2024年12月

■第15章 秘密兵器

    「じっと見続けるのよ。そうやって何か見えてきたなら、それはきっとイエス様よ」   ――1980年12月29日、テキサス州ニューキャニーでUFOを目撃したヴィッキー・ランドラムがコルビー・ランドラムにかけた言葉


人間が作った空飛ぶ円盤の歴史は錯綜している。かつて私は個々の断片をどうにかつなぎ合わせてみたことがあるのだが、その際、どうしても解き明かさねばならない問いが一つ残った。もし円盤型の飛行体が1930年代から飛んでいたのなら、なぜ空飛ぶ円盤はそののち、かくも魔術的で異世界の雰囲気を漂わせるようなオーラを持つにいたったのか?

スイスの心理学者カール・ユングはCIA長官アレン・ダレスの親友であったが、彼は晩年に至って空飛ぶ円盤に魅了され、この問題について書いた『空飛ぶ円盤――空に見られたものについての現代の神話』(1959)は今なお古典的作品とされている。ユングは、この円盤の持つ力を、全体性・完全性・完璧さのイメージであるところのマンダラと同一視することで説明しようとした――そうした特性はマンダラ以外では神にしか見られないものである。神話的な賢者ヘルメス・トリスメギストスが語るところでは、神というのは円なのだという。その円というのは、円周はどこにでもあるけれども、中心はどこにもない円である。このパラドクスに満ちた比喩というのはUFOの問題にもピッタリと当てはまる。そして、円盤に神秘性をまとわせているのはその円形の形状だけではなく、ユングの表現でいうならばあまたの報告にみられる「不可能性」 もまたそうである。つまりそこには元来夢のようで非論理的な性質があり、少なくとも [人の心に舞い降りるための] 着陸装置といったものが、イマジネーションの世界の中に常に存在していることを示唆している。

しかし、空飛ぶ円盤の神秘性が広まっていった背景に思いをいたすと、空飛ぶ円盤を単なる航空機というにとどまらず心理学的な兵器にも仕立てていこうという「プラン」のようなものがなかったか、という疑念も兆す。こうした考えは、1950年代初頭にはアメリカ自身による空飛ぶ円盤プロジェクトが進行中であったことを考慮に入れると、より意味をもってくる。

1953年2月11日、トロント・スター紙は空飛ぶ円盤はもはや幻想ではないと報じた。アブロ・カナダ社が、所有するマルトン空港でその種のものを製造していたというのである。スター紙によれば、その垂直離着陸機(VTOL)はほぼ静止した状態でホバリングし、時速1,500マイルで飛行することができるとされた。この話は大筋で本当のことだった。アブロは「プロジェクトY」、あるいはそのスベード状のデルタ形状から「アブロ・エース」として知られる航空機の開発に取り組んでいたのだ。ただしそれはモックアップとしてのみ存在し、地表から離陸できるようなものではなかった。

英国の航空機設計者ジョン・フロストは、英空軍の有名なデ・ハビランド・バンパイアの設計者であるが、VTOL航空機へのニーズの高まりに応じるため、[同社で] 「エース」を開発した。噂されたドイツの空飛ぶ円盤がそうだったように、エースもまた平面放射流タービンエンジンを搭載する予定だった。このエンジンは中央軸の周りを回転し、航空機の縁に沿って空気を押し出すもので、通称「パンケーキ」と呼ばれた。フロストは航空界の多くの人々と同様、ロシア人は既にドイツの設計に基づいて円盤型航空機を飛ばしていると確信しており、エースの設計に関してはハインケル-BMWでフルーク・クライゼルのために働いていたエンジニアから助言を求めたとされている。 [訳注:フロストはアブロ・カナダ社で当時円盤機開発に携わった人物。ここで開発したという「the Ace」の詳細は不明だが、同名の試験モデルがあったものか?]

1954年までに、カナダ政府の忍耐、そして資金はいずれもが尽きかけており、プロジェクトYは閉鎖の危機に瀕していた。そこに米空軍研究開発(R&D)部門のドナルド・パット中将が登場した。パットはフロストに20万ドルを提供して作業を継続させ、さらに1955年には――おそらく前年10月のラッセル上院議員の目撃が刺激となったのだろう――さらに75万ドルを提供した。米空軍の資金からの資金が入ったことで、「シルバーバグ」と「レディーバード」として知られる2つの円盤開発の計画が含まれたプロジェクトY2が発足した。ちょうどこの頃、おそらくは1954年10月になって、空飛ぶ円盤に関する問い合わせに対して米国防総省が発送する定型文からは、「未確認航空現象」は「米国によって開発された秘密兵器、ミサイル、または航空機である」という主張を否定する段落が削除された。 

単座の迎撃機として開発されていたレディーバードは、さらなる進化版として、速度は驚異のマッハ3.5(2600マイル以上)、飛行高度は80,000フィート、ホバリングから70,000フィートに達する時間はこれまた想定外の4分12秒という高性能を発揮することが期待されていた。この円盤機がこれほどまでの高速性能を達成できるのは、コアンダ効果を利用できるからだとされた。すなわち曲面の縁に沿って流れる空気が、さらなる揚力を生み出すという効果である。Y2計画では、円盤機の様々な使い方が提案された。その中には海軍艦船や潜水艦から発艦する艦上機、小型バージョンを用いての無人の飛行爆弾、さらにはリムの部分を強化した有人機で敵機を「スライス」するというものもあった――最後のそれは多くのパイロットが進んでやろうとはまず思わない任務ではあったが。

フロストの円盤のうち最も進んだバージョンとなったアブロ「MX-1794」は、それまでより強力なターボジェットエンジンを搭載したもので、1956年にモックアップ段階に達した。風洞試験はライト・パターソン基地で行われたが、これが「基地内に空飛ぶ円盤がある」という噂を広めるのに貢献したのは疑いがない。この試験はその後、NASAの前身であるNACAのカリフォルニア州エイムズの施設でも実施された。1794型機のプロジェクトの見通しは明るかった。1956年10月の海軍のプレゼンテーションでは、アブロが1957年1月に飛行プロトタイプ機を完成させると発表した……だが、この飛行機についての話が表に出たのはこれが最後だった。

アメリカ製の空飛ぶ円盤に何が起こったのだろうか? 航空史家のビル・ローズとトニー・バトラーは、実質的に同一の航空機のために複数のプロジェクト名が入り乱れて用いられていたのは意図的に混乱を招くためだったとみており、MX-1794は最終段階で「ブラック」に――秘密兵器になったのだと示唆している。彼らは、進行中の空飛ぶ円盤開発プログラムについて論じた1959年の文書を見たと主張しており、U-2やステルス機を生み出した有名なロッキード社のスカンクワークスがその拠点である可能性が高いと主張している。

シルバーバグの物語のほろにがい後日談をひとつ紹介しておくと、1958年にMX-1794が姿を消したのと同時に、アブロは新たなプロジェクトを発表した。VZ-9AV、通称アブロカーである。これは幅18フィート、高さ3フィートの単座型円盤型飛行機だった。もともとは陸軍用のホバージープとして設計されたものだったが、アブロカーは振動が激しく不安定で、最終的には役に立たない失敗作だということが判明した。その役目といえば、ニュース映像で滑稽なシーンを提供できることぐらいで、一部の人々は、これは真の極秘プロジェクトであるMX-1794から目をそらすための意図的な目くらましだとすら言っている。シルバーバグの資料が1995年に機密解除されるまで、一般の人々がアブロ社の円盤プロジェクトについて知っていたのはアブロカーだけであり、その結果がどうなったかといえば、自国製の円盤開発プログラムが真剣に検討されることは全くなくなってしまった。

米空軍は1961年にアブロ・カナダ社との協働をやめ、その翌年にはマルトン工場も閉鎖された。だが、空飛ぶ円盤の夢がそれで終わったわけではなかった。1958年の映画『ベル、ブック、アンド・キャンドル』に登場する魔法の猫にちなんで「パイ・ワケット」とコードネームが付けられたコンベア・レンズ防衛ミサイルは、直径約5フィートの無線操縦式円盤で、飛行機としては短命に終わったB-70バルキリー爆撃機から発射される予定であった。パイ・ワケットは有人航空機ではできない動きが可能で、時速マッハ7(約5000マイル)の速度で衝突して爆発することを想定していた。このプラットフォームは風洞試験の段階に到達したのち、1961年に開発中止になったが、小型で流線型をした円盤モデルの写真は今でも存在している。ただ、MX-1794と同様、レンズ防衛ミサイルも「ブラック」入り――つまり極秘プロジェクトに移行した可能性があり、ホワイトサンズで実物大モデルがテストされたという噂も根強い。長年にわたる小型円盤型UFOの目撃情報の多くはパイ・ワケットのようなもので説明できるという説もある。

人工的なUFOに関する議論では、長年アメリカ最大のUFO研究団体であったNICAPの創設メンバーで、オハイオ州出身のエンジニアであったトーマス・タウンゼント・ブラウンをめぐる謎も無視できない。生まれながらの発明家であったブラウンは、1921年、イオン化された電子によって推進力が発生することを発見した時、まだ16歳だった。このビーフェルト=ブラウン効果は通常は電気流体力学(EHD)と呼ばれているが、今日の「リフター」(軽量の機体が電気を動力源として使用する原理)の背後にある原理で、将来的には深宇宙の探索に役割を果たすかもしれない。

