さて、わが人生もいよいよ午後3時状態となってきたのでそろそろ「死」について考えないといけない。「死後の生存はあるか」という永遠の謎はやはり謎のままであるわけだが、例のNDE=臨死体験というのはその辺で何かヒントにならんのだろうか。

「あれはいよいよ死ぬときに安らかに最期を迎えられるよう脳内に麻薬物質が放出されてこの世ならぬ喜びに満たされたりするのだよ」という説もあるわけだが、ふと考える。生物としての人間というものを考えると、およそだいたいの生理的現象というのは「それが(自己の、あるいは子孫の)生存に有利だから」という理屈で説明可能である。ま、こういうのは後づけの理屈なので検証不能といわれるかもしらんが、経験則的にはなんとなく納得させられてしまうロジックである。

もちろん人間というのは文明という名の「人工的環境」を作る生物であるから、たとえば大昔の人間なら「余った栄養を脂肪にたくわえて有事に備える」という生存に有利な体質がいまだとかえって不利になってしまう、みたいな逆説もあるわけだが。

あるいは「社会」の存在を前提にすると、個々の人間のレベルではトクにはならなくても「社会全体」でみるとトクになる場合があって、そういう行動が人間には備わっていく、という事態も想定される。進化心理学みたいな考え方ですな。

で、臨死体験が仮に脳内麻薬の産物なのだとすると、さて、これは何かの「役に立つ」んだろうか? 仮に臨死体験というのがしょっちゅう起こるもので、生還した人が「いやー、死ぬってそんな怖いものじゃないよ、素晴らしかったよー」とか触れ回ってるんであれば、「あ、そうなんだ。じゃ、この社会を守るためにオレが犠牲になるのも悪くはないよねー」みたいな命知らずの連中が次々と現れて社会を防衛してくれるかもしれない。社会全体の存続を考えれば悪くない話だ。

でも、臨死体験ってそんなに頻繁に起きてるものかしら? ほとんどの人はそんな話は知らんまま一生過ごすのではないか(まぁ三途の川を渡って、ぐらいのイメージは漠然とあるかもしれないが)。するってーと、わざわざ脳内に麻薬物質が放出される理由がワカラン。そんなことしてもほとんどの人間はそれを伝えることなく死んでいくんだから。無駄なような気がする。

それとも「自己が消滅する」という絶体絶命の危機になると、もうここまでくると別に個体や子孫の生存なんか全然関係ないんだけど、もう自らへの最後のごほうびだ、脳内麻薬を出血大サービスだぁーという仕組みで脳が頑張っちゃうのであろうか。麻薬物質を蓄えておいてもどうせ使えないし大盤振る舞いだ、みたいな。

うーん、まぁ「死後の生存」なんてなくても死ぬときにはけっこう安楽に逝けるというのであれば、ま、以て瞑すべしだよネと思えなくもないが、実際はどうなのか。

とまぁ唐突にこんなことを書いたのも、アブダクションと臨死体験の類似性を指摘したと聞いてついつい買ったものの、何の因果か積ん読状態のまま本棚の片隅にずっと眠っていたケネス・リング『オメガ・プロジェクト』の背表紙をチラリと見かけたせいかもしれない。今度ちゃんと読んでみるか。




オメガ・プロジェクト―UFO遭遇と臨死体験の心理学

オメガ・プロジェクト―UFO遭遇と臨死体験の心理学

  • 作者: ケネス リング
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 1997/09
  • メディア: 単行本