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マーク・ピルキントン『ミラージュ・メン』(2010)

■第1章 境界部へ

「船はそこにあるのさ。見上げた人々の目には見えるんだ」 ――グレイ・バーカーの『アダムスキの書』(ソーサリアンブックス、1965


 「あのクソったれは何だ!」とティムが叫んだ。彼の声は恐怖というよりも驚きをにじませていた――それは初めてUFOを見た人間にとってはさもありなんというものだった。

 1995年の7月中旬、明るく晴れた午後のこと。友人のティム、当時のガールフレンドのリズ、そして私は、パンクしたタイヤを取り外す作業をしていた。場所はヨセミテ国立公園の東の境界から27マイル離れたティオガパス・ロード沿いのテナヤ湖。私は22歳だったが、私が前輪を取り替えようとしていたクルマも同い年だった。それは1973年製のオンボロで青空のような色をしたフォード・ギャラクシー500。バックシートにはマットレスを敷いていた。私たちは80日以上かけてアメリカを一周する旅に出ていて、ほとんど2ヶ月ほどが過ぎていた。しかし、そのクルマは限界に達していた。直近でクルマを点検した整備士たちは、あえぐように走る2トンのケダモノで私たちが旅を続けるのをやめさせようとした。そこから私たちは200マイルほど進んできたわけだが、私がスパナを握りしめてそのクルマの下に入り込んでいたのにはそんな事情があったわけだ――そこでティムが叫び声を上げた。

 ティムは私の前に棒立ちになり、信じられないという風に言った。「あれは何だ?」。私は「わからない。でも30分ほど前に同じものを見たぜ。ここから数マイル下のほうで」と応じた。

 私はタイヤのナットを回し続けたが、心もまるでコマのようにグルグルと回転し続けた。私たちが見たものが何であれ、それは20分ほど前に道路上で目撃したものと全く同じものだった。

 ヨセミテからここに向かう途中で、クルマのタイヤはパンクしてしまった。新しいタイヤを持ってこようと、リズと私は最寄りの町、リー・ヴァイニングへヒッチハイクをして向かった。それはモノ湖のわきにあって、石灰に覆われたような殺風景な光景の広がっている、かつては採鉱業の最前線にあった小さな町だった。仕事が済んだ私たちは、通りかかった2人乗りのコンバーチブルスポーツカーに乗り込んだ。リズは前に座り、髪をきれいになでつけたドライバーとぎこちない会話をしていた。一方の私は、ドライバーシートの後ろの空間に足を突っ込んで、修理されたホイールを抱えながら座っていた。

 風の強い二車線の舗装道路を走りながらヨセミテへと戻ってくると、涼しい山の空気が吹き付けてきた。樹木が密集した北側の森のところをカーブした時、木々の間に光るものが目に入った。防火帯になっている直線道路の90フィートほど先、高いモミの木の間に全く予想もつかないものがあったのだ。それは地表3フィートのあたりに滞空しているようで、静止していた。

 それは光を反射する銀色の完全な球体で、直径はおそらく8フィート。磨き上げられた巨大なクリスマスツリー用のオーナメントのようだった。それは私にルネ・マグリットの謎めいた作品『La Voix des Airs 天の声』に描かれた、緑豊かな風景の中に吊されたベルを連想させた。それは美しく、穏やかで、不気味で、そして違和感に満ちていた。

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  La Voix des Airs 

 私が自分が見ているものがどんなものかを認識した途端、それは木々の後ろに消えてしまった――私たちが曲がりくねった道路を走っていく間に。数秒後、私たちはまた別の防火帯用の道路を通過していったのだが、さきほどと同じ場所に目をこらした。それはまだ同じ場所にいた。水銀のように輝き、不動で、奇妙なほど完璧だった。一瞬の閃光を放ってからそれは木々の間に消えたのだが、それからまた別の曲がり角、別の道路を経て、再びあのいまいましい球体が出現した。私は、頭の中で説明を探したけれど、それを口に出すことはなかった。リズやドライバーは特に異常なものを見たような様子もなかったし、仮に私が何を言うべきかわかったとしても、爆音するエンジンと風の音の中でそれを伝えることは不可能だった。

 球体と森を後にした私たちは、自分たちのクルマに戻ってきた。それはきらめく湖と険しい岩山の間に挟まれた場所にあった。クルマをジャッキアップしてその下に潜り、ホイールを取り付ける作業をしている間、私は自らが見たものについて口にすることはなかった。ティムが叫び声を上げたのは、その時だった。私の視界にあったのは彼の足首と足だけだったが、彼とリズは興奮して大きな声を上げた。

 「早く!これを見ろ!いったい何なんだ!?」

 立ち上がった時、私はそこで何を見ることになるかは分かっていた。

 午後の日差しを受けて、それは湖の上を意志を持っているかのように滑り、私たちに向かって進んできた。穏やかに浮かんでいるさまは、まるでどこかの粘性のある流れに運ばれているかのようだった。それは先に見た球体とまったく同じように見えたが、同じものではなかった。というのは、それは約1/3マイル離れた湖の反対側からやってきたからだ。それは私たちの頭上約50フィートほどのところを飛んでいたが、全く音をたてず、急いでいる感じもなく、それでもどこか決然としたものを感じさせるような動きだった。そして、丘の穏やかな輪郭に沿うようにしてそれは視界から消えていった。この間の時間は1分足らずだった。

 「あれ、何だったの?」。リズが私たち全員の思いを代弁するように言った。虚無が一帯を満たした。頭は答えを探そうとしたが、何も出てくることはなかった。

 クルマの下に戻った私は、さらに少しナットを外して、不安が忍び寄ってくる感覚を抑えようとした。が、無理だった

 「まったくもって信じられない!もう一つ来るぞ!」とティムが叫んだ。

 急いで体を出すと、ちょうど間に合ってもう一つの球体を見ることができた。前のものとまったく同じで、湖の上をゆっくりと私たちに向かって進んできた。そのルートは先ほどのものとまったく同じだった。そして、それは丘を越えるように上昇し、まるでそこを毎日通っているのだという風に穏やかに進んでいった。

 私はカメラを取りにクルマに飛び込んだが、間に合わなかった。球体は消え去っていた。それが最後だった。

 おそろしく奇妙で、本当の話である。これは他の何千ものUFOの物語とも似ている。この話には、その当時私がUFOに多少興味を持っていたという事実によって、いささか奇妙さの度が増しているところもある。正直に言うと、その当時私はUFOに取り憑かれていた。私はこれまでずっと超常現象と異常なものに興味を抱き続けてきた――ほとんどの子供がエニド・ブライトンを読んでいる間に、私はH.G.ウェルズやブラム・ストーカーを読んでいたのだ。 しかし、どういうわけか1980年代後半になると、徐々にUFOが私の主要な関心事になっていったのである。

 1989年、16歳の時、私はスペイン南部で最初の目撃をした。友達と私は、9つの光るオレンジ色の球が地平線沿いに振幅の大きい正弦波を描くようにして転がっていくのを見た。私はそれらが次々と過ぎていったのを覚えているが、それはまるで粘っこい液体の中を見えない糸で結ばれて動いているかのようだった。私も友人もその光景にそれほど仰天したわけではなかったし、それが「エイリアンの宇宙船」だという可能性も頭には浮かばなかった。しかし、私はその出来事を何度も思い返しては、こう思ったものだ――私たちが見たものはいったい何だったのだろう、と。

 1990年代の初め、UFOは私にとってのすべてになっていた。後から考えると、私は無意識のうちに千年紀前夜の時代精神に捕らえられていたのかもしれない――星々の魅力に魅せられてしまった他の何千人もの人々と同様に。一方には冷静にしてハイテク技術をめぐるワクワク感に満ちたティモシー・グッドのUFO本(そこでは明らかにありえない航空体と軍とのコンタクトが論じられていたのだ)があり、他方にはホイットリー・ストリーバーの魂を揺さぶるエイリアン誘拐の回想録があった。そのはざまにあって、エイリアンとのコンタクトの可能性、そして我々の世界のそれとは違う生命体がいる可能性、島のようなこの地球を離脱できる可能性、そうしたものは大いにありそうなことと思われるようになっていたのだ。

 そして今や私は再び目撃を果たすことになった。

 ヨセミテでの出来事の奇妙さをさらに倍可させたのは、旅の途中で読んでいた本だった。それはカーラ・ターナーの『Into the Fringe』。心理学者にしてUFO研究者でもあった彼女は、私たちが目撃をした1年後に脳腫瘍で亡くなった。自分の家族のUFO体験について彼女が記した記録は、もともと奇怪なこの分野にあって、さらに折り紙つきの奇妙なものの一つであった。そこにはいくつかの浮遊する銀色の球体が登場しているのだが、ターナーはその球体を「貯蔵庫」になぞらえて、「そこでは人間の魂が何らかのかたちでリサイクルされるのだ」としている。その球体の中にあって、人間の魂は或る意味では他者 [訳注:原文はエイリアン] でもあるわけだが、それは母親の胎内に植えつけられる。それは外科手術のようでありながらもスピリチュアルなプロセスであり、UFO伝説の核心にある神秘的次元を医療のコトバで映したものなのだった。

 しかし、私たちがその日ヨセミテで見たものに、そんな魔術めいた要素は一切なかった。その遭遇に続く何年間か、「私たちの頭上を飛んでいたものについてありふれた説明はできないだろうか」という風に私は自問自答していた。

 あれはアルミ箔で覆われた風船だったのではないか?その可能性は否定できなかった。ただ、あれは風船というにはあまりに固いもののように見えた。もし私たちが岩を投げたら、カツンという音をしっかり立てただろう(投げなくて良かったが)。あれが飛んでいく時、水の上のコルクのように上下に揺れ動き、そして私たちの後ろの丘の輪郭に従ってスムーズに飛んでいった様子もまた、風船の動きとは全く異なっていた。風船であれば、ガレ場の斜面に無様にぶつかってから稜線を超えて飛んでいったことだろう。それだけではない。私の記憶では、気味が悪いことに、その物体を運んでいくに足るような風は少なくとも私たちが立っていた場所では吹いていなかった。

 もしかしたら、あれは球電やセントエルモの火のような珍しい大気現象だったのではないか? こうした電気的性格をもつ気体が泡だったものは、より超常的なUFO目撃のいくつかについては良い候補になろうし、昼間は銀色に見える可能性があるとされている。アメリカ空軍は何十年もの間、兵器化する可能性を探ってプラズマをの生成・コントロールするすべを探ってきた。しかし、再び言わせてもらえば、私たちが見た球体は明らかに固体で、「気体」ではなかった。

 あれは何らかのドローン機だったのか?私たちがいたのはチャイナレイク海軍航空兵器基地からそう遠くない場所だったが、その基地は海軍が新しいオモチャを試す試験場の一つであるから、その可能性はある。しかしかりにそうだったら、あれを空中に飛ばしていたテクノロジーはいかなるものだったのだろう。球状の物体がレーダーの訓練とその補正のために軍用機から投下されることがあるが、あれは垂直に落下していたわけでもパラシュートで降下していたわけでもなく、水平に飛んでいたのだ。

 こうしたプラグマティックな試みがうまくいかない場合、神秘的な説明だったらどうなるだろう? あの物体は、カーラー・ターナーの本に触発された私自身の無意識から湧き上がったもので、それから皆が共有できる現実にしみ出してきたものだったのではないか――そう、チベットの神秘主義における精霊トゥルパのように。違うだろうか? ふむ、一つの考えではある。そして告白せねばなるまいがそれは当時私が考えていたものだった。

 もしそれらが物理的な物体であったとすれば(私はそうだと信じているのだが)、アメリカ政府が秘密を保管している「ブラック・ボールト」や最新の軍事装備が収容されている倉庫にアクセスできない限り、「私たちがあの日見たものは何か」という問題に満足のいく答えを見つけることはできまい。そして、とらえどころのないこの現象ならではということになるが、少なくとも第二次大戦以降のUFO文献には同様な物体の報告が散見される。例えば1944年12月14日のニューヨークタイムズの記事にはこうある。「ドイツの新兵器が西部戦線に現れたことが本日明らかになった。アメリカ空軍のパイロットの報告によれば、彼らはドイツ領空上空で銀色の球体に遭遇している」

 謎の発光オーブは最初1942年にヨーロッパ上空で航空兵によって目撃された。これらの光の球は、黄色、オレンジ、銀色、緑、または青とその描写は一定しなかったのだが、航空機を追尾したとされ、激しい回避操作をしても攻撃したり、損傷を与えてきたりすることはなかった。イギリスのパイロットはこれらの光を「例のヤツ the thing」と呼び、アメリカ人は「フーファイターズ foo fighters」と呼んだ。これは人気のある漫画の消防士で、「フーのいるところ火事あり!Where there's foo, there's fire!」という決まり文句を持つスモーキー・ストーバーにちなんで命名されたものだった。元英空軍の情報将校(そして「グーン・ショー」のコメディアン)だったマイケル・ベンティンは、バルト海上空を飛行する際にパイロットを悩ませた怪光について、航空兵たちから報告を受けていたという。射撃手たちはその光に向けて発砲したが、それが応戦してくることはなかった。「その光は何をするでもなく、ただ脈動しながらあたりを飛び回っただけでした。我々は、それは疲労のせいだということで片付けましたが、のちに私がアメリカの情報機関G2に報告を出したところ、将官からは米軍の爆撃機でも空中に光をみていたと言われました――彼らはそれをフーファイターズと呼んでいたそうです」*

 フーファイターズの報告は、空軍省によって真剣に受け取られたが、他のパイロットからは笑い話とされることが多かった。それは球電のような珍しい自然現象だったのだろうか?それとも、多くの人が推測したように、秘密兵器、あるいは敵のパイロットに恐怖を与えるために意図された新しい種類の対空砲やデコイだったのだろうか?これらは無線で制御されていたのだろうか?他の航空機を追尾する仕組みを有していたのだろうか? ベンティンは、1943年のペーネミュンデ空襲に際して銀青色の球体に追跡されたというポーランドのパイロットから事情を聴取したことがある(ペーネミュンデはV2ロケットの生産地であった)。ここでまた別の進歩したテクノロジーが開発されていたことと、この件には関係があったのだろうか? それは定かでないし、今に残る戦時の記録に答えはない。ベンティンの個人的な結論は、もしそれがポーランド機を攻撃しなかったのだとすれば「それは大した兵器ではなかった」というものだったが、それはいささか鷹揚に過ぎるように思われるし、デコイや電子対抗手段(EMC)が戦争のスタンダードを占めている今日にあってはウブな考えでさえあるだろう。しかし、それは彼の上官の態度を反映したものであったわけで、我々の知る限り、上層部の人間はその問題に深入りしなかった。結局のところ、その時点で戦争は続いていたのだから。

 では、私がヨセミテで見た球体はどうだったのか?アメリカの諜報活動に関わったバックグラウンドを持ち、UFOに興味を持っている或る人物は、それはアメリカ軍の偵察用ドローンだったのだと私に語った。これはチャイナレイクの理論を支持するものかもしれない。また、アメリカ政府のために「遠隔視」(RV)を行ったと主張する超能力者は、球体は地球外に起源があり、そのことは一部の政府グループにはよく知られていると私に語った。また、あるアメリカ陸軍大佐は、球体はカンザス州のどこかに大量に集合していて、その一帯に幾何学的な模様を形作っていると彼女に [訳注:誰?] 語っていた。

 あり得る話だと読者諸兄も考えているかもしれない。ひょっとしたら、そういったものが広大なカンザス州の大草原にもミステリー・サークルを作っているのではないか? しかし、それから数年後、かつてサイエンスライターのパトリック・ハイグが著した『スワンプ・ガス・タイムズ』を読んでいた時のことが頭に浮かんできた。彼女は1980年代にカンザスの草原に住む人の話を記していたのだが、その農夫は、晴れた夜に最新式のコンバインで農作業をしているときの喜びについて語っていた。そういう場所が大好きだったと彼は言った。

    「ヤツらが来るまではね」
    「...ヤツらとは誰ですか?」
    「光が降りてきたんだ」と彼は言った。「ふと見るとヤツらはそこにはいない。次の瞬間、側面の窓から外を見ると、そこにいる。こっちと同じ早さで動き続けている。それから、まばたきしている間に、彼らは周りを回って反対側に姿をみせる」
    「UFOですか?」
    ...その男はそれが何であるかは言わなかった。ただ、「こういうものではない」というものの名を挙げた。「ヘリコプター、航空機、ヘッドライト、反射...」
    「で、これからどうしますか?」
    「やらなければならないことをするだけだよ。私はただ仕事をするだけだ」。そう彼は答えた。
    「最後にヤツらは空に飛び去って消えるんだ。本当に神経を逆なでするがな」

 ・・・おそらくカンザスの球体は1995年7月のあの日、ヨセミテで休暇を楽しんでいたのかもしれない。ちょうど私たちがそうしていたように。(01→02




 

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■第2章 円盤の出現

    「いま真実というものが失われているのなら、明日現れるのは神話だろう」 ――ユーリ・ハリトン

■2004年9月、カフェ・ブリス(ロンドン・ダルストン)

容赦ないほどに脂っこい朝食が消化器系に与えるインパクトにちなんで名づけられたブリス(至福)という店――そのお気に入りの店で、ジョン・ランドバーグと私は顔を合わせていた。ジョンと私が初めて会ったのは1998年だった。その時、私はミステリーサークルを作る彼のグループに加わった。そう、ミステリーサークルというのは例外なく人工的な産物なのだ。それも1970年代半ばからずっと。

ジョンと彼の仲間たちは1990年代初頭から毎夏ミステリーサークル作りに精を出してきた。それは今も変わらない。私は「フォーティアン・タイムズ」誌のジャーナリストとして彼らと出会ったのだが、しまいには彼らのチームに加わることになった。私は何年もの間この仕事に取り組んだが、それほど上手な作り手だったとはいえない。しかし(雨が降っている時を除けば)夜空の下の畑で働くことに飽きることはなかったし、ナゾのミステリーサークルを信じ込んでいるビリーバーたちがこねくり回す理屈というものに常に魅せられていた―その理屈というのは、この現象にスピリチュアルな意味でも情緒的な意味でもおカネの面でも入れ込んでいない人間にしてみればおそろしいほど明白にようにみえることに対し、真正面から向き合うのを避けて彼らが作り上げたものであったわけだが。

しかし、その日、私たちが話していたのは、ミステリーサークルのことではなかった。ジョンは映画製作に忙しく、政府とトラブルになったミステリーサークルの研究者にかんする短編ドキュメンタリーをまとめたところだった。私の向かいのシートにすべり込んだ彼は、いつものiPodのイヤホン、軍用の緑のパファージャケット、エイフェックス・ツインのスウェットシャツを身につけていた。バイキング系の名前が示唆するように背が高くて頑健で、髪を刈り込んだ彼はいつも笑顔だったが、そうでなければ威圧的に見える人物なのかもしれない。彼がベジタリアンの朝食を注文するや否や、我々は仕事の仕事を始めた。

「CIAのさる人物と話をしているんだ」。彼はひそひそ声で言った。「これまで彼が私に話したことは、結局全部がウソだった。でも彼は友好的な人物で、何かしらのことは知っているとボクはにらんでいるんだ。話の最後に彼は言ったよ。もしUFOに興味があるのなら、リチャード・ドーティーという人物についての映画を作ったらいいよ、って。君はこの人物を知ってるかい?」

私はベイクド・ビーンズを飲み込み、お茶を一口含み、深呼吸をしてから話し始めた。リチャード・C・ドーティーはUFO文書の地下世界に出没するメフィストフェレスとでも言うべきキャラクターだった。一部の人々にとってのドーティーは「暗黒の騎士」――かつて自らが活動していた諜報の世界と、彼自身が「エイリアンは地上にいる」という信じがたい情報を渡したUFO研究家たちが形作る世界の間にあって、捕らわれた暗黒の騎士であった。他の人々にとってのドーティーは「はぐれ者」――政府の陰謀のための道具にしてニセ情報を撒き散らす者、UFOの秘密を打ち破ろうという大義への裏切り者であった。言ってみれば、ドーティーは我々にとって近しいタイプの人間なのだった。UFOやミステリーサークルのような真偽の境界線上にある現象に引き寄せられてくる人間――それはジョンや私にとっては永遠の魅力の対象である。こうした事象は真空の中では生じない。その現象を育み、奇っ怪なその姿を現出させるためには、ドーティーのような人物が――そして我々のような人間もであるが――存在する必要がある。日常の世界における事実と、精巧なフィクションとの間のどこかに横たわる者が。換言するならば、もしUFOが森の中に着陸し、それを誰も目撃していなかったのなら、UFOは本当に存在したといえるのだろうか?

1970年代後半から1980年代初頭にかけて、ドーティーは米空軍特別捜査局(AFOSI)に勤務していた。この組織は、空軍内部におけるFBIのような役割を果たしている。通常、AFOSI(一般にはOSIと呼ばれているが)は、国内外の米空軍基地で発生した犯罪、例えば窃盗、薬物取引、殺人などを調査している。また、AFOSIは空軍とその作戦に対する脅威を発見・抑止する任務や、対敵情報活動、対敵諜報活動などの役割を担っており、それらは敵に対して技術的優位を維持するために極めて重要なものとなっている。米空軍は何十年にもわたって、新しい航空技術の開発において世界のリーダーであり続けてきたが、AFOSIはこの点において重要な役割を果たしてきたのである。

ニューメキシコ州のカートランド空軍基地に駐在するAFOSIの特別捜査官として、ドーティーは戦後期において最も奇っ怪な諜報活動のひとつに関わりをもつことになった。この話はもともと公にされるはずがないものだったが、実際には表沙汰になってしまった。その露見がドーティーの責任であるのか、それとも彼が大規模な作戦のスケープゴートに過ぎなかったのかは定かでないが、この事件は空軍の最も機密性の高い策謀を公衆の目に晒し、多くの人々が常に疑っていたこと、つまり米政府がUFOについてウソをついていたことを初めて明らかにしたのだった――ただしそれは、UFOコミュニティが望んでいたような形でなされたものではなかったのだが。

それは1979年、優れたエンジニアで物理学者でもある人物として50歳代前半に頭角を現したポール・ベネウィッツに関わるストーリーとして始まった。彼の経営する「サンダー・サイエンティフィック」社は、カートランド基地との境にある工場で、空軍やNASA向けに温度計やコンパスといった機器類を開発していた。ベネウィッツ自身は、カートランドの北側にある高級住宅街フォーヒルズに家族と共に住んでおり、そこからは基地やマンザノ山脈を見渡すことができたが、この山脈には当時、米国最大規模を誇る核兵器の貯蔵施設の一つがあった。

その年の7月、ベネウィッツは自宅の屋上デッキから、マンザノ地域周辺に飛び交う奇妙な光を撮影するとともに、それらに関連していると思しき無線通信を記録し始めた。彼は市民としての責任感をもつ人間だったし、空軍と契約を結んでいることもあったため、1980年になってからカートランド基地のセキュリティにいま起きていることを報告することにした。非常に優れた科学者ではあるものの、多くの優れた人々にはままあるように若干風変わりな面もあったベネウィッツは、その光体というのは高度に進歩した地球外生命体による乗り物であるに違いないと結論づけた。また彼は、彼らの意図は決して友好的なものではないと推測し、その旨を空軍に伝えた。

ここまでのところでも既に相当奇妙なストーリーではあるのだが、話はさらに奇妙で非常に不吉なものになっていく。2003年に75歳で亡くなったベネウィッツは、善良な人物で真の愛国者であった。空軍はこういってぞんざいに彼を追い払うこともできただろう。「ご協力ありがとうございます。これらは我が軍が機密にしている航空機なので、これは見なかったことにして誰にも話さないでください」。しかし、代わりに彼ら、つまりAFOSIは、ベネウィッツの無害な妄想を後押しするにとどまらず、それを増幅して最終的には彼を狂気の淵に追いやってしまうことを決めたのである。AFOSIはその後の数年間、彼に政府のUFO文書と称するニセ文書を渡し、悪意のある地球外生命体からの通信を受信しているように見えるコンピューターを供与し、はるか離れたニューメキシコの地にニセモノのUFO基地を作り上げた。これら全ては一人の風変わりな科学者をだますために行われたのである。

リチャード・ドーティーの役割は、ポール・ベネウィッツと親しくなって、彼を「宇宙戦争」の空想にさらに引き込むことであった。同時にドーティーは、少なくとももう一人、名高いUFO研究者であるウィリアム・ムーアとも秘密裏に連絡を取り合っていた。ムーアはUFO研究の世界で進められている最新の調査・研究の詳細をAFOSIに提供していたのである。ムーアの情報はニセの政府文書を作成するために利用され、それは「政府のトップレベルでUFOの隠蔽が行われている」というUFOコミュニティの疑念を補強し、ムーアの仲間の研究者たちを「人間とエイリアンの間には長年関わりがあった」とする偽史(それは2000年間にも及ぶということになっていた)に引き込んでいった。これについてムーア自身は、自分はホンモノの政府文書を提供してもらえるという約束で協力させられたのだと言い張った――ちなみにその文書では、地球外生命体は本当に地球を訪れており、米政府は人類史上最大のこのストーリーを隠蔽していることが証明されるはずだった。

このねじくれた作戦1980年代後半まで続き、最終的にはアメリカのUFOコミュニティ、そしてポール・ベネウィッツの精神の双方を破壊した。ドーティーの行動は最終的には暴露された。西ドイツでAFOSIの任務についた後、彼は空軍から退役し、ニューメキシコ州の州警察官となった。それが、私であれ他の誰であれ、リチャード・ドーティーについて当時知っていたことの全てであった。

私にとって本当に興味深かったのは、ドーティーとベネウィッツというのは、1980年代初頭以来出現した多くのUFO神話にかんして、そのソースではなかったとしても流出ルートにはなってきたということだった。墜落したUFO。悪いETと米政府が結んだ協定。エイリアンによる家畜の収奪や人間のDNAの操作。そうした話は、無数の書籍、記事、映画、テレビドキュメンタリーを通じて何度も語り継がれることで信憑性を増していった。ここは20世紀後半におけるフォークロアの生成の場であり、冷戦期のアメリカの夢想の中心、ミステリーサークル作りを通じて私とジョンがすでにその一部を成していた世界であった。

ドーティーが勝手に動く一匹狼だったのか、あるいは同じ任務に従事する多くのエージェントのうちの一人だったのかはわからない。ただ、確かなのは、アメリカの諜報機関は常にUFOのストーリーにクビを突っ込んでいたということだ。UFOコミュニティでは、CIAや国家安全保障局(NSA)といった組織は真実を隠蔽するための道具であるとされてきた。だが、ベネウィッツをめぐる出来事は、その話は逆なのかもしれないということを示唆していた。つまり、実際には、UFOをめぐる神話の多くはそうした機関が発していたのかもしれないということだ。

冷戦初期、アメリカはラジオ送信機を使ってソビエト深奥部に向けてプロパガンダを流していた。ロシアの大都市では「干渉活動」が行われており、何百人もの「ジャマー」が電子音やテープ録音、ガラガラ音や音声を使ってこれらの敵対的なアメリカからのシグナルを妨害していた。ノイズを作りだし、情報に何か付け加えたりニセ文書を作ることは――業界では「データ・チャフ」と言われるものだが――諜報活動や防諜活動では常套手段となっている。ベネウィッツ事件の真相というのはそういうものではなかったのか? 仮にそうなら、彼らが隠そうとしていたシグナルとは何だったのか?

私は、実際にUFOと諜報活動とが絡み合った話を読んだことがある。1950年代初期、CIAはハンガリーの王冠の宝石を「UFOの部品だ」と偽って国外に持ち出した。1991年にはMI6が、国連事務総長候補のブトロス・ブトロス=ガーリを地球外生命体に関する途方もない話と結びつけて中傷しようとした。こうした逸話は、諜報の世界の人々が地球外生命体の現実を覆い隠すために必死になっていたことを示唆するものとは思われず、むしろUFOというのは必要に応じて持ち出されるオモチャの一つに過ぎないことを示している。

では、なぜCIAのネタ元は、リチャード・ドーティーについての映画を作るようジョンに頼んだのか?確かに興味深いアイデアではあった。だが、それはトントン拍子で進むとは思えないシロモノだ。ドーティーはUFOの現場から離れて久しく、彼にインタビューできるるチャンスがあるとは思えなかった。さらに、UFOシーンがほぼ10年間停滞していたことも我々の足を引っ張った。インターネットの中ですら、異星人への関心は薄れているように見えた。関心のピークは1997年で、それは「Xファイル」が絶頂期を迎えた時であったし、その年の3月には非常に巨大な物体がアリゾナ州フェニックス上空を静かに移動していくのが目撃された。しかし、それ以来、このテーマに対する熱はすっかり醒めており、「フォーティアンタイムズ」誌に送られてくるUFOニュースの切り抜きが少なくなってきたことがそれを如実に示していた。当時の話として私が覚えているのは、英国のUFO組織の閉鎖と「ユーフォロジーの死」に関するものだけだ。ダメだ。UFOを追いかけるべき時期ではなかった。いや、UFOに関する話を追いかける時期ですらなかった。しかし、だからといって私たちは立ち止まっていいのだろうか?

私たちはリチャード・ドーティーについて、そして諜報の世界とUFOコミュニティの関わりについての映画を作ることに決めた。ひょっとしたら映画が完成する頃にはUFOが再び流行しているかもしれない。思いがけないことはこれまでにもたくさん起きてきたのだから。

新しいプロジェクトに興奮したジョンと私は別れた。しかし、家に帰って、自分が何にアタマを突っ込んだのかを考え始めると、最初の熱意は次第に消えていった。私は最後に世界がUFO熱で盛り上がった当時のことを思い出した。当時の私は、他の多くの人々と同様、UFO信仰の最前線にどっぷりと浸かっていた。果たして私は本当にあれと同じことを繰り返したいのだろうか?

