けさの天声人語は、殺人事件の容疑者になってしまった義足のアスリート、ピストリウスのことを書いている。最後の部分はこんな感じである。

それにしても、日本で世界で、この青年の不屈の魂を授業の素材にした学校もあったろうと想像する。小欄も昨夏に取り上げた。人とたばこの善し悪しは煙になるまでわからない、という。生きている人間とは、定まりのつかないものだ▼むろん障害者スポーツとは何の関係もない事件である。だがここに来てドーピングの疑惑まで浮上してきた。「不吉な道具」の罠に落ちたアスリートの転落を、いまはただ悲しむばかりだ。


こういうコラムで「それにしても」とか言って場面転換をはかるのは下の下だと思うのだが、それはともかく、この文章、何を言いたいのかよくわからなかった。「あんな男を持ち上げてしまってスミマセンでした」と言って謝っているのだろうか? いや、「アスリートの転落」とか書いているから、「オレサマがせっかく応援してやったのに裏切りやがって、このバカヤロー」と言いたいのだろう。

つまりだ、このコラムの書き手は勝手にピストリウスをスバラシイ人だとまつりあげておいて、それがあとになって自分の期待するような人物ではなかったことがわかったので、可愛さ余って憎さ百倍、一転してこき下ろしているワケだ。

こういうところがバカなのである。

そりゃ確かに身障者スポーツをやってる人たちは、「逆境にめげずに鍛錬を重ねている身障者のカガミだエライエライ」という麗しき図式にはまりやすいから、その選手たちも高潔でスバラシイ人たちであるという風に考えがちなのだが、そんなことはない。人格者もいれば品性下劣な人だっているだろう。当たり前だ。

それに、これはこのブログでも何度も何度も書いていることなんだが(知ったことかという声が聞えてくるようだw)、そもそも超一流のスポーツ選手というのは、尋常ではない負荷を自らに課して「人為的肉体改造」にいそしんでいる、いわば一種の精神異常者である(とりあえずクスリはやめとこうネという話になっているが、健康に害があるとしても勝つためならば肉体改造ぜんぜっんOK、というのが連中の思想である)。例の柔道界のシゴキ問題なんかをみても、世界一をめざすスポーツ選手たちは「勝ちさえすりゃあ万事丸く収まるから」とゆー異常な世界に棲んでいることが丸わかりである。負けたからボロが出ちゃったけど。

その流れでいうと、身障者スポーツだってだんだん社会的認知を受けてきたわけだし、ピストリウスクラスになるともはや「プロ」である。「勝つためには何でもアリ」の世界へようこそ、である。そういう人間をつかまえて「身障者アスリート=逆境を乗り越えた高潔な人」みたいな牧歌的なステレオタイプにおさめようというのがそもそも間違っていたのだった。

というわけで、今回も天声人語は「身障者アスリート=絶対善」という願望(?)に目を曇らされてトンチンカンなことを書いてしまったのだった。けさの天声人語も「自分の人間を見る目は甘かった、全然なってなかった」とちゃんと書けば論旨がハッキリして良かったのだが、そこをモゴモゴいって誤魔化そうとしたので訳のわからない文章になってしまった。間違いは正直に認めればよい。小学校でもそうやって教えているぞ(笑)。