ブラウンのキャリアの多くは機密に包まれている。1930年代から1940年代にかけて、彼はいまもなお機密扱いになっている陸軍や海軍の多くのプロジェクトに参加したが、どうやらそれらはレーダーや通信衛星に関するものだったようだ。1950年代後半には、ブラウンは円盤型モデルを使った反重力研究に取り組んでいたと言われている。当時は、新聞や『メカニックス・イラストレイテッド』のような人気雑誌にも記事が載るほど反重力への関心は高まっていたのである。伝えられているところでは反重力研究はアメリカ国内の14カ所で行われていたとされ、その中のひとつ、ライト・パターソン空軍基地の航空研究所(後に航空宇宙研究所)では、アブロ社の円盤の試験が行われていた。UFOコミュニティの一部の人々は、この時期に反重力技術のブレイクスルーがあったと信じている。中でも最も可能性が高いとされるのは、ブラウンのアイデアが、重力の引っ張る力を中和する技術で僅かながらではあるが進歩を生み出したという見方である。例えば、それは電場を使って航空機の翼の抗力を減ずるといったもので、そのシステムは今日巨大なB-2ステルス爆撃機で用いられているとも言われている。

人間の手になるUFOを探求する際、もう一つ考慮すべき分野がある。あらゆる場面で原子力への熱狂があった時代の一断面ということになるが、1946年、米空軍は、航空機の推進のための原子力(NEPA)計画を立ち上げた。実際の試験飛行が始まったのは1955年で、2年間にわたって、12トンの鉛とゴム製のシールドを装備したB-36爆撃機がテキサス州とニューメキシコ州の上空で47回の試験飛行を行った。この機には空気と水で冷却される原子炉が搭載されていた。「X-6」という原子力航空機の計画も立てられ、試作エンジンも製造されたが、1961年に計画は全て中止された。しかし、それは本当に終わったのだろうか? いくつかのUFO遭遇事件では、目撃者が放射線被曝と考えられる症状を示している。1980年12月29日のキャッシュ=ランドラム事件がその最も有名な例である。 

以上が円盤型航空機の完全なる歴史だというわけでは全くない。多くの航空機設計者は、UFOの報告が絶えず流れる中、その形状を用いた実験に取り組んできた。アメリカの空軍基地の格納庫に円盤が保管されているという噂も今なお続いている。人口に膾炙したそのバリエーションとしては、1960年代にフロリダ州のマクディル空軍基地のスクラップ置き場で大きな円盤が目撃されたという話や、1980年代にアメリカ国内の極秘施設でリバースエンジニアリングが行われていたとされる反重力エイリアン再現機(ARV)3機(通称「スリーベアーズ」)の噂といったものがある。


■UFO:資金不足の優良案件

偶然なのか仕組まれたことだったのかはともかく、1950年代になると、空飛ぶ円盤は地球外に由来する知性体やテクノロジーと関連づけられるようになった。戦後の世界の覇権争いの中で、先進的な異星人のテクノロジーを握っているように匂わせることは、心理戦において強力な武器となり得た。UFOコミュニティが「アメリカ政府はUFOの真実を隠している」と訴えていたのとは反対に、冷戦がいまだかつてないほど激化する中、サイラス・ニュートン、オラヴォ・フォンテス、それからやや遅れてではあるがポール・ベネウィッツといった人物は、「米軍はイギリスなどと比べたら何百年――ことによったら何千年も進んだ異星人の技術を所有しているのだ」と信じ込むよう [当局から] 吹き込まれた。こうした異星人の乗り物は信じられない速度で移動し、瞬時に停止し、ピンの上に浮かぶことができた。音を全くたてず、目に見えない存在になることもできた。UFOはかつても、そして今も無敵だった。そして、アメリカはそうしたテクノロジーを手にしているというのである。

ベネウィッツ事件の後、こうした噂はどんどん強まっていった。「ガンホー」(「世界の軍事関係者のための雑誌」を称する雑誌だ)1988年2月号に登場したアル・フリッキーという偽名の人物は、「エリア51で異星人の乗り物の試験飛行が行われている」という話で人々の耳目を引いた最初の人間となった。ネバダ州のこの基地は、細かい事をいえばネリス空軍基地の軍事作戦エリアに属していて、現在では多くの人にその名を知られているが、当時はその存在自体が極秘であった。記事のタイトルは「ステルス――そしてその先へ:オーロラ計画と『資金不足の優良案件』(Unfunded Opportunities:UFO)についての概要」というものだった。ちなみにこの「資金不足の優良案件」というのは、ロッキード・マーチン社の「スカンクワークス」(U-2、SR-71ブラックバード、ステルス戦闘機、B-2爆撃機を開発した先進開発プログラム)の責任者であるベン・リッチが、かつて語った言葉に由来している。彼はUFOについての意見を聞かれた際、「UFOというのは資金不足の優良案件だよ」と言ったのである。この発言は如何様にも解釈できる多義的なコメントだ。彼は「スカンクワークスはアブロMX-1794のような空飛ぶ円盤を開発したが、資金が尽きてしまった」と言いたかったのだろうか? あるいは「目撃されたUFOはまだ開発段階に至っていない試作機だった」ということなのだろうか?

「ガンホー」の記事では、エリア51で――とりわけそこにある「エイリアン・テクノロジー・センター」で何が行われているかについての推測がなされているが(ちなみに編集者は「彼らはメキシコ人を研究しているのか?」と軽口を叩いている――訳注:エイリアンには外国人の意味もある)、そこにはロッキードのエンジニアのこんな匿名コメントが引用されている。「こんな風に言っておこうか。ネバダの砂漠には、ジョージ・ルーカスがよだれを垂らしてしまうようなものが飛んでいるのさ」。また、空軍の匿名士官はフリッキーにこう語っている。「我々がテスト飛行している機体は、言葉では説明しにくい。観念的な言い方だが、これをSR-71と比べることは、レオナルド・ダ・ヴィンチのパラシュートをスペースシャトルと比較するようなものだ」。フリッキーはまた、「フォースフィールド技術、重力駆動システム、『空飛ぶ円盤』のデザイン」といったものにかんする噂にも触れている。エリア51で彼らは一体どんなスーパー兵器を作っていたのだろう?

イギリスのレーダー技術の先駆者レジナルド・V・ジョーンズは、第二次世界大戦の回顧録『最も秘匿された戦争』の中で、1939年にアドルフ・ヒトラーが行った演説がイギリス諜報機関を如何に畏怖させたかを記している。外務省が翻訳したその演説の中で、ヒトラーは、ドイツは「如何なる防御も無効な秘密兵器」を持っていると自慢していた。これに続いて、ヒトラーはこう宣言した。その兵器は標的となった者たちから「視覚と聴覚を奪う」ものだ、と。

秘密情報部はジョーンズにこの秘密兵器がいかなるものであるか評価するよう要請し、彼はいかなる可能性が考えられるかを報告書にまとめた。

    空想めいた噂、つまり「地震を起こす機械」だとか「半径2マイル以内の人間を爆発で滅し去るガス」といったものを除外した上で、なお考慮に入れるべき兵器は幾つかある。以下のようなものである。
    細菌兵器
    新種のガス
    火炎兵器
    グライダー爆弾、空中魚雷、無人航空機
    長距離砲・ロケット
    新型の魚雷、機雷、潜水艦
    殺人光線、エンジン停止光線、磁気銃    

ヒトラー演説の真相は、最終的にはより現実的なものであった。ドイツ語で「武器」を意味するのは「ヴァッフェ」という言葉であるが、ジョーンズがスピーチを改めて翻訳したところ、ヒトラーは「ルフトヴァッフェ」、すなわち空軍のことを言っていたことが判明した。犠牲者を盲目にし耳を聞こえなくするという謎の力は、単に「雷に打たれた」と訳されるべきものを不適切に解釈しただけのことに過ぎなかったのだ。

ハッタリと脅しは、どの国においても重要な兵器である。戦時であれ平時であれ、もし敵国ないし潜在的な敵国が先進的なテクノロジーを手に入れたと主張するならば、それを無視することはできない。少なくとも、その主張が真実かどうかを評価するために多大な時間と資金を費やすことになる。自国でそれと同じものを作ろうとさらに資源を浪費するかもしれない。一方で、そうした脅威が市民や軍の士気にもたらす影響は、その兵器そのものと同じくらい破壊的になる可能性があるのだ。

UFO現象の初期には、ゴーストロケット、空飛ぶ円盤、緑色の火球、そのほか謎の物体のあれこれが、ソビエト連邦の進んだテクノロジーの表れなのではないかという懸念があった。1948年に円盤を追跡していたパイロットのトーマス・マンテルが死亡した後、この状況はさらに悪化した。アメリカ空軍のパイロットが、「マンテルのようになってしまうかもしれない」といって未知の航空機に立ち向かうことを恐れるようになったら、希望はすべて潰えてしまう。もしある日、空飛ぶ円盤がソビエト連邦の航空機であると判明したら、一体誰がそれに立ち向かうだろうか? そのような事態が起きてはならないのだ。そうした理由で、軍の目撃報告に対する管理を強化し、円盤に民間人が興奮するのを抑えこむことでUFOパニックを封じなければならない必要が出てきたのである。逆に、他国に「空飛ぶ円盤は無敵で、しかもアメリカの手の内にある」と信じさせたらどうなるか。敵国のパイロットがU-2や偵察気球を撃墜しようとする試みを抑制できる可能性も出てくるのである。