■UFO:ノーフォークの日常

1995年のヨセミテでの目撃後まもなく、私はUFOに対するこだわりを反映しているかのような夢を見た。それは奇妙で強烈な夢であり、何年も無意識の中に染みつくようなものであった。その夢の中で、私はパディントン・ベアのようにしてエリザベス2世にお茶に招待された。私は輝く銀色の馬車で女王に会いに行った。宮殿の外観は覚えていないし、それが建物であったかどうかも定かではないが、内部は観光パンフレットに載っているような豪華な装飾で、赤いビロードと白貂の毛皮が掛けられ、宝石と金箔で飾られていた。女王は礼儀正しかったし、もちろん私もそうだった。私たちはボーンチャイナのティーカップでお茶を飲み、何かを話したが、その内容は覚えていない。そして、辞去する時が来た。

女王は私を宮殿の入口まで案内した。入口の敷居は輝く黄色い光で満たされていた。女王が私の手を取り、別れを告げるために前かがみになって頬にキスをしようとした瞬間、恐怖に包まれた。私の視点からは、化粧が剥げた部分が見え、その下には冷たく灰色で革のような異星人の肌があった。

フロイト派の解釈者であれば、これを幼児性の権力に対するファンタジーと解釈し、併せて女性から疎外されていることの表れだと指摘するのではないか。ユング派の解釈者は、これを内なるアニマ、つまり内なる女神との出会いと読みとるかもしれない。デイビッド・アイクは――私がこの夢を見た数年後に、彼はこのような出来事について一生懸命書いていたけれども――自在に姿を変え、人の血をすする爬虫類型異星人の支配者の恐ろしい現実を垣間見たものだとみなすだろう。UFOコミュニティの面々の多くは、これをホンモノの異星人に誘拐された体験を隠す「スクリーンメモリー」と考えるかもしれない。おそらくそれら全てが正しいのかもしれない。が、よくよく考えればそれは私がUFOに関する本をあまりに読みすぎていたことのあかしでもあった。

その秋、イギリスに戻った私は(当時はノリッジに住む学生だったのだが)ノーフォークUFO協会(NUFOS)に参加した。数か月後、グループの若い創設者がマリファナによる神経衰弱を起こしたため、私はリーダーを務めることとなった。

NUFOSの会合は、2週間に一度、ノリッジのウェンサム川沿いにある「フェリーボート・イン」で行われた。時には100人もの人々が集まることもあったが、中心メンバーは約20人で、退職した警察官や英空軍(RAF)の要員も含まれていた。多くのメンバーは自身の奇妙な経験に対する答えを求めていた。もっとも、その当時はUFOに関するストーリーがメディアで盛り上がっていて(そのほとんどは米政府によってエイリアンが解剖されたというインチキフィルムに関するものだったが)好奇心を募らせた人々もたくさんやってきていたのではあったが。


協会の会長として、ふだんは私がプレゼンテーションを行った。話したことといえば、「リモートビューイング」を試みるアメリカのサイキック・スパイプログラム、火星の人面岩、ネバダ砂漠のエリア51で本当に行われていること(私はアメリカでの旅で基地の周辺まで行ってきたのだった)、世界が2012年12月に終わるのか――といったもので、要するに今では使い古されたUFOの話題であった。当時はインターネットが普及する前だったので、これらの話題はそれほど知られていなかったのだ。そう、少なくともノリッジでは。

NUFOSは調査活動も行っており、地元の新聞に取り上げられることもあった。ある晩、私は空に奇妙な形の明るい光を撮影した男に会いに行った。が、それは再三UFOと間違われる金星であって、彼のビデオカメラの内部シャッターメカニズムによって異常に角張って映ったものであった。また別の時には、地元紙が空に漂うオレンジ色の光を映したビデオの静止画を掲載した。それは典型的なUFO映像で、形の定かならぬ光の塊が暗い夜空を背景にして浮かび上がっていた。それは何とでも言えそうなものだった。そのフィルムに関するニュース記事には私の家の電話番号が掲載されたので、その結果、奇妙な光を見たのだが何なのかという電話が数件かかってきた。私の標準的な対応はこういうものだった。目撃者に「寒くて耐えられなくなるか、飽きるまでその光を見続けてください。翌晩同じ時間に外に出て、また光があれば、こちらにもう一回電話してくる必要はないですね」。それでもう電話はかかってこなかった。

これは単純にして明快な解法であった。メディアでUFOの目撃が報じられると、好奇心旺盛な人々は空を見上げるわけだが、ほとんどの人はふだんそんなことをしていない。すると彼らはそれまで見たことのないものを目にして「UFOではないか」と思う。それは私自身何度も経験したことであった。最も一般的な犯人は明るい星や惑星(特にシリウスと金星)、衛星、流れ星、そして降下する飛行機であり、その前部のライトが空中で静止しているように見えることであった。これらの目撃がほとんどすべてのUFO報告を占める。そしてこれからもそうであろう。しかし、そうではないUFO報告もあり、私たちもそうしたものはいくつか受け取っていた。

中でも刮目すべきものは「空飛ぶ三角形」であり、そのバリエーションは今でも世界中で見られる。有名なものとしては、1989年のノーフォーク海岸沖の油田での事例があって、三角形をした黒い乗り物が(それはノース・シー・デルタと呼ばれることになる)2機のF-111戦闘機に護衛される中で米国のKG-135給油機により燃料補給されているのが目撃された。これは凧やカモメの誤認ではなかった。目撃者のクリス・ギブソンは王立防空監視軍団の元隊員であり、航空機には詳しかった。

これらの「空飛ぶ三角形」というのはほぼ確実に最新式の軍用機などと思われるわけだが、UFOの物語においては繰り返し登場するキャラクターである。それらはオーロラ、ブラック・マンタ、TR-3Bといった名前で知られている。大きさはアメリカンフットボール場3つ分から普通の軍用機のサイズまでさまざまであり、速度もホバリングから瞬きする間に消えるほどの高速にいたるまで、こちらも様々に報告されている。彼らはしばしば無音飛行、透明化、重力を無視する能力といった特殊な力を持っているとされる。

NUFOSは、ノーフォークの湖沼に浮かぶ運河船の上でホバリングする「黒い三角形」や、一家が高速道路で追跡されたという驚くべき報告を受け取っていた。その家族は、もし箒が車の中にあれば箒の箒の柄で突けるほど近くを飛んでいたと述べていた。これらの報告は興味深く、通常の空に見える光よりもはるかにエキサイティングであったが、私たちはそれにどう対処すればよいのだろうか?地元の英空軍に相談すれば、国防省に正式な報告をするように言われるだろうが、防衛省が極秘で飛ばしている飛行機をスパイしてくれたからといって記念のバッジをくれるはずもなかった。

「どう対処すべきか?」は私たちの会議における定番の問いであった。私は、ランカシャーUFO協会のリーダーが同様の「空飛ぶ三角形」の報告に直面したときに行ったようなことはしたくなかった。彼は、そのナゾの飛行機が駐機しているとされた英空軍のウォートン基地に侵入することを提唱したのだった。面白いアイデアではあった。だが、NUFOSのメンバーの多くは自分たちの地域の軍事施設の階段を登るのすら苦労するだろうし、ましてやフェンスをよじ登るのはなおさらだろうと思った。

私たちの仲間の中には、UFO現象と非常に複雑で個人的な関係をもっている者もいた。ある女性は、自宅の上空に赤い光の球が現れることを、彼女が患っている慢性疲労症候群(CFS)と関連づけていた。別の年配の女性は、どの医師も診断できないほどの奇病のため車椅子から離れることができなかったが、それは異星人と関係していると確信していた。初めて話をしたとき、彼女は積み上げた木の上で丸太に「擬態」した異星人を見たと話してくれた。彼女もまた、CFSの女性と同じく、自宅の上空に赤い光を見たことがあった。時間が経つにつれ、私は彼女が毎回のNUFOS会合の間に、私たちが前回の集まりで話し合ったことを体験することに気づいた。彼女は、公には「空想性傾向のある人格」と呼ばれる心理学的なモデルケースにあたるのではないか。私はひそかにそう疑っていた。

そして、サイキックもいた。UFO現象は常にそうした者たちを引き寄せてくるのだった。1945年、つまり世界が初めて空飛ぶ円盤の話を耳にする2年前のことであるが、アメリカの超能力者ミード・レインは、ボーダーランド科学研究財団を設立し、エーテリアンと呼ばれる異星人とのチャネリングを始めた。1950年代半ばまでに、「ナッツ・アンド・ボルト」派のUFO研究者とチャネラーやコンタクティーの間には明確な線が引かれた。前者は科学志向の研究に傾倒し、しばしばプロフェッショナルな科学的背景を持っていたのに対し、後者はよりスピリチュアルな指向性を持っていた。NUFOSにはその両方がいたのである。

メンバーの一人、ショーンは、身なりに構わないやせ細った男で、目の下には黒いクマがあり、常に千年先を凝視をしているようだった。彼が言うには、自分は英国政府のためサイキック関連の仕事をしており、保守党の黒魔術作戦に対抗する秘密組織の一員だということであった。ある時、ショーンはギネスビールを飲みながら、ノーマン・テビットというのは保守党の悪魔崇拝集団のリーダーであって、それは「彼の目を見ればわかる」と言った。私の在任期間が終わった後、数年経ってから、ショーンは資金と資産を盗んだとしてNUFOSに訴えられた。

ジョージと彼の妻ジャネットは、遅れてグループに参加した。二人は仲の良い夫婦で、とても真剣な雰囲気を漂わせていたが、このジョージとジャネットは宇宙人からのメッセージをチャネリングで受け取り、テレビ画面で未来のビジョンを見せられたと言っていた。そのビジョンの中には、2000年になると地球に多くの宇宙人が着陸し、黙示録さながらの光景が展開されるというものもあった(それはミレニアムバグ――2000年問題が話題になるずっと前のことであった)。

NUFOSにおいては風変わりであることはアリだが、あいまいであることは許されなかった。1996年の初夏のある日、会議が招集されて、私たちはフェリーボート・インの奥の部屋に集まった。そこで私は、「あなたはこのグループのリーダーにふさわしくないとの決定がなされた」と告げられた。私は皆に友好的で、若く、そこそこ頭もきれた。だが、私は「答え」を持っていなかった。実際、私のプレゼンテーションというのはいつも新たな疑問を生みだすもので、それはUFOの謎を解明する助けには全くならなかった。NUFOSが求めていたリーダーというのは、グループに規律を植え付け、方向性を示し、そして・・・そう、答えを与えてくれる者だったのだ。

かくて彼らは、ジョージを新しい会長に選出した。テレビを通じてエイリアンのメッセージを受け取ってきたあのジョージである。裏切られたように思った、といえば言い過ぎだろう。私は学業を終えて、数ヶ月以内にロンドンに向けて発つ出発をしていたのである。ただ、私はグループとその将来に危惧を覚えた。ノーフォークの寒い夜、彼らは水路を越えて集まってきて、ポータブルテレビの明かりに照らされる中、「空飛ぶ三角形」に乗せてもらうのを待っている――私はそんな光景を想像していた。

振り返ってみると、私はNUFOSの運営者として最適の人物ではなかった。私が理想と考えていたのは懐疑的な中立地帯にあること――つまり、事実が旗幟鮮明な立場を取るよう求めてくるまでは或る理論を肯定も否定もせず、さらに特定の立場を取った後もなお疑問を持ち続けるということであったわけだが、こうした集団の中でそれを維持することは不可能だった。そもそも、私はそこで何をしていたのだろう? 本当にUFO団体を運営していたのか、それとも、ドロ沼にはまりこんでしまった、不器用で不誠実な参与観察者だったのだろうか? それはいまでもわからない。私はそのあとロンドンに移った。その際、一枚のマンガを持っていったのだが、それはグループにいた元警官のハリーが描いたもので、フェリーボート・インの駐車場にビーム光線とともに下ろされるエイリアンの姿が描かれたものだった。

その後、私をとりまく状況は変わり、UFO現象との関わり方も変わってしまった。ロンドンの空は、街灯や高層ビルに覆われ、日々行き交う航空機でいっぱいだった。ノーフォークの何もない空間が大きく広がっている空と比べると、得られるものはほとんどなかった。次第に空を見上げることをやめ、UFOに対する関心も薄れていった――私以外の世界もまたそうであったように。それでもUFOの話を読むのは好きで(特にそれが奇妙であればあるほど良かった)、何か新しい展開がないかUFO関係の噂話に耳を傾けていたのである。だが、私に――そしておそらくUFOシーンにとっても強い印象を残すようなものは現れなかった。

UFOコミュニティからやむことなく聞こえてくる「真実はそこにある」といった金切り声にはウンザリしてきた。要するに、人類史上最大の出来事、つまり異星人とのやりとりがアメリカのどこかの軍事基地の格納庫でひそかに行われているというのである。そんな出来事があったのなら、どこにその兆候があるのか? 歴史の流れの中のどの時点で、そんな突然の逸脱が起きたのか? ETのテクノロジーはどこにあるのか? それを秘密にし続けていることで利益を得ているのは誰か? マドンナやスティーブン・スピルバーグ、アラブの首長やオリガルヒの連中よりも多くのカネと権力を持つ者がいるということなのか? 陰謀論者が信じているように、もし秘密の組織のようなものが真実を手にしているのなら、彼らはそれをどう利用しようとするのか?

複数のパズルが互いにはまりあうことはなく、証拠もなかった。前々から言われてきた「真実は明らかになる」という話も実現しなかった。明らかなことは、本当にUFOが実在していたとしても、それについてよく分かっている者はいないということだった――世界政府(そんなものが密かに作られているのかどうかはともかく)でもそんなことは理解していないし、ましてやUFO研究家などは論外である。UFO問題に関する或るコメンテーターの言葉を借りれば、UFO研究家たちはUFOについて何でも知っているのだが、例外はある――それは「UFOとは何か」「UFOが来るのは何故か」「それがどこから来るのか」「UFOを操っているのは誰か」といったことだ。私はかつて「非人間存在はやってきていて、UFO現象の背後には異星人がいる」といった感覚をもっていたのだが、そうしたものはほとんど消え去ってしまった。人々がUFOを目撃し続けていることに疑いはない(これまでずっとそうだったし、これからもそうだろう)。しかし私は、ほとんどのUFO目撃事例において最も重要な部分というのは、目撃者の内面で起きたもので、決して外部ではないと感じるようになった。

結局、私はNUFOSと連絡を取らなくなったが、このグループは今も存在している。NUFOSやそれに似た多くのグループは、世界中のUFOコミュニティの完璧な縮図であり、もっといえばミステリーに関心を有するあらゆるコミュニティの縮図でもある。実際のところそうしたグループは、真実と意味とを求める永遠の探究を掲げながらも、実際には日々生じてくる小さな抗争であるとか、皆を支配する圧倒的な官僚主義が想像力をジワジワ締め付けていくことによって常に苦しめられている。そうしたグループは、おそらく人生そのもののメタファーとしてあるのだろう。他の惑星での文明生活も、実はこれとそれほど異なっていないのではなかろうか? (01←02→03

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■第三章 UFO 101

    「人々は悲しみ、絶望の中で空に向かって手を伸ばした。プルーデントおじさんとその仲間は空飛ぶ機械に連れ去られ、誰も彼らを救出することができなかった」 ――ジュール・ヴェルヌ 『征服者ロビュール』(1886年)

かくて私は、再びUFOを追うことになった。あれから十年経って、少しは賢くなっていれば良いのだが、と私は思った。だがジョンと私はどこから調査を始めれば良かったのだろう?空飛ぶ円盤、三角形ないしは菱形のUFOなんてものには誰も興味を持ってはいないように思われた。実際、自分自身がまだ興味を持っているかどうかすらわからなかった。それに、世界はもっと緊急の問題に直面していた。戦争が続いていたのだ。

2004年。前年夏にジョージ・ブッシュが「任務完了だ」と大見得を切ったのとは裏腹に、イラクでの戦争はまだ終わったどころではなかった。中東状況の混迷が続く中で、あらゆる視線はそこに向けられていた。だがそうやって注視をしていたのは果たして人間だけだったのだろうか? 4月になると、イランでは劇的なUFO目撃のウエーブが起こった。しょっぱなはテヘランの上空で目撃された明るく輝く円盤であり、北部のビレスアヴァールに出没した2本の「腕」を持つ球体であった。これらはいずれも撮影され、映像は国営テレビで放送された。UFOはイランの原子力施設の上空でも目撃されたが、そこは次第にイランに対して攻撃的になってきた米国側の言説の中にあって「標的」とされたものでもあった。噂が急速に広まって、UFOのウエーブは瞬く間に勢いを増した。これらの光は観察にやってきたETによるものなのか、それともイランが開発中の原子力施設をスパイしているアメリカまたはイスラエルの偵察機によるものなのか?

12月になると、アメリカでの反イラン的な言説がエスカレートするのに伴って、UFOの目撃報告も増加した。イラン空軍の報道官は、いずれも核施設を擁する地域であるブーシェフル州とイスファハン州での目撃情報を詳細に語り、一方ではウラン濃縮施設があるナタンズの上空では明るく輝く物体が浮かんでいるのが目撃された――とした。彼は「イランの領空に侵入した飛行物体に対して、全ての対空部隊と戦闘機に撃墜命令が出されている」との警告を発した。一連の目撃情報を受けて、UFO問題を研究するためにの軍事・科学委員会が招集されたとの報道もあった。だが、その後の続報はなかった。

テヘランが懸念するのも無理はなかったのだ。こういったUFO騒動があったのは初めてではなかった。1976年9月、正体不明の光体が市内上空でイラン空軍のF-4戦闘機2機に追跡される出来事があった。戦闘機がUFOに接近すると無線通信は妨害され、通りがかった民間旅客機の通信も同様に切断された。この事件は視認された上にレーダーにも記録されており、最も謎めいたケースの一つとして残っている。ただし、その光が地球外起源であったことを示唆するものはいまだに何もない。

そして、同様に現代のイランをETが偵察しているという証拠もない。この状況には、むしろ1986年にリビアでほぼ実行されかけたシナリオを思い起こさせるものがあった。当時、CIA、アメリカ国務省、国家安全保障会議は、コードネーム「VECTOR」と呼ばれた戦略を企てた。それは、アメリカが支援する大規模なクーデターが差し迫っているとカダフィ大佐に信じ込ませることで、いまいましいその体制を転覆させようというものだった。この計画のカギとなる部分は、ニセのレーダー反応と無線通信を用いて「幽霊飛行機」をリビア上空に飛ばすことだった。リビア空軍が迎撃機を飛ばしてもそこに何もみつからないとなれば、高位の者たちは幻惑され不安を覚えるであろう。そんな効果が期待された。その狙いは、こうした「UFO」を他の不安定化戦略とともに用ることで、カダフィとその政権の妄想をかきたて、政権弱体化と体制変革につながる環境を作ろうというものだった。VECTORはアメリカの報道機関に漏れてしまったことで中止されたが、これはアメリカの情報機関が敵国に仕掛ける典型的な作戦ということがいえる。

VECTORは実行されなかったが、イラン上空に謎の航空機を飛ばすというアイデアは、同様の不安定化作戦の一環として計画されたもののようにも思われる。イランの原子炉を観察していたのが誰であれ――つまりエイリアンであれ、アメリカであれ、イスラエルであれ、ということだが――その者は衛星や偵察機を用いるなどして、イランの注意を引くことなくそれを遂行する技術を持っていたはずである。ところが、イラン上空を飛んでいたものが何であれ、それは目撃されることを意図しており、UFOの話を広めることを目的としていた。小さな非合理のさざなみが大きな波を作ることがある。これは、アメリカが1940年代後半にあった最初のUFO目撃ブームの際に学んだ事実である。これらの目撃は、奇妙なことではあるが、アメリカの新たな原子力計画の中心地、例えばニューメキシコ州のロスアラモスやロズウェル、テネシー州のオークリッジの周辺で顕著に発生したのである。

■アルバトロスからツェッペリンまで

常に大空の下に身をさらしてきた我々人間は、常に空に関する物語を語り続けてきた。人類が空を飛ぶようになった時、そこには既にドラゴン、大蛇、船、そして軍隊といったものが満ち満ちていた。これらの空の存在についての物語は私たちの歴史と同じくらい古くからあり、空の幻影は中世からこの方、人間にまつわる地上の出来事の予兆、投影、そして反映として絵画やパンフレットに描かれてきた。

現代においてUFOフィーバーが最初に認められたのは、19世紀末のカナダ、アメリカ、そしてヨーロッパにおいて不思議な飛行船が相次いで目撃された時のことであった。これら大型で葉巻型の飛行船は、多くが目をくらませるようなヘッドライトを装備しており、ジュール・ヴェルヌの1886年のSF小説『征服者ロビュール』から飛び出してきたもののようであった。この作品の中では、異端の発明家がプロペラで飛行する飛行船「アルバトロス」に乗って世界を旅している。

これは20世紀を通じて言えることなのだが、こうした神秘的な乗り物は、その時代からみると未来を感じさせ、虚構めいてみえる美学をまとい、常にその当時の航空技術のほんの少し先を行っていた。一部のニュース記事は「飛行船ブームを利用して読者をだましてやろう」という、悪戯好きなジャーナリストによるものだっただろう。エドガー・アラン・ポーは1844年に『ニューヨーク・サン』紙のために大西洋を横断する気球のホラ話を作り上げたことがある。他の目撃は、おそらくは自然現象の誤認であり、空を見上げて人々が興奮していた風潮と相俟ってより壮大なものに変貌してしまったものであった。しかし、一部の報告は、間違いなく真実の響きを持っているように思われる。

初期に類する1891年7月12日の報告は、その目撃ウエーブの典型例である。オンタリオ州オタワのセオドア通りの住民たちは、「片端に回転するプロペラがあり、先に伸びたもう一方に明るい光がはっきりと見える巨大な葉巻」を目撃して仰天した。これよりのち、1897年4月11日のイリノイ州の『クインシー・モーニング・ホイッグ』紙の描写は、ナビゲーションライトが正しい位置についている現代の航空機を描いたようだ。

    それを見た男たちはそれをこう描写した――葉巻型の長く細い胴体で、何か明るい金属、恐らくアルミニウムでできている・・・船体の両側には、外側に上に向けて突き出した翼のようなものがあり、船体の上にはぼんやりとした上部構造の輪郭が見えた。物体の前端にはヘッドライトがあり、船体の中ほどには小さなライト、右舷側には緑のライトがあり、左舷側には赤のライトがあった。

同様の報告はアメリカ全土から数百件と寄せられ、中には飛行船の操縦者と出会ったという話もあった。通常その操縦者というのは発明家や軍人のように描写された。このミステリーにまつわる興味深い逸品が見つかったのは、1969年、ヒューストンの古物店でのことだった。それはドイツ移民のチャールズ・デルシャウによるノートで、彼は19世紀半ばにアメリカに移住し、1923年にヒューストンで亡くなった人物だった。13冊のノートは、精緻ながら子供のそれを思わせる筆致で空想的な飛行船がいっぱい描かれており、それは富裕な発明家や飛行家のグループである「ソノラ・アエロ・クラブ」に捧げられたものであった。デルシャウのカラフルで風変わりな図の中には、初期の航空実験に関する新聞記事の切り抜きも混ざっていた。これらのノートはアウトサイダーアートの初期の例としてアートコレクターに買い取られたが、そこには「それ以上のもの」があったのではないだろうか? 初期の空飛ぶ円盤目撃ストーリーに先立つ逸話として、「ソノラの飛行家たちは19世紀、アメリカ軍のためにジュール・ヴェルヌ風の飛行船を秘密裏に建造していたのだ」という者もいる。しかし、デルシャウのチャーミングでモンティ・パイソンを思わせる絵を見ていると、そこに空想の世界を飛び回るイメージ以上のものを見てとるのは難しい。

飛行船の背後にいた者は、プレスや大衆から応答を求められていたにもかかわらず、不気味な沈黙を守った。しかし、時代はすくに彼らに追いついた。1900年7月、フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵はヨーロッパ上空で最初の飛行船の試験飛行を行った。次の二十年間で、空を飛ぶことはもはや神々やドラゴン、ナゾの飛行士だけの特権ではなくなり、少しずつその神秘性を失い始めた。第一次世界大戦では、気球や飛行機が偵察や空中戦で使用されたが、我々のいうUFOとして認識されるような報告は一切なかった。しかし、第二次世界大戦では事情はおおいに違っていた。マイケル・ベンティンのフー・ファイターズだけが空に現れた謎の航空機ではなかった。

■幽霊ロケット

1942年2月25日の早朝のこと。それは日本の真珠湾襲撃がアメリカに壊滅的な被害をもたらし、引き続いてアメリカが第二次大戦に参戦してから3ヶ月もたっていない時期だったが、ロサンゼルスの沿岸では、何者かに対する大規模な対空攻撃が行われるという事態が起きた。前日にはサンタバーバラで日本の潜水艦による攻撃があったばかりで、緊張状態にあった第37海岸砲兵旅団は1400発に及ぶ砲弾を空に向けて放った。が、落ちてくるのは自軍の砲弾ばかりで(それは6人の死者を出した)何も墜落してくるものはなかった。同夜、その地域では正体不明の飛行機が何機か目撃されたのだが、日本はその日にロサンゼルスを攻撃した事実はないと主張している。ではその砲撃を引き起こしたのは何だったのか? 迷子になった気球か。エイリアンの乗り物か。それとも単に戦争がもたらした神経衰弱が引き金をひかせてしまっただけなのか。

同年11月28日には、また別の不可解な事件が起きた。今度はイタリアのトリノだった。英空軍省の公式記録によると、ランカスター爆撃機に乗った乗員7人全員が、彼らの下方を時速500マイルで飛行する長さ300フィートの物体を目撃した。それは全部で4対の赤いライトを灯しており、排気ガスを出しているようには見えなかった。同機の機長は、3か月前にもアムステルダム上空で同様の乗り物を見たと主張した。これらのケースや複数のフーファイターの報告事例は今も真正のUFOミステリーであり続けている。ただ、我々がより関心を持つのはこの「ロサンゼルスの戦い」のほうだ。というのも、それは、UFO熱に取り憑かれた国であれば起きても不思議ではない大混乱が、実際に起こってしまった完璧な実例であるからだ(そしてその10年後、冷戦下のアメリカの守護者たちはそんな混乱が起きるのを実際に恐れていた)。実際に、UFO現象というのは第二次大戦の終結の翌年に始まった。1946年7月12日の「デイリーテレグラフ」は、次のように報じている。

    この数週間、スウェーデン東部のさまざまな地域から、南東から北西に向かって飛ぶ多数の「幽霊ロケット」が報告されている。目撃者によれば、それらは発光するボールのように見え、多少なりともたなびく煙を伴っているという。こうした多数の報告を単なる妄想で済ませてしまうことはできない。そのような現象は隕石のせいだとする確実な証拠もないことから、それは新しい種類の無線コントロール式Vロケット兵器で、その実験が行われているのではないかという疑惑が高まっている。

数日後、「デイリーメール」がアルプス上空における同様の目撃を報じた。同紙は、これはソビエト連邦によるロケット実験によるもので、それはドイツ北東の海岸部にあり、今はロシアが掌握しているヴェルナー・フォン・ブラウンのペーネミュンデV-2工場から得られた技術に基づくものではないかと示唆した。7月下旬、英国は選りすぐりのロケット技術者2人を密かにスウェーデンに派遣した。彼らは、その物体についての目撃者たちの描写がほとんど一致していないことに気づいた。火の玉のようだという者もいれば、ミサイルのようだったという者もいる。音がしたという証言もあれば、無音だったという者もいる。中には地面に墜落したり湖に飛び込んだものもあった。中にはたった3フィートの深さしかない海に飛び込んで「消滅した」ものもあった。

懸念は世界各地に広まっていった。8月下旬には、アメリカのロケット専門家2人がスウェーデンに「休暇」と称して向かった。が、そのナゾは秋になっても深まるばかりだった。スウェーデンとイギリスの当局者は、そのナゾの物体が機械なのか隕石であるのか決することができなかった。しかし、報道機関にそのような迷いはなかった。1946年9月3日、「デイリー・メール」きっての戦争特派員、アレクサンダー・クリフォードはこう断じた。「ロシア人は一切を語らぬものの公然と一種の機械の実験をしている。それはいかなる痕跡も後に残していないし、それは一見したところ幾つかの科学法則に反するようにも見える」

報道機関は古典的な「軍事絡みのミステリー」というストーリーを手に入れたが、イギリスの調査員たちは、なまじっかいかほどかの証拠を手にしてしまったが故に、このゴーストロケットにうんざりさせられていた。スウェーデン上空で炎に包まれながら落下してくる物体の写真は隕石に酷似していたけれども、分析に付されたロケットの断片と思しきものは、ありきたりなコークスの塊であることが判明した。9月6日付けの外務省からの極秘電報は、苛立ちを露わにしていた。

    我々はスカンジナビアの領土上空をミサイルが飛行したと確信するには至っていない…すべての目撃のうち多くの部分は、7月9日と8月11日にスウェーデンで目撃された2つの隕石によって説明される(一つは日中、もう一つは夜間)。その他の目撃は、時間・場所・国ともバラバラで、花火、白鳥、航空機、稲妻といったもの、さらには想像力に起因すると考えても不合理ではない。我々の経験からして、このような集団的幻覚は、大衆が興奮している状況においては決して珍しいものではない。

官僚たちがゴーストロケットのもたらす恐怖を「公衆の興奮」に起因するものと見なしていたとしても、この [ソ連秘密兵器説という] シナリオによって大西洋の両岸に巻き起こった不安を過小評価したら誤りだろう。ソビエトのスーパーウェポンに対する恐怖は、その後数年間でさらに高まった。それは軍関係者や一般大衆の間では「空飛ぶ円盤」の正体に関する説明の第一候補となり、アメリカを悩ませることになるのだった。こうしたロケットが実在したかどうかにかかわらず、それは来るべき事態の前兆となったのであって、迫りくる冷戦の序曲となった。

アメリカが空飛ぶ円盤に執着しはじめたのは1947年6月24日のことだった。この日、アイダホ州ボイシの消火機器セールスマン兼パイロットであるケネス・アーノルドが、ワシントン州のレーニア山付近で高速で飛ぶ9つの物体を目撃したのである。アーノルドの画期的な目撃があったのは、チャーチルの「鉄のカーテン」演説から1年後のことであり、その時点では新たなる [東西間の] 戦線が明確に引かれていた。わずか2年の平和の後、再び全体戦争の脅威が世界を覆い、広島と長崎の惨劇を経て、権力者たちは次の世界大戦が人類最後の戦争になる可能性があることを理解していた。

後知恵ではあるが、今からみると、アーノルドの遭遇とそれが引き起こしたメディアの嵐の中からは、あまりに変化が激しいため、歴史家や未来学者ですらどうにかこうにか追いつくのがやっとという当時の社会の反映を見てとることができよう。1947年という年は、チャック・イェーガーが音速を超えて飛行した年であった。それはまた、世界初のデジタルコンピュータENIACが稼働した年であり、トランジスタ、電子レンジ、立体カメラ、AK-47の年でもあった。同時にそれは、アメリカ空軍が独立した軍事部門として設立され、戦略諜報局(OSS)が中央情報局(CIA)に改編され、トルーマン・ドクトリンとラジオ放送「ボイス・オブ・アメリカ」が冷戦下において初の存在論的攻勢を始した年でもあった。それはアメリカが自国の未来を初めて真に垣間見た年であったわけだが、その未来は円盤の形をしていたのだった。

アーノルドが実際に何を見たのかは、今もなおUFOコミュニティ内で激しい議論の対象となっている。パイロット自身はそれぞれ異なる時期に、その物体を円盤型、クツのかかと型、半月型などとどっちつかずの表現で言い表したのであったが、後になって三日月型の絵を描いて見せた。しかし、その見た目だとか「その正体は何だったのか」といったことは、この目撃がアメリカの想像力に与えた影響の前では全然重要なものではなくなってしまった。それは異星人の宇宙船の編隊だったのか、蜃気楼だったのか、ペリカンの群れだったのか、誘導ミサイルだったのか、アメリカかソ連の秘密兵器だったのか、あるいは第二次大戦中のドイツの技術の産物だったのか――そんなことはどうでもよくなった。オレゴンの新聞記者ビル・ベケットの巧妙な言い回しのおかげで、それらは「飛ぶ円盤」となり、国民は制御不能なUFOブームに巻き込まれ、インテリアデザインから軍用機に至るまで、あらゆるものに影響を与えることになった。

5年もすると、空飛ぶ円盤というものは、雑誌をめくったり新聞を読んだり映画を見たりしたことのある全てのアメリカ人の心に刻み込まれてしまった。円盤は空を支配し、最初のフリスビー(つまり1948年に発売されたPipco Flyin' Saucerだ)のヒントとなり、無数の歌手、コメディアン、アーティストに素材を提供し、遂にはジェームズ・ディーン、エルヴィス・プレスリー、マリリン・モンローとともに全世界に向けた「アメリカ的なるもの」の先鋒としての地位を確立したのである。

■空を見上げよ!

