毎日混んだ電車で通勤しているが、乗車前の「列」に並びながらふと考えることがある。順番を守って粛々と電車がくるのを待つこと…大げさなことをいえば、それは近代日本が作り上げたシステムの象徴ではないか。
フーコーあたりも言っているのだろうが、一人一人の人間が勝手きままに動くのではなく、社会の仕組みというヤツを前提としてその歯車として動くということ、それこそが「近代」の正体ではないのか。
近代以前であれば、「整然とした行列」というのは無視されて当たり前、ではなかったか。例えば身分の高い人間は(象徴的な物言いではあるけれど)「列」に並ぶ必要はない。特別な待遇を受けて当たり前。
確かに行列に並ぶのはウザッタイけれど、まあそれが公正というものであるのだろうし、そういう仕組みと折り合って生きていくしかない。それが近代に生きるワレワレの常識なのだ。
でもしかし、時にそのような公正さが疑われることもある。そう、例のホリエモン事件のような出来事だ。彼は「力のある者はルールの範囲内でのし上がっていけばいいのだ」といった近代的論理を押し立てて登場してきたのだけれど、実は前近代的なズルで「横入り」を繰り返していたのではなかったか、というわけだ。
諦念とともに列に並ぶということ。ワレワレの社会とは、そういう覚悟とともに成り立たせていくしかないのだろう。ある意味で怖いのは、その諦念をワレワレが放り捨てて「もう勝手にやらせてもらう」といった逆ギレ状態に陥ることではないか…そんなことを考えながら、僕はきょうも満員の電車に乗り込んでいく。
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