で、本日ちょっと思ったこと。フェミニズム系の人たちっていますよね。その手の議論には詳しくないのだけれど、私の理解によれば、あの人たちはこういうことを言ってるような気がする。

つまり、男と女の区別というのは、社会の側が「こういうのが男のあるべき姿だよ」「こういうのが女のカガミね」っていう風に、年端もいかない子供たちにムリヤリ教え込むことによって作られる部分が多い、だから「女は母性をもっている」とか、「男の子は本来闘争的」「女の子がお人形遊びをするのは当たり前」みたいなハナシも相当にあやしいよ、もっと自由に生きようよ……そんなかんじの議論だと思うわけですわ。

で、その説の当否はどうでもいい、というか、まあそう考えるのは勝手なのでいいのです。でもなんだかなー、そういうことに目くじらたてはじめると、世の中ヘンなことばかりでおかしくなっちゃわないかな~と老婆心ながら思うわけです。

男と女って、まあ見た目はハッキリ違うし(だいたいの場合w)、生物学的にも相当の相違がある。でも人間の場合は遺伝要因とか何かより、環境とか文化で相当決まっちゃう部分が多い、という主張なわけでしょ。そうすっと、例えばいわゆる「血液型性格診断」なんてのは、彼らの論理からするとデタラメもいいとこですよね。だって、男と女ほど見た目が違ってても「いや実はそんなにかわらん」というわけですから、まして血液型ごときで性格やら何やらが決まるわけないだろーがー、ということになるのではないか。

とはいっても、別にここでフェミの人たちに「そういう主張をおもちなら、世の中ひどいハナシだらけなので、女性問題ばっかり目を向けないで、もっといろいろやってください」なんてぇことを言いたいわけではない。世の中にはヘンなことがいろいろあるけど、とりあえずいろんな意味で苦しめられる女性を救いたい、っていう極めて実践的・政治的な運動をやってらっしゃるわけでしょうからね、あの方たちは。

言いたいのはそういうことではなくて、仮にフェミの人たちの論理が科学的実証的に正しかったとしても(個人的には全然立証されてないと思いますけどそれはおいといて)、おおげさなことをいえば人間の認知システムはこの手のステレオタイプ抜きではうまく働かない、ってなところがあるんじゃないか、と。バカだろうが何だろうが、人間はそういういい加減な思いこみに頼って、ヨロヨロやっていくしかないようなところがあるんじゃないか。そういう人間観をとりあえず立てるとすると、フェミっていうのは何か壮大な人間改造の試みじゃないか、って気がする。

「昔ながらの男女観なんてのは正しくないよ」という議論はあっていいけれど、なんか人間の理詰めの行動が果たして人間を幸せにするのかどうか。何となく私はかつての毛沢東主義の末路みたいなものを考えてしまったりもする。確かG・オーウェルの「1984」にも、管理社会にあって最後に人間を救うのは一見バカにしかみえない庶民たちではないのか、みたいなくだりがあったような気がする。If there is hope, it lies in the Proleとかなんとか。