政府が「役人の待遇を見直すから消費税アップの件はよろしく」と言い出し、その流れで地方公務員の退職手当を削減することにしたんだが、その結果、埼玉あたりで「退職手当が削減される前に早期退職します」という学校の先生たちが相次いで「卒業式前に無責任じゃねーかコノヤロー」という世論が盛り上がっている、らしい。

確かにいまのうちに辞めれば150万円ほど「オトク」になるらしいのだ。さて、コイツはどう考えたらいいのか。

「教師のクセにカネに転びやがって!」というのが大方の反応であろう。わかる。まぁ教師への信頼というのはかなり揺らぎはじめているけれども、やはり教育に携わる者には、どこか大義とゆーか理想とゆーか、タテマエにとことんこだわって欲しいものだ、という気持ちはわれわれの中にまだある。「卒業直前の子供を見捨てるとは不届きデアルッ」と、ひとまずは言える。自分の子供の担任がこういうふるまいに出たら、もうガッカリである。教育地に堕ちたり、と嘆きたくもなる。

しかし。よくよく考えてみると、現場の教師とかの身になってみると、これはけっこう「究極の選択」であるのかもしれぬ。目の前に150万円。これを取れば「生徒を見捨てたナ」と罵声を浴びることになる。じゃあ、やせ我慢して取らずにおくべきか。しかし150万円というのは庶民にとってはけっこうなカネだ。150万円を「そんなものいらねーよ」といってドブに蹴込むことができるか。ま、少なくともオレだったらかなり迷った末にカネを取るような気がする。そして、オレ以外の人間に対しては「おまいらはカネは取るな」と説く(笑)。

つまり、こういう事例ではどうしたってカネに転ぶ人間は出てきてしまうのである(とゆーか、そういう人間が全然出てこないようだったら、その社会はけっこーコワイような気さえするゾ。全員が洗脳された社会みたいな感じで)。つまり、フツーの人間が生きている社会では、そういう金銭的なインセンティブによって大なり小なりヒトは動かされてしまうわけで、そのあたりは経済学が教えるところである。それはしょうがないことである。逆に言えば、150万に転んで「退職シマース」という人が大量に出てくることは最初から見えていたのだった。

もちろんヒトはいつでも「究極の選択」を強いられる可能性がある。大げさなことをいうなら、船が転覆して救命ボートがひとつ。乗員は8人生存しているが、ボートに乗れるのは7人。さてあなたはどうしますか、みたいな局面である。あるいは原発事故でもよい。ほっとくと原子炉が大爆発するんだが、いま決死隊が突入すれば何とか止められるかもしれない。そこで「いま行くとアンタは絶対死ぬ。でも行ってくれれば何百万人が助かるんで、行ってくれ」と頼まれたらどうするか。あるいは逆に、突入隊員の候補者に「アンタ行ってくれ」と頼めるかどうか。

そこで普遍的に正しい答えなどというものはない。そんな事態に直面した人間はとことん困ってしまう。だからこそわれわれの社会は、そういうどっちに転んでも後味の良くない「究極の選択」などしなくて済むように知恵をしぼったり、あるいはそういう選択が必要な局面など「そもそもありえないのだ」ようなフリをしてどうにかこうにかここまでやってきたのだった(もちろん上の原発事故の事例みたいに、もうどうしたって究極の選択をせざるを得なくなる局面はあるんだが、それはまた別の話)。

そうすっと今回の一件で一番反省すべきなのは、実はこういう二者択一を教師ひとりひとりに強いた政府なのではないか。どんな人間も持っている醜い一面を直視するのは辛いから、われわれは「そんなものはない」と否定するフリをしながら毎日を送ってきたのに、今回政府は教師たちに踏み絵をふませ、追い詰めてしまったことで「イヤやっぱり醜いものはある!」という事実を臆面もなくわれわれに突きつけてしまったのである。結果的に、ではあるンだが。

そういう人間の暗部を直視するような仕事は、本当は文学とかに任せておけばよいのだ。政治というのは、もうちょっとナァナァで、矛盾を矛盾と感じさせずに諸問題をうまくハンドリングしていくような営みなのではないか。「政治には理念や哲学が必要だ」みたいな議論もあるけれども、そこにはおのずから自制というものがあって然るべきなのである。安倍君にはそういう政治の機微みたいなものもゼヒ勉強をしていただきたいところなのだが、さて。