■スターウォーズ

超兵器をめぐる策略というのは単なる憶測にとどまるものではない。考えてみて頂きたいのだが、これと同様なシナリオは、ポール・ベネウィッツが妄想の極にあった1983年の時点で現実に存在していた。

当時、相互確証破壊(Mutually Assured Destruction)の観念は、東西両陣営を死の恐怖で縛り付けていた。CIAの予測によれば、このまま軍備拡張が続けば、ソビエト連邦は10年後にはアメリカ本土に到達可能な核弾頭21,000発を保有することになると見込まれていた。たった一度のミサイル攻撃でも壊滅的な結果を招くというのだから、CIAの予想はまさに黙示録的であった。この状況を打開するためには何かが為されねばならなかった。

その年の3月、全アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンは全国放送のスピーチで、アメリカは近日中にソビエトのミサイルに対して無敵になるだろうと発表した。彼はこう語った。我々の安全というのは、ソビエトの攻撃を抑止するための「万一の際の報復」に依存しているわけではなく、戦略弾道ミサイルがわが国や同盟国に到達する以前にそれを迎撃・破壊できるからなのだ――そう知ったアメリカ国民はこれから安心して暮らしていけるだろう、と。

レーガンの超兵器は、戦略防衛構想(SDI)、通称「スター・ウォーズ」であった。理論的には、敵ミサイルがアメリカの国土に被害を与える前に撃ち落とし、いわばアメリカとその同盟国の頭上に「漏れのないアストロドーム」を作ろうというものであった。さらに、その防弾ガラスの下で安心していられるということは、アメリカがソビエトに対して先制核攻撃を行うことが可能になるということでもあった。議会はSDIに対して懐疑的であったが、彼らの承認なしにはその開発資金を調達することはできなかった。そこで、議会に財布の紐を緩めさせ、かつスター・ウォーズ計画は至って真面目なものだとロシアに確信させるため、ペンタゴンはシンプルだが見事な策略を考案した。

4回にわたるデモンストレーションが行われた。カリフォルニア州のヴァンデンバーグ空軍基地からソビエトのICBMを模したミサイルが発射され、一方でSDIの迎撃ミサイルが南太平洋から発射された。最初の3回のテストは失敗したが、4回目のSDIミサイルは標的を直撃した。この成功の映像は世界中のテレビニュースで放送され、アメリカの軍事的優位性を決して疑ってはならないという警告が喧伝された。議会はこの成功に感銘を受け、SDIに350億ドルもの巨額の資金を投入し、ペンタゴンの計画はさらに進展した。既に経済的に破綻寸前だったロシアは、この計画に対抗できなかった。もっとも、そのすべてが壮大な演出でなかったら、そんな成功を収めることはできなかっただろう。

SDIはインチキだった。迎撃のデモンストレーションは単なる手品だった。その効果を説得力のあるものに見せかけるため、ソビエトのそれに模したICBMは、SDIミサイルが近づいた時に自爆するための爆弾を搭載していた。問題は、最初の3つの迎撃ミサイルが目標を大きく外したため、それを自爆させたらおかしな風に見えてしまうことだった。4回目の「成功した」テストでは、性能不足の迎撃ミサイルでも狙える大きな標的となるよう、標的のミサイルは人工的に加熱され、レーダーのビーコンも取り付けられた。その際、迎撃ミサイルには熱探知センサーまで装備されていたのである。標的のミサイルは時速9,000マイルで飛行しているものの、ほぼ無防備な状態であった。


SDIは、ペンタゴンの欺瞞作戦の中でも最も派手なものの一つであり、幸いなことに冷戦の緊張を緩和するのに役立った。これは、アメリカをベトナム戦争に巻き込んだ1964年の「トンキン湾事件」や、サダム・フセインの「存在しなかった大量破壊兵器」とは異なっていた。

異星人の超兵器というのも、もうひとつの軍事神話に過ぎないのだろうか? あるいは我々の地球上のテクノロジーが、もはや異星人の乗り物と区別がつかないほど進歩したということなのだろうか? それとも、ペンタゴンのUFOは大衆を騙す兵器に過ぎないのだろうか?(16←17→18

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*フードコート内のお店。店員さんはどうも外国の方ばっかりのようであつたが懸念されたような破綻はなくおいしくいただいた。


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■第14章 空飛ぶ円盤は実在する!

      我々がUFOの存在を認めることを拒否し続ければ、いつの日にかUFOを敵の誘導ミサイルと誤認し、最悪の事態が生じることになるだろう
       ――L.M.シャッサン将軍・NATO連合空軍調整官(1960年)

アルバカーキ空港はカートランド空軍基地のすぐお隣りにあるが、この基地は市全体のほぼ半分の広さを占めている。あなたがこの空港に着陸する際には、カートランド基地特有の設備を垣間見ることができるだろう。たとえばそこには水平方向にU字のように突き出している巨大な木製の駐機場があって、昔ながらのジェットコースターのようなたたずまいを見せているが、実のところこれは、航空機への電磁場の影響を調べるために使われているものなのだ。

この基地と同様アルバカーキ自体も広大な街で、ハッキリとした中心部というものは存在しない。かつてのルート66で現在は州間高速道40号線と呼ばれている道路は市内を東西に横断し、街の東端にあって住宅地の拡大をせき止めているサンディア山脈の壮大な峰々を貫いて走っている。そびえ立つサンディア山脈は、とりわけ夕方になると深みのあるオレンジ色の輝きを放って、国立原子力博物館や世界屈指の核兵器庫を擁する街にふさわしい装いを見せる。

私たちは町の南端にあるトラベルロッジに宿泊した。周囲には質屋や銃砲店、閉鎖されたアトミック・モーテルなど、かつての時代の名残が残っていた。私たちはこのモーテルを気に入っていたが、リックは我々がここにいるのを見て仰天していた。

「ここには泊まらない方がいい」。彼は駐車場に車を停めながら言った。「ここは無法地帯って言われてるんだ!」

そうか、撮影クルーがベッドの後ろでコカイン様のパイプを見つけたのだけれど、それで合点がいく。

「基地を見に行くかい?」とリックは尋ねた。 「もちろん!」と私たちは答えた。 「じゃあ、車に乗れ!」

カートランドの入口に向かって進んでいったところで、今はポール・ベネウィッツの息子たちが経営する「サンダーサイエンティフィック」社の看板の前を通り過ぎた。リックの心に何かがよぎったかもしれないが、顔には出さなかった。守衛所では、ジョンと私が入場を許可されるかどうか心配だったが、我々は二人ともアーミー・グリーンのジャケットを着ていたし、私の髪もいつもと違って短かかったから、ジム・リーヴス(訳注:往年のカントリー歌手)のアルバムジャケットに出てくるようなセーターを着たリックよりも、我々のほうがよっぽど軍人らしかった。

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 ジム・リーヴス

武装した警備員が運転席側の窓に近づいてきた。制服を着て銃を持ったアメリカ人に対峙すると、私はいつも何か悪いことをしているような気がしてしまうが、その兵士はジョンと私には目もくれなかった。リックがIDカードを渡すと、警備員は敬礼し、ゲートが持ち上がった。我々はそのまま進んだ。私はリックのカードを見せてもらえるか尋ねたが、彼は何も言わずにそれを財布にしまった。

最初に訪れたのは、リックがかつて勤務していたAFOSIのオフィスだった。見たところは何の変哲も無い、くすんだ色の低くて長い建物で、さしずめ害虫駆除会社が入っていてもおかしくないような改良型のプレハブだ。リックは自分がAFOSIで過ごした日々を誇りに思っており、今は他の建物に移っているカートランドのAFOSI部隊について「かつては50人以上の人員がいたのに、冷戦終結後は20人未満にまで削減されてしまった」と文句を言っていた。

基地内をドライブしながら我々は、機密に抵触しない範囲ではあったが、基地内の生活の一端を垣間見ることができた。基地は小さな工業都市のようであった。巨大なパラボラアンテナの横にはクリップボードを持ってメモを取っているTシャツ姿の男がいたが、そのアンテナは大きな格納庫の方に向けられていた。格納庫のドアは、送信されている電波を――もちろん何が送られているかはわからなかったが――受信できるよう開いていたのだが、その隙間は我々が中をのぞき込めないほどの狭さだった。クォンセット・ハット(半円筒状の兵舎)、格納庫、事務棟が並んでいたが、それらの建物の内部で何が行われているかは、外からはほとんどわからなかった。唯一目を引いたのは、SFっぽい文字で「Directed Energy Directorate(DED:指向性エネルギー局)」と書かれた建物であった。

おそらくこの施設は世界で最も進んだ軍用レーザー、マイクロ波、プラズマの研究拠点で、ミサイルを撃墜するために航空機に装備されるレーザー兵器の開発が進められている。また、DEDの別のプロジェクトとしては「スター・ファイア光学レンジ」(Starfire Optical Range)があって、2,700万ドルもする高性能望遠鏡がもっぱら衛星の追跡に使用されている。この望遠鏡は「適応光学」技術を用いることで、地球の大気の影響を受けることなく、宇宙にあるバスケットボール大の物体に焦点を合わせ続ける能力をもっている。そうやって焦点を合わせるために望遠鏡は夜空に向けてレーザーを発射しているのであるが、DEDは現在、このレーザーを衛星を無力化する兵器に転用しようとしている。 

