がそうであったように――ヘネシーがやっていた仕事を今日担っている者にとっても重要なことであるに違いない。何故なら、UFOというものが消滅してしまえば、国防総省の手からは特別なプロジェクトを隠すための覆いが失われてしまうことになるからだ。
AFOSIとMJ-12文書のつながりを明確に示すデータがあるにも関わらず、信仰心篤きUFOの信奉者たちはこれを受け入れようとせず、今にいたるまでMJ-12やロズウェル墜落事件を喧伝し続けている。ここでもまた、我々は集団的な認知的不協和が働いているのを目にしているのだ。明らかになりつつある事実に直面しながらも、この現実を深く否定してしまうというアレだ。我々はここで一種の「ストックホルム症候群」が作動しているのを目撃しているのかもしれない。捕虜が捕獲者の心情に共感し始めてしまうというアレだ。MJ-12文書は1984年以来、UFOコミュニティを捕らえ続けており、政府のUFO陰謀を証明するための唯一の希望となっている。これらの文書がニセモノであることを受け入れた人間であっても、それはより深い真実があることを指し示しているニセ情報だとして擁護している者がいるのだ。そして、文書は次々と登場してくる。1990年代初頭からは、ゆっくりと拡大しつつあるもう一つの宇宙のように――あるいはロールプレイングゲームの拡張版のように――一連の新たな文書が現れ、MJ-12のシナリオにさらなる複雑さを加えてきた。これらの新しい文書のコピーはオンラインで見つけることができるが、その中でも最も想像力豊かなのは、1954年の特殊作戦マニュアル(SOM1-01)であり、地球外の宇宙船の回収作戦に関わる者へのブリーフィングガイドとなっている。
もしMJ-12文書の目的がUFOコミュニティを混乱させ、分裂させ、弱体化させることだったとすれば、それは作り手たちの期待をはるかに上回る成功を収めたと言えるだろうし、これは黒魔術の傑作とみなすべきだろう。誰がやったことであれ、彼らはJ.R.R.トールキンやジョージ・ルーカスが想像したものに匹敵する神話を生み出した。そしてそれは同じくらい長く続いていくに違いない。
■エイリアンシード
1980年代後半、MJ-12文書に含まれていた情報、ビル・ムーアやリック・ドーティが流布した文書、ポール・ベネウィッツのプロジェクト・ベータの情報といったものは、当初広まっていたUFO研究家のインナーサークルを越え出て、一般社会にも広がり始めた。この当時、インターネットは人々の生活に広まりつつあった。テキストオンリーのダイヤルイン方式の掲示板が、こうした奇妙な話を保管し、伝えるための格好の手段となっていた。
アメリカの真剣なUFO研究者たちの中には、インターネットが情報収集および共有のツールとしての潜在力を早々に認識した者もいたが、それはまた、新たに登場したコンピュータ愛好家やハッカーたちの注目も集めた。彼らの多くは(実は私もその中の一人なのだが)ロールプレイングゲームやビデオゲーム、ファンタジー、ホラー、SF文学を通じて世界を見つめて育った世代だった。こうした新たな愛好家のグループは、コンピュータ端末の下に広がるケーブルの束に足を置きつつ、その目は星々に向けるようなタイプで、UFO文化から流れ出してくる奇妙な情報のパッチワーク(それは複雑で詳細を極め、感情にアピールするものだった)を受け入れる準備はすっかりできていた。
この時期に最も影響力のあった情報のソースは、おそらくジョン・リアーであろう。彼の疎遠だった父親は、リアー・ジェットや8トラックテープレコーダーの発明者ウィリアム・リアーで、地球の大気圏の内外を自由に飛べる飛行機というのは電磁的に重力場を制御することで可能になるであろうという信念を常々公言している人物だった。ジョン・リアーは何年もの間、プロのパイロットとして働き、CIAの命を受けた「エア・アメリカ」社のミッションで東南アジアに飛ぶなど、様々な仕事をこなしてきた。腕利きのパイロットということで空軍や諜報の世界における彼の声望は高かったから、1987年後半にUFO情報を広め始めた際には、彼は一目置かれる情報ソースになっていた。
