2025年05月

きょうもNHKニュースみてたら「大谷昭平ええぞワーイワーイ」という、いつもながらの大政翼賛会報道をやっていた。

実にくだらんのだが、改めてなんで日本のメディアはこんなアホ報道ばっかやってるのか考えてみた。結論からいうと国内メディアは痴呆症もかくやという思考停止状態に陥っているのである。

これが例えば日本のプロ野球の話だとしよう。そうすると、「巨人の岡本打った打ったワーイワーイ」という報道はなかなかやりづらい。何となれば日本国民の中には巨人ファンもいるけれども他の球団のファンもたんといる。露骨な応援報道をすると「なんでそんな依怙贔屓報道するんや!」という批判が寄せられるのは必定(もちろん日テレや読売新聞の場合はそういう批判を無視して巨人の応援報道をするのだがソレはまぁ「コイツらどうしようもねえな」という批判を甘んじて受ける覚悟でやっているので仕方ない)。

そこへいくと、日本人のほとんどは米メジャーリーグについて全く無知であり、ナショナルリーグ西地区の各チームの順位なんてものには全く関心がない。だから、ドジャースに在籍する大谷の活躍バンザイというのは逆にいえばドジャースと競っているジャイアンツやパドレスくたばれというのと同義なのだが、別にそういう報道姿勢をとっても腹を立てる日本人はほとんどいない。「日本人頑張れ!」みたいな幼稚な野球観しか持ち合わせていない多数派の日本人にとって「大谷ええぞ」報道は実に心地よい。「大谷が屁をこいた。素晴らしい」みたいな話がニュースになる現状はおかしいだろうという真っ当な批判の声はまったく広がっていかないのである。

そしてこれはまた時代の反映でもあるのだろう。つまり、SNSの発達等によって小うるさい大衆の罵詈雑言が拡大再生産されがちな近年のメディア環境を考えると、どこから弾丸が飛んでくるかわからず日々戦々恐々としているマスコミにとってどこからも文句が出そうにない大谷ガンバレネタは実にオイシイ。かくて思考停止したメディアはどうでもいい大谷ネタを狂ったように流し続ける。そして多くの国民もコレをおかしいとは思わない。国民もバカだしメディアもバカ。一連の狂乱報道の背後からはそんな愚かな国の今が透けてみえてくるのである。
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 いぜん閑古鳥が鳴いている当ブログであるが、今回紹介したいのはジャック・ヴァレの著書『欺瞞の使者 Messengers of Deception: UFO Contacts and Cults』(1979年)である。まずは本書がいかなる本なのかということについて粗々の解説をしておきたいのだが、大きくいうとこれは「陰謀論」の本である。

  ヴァレに興味のある方は先刻ご承知かと思うが、ユーフォロジストとしての彼の一枚看板は「UFOの地球外起源説(いわゆるET仮説)はデタラメだよ!」というものである。要するにUFOというのは宇宙人なんかとは全然関係ない、何だかよくわからん超自然的な存在であるということを彼はこれまでずっと主張してきた。一方で彼は「UFO現象というのは人間を何らかの形でコントロールする意図を有しているのではないか」といって、これを「コントロール・システム仮説」などと称しているのだが、これなんかもこの反ET説から派生するかたちで出てきているのだった。

  しかし、「それじゃあそもそもUFOの正体は何なのよ」という疑問が浮かぶ。こういう話になるとヴァレはまた禅問答のような話をしはじめてしまうので結局よくわからない。従ってでココではそういう話は省略するのだが、ともかくヴァレにはこの反ET論者としての顔がある。ところがヴァレにはもう一つの看板がある。それが「陰謀論者」としてのヴァレであって、この本はまさにそういう問題意識から書かれたものなのだった。

  それは、とりあえず「UFOは実在するのか」「UFOとは何なのか」といった問題とは離れたところで出てくる議論である。そういうものが実在するのかどうかはさておいて、この社会には、世間に流布しているUFOにまつわる伝説・おはなしを自分たちの何らかの目的のためにうまいこと利用している悪どい組織・団体があるんではないか――彼はしばしばそういうことを説いている。本書のタイトルにもなっている「欺瞞の使者」というのは、まさにそういう連中のことを指しているのである。

 ただ、本書で「欺瞞の使者」扱いされているのはUFOをネタに信者さんを集めているようなカルトばかりではなくて、米政府なんかも一種の陰謀の主体として想定されている。実際、陰謀論者としてのヴァレは「米政府はUFOの正体なんか全然分かってない。でも、たとえば開発中の秘密兵器がUFO扱いされたら大衆から真相が隠されてとっても都合が良いよね。だから米政府はこれまで故意にUFOにまつわるホラ話を流してきたフシがある」みたいなことをこれまで盛んに言ってきた(ここでは触れないが、彼はそういう陰謀が実在する証拠として「ペンタクル・メモ」と称する文書を見つけたとかいって大騒ぎしたこともある)。

