このところ「運命」というものについて考えている。

ひとつには娘に頼まれてPCに録画しておいたTVアニメ「シュタインズ・ゲート」(MXテレビで9月迄やってたヤツ)を通しでみたこと。もうひとつは、たまたま本棚を整理していて目についたフィリップ・K・ディック『高い城の男』を読んだこと。こっちはだいぶ前に買ってたしか数十頁読んだだけで放り出していたんだが、それをたまたま手にとった。

ちなみに「シュタインズ・ゲート」のほうは、まぁネタバレになってしまうけれども、10年ほど前にアメリカであった「ジョン・タイター事件」をヒントにした物語である。簡単にいうと、アメリカの巨大掲示板に「2036年からタイムマシーンでやってきた」という人物が4か月ほどのあいだいろんな書き込みを行い、しかも「オイラの世界では2000年問題で大変なことが起こるので、それを未然に防ぐために来たんだよね」とか何とかソレっぽい動機を語ったり、タイムマシンの原理についてソレっぽい話を残していったりしたので、「おいこれひょっとしたらモノホン?」とか一部マニアの間でけっこう話題をよんだ不思議なお話だったのだが、そのあとおそらくはこの話に惹かれた人々がこの話を下敷きにしたゲームを作り、そしてこのたびはゲームからさらに派生するかたちでなかなかに素敵な青春ストーリーのアニメが生まれるに至ったのだった。

もちろん、ご承知のようにこういうタイムトラベルは「原理的にありえない」という議論もある。なんとなれば、たとえば過去にやってきた人間が自分が生まれる前の母親を殺すと自分はそもそも生まれなかったワケで、ここにパラドクスが生じてしまう、そういう矛盾が生じるからタイムトラベルは不可能だ、というのだった。

ところが現実のタイターが言うには「過去にやってきた人間が何かすると、その行為とツジツマがあうよう、その世界はもとの世界と違う世界に変化しちまうんだよね」みたいな説明をしているらしく、これを別の「世界線」への移行みたいな言い方で表現している。ふーん、で、けっきょく親殺しをしたらどういう歴史が生成されるのかネというツッコミはともかく、つまり「宇宙は無数のありうべき別の世界の存在を容認している」という世界観を彼は語っておる。アニメのほうもそれを踏襲していて、つまり「歴史というのは大筋で定まっているもンなんだが、原理的には人間の自由意思によって変えていくことも可能なのサ」と説いているようなのであった。

ちなみにリアルなタイター(というのもヘンだが)が語ったところによれば、彼のもといた世界では2000年過ぎにはアメリカでは内戦とか起こって世界中大変なことになっちまうらしいんだが、実際はそうならなかった。つまり「当たらなかったじゃねーか! そういやアイツ、9.11のことも全然言ってなかったじゃん。やっぱりタイター話は手の込んだイタズラだったな」とか怒ってもいいんだが、「いや、彼の歴史への介入によってわれわれの世界は違ったものになってしまったのだ」とか非常に都合のよい逃げ道(笑)を作ってあるところがタイターのストーリーのよく出来たところである。

ま、本家ジョン・タイターのストーリーが「電車男」的なエンターテインメントだったとしても全然困らんので、アニメに話を戻すが、「人間にはあらかじめ定められた宿命とか運命とかいうものがあって、それにはどうしても抗えない」という世界観が一方にあるとして、いや運命は決して変えられないものじゃない、少なくとも原理的には変えられる筈なのだ、自由意思はあるよ、とこの作品はわれわれを励ましてくれているのだ、なるほどなぁウーンとオレは感じ入ったのだった。

一方の『高い城の男』。これまた皆さんご承知のように一種の「もうひとつの世界」モノである。この作品で描かれるのは、第2次大戦で日独伊の枢軸国側が勝った世界で、アメリカも日独で分割統治されてたりする。で、その世界では、連合国側が戦争に勝ったという「もう一つの世界」を描く小説がベストセラーになっていて、みたいな入れ子状のストーリーが展開していくんだが、重要な小道具として「易」がしょっちゅう出てくるんだな。なんか「日本が勝った世界だから」という設定もあるんだろうが、この世界ではアメリカでも易占が流行ってるらしく、主な登場人物が「どうしたもんか」と思うような時にはしょっちゅう易を立てるのである。

で、これまた周知のように易占の卦というのはかなり抽象的・多義的である。この易の世界でも、大筋でいえば「起きること」は変えられない。変えられないんだが、易はそういう曖昧なものだから「読み替える」ことはできる。作中の人物たちもそうやって与えられた環境になんとかして主体的に立ち向かい、状況を切り開いていこうとする。

ちなみに作中のドイツは、宇宙にロケットを飛ばしたり地中海を干拓(笑)したりして、「人間の力を見よ!」的なゴーマンさに満ちた国として描かれてるんだが、これに対して日本側=易占の人々は、「運命はあるかもしれないね。でも難しいけどそれを変えることはできるかもしれないね」という、非常に謙虚でかつ叡智に満ちた存在として対比的に描かれてるのだった。面はゆいけど。

つまりね、そもそも「アメリカが負けた世界」というのはその世界に生きる者には当たり前で不可避のようにみえるけれども、人間が運命の要所要所でありうべき「もうひとつの世界」に向けての努力を重ねていったら結果はおのずから変わることもあるんじゃねーのか、というようなメッセージをこの小説から読み取ることも不可能ではないのである。もう一歩先に進めば、「この目の前の腐った世界は決して自明のものじゃねーのさ」ということにもなろうか。

というわけで、偶然とはいいながらなにかシンクロニシティ的に「運命は変えられない」というテーゼを疑う2つの作品と相次いで遭遇した次第。まぁベタな感想を述べておくならば、これって「諦めるなオレ!っつーことなのかナ」などと思ってみたりする。