UFO時代の最初の10年間はとりわけ注目に値するものである。今日のUFO伝説に見られるすべてのテーマは、この最初の重要な10年間に導入された。信じられないほどの速度で飛び、ありえない動きを見せるナゾの飛行物体の目撃。墜落した円盤と死んだ異星人の回収。空飛ぶ円盤の搭乗者との接触。恐ろしい誘拐。奇妙な実験。そしてこれは何よりも重要なのだが、真実を国民に知られることを恐れて、これらのことすべてに対して政府が行っている隠蔽――。だが、世界のほとんどの人々にとって空飛ぶ円盤というのは――それがUFOと呼ばれるようになったのは1952年のことだった――ビックリするネタ、そしておそらくは娯楽のネタだったのかもしれないが、新たに創設されたアメリカ空軍と情報機関にとってみれば、これは一つの大きな頭痛の種であった。

1947年6月にケネス・アーノルドが目撃したニュースは瞬く間に世界中に広がった。アーノルドは空飛ぶ円盤の大使としての役割を楽しみ、自らの遭遇について定期的に語り、物体が秘密の航空機であると信じていること、それはできればアメリカのものであって欲しいが、ソビエトのものかもしれないということ、それは原子力で動いている可能性があること――等々を語った。彼の発言は、軍部と、そしてレイ・パーマーという名のSF雑誌編集者の注意を引きつけた。この両者のおかげで、アーノルドは世界初の空飛ぶ円盤の目撃者というに留まらず、世界初の調査者、すなわち最初のユーフォロジストとなった。

レイ・パーマーは1938年に『アメージング・ストーリーズ』の編集者となって以来、地底世界や宇宙からやってくる訪問者のストーリーを世に送り出していた。アーノルドの目撃があった時点で、パーマーの雑誌は前例のない成功を収めていた。これは主に1945年に出版された「アイ・リメンバー・レムリア」や、地底に住んで高度な技術を持つ異界の者たち、すなわち「デロ」の脅威をテーマとした、同様にセンセーショナルで100%実話という触れ込みのストーリーのおかげだった。デロの物語は驚異的な人気を博し、『アメージング・ストーリーズ』の発行部数を月間25万部に押し上げ、筆者のリチャード・シェイヴァーを予想外のスターにした。それまでフォード・モーター・カンパニーで働いていた彼は、ウィスコンシン出身で妄想癖のある分裂症気味の溶接工兼画家であった。

パーマーはまた、空飛ぶ円盤の誕生にも一役買っていた。『アメージング・ストーリーズ』は1946年9月、科学ライターのW.C.ヘファーリンによる4つの短い記事を掲載したが、そのうちの1つ『サークル・ウィングド・プレーン』は、1927年にサンフランシスコ上空を飛行していた信じられないほどに進歩した航空機について記していた。この空飛ぶ円盤のプロトタイプとでもいうべきものは、謎めいたGhyt(ガス水力タービン)モーターで動き、時速1000マイルで飛行できた(公式の航空史では、チャック・イェーガーが音速を突破したのは1947年10月のことで、時速約887マイルに達したとされている)。操縦席は円形翼の中央のドーム部分にあって、この「パイロットの夢」は高度6万フィートに達することができ(公式にはU-2がこの高度に到達したのは1950年代半ばである)、「カモシカのように自由自在に動く能力をもつ」とされていた。『アメージング・ストーリーズ』の同じ号には、リチャード・シェイヴァーによる異星人による誘拐譚という恐ろしい物語も掲載されていた。1946年9月に『アメージング・ストーリーズ』を読んだ者の中に、この「サークル・ウィングド・プレーン」が1年以内に空飛ぶ円盤として現実のものになること、そして異星人による誘拐というシェイヴァーの悪夢のようなビジョンが、10年後に現実になることを予測できたものはいなかっただろう。

最初のUFO調査は、ケネス・アーノルドの目撃のわずか1か月後、彼自身の手によってなされたのだが、それはレイ・パーマーの雑誌を舞台に行われたものだった。それはアーノルドの運命的なフライトの数日後のことだったが、パーマーは手紙とともに岩のような物質の入った小包を受け取った。差出人はハロルド・ダールという人物で、そこにはアーノルドの目撃の3日前、つまり6月21日に、ワシントン州タコマ近くのピュージェット湾にあるモーリー島付近で発生した事件のことが記されていた。それによれば、謎めいた「空飛ぶドーナツ」が複数、ダールの頭上を通過していき、そのうちは1つはスラグや溶岩を思わせるような黒い物質を大量に放出したのだという。パーマーが手にしてものはまさにコレ――つまり空飛ぶ円盤のホンモノの破片であったのだ!

港湾警備員であるダールは、沖合3マイルにある無人のモーリー島付近でボートを操縦していたのだが、その時、乗船していた息子や他の乗組員と共に5つの空飛ぶドーナツが音もなく旋回しているのを目撃した。さらに、その旋回の真ん中には何やらトラブルを起こしたと思しき6番目のドーナツが1機あった。ダールの描写によれば、その乗り物は「気球」のようで、形状は丸かったが上の部分は幾分か押しつぶされたようになっていた。直径は約100フィートだったが中央部には25フィートの穴があり、それ故にドーナツのような形に見えたのである。その乗り物の外側には周囲を取り巻くように舷側があって、それは「ビュイックのダッシュボードのように」輝いていた。彼らが見守る中、問題を起こしたと思しき中央の1機は地上500フィートあたりまで降下し、「鈍い音」を発しつつ大量の紙のような金属材と、溶けた黒い岩のようなものを吐き出した。その岩の一部は彼らが連れていた犬を直撃し、犬は死んでしまった。さらに一部はダールの息子の腕にヤケドを負わせた。ほうほうの体で岸に戻ったダールは、すぐにフレッド・クリスマンにその話をし――この手紙の中でダールは、クリスマンのことを「上役」と記していた――それから体を休めるべく自宅に戻った。

その翌朝。ダールの家を、黒い服を着た男が一人、1947年製のビュイックに乗って現れた。その男は「近くのダイナーで朝食をとろう」とダールを誘った。この奇妙な男は、1950~60年代のUFO伝説の定番ネタとなる「メン・イン・ブラック」の原型となるのだが、それはともかく彼はダールの体験の一部始終を再現するかのように語り、「このことは誰にも話さないように」と警告した。こうした成り行きに混乱したダールではあったが、彼はその忠告を無視してレイ・パーマーに手紙を出し、ドーナツが発したスラグの一部(それはダールの体験の翌日、フレッド・クリスマンが集めたものだった)を同封した。最初は「逃げ去っていったモノ」にかかわるダールの話に懐疑的だったパーマーであるが、やがて彼は考えを改めた。7月半ば、彼はアーノルドに対し、あなたは空飛ぶ円盤の発見者なのだから、この事件を調べるのにはベストの人物なのだと説いた。さらにパーマーは、決心を促すべくアーノルドに200ドル(現在の価値で約2000ドル)を渡した。

1947年7月25日、ボイシの自宅にいたアーノルドは、アメリカ陸軍航空部の諜報部員、フランク・ブラウンとウィリアム・デイヴィッドソンの訪問を受けた。彼らは空飛ぶ円盤の話の背後に何があるのかを突き止める任務を受けていたのである。これは友好的な会談となった。航空部の男たちはアーノルドの目撃談について質問し、パーマーの提案にも興味を示した――もっともアーノルドはこの時点でまだその提案を受け入れていなかったのだが。諜報部員たちはアーノルドの友人や航空関係者とも話をし、彼の「原子力航空機」説についても興味を示した。そうして接触した人物の中には「アイダホ・ステーツマン」誌の航空編集者であるデイヴィッド・ジョンソンもいた。ジョンソン自身も空飛ぶ円盤を目撃していた人物で、「調査にあたってはウチの新聞も経費を負担するから」といって、ダールの提案に乗って調査するようアーノルドを説得したのはこの人物だった。

7月29日、アーノルドはタコマへ飛んだが、その途中で再びUFOを目撃した。今回は真鍮色をしたアヒルのような物体が約2ダースほども、ものすごい速度で彼の方に向かって飛んできた。タコマ空港に着陸すると、アーノルドはすでに高級ホテルのウィンスロップ・ホテルに部屋が予約されているのを見つけた。奇妙なことだった。というのも、彼がその日にそこにいくことを知っていたのはジョンソンだけであったから。アーノルドは部屋を取り、それからダールと会った。ダールは、円盤が発した黒いスラグを保管していた秘書の家にアーノルドを連れて行った。その一部は灰皿として使われていた。UFOの破片はアーノルドには普通の溶岩のように見えたが、ダールは「それは自分のボートに当たったのと同じ素材だ」と主張した。少ししてからフレッド・クリスマンが現れた。アーノルドの目に映るクリスマンは押し出しがよく、自信に満ちた感じの人物であった。その印象はダールとは好対照だった。ダールはどこか臆病で鈍重な感じのする人物で、クリスマンがいるところでは会話にあまり加わろうとしなかった。

これはちょっと自分の手に余るかもしれないと考えたアーノルドは、この調査を手伝ってもらおうとE・J・スミスを助っ人に呼ぶことにした。このスミスも、空飛ぶ円盤を目撃したことのある人物だったのだ。その翌日、スミスとサシで話している時、クリスマンは「ダールが目撃したドーナツ型の乗り物は、アーノルドがレーニア山で見たのとは全く別物だった」と語った。さらに彼は、ナチスが戦争末期に空飛ぶ円盤を作っていたというウワサ話を持ち出して、アーノルドのそれもダールのそれも米軍が飛ばしたものとは考えられないとも言った。あるいはクリスマンは、スミスを介して「自分が見た乗り物はアメリカのものではない」とアーノルドに信じ込ませようとしていたのだろうか?

アーノルドとスミスにとって、事態はいささか奇妙な方向に転がり出した。ユナイテッド・プレス・インターナショナル(UPI)の記者から一本の電話が入ったのだが、記者はその電話で、ホテルの部屋で二人が話していた内容に触れていた。二人は部屋が盗聴されていると確信して部屋を調べた。しかし、怪しいものは何も見つからなかった。何か仕組まれているのではないかと案じたアーノルドは、7月31日、以前アイダホにアーノルドを訪ねてきた空軍情報部のエージェント、つまりデヴィッドソンとブラウンに電話をかけた。どういうわけかブラウンは基地の電話で話をすることを拒み、公衆電話から折り返しの電話をかけてきたのだが、そこでこの日の午後にはカリフォルニア州ハミルトンからデヴィッドソンとともに空路そちらに向かうと言ってくれた。その数分後、アーノルドのもとにまたUPIの記者から電話がかかってきた。今度の電話は公衆電話からだったが、そこで彼はマル秘の情報を明かした――「航空部は調査に入るようですね?」と。となると、これはブラウンがネタ元ということなのだろうか? この電話を切るや否や、また別の記者がホテルのロビーから電話をかけてきた。彼もまた、いま何がおきつつあるかを知っていて、それをすっぱ抜こうとしていた。この調査の件で彼らに情報を流していたのは一体誰だったのだろう?

夜になってやってきたブラウンとデヴィッドソンは、クリスマンからケロッグのコーンフレークの箱一杯に入った破片を手渡された。ただ、アーノルドの目には、それは以前見せられた破片と明らかに異なってみえた。そこでアーノルドはホテルの部屋が盗聴されていることをエージェントたちに伝えようとした。しかし、彼らは関心を示すこともなかった。そしてアーノルドに「すべては港湾警備員のデッチ上げだ」とほのめかし、真剣に受け止めないほうが良いと言った。

明けて1947年8月1日、2人のエージェントは「ドーナツ」の破片入りの箱を持ち、カリフォルニアへ戻るべくB-25機に搭乗した。が、離陸直後の午前1時30分、左エンジンで火災が発生し、飛行機はワシントン州ケルソ・ロングビュー近くに墜落した。ブラウンとデヴィッドソンは共に死亡し、他の2名の搭乗員は生き残った。生存者の一人の証言によれば、デヴィッドソンは荷物を守るために機内に残ることを選び、ブラウンは壊れた翼によって脱出を阻まれたということだった。8月1日はアメリカ空軍の日であり、この日をもってアメリカ空軍は陸軍から独立した。ウィリアム・デヴィッドソンとフランク・ブラウンは、その最初の殉職者となった。

これはアーノルドとスミスにとって辛い体験となった。エージェントの死に打ちのめされ、調査の解決が見えないことに苛立った彼らは、帰宅することを決めた。しかし二人はその前に空軍少佐のジョージ・サンダーと会い、残りのドーナツの残骸すべてを渡すよう頼んだ。彼らは渋々それに応じた。サンダーは彼らをモーリー島近くの半島に連れて行った。その先端にはタコマ製錬会社という大規模な工業施設があり、一体は黒いスラグの山で覆われていた。サンダーは「これがクリスマンが彼らに渡したUFOの破片なんだ」と言って、この一件すべてが手の込んだ詐欺であったことを再びほのめかした。

アーノルドは納得しなかった。しかし、彼とスミスは調査が行き詰まったこと認めざるを得なかった。最初は「大冒険」だったものが、最後は死と欺瞞、失望だけで終わってしまった。帰るべき時が来た。空港へ向かう途中、彼らは初日に訪れたダールの家に立ち寄ることにした。アーノルドは確かに正しい場所まで車を運転していった。ところがその家には「全く人気がなく、家具一つなかった。ただいたるところに埃と汚れ、クモの巣があるだけだった」。動揺し混乱した気持ちで飛行機に乗り込んだアーノルドは、途中給油のためオレゴンに立ち寄った。だが、離陸時にエンジンが突然停止し、緊急着陸を余儀なくされたため、衝撃で車輪が曲がってしまった。アーノルドがエンジンを調べると、燃料バルブが切断されているのを発見した。それは、苦しみとフラストレーションに満ちた旅の最後の災難であった。

このエピソードが如何なる問題にかかわるものであったのかはともかく、それは単に「空飛ぶ円盤」にとどまるものではなかった。アメリカ当局が当時、ソ連の脅威を如何に真剣に受け止めていたかを過小評価することはできない。1943年、米陸軍とFBIはソ連の諜報通信を解読するために「ヴェノナ計画」を開始した。その存在は極秘にされたため、ルーズベルト大統領やトルーマン大統領ですら知らなかったほどであった。ヴェノナは1946年12月に最初の劇的な突破口を開いたが、その結果は壊滅的なものであった。ヴェロナ計画により、ソ連のスパイは、原子爆弾を作ったマンハッタン計画や、戦略サービス局(1947年にCIAとなった)、陸軍航空隊、戦時生産委員会、財務省、国務省、さらにはトルーマン大統領の信頼を得たホワイトハウスの職員の中にまで入り込んでいたことが確認された。米国は猜疑心に駆られた――それには十分な理由があったにせよ。「アカ」はベッドの下に――しかもホワイトハウスの中のベッドの下にまでいたのだ。その結果、1947年3月21日、ハリー・トルーマン大統領は忠誠令として知られる大統領令9835号に署名し、FBIに現在および将来にわたって連邦職員全員を調査する広範な権限を与えた。この赤狩りは上院議員ジョセフ・マッカーシーの台頭と、全米各地における非米活動委員会による狂騒を引き起こした。

これがUFOが現れたときのアメリカの状況だった。その最初のスポークスマンとも言うべきケネス・アーノルドが、全国紙でアメリカの秘密の航空機やそのエネルギーとしての原子力について語り始めた時、彼は陸軍航空隊情報部(リチャード・ドティのAFOSIの前身である)やFBIなどによる大がかりな防諜調査活動とおぼしきものに巻き込まれたとしても驚くには当たるまい(ちなみにFBIはモーリー島事件について長大な報告書を作成している)。となると、モーリー島の一連の事件はアーノルドを試すために仕組まれたものだったのだろうか? ダールはその芝居のアクターだったのか、それとも心ならずも参加した引き立て役だったのか? 「空飛ぶドーナツ」の目撃というのはアーノルドのために仕組まれたものだったのだろうか? ダールは何度かその飛行物体を「気球」と表現していたから、もしかしたら彼が見たのは本当に気球だったのかもしれない。アーノルドによれば、雄弁なクリスマンと比べた時、ダールというのはいかにもお人好しの人物に見えたという。ちなみにダールはクリスマンを「上役」と呼んでいたが、その港湾警備艇はダールの名前で登録されていた。

フレッド・リー・クリスマンは、このナゾの中心にいる人物だ。第二次世界大戦中、クリスマンは陸軍航空隊の一員として東南アジアや太平洋地域に飛んでおり、米国の諜報機関である戦略サービス局(OSS)で働いていたという噂もあった。戦後、彼は退役軍人リハビリテーション協会の調査員を務め、モーリー島の騒動を経た1947年8月下旬には、名高き原子力委員会に職を求めた――それは言うまでもなく核兵器をも含むアメリカの核機密を守る組織である。さらにいえば、モーリー島というのは、世界初のプルトニウム処理施設としてマンハッタン計画に材料を提供したハンフォード核物質処理施設からそう遠くない場所にある。最初の「事件」というのは、本当はプュージェット湾での核廃棄物の不法投棄を隠すためのものであったという説もある。あるいは、アーノルドはハンフォードに連れて行かれ、もし彼がソ連のエージェントと関係をもっていれば、ソ連側も同様に興味を示したであろう施設に関心を示すかどうかを試されたのではなかったか?

それとも、我々はただこのミステリーに入れ込みすぎているだけなのだろうか?クリスマンについてのFBIファイルによれば、ダールとクリスマンは、単にレイ・パーマーから「空飛ぶ円盤の残骸」のネタで金を騙し取ろうとしただけだったのだが、調査のためアーノルドが登場し、さらにはFBIや陸軍情報部も巻き込んだことで、自分たちの手に負えない事態が生じてしまった――ということになる。その可能性もあるだろう。しかし、クリスマンの関与は、ここでもっと複雑なことが起きていた可能性を示唆している。

クリスマンは短くも華々しく波乱に満ちた生涯を送った。彼の名前は、議論を呼んだ地方検事ジム・ギャリソンによるジョン・F・ケネディ暗殺事件についての調査書にも登場する。ギャリソンは、クリスマンが武器売買の世界に潜入するエージェントとして働いていたことがあり、ケネディ暗殺の現場にいた可能性すらあると主張した。後に彼はワシントン州とオレゴン州の政界にも関わり、トラブルメーカーとしての悪名を轟かす一方、諜報機関との関係も絶えず噂されることとなった。クリスマンはCIAに雇われていたのではないかという疑惑を受けるにふさわしい人物であった。彼は1960年代後半、UFOへの国民的関心が高まった時期に再びUFOの世界に戻り、モーリー島事件は本当にあったUFO事件なのだと言い立てた。1975年、56歳で亡くなった彼は、没後にまで伝説的なミステリーを残していった人物だった。(02←03→04

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■墜落

モーリー島事件が明らかにしているのは、諜報機関がUFO問題については当初から高い関心を払っていたということだ。現在ではほとんど忘れられているが、アーノルドの最初の目撃の数日後に起こったもう一つの事件が、UFO神話の礎石をなすことになる。1947年7月初旬、ニューメキシコ州ロズウェルで起こったとされる空飛ぶ円盤の墜落――それによってアメリカのUFO伝説は生まれ、アメリカ政府は状況を初めて理解し、そして宇宙の中で我々がどんな位置にいるのかということも明らかになったのである。その神話によれば、異星人の乗り物とその搭乗者を捕獲したことはあまりにも深刻な結果を招き、それがためにとても深いレベルの隠蔽体制が確立され、それは60年を経た今も続いているというのである。

実際には、我々が聞き知っているようなロズウェルの物語は1970年代後半になってようやく形を成し始めたもので、それが確固たるものとなったのはウィリアム・ムーアとチャールズ・バーリッツによる『ロズウェル事件』が出版された1980年のことだった。それまでの間、その事件というのは、数日で価値がなくなってしまうニュースの見出しの上にしか存在していなかった。ちなみにそのニュースは1947年7月7日にロズウェル陸軍航空基地が発したプレスリリースに拠るもので、オリジナルの発表文は今では失われてしまったが、その冒頭は以下のようだったと考えられている。

    空飛ぶ円盤に関して飛び交っていた数多くのウワサは現実のものとなった。昨日、ロズウェル陸軍航空基地の第509爆撃群の情報部は、地元の牧場主とチャベス郡保安官事務所の協力を得て円盤を手に入れる幸運に恵まれたのである。その飛行物体は先週のうちにロズウェル近くの牧場に着陸した。

この話は瞬く間に世界中に広まったが、7月8日の夕方には(それは多くの新聞がこの記事を掲載した日だった)テキサス州フォートワース陸軍航空基地の将校たちが、その残骸は「気象観測気球」とそのレーダー反射用の板だったと認定。すかさず残骸を基地の情報部長ジェシー・マーセル少佐が手にしている写真が撮影された。かくてこの「空飛ぶ円盤」の話は撤回された。世界のメディアからすればこれは本当にあったことだろうと疑う理由もなかったから、そこで話は終わった――少なくとも30年間は。

「空飛ぶ円盤」のプレスリリースをいったん発表してから撤回した陸軍航空隊の行動というのは、今から考えれば奇妙に見えるかもしれない。が、その行動によってこの話が30年間うまいこと封印されたということは念頭に置いていただきたい。とりわけ落ちてきたものが通常の気象観測気球ではなく――陸軍航空隊はリリースの撤回によって我々をそのように説得しようとしたわけだが――それが軍事関連の機微に触れるモノだったとすれば、全ては計算尽くでなされたことだったのかもしれない。

ロズウェルで起きた出来事が宇宙人とは関係ないということを証明する最も有力な証拠は、皮肉なことではあるが、かつては機密扱いされていた二つの内部文書である。そのひとつはFBI、もうひとつは新設された米空軍のものである。このうちFBIのメモは1947年7月8日付で、残骸がフォートワースからライト・フィールド(現在のライト・パターソン空軍基地)に移送されたことを記している。重要な部分は以下の通り。

    円盤は六角形の形状で、直径約20フィートの気球にケーブルで吊るされていた。カーティン少佐は、この物体がレーダー反射板を取り付けられた高高度気象観測気球に似ているが、彼らのオフィスとライト・フィールド間の電話でのやりとりではその裏付けは得られなかったと報告した。

次の文書は、1947年9月23日に航空資材司令部のネイザン・トワイニング将軍から送られた空軍の内部メモである。トワイニング将軍は空軍の兵器・技術に責任を持つ立場の人物だった。このメモは、UFO目撃に関する空軍の調査が本格化する前に書かれたもので、この問題について空軍が初めて公式に発したものであったが、アメリカの空域の統制にあたる最高レベルの者たちの間でも何が起きているのかを把握している者は全くいなかったことを示している。メモは「現象は実在するものであり、空想や架空のものではない」と述べたのち、三つの考慮すべきポイントを示している。

1.これらの物体が国内起源である可能性—本司令部が関知していない機密性高いプロジェクトの産物である可能性
2.これらの物体の存在を確実に証明する墜落回収物といった形での物理的証拠の欠如
3.我が国の知識を超えた、おそらくは核を利用した推進システムを他国が有している可能性 

空軍司令部の最高レベルで書かれ、長年秘密にされてきたこの内部報告書には、ロズウェルで異星人の宇宙船が回収されたといったことは書かれていない。では、それが宇宙船でなかったとすれば何だったのか?

米空軍の公式見解は、『ロズウェル報告:ニューメキシコ砂漠の事実vs虚構』(1995年)に示されているが、それによるとロズウェルに墜落した物体というのは、「プロジェクト・モーガル」の一環としてレーダー装置を搭載した気球群だったとされる(プロジェクト・モーガルというのは、ソ連の原爆実験が発する音響データを収集するための極秘ミッションであった)。これを荒唐無稽などということはできまい。当該のモーガル気球は6月4日に近隣のアラモゴードから打ち上げられたが、数日後に行方不明となった。残骸について牧場主マック・ブレイゼルが語った言葉、つまり「ゴム片、アルミ箔、かなり頑丈な紙、棒などでできており、広い範囲にばらまかれた残骸」というのは、モーガル気球の残骸と考えても矛盾がない。

1995年の報告書を執筆したのはリチャード・ウィーバー大佐で、彼は最近空軍を退役した人物である。皮肉なことではあるがこのウィーバーは、米空軍でセキュリティ・調査プログラムの担当をしていた。それが意味しているのは彼はニセ情報の専門家だったということで、彼は1980年代初頭には特別調査局でリチャード・ドーティの上官の一人でもあったのだ。その時期というのはまさにドーティと米空軍特別捜査局(AFOSI)が、ポール・ベネウィッツに「エイリアンの宇宙船はロズウェルに墜落した」と信じ込ませようとしていた頃である。そしていま、政府は「UFO業界の連中はなぜ自分たちのことを信じてくれないか」と不思議がっているというわけだ!

1995年の報告書を監督した会計検査院は、「事件に関連する多くの書類がなくなっていたため調査は困難であった」と認めた。この事実は、「ロズウェルにはETの乗り物が墜落したのだ」と信じる者たちをますます勢いづける結果となった。だが、そうした書類は、エイリアンとは関係のない「不都合な真実」を隠すために破棄された可能性はないだろうか。ロズウェルがホワイトサンズのロケット試験場に近接していたことを考えれば――それは当然陸海空の3軍も分かっていたことだ――それが何であれ飛行物体は試験場のほうからやってきた可能性が高い。それがエイリアンの宇宙船でもモーガル気球でもなかったとして、それでも他に候補として考えられるものはたくさんある。アメリカ政府が過去に恐ろしい行為をおかしたことを認め、のち謝罪に追い込まれた事件は幾つもある――例えば1950年代まで続けられた致死量相当の放射線を人間に浴びせる実験、1972年まで科学の名の下に行われてきた黒人男性が梅毒で死亡するのを看過した事例、1962年に自国民に対して爆弾を仕掛け、その罪をキューバになすりつけようとした「ノースウッズ事件」等々である。我々としては、それがあまりにも恐ろしい企てであったために未だ語られていない出来事がロズウェルで起きた可能性についても考えざるを得ないのだ。

もしそれが従来型とは違う気球やロケットの墜落であったとしたら、なぜロズウェル陸軍航空基地は数々のUFO伝説を生むようなプレスリリースを発表したのだろう? 円盤の墜落譚は機密実験をうまいこと隠蔽する無害なめくらましと見なされたのだろうか? そのプレスリリースが特定の意図を持って発信されたことは確かだろう。ロズウェルに駐留していた第509爆撃群は、世界一といっていいかはともかく、全米一のエリート飛行部隊であった――この部隊は、第二次世界大戦を終結させた二発の原子爆弾を投下したのだから。それが世界唯一の原子爆弾部隊であった以上、基地周辺のセキュリティは極めて厳重であったろうし、ミスが起こるのも非常にまれで、かつ仮にミスがあっても厳重な対処がなされていたに違いない。

そのようなエリート部隊、厳しい機密保持が日常になっていた部隊が、空飛ぶ円盤だとか秘密の気象観測気球プロジェクトといった潜在的に非常に機密性の高い事柄に関して、なぜプレスリリースを出してしまったのか? 農場主のマック・ブレイゼルに感謝をした上で、「これは国家安全保障上にかかわるから」といって口を閉ざすよう依頼すればよかったのに、なぜ彼らはこの件を表に出してしまったのか? もしそれが事故だったとしたら、そこで起きた出来事を管理すべき立場にあった基地司令官、ウィリアム・H・ブランチャード大佐は、なぜそののち非常に輝かしいキャリアを全うすることができたのか?