  ここでちょっとだけ脱線すると、ヴァレはこの「米政府はどこまで知っているのか」という論点にかんして、2021年の最新刊『Trinity』で「どうも米軍は1945年の時点で墜落UFOを回収・調査していたようだ」ということを言いだしている。要するに従来の主張との整合性がちょっとおかしくなってきているのだが、そこは「いやいや回収してリバースエンジニアリングなんかもしたンだけど、結局何も分からんかったようだ」みたいなロジックで逃げようとしているようなのである。ここまでくるとどうも彼は陰謀論のダークサイドに堕ちかけているようで心配なのだが、話を元に戻すともともと彼にはそういう陰謀論者としての素地があったのだ。

  かくて「UFO方面で蠢いているアヤシイ人々を追ってみました」ということで彼が書いたのがこの本だったわけだが、参考までにいうと、ヴァレの数少ない邦訳書に『人はなぜエイリアン神話を求めるのか』(1996――原題は『Revelations: Alien Contact and Human Deception』(1991)――というのがあるンだが、これなんかも陰謀論系列の本ということができる。

  個人的にはこの「陰謀論者としてのヴァレ」というのはあんまり好きではない。しかし、この本を読むとなんかよくわからん有象無象のUFOカルト的なものがイロイロ出てきたりして、UFOをめぐる「うさんくささ」というのが行間からジワジワとにじみ出ているような気がする。言ってみれば本書はそういう「怪作」として楽しむべき本なのだろう。いつかちゃんと内容の紹介もしてみたいと思っているのだが、それはまた後日。



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 書影。これはたぶん初版のであるがなかなかに洒落ている

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 今朝の朝日新聞の「天声人語」は酷かった。冒頭と最後の部分を貼りつけておくけれども、要するに「スポーツ活動をしている子供は平等に試合に出してあげなさい。機会を奪われてスポーツ嫌いになったらいけないデショ」ということを言っている。あぁコレはあかんわ。一読オレはそう思った。

 どこが酷いのか。以下、順を追って指摘してみたい。

 その一
 まず言っておきたいが、「多くの子供たちにスポーツを楽しんでほしい」という考え自体は一般論としては正しい。だが、スポーツの楽しみ方といっても、実際には様々なレベルがある。

 一つには「勝敗なんか度外視して何かみんなで体を動かすのが楽しい」というのがある。一例を挙げれば、腹の突き出た中年オヤジがワイワイいいながらやっている草野球や草サッカーのようなものである。

 だが、一方には、「大会優勝」というような或る種の「目標」を目指し、ギリギリまで心身を追い込んでいくところに生まれる楽しみというのもある。マラソンに入れ込んだ人が市民ランナーの勲章と言われるサブスリーをなんとか達成して「あぁ嬉しい!」というようなものだ。より一般化して言えば「試練・苦難を乗り越えたが故の楽しみ」ということになろうか。

 しかし今回の天声人語は、この「試練を乗り越える」というスポーツの一側面を「勝利至上主義」と断じ、子供たちをそうした世界から隔離せよと主張している。個々の選手には力量差があるので勝利至上主義では浮かばれない子供たちがいる、だからみんな仲良く楽しむスポーツでいいジャン、オヤジたちの草野球みたいに遊んでやってりゃいいジャンと言っているのである。

 いやだが、暇つぶしではないスポーツ、大げさにいえば「生きるか死ぬか」ぐらいの気持ちで取り組むスポーツというものは実際に存在しているのだし、それは天声人語言うところの勝利至上主義、優勝劣敗の原理とは切り離せないものだろう。これを「勝利至上主義だからダメ」と切り捨てていいものかどうか。或いは子供たちには酷だということなのかもしらんが、彼らの中にも「ライバルに勝ちたい」「少しでもうまくなってレギュラーを取りたい」といった競争心は旺盛にあるハズで、だからこそ練習もし努力もする。もちろんその努力が報われずに万年補欠で口惜しい思いをすることもあるだろうが、むしろ人間はそういう体験を経て成長していくものだ。

 というわけで、今日の天声人語を読んだオレは、とある「都市伝説」(笑)を思い出した――とある小学校では、「負けた子が可哀想だ」という理由から運動会の徒競走でみんな仲良くおててつないでゴールすることにしている……まぁ流石にそんな学校は実在しないと思うのだが朝日新聞的にはこういう運動会が理想なのだろう。まさに人間の生きる社会を直視したこともない道学教師の言い分である。

 その二
 これも天声人語にしばしば出てくる論法であるが、今回のヤツも「スポーツ大国の豪州」の例を引いて「だから日本も反省しなさい」というロジックになっている。オレが再三批判しているように、この手の「出羽守論法」というのはその土地土地の文化であるとか歴史的経緯を無視しがちであり、よっぽど注意して使わねばならないのだが、その辺が全くなっていない。そもそも「スポーツ大国」というのは何なのだろう。勝手に持ち上げられて豪州もさぞや恥ずかしかろう。

