*マーティン・ガードナー『奇妙な論理Ⅱ』の邦訳でチャールズ・フォートを論じていた第4章「フォーティアン」がカットされていたのを悲しんで、だったら適当訳で紹介してみようという企画の超ひさしぶりの第二回。文中フォートの文章の引用があるのだが機械翻訳を駆使しても何がなんだか分からなかったので(笑)その辺はテキトーに雰囲気だけ味わってください(第1回はこちら)。
フォートが示唆するところでは、地球は総じていえばずっと静止しているものである。「それは回転するには回転しているのだろうが、その回転というのは1年かそこらで一周する公転である。誰もがそうだろうが、何が合理性を成り立たせているのかについては私なりの考えがある。それが私の考える [論敵との間の] 妥協案ということになる」。彼は、フーコーの振子のような、地球が毎日自転していることを示す伝統的な「証拠」に対してかなり詳しく反論を加えている。
フォートが示唆するところでは、地球は総じていえばずっと静止しているものである。「それは回転するには回転しているのだろうが、その回転というのは1年かそこらで一周する公転である。誰もがそうだろうが、何が合理性を成り立たせているのかについては私なりの考えがある。それが私の考える [論敵との間の] 妥協案ということになる」。彼は、フーコーの振子のような、地球が毎日自転していることを示す伝統的な「証拠」に対してかなり詳しく反論を加えている。
地球を回る星々の動きを説明するために、フォートは、地球というのは不透明な殻によって(それはそう遠くないところにあるのだという)覆われているのだと仮定した。星というのはその殻に空いた穴で、そこから光が漏れ出すのだとする。星のまたたきというのは、おそらくはその殻の「振動」による。その殻は不動のものではない。「最も剛性のある物質でも、局所的に渦が起きることはあるだろう。それ故に星々は――あるいは「小さな穴は」といってもいいのだが――お互いに旋回しあっているのかもしれない・・・」。時として流星は殻のうちのゼラチン状の部分を通じて降り注ぐ。それらが通過する際に、物質の塊を引きはがしながら。フォートは、ゼリー状の物質が空から降ってきた何百もの記録を集めた。彼は飛行士たちに向けて、「あなたたちも『干しぶどうみたいに』いつか空にくっついてしまうかもしれない」と警告した。ただ彼は、「空すべててがゼラチン質だというのは荒唐無稽だ。一部の領域だけがそうなっているという説のほうが説得力があるだろう」ともいっていた。
フォートの示唆したところによれば、星雲というのは殻の上で輝いている斑点である。暗黒星雲は不透明な斑点だ。中には「広々とした円形の洞窟に垂れ下がっている巨大な鍾乳石のように」突き出た部分があるのかもしれない。そうしたものの一つに、馬の首星雲と呼ばれるものがある。それは「蛍光色の紙吹雪が舞う狂乱の中にあって巻き込まれまいと断固孤立を守る存在の如くである。それは個体にすらみえる暗闇である。選挙の夜になぞらえれば、それは民主党の祝賀でブロードウェイの他のすべてが狂乱状態になっている下、共和党支持のウールワースビルがひとり置かれた姿のようである」。
フォートは『見よ!』でこう書いた。「星々の地には文明があるかもしれない。あるいは星々の殻のくぼんだところには、地球の植民地ともなりうる、広大で居住可能な領域があるのかもしれない」。ここには来たるべき宇宙旅行についてのフォートの詩的ビジョンが見てとれる。
時は来たれりスローガンは響く――空へ向かおう!星々への旅。あふれる冒険者――映画ニュース――広報係やインタビュー――リラ星に向かう男は持っていくタバコの銘柄を広告することで経費を節約する。そして、そうしたすべてはごくありふれたものとなる。おうし座とオリオン座への個人ツアー。ベガ星の近くでの夏休み。「僕の父親が言うには、月に行く前には遺言を書いていくという時代があった」「それでも、昔の空にはどこか穏やかなものがあった。口紅や席巻、水着の看板なんてものを見上げているとだんだんイライラしてくる」
フォートはこう断言した。――上空のどこかにはスーパー・サルガッソー海というものが浮かんでいて、その中には彼いうところのジェネシストリンという島がある。こうした領域には様々な物体や生物がいて、しばしば地上に落下してくるのだと。
フォートは空から奇妙なものが振ってきたという幾千もの記録を収集した。それは虫、魚、死んだ鳥、レンガ、加工された石、鉄製品、色のついた雨、小さなカエル(しかしながらオタマジャクシが降った記録が全くなかったことに彼は困惑した)。そしてタマビキガイ。そのほとんどはスーパー・サルガッソー海に吹き寄せられてきたゴミで、その時期はともかく、それらはもともと地球や他の惑星にあったものだという。
赤い雨についてはちゃんと実証された事例がある。赤みを帯びたチリが水と混ざり合ったのだというのが従来の説明なのだ。しかし、フォートはもっと良い説明があると言った。
タンパク質でできた海、ないしは孵化中の卵の如きもの(そのプロセスで地球は発達の一つの中心となる)を流れる血の川。ジェネシストリンには超動脈があるということ。夕焼けはすなわちそれらの意識であるということ。それらは時に空をオーロラで染めるということ・・・あるいは太陽系全体が生きた存在であるということ。つまりこの地上に降り注ぐ血の雨は、その体内からの出血だということ——あるいは海に巨大な生物が存在するのと同じように、空に巨大な生物がいるということ――あるいは特別な何か・特別な時間・特別な場所があるということ。ブルックリン橋ほどの大きさの何かが宇宙空間で生きているが、セントラルパークほどの大きさの何かがそれを殺してしまう——かくて血はしたたり落ちる。
チャールズ・フォートにはこのほかにも同様に奇抜な理論が山とある。本書が終わるまでに、我々はその多くに論及する機会があることだろう。しかしいま我々は、彼の仰天モノの思弁についてどう考えるかをハッキリ決めねばなるまい。フォートはユーモアの人だったのか。それとも頭のおかしい人か。ヘクトが言ったように、彼の著作は「桁外れのジョーク」だったのか。それとも彼は自ら提唱した諸理論を本気で信じていたのか。
ティファニー・セイヤーはその辺のことを知っていて当然の人物であるが、彼はフォートの四冊の著作を収録した1941年版の単行本の序文で、明確な回答を示している。「長年にわたり彼と親交のあった者として、このように断言しても私は許されることだろう。彼はそのようなことを一切信じていなかった。……チャールズ・フォートは決して偏屈者ではなかった。彼は自らの驚くべき『仮説』を1ミリも信じていなかった。道理のわかった大人が彼の文章を読めば分かるように。彼は自らの主張を冗談めかして提示したのだ――エホバがカモノハシを、そしておそらくは人間を創造したように……」
(つづく)