当時の政治的な状況や、アーノルドの目撃事件直後ということで「空飛ぶ円盤」に対してメディアが沸き立っていた時代を考慮すると、このストーリーが意図的に仕掛けられた可能性は考えられないだろうか? 米軍の内部には、空飛ぶ円盤はソビエトの先進技術に拠るものではないのかという深刻な懸念があった。「空飛ぶ円盤が捕獲された」と発表することでソビエト側に波紋を投げかければ、その反響を然るべき情報機関が追跡することもできただろう。あるいは、その発表によって、何が起きているのかを確かめようとするソビエトのスパイをロズウェルやライトフィールドに誘い込む意図があったのかもしれない。潜在的なリスクはあるが、一定の意味のある戦略だろう。

これとはまた別のミステリー――そしてそこにはまた別の魅惑的な可能性があるのだが――がある。それは、1948年刊行のイギリスの薄ボンヤリとしたスパイ・スリラーの行間に隠されている。

■空飛ぶ円盤

1930年頃から1968年に亡くなるまでの間、イギリスの作家バーナード・ニューマンは、フィクションとノンフィクションとを問わず100冊以上の本を執筆したが、そのほとんどはスパイ活動や戦争をテーマにしたものだった。第一次世界大戦中、ニューマンは諜報活動に従事し、戦間期にはヨーロッパ中を旅して講演を行ったが、彼は英国政府のエージェント、もしくは少なくともインフォーマント(情報提供者)ではないかと疑う向きもあった。ニューマンのスパイ小説の多くは駄作だったが、彼は諜報の世界で尊敬を集め、一部の本はスパイの活動に関する洞察に優れたものだとして高く評価された。

1948年に出版された『空飛ぶ円盤』はそうした高い評価を受けた本ではなかったが、世界初のUFO本という特別な栄誉に浴している。そのあらすじは、国籍の壁を越えた科学者たちが「敵対的な宇宙人が侵略を謀っている」という偽りのストーリーをデッチ上げることで、世界の人々の同胞意識を生み出し、世界の一体化をもたらそうとする――といったものである。この本は、1947年3月の国連会議でイギリスの外務大臣アンソニー・イーデンが行った実際の演説に触れるところから始まる。イーデンは、人類が直面するかもしれない人為的な破局の可能性に触れ、「私はこんな風に考えることがある――この混乱した惑星の人々は、火星にいる何者かに対して怒りを感じる時が来ない限り、真に団結することはできないのかもしれない」と述べたのだった。

ニューマンの小説の中の科学者たちは、世界各地の重要な場所に「宇宙からのミサイル」が落ちてきたという事件をデッチ上げる。二つ目のミサイルはニューメキシコに落下するのだが、そこには謎めいた象形文字が記されている。ちなみにこのモチーフは、1970年代後半に至ってロズウェルの残骸に関連付けられるようになる。そのメッセージが解読された結果、火星文明の脅威が明らかになり、次いで人気のない森にミサイルが打ち込まれる。その後に打ち込まれたロケットからは異星人の遺体が発見され(それは実は動物の体の部位をつなぎ合わせたものだったのだが)、小説はクライマックスへと向かう。ここに至って生きている「エイリアン」たちは世界各地に着陸する。かくて侵略の脅威を前にしたアメリカとソ連は敵対するのをやめ、最も小さい国にいたるまで核兵器が広まることによって世界には平和が訪れる。

この『空飛ぶ円盤』は、意図的にフィクションと事実とを融合させているようだ。この作品にはニューマン自身が主人公として登場しているのだが、それはこれが単なる物語以上のものであることを示唆しているようでもあるし、同作には「デッチ上げられた墜落」という中心的なアイデア以外にも多くの興味深い記述が登場してくる。ニューマンは、最初に火星のロケットがやってきた後の話として、空飛ぶ円盤が目撃された地域の広がりを現実に合わせて正確に記述しているのだが、そこでは目撃者が報告する円盤の形状、大きさ、色、発する音があまりに多様で一貫性がないことを指摘しており、この事実は後にアメリカ空軍の分析官を実際に悩ませることになる。また、ニューマンは多段式ロケットを描いているのだが、これはアメリカ空軍と海軍がともに極秘裏に検討していたものである。さらに、試作段階の兵器の爆発に人間の囚人がさらされる様子も描かれているが、これはアメリカの原爆実験中に実際に起こったと噂されていたことである。エイリアンの兵器に触れた部分では、同書に登場する主要な科学者であるドラモンド博士が、航空機や車のエンジンを停止させることができる携帯型の電磁波装置を開発している。

    ドラモンドの装置は新しいアイデアに拠ったものではなく、古いアイデアを発展させたものであった。もう長い間、科学者たちは電荷や光線の放出によってエンジンの電気プロセスに邪魔をし、エンジンを停止させるすべを知っていた。問題は、そのためには巨大で複雑な装置が必要で、かつその射程が短いことであった。そういう意味では、実際にエンジンを停止させるために用いられていたのはもっと簡単な方法であった――例えば「弾丸を撃ち込む」といったような。

車を停止させる光線だとか破壊的な「殺人光線」といったものは、第二次世界大戦当時に語られた技術的な都市伝説の一つであった。殺人光線は、1948年1月7日、UFOを追跡中に死亡したケンタッキー州兵パイロット、トーマス・マンテルの死因とされることもあった――実際にはそれは海軍が秘密裏に開発したアルミニウム製気球「スカイフック」であったのだが。車のエンジンの故障やラジオの受信障害も1950年代半ばのUFO報告における重要な要素となったのだが、これはドラモンドの描いた光線兵器と関連があったのだろうか。

ニューマンは、ロズウェル事件について何かを知っていたのか、あるいは知っていると考えていたのだろうか? 彼は諜報の世界の関係者からその内情を聞き出したのだろうか? それは誰にもわからない。しかし、ニューマンがフォークロアが如何に流布するかを理解していたことは確かである。本書の中では或るパイロットがUFOの墜落について話をデッチ上げ、そのあと新たな報告の波が引き起こされるのだが、それは彼が公の場でその真相を告白してからも変わらない。かくてニューマンはこう記すのである。「一度始まってしまった話が完全に消えさるということはない」 (03←04→05

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■第四章 発射

    「私の任務というのは、他の惑星についての様々な考えを受け入れるよう、大衆に心構えをしてもらうことであった。この目的のため、私は世界中の名の知れた新聞に記事を書いては関心をかきたてようとした。火星の運河だとか、いまだ説明がついていない月面の白い筋といった、むかし議論を呼んだ話を復活させたのである」 ――バーナード・ニューマン『空飛ぶ円盤』(1948年)

ジョンと私が映画制作を考え始めてから数ヶ月後、私はグレッグ・ビショップによる『プロジェクト・ベータ』という本のゲラ刷りを入手した。彼はロサンゼルスの作家にしてUFOの研究家でもあった。グレッグと私は何回か会ったが、ユーフォロジーと神秘主義、ポップカルチャーのオーバーラップする部分に強い関心をもっているという点で、私たちはすぐに意気投合した。その本は米空軍がポール・ベネウィッツに対して行った働きかけをテーマにしたものだったが、グレッグはその取材の過程で、何時間かドーティーと面談していた――その場所はニューメキシコ州の片田舎のデニーズレストランだったそうだ。その会話を録音したりノートを取ったりすることは禁じられたが、それでもこれは大きな突破口ではあった。空軍サイドからこのストーリーが語られたのはそれが最初だったのだ。

同時に『プロジェクト・ベータ』は、我々が知る限り、これまで誰も手に入れたことのなかった重要なデータを私たちに示してくれた。それは2000年に写真スタジオで撮影された白黒の写真で、そこには驚くほど普通に見えるドーティの姿があった。写っている男は40代後半。ジャケットにネクタイ、ストライプのシャツという服装で、ひし形をした顔は穏やかに傾いた肩の上に乗り、髪は警察官風に短く刈り込まれていた。笑顔はぎこちなかった。口の左側がわずかに上がった表情は奇妙な感じを与え、その上にはかすかに上がった眉毛があった。顔一面の汗は、どこか不安気な様子をうかがわせる。しかし、私はこの「獲物」の写真にあまりに多くのことを読み込みすぎていたのかもしれない。その日のニューメキシコは暑かったのかもしれないし、ぶっちゃけて言えば、写真を撮られるのが好きな人なんていない。

『プロジェクト・ベータ』出版後の2005年初頭、グレッグ・ビショップはアメリカで非常に人気のある深夜のトークラジオ番組「コースト・トゥ・コースト」にゲスト出演した。「コースト・トゥ・コースト」は、アメリカ人の抱くイメージの中で――とりわけ深夜にラジオを聞いているアメリカ人のイメージということになるが――どのような怪異が流行っているのかを取り上げ、かつその世界に影響を与えている番組だ。UFOはこの番組が週に何時間も費やして何度も採り上げるお気に入りのネタで、このほかにはおなじみの幽霊やビッグフット、超能力、ヒーリング、地獄への門や黙示録、燃料不足、エイリアンの支配、マヤの神々の帰還、惑星Xとの衝突などが続く。奇怪なもの、疑惑を呼ぶものの形作るパノラマがいつ絶えるともなく続くのである。

その番組でグレッグは、自らの本と、UFO分野においてニセ情報が果たしてきた役割について語った。続いて彼は、特別ゲストとしてニューメキシコから生中継で参加するリチャード・C・ドーティを紹介した。我々はこれで写真に加えるにその声を知ることもできたわけだが、それは予想外に高い声でオタクっぽく、いきなりクスクス笑いでも始めそうな感じだった。ドーティは自分は民間人だと自己紹介し、UFO分野での活動は1980年代にやめたと語った。彼はポール・ベネウィッツには友情と尊敬を覚えていたとし、彼の身に起きたことへの悲しみ、そして彼の精神の問題を食いとめられなかったことへの思いを語った。そして、爆弾発言をした。奇妙な信念を人に植えつけるエージェントとしてこれまで見聞きしてきたありとあらゆるものに照らしてみた結果、「私自身も地球上には地球外生命体が存在すると信じている」というのだった。

エイリアンやUFOに関していえばこの人物の名前はほとんど「欺瞞」とイコールなのだが、そんな彼が「すべては真実だ」と私たちに伝えようとしていた。そればかりではない。彼はそれを信じてもらおうとしていた。ドーティは「コースト・トゥ・コースト」のリスナーを舐めきり、それぐらいの変わり身をみせれば無罪放免で逃げられるとでも思ったのだろうか? 彼は世界に向けて自分をネタにして内輪受けするジョークを放ったのだろうか? それとも彼は米空軍特別捜査局(AFOSI)時代の誓約に縛られていたのだろうか? あるいは彼はまだ現役の諜報員で、ラジオ出演はその仕事の一環だったのだろうか? 最も大胆な仮説はこういうものだ――「彼は本当にそう信じていた」。その場合、彼は本当に何かを知っているのか、さもなくば自らの考えを変える何かを見たのかもしれない。あるいは長い年月を経るうちに、UFOにまつわる話が彼の心に影響を与えるようになったのかもしれない。ウソつきはしばしば自分のウソを信じ始めてしまい、、自らウソと一体化してしまうことがある。彼は最初からそうだった可能性もあって、だからこそ米空軍諜報部は彼を雇ったのではないか――彼の中に、その役割に没頭するあまりメソッド・アクターのように自己を滅却してしまえる才能を見いだして。ともあれ、我々は僥倖に恵まれた。我々はリチャード・ドーティの写真と声を手に入れた――いや、少なくとも自らリチャード・ドーティと名乗る男のそれを手に入れたのだ。

ドーティがラジオ出演した後、私はUFOが忘れ去られた状態から復活する兆しがないか、注目していた。だが、そんなことは起きていなかった。インターネット上にはUFOのウェブサイトが溢れていたが、誰もがみんなおなじ古い話を繰り返し、何年も前にインチキ判定されたおんなじピンボケ写真を持ち出していた。このテーマには電気ショックのようなもの、つまりUFOを表舞台に押し出してくるような予期せぬ展開が必要だった。私が恐れたのは、こんな冬眠状態があまりにも長く続いたため、アマチュア無線家や鉄道ファン同様、UFO愛好家たちは時代遅れの存在と見られるようになってしまったのではないか、ということだった。そこに奇跡が起こった。始まりはインターネットの片隅の目立たない場所で、さざ波として始まった。だが、それは間もなくホンモノの波になった。UFOの世界で何かが動き始めていた。

■リクエスト・アノニマス

「まずは自己紹介をさせて下さい。私の名前はリクエスト・アノニマスです。私は米国政府の元職員です。過去について詳しくは語りませんが、特別なプログラムに関与していました...」

このように始まるメールをヴィクター・マルティネスが受け取ったのは2005年11月のことだった。彼はアメリカ西海岸の代用教員であったが、インターネット上で最も注目すべきメールグループの一つを運営していた。約200人に及ぶそのメンバーは掛け値なしに重要な人物たちで構成されており、その面々は過去30年の間にUFO現象に興味を抱いた、あるいは直接関係をもったことのある科学者、軍人、諜報関係者たちであった。さらにいえば、その中にはCIA、国防情報局(DIA)、国家安全保障局(NSA)の現職・元職、米国政府のリモートビューアー、フリーエネルギー研究者、理論物理学者、ベンチャーキャピタリスト、さらに神秘主義者、魔女、エイリアンコンタクティー、アブダクションの被害者という触れ込みの多くの人々なども含まれていた。

そこに登場したのがリクエスト・アノニマス、通称アノニマスだった。マルティネスによれば、アノニマスは約6か月間リストをチェックしたのちに自ら名乗りを上げ、「特別なプログラム」を明かした。彼は一体何者なのか? 間髪入れず疑心暗鬼がとびかうこととなったが、アノニマスはその正体を隠し通した。マルティネスも彼の正体を暴こうとはしなかった。「もし私がその正体を暴こうとしていることを知ったら、彼はただ荷物をまとめて別のUFOリストの管理者を見つけ、そっちで彼の驚くべき話を発表しただろうね」

アノニマスの膨大な記録は「驚くべき」という言葉がふさわしいもので、分量にして毎月数千語ずつ増えていった。メールが送られなくなるまでの3年間で、「リリース」は31回あり、その総量は数万語に及んだ。そして、アノニマスによれば、これらはすべて1970年代後半にDIAが編纂した3000ページにわたる極秘報告書の抜粋にすぎなかった。この分厚い文書がどこにあり、アノニマスがそれをどうやって手に入れたのかは謎であったが、一つ言えるのはそれは彼の地元の図書館にはなかったということだ。

以下は、そのリリースが伝えようとした内容を大幅に簡略化したものである。


1947年、ニューメキシコ州にETの宇宙船2機が墜落した。ちなみにこれは、1970年代後半以降「ロズウェル事件」として知られるようになった出来事である。墜落で6体のETが死亡したが、1体は生存していた。彼らの宇宙船の残骸はオハイオ州デイトンのライト・パターソン空軍基地に運ばれ、生存したETはEBE1(イーバ1)というニックネームでニューメキシコ州のロスアラモス研究所に収容され、1952年までそこで生活した。この間、EBE1は母星との連絡を試みた。残念ながらその呼びかけに応答があったのは彼の死後であったが、それはアメリカにとっては歴史的な瞬間であった。この時点から、アメリカ政府はEvens(イーヴンズ)と呼ばれる地球外種族と定期的に連絡を取るようになった。唯一の問題は、その事実を世界に伝えることができなかったことであった。

1962年末、ケネディ大統領は暗殺された。一部の人々によれば、彼はUFOの真実をアメリカ国民に明かそうとして、それを果たす前に暗殺されたのだが、それ以前に彼は宇宙規模の外交交流にゴーサインを出していた。特別に訓練された人間12人のチームはそれぞれその身元が抹消され(諜報業界で言う「sheep-dipped」である)「プロジェクト・クリスタル・ナイト」と呼ばれるプログラムで、イーヴンと共に彼らの惑星に向かうことになっていた。イーヴンと人間の双方の大使の顔合わせの準備が行われ、1964年4月24日に2機のイーヴン宇宙船が地球の大気圏に入った。そのうちの1機はニューメキシコ州のホロマン空軍基地近くに着陸。宇宙船に乗り込んだアメリカ政府の高官チームは、「イエローブック」と呼ばれるホログラフィック装置を贈られたが、その装置には地球という惑星の全歴史が収録されていた。人員の交換はその翌年に行うことで合意が得られ、1965年7月、人間の訪問チームはイーヴンの宇宙船に乗り込んだ。1体のET(通称EBE 2)は地球に残った。

訪れた人間たちが「セルポ」と呼んだETの惑星は、地球から38光年離れたゼータ・レティキュリ星系にある。アノニマスによれば、セルポは地球より少し小さく、太陽は2つある。土地は平坦で気象は暑く乾燥しており、環境としては厳しいが居住は可能で、特に北部は涼しいことから人間はそこに居住した。訪問チームはセルポで13年間を過ごし、何度か災難に見舞われたものの、イーヴンズには歓迎され、自由に動き回ることができた。セルポには約65万人のイーヴンズが住んでおり、惑星全体に約100の小さな自律的なコミュニティが点在していた。中央政府はなく、イーヴンの産業と資源のハブとして機能する大きな中央コミュニティが一つあっただけであった。すべての人が働き、その見返りとして質素だが幸福な生活を送るために必要なものを供給された。この準社会主義的ユートピアに犯罪は存在しなかったが、戦争はそうはいかなかった。3000年前、イーヴンズは他の惑星の文明と100年にわたる大規模な星間戦争を戦い、その結果、敵を撃滅させたもののその代償として自らの母星を居住不能にしてしまった。それ以来、イーヴンズは銀河間の漂流者となり、現在の母星に定住するまで、地球をも含む他の種族や文明を訪問していた。

1978年に人間のチームが地球に戻る時までに、2名は死亡していた。またセルポに残ることを選んだのは2名で、彼らは1988年まで地球と連絡を取り続けた。帰還したメンバーはセルポの双子の太陽による高い放射線にさらされており、これが最終的には彼らを死に至らしめた。最後の一人は2002年にフロリダで亡くなった。

奇妙なことにアノニマスは、イーヴンズの文化や生活習慣、消化器系に至るまで詳細を明かしているにもかかわらず、エイリアンが実際にどんな外見をしているのかについては何も述べていない。アノニマスの話を擁護する者は、これは報告書が本来送られる先の人々は――すなわちアメリカにおけるUFO問題のインサイダーたちのことだ――すでにETの外見を知っていたからだと説明した。ロスアラモスには捕獲されたイーヴンがいたのだから、というのである。報告書の完全版には写真も含まれており、アノニマスはこれも世界と共有しようと約束したが、その中にはイーヴンズがサッカーのようなゲームをしている写真もあったという。こうした画像が公開されることはなかったが、数か月後になって双子の太陽がみえる砂漠の風景写真はいくつか流出した。だが、それらはすぐに「フォトショップで作成された、しかもかなり質の悪いもの」だとして退けられた。

アノニマスの最初のメッセージは大爆笑で迎えられたとお考えかもしれないが、実際にはそんなことはなかった。この件はヴィクター・マルティネスのメールリストのメンバーであるポール・マクガヴァンとジーン・レイクス(時にはロスコウスキーとも呼ばれる)によって検証され、二人はアノニマスの主張を裏付ける背景資料を提示した。マクガヴァンはエリア51に駐留していた元DIAのセキュリティ主任だったことが明らかにされ、レイクスもまたDIAにいた人物と見られた。しかし問題があった。マクガヴァンとレイクスの経歴は目を引くものだったが、その身元はマルティネスのメールリスト以外の場所では確認できなかったのである。ただ、もし彼らが本当に軍事諜報の闇の世界でキャリアを積んできたのなら、これはそれほど驚くべきことではなかった。しかし、さらに大きな問題は、「セルポの話もポール・マクガヴァンとジーン・レイクスの身元も、両方間違いはない」というもう一人の人物の存在であった。リチャード・C・ドーティである。

数週間が経過して、セルポはインターネット上で話題になり始めた。ロンドンの通勤者向け新聞でも言及された。セルポ文書はその簡潔にして軍事色を漂わせた一人称の口調で、トム・クランシーのスリラーの緊迫感と、エドガー・ライス・バローズのスペースオペラのようなパルプマガジン的魅力を兼ね備えていた。それは、完全に事実でもなく完全にフィクションでもないという、奇妙な領域を占めていた――それは、聖ブレンダンやマルコ・ポーロのような地上の探検家の物語や、天を行く多くの聖者の旅物語と同様、他界にかかわる物語がいずれも分かちもつ領域であった。新しいリリースが出るたびに、それは古いRKOシリーズのエピソード「キング・オブ・ザ・サーペンメン」 [訳注:不詳] の公開さながらに、新たな希望やワクワクドキドキをもたらした。写真が公開されるかも。交換クルーの名前が明かされるかも。生存者から話を聞けるかも。そういった期待があった。しかし、もちろんそんなことは一度も実現しなかった。

セルポ事件が他の目的を果たせなかったとしても、それが何年間もの停滞期に落ち込んでいたUFOコミュニティの注意を引きつけ、沈みかけていた熱意の炎を再び燃え上がらせたのは確かだ。有名なエイリアンアブダクションの被害者にしてホラー作家のホイットリー・ストリーバーは「コースト・トゥ・コースト」で、1990年代にUFOコンベンションで出会った老兵士との会話を回想した。その男はストリーバーに「別の惑星に行ったことがあるか」と聞いてから――ストリーバーの記憶によればであるが――「セルピコ」という言葉をつぶやいた(ちなみに「セルピコ」とは1973年のアル・パチーノ主演の警察スリラーの名前である)。さて、それから10年ほどが経って、ストリーバーには全てが理解できた。そして、ストリーバーの支持に加え、ラジオやインターネット上で情報が流通しチャットが続けられていく中で、「セルポ」は実際に起こったことのように感じられるようになってきた。さらに驚くべきことに、UFOは数年ぶりに再度ホットな話題になったのである。

セルポの興奮が広がる中、イギリス系カナダ人の自己啓発トレーナー、ビル・ライアンは、アノニマス情報の受け渡し場所としてウェブサイトを設立しようと考えた。ビルがセルポ資料に出くわしたのは偶然だった。彼は或る日、ガールフレンドが反ジョージ・X・ブッシュのメーリングリストから転送してきたメールを受け取ったのだが、そのメーリングリストの運営者がヴィクター・マルチネスだった。彼はもともと政治関係のリストとUFO関係のリストは別々に運営していたのだが、セルボ資料があまりにも重大なので、「これは世界全体に広めねばならない」と考え、それを政治関係のリストにも載せた。それが結果的にビルを引き込むことにつながった。

ビルはフリンジ方面に詳しいわけではなかったし、その手のものは最初は認めていなかった。ただ、かつて熱心なサイエントロジーの信者だったことがあった。実際あまりに熱心だったため、創始者のロン・ハバードのオリジナルの教説が新世代のサイエントロジストたちに無視されているとみなすレトロ・サイエンスフィクションの教派に加わり、オルグに参加していたほどである。またビルは、「間違いなくエイリアンだ」と思っていた女性とデートしたことも認めていた。こういう来歴もあったし、そもそもL・ロン・ハバードの宗教というのは地球外に起源をもつものだ。だが、ビルはUFOの世界では新参者だった。ビルはすぐさまアノニマスの物語の熱心な支持者となり、そのウェブサイトを維持運営するのにすべての時間とエネルギーを費やした。かくてそのサイトは、ほどなく多くの人々を引きつけるようになった。意図したかどうかはともかく、ビル・ライアンはセルポの新たな顔役となった。ジョンと私は、彼と話をする必要があった。

ビルと会う算段を付けるのは簡単だった。伝道者の精神に満ちた彼は、セルポにまつわる話を広めることに喜びを感じており、2005年12月、ジョンと私に会うためにロンドンにやって来た。彼の到着を待っている間、私はビルに何を期待しているのか分からなくなっていた。だが、何を期待しようが、その通りのものが得られるわけではなかった。ビルはあなたが普通考えるような経営コンサルタントではなかった。彼は感情表現豊かな40代後半の男性で、日焼けしたフレンドリーな風貌、肩にかかった赤い薄毛の持ち主だった。その靴の底からボロボロになったフェルトのアウトバックハットのてっぺんまで、彼の衣服はすりきれて穴だらけだった。

ヒューレット・パッカードやプライス・ウォーターハウス・クーパースのような企業で働いたと主張する人間にしては、ビルは確かにカジュアルな印象であった。私はいつも他人の身なりについてアラ探しをするようなことはしないが(そもそも私自身の日々の服装もアラだらけなのだ)、ただビルは数日間車で生活していたように見えたし、たぶん本当にそうだったのだろう。セルポのストーリーに入れ込みすぎたことでビルとガールフレンドの関係は深刻なことになっていたし、彼はその当時、自分の家がどこにあるのかも分からなくなっていたのだ(UFOは日々の暮らしを大いに損なう可能性があることを読者諸兄には改めてご注意申し上げたい)。

ビルのセルポに対する確信には揺るぎないものがあった。彼はその物語に完全に取り込まれていた。インタビュー中も、彼は常にアップルのラップトップ(当然バッテリーはボロボロ)でメールをチェックしていた。新しいアノニマスのリリースが近日中にあるという噂があり、ビルは次なるエピソードを熱狂的に待ち望みつつ、やむことなく押し寄せてくるセルポ関連の質問に一生懸命に答えていた。

ビルのやる気は本物だったかもしれないが、彼はUFOビジネスには素人同然で、それは予想していたほど順調には進んでいなかった。天文学者たちは報告書にでてくる軌道データ(それは有名な天文学者カール・セーガンが提供したものとされていた)について疑問を呈していたが、私を悩ませる、より基本的な問題というものもあった。私がとりわけ注目していたのは、メインイベントとしてのETと人間の相互訪問ではなく、セルポの話には「既存のUFO伝説には出てこなかったもの」が何もないということだった。映画ファンなら誰でも、スティーブン・スピルバーグのUFO大作『未知との遭遇』との明白な類似点を指摘できるだろう。この映画は、ワイオミング州のデビルズ・タワー近くの秘密の場所に巨大なディスコボール型UFOが着陸する場面でクライマックスを迎える。そこでリチャード・ドレイファス演じるキャラクターは、12人の軍人と共にETの宇宙船に乗り込み、おそらく友好的なエイリアンの惑星に連れて行かれる。それこそがセルポだった、ということなのだろうか? UFOコミュニティの多くの人々は、『未知との遭遇』やスピルバーグの『E.T.』は「エイリアンは地球に来ている」という真実に我々を慣れさせるために作られたと信じており、その試みは1951年の映画『地球が静止する日』から始まったとされる。仮にそれが本当だったら、スピルバーグは [敵対的な宇宙人が現れる] 黙示録的な映画『宇宙戦争』で一体何を伝えようとしていたのか、我々は疑問に思わざるを得ないところである。だがセルポ・ウォッチャーズにとっては、『未知との遭遇』の公開された1977年が、セルポの搭乗者が帰還するちょうど1年前であったことは偶然ではなかったのだ・・・

ビルはセルポの怪しげな部分をあげつらうようなことはしない。彼は、その首尾一貫しない部分というのは、実際にはそれがインチキ話の同類である可能性を減らしていると感じた――そのように込み入った話を時間をかけて捏造するような人間は、天文学的に正しい事実をストレートに入れ込もうとするはずだ、というのである。私にはそうは思えなかった。そもそも彼らが天文学的な事実に無知だったらどうなるのだろう?

「これを信じなさいと強いるつもりはありません」とビルは説明した。「可能性があるのではないかと考えて欲しいのです、ただ私は、これが単純な捏造やイタズラである可能性はないと思います。それにしてはあまりに複雑すぎるし、多くの状況証拠が符合しています。誤情報というものは、すべて一つのカテゴリーに放り込むことができる。そこに入ったものはすべてが偽りだということになる。ただ、この話がニセ情報である可能性はある。ニセ情報というのは、半ば真実であり、半ばはフィクションであるということです。そして、フィクションの部分が全体の5%もあれば、ストーリー全体がおかしな話ということにされてしまう」

ニセ情報。ノイズ。セルポというのはそんな類のものだったのだろうか? それはUFOコミュニティに情報を植え付けるためインターネットを利用した試みだったのだろうか――米空軍特別捜査局(AFOSI)が、ベネウィッツ事件で偽の文書を用いたとの同じように? 私たちは正体を見定めがたい、新たな集中砲火が情報戦争に用いられているのを目にしているのだろうか? セルポとマルティネスのリストは情報の実験場なのだろうか? セルポは社会学的または心理学的な研究プロジェクトで、一つないしは複数の情報機関・大学によって(しかもおそらくはおそらくはマルティネスのリストのメンバーによって)行われているものではないか? 我々はそれを「ミームの追跡」実験と考えることができるかもしれない。ウェブ上を情報が流れていくルートを追うことは、我々の生きているデータ飽和の時代においては有益な試みということになるだろう。クジラに発信機を取り付ける。病院の患者の消化器系でバリウム入りの食事が移動していくのを追跡する。そうした試みは、「追跡されているもの」と「それが通過する場所」の両方について多くのことを教えてくれる。情報機関では、これを「印のついたカード」という隠語で呼んでいる。

セルポが情報機関の世界にその起源を持っているとすれば――実際のところ多くの観察者はそのように見ていたようだが――それはUFOとは無関係だったのかもしれない。そのリリースには機密情報が暗号として埋め込まれていたのかもしれない。あるいは、それは情報機関が「偽旗作戦」と呼んでいるものだったのかもしれない――つまり、UFO関係者の仕業に見せかけ、外国人や産業スパイをその罠に引き込むことを意図していたのかもしれない。マルティネスのUFOリストに多くの情報機関と軍の関係者がいたのは偶然だろうか? セルポは隠れていた何者かを引き出すための試みだったのだろうか?

オンラインで提起された興味深い考えが一つある(もっともそれはすぐに反論されたのではあるが)。これは「アノニマスは実際に本物の政府文書に出くわした。ただ、それはもともと誰かを――例えばロシアだ――欺すために作られたものだった」というものだ。イーブンたちの幸福ではあるものの剛健なコミューンの存在は、1960-70年代のロシア統治機構に、自らが作っている世界の宇宙&ユートピアバージョンとして眩しく映ったのではないか。そんなことを考えることもできるだろう。

もう一つの可能性は、セルポの資料はアリス・ブラッドリー・シェルドン(1915-87)によって作られたというものだ。シェルドンは1940年代に米空軍情報部で働き、1950年代にCIAの工作員として活動した後、ジェームズ・ティプトリー・ジュニアの偽名でニューウェーブののSF作家として名を馳せた(正体を明かしたのは1977年だった)。SFを書く才能とCIAとの関係を持つシェルドンは、1960年代もしくは1970年代にセルポ文書を書くために雇われたのではないのか? それは別のプロジェクト――たとえば1963年に米空軍が始めた高機密の軌道偵察プログラム、「有人軌道実験室」(MOL)からロシアの目をそらすために仕掛けられた、複雑なニセ情報ゲームの一部だったのではないだろうか?

当時としては非常に高度なこのプロジェクトとセルポの物語には確かに類似点がある。17人のアメリカ空軍の隊員たちは、続けて一か月間、宇宙船の狭い空間で生活する準備訓練を受けたが、彼らとその上司以外に訓練の目的を知る者はいなかった。この計画は試験飛行が一度行われた後に中止された。必要なコストは天文学的であり、乗組員にとっての潜在的な危険性は受け入れがたいほどに高かった。それがこの当時、人間の乗組員が行っていたことの多くが無人衛星で実行できるようになったのである。シェルドンは文書を執筆した上に、MOLのスケジュールすら書いた可能性がある。MOLのスケジュールは1963年に開始され、1970年代半ばまで続くとされていたが、それはジェームズ・ティプトリー・ジュニアの短い生涯、セルポとの間で行われたとされる相互訪問のいずれとも符合する。

だが、残念ながらここまで書いてきたことは事実ではない。シェルドン/ティプトリーが一枚噛んだという話は、セルポ伝説の初期に匿名の人物のメールで明かされたものだし、MOLについて色々述べたことは私自身が書いたものだ。シェルドンの逸話の背後にいる人物は後に、「セルポ伝説の一切合切は自分たちが大学の社会学コースの一環として作り出したものだ」と明かし、その後デジタルの闇に永遠に消え去った。

その起源が何であるかはともかく、セルポはUFOカルチャーに待望久しい一撃を撃ち込み、かつて栄光の日々を過ごしていたキープレーヤーたちがゾロゾロと這い出してくる手助けをした。それはまた、UFOと陰謀論分野では非常に人気のある2つのオンライン掲示板に隆盛をもたらした。すなわち、「オープン・マインズ Open Minds」と「アバブ・トップシークレットAbove Top Secret」である。

こうした掲示板はUFO情報を受信したり発信する場として機能し、マルティネスのリストと同様、互いに共通点のないUFOハンターや疑似政治学の愛好家たちを一か所に呼びよせた。ここで人々は、あらゆることについてそれぞれの見解を披露しあった。それは「911攻撃の起源」や「月にある秘密の米政府基地」から最新の軍事技術の進展に至るまで、多岐に渡った。そのため、ここは米国をはじめとする国際的な情報機関の工作員にとっても有用な場所となり、彼らはそこに入りびたっては、多種多様なオタクや過激派を監視した。そして、おそらくではあるが自らも当事者となった。

2008年後半に報じられた或るニュースは、情報機関が掲示板やフォーラムを使ってどのように作戦を行っているかを明らかにした。2006年頃、マスター・スプリンター(Master Splynter)というハンドル名のハッカーが、クレジットカードのハッカーやデータ窃盗犯の主要な情報交換所である「ダークマーケット」というウェブフォーラムに参加した。ここでは、データやデータを収集するための技術、偽のクレジットカードを作成するための技術が売買されていた。数ヶ月を経て、マスター・スプリンターは徐々に運営役を引き継ぐようになっていった。そして2008年10月にはダークマーケットの閉鎖を宣言した。

    このフォーラムが、世界各地の多くの公的機関(FBI、SS、インターポールのエージェント)から並外れた注目を集めているのは明白だ。これは時間の問題であったと思う。実に残念である。なぜなら、我々はダークマーケットを英語圏でビジネスを行うための主要フォーラムとして確立していたからだ。これが人生というものだ。トップにいる者を人々は引きずり下ろそうとするものなのだ。

マスター・スプリンターがどうしてこうしたことを知っていたのかいえば、彼の正体がFBIサイバー犯罪エージェントのJ・キース・ムルスキーだったからだ。彼は大規模な国際的なクレジットカード詐欺組織を閉鎖するために、サイトに潜入していたのである。「オープン・マインズ」や「アバブ・トップシークレット」、さらには他の無数のUFO・陰謀論サイトが同様の作戦の場として存在しているのかどうかは分からないが、先進的な軍事ハードウェアやUFOが議論されているところでは、情報機関は常に耳を傾けているのである。

ウェブサイトの立ち上げ以外のことで言えば、セルポはビル・ライアンを瞬時にしてUFO学のセレブリティにした。サイトを立ち上げて数週間のうちに、ビルは2006年の「ラフリン国際UFOコンベンション」の基調講演者として招待された。このコンベンションは、世界最大とは言わずとも、米国では最も大きな集まりの一つである。ラフリンのコンベンションは3月開催の予定で、ビルの存在を告げ知らせるかのように、アメリカの「UFOマガジン」誌2006年2月号がセルポに関する特集号を発行した(同誌は英語圏で唯一ニューススタンドで売っているUFO関連の出版物である)。ビルの記事を補完する形で掲載された記事は、以下のように始まる。 [訳注:UFOマガジンは2012年終刊]

    私の名前はリチャード・ドーティ。元空軍特別調査局(AFOSI)の特別捜査官で、現在はニューメキシコ州に住む一般市民である。過去数年間、私はUFOマガジンの熱心な読者である(中略)
    1979年初め、若手の特別捜査官としてカートランド空軍基地に着任した後、私はAFOSI第17区の対諜報部門に配属された。私は特別な区分プログラムに関する説明を受けた。このプログラムは、米国政府と地球外生物との関係を扱っていた。初めてのブリーフィングの際、私は政府のEBEへの関与に関する完全な背景情報を与えられた。この背景説明にはロズウェル事件に関する情報も含まれていた……総じていえば、その内容はアノニマスが公開した情報と全く同じであった。

元情報機関のエージェントにして、10年以上も姿を消していたドーティは、大衆の目にさらされることにも無頓着になっていた。彼はヴィクター・マルティネスのメールリストでも定期的にコミュニケーションを取り、セルポに関するアノニマスの主張を裏付ける情報を提供していた。ジョンと私は連絡を取るべき時が来たと決意した。ドーティへのメールで、私たちはUFOに関する情報機関の関与についての映画を作っており、彼の経験について話を聞きたいと説明した。我々はラフリンUFOコンベンションでビル・ライアンを撮影する予定であることにも触れた。さて、我々はニューメキシコでドーティと会えるのだろうか?

