ロンドン五輪の場合、時差の関係で、日本時間でいうと朝刊最終版の締め切りギリギリ(日付が変わった午前1時過ぎですな)に結果が出ることが多い。

注目の選手だと、新聞は勝っても負けても結果を突っ込まねばならない。いろいろ文章を練ってるヒマはない。そういう事情があることは百も承知で敢えていいたいのだが、そうやって最終14版にギリギリで突っ込んだ原稿には問題が多い(ちなみにこうやって作られた最終版というのは都市圏に配られる)。

特に社会面の記事。だいたいこういう構成になっている。

パート1 「注目の選手が勝った(あるいは負けた)。彼(または彼女)の五輪は終わった」
パート2 「振り返ってみればここに至るまでにはいろんな困難があった(このパーツは選手自身の話でもいいし、支えてくれた裏方・家族の話でもいい)」
パート3 「そんなこんながあったけれども、ともかく終わった。お疲れ様」

各パートの分量は体感的には1:8:1みたいな感じで、ほとんどがパート2で占められている。これはどういうことかというと、記者たちは家族とかに事前取材をしておいて、事前にパート2のところを書き上げておく。で、ギリギリの時間帯で「勝った/負けた」の情報を付け加えて原稿を完成させる。こういうフォーマットを用いているのではないだろうか。

それが証拠に、よくよく読んでみると、パート2というのは勝とうが負けようが、どっちの文脈でも通用する(というか、矛盾をきたさない)ストーリーなのである。まぁ基本的にはポジティブな話が多いので、勝った場合にはそれほど違和感がないのだが、問題なのは負けた場合である。「頑張った。頑張ったんだけども運は味方しなかった」みたいな展開になってしまって、いささか苦しい。

社会面とかだと注目選手については勝っても負けてもそれなりのヒューマンストーリーみたいなのを取りあえず載せねばならんのでこういう無理が生じてしまうのであろうが、今回のロンドン五輪報道からは、何か「速報性」と「読ませる記事」の2つの方向性のはざまで苦悩する現代の新聞の姿が見えてくるようなのだった。