我々は基地の住居エリアを離れ、マンザノ山脈の麓に向かった。そこはポール・ベネウィッツがUFOを撮影した場所で、彼の家からは1マイルも離れていない。リックによると、SAS(イギリス特殊空挺部隊)やその種の特殊部隊はカートランドの砂漠と山岳地帯で訓練を行っているということで、辺りを見回すと、確かに自分がアフガニスタンやパキスタンにいるような錯覚に陥ってもおかしくはない。緩い勾配を上り、ポツンと立つ巨岩の周りをめぐっていくと、舗装された道路はコヨーテ・キャニオンの山の裏手に隠された入り口へとつながっている。山の裏側に隠されたコヨーテ・キャニオンへの入り口に通じている。ここは1980年にUFO事件が起きたとされる場所だ。マンザノ山の斜面には光を反射する部材が散乱していた。一部はレーダー反射用のチャフであり、一部は航空事故の残骸のようでもあった――例えば1950年にここに墜落したB-29爆撃機のそれだ。この事故では、乗員13人全員が死亡したが、幸いにも搭載していた原子爆弾は爆発しなかった。

恐怖感を与えるような三重の電気フェンスが山を取り巻いていた。リックによれば、今ではここに電気は流されていないが、これまでに命を落とした人間は一人では済まないという。ここにはそれだけの警備体制が必要だったのだ。マンザノ兵器貯蔵エリアの建設が始まったのは1947年で、核爆発にも耐えうるシェルターが山の岩盤深くに掘り込まれた。1953年にソ連が最初の熱核兵器を完成させる前の時点で、この山にはドワイト・アイゼンハワー大統領を核攻撃から守るための地下シェルターもあった。山には合計4つの地下施設があり、そこには122の兵器庫、さらには研究施設といったものもあった。1992年までは、これらの兵器庫にはアメリカの核兵器の大部分が保管されていたが、現在では核弾頭は基地内の別の地下施設に保管されている。今日では、マンザノのトンネルはカートランドの主要な請負業者であるフィリップス研究所の施設として使用されているほか、ハリウッド映画の撮影場所としても利用されている。

地下にある本物の秘密基地を前にして――控えめに言えば「かつての秘密基地」かもしれないが――興奮を抑えることは困難だ。子供時代にお絵かきしたものやサンダーバードのファンタジーといった様々なものが一団となって興奮を巻き起こし、まるで小さな地下核実験のようにして私の背骨を駆け上がった。その爆発のパワーで、首の後ろの髪は震え出すようであった。つかのま私は、自分がかつて憧れた科学者だとか秘密工作員になっていたもう一つの人生というものを想像した。飾り気のないコンクリートの入り口でキーパッドにアクセスコードを打ち込む。その入り口は乗り物が通れるほどの大きさで、山の基地の北西斜面にある。中に入って廊下を下り、手のひらで認証する防爆ドアを通った私は、そこで核兵器の配線をいじっている白衣の科学者に挨拶をする。彼は親指を立てて挨拶を返してくれる。次の鉄製のドアは、網膜スキャンとまた別のアクセスコードを打ち込まないと開かない。これをパスして進むと背後でドアは閉まる。さらに防爆ドアがあって、その先には何と鉄のケーブルで天井から吊り下げられているものがある。1947年に地球に墜落した時にできた大きなへこみがある、ピカピカの空飛ぶ円盤だ……。

「さて、私が見せられるのはここまでだ。これ以上見せると君たちは逮捕されてしまうだろうからね」。リックはそう言って、クルマを基地の主要施設の方にUターンさせた。「君たちをホテルまで送っていくよ」

私たちは再び正体のよくわからない格納庫や低い建物が並ぶ道を通り過ぎた。私にとってこの場所は驚異と謎に満ちた場所であったが、ここで毎日働く人々にとっては職場であり、彼らの中にはおそらくポール・ベネウィッツが守ろうとして酷い目にあった秘密を知っている者もいるのだろう。

基地の正門を越え、何の特徴もない「サンダーサイエンティフィック」の建物のところまで来ると、窓にスモークが貼られたボロボロのフォード・トランジットバンが私たちの前に滑り込んできた。後部ドアにはバンパーステッカーが貼られており、そこから長髪のロックバンドの連中がギターをかき鳴らしながら飛び出してきても全く不思議ではないような感じだった。そのステッカーの中でも特に目を引いたのは、グレイタイプのエイリアンの顔を黒と白で描いたものだった。

私はその時、ポール・ベネウィッツは正しかったということに気づいた。エイリアンはここ、カートランドにいたのだ。それもずっと前から。

■ドラゴンレディとライトニングバグ

1955年8月1日、当時極秘であったネバダ州グルーム湖のテストサイト(現在ではエリア51という名の方が有名である)で、最初の試作型U-2航空機は突如大空へと舞い上がった。「ドラゴンレディ」という名で知られるこの航空機の飛行は、航空偵察の新時代を開くとともに、アメリカ空軍――とりわけ空軍のUFO調査プロジェクト「ブルーブック」にとって新たな頭痛の種となった。

1969年にブルーブックが閉鎖されるまで、ここに寄せられたUFO報告の相当な部分は、実際にはU-2やその後継機(CIAのA-12オックスカートや空軍のSR-71ブラックバードといったものだ)が目撃されたもので、CIAの歴史家ジェラルド・ヘインズによればそれは全体の半数に及んだという。 これらの偵察機はいずれもCIA科学情報局によって運用されていたものだった。初期の頃、U-2の銀色の機体はとりわけ日の出や日没時に太陽光を反射し、地上から見ても非常に目立ったことから、ブルーブックには困惑した人々からの電話がかかってくるようになった。この3機種は、商業旅客機のほぼ3倍の高度である85,000フィートから95,000フィートを飛行したが、とりわけブラックバードは驚異的な速度マッハ3.2(時速2,200マイル)を出す能力があって、ロンドン―ニューヨーク間を2時間で移動したこともあった。オックスカートとブラックバードにはパラジウム送信機も装備され、近くの民間航空機のレーダーを混乱させるため使用されることもあったようだ。

これを目撃したパイロットや地上の人々が、この世のものとは思えない何かを見たと思っても不思議ではない。こうした「UFO」の目撃が報告されると、ブルーブックの調査員たちはその報告を既知の偵察飛行と照合してから、目撃者たちが見たものは「金星」「気象観測気球」「気温逆転現象」である――などといった当時それなりに説得力のあった説明を持ち出しては、何とか彼らを納得させるという報われない仕事をしていたのである。 

由緒正しきU-2の運用は今もなお続いているが、ブラックバードは1999年に退役した。では、現在CIAや国防総省の先端的な偵察任務を担っているのは何であろうか? その役目を継いだとされる次世代機の噂は根強くある。例えば伝説的なSR-75「オーロラ」(これはステルス機同様、テスターズ社のモデルキットになっている)がそうだし、三角形をしたTR-3Bもある。こちらは世界中で定期的に目撃される「空飛ぶ三角形」UFOの正体であるとかないとか言われている。そうした事例であるが、例えば1990年3月30日、ベルギーのブリュッセルでは、多くの目撃者が角の部分にライトを灯した三角形の機体を目にして写真に収めた。ベルギー空軍はF-16戦闘機4機を飛ばして追跡したが、追いつくことはできず、レーダーも「パラジウム」技術によるものと思われる妨害を受けて為すすべがなかった。また10年後の2000年1月5日には、イリノイ州スコット空軍基地近郊で、ゆっくりと移動する巨大な三角形の機体が警察官5人によって1時間近く目撃された。こうした「空飛ぶ三角形」が正真正銘の航空機であることを疑う者はごく少数だ。真相はおそらく近日中に一般公開される。人々はそう考えているのだろう。

もっとも、今日ではほとんどの偵察任務は、軌道上の衛星だとか無人航空機(UAV)、つまりドローンによって、より効率的でよりリスクの少ない形で行われている。UAVは未来の戦争の一部として位置付けられ、その技術が進歩するにつれて役割は拡大し続けている。ただ、それは全く新しいアイデアというわけではない。第一次世界大戦中、最初のテレビ放送を実演した人物でもあるイギリスの発明家アーチボルド・ローは、爆発物を搭載した無線操縦の航空機「エアリアル・ターゲット」の開発に取り組んだ。これは未来の戦闘の様相を一変させる可能性があったが、戦争が終わると、無線誘導式ミサイルともどもその開発は中止された。1930年代には、イギリス海軍とアメリカ海軍が古い航空機を「ドローン」に改造する試みに着手した。ちなみにドローンという名称は、デ・ハビランドのタイガー・モス機「クイーン・ビー」に由来する。当初、これらの無人機は対空砲手の標的といういささか冴えない役割を担っていたが、すぐにさまざまな状況で有用性を発揮するようになった。

1950年代初頭、アメリカ空軍は「プロジェクト・バッドボーイ」と称してF-80ジェット戦闘機を無線操縦のドローンであるQF-80へと改造し、うち何機かはキノコ雲の中に飛ばして放射性の空気サンプルを収集させた。1953年にネバダ実験場で行われたアップショット・ノットホール実験では、可哀想なサルが何匹かQF-80に乗せられて高レベルの放射線にさらされた。こうした実験でサルを載せた航空機が墜落し、それがUFOの墜落や死んだエイリアンといった噂につながっていった可能性も否定しきれない。  ひょっとすると、スカリーの『空飛ぶ円盤の裏側』によって広められた噂は、このような空軍の実験機が予定区域外に飛び出してしまった場合に備えた、いわば予防的な隠れ蓑であったのかもしれない。そして、ロズウェル事件の背後でそうした出来事が本当に起きていた可能性もあるのではないだろうか? 