返事はすぐに来た。ドーティは、インタビューのことは考えておくが、アルバカーキでやったらどうだろうと書いていた。が、もっと良いことがあった。彼はラフリンに行く予定で、「そこであなた方と会えるのを楽しみにしている」という。

やるべきことはただ一つ。ネバダに行こう。 (04←05→06


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■第5章 鳥たちの会議
    「ヤツらが恐ろしいほどのスピードで空を飛ぶのを可能にしている力は何か? 乗っているのは誰……というか何なのか? どこから来たのか? なぜここにいるのか? コントロールしているものたちにはどんな意図があるのか?... 暗い空のどこかに、それを知る者がいるかもしれない」――「宇宙からの訪問者は来ているのか?」LIFE誌(1952年4月7日)
ここはネバダ州ラフリン。ホテルとカジノが連なる長さ2マイルほどのその街路は、ネバダ州最南部にあって東側のアリゾナ州、西側のカリフォルニア州の間を流れるコロラド川に接している。1964年にミネソタの元毛皮業者ドン・ラフリンによって創設されたこの町は、現在ネバダで3番目に人気のあるギャンブルの街となっており、気遣いを込めた表現でいうならば「低額ギャンブラー」たちを引きつけている。彼らは、ヌードマジックショーやベット・ミドラーのコンサートに大金を使うようなことはしない。というのも彼らは地元民であるか、さもなくばそんなおカネを使う余裕がないのである。ラフリンのカジノはスロットとテーブルゲームが中心であり、他にやるようなことはほとんどないのだが、それでも多くの訪問者を引き寄せている。

1983年以来、毎年4月には「ラフリン・リバー・ラン」というイベントが開催され、7万人ものバイク愛好者たちが詰めかける。残念ながら、このイベントが町の名を歴史に刻んだのは、2002年のリバーラン暴動の現場としてであった。この事件では、ヘルズエンジェルスとモンゴルズというバイカーギャングの間で激しい戦いが繰り広げられ、3人が死亡したほか、多くが重傷を負った。

そして、国際UFOコンベンションもある。それは1991年以来当地で開催され、アメリカで最大規模のUFO大会の一つとなっている。毎年参加する約600人のUFO研究家やUFOファンたちは、リバー・ランの参加者ほどビール、ガソリン、アンフェタミンを消費しないかもしれない。だが彼らは、バイカーのように粗野だったり貧乏臭かったりする代わりに、夢のようなことを口走る熱情をたっぷりと持ち合わせているのだった。

それは2006年2月のことであった。ジョンと、撮影スタッフのジラー・ボウズ、音響技師のエンマ・ミーデン(この二人はいずれもジョンの映画学校を最近出た連中だ)、そして私は、ラスベガスからラフリンへと向かう90マイルの道のりをクルマで走っていた。私たちの目的は、セルポのリーダーたるビル・ライアンの近況を追い、ポール・ベネウィッツ事件について講演する予定のグレッグ・ビショップに話を聞き、そして何よりもリチャード・ドーティを見つけ出してインタビューすることであった。

辺りに何もなく、単調で赤い火星の砂漠を思わせる光景を見ながら進んでいくと、道路脇の標識だけが私たちが今どこにいるかを示すものとなった。コンクリートでできた獰猛そうな恐竜、巨大なサボテン、手描きの隕石広告、インディアン・ジュエリー、木の切り株の化石、そしてサソリのペーパーウェイト――。道端のほこらは、乾ききった永遠の猛暑の中にあって、高速道路で起きた悲劇の瞬間を後世に伝えるものだ。そんなほこらが路肩に点在している。白い十字架、プラスチックの花、風化したぬいぐるみがきちんと並べられ、壊れた金属片だとか破れたゴムといった車両の残骸の脇に置かれていた。

こうした残骸はロズウェルのUFO墜落事件へと改めて私の思いを誘った。それは何十年にもわたって増幅された音のように響き渡り、最終的にその音は原点におけるそれよりもはるかに大きいものとなった。ロズウェルはアメリカ西部の大いなる神話の一つとなり、人間の世界にはおさまりきらない悲劇となった。それは現代アメリカが誕生して時点における無垢の物語であり(それは楽園の物語ですらある)、喪失の物語、希望や真実に対して恐怖や秘密主義が勝利した物語でもある。さらにいえば、私たちや他のUFOコンベンションの参加者をこの荒涼たる地に引き寄せたのも、その物語なのだった。

ゴツゴツした崖の上から下っていったところで、我々の目前にはラフリンへと続く着陸灯の如き灯火が広がった。目的地はフラミンゴホテル。その双子の塔は巨大でかつ光り輝いており、真っ暗な砂漠の夜にあって連星軌道を描く宇宙ステーションのようであった。私たちはクルマを停め、高さ40フィートの女性器のようなピンクのネオンをくぐってホテルに入った。中に入ると、そこはもはや比喩どころではない子宮である。それが逃れられない現実であった。

ここには必要なものがすべて揃っていた。ホテルは自己完結型の冷房環境を提供しており、そこは外の過酷な砂漠からは隔離されていた。仮にそこから出ていこうとしても、女神サイレンの歌声があなたを呼び戻す。入口から数フィートの場所には何百台ものスロットマシンが並んでおり、その一台一台から流れる音楽は、ひとりひとりの心に染み入ってうまずたゆまずハーモニーを作り出す。それは魂に栄養をほどこすかのようであって、あたかも当地を最初に探検した開拓者たちにコロラド川が施したものもかくやと思われた。

それは胎内の音楽であり、幼児用おもちゃ1000個が鳴り響く音のようであった。心地よく、安心感があり、圧倒的に甘い。どこを見ても人々は椅子に座り続け、低レベルのてんかん発作の如き状態にあり、明滅するライトが光ったままの目に反射していた。中には、プラスチック製のクレジットカードをコイル状のゴム製コードで自分のマシンに接続したままの者もおり、一方の手には大量のコインが入った大きなバケツ、もう一方の手にはコーヒー、ビール、炭酸飲料が入ったさらに大きなバケツ。ここには時間がなく、時計もなく、昼夜の感覚もなく、場所の感覚もなかった。いったんズラリと並んだゲーム機の列を越えると、巨大なゲームフロアの出口は、ジグザグに曲がって光に満ちた廊下の先で見えなくなっていた。いったい誰がここを離れたくなるだろうか?

今日は日曜日であることを思い出した。UFOコンベンションは一週間続く予定で、その一週間、この場所が私たちの家となるのだ。会議で聞く予定のトピックのリストを見返した。プエルトリコやカリフォルニア沖の水中エイリアン基地。ノバスコシアやロズウェル、アズテックでのUFO墜落。人類のET起源説。ミステリーサークル。2012年の黙示録到来。目に見えぬエイリアンによるミューティレーションとユタ州の牧場のワームホール。ETと人間のハイブリッドプログラム。UFOの推進装置――要するに、私がこの手の話に夢中になっていた10年前とほとんど変わっていなかった。

私はUFOコンベンションをカジノと繋げているものに気づいた。信仰である。次に賭けるコインが財産を築き、人生を変えてくれるだろうという信仰。ETは私たちの間にいて、自らの存在を明らかにし、我々の生活すべてを変える準備をしているという信仰。あなたがフラミンゴホテルに入ったときに信仰を持っていなかったとしても、UFOコンベンションの一週間が終わるころには、確実に信じるようになっていることだろう。

UFOコンベンションが行われている会場は三つあった。まずは会議が行われる大きな部屋があり、一方には演壇、その前にはフェイクの赤いベルベットや金をあしらった数百のチェアが並んでいた。この部屋が満席になることは稀だったし、観客のかなりの部分は常にうとうとしているように見えた。講演スペースはメインホワイエに開設されていて、そこがいわば本番の場所であった。コーヒーとケーキが散らばったテーブルを囲んでの小会議、ネットワーキング、ひそひそ話。それはこんな具合だ―― 「俺は頭の中でビリヤードをやっていたんだよ」「ビームにはまっていたけど、今はオーブに夢中だ。写真を撮るたびにオーブが出てくる」「昔はナッツ&ボルト派だったけど、今はもう何でもいいよ」

三つ目の部屋は重要なディーラー・ルームで、ここでは信仰が売買され、さらには信仰が強化されるのだった。UFO文献とメディアのプールは非常に広く、ここに展示されている数千冊の書籍、DVD、そしてほとんど絶滅しかけているVHSテープは、巨大な母船サイズの巡回図書館の何たるかをよく示していた。ここには様々な人からの報告が供される。自分の身に何が起きたかを語るUFO体験者。経験者の体験について論じる研究家。UFOとは何であり何故ここにいるのかを説明する科学者。UFOは××ではないと説いて、なぜUFOなどないのかを説く科学者(当然ながらこのタイプは非常に少数)。UFOがどこから来てなぜここにいるのかを説明するチャネラー。地球上のどこにUFOが隠されているのかを明かす陰謀論者。UFOが何であるのか、どこから来てなぜここにいるのかを説明するエイリアン――それらは情報(インフォメーション)というよりは病害の蔓延(インフェステーション)であった。膨大な素材を整理して、UFOについて一貫した物語を作り上げようなどというのはほぼ不可能であった。『未知との遭遇』のフィナーレにおけるエレガントな5音階による解決などというものはありえないのだ。なぜならば、仮にちゃんとしたシグナルがあったとしても、それは耳障りな騒音の中で失われてしまっているからだ。

気分転換のためにホワイエに戻ると、そのヘリに設けられた小さな会議ルームには、それぞれに珍しい鳥の名前がつけられていることに気づいた。そこにはオオハシ、オウム、そして極楽鳥というものがあった。これ以上に完璧なことは望めまい。1970年代半ば、UFOに魅了された科学者、情報専門家、軍関係者たちで作る緩やかなグループが、自分たちの知識と人脈とを利用して、この状況を理解する試みを始めたことがあった(そのほとんど全員は今日にあってはヴィクター・マルティネスのメールリストに名を連ねている)。やがて彼らは調査の成果を精選してまとめたものを作り、これを「コアストーリー」と呼んだ。このコアストーリーの多くは、セルポ文書のベース部分を形作っており、ロズウェルの墜落、ETの生存者たるEBE、ホロマン空軍基地への着陸などといったものが含まれている。リチャード・ドーティや、その米空軍特別捜査局(AFOSI)での同僚によって研究者のビル・ムーアがこのネットワークに引き込まれたとき、ムーアは彼らに「アヴィアリー(鳥の会)」というニックネームを付け、鳥の名前で彼らを識別した。そして今、我々はラフリンのアヴィアリーでリチャード・ドーティに会う準備をしているのだ。

このコンベンションはサイエンス・フェアや情報ブリーフィングの集まりというよりは、むしろ伝道集会のようなものだったが、さて、それでは政府のインサイダーたちが「UFOというのは単なるウワサ以上のものであり、真剣に受け止めるべきものだ」と説得されてしまったのは何故だったのか? ケネス・アーノルドと『未知との遭遇』の間の30年間に何かが起こったに違いない。彼らは何かを見たか聞いたかしたに違いない。しかし、それは何だったのか?

■彼らはどこから来るのか?

1947年にやってきたUFO目撃の最初の波は、米国の軍司令部内に不安感を募らせていった。真珠湾攻撃まで、アメリカは奇襲攻撃に対して案ずることはないと考えられていたが、今や状況は変わっていた。長期的に考えればソビエトによる原子爆弾の脅威というのは考えたくもない悪夢であったが、同時にゴーストロケットの謎や続発する空飛ぶ円盤の目撃は、空からの侵入に対してこの国は脆弱なのではないかという懸念を生み出していた。こうした恐怖は、新設された空軍にとっては悪いことではなかった。自国の空を守ることが彼らの仕事であったのだから。人々が空からの攻撃を恐れ続ける限り、米空軍は予算削減や海軍との予算争いで悩まされることはない。

1947年9月23日のトワイニング将軍による報告書に続いて(ちなみにそれは空軍がUFOについて発した初の公式文書だった)、空軍はいささか控えめな形ではあったが空飛ぶ円盤の問題に関する公式調査を開始することを決定した。それが「プロジェクト・サイン」で、その目的は空飛ぶ円盤とは何なのか、そしてどこから来るのかを解明することであった。プロジェクトはライト・パターソン空軍基地で運営された。そこには米空軍の航空技術情報センター(ATIC)が置かれており、その組織は外国の技術の研究、ならびに可能な限りにおいて行うリバースエンジニアリングに特化した組織であった。彼らは多数の航空機とともに多数のドイツ人技術者を捕獲していたが、それは第二次大戦終末期に密かに行われたもので、そこには彼らととともに押収した大量の技術文書を読解する狙いがあった。

プロジェクト・サインが一番懸念していたのは、円盤がナチスの設計に基づいたソビエト機である可能性だった。しかし、ドイツの設計図を調べ、それを円盤の驚異的な飛行能力と照らし合わせた結果、プロジェクトチームはそれとはまた別の、そしてさらに衝撃的な結論に達した。それは、円盤は「我々」の手になるものではないということ、つまり「人間が作ったものではない」ということだった。

1948年秋までに、プロジェクト・サインのチームは「状況評価」なる極秘文書の作成準備を進めて完成させたが、それはちょうどレイ・パーマーの新しい雑誌「フェイト」の初号が発行された頃であった。ちなみに、その表紙には壮観な空飛ぶ円盤のイラストが描かれていた。この文書が実際に何を「評価」したのかは不明だが、それが空軍参謀総長ホイト・ヴァンデンバーグに届けられるや、彼はその内容に激怒し、すべてのコピーを破棄するよう命じた。その結果、1949年2月に発行されたプロジェクト・サインの最終報告書は、地球外生命仮説(ETH)を軽視する内容となっていた。シンクタンク「ランド・コーポレーション」のジェームズ・リップ博士による補足文書は、ETHの足らざる部分についてまとめているが、その結論は60年前と同じく今日もなお有効である。

    技術的に進んだ種族が飛来し、我々にはナゾとしか思えないような能力を誇示し、それから何もせずに去って行く、などということはおよそ考えられない……さまざまな事例においてハッキリとした目的が見て取れないのもまた不可解である。唯一こういう動機は考えられるかもしれない。すなわち、宇宙人たちは我々が好戦的な態度を示すような事態を回避しつつ、その防衛体制を「手探りで探ろう」としている、というものだ。だが、もしそうであれば彼らは、人類には自分たちを捕まえることはできないことを知って満足しているに違いないのだ。彼らにしてみれば、同じ実験を何度も繰り返すことに意味はないと考えているのではないか……宇宙からの訪問は可能であるかもしれないが、その可能性はほとんどないものと思われる。

リップの最後の言葉は次のような事実を踏まえると興味深い。というのは、1946年5月、リップ博士はランド・コーポレーションの報告書ナンバーSM-11827、すなわち「地球周回宇宙船実験の予備設計」を共著者の一人として執筆したのである(これはドイツのV-2を基にした多段式宇宙ロケットについての計画で、海軍のロケット計画に対抗するために考案された)。この報告書は次のような予言で始まっている。

未来を映す水晶球は曇っている。が、二つのことは明らかなように思われる。
1、適切な機材を搭載した衛星は、20世紀において最も有力な科学的ツールの一つとなるだろう
2、アメリカが衛星打ち上げに成功すれば、それは人類の想像力をかき立て、原子爆弾の爆発に匹敵する反響を世界に引き起こすであろう

スプートニクとテルスター衛星の登場はそれから10年後のことであったが、空飛ぶ円盤は、アメリカで夜明けの時を迎えようとしていた宇宙時代の最初の前兆となったのである。

1949年2月、プロジェクト・サインは秘密裏にプロジェクト・グラッジへと衣替えをしたが、その目的は、空飛ぶ円盤の目撃を公的な立場から軽んじてみせ、国民の関心を減退させることだった。これを達成するため、彼らは空軍に理解のあるジャーナリスト、シドニー・シャレットに手を貸し、「空飛ぶ円盤について信じて良いこと」というタイトルの二部構成の記事を「サタデー・イブニング・ポスト」に執筆させた。この記事は4月30日と5月7日に掲載されたが、これは米空軍が情報機関に対して円盤に関する極秘サマリーを提出した数日後のことだった。シャレットの記事は、空飛ぶ円盤というテーマについて米空軍がはじめて詳細な公的声明を発したもので、この問題についてのプロジェクト・グラッジの不満をよく表しているという点ではよくできていた。空軍の戦略はうまくいったかに見えた。その年の終わりまでに、彼らはついに空飛ぶ円盤から手を洗うことに成功したかに見えた。

しかし、彼らの平穏は長く続かなかった。人気男性誌「トゥルー」の1949年12月号に、元海軍軍人でパルプフィクション作家のドナルド・キーホー少佐によるセンセーショナルな記事が掲載された。そのタイトルがすべてを物語っていた──「空飛ぶ円盤は実在する」。そして、その冒頭の一文は、グラッジチームの「早々に手を引けるのではないか」という思惑を完膚なきまでに吹っ飛ばした。――曰く、「この地球は過去175年間にわたり、他の惑星からやってきた観察者たちによって至近距離から組織的な調査をされている」

この記事は「トゥルー」を完売させたが、ここからこの現象に関する論客としてのキーホーのキャリアが始まった。「トゥルー」の編集者たちは、この号の成功をうまく活用すべく迅速に動き、1950年3月、いまひとりの海軍関係者、すなわちニューメキシコ州アラモゴードのホワイトサンズミサイル試験場で海軍部に所属していたロバート・B・マクラフリン司令官の手になる記事を掲載した。「科学者たちは如何に空飛ぶ円盤を追跡したか」と題したその記事は、気球の打ち上げを経緯儀で監視していた海軍科学者たちによる劇的な目撃体験を描いていた。マクラフリンは「それは空飛ぶ円盤であり、他の惑星からきた宇宙船であること、そして知的生命体によって操縦されていること」を確信した。さらに彼はこう言ってプロジェクト・グラッジを完膚なきまでに打ち負かした。「幻覚なのか? 光学的錯覚なのか? いやいや、錯覚が5人の訓練された気象観測者全員の身に同時に生じるとは考えにくい」。そこからさらに彼は自らの円盤目撃談を語った。

こうした二つの記事は、軍事機関にあって尊敬されるべき地位を占めていた者によるものだったから、空飛ぶ円盤の話を打ち消そうとした空軍のあらゆる努力を一瞬で無にした。さらに悪いことにそうした記事は、それまで神秘主義者やレイ・パーマーのSFを愛好していたファンの領域にあったものを、研究に値するもの、教育があってマジメな何百万人ものアメリカ人が話題にすべきものにしてしまったのだった。

しかし、すべてが一見した通りのスッキリした話だったわけではない。キーホーとマクラフリンはともに海軍の人物であった。地球外生命体がアメリカの空域に侵入しているという彼らの大胆な主張は、「空飛ぶ円盤の問題は空軍に任せておけば大丈夫」ということにしたい空軍の試みを無にし、さらに重要なことには空の守護者としての空軍の役割をも危うくしてしまった。こうした記事がこの時期に出たというのは、空軍にとって困った問題を引き起こしてやろうという狙いがあったのではないだろうか? 海軍はこの時もそうした戦術を用いて、空軍を困らせ、空軍の活動や指導力に対する疑念を煽りたてていたのではないか?

第二次世界大戦後、米空軍と海軍の間から友情は失われてしまったが、その友情が再び復活することがなかったのは周知の事実であった。双方の憎悪は1949年初頭には全面戦争に発展し、その春には下院軍事委員会の公聴会が開かれた。ここを舞台にした争いは、軍事戦略に関する深い相互対立を反映していた。空軍は、将来の戦争は核兵器による戦略爆撃によってのみ勝利すると主張していた。空軍は、この戦略に従えば海軍というのは時代遅れの存在になっていくと論じ、多くの国防総省関係者もこれに同意した。1949年4月、海軍出身の国防長官ジェームズ・フォレスタルが辞任し、その後任に空軍を支持するルイス・A・ジョンソンが就任すると、彼は海軍の「スーパーキャリアー」建造をキャンセルし、空軍の巨大なB-36爆撃機の製造を優先させた。これに対して海軍は、空軍の将軍がB-36の契約業者と不正取引をしたという告発文書をリークして報復した。両者の緊張関係があまりに高まったため、フォレスタルはうつ病で入院し、1949年5月22日に自殺した。下院軍事委員会は、各軍の間には「鉄の壁」──チャーチルの語った「鉄のカーテン」をもじったものである──が存在すると述べた。

キーホーとマクラフリンが書いた「トゥルー」の記事の背後にはこうした軍の間のライバル意識があったのか。それとも彼らの記事は別にそうした意図があったわけではないストレートなもので、それを利用して誰かがより大きな戦いを戦っていたのか。そこのところはよく分からない。当時は事態が込み入って混沌とした時代であり、空軍、海軍、情報機関が、程度の差こそあれ、それぞれの目的のために空飛ぶ円盤の話を利用していた可能性が高い。そしてこのストーリーは、ここで奇妙な展開を迎えることになる。

■フライング・ソーサーの背後にいる男たち

墜落した空飛ぶ円盤の話は、長い間UFOコミュニティ内で流布していたが、1970年代末まで真剣には受け取られていなかった。だがここに至って、匿名の空軍関係者からのリークにより、UFO研究者たちに多くの情報がもたらされるようになったのである。チャールズ・バーリッツとウィリアム・ムーアによる1980年の『ロズウェル事件』刊行はそうした流れの集大成であり、それ以降、数え切れないほどの書籍、雑誌、映画、そして関連グッズが生み出されていった。ラフリン・コンファレンスで販売業者の部屋を埋め尽くしていたものも、そんな物品の全体からいえばごく一部にしか過ぎない。

しかし、ロズウェルの物語の起源はロズウェルそのものにではなく、北西に約350マイル離れたニューメキシコ州の小さな町アズテックにある。辛口で人気のある「ヴァラエティ」誌のコラムニスト、フランク・スカリーは1950年、ノンフィクション『空飛ぶ円盤の背後に』を出版した。同書がスポットを当てたのは、1950年3月8日にコロラド州のデンバー大学で行われた奇妙な講演であった。それは学術的な講演というよりは市場調査の実験のようなもので、理系の学生90年が匿名の講師による空飛ぶ円盤についてのプレゼンテーションに呼び集められた。その話はキャンパス中に広がり、講演当日、ホールは満員になった。その50分間のプレゼンテーションで、謎めいた専門家は、空飛ぶ円盤は現に存在するのみならず、そのうち4機が地球に着陸し、さらに4機中3機はアメリカ空軍によって捕獲された――と言い放ったのである。

そのうち最も大きいものは幅100フィートで、ニューメキシコ州アズテックの近くに着陸。円盤とその内部にいて死亡した乗員は、調査のためライト・パターソン空軍基地に運ばれたのだという。が、この話自体は新しいものではなく、航空歴史家カーティス・ピーブルズによれば、1948年に「アズテック・インディペンデント・レビュー」が発行したいたずら記事にまで遡る(その記事には、円盤の墜落と小さな金星人の話が書かれていた)。ともあれ、フランク・スカリーによれば、捕獲された3機の機体には34体の異星人の遺体があった。これらの生物は人間に非常によく似ていたが、背丈が低く、肌が白く、髭はなかった。ただ、数人は「桃の産毛に似た細かい毛」を生やしていたという。

匿名の講師は円盤について詳細に述べていた。その内容は――。

    それは我々が設計してきたようなものとは全く異なっている。どの機体にもリベット、ボルト、ネジは一切使用されていない... 外殻はアルミニウムに似た軽量金属で構成されているが、非常に硬く、どんな熱処理を施しても破壊することはできない。その円盤は回転する金属の輪を持ち、その中心に操縦室があった。... 最初の円盤は任意の方向に操作可能であり...どこにでも着陸できるように設計されていた。最も小さいものには三輪の金属球を備えた着陸装置があり、その球は任意の方向に回転できるようになっていた。

デンバーでの講演の後、参加者たちは講師の話を信じるかどうかを尋ねられ、60%の参加者が信じると答えた。しかし、その数時間後、彼らの多くは空軍情報部の将校から質問を受けることになった。スカリーによれば、学生たちに対して行われたこの追跡調査では、「信じる」と答えた者の割合は60%から50%に減少していた。それでもこれは「空飛ぶ円盤は宇宙から来ている」という人の全国平均(スカリーによると約20%だそうだ)よりもはるかに高かった。この講演から得られるメッセージは明確だ。「説得力のある情報源に触れれば、聡明な大学生でさえもあり得ないことを信じるようになってしまう」ということである。

1950年3月17日、「デンバー・ポスト」紙によって、謎の講師の正体はデンバーを拠点とするニュートン・オイル・カンパニーの経営者、サイラス・メイソン・ニュートンであることが明らかにされた。一方、自著の中でスカリーは、ニュートンの円盤情報の源は「ジー博士」だとし、同時に、その名前は国家安全保障の理由で身元を保護する必要がある8人の科学者を合成した仮名なのだとした。しかし、ニュートンとジー博士の真相は、その触れ込み同様に興味深くはあっても、それほどまでには劇的ではなかったことが判明する。

ジー博士の正体はレオ・アーノルド・ジュリアス・ゲバウアーで、彼は幾つもの偽名を持ち、FBIによってその行動を記録した分厚いファイルが作られるほどの人物であった。ゲバウアーはかつて、アリゾナ州フェニックスのエア・リサーチ・カンパニーの研究所で働いていたが、1940年代初頭、アドルフ・ヒトラーを「素晴らしい人」と評し、「ルーズベルト大統領は射殺されてヒトラー総統のような人物に取ってかわられるべきだ」などと公言していたことからFBIの注意を引いていたのである。ゲバウアーは、「自分は墜落した空飛ぶ円盤の技術を解析する政府機関で働いており、そうした墜落円盤の中にはアズテックのものも含まれている」とニュートンに語っていた。ニュートンが実際にこれを信じたのかどうかは不明だが、ともあれ彼は、デンバーの学生たちにゲバウアーの話を広めることに躊躇することはなかった。

ニュートンの日記には、「デンバー・ポスト」紙によって自分の正体が暴かれた後、彼のもとに「米政府機関の秘密メンバー」2人が接触してきたことが記されている。彼らは、「あなたの語ったUFOの墜落話がデマであることを我々は知っている。でも、その話はこれからもずっとしゃべり続けてくれないか」と言ったという。その通りにすれば、「彼らはその雇い主ともども私とレオ(ゲバウアーのこと)の面倒を見てやると約束した」というのである。この謎の人物というのは、ニュートンの悪賢い想像の産物なのか、それとも空軍情報部のエージェントだったのか? あるいはFBIやCIAの職員、さもなくば米空軍にさらに厄介ごとを抱え込まそうとした海軍の関係者だったのだろうか? それはわからない。ただ、彼らが望んでいたことは実際に実現した。スカリーの本は間髪入れず1950年に出版された。この本は約6万部が売れ、当時のベストセラーとなった。これにより、空飛ぶ円盤神話の詳細はアメリカ人の想像力にさらに深く刻み込まれたのである。ニュートンは自らの仕事を見事に果たした。そして、おそらくニュートンを訪ねてきた謎の政府関係者たちも、約束を守ったのであろう。ニュートンとゲバウアーは1952年、「これはリバースエンジニアリングで解明した異星人の技術に基づいた先進的なものだ」と称して採掘装置を販売しようとし、詐欺罪で有罪判決を受けたのだが、そのとき二人はいずれも執行猶予付きの判決を受けたのである。

『空飛ぶ円盤の背後に』が成功を収めたにもかかわらず、アズテックの円盤墜落事件は、数年もするとほぼ完全に忘れ去られた。それが再び脚光を浴びるのは約30年後のことである。その重要な要素、すなわち「機体」「死亡した操縦者」「空軍の回収作戦」、そして「ライト・パターソン空軍基地におけるリバースエンジニアリング・プログラム」といったものは、ロズウェルの物語の基盤を形成することになった。1980年代初頭には、アズテック事件そのものが、UFOコミュニティに対する空軍特殊調査局(AFOSI)の情報操作キャンペーンの一環として利用されるようになった。この事件に関して「墜落は実際にあった」と喧伝する、さらなる一冊が出版されるに至ったのである。

かくしてこの半世紀の間に、新聞の悪ふざけから始まった物語は現実となったのち、いったんはデマとして否定されたのだが、それが1980年代になると再び米空軍とUFO研究者によって復活し、世に広く知られるようになった。これは、最終的には21世紀初頭に「真実ではない話」として葬られることになるのだろう(おそらく、ではあるが)。ともあれここから分かることは、空飛ぶ円盤というのは何度もリサイクルされて甦ってくるものだ、ということである。

民俗学者は、民間伝承が現実に浸出していくプロセスを「直示 ostension」と呼んでいる。しかし、これらの物語が本当に諜報機関によって生み出されたのだとしたら、これは単に「欺瞞」と呼んだほうが良いだろう。UFOの最初の10年を振り返ると、軍民を問わず諜報に携わる者たちがUFO神話の誕生において助産婦の役割を果たしていたことは明らかである。モーリー・アイランド事件においては諜報機関が「汚い詐術」を弄した痕跡が見られるし、サイラス・ニュートンの日記を信じるなら、少なくとも一つの諜報機関がアズテックにおける墜落UFOとその乗員に関するストーリーを広めるべく暗躍していたことになる。このパターンは、その後数十年にわたって繰り返されることとなる。UFOというのは、諜報機関のトリックスターどもが汚い仕事を遂行する上での一つの道具に過ぎなかったのである。

■スパイ、幽霊、吸血鬼、そして異星人

1947年7月26日、ハリー・トルーマン大統領は署名ひとつで米空軍を陸軍から分離し、戦時中の戦略情報局(OSS)を中央情報局(CIA)に変えた。当初は3つの軍事情報グループを組織するための機関として設立されたCIAであったが、数年ののちにそれは諜報カルトの大寺院となった。それは時として、世界を支配するだけでなく、世界中の全ての人々の心と頭を支配しようとするカルトのようでもあった。30年間にわたって、CIAを制御できる者は誰もいないように見えた。

