2026年03月

マーティン・ガードナーのフォート論はこれが最後です。オシマイのほうは直接フォートではなく、アンソニー・スタンデンという化学者を批判することに終始していますね。そこはちょっと残念。(前回はこちら



英国の化学者で現在は米国籍を得ているアンソニー・スタンデンは1950年、『科学は聖牛なり』と題した著書で「科学主義」を手ひどく批判し、大きな反響を呼んだ。スタンドンはセント・ジョンズで1942年から46年まで教鞭を執ったが、「カトリック・ワールド」(1950年2月号)によれば、その体験は「最終的に彼をキリスト教への改宗に導いた」。

スタンデンの見るところ、現代の科学者たちをひとかたまりのグループとしてみるならば、彼らは自信過剰にして傲慢、自惚れ屋であって、自分たちが思っているほど賢いわけではない。対して、古典主義に情熱を燃やす教育者たち――つまりモーティマー・アドラーやロバート・ハッチンズのような人々は、謙虚で控えめな人物といえるだろう。さらにジョン・デューイは、文明の未来は科学的なモノの見方が広がるかどうかにかかっていると示唆したことについて苦言を呈している。ヒレア・ベロックは「科学が広まれば広まるほど世界は悪化する」と述べていないだろうか、と(ベロックの科学に関する知識については第11章で考察したい)。

ここにはアリストテレスを称えるおなじみの太鼓の音が響いている。曰く――このギリシャの哲学者が「重い物体は軽い物体より早く落下する」と言ったのは、最終的に正しかった。なぜなら空気抵抗が物体に及ぼす影響は物体が重いほど小さいからである。そうしてみると、ガリレオがあれほどまでに賞賛されるのは如何なものだろう。それに、ガリレオはピサの斜塔から二つのおもりを一緒に落としたことなどない。それは他の塔で行ったことだったのだ、等々。だがここでスタンドンが語っていないことがある。アリストテレスは、落下物体の事例を「真空は存在しえない」という全く的外れな主張の証拠として持ち出していたのである。

スタンデンはこう告げている。「科学の第一の目的は神の御業を通じて神を学び、神を讃えることである」。社会学者たちは愚かなことに、自分たちは神学抜きで倫理の科学を発展させることができると考えている。生物化学者たちは我々に「進化のプロセスは徐々に階梯を踏んで進むものだ」と信じさせようとしている。だが実際には、「進化は大きな飛躍を経て進んできた」という考えを支持する余地も同等にある(スタンデンはここで自らの真の意図を明かしていない。もし進化が飛躍を経て進むのであれば、人間の魂は動物のそれとは歴史的にみて明らかに断絶したものであり得る――彼はそう言いたいのだ)。生物学者が「基本的に動物の生命が目指すものは快適さである」というような戯れ言を吐いたなら、「これに対して必要十分な答えはこうである――たわごとだ」

彼は結論づける。「科学者たちが我々を騙そうとしないか、我々は注意深く見守る必要がある」。チャールズ・フォートも同じ考えをこう表現した。「…もし誰も天文学者たちの言うことを確かめようとしなかったら、彼らは好きなことを何でも言える自由を得ることになる」

スタンデンは「科学は現代の偉大なる聖牛である」と記している。。少しでもユーモアのセンスを持っている科学者であれば、自分たちが科学の前に深く頭を垂れているという図に笑いを禁じ得ないだろう。だが、同じ牛なら、科学者たちはフォートが引いているこちらの話のほうをより面白がるのではないか。

1899年5月25日、トロント・グローブ紙は、或る雌牛が二頭の子羊と一頭の子牛を出産したという記事を載せた。

フォートはこうコメントしている。「これが皆の心にどう響くかはわからない。だが標準的な生物学者はどうかといえば、私が『象が自転車二台と子象一頭を生んだ』と話しても、いずれも馬鹿げた話として五十歩百歩の扱いをするだろう」

古き良きフォートよ! 空に向かって進むんだ!(おしまい)

mixiチェック

チャールズ・フォートの主著『呪われた者の書』については、国書刊行会が南山宏訳で邦訳書の刊行準備を進めているという話がずっとあったワケだが、これまで何十年待っても出てこない。結局は出ないのかYOという感じになっていたのだが、なんとここにきて、同社から本年『呪われし者の書』なる書名でいよいよ刊行成るとのアナウンスがあった(というかそれらしきXのポストがあっただけだが)。