フランシス・ゲーリー・パワーズのU-2やボーイングRB-47偵察機がソビエトに撃墜されるという悲惨な事件を受けて、軍や情報機関は、パイロットの生命を守り、かつ将軍たちがさらなる恥辱に晒されることを防ぐためには、無人航空機の開発を急がねばならないという認識に至った。アメリカ空軍はライアン・エラノティカル・カンパニー社に自らの目的に特化した無人機を開発するよう依頼したが、その中で最も成功したのはライアン147、通称「ライトニングバグ」であった。ライトニングバグはキューバ危機の際に偵察機として頭角を現し、ベトナムでも定期的に使用されるなどして、1990年代まで運用された。同機は最も初期のモデルでも傑出した性能を誇っていた。同機はプログラム飛行可能で、巡航高度は55,000フィート、最高速度マッハ1(時速720マイル)、後続距離1,200マイルだった。その後のモデルの性能はこれをはるかに上回った。1966年に導入されたロッキードD-21「タグボード」はライトニングバグの兄弟機で、高度95,000フィートでマッハ3(時速2,700マイル)の速度を出すことができたが、極めて不安定なところがあり、公的な任務ではたった4回しか出番がなかった。ライトニングバグの翼幅は小型飛行機並みだったが、レーダー探知を回避することができ、飛行中のコントレイルを残さないように改造された後は、肉眼ではほとんど見えないほどであった。

ライトニングバグはありとあらゆる「トリック」を巧みに行うことのできる装備を搭載可能だった。例えば同機は、標的機としても偵察機としても機能した。つまり、敵国の領域を飛行し、地対空ミサイル(SAM)を誘き出し、地上の発射機とミサイル自体の両方から信号を受信し、そのデータを送信した――それをミサイルで粉々に破壊される前に行ったのである。この重要な信号諜報は、SAMサイトの位置をマッピングし、新しい誘導ミサイル技術に対して効果的な対策を開発するのに役立った。それは人間のパイロットなら引き受けたくない自殺任務であったが、自我なきライトニングバグにとっては日常業務の一部だった。

こうしたドローンには、パラジウム技術のバリエーションとして開発された「進行波管」が搭載されていた。これは実際にはレーダー増幅器で、実際よりも大きな反射を生成することができた。要するにミサイルが目標を外す確率を高めようとしたのである。さらにこの機器には、パイロットやレーダー操作員に「巨大な航空機が付近にいる」と思わせ、恐怖を与えるという効果があったかもしれない――実際そうしたことは、1957年にケント上空でミルトン・トーレスが体験したとされている。さらにこの装置は、特定の航空機のレーダー反射を模倣するように調整することもできた。これとはまた別の「シューホーン」という装置は、ライトニングバグを「レーダーの腹話術師」に変え、自らのレーダー・シグネチャーを自分がいない場所に投影することができた。これは――例えば1990年代にベルギー上空で起きた三角形の飛行物体の追跡劇がそうであったが――UFOが信じられない速度でレーダースクリーン上を飛び回ることができるのは何故かについての回答を示唆しているようでもある。後期モデルではジャイロスコープの改善により、敵のレーダーに捕捉された際に急なターンを行うことができるようになった――これもまた多くのUFOによく見られる不規則な飛行パターンに合致している。ドローンは高度150フィートほどの低空を飛行するようプログラムすることも可能で、あるドローンは電線の下から送電塔を撮影することにも成功したとされている。

夜間偵察任務のために設計されたライトニングバグには、カメラの照明用のストロボライトが装備されていた。ストロボライトは当初「写真撮影には役に立たない」とされたが、これには意外な副次効果があることが分かった。敵のパイロットや地上の兵士を混乱させる効果があるというのだ。戦闘地帯を挟んだいずれの側であれ、予備知識のないパイロットや兵士がストロボを発するドローンを目撃したらどうなるか。これがUFO伝説の世界にドラマティックな逸話を付け加えることになったであろうことは想像に難くないところだ。

ここで示した航空機、欺瞞作戦、ECM(電子攻撃)はすべて40〜50年前に存在していたものだ。その技術の大部分は機密解除されており、一般にも公開されている。だが、そこで採用されていた原理は今日も変わらず存在していて、変わった点といえば、それが遙かに高度化しているということだけだ。新世代のUAV(無人航空機)は、ファイアビー(訳注:ライアン社がライトニングバグシリーズに先駆けて開発したジェット推進式ドローン)と比べればより長く、速く、低く、そしてゆっくりと飛行できるようになっており、現代の戦争、さらにはUFO伝説にとってますます重要な役割を果たすようになっている。 

現代のドローンは防御兵器として如何なる技術的発展を成し遂げているのか――そう考えた時、「これがそうなのではないか」と長らく噂されてきたものの中に、「視覚的に消える」能力というものがある。それは能動的カモフラージュないしは適応型カモフラージュと呼ばれる技術を用いたもので、ドローンはカメレオンの如く空に溶け込んでしまうというのである。この光学的ステルス技術の起源は第二次大戦にさかのぼる。「イェフディ計画」の名の下 、イギリス空軍と米海軍は海上を飛ぶ爆撃機の翼にライトを装備した。調光器を利用することでその光は空の明るさと同等に調整され、爆撃態勢に入った飛行機の翼と胴体の輪郭をぼやかし、その視認される距離を12マイルから2マイル未満へと減じたのである。現実にはレーダーが導入されることでイェフディ計画は不要になったのだが、今日もレーダーを回避しようとするドローンの形状や配色というのは、影を作ることなく空に溶け込むよう注意深く計算されている。

1980年代の初頭以来、イェフディのコンセプトをアップデートすべく様々な試みが為されてきたが、そこではレーダー上のステルス、光学的ステルスを組み合わせて、航空機を探査機器によっても目視によっても不可視にする試みが行われてきた。ポール・ベネウィッツも他のユーフォロジストにこう語っていた――自分がマンザノ貯蔵地域で目撃した飛行機は、周囲の光を曲げて自らを「見えなくする」ことができるのだ、と。

フィクションの「スタートレック」に出てくるクリンゴンの宇宙船「バード・オブ・プレイ」(訳注:猛禽類の意)は「姿を消す」能力をもっているのだが、その名を継いだボーイングの有人機「バード・オブ・プレイ」、そしていまだ秘匿されている「先進技術観測プラットフォームATOP」(こちらはおそらくドローンである)は、いずれもこうした新たな能力を有していることをほのめかしている――ちなみにATOPのミッションパッチ(訳注:ワッペン。写真はネットから拾ったもの)にはクリンゴンの宇宙船の輪郭が描かれていて、その向こうにアメリカの国旗が見えるデザインとなっている。噂されているところでは、新世代の光学ステルス技術は電気的に帯電すると色の変える材料を使用しているとされ、機体上部に取り付けられたセンサーや光ファイバーカメラに反応して変色するのだという。「黒い三角形」を目撃した者の中には、それは上方の星空に溶け込んでいたと証言する者もいるが、それはこの技術が既に使用されている可能性があることを示唆している。
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ブラックバードやファイアビーがこれまで偵察任務で大いに役立ってきたことは確かだが、現時点において軍が空からの監視で最も効果があるとしているのは地球の数マイル上空に配された「目」である。1957年のスプートニク打ち上げは、冷戦期の新たなフロンティアを開いた。CIAと空軍は1959年、コードネーム「コロナ」と称する合同偵察衛星プロジェクトを開始したが、これによって視覚的情報収集の方法は劇的に変わり、完全に廃止されなかったにせよリスクの高い有人スパイ機ミッションへの依存度は減った。コロナ衛星が何マイルも先の地上の目標を撮影すると、そのフィルムロールは地上へと投下される。これは大気圏突入時に火に包まれることになるが、これは特別仕立ての航空機が空中でキャッチする。フィルムを入れたカプセルは大きな金属バケツというか、不格好な空飛ぶ円盤のような形をしているのだが、時には着陸地点を外すこともあった。その実例が1964年7月7日にベネズエラに落下したカプセルで、CIAは絶望的で破局を招きかねない、そしておそろしく恥辱に満ちた「バケツ探し」を強いられることになった。それは本当の意味での墜落UFO回収作業であった。同様な事故で記録に残されたものもあるが、どうやら多くの事故はそうではなかったようだ。アメリカ国家偵察局の支援を受けたコロナ・ミッションは1972年に終了したが、その存在は1992年まで秘密にされた。ミッションの終了はこの機密情報がソ連に漏れた後のことだった。ソ連は、フィルムの入ったカプセルが再突入した地点に潜水艦を待機させていたのである。

今日では米国の陸海空軍はそれぞれ独自の宇宙部門を持っている。1982年に設立された米空軍宇宙コマンドや、1992年に設立された宇宙戦センターなどがそれだ。使い回し可能な軍用の宇宙航空機やシャトルが存在するという噂も航空愛好家たちのアングラな世界ではしばしば吹き上がる。こうした航空機が姿を現したことはいまだかつてないが、UFOコミュニティの先鋭的な一部の人々の間では、仮説上の存在が堂々たる宇宙艦隊へと変貌してしまい、それは外宇宙からのありうべき脅威に対抗するために作られたのだとされている。

多くの国々がロケット計画を開始するにつれて、超大国が宇宙でしていることを隠し通すのはますます難しくなるだろう。宇宙空間は非常に混雑しはじめている。地上や空中のレーダーシステムを欺くための対策が開発されたように、宇宙へのハードウェアの打ち上げや、その軌道や再突入を隠す方法も、インテリジェンスの世界において最高レベルにいる技術者たちは見つけているのではないか。そしてこれは、当然のことながらより多くのUFOの出現を意味する。