ジョン・マークスとヴィクター・マルケッティは、『CIAと諜報のカルト』という本の中で、機関としてのCIAは長年にわたって制御不能であったばかりでなく、制御を超越した存在であったことを明らかにしている。

    CIAは…必要とあらば民間機関に浸透し、操作し、自らのための内部組織(『プロプライエタリー』と呼ばれる)を作り出す。エージェントやカネで動く人間を雇い、外国の公務員を買収したり脅迫したりして、道義に反することをさせる。目的を達成するために必要なことは何でも行い、その行為に伴って生じる倫理・道徳的な問題は全く考慮しない……その行動は、一般人にはうかがい知れぬ古めかしい規律の背後に隠され、それはこのナゾ多き機関が一体何を・なぜ行っているかについて一般市民はもちろん議会が知ることすら阻んでいる。

CIAの秘密保持に対する姿勢をこれ以上ないほど明確に示す実例は、「MKウルトラ」が露見した際にCIA長官リチャード・ヘルムズが示した対応だろう。MKウルトラとはこの機関が長年にわたって続けたプログラムで、薬物や催眠を用いて「洗脳」とマインドコントロール実験とを行うものであった。1970年代半ば、調査にあたった議会がMKウルトラにかかわる全文書の閲覧を要求した際、ヘルムズは文書類の破棄を命じた。そのもくろみはほとんど成功しかけたのだが、わずかな資料は残った。そしてその資料だけでも、CIAの実務に対して大幅な見直しを強いるには十分であった。

秘密の戦争――すなわちスパイ活動と対スパイ活動、諜報と対諜報、心理作戦、ニセ情報の操作、そして秘密工作といったものだが――においては真実などというものは存在せず、誰にも気づかれない限り、どんなことをしても許された。時には、小規模な軍隊を動かす必要もあるし、難解なテクノロジーを駆使する必要が生じることもある。だが、優れた手品のトリックと同様、ちょっとした暗示だけで大きな影響を与えることができた事例もあった。

空軍大佐エドワード・ランスデールは、心理戦というアートの世界において早い時期に登場した達人であった。アメリカで最も恐れられ、尊敬された「冷戦戦士」の一人であったランスデールは、広告業者から諜報の専門家に転じた人物である。彼はその存命中に伝説となり、グレアム・グリーンの『おとなしいアメリカ人』の登場人物、オールデン・パイルの人物造形にヒントを与えたとされている。広告業界でのランスデールの経験は、諜報の世界で大いに役立った。彼は、知覚とプレゼンテーションの力を理解していたが、その知見を「アメリカが幸福であるためには第三世界を支配せなばならない」という確信と結びつけていた。要するにその目標は、現地の人々の「心」を勝ち取り、経済的にアメリカに依存する状態を作り出すことであった。

第二次世界大戦中、フィリピンで戦った経験を持つランスデールは、1950年代初頭にCIAにリクルートされ、現地の共産ゲリラ反乱軍、フク団(Huks)と戦っていたフィリピンの国防大臣を支援することになった。ランスデールはこの作戦の一環としてフィリピン民生部を設立し、心理戦作戦(PSYOPS)の拠点とした。ランスデールのチームは広告代理店の市場調査員のように現地の人々の心の中に入り込み、彼らがどのように生活し、何を最も望み、そして――当然のことであるが――何を最も恐れているのかを探ったのである。

あるPSYOPSプロジェクトでは、その姿が見えないよう分厚い雲間に小型の飛行機を飛ばし、フク団の領土上空に侵入させた。その飛行機はメガホンを使って「神の声」を流し、反乱軍に避難場所や食料を提供する村人たちには呪いが降りかかると警告した。また、別の作戦では、フィリピンの神話に登場する吸血鬼「アスワング」にまつわる田舎の迷信をうまいこと利用した。ランスデールのチームは、フクが占拠している地域にはアスワングが住んでいるという噂を流したのである。この血を吸う怪物の話はゲリラとその支持者たちの間に広まっていき、遂にある日、彼らの恐れは現実とものとなった。ゲリラの一人が、喉に刺し傷を負って血が抜かれた状態で発見されたのである。しかし、この不幸なフク団員はアスワングの犠牲者などではなかった。彼はランスデールのチームによって待ち伏せされ、殺害されて木に吊るされ、血が抜かれた後、仲間に発見されるように放置されたのだった。他のフク団の人々にしてみれば、これはアスワングの話を裏付けるものであったから、彼らは恐怖にかられてその地域を逃げ出した。1953年までに、共産主義者の反乱は成功裏に鎮圧された。ランスデールはその後、最初にベトナムに入った工作員の一人となり、アメリカがベトナムに介入する道を切り開いたが、その後も「マングース作戦」――これはフィデル・カストロの暗殺計画だったが計8回の試みはいずれも失敗した――で重要な役割を果たした。

ベトナム戦争でも現地の迷信は利用された。陸軍第6心理戦作戦大隊は、「泣き叫ぶ魂」と呼ばれた音声テープを兵士が背負ったりヘリコプターに取り付けたりしたスピーカーで定期的に流した。これは成仏していない死者にまつわるベトナムの言い伝えを悪用したもので、テープには、アメリカ軍と戦って死んだ父親のさまよえる魂とその幼い娘とのやりとりが録音されていた。この録音は、不気味なリバーブ効果と伝統的なベトナムの葬送音楽を用いたもので、夜間にジャングルをパトロールするアメリカ兵にも恐怖を与えたほどであった。

ランスデールのアスワング作戦や「さまよえる魂」作戦は、冷戦の激しい時期に行われた無数の心理的欺瞞作戦のほんの一例に過ぎない。トム・ブラーデンは、CIA国家秘密工作本部(the National Clandestine Service)*の前身にあたるCIAの計画本部(the Directorate of Plans)で国際組織部門の責任者を務めた人物だが――ちなみにこの計画本部はCIAの心理戦作戦、秘密工作、プロパガンダのほとんどを監督した――彼は1973年にこう記している。「冷戦最盛期にはあまりにも多くのプロジェクトがあったため、一人でそれらのバランスを取っていくのはほとんど不可能だった」
    *訳注:「国家秘密工作本部」は2015年に「作戦総局」(the Directorate of Operations)とさらに改称されている

共産主義との戦いにおいて、人々の心をガッチリと、しかもソフトにつかみ続けることは――よくいう「外柔内剛」というヤツだ――国外のみならず国内でも重要なことであった。国家安全保障法はCIAがアメリカ国内で活動することを明確に禁止していたが、それを可能にする抜け道はいくらでもあった。幾つものニセの会社を作って、それらで構成される「帝国」を立ち上げる(ちなみにそうした会社は登録地にちなんで「デラウェア」と呼ばれた)。味方をしてくれる企業団体を「物言わぬチャンネル」として抱き込み、そこから仲間を新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、実業界、草の根団体の要職へと送り込む。こうやってCIAが地道な活動をしている一方では、より大きな枠組みがCIA以上に秘密に守られた組織によって作られていた。が、その組織が解体される約50年後まで、そのことはほとんど知られることがなかった。

1951年、ハリー・トルーマン大統領によって設立された心理戦略委員会(PSB)は、国内外の心理作戦を調整し、さらにはアメリカとアメリカ人が外から見て「正しい存在」と映るよう仕向ける任務を負った。これではまるでジョージ・オーウェルの世界のようだが、実際それはその通りだった。最初に作られたその戦略文書の内容はいぜん機密扱いのままであるが、その断片は他の文書に引用されたものから見てとることができる。その一つによれば、心理戦略委員会の役割は「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を推し進め、「アメリカの掲げる目標に敵対的なドクトリン」に対抗する「組織」を発展させていくことだった。これを達成するためには、「人類学や芸術的創作といったものから社会学、科学的方法論に至るまで、知的な関心領域のすべて」を取り組んでいく必要があるとされた。

1952年5月、心理戦略委員会はCIAの心理戦プログラム「パケット」を引き継いだが、その目的は外国の指導者たちに「アメリカのやり方は他の何よりも――とりわけロシアよりも優れている」と説得することだった。アメリカのカリスマを国外で維持するためには、学術的な「セミナー、シンポジウム、特別な書籍、学術誌や図書館」から教会の礼拝、コミックブック、「民謡、民間伝承、民話、世界をめぐるストーリーテラー」にいたるまで、ありとあらゆるものをコントロールし、調達し、作り出す必要があった。

心理戦略委員会のメッセージは、テレビやラジオ、船舶や航空機を通じて世界に広められた。さらには「三次元の動く画像」の使用も、リアリズムを高めるために検討された(当時、アメリカの映画館では3Dブームが起きていた)。チャールズ・ダグラス・「CD」・ジャクソンは、アイゼンハワー大統領が選出された後の顧問であったが、心理戦略委員会における重要な戦略家であった。エドワード・ランスデールと同様、ジャクソンももともと広告業界の大物で、「タイム・ライフ」や「フォーチュン」など雑誌の出版から諜報の専門家に転じた人物であった。ジャクソンはアメリカの価値観の擁護者であり、戦後のアメリカのイメージを形作った見えない政府の中で最も影響力のあるメンバーと見なされていた。彼には、タイム・ライフ帝国を運営するヘンリー・ルースやハリウッドの大物ダリル・ザナックなど、芸術界における強力な友人がいた。ジャクソンと心理戦略委員会は、強い影響力を持っていないところにはそれを新たに創り出し、出版社、新聞、テレビやラジオの放送局、芸術家や芸術団体、オーケストラ、「エンカウンター」や「パルティザン・レビュー」といった小規模ながら影響力のある雑誌に影響力を持つようになった。心理戦略委員会が影響力を発揮するためには、たいてい然るべき相手に親しげな言葉をかけるだけで済んだ。しかし、時には金銭が必要となり、ターゲットとなる相手を完全に牛耳る必要が出てくることもあった。ある意見が必要になってくれば、心理戦略委員会はそれを作った。

心理戦略委員会は時に大胆で直接的な手段を取った。ジャクソンは1952年、原子力委員会委員長ゴードン・ディーンが「ライフ」誌に書いた記事について「首尾良くいっている」と記した。その記事は、「原爆を使ったことについてのアメリカ人の罪悪感を取り除いてくれるだろう」というのである。しかし、いつもはもう少し気を遣う必要があった。1954年にアイゼンハワーが「平和のための原子力」計画を開陳した際、ベルリンに原子力発電所を建設するという大統領の計画についてジャクソンは、いかなるプロパガンダが可能かというメモを記している。そこでジャクソンは、実際に発電所を建設する必要はないのだと指摘した。瓦礫の区域を囲い込み、警備員を配置し、謎めいた看板を立てることで、実際に発電所を建設したかのような強力なウワサを作り出すことができるというのだった。

1953年、心理戦略委員会は、より曖昧な名前の「作戦調整委員会(OCB)」に改編されたが、ジャクソンとそのチームによって始められた動きは1960年代を通じて継続した。それがようやく掣肘を受けたのは、フランク・チャーチ上院議員がCIAの活動に関する調査に立ち上がった1973年のことだった。この好ましからざる暴露の後、CIAはメディア内で働く400人の職員とエージェントを解雇せざるを得なかったが、この数は「低く見積もられ過ぎている」というのが一般的な見方だ。

では、こうしたものはUFOと何の関係があるのか?おそらくすべての面で関係はある。1950年代初頭に心理戦略委員会、CIA、そしてアメリカの政治と諜報のエリートがどのように働き、考えたかを理解することは、CIAが空飛ぶ円盤の問題に取り組む際に何が起こったのかを理解するための鍵となるのである。(05←06→07

 

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■第6章 ワシントンvs.空飛ぶ円盤
    「象徴というものは、相手が納得してしまう流れを示してみせれば良いのである。象徴は、騙す相手の内面に確固としてあり、彼があらかじめ受け容れている観念を伝えねばならないのだ……それはあたかもスポーツフィッシングの釣り人が、ルアーをたやすくゲットできるエサにみせかけるために、匂いや動き、色彩をそれらしく見せるのと同じようなものである」 ――『欺瞞分析入門:心理作戦の標的となる聴衆の分析』(リエカ・ストロー中佐、ジェイソン・ウェンデル少佐。 『イオスフィア』 2007年秋号より)

1952年の初め、CIAのウォルター・B・スミス長官は心理戦略委員会のレイモンド・アレン長官に次のような書簡を送った。
    私は本日、「未確認飛行物体に関連する諸問題というのは、諜報活動や諜報作戦のみならず、心理戦においても重要な意味を持つ」と結論づけた提案文書を国家安全保障会議に送付しました。私は早期に会議を開催し、心理戦のためにこうした現象を攻撃・防御の両面で利用できるかどうか、その可能性を議論したいと考えています。 

スミスは、1951年の後半、空飛ぶ円盤に対する大衆の関心が劇的に増していく状況に対峙していたのだが、それは急激な目撃報告の増加へとつながっていき、その報告の多くは軍隊の内部から寄せられるという事態を呈していた。それと同時期、米空軍のプロジェクト・グラッジのチームは円盤の問題を軽視する方向でうまいこと仕事を進めつつあったが、それが故に彼らはどう考えても首を捻らざるを得ないような事件をも無視しようとした。そうした事件の一つ、つまり同年9月にニュージャージー州フォート・モンマス陸軍基地で起きたパイロットとレーダーオペレーターによる目撃事件は、空軍の高官たちを動かすきっかけとなり、1952年3月、グラッジはプロジェクト・ブルーブックへと改編された。この改編は空飛ぶ円盤の「当たり年」にかろうじて間に合った形となり、目撃報告は同年6月から10月の間に886件に及び、夏のピーク時には一日に50件が寄せられるほどであった。ブルーブックの責任者であるエドワード・ルッペルト大尉は(ちなみに彼は「未確認飛行物体」という言葉を作った人物だ)は、この数字は1947年以降に空軍が受理した総件数より149件多いものだったとしている。

ルッペルト自身はフォート・モンマスでの目撃事件はバルーンによるものと考えていたが、この事件に続いて、空軍はJANAP 146(B)を発した。これはすべての軍隊に向けた指令の拡張版とでもいうべきもので、未知の飛行機を目撃した際は国防長官、防空司令部、最寄りの米軍基地に報告するよう指示していた(ちなみに国防長官は次いでCIAに報告を転送することになっていた)。さらにUFO事件に関する情報を許可なく公開することは犯罪とされ、最高で懲役10年と1万ドルの罰金が科されることになった。ソビエトがアメリカの一挙手一投足を監視している状況にあって、UFOは――ここでいうUFOには極秘のバルーンやミサイルの発射、開発中の航空機の飛行も含んでいたが――諜報や安全保障上の問題になりつつあり、コントロール下に置かれるべきものともなっていた。

ウォルター・スミスの懸念はやがて薄気味悪いほど的中することになった。UFOをめぐる状況は1952年7月の2夜、当惑を強いるような、そして潜在的には破滅的となってもおかしくないクライマックスを迎えた。数多くの非確認物体がワシントンDC・ナショナル空港のレーダー画面上に現れたのである。その最初の夜、すなわち7月19日から20日にかけての真夜中、首都から15マイルの位置で7つの物体が捕捉された。それらは時速約100マイルでホワイトハウスに向けて徐々に近づいていた。近くのアンドルーズ空軍基地からも明るく光るオレンジ色の球体一つが目撃された。その場にいた空軍兵によれば、それは「円を描くような」動きを見せ、それから「信じられない速度で」飛び上がって消え去った。このほか近くを飛行中だった旅客ジェット機のパイロットからも、白く輝く高速の光が6つ目撃されていた。

未確認物体の目撃とレーダー上での捕捉は午前3時まで続いていた。ここで、物体を子細に観察すべく迎撃機2機が飛び立ったところ、その時点で残っていたUFOは空から消え、レーダーからも消えた。ところがジェット機が燃料不足で帰投するや、物体は再度出現した。そのため、民間航空局の上級航空管制官のハリー・バーンズは、その正体はどうあれ、このUFOは無線交信を受信し、それを踏まえて行動しているのではないかと思った。バーンズはこの出来事について空軍の上級幹部の注意を促そうとしたが、それは無視されたように思われたため、彼の苛立ちは倍加した。空軍内の誰かはいま何が起きているのかを知っているのではないか――そんな疑惑を膨らませるようなこともあった。ブルーブックのエドワード・ルッペルトは、二日後に新聞の一面を読むまで、この出来事について全く知らされていなかったのだ。

未知の航空機が米国の空域に侵入するなどということは今日の我々にはありえないことと思われるかもしれないが、その出来事がいかなる騒動を巻き起こしたかは想像に難くない。それは「パールハーバー」から11年後のことで、アメリカ軍の記憶の中でその傷はまだ真新しかった。さらに言えば、1952年の時点で、そうした侵入がもたらす危機の大きさは1941年の頃よりはるかに大きなものになっていた。ソビエトはその時点で原子爆弾を3発爆発させていた。その夜、ワシントン上空に現れた7つのUFOのうちには、彼らが作った「ファットマン」や「リトルボーイ」を搭載したロシアの爆撃機がいたかもしれないのだ。そして、7月26日にUFOは戻ってきた。この時はレーダー上に12機が映し出され、それ自体はさほど驚くべき速度ではなかったが、時速100マイルで飛行していた。前回同様、光は航空機上からも地上からも目撃された。さらにこれも同様に、ジェット機2機が迎撃に飛び立った。あるパイロットは、4つの白く「輝くもの」を追跡したが、それらは突然「こちらに飛んできて飛行機の回りを取り囲んだ」。だが結局のところUFOの正体はこの時も明らかにはならなかった。

メディアはまたも大騒ぎを始め、ペンタゴンでは空軍の記者会見が開かれた。その規模は第二次大戦以降で最大のものとなった。ルッペルトは1956年に刊行した回顧録『未確認飛行物体についての報告 The Report on Unidentified Flying Objects』で、大混乱に陥ったその場の状況を描いている。空軍情報部のジョン・サムフォード将軍はその目撃について何か言質を取られることを避けつつ、このUFOは「誘導ミサイルだとか秘密裏に開発されたアメリカの飛行機だとかではない」と言って人々の恐怖を和らげることに全力を挙げた。直截に「その物体はアメリカの秘密兵器か」と問われた時、サムフォードは遠回しで謎めいた返答をした。「質量をもたず、無限のパワーを出すようなシロモノは持っておりません」。次いで現れたのはライト・パターソンの空軍技術情報センター(ATIC)から来たレーダーの専門家、ロイ・ジェームズ大尉だった。彼は、少なくともレーダー反射の幾つかは気温逆転によるものだとした――つまり地表近くの冷たい空気の上に、温かく水蒸気の多い空気層が出来る現象で、こういう時にはレーダーが地上レベルにある蒸気船のような巨大な物体の反射を拾ってしまうことがあるのだ、とした。ルッペルトたちはこの説明に納得しなかった。が、報道陣はこれを受け容れた。

この二度にわたる領空侵犯は、その前年に大当たりした映画『地球が静止するた日 The Day the Earth Stood Still』に描かれた出来事と気味が悪いほど似ていた。この映画では、善意のヒューマノイド型エイリアン、クラトゥの操る空飛ぶ円盤がその姿を見せ、次いでワシントンDCに着陸することでパニックを巻き起こした。一方、現実のワシントンでの目撃事件は全国の新聞で一面の記事になり、凄まじい目撃報告の波を生み出し、ルッペルトとブルーブックの仕事を激増させた。全米からの目撃報告は空軍に殺到し、その数は7月だけで536件にも達した。その結果、空軍内部の通信には支障が出るほどだったし、扇情的な記事でメディアは埋め尽くされた。大西洋の向こうでは、この大波が英国の首相ウィンストン・チャーチルの興味を引きつけていた。彼は顧問に渡したメモでこんなことを訊ねていた。「いったいこの空飛ぶ円盤というのは何なのだ? 何を意味しているのか? 真実は何なのか?」 

こうした動きはCIAをいらつかせた。何か手を打たねばならない。CIAがUFO問題に首をつっこまねばならない時がやってきたのである。CIAのUFO調査に引き入れられたのは応急情報室(Office of Current Intelligence)、科学情報局、そして武器装備部門だった。1952年8月、CIAの代表者たちは、そのカウンターパートに当たるライトパターソンの空軍技術情報センターの面々と何度も極秘の会談を行った。最も重要だったのは、日増しに疑念を膨らませている大衆からCIAがUFO問題に関わっているのを隠すことだった。「サイレント・グループ」が「陰謀」や「隠蔽」をくわだてているといった話は既に広まりつつあった。その立役者はドナルド・キーホー。彼が1949年に「トゥルー」誌に書いた記事は『空飛ぶ円盤は実在する Flying Saucers are Real』という本になってバカ売れしていたのである。CIAがUFOに関わっていることが知れたら、こうした疑念が裏付けを得てさらに広まってしまうことは明らかだった。

CIAが調査にあたって作ったブリーフィングペーパーは、この組織が――さらにいえば国を司っている人々が――UFO問題や他の世界をどう見ていたのかを明らかにしている。同時にそれは、半世紀以上前にこの件で提起された問題は、今もほとんど変わらず残っていることをも示している。そのペーパーはまずUFOについて主要な作業仮説4つを検討している。「その物体は米国の機密の航空機である」「それらはロシアの航空機である」「UFOは地球外起源のものである」。そして最後に「それは既知の航空機や自然現象の誤認である」。ペーパーに記されているところでは、CIAの職員たちは最初の仮説、つまりは秘密の航空機説を追ってとても高いレベルにある人々にまで当たったのだが、目撃報告を現在進行中のプロジェクトのせいにすることはできないというところに結論は落ち着いた(彼らがこの時点で気づいて然るべきだったこともある。CIAはそれから3年のうちに、当時最高機密だった偵察機U-2を飛ばすことになり、それはUFOの目撃報告の相当数を占めることになる)。彼らはこんな指摘もしている。仮に空軍がウソをついているとしたらどうか。しかし得られている証拠はこの仮定にそぐわない。米空軍がきわめて貴重な新しいオモチャをもっているのなら、なぜそれに対して自軍のジェット機でスクランブルをかけるようなリスクを負うのか。そして、そんな航空機を首都上空で公然と飛ばすという信じられないリスクを冒したのは何故なのか。

ソビエト機による領空侵犯説にも同様な疑問が生じた。CIAは、アメリカ同様、ロシアの技術者たちも楕円形や三角翼の飛行機の設計が可能かどうか研究していたことを知っていたが、そのような飛行機を飛ばす技術的な進歩がみられた兆候はなかった。むろん、ロシアがそうした飛行機を敵国の首都上空で飛ばすと考えた時点でこれは気違い沙汰なのであるが。さらに言えば、偵察プロジェクトとしての領空侵犯が行われたというような形跡もまた全く認められなかった。

「全く支持されなかった」もう一つの説として、ロシアはバルーンを米国上空に飛ばし、報道を通じてその航路を記録しているのではないかというものもあった。実のところ、同様に「およそありえない」と考えられていたけれども、実際には現実のものとなってしまった前例はあった。領空侵犯した日本の風船爆弾「フグ」は、1945年に米国の市民を死亡させていたのである。「火星から来た男」説についてCIAは、「知的生命体はどこかに存在しているかもしれない」が、そうしたものが地球を訪れているという説を支持する天文学上の証拠はないとし、さらにその目撃パターンも軍事的観点からみると全く意味をなさないとした。この結論は、その4年前にランド・コーポレーションのジェームズ・リップが到達したのと同様なものであった。

かくて第4のオプション、すなわち「UFOは一連の誤認によるものだ」とする選択肢が、最もありそうな答えとして残った。これはまた、プロジェクト・グラッジの閉鎖以来、空軍の公式見解となっていたものでもあった。このような点を踏まえて、ブリーフィング・ペーパーは、報告をしてくる人々というのは多くの場合、思い込みに捕らわれすぎたのだとした。誤認された物体はほぼ常に空を背景として目撃されたが、その大きさ、速度、距離、動きなどを見積もるために参照できるものがなかった。一連の心理学的要因もまた多くの目撃を意味づけるために持ち出された。つまり、メディアの報道(CIAはこれをオーウェル流の言い回しで「心理的条件付け」と呼んだ)、事実を脚色したり捏造することで注目を浴びたいという潜在的な欲求、見慣れないものに出くわした時に生じる情緒的反応といったものである。

1952年9月24日、CIAの科学情報局担当次官補であるH・マーシャル・チャドウェルは、ATICの会議内容をまとめた報告書をウォルター・スミス局長に送付し、会合から導き出された結論を概説した。その内容は、ここでほぼ全文を引用するに値するものだ。

    空飛ぶ円盤をめぐる状況は危機的な二つの要素をはらんでおり、それらは緊張状態にあっては国家安全保障にかかわる意味を有するものとなる。すなわち――
    a)心理的要素:空飛ぶ円盤が世界中で目撃がされている中にあって、調査が行われた時点に於いてソビエトではこれについての如何なる報道、コメントも見られず、風刺めいた話題すらなかった……国家にコントロールされた報道にあっては、その内容はもっぱら公的な政治決定に従うものとなる可能性がある。従って、この種の目撃について以下のような疑問が生じる。
    1)目撃はコントロールできるか
    2)目撃は予測可能か
    3)目撃を心理戦の観点から攻撃ないし防御のために利用することは可能か
    この現象に関する大衆の関心は米国のメディアに影響を与え、空軍への問い合わせの殺到といった事態を巻き起こしているが、これが示しているのは、国民の相当な部分は信じがたいものを受け入れようという心理的条件づけを受け入れているということである。この事実が明らかにしているのは、ここには集団ヒステリーやパニックを引き起こす潜在的な可能性があるということだ。
    b)空の脆弱性:合衆国の空中警戒システムが、今後レーダーと目視観測の組み合わせに依存していくであろうことは間違いない。ソビエトは現時点で合衆国を空爆する能力を有している……攻撃があった場合のことを考えると、我々が現時点で幻影と実体あるものを即座に区別できないのは明らかである。そして緊張が高まっていくにつれて、我々が誤警報に見舞われるリスクは増えていくだろうし、実際の攻撃を誤って幻影とみなしてしまう危険性はさらに大きくなっていく。

チャドウェルは、ソビエトが空飛ぶ円盤について何を知っているかを調査するよう指示しつつ、次のように結論づけた。すなわち「研究は以下の事項を念頭に置いて進められるべきである。アメリカの心理戦のプランナーたちはこうした現象をどうやって利用すればいいのか。こうしたものを活用しようとするソビエトに備えて、どのような防衛策を計画すればいいのか」。かくて彼が最終的に提唱したのは、「パニックのリスクを最小化するために」その現象を大衆が如何に受けとめるかを自分たちが管理すべきだということであった。

ウォルター・スミスはこの時点で腹を決めた。CIAは1953年1月、核物理学者、レーダーとロケットの専門家、他の空軍関係者、および天文学者から成る秘密のパネルを招集した。ペンタゴンの兵器システム評価グループの責任者であるハワード・パーシー・ロバートソン博士が率いるこのグループは、非常に長い昼食休憩を取りながら、UFO報告を聴取し、未確認物体のフィルムを観察し、この現象を解明し得る説明を求めて四日間を過ごした。彼らの結論は、1966年まで一般に完全には明らかにされなかったが、チャドウェルの先の報告が懸念していた点に的確に応じたものとなっていた。

ロバートソン・パネル報告書は軍に対し、その要員を訓練して、通常見かけることのない光る人工物や自然現象(流星、火球、蜃気楼、雲など)といったものを肉眼でもレーダー上でも識別できるようすべきだと提言した。報告書にはこう記された。「このような訓練により、誤認やそれに伴う混乱に起因する報告は著しく減少するはずだ」。一般の人々に関しては、彼らの関心を弱め、ソビエトの「巧妙な敵対的プロパガンダの影響力」を減らすために、"debunking"(誤りの暴露)プログラムが設定されるべきだとされた。「手品のトリックの場合のように、『タネ』が知られている場合の刺激ははるかに少ない」と報告書は述べている。こうした教育の実施方法についても興味深い提案があった。彼らはディズニーのアニメーションや第二次世界大戦中に訓練フィルムを制作したジャム・ハンディ・カンパニー、および海軍の特殊デバイスセンター(現在の海軍研究所)を利用して、航空機の識別訓練を行うことを提唱していた。

地区住民の心理的モニタリングもまた考慮すべき重要なポイントとされた。パネルのメンバーは、1949年2月12日にエクアドルのキトで発生した突拍子もないUFO神経症騒動のことを知っていたのに違いない。この時、ラジオ番組「宇宙戦争War of the Worlds」がきっかけとなって生じたパニックは暴動を引き起こし、戦車が街に出動してからようやく鎮圧されたのだが、最終的には20人の死者が出た。報告には「強く求めたいこと」として、その種のプログラムには心理学者や「おそらくは広告の専門家となろうがマスコミュニケーションの技能に長けた人物」のアドバイスを仰ぐべきだともあった――ちなみにこのくだりではハドリー・キャントリルの名前がでてくるが、彼はオーソン・ウェルズの1938年版「宇宙戦争」のラジオ劇に関して米国で起きたパニックについて書いている人物である。 

ロバートソン報告書は、民間のUFOグループを監視することも推奨していた。「なぜなら、広範な地域にわたる目撃があった場合、そうした団体は大衆の思考に大きな影響を与える可能性があるからだ。彼らの無責任さ、そしてそのようなグループが破壊活動に利用される可能性というものは、常に念頭に置かれるべきである」。かくてそれからの20年間、そうした団体の一つで、アリゾナ州ツーソンにあった空中現象調査機構(APRO)という名のグループは諜報機関によって厳しく監視されることとなった。

結論として報告書は、UFO自体は「国家安全保障に対する直接的・物理的脅威」とはなっていないようだとしたが、それらの報告が寄せられると「関係のない報告が通信チャンネルを塞ぎ」、多数の誤報を作り出して真の敵対行動が無視される危険性が生じ、いわば「オオカミ少年状況」を生む可能性があると指摘していた。さらに報告書は、このテーマに対する一般の関心が高まると、「巧妙な敵対的プロパガンダにつけこまれ、人々がヒステリックな行動を取ったり合法的な権威に対して不信を抱くというような病的な国家観念」が植えつけられる可能性があるとしていた。

空飛ぶ円盤は、反乱者、さらにもっと悪いことには共産主義者さえ作り出すかもしれない。従って国家安全保障にあたる機関は、「未確認飛行物体に与えられた特別な地位と、それが不幸にも獲得してしまった神秘のオーラを直ちに剥ぎ取る措置を講じるべきだ」とされた。カーティス・ピーブルズが指摘するように、「ロバートソン報告書は空飛ぶ円盤についてのものではなく、真珠湾に関するものであった……米国は、ソビエトによる奇襲核攻撃の幽霊に悩まされていたのだ」 

CIAと米空軍がどの程度までこの勧告を実行に移したかは、あまりハッキリしない。だが、ハッキリした物言いをする科学者のレオン・デビッドソンは――彼は熱心なUFOファン以外からはすっかり忘れられた存在なのだが――自分はその答えを知っていると考えていた。(06←07→08






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■CIA + ECM = UFOs

戦間期に生まれたレオン・デビッドソンは少年時代、科学分野でちょっとした天才の名をほしいままにしていた。彼は13歳の頃には早くも「僕は化学技術者なのだ」と宣言し、数年後にはコロンビア大学工学部の博士課程に進んでマンハッタン計画に携わることになった。彼は最終的にロスアラモス研究所の監督技師となり、核産業のためのコンピュータシステムに長年取り組んだ。その後の彼は、プッシュホンの技術にも早い時期から関心を示していた。