だがまぁ流石にここまで公言してしまったのだから今度は大丈夫だろう。

あな嬉しや。

というわけで、当ブログも勝手連的協賛企画(笑)として、今回はこれまで不定期で紹介してきたマーティン・ガードナーによるチャールズ・フォート論のつづきを掲載しましょう(前回はこちら)。もちろんカードナーは正統科学の立場からフォートに対してイロイロと難癖をつけているわけだが、まぁそういう批判を受け止めた上でフォートを読むというのも立体的にその実像が浮かび上がることにつながるんではないかと思ったりするのである。というわけで以下つづき。



『野生の才能』の中には笑いを誘う部分もある。「おはようございます!」としゃべってから、うっすら漂う緑色の蒸気の中に消えた犬がいた――そんな新聞記事をフォートが否定している箇所である。フォートが問題にしたのは「犬がしゃべった」という部分ではない。彼はしゃべる動物についての切り抜きなど山ほど持っていた。問題は「うっすら漂う緑色の蒸気の中に消えた」というところだったのだ。「そんな犬の話には騙されない」と彼は言っている。だが彼は、自分がそういう線引きをしたのは、結局のところ誰もがどこかには線を引かねばならないからなのだと明言している。そして彼は、この線引きが正しいといえるのは「真実か間違いか」を分けているからだ――というような言い方は慎重に避けている。

おそらく我々は、フォートの言を真面目に受け取りすぎたあまり、彼の仕掛けたもう一つのワナにはまってしまっているのだ。彼は無知な人間にはほど遠く、現代の量子論における「不確定性原理」などを論じたところをみれば、こうした問題をもちゃんと把握していたことがわかる。「電子は『アトランダム』に動く」という考え方に反対するのは今風ではない。ではあるけれども、フォートがそうした考えに向けたあざけりには、アインシュタインやバートランド・ラッセルによって為された、よりテクニカルな批判と響き合うものがあるのだ! フォートが科学的に間違ったことを口走る時でも(じっさいそういうことは多いのだが)、それはわざとやったのか、あるいは無知であるが故にそうしたのかはよくわからないのである。

奇妙なことに、フォートはSFにはほとんど関心がなかった。彼がごくわずかであれSFを読んでいたという形跡は全くない。彼の思弁は人を楽しませてくれるもののさほど独創的ではないのだが、その理由は恐らくそこのところにある。たとえば、彼のいう「星々をのぞかせて回転する殻」という概念はおそろしく陳腐なものだし、実際のところ彼以前に或るイタリアの奇人が提唱したものである。フォートは現代のSFに強い影響を与えたというのはしばしば語られるところであるが、それは過大評価のように思われる。彼のアイデアに基づいた長編小説は十数編、短編であれば数十編ほどあるのは確かだが、そうした作品はSFというよりも「怪奇譚」に類するものだ。「テレポーテーション」というようなフォートの術語の幾つかはSFファンタジーでおなじみの言葉になったが、総じて言えば彼のアイデアというのはストーリー上の巧妙な仕掛けとしては余りにも平凡過ぎるものである。ドライザーは、フォートの著作にはSFの素材になるものがあることをH・G・ウェルズに認めさせようとしたことがあるが、うまくはいかなかった。ウェルズはフォートの思弁は面白おかしいものだけれども科学的にみればしょせんイカモノだと断じていたのである。

フォーティアン協会が今なお存続しているのは理解しがたいことである。仮に我々が、市民のほとんどが科学の何たるかをちゃんと理解している時代に生きているとしたら、科学者たちに自らの限界というものを思い起こさせてくれる組織が存続する意味はあったかもしれない。しかし、売店に占星術の雑誌が並び、ヴェリコフスキーの本が売れている現状をみれば、我々はそんな時代から如何に遠いところにいるかは明らかだ。