■空のパイ

U-2、ブラックバード、ドローン、ステルス戦闘機や爆撃機――直接であれ間接的であれ、これらはすべて過去60年間のUFO伝説に寄与してきたと考えられる。これらは私たちが知っている航空機である。だが、試作段階を超えなかったもの、「闇の予算」の陰に隠れたものについてはどうだろうか。実は、これらの多くは「空飛ぶ円盤」だったのだ。

米空軍が最初に行った極秘のUFO研究は「アメリカ合衆国における飛行物体事件の分析」である。これは1949年4月に内部公開され、1985年に公開されたが、そこにはケネス・アーノルド以前の空飛ぶ円盤の目撃例がいくつか含まれていた。1947年4月には、バージニア州リッチモンドの気象局職員2名が高速で移動する円盤を目撃したし、オクラホマシティではRCAエンジニアのバイロン・サヴェージが、「完璧に丸くて平らな」大きな円盤が上空を高速で飛び、風切り音を立てるのを目撃している。

その報告書には、世界で最初に撮影されたUFOの写真とされるものも含まれており、これは1947年7月7日にウィリアム・ロードがアリゾナ州フェニックスで撮影したものである。「シュー」という音も聞こえたので、彼はこれを戦闘機だと思い、カメラを持って外へ飛び出した。しかし彼が目にしたのは、彼の頭上を高速で旋回する、靴の踵の形をした奇妙な物体であった。ロードの写真は地元の新聞に掲載され、FBIの注目を引いた。FBIは彼のネガを入手し、それらが本物の写真であると認定したが、それが何であったかは不明である。もしかするとそれは靴の踵だったのかもしれない。しかしそれはアーノルドが6月24日に目撃したものの最初のスケッチにかなり似ており、丸みを帯びた前部と直線的な側面とが相俟って、先端部は凸形になっていた。

では、その時、こうした目撃証言を説明できるような飛行物体はあったのか? 答えは、いささかスッキリしないけれども「たぶんあっただろう」というものだ。

1947年当時の新聞を購読していた大衆にとっては奇異に思われたかもしれないが、空飛ぶ円盤は全く新しいものなどではなかった。1716年、科学雑誌「デダルス・ハイパーボレウス」には円形翼の飛行機の図が掲載された。デザインしたのはスウェーデンの科学者で神秘家のエマニュエル・スウェーデンボルグで、彼自身も後に他の惑星への超越的な旅を経験することとなる。

1930年代半ば、インディアナ州北部のアラップ社は、踵の形をした単翼機のモデルを4機開発した。一方、オハイオ州では、デザイナーのスティーブン・ネメス率いるチームが、円盤形の単翼を従来のプロペラ推進式胴体の上に搭載した「ラウンドウィング」を製造した。この頃、空飛ぶ円盤はサイエンスフィクション、または「サイエンティフィクション」雑誌の表紙を飾り始めた。

第二次世界大戦が末期を迎えるまでに、その戦闘の多くが空中で行われたようになったことから、主要諸国は短い距離で離着陸できる航空機の重要性を認識するようになった。陸軍航空隊は、滑走路を爆撃することで航空機の行き来を効率的に麻痺させることができることを学んでいたし、一方で海軍は、艦船から飛行機を発着させる新しい方法を模索していた。米海軍は、チャンス・ヴォート社の航空機デザイナー、チャールズ・ジマーマンに、短距離での離着陸が可能なプロペラ駆動の戦闘機を開発するよう依頼した。これがXF5U-1「フライング・フラップジャック」を生んだ。正式に製造されたのは2機だけで、予算の超過や納期の遅れもあったため、海軍が「未来はジェット推進にこそある!」との判断を下した1947年3月にプロジェクトは中止された。よく分からない理由で海軍は完全に機能する試作機を廃棄するよう製造業者に命じ、その材料と研究に投じられた数千ドルは無駄になった。しかし、フラップジャックの改良型(これは「スキマー」として知られる)の設計図は存在しており、これはホバリングが可能であるとされている。さらに、「ジェット推進型へと進化したフラップジャックが存在する」という噂も今日に至るまで残っている。もしそうしたものが存在していたとすれば、その秘密は恐ろしいほどうまく秘匿されたことになる。皮肉なことだが、仮にそうしたものが存在していた場合、その存在を裏付ける最良の証拠は、ケネス・アーノルドが証言し、ウィリアム・ロードが撮影した踵型UFOであるということなのかもしれない。
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 XF5U-1

してみると、初期の空飛ぶ円盤の報告をスキマーないしはフラップジャック(それは1機かもしれないしもっと多かったかもしれない)の存在と結びつけるのは、非常に魅力的なアイデアということになる。海軍が試作機を廃棄するよう命じたことは、それに代わるべき何かを開発していた可能性を示唆している。ウッドストリーム・コーポレーションの副社長になったトーマス・クレア・スミスという技術者は、1946年にヴォート工場でスキマーが飛行するのを目撃したと主張している。「その飛行機は飛んだのか、だって?」。彼はある記者に語った。「間違いない。私はそれが離陸し、浮き上がって、着陸するのを見たんだ」。  スミスは、彼が見たスキマーは夜間にのみテストされていたと述べているが、おそらく1947年には昼間の飛行も試みていたのではないか。

『ECM+CIA=UFO』の著者で科学者のレオン・デイビッドソンは、最初の空飛ぶ円盤の目撃は、海軍の実験機――おそらくはXF5U-1によるものだったと確信していた。デイビッドソンは、空飛ぶ円盤の謎に対する米空軍の初期調査について、「国防省の一部門が(中略)他の部門の秘密活動が表沙汰になったものを調査している」と非難していた。確かに海軍が1946年と1947年に踵型をしたホバリング可能な飛行機を飛ばしていたとしたら、空軍をおちょくって、最大限の恥辱を与えることで大いに溜飲を下げていたことは間違いない。デイビッドソンは、空軍による最初期の目撃事例、すなわち1947年7月8日にミューロック空軍基地上空で「薄い金属製の物体」が目撃された事件は、海軍の嫌がらせに起因するものだったと信じていた。さらに彼は、1000万カンデラの明るさを持つマグネシウム製の照明装置「ヘル・ロアラー」をUFO目撃の原因として名指ししていた。実際のところ、1951年10月にコネチカット州でそのテストが行われた際には、洪水の如く多数の円盤報告が寄せられた。

しかし、1940年代と1950年代に奇妙な航空機を開発していたのは、アメリカただ一国だったわけではない。歴史の記録はこここから、砂漠の飛行場にある駐機場さながらに歪み揺らめきはじめるのだった。

■「君はフルーク・クライゼルを見たか?」

ヴェルナー・フォン・ブラウンのV2ロケットは、第二次世界大戦の流れをドイツ有利に変えかける寸前までいった。戦争が終わると、米軍の「プロジェクト・ペーパークリップ」の一環として、残っていたすべてのロケットや部品は、フォン・ブラウン、そして枢要を占めた200人以上の科学者・技術者ともどもアメリカに渡った。すべてのハードウェアと人員は最終的にオハイオ州のライト・パターソン空軍基地にある空軍技術情報部に送られた。ここは後に空軍のUFO調査の拠点となった場所でもある。58機のドイツの航空機と数百のエンジンや部品がここに運ばれたが、中で最も有名なのはV2ロケットとメッサーシュミット262ジェット戦闘機だった。

その他にも、枢軸国の航空戦兵器として開発されていた興味深い秘密兵器はあまたあったと言われている。実際に存在していたとわかっている航空機の1つはホルテンHo 229で、ヴァルターとライマールのホルテ兄弟の設計になる同機は、1944年にテスト飛行を成功させていた。戦闘爆撃機として想定された同機は翼幅55フィート。レーダー反射断面積は極小だったとされ、それ故にアメリカのB-2ステルス爆撃機の祖先とも言われている。戦争終結時にその試作機はアメリカに捕獲され、同時に他のホルテン機の設計図も押収された。実はアメリカも1944年から同種のデザインの航空機開発に取り組んでいたのだがなかなか成果が上がらず、173フィートの翼幅を持つ巨大で、しかしトラブル続きだったノースロップYB-49のテスト飛行が始まったのは1947年10月のことだった。
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 ホルテンHo 229

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  ノースロップYB-49

ロシアもまたドイツのテクノロジーを戦利品として多く手に入れており、アメリカでの最初のUFOの目撃ウエーブが起きた際には、「ホルテンの設計に基づいて作られ、ロシアのパイロットが操縦している航空機」が空飛ぶ円盤の有力候補となった。ケネス・アーノルドが最初の目撃について描いた絵のうち、2番目のものは三日月型をしていてホルテンの飛行翼に非常に似ているのだが、これは彼が最初に描いたものとはかなり異なっている。最初の絵は、米海軍のフライング・フラップジャックに似ていたのだ。この変化には何か大きな意味があるのだろうか? ひょっとしたらアーノルドは、不安感を抱いた海軍の提督たちから、絵を描き直すよう頼まれたのではないだろうか?