アイゼンハワーならば「軍産複合体」と呼ぶであろう世界で働く多くの科学者と同様、デビッドソンもUFO問題に魅了されるようになった。1949年にロスアラモスで働き始めて間もなく、彼は研究所内の空飛ぶ円盤グループ「天体物理協会」に参加したが、そのグループはニューメキシコ周辺で起きていた奇妙な緑色の火の玉の目撃ウエーブを調査していた。デビッドソンは、こうした火の玉は大気上層で秘密裏に行われているロケット研究に伴うものだと確信していた。この件について当局が説明することはなかったが、彼はほとんどのUFO事件の背後には軍事的な秘密実験があると徐々に信じるようになっていった。首都上空へのUFOによる領空侵犯を報じたワシントンポスト紙の一面記事で、デビッドソンは「空飛ぶ円盤に特別な関心を持つ科学者」として紹介されている。

    空飛ぶ円盤に関してきわめて詳細かつ科学的な研究をしているデビッドソン氏は、こう語った。「UFOというのは、おそらくは『円形の飛行翼』をもつアメリカの『航空製品』であって、それは急加速と比較的低速度での飛行を両立させる新型ジェットエンジンを用いている」。彼の考えによれば、UFOは「新型の戦闘機」か、さもなくば誘導ミサイルないしは有人誘導ミサイルであるという。彼は、革新的な「コウモリ型の翼」をもつ海軍の新型機F-4Dなど最近のジェット戦闘機に触れ、UFOのみかけはこうしたものに似ているのかもしれない、とした。 

こうして最初は疑念から始まったものが、1959年までには確信に変わっていった。この時の彼は、ワシントンに出没したUFOは巧妙に仕組まれた高度な電子対抗手段(ECM)技術のテストに起因するものだったことを示唆している。彼はUFO研究家向けのニュースレター「Saucer News」(1959年2-3月号)に「ECM + CIA = UFO」というイカしたタイトルのエッセイを発表し、1950年までにアメリカ空軍が利用できるようになっていた基本的なECM技術について説明している。

    我々の爆撃機に搭載された「ブラックボックス」は、敵のレーダー信号を受信し、それを増幅し修正して送り返す。要するに爆撃機からの通常のレーダー反射をかき消すようにして戻すのである。その際には時間をずらしたり位相が変えられることもあるし、レーダースクリーン上の「ブリップ」が示す距離、速度、方向が誤ったものになってしまうこともある。 

最も原始的なECMは「ウィンドウ」またはチャフなどと呼ばれていたが、実際には全く電子的なものではなかった。それは1943年7月、ハンブルクに対する破壊的な空襲のさなか、イギリス軍によって初めて用いられたが、実際には乗組員がアルミニウム片を束ねたものを飛行機から投げ落とすというものだった。ドイツが用いていたヴュルツブルク・レーダーの波長は53~54センチだったが、その半分の長さにカットされた金属片の雲は、偽のエコーを発生させることで敵のレーダーを使いものにならなくした。戦争が進むにつれて、軍用機には特定の波長・周波数のレーダー波やラジオをジャミングする、より複雑な電子システムが装備されるようになった。

これらはすべて混乱を引き起こすためのものであったが、デビッドソンが語っていたのはもう少し洗練されたもの――そう、「欺瞞」であった。彼は、こうした新たな手法が用いられた最初の事例は、南太平洋の南西諸島で戦時中に起きた出来事であったとしている。それは1945年4月。第二次大戦の最終局面で、沖縄侵攻の準備をしていた連合国軍が神経をすり減らしていた時期であった。この地域のすべての船舶は日本の特攻隊の標的にされることを恐れていたから、レーダー画面にブリップが現れると、それがどんなものであれ全乗員はデッキに飛び出して応戦する態勢に入った。しかし、時として、レーダーブリップは現れたけれども、それに該当すべき航空機が見当たらないという事態が起きた。この幽霊のようなレーダー反射、いわゆる「駆けていくゴースト」は、南西諸島に集結した艦船のレーダースクリーンに繰り返し現れた。これらのゴーストの少なくとも一部は、鳥の群れによって引き起こされたものだった。ペリカンが――ちなみにペリカンは後にケネス・アーノルドの円盤目撃事件の下手人ともされた――単独の航空機と誤認されることもあった。海軍の科学者は、多くの強力な海軍レーダーが近接して運用されていることがゴーストを引き起こした可能性があると推察し、そこから「意図的にレーダーファントムを作り出せればそれは敵を欺くための非常に有用なツールになる」ということに気づいた。


1957年3月の「アヴィエーション・リサーチ・アンド・ディヴェラップメント」誌の記事は、このゴースト技術が如何にして改良され、民生部門に導入されてきたかを論じている。

    標準的なレーダー表示装置上に最大6つのターゲットを生成できる新たなレーダー移動ターゲットシミュレーターシステムが開発された……その目的はレーダーオペレーターの訓練や、飛行中の空中早期警戒担当者のテストのためで……ターゲットの位置、経路、速度は……リアルな飛行経路をシミュレートできる……最大10,000ノット(約11,500マイル/時)の速度を示すものが容易に生成される……ターゲットは左または右に回転させることができる……各ターゲットについて……それぞれスコープ上にリアルな姿を現出させる調整機能がある。 

デビッドソンは、このように描写されたものが1952年7月にワシントンでレーダー上に現れたものと非常に似通っていることに気づいた。そして彼は、誰がそれを操作していたのかを「知っていた」。

    1951年以来、CIAは自らの目的のために空飛ぶ円盤の目撃を引き起こしたり後押ししたりしてきた。巧妙な心理的操作によって、一連の「ありきたり」な出来事が、地球外からUFOが来ていることの非常に説得力ある証拠として提供されてきた……(そうした企みの中には)当事者となったレーダー担当者が知らされぬまま内密にEMCが軍事利用されたケースもある。 

デビッドソンは正しかったのだろうか? それがCIAであったかどうかはわからないが、誰かがこうした技術を使ってパイロットやレーダーオペレーターをテストしていた可能性はあるように思われる。1957年に英国で発生した事件は、レーダーを用いた欺瞞の典型的なケースと思われる(その出来事によって一人のアメリカ人パイロットは恐怖に突き落とされた)。彼、すなわち25歳のミルトン・トーレス中尉は当時、ヨーロッパのアメリカ戦略航空軍団の前哨基地でもあったケント州のマンストン基地に駐留していた。5月20日、彼は約15マイルほど先にレーダーで捉えられたB-52爆撃機ほどのサイズの大型機を追跡するため(ちなみに同機の長さは約160フィート・幅は180フィートである)、F-86Dセイバージェットでスクランブル発進するよう命じられた。トーレスは、攻撃準備をして射撃する命令を受けたが、戦時中でもなければケント州の片田舎でパイロットがそんな命令を受けるなどというのはおよそ考えられないことであった。そこへ――これは彼が恐れていたことであったが――「その飛行機は敵であっておそらくロシアのものだ」という連絡が入った。

トーレスと、もう一機のセイバー機に乗った僚友は3万2000フィートまで常勝し、マッハ0.92(時速約700マイル)で巨大な物体に向かって突進した。トーレスによれば、その物体は空母ほどのサイズでありながら、彼のレーダースクリーン上では昆虫のように動き回っていた。彼は侵入者に向けて24発のロケット全弾を発射する準備をしていたが、彼ももう一人のパイロットもターゲットを目視することはできなかった。それは目に見えない飛行機だったのだろうか? 突然レーダー信号が消え、セイバーは基地に呼び戻された。

翌日、トーレスはトレンチコートを着たアメリカ人の訪問を受けた。彼はアメリカ国家安全保障局(NSA)から来たと言った。謎の男は、もし再び飛行機に乗りたいのなら口を閉ざしておくようにと警告した。そしてトーレスは30年間沈黙を守った。トーレスの話は、デビッドソンが記述したレーダー欺瞞の典型的な事例のように思われる(UFOの歴史の中には同様の話が数多くある)。謎のアメリカ人が本当にNSAから来たのかどうかはわからないが、NSAもCIAもこの技術に関心を持つに足る十分な理由はあった。そして両者とも、第三者に接触する際に他の機関のメンバーだと身分を偽ることを常套手段にしていた。

CIAとNSAは共同作業に取り組んでもいた。1960年代初頭までに、彼らは「パラディウム」と呼ばれるプロジェクトを開始していた。それは、ソビエトの航空機、船舶、潜水艦、地上レーダー、ミサイル基地をターゲットとして、電気(ELINT)・通信(COMINT)・信号(SIGINT)のかたちで情報をアメリカに取り込もうというものだった。冷戦の初期には、こうした情報は「カラス」と呼ばれるパイロットによる危険な「フェレット」ミッションを通じて収集された。「カラス」たちはソ連の領空の外縁を探り、防空システムを起動させることでできるだけ多くのデータを地上レーダーや通信システムから収集しようとした。

パラディウムは、より安全にデータを収集できる画期的な技術を生み出した。この技術によってCIAは幽霊飛行機をソビエトのレーダーに浮かび上がらせることが可能になり、NSAはその間、こうした幻影がどのように探知され、追跡され、報告されるかを監視した。こうした幽霊飛行機はどんな形やサイズのものでも作り出すことができたし、どんな速度や高度でも飛行させることができた。

電気シグナルの専門家で元CIAのユージーン・ポティートは、キューバ危機の際に敢行された手の込んだ作戦について語っているが、そこではパラディウムのシステムと、潜水艦からパラシュートをつけた金属球を発射し、キューバのレーダーを混乱させる作戦が平行して用いられた。ポティートのCIAチームは、レーダー上の幻影をキューバの空域に「飛行」させ、その「侵入者」に向けて戦闘機を緊急発進させるよう仕向けた。CIAはパラディウムシステムを用いて幽霊航空機をキューバの戦闘機の前方に出現させ、ちょうど良いタイミングが来るのを待ち受けた。キューバのパイロットがゴースト機を撃墜しようとしているのを探知した瞬間、NSAのチームは「全員が同じ考えを抱いた。エンジニアはスイッチに指を伸ばした。私が『よろしい』とうなづくのを見て、彼はパラディウムシステムをオフにした」 

エドワード・ランズデールのアスワン(先述した「フィリピンの神話に登場する吸血鬼」のことだ)は、今や航空機となった。軍が関わり、UFOがレーダーで捕捉された初期の事件の中には意図的に偽装されたものがある。その目的は、レーダーオペレーターやパイロットがこうした異常にどのように反応するかをテストし、心理戦のシナリオにおいてこうした技術がどれだけ使えるかを試すことだった――そんな風に考えるのは理にかなっているように思われる。しかし、レオン・デビッドソンはさらに一歩進んで考えた。彼は、パラディウムというのは政府が究極の目的を達成するための一つの道具に過ぎないと考えた。すなわち、未確認飛行物体を地球外から来た宇宙船へと変貌させ、エイリアンの侵略をでっちあげるという目的のために――ちょうどバーナード・ニューマンが『空飛ぶ円盤』で描いたストーリーのように。

■神話をつくる

1952年7月のワシントン上空での空飛ぶ円盤事件は、UFOの歴史における決定的な転換点になった。この事件は、CIAがかつて心理戦略委員会(PSB)に警告したような混乱を引き起こし、同時にCIAがUFO問題に介入する格好の理由を与えた。一方、この事件は世界中で報道されたが、それはちょうどこの問題への関心が英国でピークを迎えた時期でもあった。

しかし、その時点でアメリカは「エイリアンの侵略ありうべし」という雰囲気になっていたのだろうか? 1952年4月、アメリカで最も人気のある雑誌『ライフ』は、「我々は宇宙からの訪問者を迎えているのか?」という記事を掲載した。ちなみにこの号の表紙には、どんなアメリカ人男性もあらがうことができなかったであろう、若くて魅力的なマリリン・モンローがフィーチャーされていた。さて、この記事は、次のように始まっている。「空軍は今、あまたの円盤や火の玉の目撃について説明がつかないことを認めざるを得ない状況にある。そこでライフ誌は、惑星を超えてやってきている円盤が実在するという科学的な証拠を提示してみせよう」。記事はそのクライマックスで、太字を使って以下のような主張を展開している――円盤は自然現象ではなく、アメリカやロシアの秘密航空機でもなく、風船でも心理的なものでもない。従ってそれは宇宙から来たものであるに違いない、と。

著者であるH.B.ダラク・ジュニアとロバート・ジンナは、この記事に関して、空飛ぶ円盤の話題を抑え込んでいたはずのアメリカ空軍と1年間にわたって協議を重ねていた。それだけに、この断固としたET仮説支持のトーンは驚きであった。デビッドソンは疑問に思った。空軍が望んでいないのに、アメリカで最も評価の高い雑誌がそのような記事を掲載することなどできるのだろうか? ルッペルトによれば、ジンナは空軍の高位の人々と話をしており、その意見は記事に反映されていた。しかし、それは空軍の戦略だったのか? それともタイムライフのオーナーで、CIAやPSBと親密な関係にあるヘンリー・ルースの指示によるものだったのか? ジンナとダラクは誰のゲームプランに従っていたのだろう?

『ライフ』の記事が空飛ぶ円盤の研究に「真っ当なもの」というイメージを与える一方、ET仮説を後押しし、さらにこの現象について洪水の如き報道がなされることに寄与したことは疑いない。ルッペルトによれば、1952年の最初の6か月間で、148のアメリカの新聞が6000以上のUFOに関する記事を掲載していた。

これは誰かが故意に円盤ヒステリーを煽り、7月に起きる壮大なるワシントン上空の領空侵犯に向けて前奏曲を奏でたのだろうか? デビッドソンは、ワシントンでの目撃ウエーブは大がかりなレーダー偽装事例の一つでありデモンストレーションであったと確信していた。この考えを第三者的に眺めてみるならば、なおパラノイア的ではあるけれども、それほど狂っているとも言えないだろう。1952年までにCIAがUFO現象に強い関心を持つようになっていたことは間違いないし、彼らがそうするのは完全に理にかなっている。1945年にまでさかのぼるレーダー偽装の技術を踏まえれば、1957年の時点で、レーダー上に幽霊飛行機を作り出して制御する技術というのは、相応の対価を払ったものには誰でも利用可能だった。ワシントン事件の直後にサムフォード将軍がニューヨーク・タイムズに述べた声明は、故意にレーダーが操作された可能性を示唆するものとも解釈できる。「我々はレーダーについてますます多くのことを学んでいる最中だ……レーダーは、最初に設計された目的とは異なるトリックを行うこともできるのだ」。デビッドソンは、首都防衛の任務を負った空軍の迎撃機は通常ワシントンDCから4マイル離れたアンドリュース空軍基地に配備されているが、この領空侵犯があった月には、90マイル離れたデラウェア州ニューキャッスルに移されていたと指摘している。これはアンドリュース基地の滑走路が修理されていたためとされるが、ともあれこれによって迎撃機の現場への到着はかなり遅れてしまった。

しかし、ワシントンの目撃が偶然ではなかったことを示す最も明確なヒントは、プロジェクト・ブルーブックのエドワード・ルッペルトに与えられていた。それはワシントンDC上空での出来事が始まる数日前のことだった。航空会社の乗務員が奇妙な光を目撃する出来事が相次いでいたことから、ルッペルトは「名前を明かせない機関」のある科学者(デビッドソンはこれがCIAだと推測していた)とUFOについて2時間議論をした。その終わりに、科学者は一つの「予言」をした。「数日のうちに……連中は大爆発を起こす。それで人々はUFO目撃の決定版みたいなものを目にするだろうね……場所はワシントンかニューヨークだが、たぶんワシントンだ」 

数日後、それは実際に起こった――その科学者が言った通りに。ルッペルトが彼の著書で言っているように、空軍情報部はワシントン事件についてツンボ桟敷にあった。そして、前述のように彼自身は事件の2日後に新聞で初めて事件を知った。その後、ルッペルトが事件を直接調査するためワシントンに行こうとしたが、スタッフカーを借りることはできなかった。「出発しようとするたびに、何かもっと緊急なことが起こった」と彼は書いている。  かくて空軍のUFO調査主任は、空飛ぶ円盤の歴史の中で最も劇的な事件に現場で立ち会うことができなかった。ルッペルトが後に回顧したところでは、ワシントンの領空侵犯についての報告をまとめるのには1年がかかったが、タイムリーにワシントンに到着していればそれは1日で済んだ。まるで誰かが彼の仕事を妨害しようとしているかのようであった。「空軍が何をしているのか、私は全く分からない」。彼は後にライフ誌のジャーナリスト、ロバート・ジンナに語った。

■ストークが知っていたこと

もしワシントンの騒動が仕組まれたものであったなら、その責任を負うのは誰で、その目的は何だったのか? 議論を呼ぶであろう仮説は、1953年1月9日、ハワード・クリントン・クロス博士からマイルズ・ゴル大佐を経由してエドワード・ルッペルトに送られたメモの行間に見いだせるかもしれない。 クロスはバテル記念研究所で働く冶金学者で、この研究所は材料科学に特化した民間の研究機関であったが、その当時はプロジェクト・ストークというコードネームでアメリカ空軍のUFOデータを処理する仕事を請け負っていた。一方のマイルズ・ゴルは、米空軍の技術移転部門の分析主任であった。冶金学者のクロス。ハードウェアの専門家であるゴル。UFOの専門家であるルッペルト。この三者が関わっていたということは、空軍がUFOについてどう考えていたかはともかく、軍はその技術的側面に関心を寄せていたことを明確に示している。

そのメモは「機密」指定されたものだったが、ここにはCIAのロバートソンパネルが1週間以内に開かれる予定であり、プロジェクト・ストークとアメリカ空軍の航空技術情報センター(ATIC)は「その会合で議論できること、議論されるべきでないこと」を事前に話し合うべきだと指摘している。この記述は、空軍がCIAに対してUFOに関する情報を隠す用意をしていたことを示唆している。しかし、どの情報を隠そうとしたのか? 隠そうとしたのは、プロジェクト・ストークがいまだUFO問題に対して満足のいく答えを持っていないということだったのかもしれない。アメリカ空軍内部で作られた他の報告書が見いだしたことをなぞるようにして、クロスはこう記している。「我々が今日まで未確認飛行物体の研究を重ねてきた経験から言えることは、信頼するに足るような使えるデータは明らかに不足しているということである」(訳注:ここでクロスのメモと言われているのが即ちジャック・ヴァレのいう「ペンタクル・メモ」である)

クロスはCIAに対し、空軍は事態を把握していないと伝えるのを恥じたのだろうか? おそらくそうなのだろう。しかし、彼の次なる提案は、全く別の陰謀的なトーンを見せている。ここでクロスは、プロジェクト・ストークの一環として「信頼すべき物理データを得るために、コントロールされた実験を実施すること」を推奨している。その計画というのは、UFOの目撃が多い地域に観測拠点を設置し、そこから天候のパターン、レーダー反射、UFOと誤認される可能性のある特異な視覚現象(風船、航空機、ロケット実験など)を詳細に記録しようというものだった。クロスは書いている。「そのエリアでは、様々な種類の空中を舞台にした活動が極秘のうちに、かつ意図をもって計画されるべきである……そうすれば、軍人など公職に就く者からの報告のみならず、これを目撃をした普通の市民からの報告も山のように寄せられることだろう」。要するにクロスは、UFO事件をでっち上げ、その結果どういうことが起きるかを見てみようと提案しているのだ。彼は、その「空中での活動」は他の軍関係者に事の次第を知らせずに行う手もある、とまで言っている。「このようにして仕込まれたデッチ上げはまず間違いなく偽りであることが暴露されるだろうが、それが確実に知れ渡るのは軍内部に限られ、公に表に出るようなことはないだろう」

かくてクロスは、そうした実験は米空軍が空飛ぶ円盤という「問題」についてハッキリした結論を得る上で役に立つだろうし、さらなるパニックが起きた際、UFOの報告――とりわけ一般大衆から寄せられた報告をどれだけ真剣に受けとめるかを決める上でも助けになるだろう、と結論づける。そして最後の下りは、空軍はUFO問題を取り扱う際に何を優先させようとしているのかを明らかにしている。「空軍は将来のしかるべき時点で、大衆を安心させるため、すべてはコントロール下にあるという意味の、ポジティブな声明を発することができるよう心せねばならない」

当時のUFO報告の中には、ストークが仕込んだものとおぼしき多くの事件が含まれている。そのような事件が、北ヨーロッパ沿岸での大規模なNATO合同演習「メインブレイス演習」の間に起きた。ルッペルトは回顧録で、1952年9月に演習が始まる前、ペンタゴンは「半ば真剣な調子で」海軍情報部にUFOに注意するよう指示したと述べている。実際、メインブレイス演習では、2件の刮目すべきUFO目撃が報告されており(うち1件では写真も撮影された)、それらはいずれも大きな銀色の風船のように見えた。しかし、調査の結果、どの部署からも「それは当方の責任です」との返答はなかった。これはストークが速達でも出したということなのだろうか?(訳注:ストークがニセUFOを飛ばす指令を発した、といった意味か?)

クロスのメモは、アメリカ空軍が空飛ぶ円盤の謎の核心を理解するのにまだ苦しんでいたことを示している。これとは別の内部メモも示していることであるが、ロズウェルだろうがアズテックだろうが他の場所であろうが、彼らがどこかに墜落した空飛ぶ円盤を保持していたことなどありえないのは明らかなのだ。では、なぜ空軍はUFOに関する情報をCIAと共有するのを制限しようとしたのだろうか? それは、空軍がいまだ確たる結論を得ていないのに、CIAが何らかの結論に至るということを望んでいなかったからかもしれない。それは空軍と海軍の間にもあるような、組織間のライバル意識を反映していたのかもしれない。さもなくばバテルと空軍は、UFO問題をCIAに押し付けてしまうためには、CIAに知らせることなく自分たちだけでUFO事件をデッチ上げるのが良いと考えたのかもしれない。確かに首都空域への領空侵犯事件をデッチ上げるなどというのは、今日では無責任に過ぎると思われるし、実際そうなのだが、ともかくこの事件は政府の中心部に強力なメッセージを送ることができた。それは同時に「UFOについては空軍が『すべてをコントロール下に』置いている」ということも示したのだった。

ワシントンでの事件は、最終的にCIAがUFOを真剣に受け止めるきっかけとなった。ロバートソン・パネルの側にはとりわけ懸念していたことがあった。前年7月のようなことがあって、ソビエトが偽りの標的を用いてアメリカのレーダーと通信のシステムをオーバーフローさせてしまうのではないか――しかも最悪のシナリオでは、それは核攻撃のプレリュードともなりうるのだ。しかしそうなると、パネルの参加者から「そのようなニセの標的を作る技術は既にあって、それがワシントンでの騒動を引き起こした可能性がある」といった指摘がなかったのは奇妙に思われる。これはクロスがCIAから隠したかったことの一つだったのだろうか? 仮にそうだとしたら、やがて起きる騒動についてルッペルトに警告した所属不明の科学者というのは、レオン・デビッドソンが疑ったようにCIAから来たわけではなく、バテル研究所の人間だったのではないか?

少なくともアメリカ空軍の一部は何が起きているのかを知っていたのではないか。ワシントンでの事件後の記者会見を主導した空軍情報部長のジョン・サムフォード将軍が、1956年に国家安全保障局(NSA)の2代目局長に就任したという事実はひょっとしたらそれを示唆しているのかもしれない。NSAは国際間の通信を監視していたし、先に述べたように、CIAと連携して日常的にパラディウム・システムを使用していたのである。

レオン・デビッドソンは、ロバートソン・パネルで何が議論されたのかハッキリ知らなかったし、クロスのメモについても知ることはなかった。しかし、1952年7月の出来事がレーダー欺騙技術によるものだと確信していたし、それが正しいか間違っているかは別として、UFO現象の背後に誰がいるのかについては自分なりの考えを持っていた。彼は、プロジェクトを指揮していた人物としてCIAのアレン・ウェルシュ・ダレスを挙げている。合衆国国務長官ジョン・フォスター・ダレスの弟でもあった彼は、1953年から1961年まで、まるで私領のようにCIAを支配していた。文民として初めて長官に就いたアレン・ダレスは戦時中の諜報活動に深く関わっており、V-2ロケットの開発者ヴェルナー・フォン・ブラウンを含むドイツの科学者を「プロジェクト・ペーパークリップ」の下でアメリカに秘密裏に移入するのも監督していた。

ダレスは、冷戦の初期のアメリカの舵取りに貢献した。ワシントンの領空侵犯事件の数日後、心理戦や秘密作戦を担当する「汚いトリック」部局としてCIAに作戦本部(Directorate of Operations)が置かれたが、これもダレス指揮下でのことだった。この作戦本部は、国際社会の現状維持に務めるアメリカの役割を保持・発展させていくため、重要にして悪名高い存在となっていった。また、デビッドソンの指摘するところでは、ダレスは哲学者カール・ユングの親友にして、崇拝者でもあった。ちなみにユングは1959年、先見の明を発揮して神の如き存在としての空飛ぶ円盤についての本を執筆している。この二人が1950年代初期に皆が関心を寄せていたテーマ、つまり空飛ぶ円盤について議論をしていたことは疑いない。デビッドソンは、UFOをめぐるストーリーが展開して新たな段階に入っていく時、その背後にはいつもCIAがいて、その黒幕はダレスであったと確信していた。彼はこう記している。「ダレスは『善良なエイリアンは過去数千年にわたって地球を訪れてきた』という神話を信奉していた」。そして「奇術師の手品、トリック、ショーマンシップ」を用いて、よくある誤認や軍用機の目撃をエイリアンの目撃、着陸、コンタクトに変えてしまったのだ、と。

では、なぜダレスとCIAは「宇宙からの訪問者」説を推進しようとしたのだろうか? UFOというのは、CIAが秘密裏に進めている心理的・政治的作戦、さらには高度な軍事テクノロジーを隠すのに丁度良いものだったのだ。UFOの神話を広めれば、ロシア人たちは空飛ぶ円盤の物語を調査し――もっといえばアメリカが自らの手で高度な円盤型航空機を飛ばしている可能性を調べるために時間やリソースを消費してくれる可能性があった。

三つ目の理由はユングの考えに由来するもので、それはバーナード・ニューマンの小説『空飛ぶ円盤』のプロットからもきている。

第二次世界大戦が現前させた黙示録的な恐怖は、多くの人々をして「神は人間を見捨て、我々を悪しき発明の下に投げ出した」と感じさせるに至った。我々は、新たな宗教としてのテクノロジーが倫理に取ってかわった新たな時代に突入し、もはや原子爆弾よりも高次のパワーというものはありえない。そう感じるようになってしまった。しかしそこでユングは、欠けるところがなく円形をした空飛ぶ円盤の形状に、神の如き完全性を示す現代的な象徴を見てとった。我々を超越する高次の権威が存在し、それが空飛ぶ円盤を飛ばしている――そのような信仰は 人類に定められた自滅を押し止めてくれるのではないか?

