どうも最近新聞など既存マスメディアに世間の風当たりが強い、っつーかマスメディアが国民の信を失いつつあるような気がするのだが、これはなんでか。ちょっと考えたことがあるのでメモっとくか。

一つの仮説なんだが、これは記者でもディレクターでも何でもいいんだが、「情報の送り手」たちが「この問題は絶対に伝える価値があるし伝えなきゃならん!」みたいな自らの中心軸を失ってきてるから、じゃないのか。まぁいささかベタな議論ではあるとは承知してはいるんだが、何か自分の信念とか人生観とか、そういうとこに根ざした言葉はやはり強い。反発を買うこともあるンだろうが、そういう深いところから発しているものは良くも悪くもひとの魂に突き刺さるんでないか。

むかし朝日新聞に本多勝一という名物記者がいた。ベトナム報道とかあるいは日本の中国侵略の問題とかをルポして、ある意味、日本を代表するジャーナリストと称されるまでになったわけだが、左派からは支持されるものの右派からは蛇蝎の如く嫌われるという毀誉褒貶の多い人物であった。これなんか象徴的で、つまり冷戦時代にあって、彼なんかは心の底から「米帝よ反省しろや!」みたいなことを叫んでいたワケで、もちろん今になって「じゃあ対抗勢力としての社会主義陣営はどうだったのよ」というツッコミをするのは簡単なんだが、ともかく彼は命のかぎり信じるところのもの(というか彼が見切ったと信じた事実)に拠って強い言葉を発し続けたのだった(本多勝一については「リクルート接待問題」とかいろいろあるが、ここではそうした問題は措いておく)。

最近はどうか。オレが思うに、どうも報道にたずさわってる人間からそんな「信念」みたいなものは失われてしまったように思うのである(一部はのぞく)。もちろん「不偏不党」みたいなタテマエもあるので、アプリオリにある種のイデオロギーを是とするような姿勢はまずいけれども、重ねていえば「やっぱこりゃどう考えたっておかしいだろ」みたいな、プリミティブな怒りとか憤りとかそういう感情に支えられない言葉はどうにも弱い。体温が低さが如実に伝わってきてしまう。


そういやぁ、こないだの鉢呂経産相の「死の街」発言事件も一連の報道は実に醒めた調子だった。新聞とかの記事を読んでも、決して「こりゃ絶対許せん!」みたいなトーンで書いてるわけじゃなかった。そのあと「そういや記者たちに向かって『放射能つけちゃうぞ』みたいな発言もしてたぜ」みたいな話が蒸し返されて、合わせ技で鉢呂はトドメをさされたんだが、この「放射能つけちゃうぞ」の時点では記者さんたちはまったく問題にしてなかった。つまり、「この発言はマズイ」みたいなことは誰ひとり思ってなかったんだろうな。

つまりは、「なんとなく」報道して、「なんとなく」続報書いて、で、「あぁいつのまにか鉢呂やめざるをえない雰囲気になっちゃったね」みたいな感じ。他人事である。ネット界隈で「なんでこんなんでやめるんか! 言葉狩りじゃねーか」という反応が出るのももっともなのだ。メディア側が「いや、あの発言はどう考えたってまずい。100%鉢呂は辞任に値するッ」みたいに胸張って、つまりは確固たる信念をもって反論するんだったらそこにまた議論が発生するからまだいいんだが、そうはしない、否、できない。こいつはある意味で「俺たち実は何も考えてません」と言っているに等しい。受け手の側にしてみりゃ、こりゃ信用できなくなるわな。

なんでそういうことになってしまったのか。オレが思うにこれは「ペルソナ」の病なんだな。

ちょっと説明すると、社会の中で生きていく人間というのは、大なり小なり「ペルソナ=仮面」をかぶっていかなきゃならない。「××という会社に勤めていて、××という町に住んでて、子供が××人いる××歳の既婚男性」みたいに人にはそれぞれに様々な属性が賦与されているんであって、その場その場にあってその「ラベル」にふさわしい振る舞いをすることが社会的には期待されている。女装趣味がある男性がいたとして、しかし彼は決して会社に女装して出かけてはいかない。それぞれの仮面を適切な場面でつけかえる。そういう話だ。

で、こっから思い切り風呂敷を広げさせてもらう。もちろんTPOに応じて仮面を用いることは当たり前なのだ。ただし。もはや何か絶対的な規範なり基準点なんてものはない(ということになってしまった)このポスト・モダンという時代のせいなのかもしれないが、以前であれば「あ、たまたま今はこんなペルソナを被ってるけれども、これあくまでも仮面だからね」とうそぶいていた俺たちが、いまじゃ「あれ? これって仮面だっけ? ホントの自分だっけ?」とかワケ分らんことになってるんじゃねーか。俺ってホントは何を是とし、何を非として生きてきたんだっけ――そんなことさえわかんなくなってしまうのがペルソナの病であって、メディアもまたそんな病理に侵されつつあるんじゃねーか。

もちろんあらゆる商業メディアには大なり小なり「社論」みたいなものがあるから、最低限のところで分裂病的な事態は避けられてるんだろう。でもメディアを構成するひとりひとりの人間のレベルにまで目を向けてみれば、そんな「社論」みたいなものが個々の実存の根っこに組み込まれてるワケじゃねーから、それだって幾つかある仮面の中のひとつ。けっきょく、魂に根ざした言説みたいなものはマスメディアから消え失せちまった、ってとこだろう。

さっきの鉢呂事件だってそうだ。あくまで推測なんだが、ほとんどの記者は「この発言がそんなに問題か?」とか思ってはずだ。だが、最初はおずおずとではあったけれども、連中は書いた。で、その思考の流れをたどっていくのは決して難しくはない。

「自分自身は大したこととは思わない」
「でも、これだけ政治家の失言が問題になる時代だ」
「よその新聞は書いてくるだろうな。ウチだけ落とすわけにはいかねえよな」
「しょうがねえから書いとくか」

現在のマスメディアの世間相場を横並びで互いにチラチラ確認しあい、いわば「仮面」に操られるようにして書いちまう。こうやって大したことのない「失言」が、いつのまにか「大問題」に仕立てられちまうわけだ。うむ、何か紅衛兵による吊し上げ、それが言い過ぎならチクリ大会と化した小学校の反省会(笑)みたいな世界。「ウチは書かない。各メディアが大騒ぎするようならその現象自体の理不尽さをメタ視点で報道する」。そんな見識があれば大したものだったんだが。

こんな時代だからなかなか難しいんだとは思う。が、日々迷う身ではあっても、一歩立ち止まって考えれば少なくとも鉢呂事件で騒ぎ立てたことの馬鹿馬鹿しさぐらいは誰でもわかるんじゃねーか。マスメディアはまだ終わってないと思いたい。