ヨーロッパが最初のUFO報告に沸きかえっていた1950年3月、「第二次世界大戦中に空飛ぶ円盤を開発していた」と主張する技術者たちの記事が2本、名のある新聞で報じられた。第一の記事は、ムッソリーニの元老院に席を得ていた人物で、50冊以上の本を著したイタリアの著名な技術者ジュゼッペ・ベルッツォ教授に関するものであった。彼によれば、空飛ぶ円盤は空中魚雷の一種であり、1942年以来ドイツとイタリアで開発されていたのだという。彼の声明はイタリアのいくつかの新聞に掲載され、3月24日にAP通信によって配信されるところとなった。ベルッツォは「空飛ぶ円盤には超自然的な要素などないし、火星人とも関係ない……円盤は近年の技術を生かした合理的なものに過ぎない」と語った。

それから数日たった3月30日、ドイツの『デア・シュピーゲル』誌は、ヨーロッパを舞台にしたUFOの記事の中で、ドイツ北岸のブレーマーハーフェンで米軍の運転手をしているルドルフ・シュリーバーという人物のインタビューを掲載した。彼はプラハ大学を卒業し、ドイツ空軍で大尉をしていたとのことで、ベルッツォの先を行くような話をした。すなわち、「自分は1942年からナチの空飛ぶ円盤プロジェクトに携わり、実用モデルは1945年に飛行を果たした」というのだった。シュリーバーの設計したものは中央に乗員用のキャビン、その周囲には高速回転する円形のリムがあるというもので、動力は下部に置かれたジェットタービンが生み出したのだという。この直径49フィートの航空機は驚異的な加速力を持ち、最高時速は1,200マイルに達した。シュリーバーの話は他の出版物でも報じられたが、彼はそこでさらに踏み込み、「飛行したプロトタイプは破壊されたか、さもなくばロシアの手に落ちた」「自分の作った設計図は戦後になって自宅の工房から盗まれた」と明かした。シュリーバーは、ロシアかアメリカのいずれかが彼の設計に基づいて空飛ぶ乗り物を製造しているのだと確信していた。さらに謎めいた話もある。伝えられているところによれば、この話を公にした1年後、つまり1951年になって彼は自動車事故で死亡したというのである。

シュリーバーの主張は曖昧だが、その一部については別のところで裏付けが取れている。ドイツの航空雑誌『ルティング』の1987年2月号掲載の記事によると、1943年8月または9月、チェコ共和国のプラハ北東にあるプラハ=クベリ空港で、あるドイツ人パイロットが、他の訓練生たちと共に直径20フィートの空飛ぶ円盤の試験飛行を目撃したのだという。アルミニウム製の航空機は中央にはキャビン、その外側には回転する外縁を備え、4本の脚の上に座っていた。それは地上から数フィート浮上したとのことで、シュリーバーの円盤ほどのインパクトはないが、それでも真っ当な開発プログラムが存在していたことをこの証言は示唆している。

シュリーバーの「フルーク・クライゼル」についての話はこれで済まなかった。1952年6月7日――偶然にもドナルド・キーホー少佐によるET仮説推しの著作、『空飛ぶ円盤は実在する』がアメリカの書店に並んだのと同じ月であったが――フランスの新聞『フランス・ソワール』がナチの空飛ぶ円盤に関する新たなストーリーを報じた。このときの内部告発者はリチャード・ミーテで、「自分はシュリーバーと同様、ドイツの円盤設計の主要デザイナーの一人であった」と主張していた。ミーテは円盤のテスト飛行の写真も持っており、それは9月にイタリアの新聞『イル・テンポ』に掲載された。その写真にはぼんやりとした物体しか映っておらず、空飛ぶ円盤である可能性も否定はできなかったが、それが何かはハッキリしなかった。

『フランス・ソワール』の記事の中で、ミーテは「超音速ヘリコプター」V-7という表現を用いており、それは遠くから見ると「食器セットのソーサーのように見える」「オリンピックの円盤投げの円盤と同じ形で、直径は約42メートルの巨大な金属製円形ディスク」だったと語った。ミーテによれば、V-7は12基の強力なジェットエンジンを使用し、それらは中央の軸の周りを回転して飛行した。そしてよくできた「圧縮システム」により、炎や煙を出さずに飛行できたという。ミーテは、V-7は戦争末期に大量生産される予定だったが、ロシア人たちがその部品や設計図、さらに3人の技術者を押さえてしまったのだと主張している。

これら3つの話は、ナチスの空飛ぶ円盤に関する、豊富で途切れることのない伝説の基盤となった。現在ではそこに「南極やラテンアメリカに生き残ったナチスのコミュニティ」だとか、「タイムトラベルする超人の冒険譚」までも含まれている。1970年代にはこの神話がネオナチのプロパガンダに採用され、拡張された。彼らはUFOという既に人気のあるテーマを利用し、読者を「ナチの優越性」という強力で魅力的なファンタジーに――まあそんなものは凡そありえないのだが――引き込もうとしたのである。
 

■ソビエトの円盤

シュリーバーやミーテの主張を裏付ける証拠は、この最初の報道ラッシュ以外にほとんどない。しかし、彼らが述べた「ロシアは自前の円盤を飛ばしていた」という話はどうだろうか?

CIAによる1953年のロバートソン委員会のUFOに関する報告書では、ソビエトの報道機関が空飛ぶ円盤について一切報じていないことに懸念を示している。「このテーマには明らかにうまい生かし方があるにもかかわらず、ロシアのプロパガンダがほとんど見られないということは、そこにロシア政府の公式な方針があった可能性を示しているのかもしれない」。ロシアが空飛ぶ円盤の問題について殊更に沈黙を守っていたのは、彼らもまた謎の乗り物の訪問を受けていたからなのか、それとも当時アメリカ人の多くが疑っていたように空飛ぶ円盤は彼ら自身が飛ばしていたからなのだろうか?

1950年代の3つの話が、ロシアの円盤プロジェクトが実際に存在していた可能性を示している。最初は、1952年7月9日に『ニュース・ディスパッチ』紙が報じたもので、目撃者は元市長オスカー・リンクとその娘ガブリエルだった。彼らが目撃したのはその2年前、1950年6月17日で、[ドイツの] ハッセルバッハ近郊での出来事だった。リンク親子は、わずか50フィートの距離から、キラキラした金属風で重そうな衣服を身にまとった2人の人影を目撃した。それは「極地の住人が着るような衣服」で、彼らの胸には点滅するライトがついていた。搭乗者から30フィートの距離には、クラシックな空飛ぶ円盤があった。直径は40から50フィート。周囲には、幅1フィートほどの小さな穴が18インチほどの間を空けて上下2列に並んでいた。中心部からは高さ10フィートほどの「展望塔」が突き出ていた。ガブリエルが父親に声をかけた時、搭乗者たちは驚いたような様子で円盤に駆け込んだ。外縁が回転しはじめ、機体の穴からはジェットエンジンのように火が噴き出した。円盤部は展望塔の軸に沿って真っ直ぐ上昇し、やがてキノコのような形になった。それから乗り物全体が地面と平行に移動し、大きなホイッスル音と轟音を立てて飛び去った。この他に円盤が飛び去るのを目撃した人間は2人いた。報道によればリンクはこう語った。「あれはロシアの新しい兵器だと思いました。怖かったです。ソ連は自分たちのやっていることを知られるのを嫌いますからね」

次の話はなかなかに魅力的なものなのだが、これはフランスの新聞『ル・コティディアン・ド・ラ・オート=ロワール』で1954年10月24日に報じられた。場所はフランス中部のサン=レミで、チェコ人の工場労働者ルイ・ウジュヴァリが仕事に向かっていた午前2時30分頃、ある男と出会った。男の身長は平均的で、パイロット用の飛行スーツを着て、リボルバー拳銃を持っていた。その男は最初、ウジュヴァリには理解できない言葉で話しかけてきたため、ウジュヴァリはロシア語で会話をしようとした。

そのパイロットはロシア語で尋ねた。「ここはスペインか?イタリアか?」。ウジュヴァリが「フランスだ」と教えると、パイロットはまず「ドイツまでどれくらい離れているか」と尋ね、その後、時間を尋ねた。「午前2時30分だ」とウジュヴァリは答えた。「嘘だろ」とパイロットは言った。「いまは午前4時だ」。

この奇妙で無意味なやり取りの後、パイロットは向きを変え、道端に止まっていた彼の機体の方へ向かって歩き出した。それは2枚のソーサーを合わせた形で、上部にはドームアンテナがあり、そこからはアンテナが突き出していた。明るい光が灯り、その後、その機体は「ミシン」のような高音を出しながら夜空に消えていった。

この2つの話などは、単なる作り話として、あるいは円盤問題の下手人としてソ連に疑いの目を向けさせようとCIAが捏造したものとして、躊躇することなく却下して良いのかもしれない(我々としては、米ソ双方がお互い相手を欺こうとして手練手管を凝らしていることを過小評価してはならないのだ)。だが、ここで三番目に紹介する話、つまり1955年10月4日にあった話を無視するのはかなり困難だ。

その情報源は、リチャード・ラッセル上院議員。米国上院軍事委員会の委員長であり、国防問題において最も知識を持つ人間の一人でもあった。彼の目撃情報を詳細に記した空軍の情報報告書は1955年10月14日付で、「極秘」に分類されたまま1985年まで公開されなかった。この報告書には、ラッセル上院議員と2人の同行者、すなわち彼の軍事補佐官であるハサウェイ大佐と、名前が黒塗りにされている「ビジネスマン」が、現在のアゼルバイジャンのバクー近くで列車に乗っていた時のことが記されている。時刻は午後7時を少し過ぎた夕暮れ時で、空は晴れていた。ラッセルはその時一人で車両の中にいたが、約1マイル先で奇妙な黄緑色の光が垂直に上昇し、それから列車の真上を通過するのを見た。彼は同行者を呼び、目撃したものについて説明した。するとその最中、同じ場所に再び光が現れ、再び列車の上を飛んでいった。