1931年の時点では面白おかしく楽しむことがすべてだった。だが今日、フォーティアン協会の雑誌「ダウト」は、本当ならフォートとともに葬り去られるべきだったジョークをただダラダラと垂れ流す存在になってしまった。それは、フォート流の常套句をひたすら繰り返す以上のことはしていないし、面白くもないニュースを報じ、フォートがセイヤーに遺した全く価値のないメモを印刷することしかしていない。とりわけ問題なのは――それは全く笑い事ではないのだが――近年の同誌が「ポリオの原因になる」として扁桃腺切除に反対し、 [動物の]生体解剖に攻撃を加えていることだ。さらに、本来フォートとは関係のない、編集者の政治的な偏見がしばしばニュースに差し込まれていることに問題があるのは言うまでもない。

フォーティアン協会が推している「科学者」たちですら、総じていえば凡庸で独創性を欠いている。一例を挙げよう。アルフレッド・ウィルクス・ドレイソン少将は、フォーティアンたちの間ではフォート本人に次いで尊敬を集める地位にある人物だが、彼は前世紀の後半、イングランドのウールウィッチ王立陸軍士官学校で教授を務め、地球の氷河期を地軸の傾きから説明した。

この「ドレイソン仮説」は英国、特に軍関係者の間で流行した。ドレイソンは私財を相当に投じて数多くの書籍や小冊子を出版したが、正統派の天文学がこれに反論することにはひどく腹を立てていた。フォーティアン協会会員で現代の占星術師だったアルフレッド・H・ベイリーは1922年、『ドレイソン問題』を刊行した。ちなみに読者諸兄が少将の理論を探究したいと思った場合に備えて言っておくと(まぁそんなことはないと思うけれども)同書は今もフォーティアン協会が販売している(このほかドレイソンについての貴重な参考資料としては、アルジャーノン・F・R・ド・ホーシー提督による『ドレイソニア』(1911年)や、R・A・マリオット少佐による小冊子が数冊ある)。

近年の状況について言えば、フォーティアン志向というのは、高等教育の場において微弱ながらもある程度観察可能なほどには見てとることができる。その理由としては、おそらく一つには宗教的な正統主義の復興があるし、第二に [科学が生んだ] 原子爆弾への憤りというものがあるのかもしれない。それは、ハッチンスとアドラーによる「グレート・ブックス運動」*の或る部分において絶妙なかたちで現れた。もちろんこれは公然と語られたワケではないが、グレート・ブックス運動を進めた教育者たちのことを知った者は、推進者たちの多くが(概してであるが)科学者たちを愚かな連中と見做していた事実に驚かされるだろう。「愚かだ」というのは、リベラルアーツの教授たち、とりわけグレート・ブックスにかかわる仕事に熱心な教授たちに比べて愚かだといっているのである。
 
*訳注:20世紀中盤のアメリカで、主にロバート・メイナード・ハッチンスとモーティマー・J・アドラーによって展開された教育運動。西方の古典文献(グレート・ブックス)を基盤としたリベラルアーツ教育を普及させることに主眼を置いた



ハッチンスとアドラーによる全54巻の『西洋世界のグレート・ブックス』(1952年刊)には科学の「古典」が再録されているが、それらはあまりに古く、かつ専門的すぎるため、科学史の専門家以外にはほとんど価値のないものである。ハーバード大学の科学史家であるI・バーナード・コーエン助教授は、この叢書の書評(『サタデー・レビュー』1952年9月20日号)で次のように述べている。「ここに収められた科学の『グレート・ブックス』には、一種の考古学的価値しかない。地質学のような分野が丸ごと省かれているだけでなく、過去2世紀半にわたる主な科学思想の潮流についても、そのほとんどが出てこないのである」

アナポリスのセント・ジョンズ・カレッジでは、ロバート・ハッチンズの教育観が最も成功したかたちで実践に移されているが、実際のところをいえば、科学については大混乱が生じている。学校案内は、同校では他のどんな大学にも増して数学と科学実験とが必須になっていると豪語し、コンパス、ノギス、定規のようなものに至るまで、学生が使用する全ての器具をこれ見よがしのリストに掲載している。しかし、科学史における過去の重要ポイントにばかり重きを置いているため、学生たちが現代の科学をキッチリと把握するための時間はほとんど残されていないのだ。(つづく

mixiチェック

↑このページのトップヘ