リアーがUFOに夢中になったのはその年の初めで、彼はそれ以降、可能な限り多くの情報を猛烈なスピードで集め始めた――本を読み、映画を観て、ポール・ベネウィッツやビル・ムーアといった人物と話し合ったりした。リアーがUFOに関して公に発した最初の声明は、各種の掲示板を通じて広く拡散された。それは、アクエリアス文書やMJ-12文書のニセ情報、そしてポール・ベネウィッツが体感した地下世界への妄想めいた恐怖を完全にまとめ上げたものだった。
1988年2月14日に行われたリアーへのオンラインインタビューからは、彼が広めていた情報の内容がうかがえる。その内容の多くは、今日の我々には馴染み深いものとなっている。曰く――戦略防衛構想(SDI)はロシアのミサイルを迎撃するためではなく、地球外生命体の攻撃から私たちを守るために開発されている。ロナルド・レーガンとミハイル・ゴルバチョフがアイスランドで会談を行ったのは、地球外生命体の脅威について話し合うためで、それが冷戦の緊張緩和の主な要因だった。CNNはMJ-12のメンバーによる暴露インタビューと、ロスアラモスで空軍大佐が地球外生命体とテレパシーで対話する様子の映像を放送しようとしていた。別のビデオにはETの映像装置が映っており、そこにはキリストが磔にされる場面が出てくる。一方でETたちは、ダルシェの地下基地で人間や動物を誘拐し、恐ろしい遺伝子交配実験を行っている。捕獲されたETの乗り物はエリア51で政府によって飛ばされている……そういった話が延々と続いていた。
1989年のMUFON会議でビル・ムーアが告白をした頃には、リアーが広めたこれらの話はUFOコミュニティに新たな血を注ぎ込んでいたが、一方ではそのコミュニティを分裂させてもいた。その内容はセンセーショナルで、恐怖を煽り、ほとんど馬鹿馬鹿しい内容だった。まさにSF的な悪夢そのものであったわけだが、実際それは悪夢を生み出した。ビル・ムーアとリック・ドーティが生み出してポール・ベネウィッツに伝えた話は、こうした新たな経路を通じて広がり、新たに夢中になる人々を生み出した。そうやって夢中になった人間は、明らかに政府やペンタゴンの最深部にもいた。
このような話は、新聞や雑誌、テレビのニュース、ドキュメンタリー番組(たとえば『UFO カバーアップ・ライブ!』や『未解決ミステリー』だ)といった主流メディアにも時折姿を現したである。1990年代半ば、つまり事がAFOSIの手を離れてから10年が経過した頃には、これらのアイデアは再び形を変え、今度はフィクションの世界に入り込んだ。『X-ファイル』や『ダークスカイズ』、そして大ヒット映画『インデペンデンス・デイ』は、その伝播のための非常に効果的な手段となり、20年前にスピルバーグの『未知との遭遇』が大衆の想像力に与えた影響に匹敵するものとなった。
さらにその10年後、ラフリンでのUFOコンベンションでも、同じ話は依然として語られ続けていた。新しいMJ-12文書、新しいビデオ、新しい証言者や告発者が現れ、皆同じメッセージを繰り返し伝えていた。ETは実在し、彼らはここにおり、アメリカ政府と対話しているというのである。こうしたメッセージは何度も繰り返され、語り直されるうちに、それを聞く者の記憶に永続的な痕跡を刻み込むようになる。疑わしいという気持ちを退け、真実であるとして親しみを覚えるようになってしまう。
しかし今、そのコンベンションは終わりを迎えた。ほとんどの参加者は、少なくとも次回の会合まで自分の惑星に帰っていくだろう。私とジョンは、過去1週間の狂気から解放されることに安堵していたが、一方でビル・ライアンとの別れを惜しんでいた。1週間のストレスに消耗したとはいえ、大衆の前で初めてひと仕事終えた彼は、自信と新たな使命感に満ち溢れていた。そして、新しい仕事には余得がなかったわけでもなかった。ビルは、予定していたイギリスへの帰国を取りやめ、講演の後に近づいてきた魅力的な黒髪の女性と数日間ラスベガスで過ごすことになったのである。「信じられないだろうけど」と彼は興奮気味に私たちに告げた。「彼女には人間の親は一人しかいないんだ。もう一人の親は地球外生命体なんだよ」
我々はビルの幸運を祈り、冷静に行動するよう助言した。誰もその時点では知らなかったが、セルポの大使としての彼の役割はもうすぐ終わろうとしており、さらに壮大な任務が彼を待ち受けていたのである。とまれ、私とジョンはといえば、アルバカーキに向かおうとしていた。インタビューのため、そこでリックと落ちあう約束をしていたのだ。 (14←15→16)