「長年そんなものは存在しないと言われてきたが、私たち全員がそれを見た」。10日後、空軍の調査官に対してハサウェイ大佐は語った。「その航空機は円形で、空飛ぶ円盤のようだった……それは時計回り、右回りに回転していた……ディスクの内側には2つの光があり、外側が回転してもそれらの光は動かなかった」。匿名のビジネスマンは、「上部にわずかに盛り上がったドームがあり、白い光が見えたと述べている。

ラッセルと彼のチームがアメリカに戻った後、CIAとFBIの双方がこの事件に一枚噛んできた。CIAはラッセルとハサウェイの目撃情報を「ミサイルの発射やジェット戦闘機の誤認である」として懸命に否定しようとしたが、最終的には「現時点でラッセル氏の語る目撃に裏付けが取れたとしても、こうした通常ありえない航空機が実際にアメリカ上空を飛行していると推測することはできない」と結論づけた。

上院議員とそのチームは本当に空飛ぶ円盤を目撃したのだろうか? ラッセルがアメリカの軍事界における主要人物の一人であったことを考えると、彼の旅の途中で起きたことが偶然だったとは考えにくい。彼らが目撃したものは本当に空飛ぶ円盤だったのか。それとも通常の航空機が誤認されたのか。あるいは意図的に空飛ぶ円盤にみえるよう何かを見せられたのだろうか? ロシアがもし垂直離着陸機(VTOL)のような高度な航空機を実際に飛行させていたとすれば、アメリカにそれを知られたくはなかっただろう。その逆に、もしそんなものを飛行させる技術がなかったとしたら、アメリカ人を不安にさせるために「実は技術をもっている」と思わせたかったかもしれない。

CIAもあなたと同様困惑していたのだ。が、ロシアの飛行円盤はそれほどあり得ない話ではないことも理解していた。というのも、アメリカ自身も空飛ぶ円盤を作っていたからだ。コードネームは「プロジェクトY」だった。(15←16→17

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わが国屈指のUFO同人誌『UFO手帖』の新刊が今年も刊行され、この12月1日に開催された文学フリマ東京にてめでたくお披露目と相成った。
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 『UFO手帖9.0』書影。この表紙もなんだか「メリークリスマス!」的で心地よい!

 
『UFO手帖9.0』と題した今号であるが、その特集は「真夜中の円盤仮説」。小生は今回も執筆陣の片隅に加えていただいており、いわば利害関係者ということになるわけだが、今号もひいき目ナシで相当に力の入った仕上がりである。文学フリマに来場いただけなかったファンもたんとおられるであろうから、ここではその概要をオレ流にお伝えし、近々始まるであろう通販開始への期待を膨らませていただこうと思う。 


さて、最近の世界のUFOシーンの動向を振り返ってみれば、米国においては国防総省に設けられたAARO(全領域異常対策室)がUFO改めUAP問題の解明に乗り出すことなり、この問題に関して議会で公聴会が開かれるなど新たな動きが出ているのは皆さんご承知の通り。これは余談であるが、フジテレビで現在放送中の『全領域異常解決室』というのも明らかにこのAAROの名称をパクっているワケであって、長年「UFOなんて古いよね~」というUFO氷河期の冷え切った空気に覆われてきたわが国の状況もひょっとしたらこれから変わってくるんではないだろうか。

そんなタイミングで我らが「UFO手帖」が気合いを込めてブッ込んできた特集はまさに乾坤一擲、「じゃあUFOって結局のところ何なのよ!?」という究極のテーマに切り込むものであった。つまり空飛ぶ円盤-UFO-UAPについての仮説をいろいろと提示し、ナゾ多きUFOの真相に迫ってみようというものなのだった。

 だがしかし。

ここが実に痛快なのだが、この特集は「UFOは宇宙人の乗り物だ」というメジャーなET仮説を基本的にガン無視している。なにしろ編集長のペンパル募集氏自らが健筆をふるったメイン論考のタイトルが「UFO生物説は鳴り止まない」である!

これは、2004年に米カリフォルニア沖で米軍機がナゾの飛行体(?)と遭遇、赤外線カメラでその姿をとらえたことで知られるかの有名な「チクタク事件」について調べていた編集長が、「このUFOってなんか戦闘機とじゃれあってたんじゃね? ひょっとして………コレ生物?」と閃いてしまい、これまで業界の一部でささやかれてきた「UFO生物説」の歴史にスポットを当てた力作なのだった。で、「コレまんざら奇説で済ませたらアカンのでは?」と思わせてしまうこのドライブ感。エエです(末尾で矢追純一UFOスペシャル的な煽りを一発カマしているのも好感がもてる。子細は買って確かめてくださいw)。

お次は「精神投影説とその拡張」(馬場秀和氏)なる論考である。コレは「UFOというのは無意識的な精神のはたらきによって人が目撃してしまうものではないか」という精神投影説について考察を加えているのだが、もちろんこの仮説は「でもUFOって着陸痕とかレーダーとか物的証拠も残すよね?」とツッコまれるとスゲー弱い。弱いので、筆者はそこを何とかすべく物理学における量子論を援用するなどして「拡張された精神投影説」の可能性を探る。探るのだが、最後に「でもちょっとムリ筋だわな」といってこの仮説を突き放すのだった。そんなぁ…………ホンマ人が悪いぜよ。でもまぁ面白いからエエけど(笑)。

ちなみに今号には、とある縁からスペインのUFO研究者、ホセ・アントニオ・カラバカ氏も「UFO現象の心の中で」という原稿を寄せている。世界にはばたかんとするUFO手帖の勢いを感じさせるのだが(爆)彼のこの論考も広義の精神投影説をテーマにしたものなので、今回の特集の中に収録されている。ちなみに彼は「歪曲理論」(ないしは「歪み理論」。本稿では「知覚変化理論」と訳されている)というのを唱えているのだが、これをオレ流に説明すると、UFO現象が人と場所によって全然違うストーリーになってしまうのは、UFO体験が目撃者の精神世界と外部の「何ものか」の間のコミュニオン――霊的交流とでも申しましょうか――からそのつど生成されるからで、目撃者は定常不変なモノをそのまんま知覚しているわけではない、いわばUFO体験は両者の共犯関係から生じているのだと言っている。……なに言ってるかよくわからんでしょ。まぁ普通はそうです(泣)。が、今号ではちょうどカラバカ氏の説に触れた「UFOとトゥルパ」(金色髑髏氏)という論考も掲載されているので、そのあたりも含めて味読していただければとても面白いと思います。

特集にはこのほかにも「秘密兵器説の盛衰」(ものぐさ太郎α氏)だとか円盤仮説本の紹介コーナーとかいろいろあって充実しとるけれども、ところどころに「円盤ミニ仮説」と称して執筆陣がふざけたアイデアを披瀝しているミニコーナーが挿入されていたのが面白かった。というのも、「本特集ではET仮説は基本ガン無視している」と先に書いたのだが、実はこのコーナーに限っては「宇宙人」の訪問を前提とした上で、「地球は中二病の楽園」とか「地球・道の駅説」だとか、宇宙人をインバウンド観光でやってきたノーテンキなお上りさん扱いしていたりする。宇宙人、お笑いのネタとしてであればアリなのかw

要するにこの雑誌の作り手たちは或る意味スレているというのか、「UFOは宇宙人の乗り物」といったプリミティブで単純な発想には些か飽いてしまっているようなのだった。いやだがよくよく考えてみると、最近UAP問題に注目が集まっているアメリカ議会周りの議論では、どうしたって異星人を連想させてしまう「エイリアン」などというコトバに代えて、「Non-human intelligence (NHI)」、つまりは「非人間知性体」といったコトバが用いられることが多くなってきていたりする。すれっからしのようでいて『UFO手帖』、実はスゲーマジメで、これで時代の先端をいっている(ホントか)


特集の紹介をしていたらずいぶん長くなってしまったので、あとは駆け足で。UFOにまつわる音楽、マンガを紹介するコーナーは今年も健在。「虚偽記憶、催眠、幻覚とUFO」(オオタケン氏)という、この雑誌ではあまり見かけない(失礼!)マジメな論考もあれば、日本人が円安に泣いている昨今を思うと相当にバブリーな「UFO事件地探訪 in ニューヨーク・マンハッタン」(夜桜UFO氏)といったユニークな記事もある。そういえば今号には、現地に在住しているMARO氏の「フィンランドのUFO事情」なんてのもあるし、先に紹介したカラバカ氏の寄稿もあってなんだか国際色豊かである。この路線も面白いので、今後に期待したいものである。

そうそう、それで最後にひとつ、稲生平太郎名義でUFO本の名著『何かが空を飛んでいる』を出したことで知られる英文学者の横山茂雄氏はこれまでにも本誌に再三登場しているのであるが、今号では「『聖別された肉体』補遺(1)」「藤澤親雄についてのノート」という原稿2本を執筆いただいている。直接UFOには関係ないように見えるけれども、こうした広義のオカルト研究はどうしたって根っこではUFO問題とも繋がってくるのであって、そこは具眼の士であれば敢えて語らずとも知るところである。味読していただきたい。

ということで本誌を読みたいという方はこのサイトの辺りを定期巡回されるが良かろう。どうかご贔屓に。(おしまい)

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