 その三 
 これは今回のテーマとは直接関係のないことであるが、文末の「・・・するといい」という表現には虫酸が走る。これはライバル紙・読売の同様のコラムにも頻出するので天声人語だけの問題ではないのだが、要するに「自分はモノが分かっているので忠告してあげるが、無知蒙昧なアンタらはオレが言うようにやってみたらエエんや」というニュアンスがある。なんか恩着せがましい感じに腹が立つ。


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 ユーフォロジーに関するSNSの書き込みなどで、最近「スピ系」というコトバを見かけることが増えてきた。文脈的にはUFOやその「搭乗者」を宗教的・霊的なアイコンとして盲信する人々・営為を指すコトバのようで、どうやらそこには揶揄の調子もいかほどか含まれているようだ。だがそれは果たして真っ当なワーディングといえるのか。私見ながら、ここには大きな問題がある。

 もちろん当方も、個人的にはUFOと霊的存在を重ねて考えるような人々・営為には疑念をもっている。もってはいるんだが、しかしここで何故「スピ」という語句が持ち出されねばならないのか、よく分からないのである。

 言うまでもなく、ここでいう「スピ」というのは「スピリチュアル」の略であろう(ちなみにスピリチュアルと似て非なる「スピリチュアリズム」というのは、一般には死後の霊魂存在や霊との交信を肯定する「心霊主義」を指しており、ここでいう「スピ」とは若干位相を異にしているものと思われる)。

 だが、「スピリチュアル」というコトバには当然歴史的に積み重ねられてきた意味がある。この「スピ系」というのは、そうした従来のスピリチュアリル/スピリチュアリティと如何なる関係にあるのか。そこで想定されている「スピリチュアル」とは一体何なのか。このあたりを曖昧にしたまま「スピ」というコトバを無自覚的に用いてしまうのであれば、それはユーフォロジーではなく床屋のおっさんから聞かされるUFO話とたいして変わらない。ネトウヨの皆さんが「左翼」の何たるかも知らずに反対者を「パヨク」と呼んで、「オレからみればその程度よ!」と悦に入っているようなものであろう。

 では「スピリチュアル」とはそもそも何なのか。たまたま今読んでいる吉永進一『霊的近代の興隆』(国書刊行会)にその辺にかかわるくだりがあったので、以下引用してみる。



 
アメリカにおいて、現在「スピリチュアリティ」と総称される領域は、それ以前には「ニューエイジ」と呼ばれていた領域とほぼ重なり、歴史を遡って十九世紀後半であれば、スウェーデンボルグ主義、スピリチュアリズム、催眠術、マインドキュア(ニューソート)、神智学、東洋宗教などが含まれる。個人志向の傾向がつよく、既成のキリスト教に対して批判的なスタンスをとり、自然科学に対して親和的である。信仰よりも学習や修行を重視する傾向がある。内的な霊性(スピリチュアリティ)を重視し、世界を善と見ることが多く(以下略)」(156頁)




 この引用部を読んだだけでも分かるだろうが、スピリチュアルという概念には相当に重層的な意味が込められている。「スピ系」という括り方はいささか雑すぎるのである。

 さらに言えば、わが国では宗教学者の島薗進が、いまさら宗教には帰れないけれども近代合理主義を越えた「霊的」な価値を希求せずにはおれない現代人の心性を捉え、「近代」と「宗教」にかわる第三の道としての「スピリチュアリティ」を肯定的に捉え直す議論を続けてきたことも広く知られている。同じく宗教学者の堀江宗正も、現代日本における「宗教的なもの」のありようをつかみ取る上で「スピリチュアリティ」という概念はとても重要であると主張している。かような知的営為を踏まえてみると、「こいつらスピ系な!」みたいな物言いはいささか脳天気に過ぎるのではないかと思えてくる。

 ちなみに私見では、こうした研究でいうところの「スピリチュアリティ」は、「組織・団体に頼らず個人として内面を掘り下げていく」というところに大きな特徴があるのだが、「スピ系」というコトバにはそんな含意もなさそうだ。結局のところ、「スピ系」というのは「なんか宗教っぽい」ぐらいの符牒にしかみえないのである。

 もちろん、かつて一世を風靡した江原啓之が「スピリチュアリスト」などと称していたこともあり、スピリチュアリティというのはイコール「霊魂がどうこうみたいな話」程度の浅薄な理解が一般に広まっているのも事実だろう。だからこそ「スピ系」といった軽いコトバで大衆にアプローチしたいという意図も分からないではないが、先にも述べた通り、そのような言説はユーフォロジーではなく与太話に終わってしまう可能性がきわめて高い。

 まぁ学術研究のようにいちいちコトバの定義から始めよとまでは言わんけれども、「なんとなく」や「雰囲気」に乗っかった議論というのは、如何に世間的に胡散臭いユーフォロジーであっても警戒せねばならぬものだと思う。というか、胡散臭いユーフォロジーであるからこそ避けるべきものだと思うのだがどうか。(おわり)


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  お花見はできなかったな。また来年。
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