何か最近とみに怒りっぽくなってきたような気がする。
で、つらつら考えてみたんだが、まぁ人間の一生というものを思うに、人が最も怒りっぽくなるのは青春時代ではないか。
自我が発達するとともに、ふと気づくと「なんだこの俺を取り巻く世界の腐敗ぶりは!」とかナントカ、突如目覚めちゃったりして、親や社会に反抗を始める。場合によっては道路の敷石を引っぱがして機動隊に投げつけたり、火炎瓶を作ったり、大学の講堂を占拠しちゃったり、果ては悪い教祖にあおられて毒ガスを作り始めたりするのである。
ところが、まぁ例の全共闘世代が象徴的なんだが、この「革命」に敗れた若者たちは「♪就職が決まって 髪を切ってきたとき/もう若くないさと/君に言い訳し」たりして、このクソツマラン社会に迎合して生きていく術を覚えて、で、かつての怒りを忘れちゃうのだった。もちろんその怒りが見当違いであって、周囲からみると失笑モノという例は多々あるわけだが、しかしともかく青臭い議論をスッパリ止めるというのは、「生きるため」にそーゆーことを封印せざるを得ない事情もあるのだった。
だが、しかし、中年の俺が怒りっぽくなってきたのも道理、というところがあってだな、つまり総じていうと年寄りは再び「怒りっぽくなってくる」のである。短気になってくるのである。
そのあたりにはもちろん生物学的な衰えとかがあって、思うようにならん体を引き摺っていかんとならんのでストレスが溜まる、とか、諸々の事情これアリかとは思うのだが、そこには社会的背景もあると俺は睨んでおる。つまり年を取るということは、会社員とかであればもうそろそろ引退を意識し始めたりすることを意味するのだし、じっさいに退職するということになれば文字通り会社の桎梏とかから逃れ出ることにもなる。
そもそも人が「怒り」を忘れるのはオトナになって社会的なしがらみに絡め取られていくからじゃないかと言ったわけだが、ならばそれまで生きてきた「社会」からフェイドアウトしていくことは、再び「怒ってもいい」環境に置かれることと同義なんではないか。
記憶違いであればナンだが、確か作家のなだ・いなだなんかが「老人党」とかいって「社会にもの申す」みたいな活動をしているのも、「これまで差し障りがあってイロイロ言えなかった人も、引退したら話は別。年寄りこそ世の中に自由に発言していける存在なんだから頑張ろうゼ」みたいな発想に根ざしていたんじゃなかったかなぁ。
といったワケで、まぁ俺自身もそろそろ人生先が見えてきたし、なんか諸方面に義理立てして「まぁそこはことを荒立てないで」的にコトを丸める処世術は如何なものか、やっぱり怒るべきは怒らんといかんのじゃないか、と考え始めているのだった。もちろん、とはいいながらこんなブログであっても匿名で書いているというのは全然ハラが固まっていない証左であって、情けない限りではあるんだが。
そしてもう一つ、最近「人間、怒らにゃならん!」と切に思うようになった理由がある。例の原発の問題である。その辺になると話が長くなるので、また回を改めて書いてみたい。(つづく)
で、つらつら考えてみたんだが、まぁ人間の一生というものを思うに、人が最も怒りっぽくなるのは青春時代ではないか。
自我が発達するとともに、ふと気づくと「なんだこの俺を取り巻く世界の腐敗ぶりは!」とかナントカ、突如目覚めちゃったりして、親や社会に反抗を始める。場合によっては道路の敷石を引っぱがして機動隊に投げつけたり、火炎瓶を作ったり、大学の講堂を占拠しちゃったり、果ては悪い教祖にあおられて毒ガスを作り始めたりするのである。
ところが、まぁ例の全共闘世代が象徴的なんだが、この「革命」に敗れた若者たちは「♪就職が決まって 髪を切ってきたとき/もう若くないさと/君に言い訳し」たりして、このクソツマラン社会に迎合して生きていく術を覚えて、で、かつての怒りを忘れちゃうのだった。もちろんその怒りが見当違いであって、周囲からみると失笑モノという例は多々あるわけだが、しかしともかく青臭い議論をスッパリ止めるというのは、「生きるため」にそーゆーことを封印せざるを得ない事情もあるのだった。
だが、しかし、中年の俺が怒りっぽくなってきたのも道理、というところがあってだな、つまり総じていうと年寄りは再び「怒りっぽくなってくる」のである。短気になってくるのである。
そのあたりにはもちろん生物学的な衰えとかがあって、思うようにならん体を引き摺っていかんとならんのでストレスが溜まる、とか、諸々の事情これアリかとは思うのだが、そこには社会的背景もあると俺は睨んでおる。つまり年を取るということは、会社員とかであればもうそろそろ引退を意識し始めたりすることを意味するのだし、じっさいに退職するということになれば文字通り会社の桎梏とかから逃れ出ることにもなる。
そもそも人が「怒り」を忘れるのはオトナになって社会的なしがらみに絡め取られていくからじゃないかと言ったわけだが、ならばそれまで生きてきた「社会」からフェイドアウトしていくことは、再び「怒ってもいい」環境に置かれることと同義なんではないか。
記憶違いであればナンだが、確か作家のなだ・いなだなんかが「老人党」とかいって「社会にもの申す」みたいな活動をしているのも、「これまで差し障りがあってイロイロ言えなかった人も、引退したら話は別。年寄りこそ世の中に自由に発言していける存在なんだから頑張ろうゼ」みたいな発想に根ざしていたんじゃなかったかなぁ。
といったワケで、まぁ俺自身もそろそろ人生先が見えてきたし、なんか諸方面に義理立てして「まぁそこはことを荒立てないで」的にコトを丸める処世術は如何なものか、やっぱり怒るべきは怒らんといかんのじゃないか、と考え始めているのだった。もちろん、とはいいながらこんなブログであっても匿名で書いているというのは全然ハラが固まっていない証左であって、情けない限りではあるんだが。
そしてもう一つ、最近「人間、怒らにゃならん!」と切に思うようになった理由がある。例の原発の問題である。その辺になると話が長くなるので、また回を改めて書いてみたい。(つづく)
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