ダレスは、このような信仰を煽るために洗練されたトリックを使っていたのだろうか? しかし、その「高次の権威」というのはいったい誰――というか何だったのだろうか? 彼らは我々に何を伝えようとしていたのだろうか? 
07←08→09


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■第7章 宇宙のパイオニアたち

    友よ、残念だが地球は錯乱した狂人の手のうちにあるのだ。彼らはあまりに常軌を逸しているが故に、真実を語る我々をウソつきといって糾弾するのだ。 ――ディノ・クラスペドン「我が空飛ぶ円盤との接触」(1957)


ラフリンのコンベンション会場を見回すと、そこにはエイリアンの像、フィギュア、ステッカー、本、風船人形が果てしなく並んでいる。これを見たら未来の考古学者たちが「21世紀の人間たちは無表情な小人を神として崇拝していたのだろう」と考えても不思議ではないだろう。が、実際のところグレイ(とエイリアンたちは呼ばれるわけだが)と「自分はエイリアンたちとコンタクトしている」と信じる人たちの関係というのは、よく言っても曖昧模糊としたものだ。エイリアンによるアブダクションに対するパニックが最高潮に達した1980-90年代、我らが隣人たるエイリアンとの関わりで最も普通だったのは、「最後に外科用メスを持ち出されてしまう」というものだった。多くの人たちがこうした外科手術に至るような接近遭遇をトラウマ的なものと感じた一方で、モルモットにされた人間のうち僅かな人たちは、そうした体験をポジティブなものと捕らえ直すことに成功した――つまり、「自分たちを捕まえた者からは愛や平和のメッセージ、差し迫った環境災害について知らされたのだ」といって。ラフリンではエイリアンたちが自らについて語ることを聞くことはほとんど無かったけれど、それは常にそうだったわけではない。1950年代にさかのぼると、映画『地球が静止する時』に出てくる説教好きなヒューマノイド「クラートゥ」がそうだったように、知恵を授けるETたちの小さな宣教団は地球に下りてきて、人類に如何に行動すべきか・何をしてはならないかを教えたようなのである。

ケネス・アーノルドによる目撃やモーリー島、ロズウェル、アズテックにおける事件はUFO時代の夜明けを告げたが、それらはその後も続くUFO神話の基本要素を二つ確立した。UFOは構造体をもつ乗り物であり、それは私たちの飛行機と同様に墜落する可能性があるということだ。ライフ誌や男性誌トゥルーの特集が出るまで、多くの人々はこれらの乗り物がアメリカ製またはロシア製だと考えていた。しかし、今やそれらは外宇宙――おそらくは金星や火星、あるいは土星の月のどこかから来ていることが明らかになった。次なる問いは「では誰がそれを操縦しているのか」ということだった。

1952年、世界はその答えを知ることになる――サンディエゴとロサンゼルスの間にあるパロマー山のふもとで「パロマー・ガーデンズ・カフェ」を経営していた61歳のポーランド系アメリカ人、ジョージ・アダムスキーの登場によって。パロマー山の頂上には当時世界最大だった200インチのヘール望遠鏡が設置されていたが、アダムスキーは自分で所有する15インチや6インチの望遠鏡を通りすがりの人々に貸し出し、天体を観察させていた。アダムスキーはまた神智学的な傾向のある神秘主義団体「ロイヤルオーダー・オブ・チベット」を運営しており、カフェでは彼を「教授」と呼ぶ小規模な支持者たちを集めては定期的に異教的なトピックについて講義を行っていた。

1949年、アダムスキー教授は、SF小説『宇宙のパイオニアたち:月、火星、金星への旅』を自分の名前で出版した。もっともそれは本当は秘書のルーシー・マクギニスが執筆したものであったわけだが。それからまもなく、彼は講義に空飛ぶ円盤の話を取り入れるようになり、宇宙船を見たり写真を撮ったことがあると主張するようになった。地元では彼の円盤の目撃者としての評判が高まり、1950年にはレイ・パーマーの雑誌『Fate』に取り上げられるまでになった。アダムスキーは瞬く間にカリフォルニアにおける「空飛ぶ円盤産業」の一人者となり、カフェのビジネスも波に乗った。

空飛ぶ円盤がニュースで大きく取り上げられるようになり、アダムスキーの神秘的な円盤グループは新たなメンバーを引きつけ始めるようになった。その中には、ウィリアム・ダドリー・ペリーの親しい友人だったジョージ・ハント・ウィリアムソンもいた。ちなみにこのウィリアム・ダドリー・ペリーはインディアナ州ノーブルズビル出身で、神秘主義的団体「シルバー軍団 Silver Legion」を運営していた人物である。もともとはシナリオライターとしてハリウッドで脚本16本を手がけていた。彼は乱暴な物言いで知られた過激派で、あらゆるものを憎悪し――例えば黒人、ユダヤ人、共産主義者、ルーズベルト大統領といったものだ――唯一彼が英雄と仰いだのはアドルフ・ヒトラーであった。「シルバー軍団」の支部はほとんど全州に置かれ、「シルバー・シャツ」と呼ばれたそのメンバーに銀色のナチス風の制服を着るよう奨励していた。「シルバー軍団」は多くの雑誌も刊行しており、1940年の始めまでにはFBIの注意を引くまでになっていた。真珠湾攻撃についての公式見解に公然と疑問を呈するようになったことで、彼は叛逆煽動罪に問われ、15年の刑を宣告されたが、1950年になって早期仮釈放された。

ウィリアムソン夫妻はそれまでウィジャ盤を使って空飛ぶ円盤の乗員との接触を試みていたのだが、この当時、アダムスキー教授がスペース・ブラザーズとコミュニケーションを取っている録音テープを聴いた。これにいたく感銘を受けた二人はグループに参加することになった。さらに彼らは1952年11月20日、アダムスキー、ルーシー・マクギニス、そして円盤愛好者であるアルフレッドとベティのベイリー夫妻とともにカリフォルニア砂漠をドライブ中、車の上を飛ぶ巨大な葉巻型物体を目撃するに至った。彼らはこれを機にグループの中心的なメンバーとなる。アダムスキーは同乗者たちに「これはスペース・ブラザーズの飛行船の一つだ」と言い、「自分をここに下ろしていってくれ」と頼んだ。

一時間後、教授は驚くべき体験を携えて戻ってきた。望遠鏡とカメラを手にして砂漠の中に一人いたアダムスキーは、先ほどのより小さく、美しい乗り物が半マイルほど離れたところに着陸するのを見た。その乗り物から出てきたのは「この世界の者とは思われぬ人間」で、身長は約5フィート6インチほど。見たところ20代後半で、長い金髪、高い頬骨。額は広かった。彼は上下がつながった茶色の服と赤い靴を身につけ、非の打ち所のない笑顔を浮かべていた。かわされた言葉はわずかだったが、そのほとんどはテレパシーとボディランゲージによるものであった。

北欧系の外見をした宇宙人はオーソンという名だった。彼は、母星である金星からカリフォルニアにやってきたのだが、それは彼の種族が人類に対して抱いている関心のため――とりわけ原子爆弾の使用に対する憂慮を伝えるためだった。オーソンは、アダムスキーに彼らのメッセージを広める手助けをしてくれるよう頼み、会合が終わると、オーソンは乗り物に乗って飛び去った。残されたのは一つの靴の跡だけだったが、アダムスキーとその仲間たちはその足跡を石膏で保存することができた。その石膏には奇妙な印が見て取れたが、その中には星や鉤十字などもあった。


アダムスキーは約束を守り、間髪入れずその驚くべき出会いについて語り始めた。1953年、彼の話は(このたびもクララ・L・ジョンによる代筆ではあったのだが)『空飛ぶ円盤は着陸した』(訳注:邦訳題『空飛ぶ円盤実見記』)というベストセラー本に収録された。そこには、アイルランド貴族のデズモンド・レスリーの手になる古代の空飛ぶ円盤に関するエッセイも含まれていた。アダムスキーは世界中を旅してスペース・ブラザーズとの出会いについて語ったが、最初の接触の後も彼らとのコンタクトは続いた。教授との面談を希望した人の中にはオランダのユリアナ女王や、伝えられるところによればローマ教皇ヨハネ23世もいたという。その間も、スペース・ブラザーズたちは時折カフェに立ち寄り、彼らの新しい地球の友人と情報を交換し、彼を宇宙空間への旅に連れて行ったが、これについては、彼は1955年に出した『宇宙船の中で』(訳注:邦訳題『空飛ぶ円盤同乗記』)という別の本の中で記述している。

のちに行われた調査は、このポーランド人教授に対して好意的なものではなかった。彼の象徴ともなったUFO写真は、鶏の餌箱や1952年初めに出回った技術論文に描かれていた空飛ぶ円盤のデザインに不思議なほど似ていた。その日砂漠で実際に何が起こったのか、アダムスキー以外に知る者はいない(おそらくオーソンを除いては)。しかし、彼の遭遇があったタイミングはこれ以上ないほど絶妙なものであった。それはワシントンDCでの目撃フラップからわずか数ヶ月後、CIAと米空軍が円盤の問題を沈静化させる方法を議論している最中であったのだ。

アダムスキーの物語は、空飛ぶ円盤の問題に対して人々が渇望していた答えを差し出した。その乗員は悪意のあるロシア人ではなく、平和を愛する金星人だったのだ。急成長していた科学志向のUFOコミュニティ(その代表格がレオン・デビッドソンだ)は彼の話を嘲笑したが、よりスピリチュアルな志向を持つ者や一般大衆はそれを受け入れた。アダムスキーの名声が広がるにつれて、別の「コンタクティー」たちが数多く現れた。彼らはこもごもに慈悲深いスペース・ブラザーズだとか外宇宙への楽しい旅行といった似たような物語を語った。

こうしたコンタクティーたちは、UFO愛好者を集めて最初の大規模集会を開催したが、その規模はこのラフリン・コンベンションを恥じ入らせるほどのものであった。この種のコンベンションの一例としては、コンタクティーにして航空機会社のダグラスでエンジニアをしていたジョージ・ヴァン・タッセルが組織し、モハヴェ砂漠のジャイアント・ロックで長年開催されたものがあるが、そうしたところには、数千人ものUFO信者が、お気に入りの話題に関する最新のニュースや理論をわかちあうため集まってきた。コンタクティーたちのビッグウエーブは、UFO現象に対して大衆や政府が示す態度に変化を生み出した。それはレオン・デビッドソンやキーホーの真剣なアプローチとは全く対照的なUFO愛好者のイメージを作り出したのである。テクノロジーの問題として謎を解明しようとする真剣な科学者の姿は消え去り、その場所は変人、霊媒師、狂人たちが占めることになった。

アダムスキーや他のコンタクティーたちは(政府の)情報ゲームに巻き込まれていたのではないかという憶測は1950年代からあった。レオン・デビッドソンはアダムスキーが彼の遭遇を公にした直後に彼と連絡を取り、数年間にわたって彼と何度か手紙を交わした。デビッドソンがオーソンや他のスペース・ブラザーズについて何か奇妙な点があるかどうか尋ねたところ、アダムスキーはこう答えた。「彼は間違いなく人間です……髪を切ってビジネススーツを着ていれば、どこでも誰とでも怪しまれることなく一緒にいることができるでしょう」

当然デビッドソンは、アダムスキーの遭遇の背後にアレン・ダレスの仕掛けがあることを感じ取った。彼の外宇宙への「旅」の模様は著書『宇宙船の中で Inside the Spaceships』(邦訳題『空飛ぶ円盤同乗記』に記されているが、それは常にスペース・ブラザーズが彼を黒いポンティアックで拾い、砂漠へと連れていくところから始まった。そこでアダムスキーは、着陸した「偵察船」に乗り込んで椅子に座り、対になったスクリーンに星が流れていくのを見た(乗り物の窓は常に閉まっていた)。だが彼は、飛行中には「全く動きを感じなかった」と言っている。こうした旅の最中、スクリーンには「金星のニュース映画」が映し出され、スペース・ブラザーズは様々なトピックについて講義を行ったが、その間、アダムスキーには奇妙な色の飲み物が与えられた。疑い深いデビッドソンはこう指摘している――1955年、ディズニーランドに「ロケット・トゥ・ザ・ムーン」という乗り物が作られたが、それはバックプロジェクションを使用して宇宙を飛行している感覚を再現していた。アダムスキーの宇宙旅行は、同様のハリウッドの特殊効果を使って捏造されたものなのか? そして、スペース・ブラザーズが提供した機内飲料には何が入っていたのだろう?

アダムスキーの冒険の背後に誰がいたにせよ、「シルバー・シャツ」のジョージ・ハント・ウィリアムソンが彼のサークルに関与していたことは、「ロイヤル・オーダー・オブ・チベット」は禁酒法時代に密造酒を製造するための隠れ蓑だったという根強いウワサも相俟って、FBIの注意を引きつけるには十分であった。そして、アダムスキー自身もその活動の初期からFBIの注目を集めていた。1950年9月のFBI報告書には、鮮明な描写がある。教授はFBIのエージェントにこう語っている。「お聞きになりたいのなら話しますが、彼らの政府はおそらく共産主義者のそれです……それはより進歩した未来の政体なのですよ」。彼はこうも予言した。「ロシアは世界を支配し、それから1000年間に及ぶ平和の時代が訪れるでしょう」。彼はまた、ロシアはすでに原子爆弾を持っていることを指摘し、次のように述べた。

    今後12ヶ月以内にサンディエゴは爆撃されるでしょう……今日のアメリカ合衆国は、崩壊前のローマ帝国と同じ状態にあり、ローマ帝国が倒れたように崩壊するでしょう。この国の政府は腐敗した政府であって、資本家は貧者を奴隷化しているのですよ。

すべてのコンタクティーが共産主義者であったわけではない。例えば、カール・ユングのお気に入りで、ジョージ・ヴァン・タッセルと同様に航空宇宙産業で働いていたオルフェオ・アンジェルッチは、明らかにアメリカの側に立っていた。「共産主義は、目下のところ地球にとって根本的な敵であり、その旗の下に悪の統一勢力の穂先を隠している……[それは]必要悪であり、毒のある生物、飢饉、疫病、天変地異のように地球上に存在している。これらすべては人間の内にある善のネガティブな力なのであって、そうしたものを発動せしめる」

FBIがコンタクティーたちを監視していたことは明白であるが、彼らの中に、アメリカ政府や、事によればソビエト政府の働きかけを受けたり操られたりした者がいたかどうかは不明である。レオン・デビッドソンは、CIAはアダムスキーや彼の仲間に「関わっていた」と確信しており、大きく言えば平和主義的で反原爆に立つ彼らのメッセージは、国際的な平和運動が成長する上での重要な要素であったと見なしていた。この平和運動は、1958年にアメリカ、イギリス、ソビエト連邦の間で短期間の核実験禁止が合意されることで頂点に達した。これらはすべてアレン・ダレスのマスタープランの一部だったのだろうか?

彼らがCIAの操り人形であったかどうかにかかわらず、アダムスキーと他のコンタクティーたちは、ロバートソン・パネル報告書のいくつかの重要な勧告を実行に移した。彼らの行動により、UFOの問題が再び真剣に受け取られるまでには長い時間が流れることとなった。また、彼らの大会はUFO信者たちを一箇所に集めることになり、情報機関が彼らを監視することを非常に容易にした。この伝統は今日まで続いている。

■ブラジル版モーリー島事件

アダムスキーと彼の仲間のコンタクティーにとって、宇宙人との遭遇は非常に深い経験であり、彼らの乗り物に乗ることは他に類を見ないスリルであった。スペース・ブラザーズは、その高度な知性と技術にふさわしい慈愛と知恵を放ち、その知恵は人間の乗客に「これを他の人と分け合おう」というインスピレーションを与えた。しかし、もし出会うのが宇宙から来た説教師ではなく、人を誘拐し、薬を盛り、レイプし、興奮した犬のようにうなり声や吠え声をあげるエイリアンの悪魔であったらどうであろうか?これはまさに1957年に若いブラジル人農夫、アントニオ・ビラス・ボアスの身に起こったことである。

ビラス・ボアスの物語には、興味深い前触れがある。それはその年の9月にリオデジャネイロで起こった。リオの「オ・グローボ」紙の人気コラムニストであるイブラヒム・スエッドは、読者の一人から飛行円盤の破片が送られてきたと記事に記した。普段はセレブのゴシップを扱うことが多いこのコラムで、スエッドはこれまでUFOに興味を示したことはなかったのだが、彼はそこで読者からの手紙の一部を再掲した。

    あなたのコラムの愛読者、そしてあなたを尊敬する者として、新聞記者であれば一番関心があるであろうもの――そう、空飛ぶ円盤にかかわるものをお送りしたいと思います……数日前のこと……私はサンパウロのウバトゥバの町に近い場所で、友人たちと一緒に釣りをしていたのですが、そのとき空飛ぶ円盤を目撃しました。その円盤は信じられない速度でビーチに接近し、海面に衝突しそうになったのです。最後の瞬間、ほとんど水面に衝突しようというところで、それは上方に向かって鋭いターンをし、驚くべき勢いで急上昇しました。私たちはその光景に驚いて目を奪われましたが、その時、円盤が炎に包まれて爆発するのを見たのです。円盤はバラバラになって数千の燃える破片になり、輝く光を放ちながら落下しましたが、辺りはすごく明るくなりました……これらの破片のほとんどは海に落ちましたが、一部の小さな破片がビーチの近くに落ち、私たちはこの軽い紙のような素材を大量に拾い集めました。その一部を同封します。

このコラムはオラヴォ・フォンテス博士の目にとまった。彼は若くして尊敬を集めていた医師で、ブラジル消化器栄養学会の副会長を務めたのち、1968年にガンで亡くなった。まだ30代であった。フォンテスは、1954年末にブラジルで起きたドラマティックなUFO報告に魅了され、自ら個々の事件の調査を始めたのち、1957年初めにアメリカのUFO組織APROに加入した(ちなみにこれはロバートソン・パネルが観察することを推奨していた団体である)。

ウバトゥバでの墜落事件についての報告を読んだ後、フォンテスは直ちにスエッドに連絡し、その軽量の金属素材をブラジル農業省の国立鉱物生産局で分析する手配をした。また、そのサンプルは米国大使館を経由してアメリカ空軍にも送られた。その試料はマグネシウムと判明したが、その中には普通はありえないほど純度の高いものもあった。このほか奇妙な成分が含まれているものもあったが、これらは事後的に添加することも容易だったと考えられる。

この調査結果は全国ニュースとなり、フォンテスをブラジルを代表するUFO研究家として押し上げたのだが、それは彼自身が奇妙な近接遭遇をする上での布石ともなった。1958年2月、フォンテスは「ウバトゥバの素材について話をしたい」というブラジル海軍省の情報将校2人の訪問を受けた。彼らは、フォンテスに「関係のないことに首を突っ込むな」と警告した後、UFOの秘密について知っていることをすべて話した。彼らが言うには、世界の諸政府は地球に来ている地球外生命体の存在を認識しており、それを隠すためにあらゆる努力をしているという。これまでに直径30フィートから100フィートの空飛ぶ円盤6機が墜落しており、そのうち3つはアメリカ(2つは良好な状態で)、1つはイギリス、1つはサハラ砂漠、1つはスカンジナビアで墜落した。そのすべてに小柄なヒューマノイド型の乗員が搭乗しており、いずれも生存者はいなかった。科学者たちは現在、これらの円盤のリバースエンジニアリングを試みているが成功していない。が、その動力は、回転する強力な電磁場と原子の構成要素によって生じるものと思われる。UFOの乗員の側は人類との接触に興味を示しておらず、追跡する飛行機を何機か破壊していることもあって、極めて敵対的であると考えられている。このUFOの問題は最高機密とされており、ブラジル大統領でさえもその詳細を知らされていない。事が重大であるだけに一部の目撃者や研究者は情報漏洩を防ぐために暗殺された――彼らはそう警告した。

フォンテスはこの訪問に戸惑いながらもひるむことはなかった。彼はここで、我々であっても当然問うであろう質問をしたかもしれない。もしUFOの問題が大統領にさえも知らされないほどの秘密であったなら、なぜ海軍将校の暴露譚がこれほど多く一般の書籍や雑誌に掲載されてきたのか? そして、なぜ彼らはフォンテスにそんな話をしたのか?――実際のところフォンテスは、その情報を直ちにAPROのディレクターであるコーラルとジム・ロレンゼンに伝えたのだったし、二人はそこで似たようなウワサは他の情報源からも来ていたことを確認しているのだから。これは誰かがフォンテスとAPROにこうした話を信じてもらい、広めて欲しかったということなのだろうか?――あたかもサイラス・ニュートンが、1950年に墜落円盤の話を広めるよう何者かに促されたように。

■誘拐の元祖

オラヴォ・フォンテス博士が謎の「黒服の男たち」(os hometis de preto)の訪問を受けたタイミングは、「不吉」というのとは違うにしても不思議なタイミングであった。というのも、その数日前、博士は若い農夫から「宇宙から来た誘拐者たち」に関する奇妙で恐ろしい話を聞いたばかりだったからである。

彼らがアントニオ・ビラス・ボアスを連れ去ったのは、1957年10月16日。スプートニクが地球を周回する最初の人工物となってからわずか2週間も経たない時期であった。場所は、ブラジル南東部ミナス・ジェライス州のリオ・グランデ川沿いにあるサンフランシスコ・デ・サレス近く。23歳のビラス・ボアスは一家の農地を耕していた。彼は太陽の日射しを避けるために一人で夜中に働いていたのだが、それだけに彼は不安だった。

その2日前、ビラス・ボアスと彼の兄ジョアンは同じ畑を耕していたが、輝く赤い光に驚かされた。その光は目を刺すようで、時折「夕日のように」眩しい光を放っていた。彼らがその光に近づこうとすると、光は素早く逃げて行き、突如として消え去った。

10月16日午前1時、その赤い光がまたやってきて、「トラクターと周囲の地面を昼間のように照らした」。その直後、物体はリオ・グランデ川の土手から約150フィートの距離に着陸した。その瞬間、トラクターのガソリンエンジンが止まり、ライトが消えた。

「それは奇妙な機械だった」とビラス・ボアスはフォンテスに語った。「形はやや丸く、周囲には小さな紫色のライトが点灯しており、前部には巨大な赤いヘッドライトがあった…それは大きな、細長い卵のような形をしていた…機械の上部には高速で回転しているものがあり、蛍光を思わせる強力な赤い光を放っていた」。翌日、ビラス・ボアスは機体の残した三脚の跡を測定し、その長さを約35フィート、最も幅の広い部分を約23フィートと推定した。

飛行物体が着陸した時、ビラス・ボアスは逃げようとしたが、「奇妙な服装」をした、背の低くて力の強い人物に荒々しく捕まえられた。続いて3人の背の高い存在が現れ、彼を金属製のハシゴに押し上げ、跳ね上げ式ドアになっているハッチを通して中に押し込んだ。ビラス・ボアスはこうした存在の服装について詳細な説明をしてみせた。彼らは黒いストライプの飾りがついた灰色のオーバーオールを着ており、頭には布製と思しきヘルメットがあった。ヘルメットは薄い金属片で補強されていたが、鼻の部分には三角形の金属片があり、2つのレンズが付いた目の穴の中間に配置されていた。ヘルメットの頂部は通常の人間の頭の高さのほぼ2倍にまで延びており、額は広いように見えた(この詳細はアダムスキーのオーソンと共通している)。ヘルメットからは細い銀色のチューブが出てオーバーオールの背中に接続されていた。誘拐者たちはそれぞれ、硬い感じがする五つ指の手袋、厚底のゴム製のブーツ、そして胸にはパイナップルの輪切りほどの大きさで、丸くて赤い反射板を一つ装備していた。

まるでバック・ロジャースの連続ドラマや『地球が静止する日』にも似た安っぽい話のようでもある。乗り物の内部も1950年代に想像された未来像を反映したもののように思える。部屋は丸くて、白く、明るく、特徴がない。家具といえばあるのは金属製のテーブルと回転するスツールだけで、すべて床に固定されていた。天井には四角い蛍光灯があり、リングのように全体をひとまわりしていた。

うなり声や鳴き声でコミュニケーションを取りながら、ヒューマノイドたちは捕らえたビラス・ボアスの服を脱がせ、湿ったスポンジで体を拭き、大きくて柔らかなベッドのある部屋に連れて行ったが、ベッドは灰色のシーツで覆われていた。血を集める「吸い玉」のような装置を顎の下に当てられた後、彼は放置された。部屋は壁の穴から入り込んできた灰色の煙で満たされ、それは吐き気を催させた。それから、背は低いが非常に美しくて全裸の女性がドアの戸口に現れた。彼女は人間だったが、顔立ちをみると随所が奇妙なほど尖っていた。髪はほとんど真っ白で、中央で分けられていたが、陰毛は鮮やかな赤色だった。彼女の目は大きくて青かった。その目は丸いというよりは細長く、切れ長のつり目だった。それは、少女たちがアラビアの王女風のファンタジックな化粧をした時の目を思わせた。

その女性はビラス・ボアスに体を擦りつけてきたので、彼は自制できないほど興奮してしまった。次から次へと事は運んだ。「それは通常の行為でした」とビラス・ボアスは語った。「彼女はどんな女性でもするようなことをした」。彼は、その興奮を誘拐者たちが彼の体に塗りたくった液体のせいにしたが、そんな状況下で催淫薬が必要であったかどうかは疑わしいだろう。行為が終わると、その女性は笑顔を見せ、自分の腹部と空とを指差した。それを見たビラス・ボアスは、彼女は自分たちのハイブリッドとなる子供を生むつもりなのだろうと思った。

ビラス・ボアスが服を着た後、彼は乗り物の外部を案内され、それから「別れる時間だ」と告げられた。事態に困惑し動揺していた彼は、その乗り物が大きなうなり声を上げつつ離陸するのを見守った。そのライトは様々な色に点滅していたが、最後には明るい赤色になった。回転している上部は、機体が地上からゆっくりと浮き上がっていくにつれて、ますます速く回り始めた。その三本の脚は機体の腹部に引っ込んでいった。それは100フィートほど上昇し、大きなブンブン音を立てた後、突然の衝撃とともに弾丸のように上空に飛び出した。若い農夫は強い衝撃を受けた。「彼らはやるべきことが十分に分かっていました」と彼はフォンテス博士に語り、同時に「彼らは人間だった。ただ別の惑星から来た人間でした」とも語った。

時間は午前5時30分になっていた。この出来事は約4時間にわたって続いていた。ビラス・ボアスはトラクターを動かそうとしたが、エンジンはまだかからなかった。エンジンのバッテリーの配線が外されていたのだ。ローテクではあるが、逃走防止としては効果的な手段だった。彼はよろめきながら家に戻ったが、彼の姉妹は、そのとき彼が黄色い液体を吐いたこと、アゴに黒っぽいあざがあったことを覚えている。続く数週間、彼は体の痛みや目の刺激、さまざまな体の不調に苦しんだ。

この事件の直後、彼は人気のある「オ・クルゼイロ」誌の編集者ジョアン・マルティンスに手紙を書いた。するとビラス・ボアスはリオデジャネイロに空路招かれることとなり、そこでインタビューを受けるとともに、フォンテス博士に検査されることになった。マルティンス自身はビラス・ボアスの話を雑誌に載せなかった。だが、その話は1962年にマイナーなブラジルのUFO雑誌に掲載され、1960年代半ばには英語圏のUFO雑誌に初めて紹介された。フォンテスはこの若い農夫の誠実さに感銘を受け、奇妙な話ではあるけれども、彼の証言を信じた。ちなみにビラス・ボアスは、マルティンスが「儲けることができるよ」と示唆したのにもかかわらず、新聞に話を売ることはなかった。

さて、実際には何が起こったのだろうか?アントニオ・ビラス・ボアスは本当に性的に飢えたエイリアンに誘拐されたのだろうか? あるいはすべては夢だったのか、あるいは幻覚だったのか――その夢や幻覚は、おそらく意識を失ったあとにアゴのアザを説明しようとして生み出されたものではないのか? そうであれば人間の正常な心理の範囲内におさまる可能性が高い。彼と兄はその月の初めに空に赤い光を見たことがあり、新聞にはUFO目撃の報告が載っていた。それらが彼を刺激してエイリアンのファンタジーを見せたのかもしれない。しかし、さらに別の可能性もある。それは「実際にエイリアンの誘拐があった」という考えと同じほど馬鹿げているのかもしれないが。

■洗脳マシン

ボスコ・ネデレコビッチは1999年にバージニア州フェアファックスで亡くなるまで、ラテンアメリカ諸国の未来の指導者を教育するインターアメリカン・ディフェンス・カレッジの通訳兼翻訳者であった。ユーゴスラビア出身のネデレコビッチは1978年、アメリカのUFO研究者リッチ・レイノルズにこんな告白をした――1950年代から1960年代にかけ、CIAはプロジェクト「オペレーション・ミラージュ」として世界各地でUFO事件を意図的に作り出していた、と。さらにネデレコビッチ自身も、1956年から1963年の間、米国際開発庁(AID)の名のもと、ラテンアメリカでCIAのために働いており、こうしたでっちあげ事件のいくつかに参加していた。そして、その一つがビラス・ボアスの誘拐事件だった――と。

ネデレコビッチの主張によれば、彼は1957年10月中旬、ヘリコプター・チームの一員として、ブラジルのミナス・ジェライス州で心理戦と幻覚剤のテストを行っていた。そのチームは、彼、他のCIA職員2人、医師、2人の海軍士官(1人はアメリカ人、1人はブラジル人)、さらに3人のクルーから構成されていた。ヘリコプターには様々な電子機器と、長さ約5フィート、幅約3フィートで金属製の「キュービクル」というものが搭載されていた。ネデレコビッチはそれが何のために使用されたのかは知らされなかったが、軍事の心理戦作戦に使用されるものだと聞かされていた。

最初にチームは、作戦基地のウベラバ(サンフランシスコ・デ・サレスの東約150マイル)周辺を飛行し、電子機器のテストを行った。数日後、彼らはリオ・グランデ沿いを飛行し、夜間掃討を行った。熱感知カメラを使用したところ、彼らは地上に一人の人影を確認した。ヘリコプターは約200フィートの高さまで降下し、エアロゾル状の鎮静剤を放出した。ヘリコプターが着陸すると、その男は逃げ出したが、3人のCIA工作員が彼を追いかけ、ヘリコプターに引きずり込んだ。その際、彼の顎がデッキにぶつかった。ネデレコビッチは、彼らが機内でその男性に何をしたかについては言及していないが、数時間後にまだ意識を失ったままの彼をトラクターの横に残して立ち去ったのだという。

では、この男性はアントニオ・ビラス・ボアスだったのだろうか?ネデレコビッチの証言の個々の要素は、ビラス・ボアスの話と一致している。例えば、その時間、場所、気象条件、そして被害者のアゴのアザといったものだ。同様に、ビラス・ボアスの話の多くの要素(例えば誘拐者の服装だ)を見ても、相手はエイリアンではなく人間だったように思える。彼らの飛行機も、彼自身の想像力だとか狡猾なSF風の意匠によって修正されてはいたが、実際にはヘリコプターだった可能性もある。機体の外部に取りつけられた白色を含む様々な色のライトはUFOっぽい雰囲気を醸し出していたかもしれないし、上部の「回転する」ドームはローターブレードだった可能性がある。ただしこれには反論もできるだろう。大型のヘリコプターは大きな騒音を発するものだし、「静音」ヘリコプターが実際に運用されるのはまだ数年先のことだった。人里離れた土地の夜間のこととはいえ、当時のブラジルの農村では珍しいヘリの音が聞こえれば誰かしら聞いていただろう。

このストーリーの他の部分にも、真実味はある。事件があった当時、CIAと米軍はブラジルやラテンアメリカ全域にしっかりと拠点を築き、地域の政治的動向を注視していた。ブラジルは特にセンシティブな国と見なされていた。その広大な面積、豊富な天然資源、そしてアメリカに近い位置といったものは、ソビエト拡張主義の対象として魅力的であった。事態は1964年にヤマ場を迎えた。CIAは、ジョアン・グラール大統領を追放し、次なる2年間権力を握る残虐な軍事政権を成立させるクーデターに参加したのである。

1957年になるとCIAはMK-ウルトラ計画にも深く関与するようになった。薬物、外科手術、テクノロジーを用いた精神および行動改変技術の研究である。彼らは多くの精神活性物質(幻覚剤、鎮静剤、興奮剤、精神異常発現薬といったものだ)の実験を行ったが、それはしばしば事情を全く知らされていない対象に対して行われた。CIAが自国の管轄地域外でテストを行った可能性はあるのか? 問うまでもない。この時期のCIAにとっては世界全体がその管轄内にあった。

ビラス・ボアスは、その体験中ならびに体験後に繰り返し吐き気を感じ、加えて不快な生理的影響も受けていたが、フォンテスはこれを放射線被曝に関連したものと考えた。ネデレコビッチが語った「キュービクル」は、放射線被曝の影響をひそかにテストするために使用されたのではないか? ヘリコプターのフライトの際にどんな服装をしていたのかについてネデレコビッチは語っていないが、ビラス・ボアスが証言した誘拐者たちの服装・ヘルメットは、放射線防護具だったとも考えられる。

こうした考究をさらに一歩進めると、催眠や幻覚剤の影響下で、人に実際には体験していないことを「体験した」と信じさせることは可能なのかという問いが浮かび上がる。その答えは明らかに「イエス」である。そのことを言うのに多言は要しない。2001年、ワシントン大学の心理学者たちは、子供のころにディズニーランドに行ったことのある人々に、園内にバグズバニーのいるニセの広告を見せた。その際、被験者のいる部屋に段ボールから切り抜かれた巨大なバグズが置かれたケースもあった。後に質問されたとき、広告を見たグループの3分の1はディズニーランドでバグズ・バニーに会ったことを覚えていた。また、切り抜きが置かれた部屋で広告を見たグループの40%も同様だった。被験者たちは催眠術にかけられたわけでも薬物を摂取したわけでもなかったのに、である。そもそもディズニーランドでデカい声で話すウサギに会うことはありえなかった――ワーナー・ブラザースとウォルト・ディズニーの弁護士がそれを許すことは決してありえないのだから。

偽の記憶を作り出すのは比較的簡単であるが、UFOの遭遇に関していえば、これは「諸刃の剣」となる。UFO事件やエイリアンによる誘拐について単に文章を読んだりしただけでも、それが睡眠麻痺や解離状態といった、珍しいとは言えないけれども普通とも言えない経験と結びついたら、「自分は何かしら現実の遭遇体験をしたのではないか」と疑う人がいるかもしれない。ヴィラス・ボアスに起こったのはこういうことだったのかもしれない。彼の体験は、現実には根拠のない鮮やかな幻想だった可能性がある。しかし、エリザベス・ロフタスの研究とネデルコビッチの証言を組み合わせると、また別の絵図が浮かび上がってくる。

ハンガリーの作家ラヨシュ・ラフは1959年、『洗脳マシン』という著書の中で、1953年に共産党に誘拐され、収容所の「マジック・ルーム」に連れて行かれた経験を描いた。そこには、薬物を投与された被験者を心理的に不安定にするため、ありとあらゆる仕掛けが施されていた。壁は丸く、家具は床に固定されていた。奇妙でサイケデリックな照明が用いられており、回転する色つきのジェルやレーザー光線のようなものもあった。さらにスクリーンには性的・暴力的な写真や映像が映し出された。ある時、ラフは性交している女性の映像を見せられたが、相手の男性の顔にはぼかしが入っていた。そのあと目が覚めると隣にはその女性が横たわっていて、フィルムの中の映像が実際に起こったことであるかのように話した、それから彼女はラフと性交した。「マジック・ルーム」では現実と幻想が曖昧にされた。その目的は犠牲者を心理的に「破壊」することだった。

ラフはアメリカに逃れ、議会で「洗脳」の実態について証言した。しかし、話はそれほど単純ではない。ラフは確かにハンガリーで拘束されている間、恐ろしい心理的拷問を受けたが、アメリカに政治亡命者として逃れてきた彼は、議会や大衆のためにその体験を誇張するよう促されていた可能性がある。彼の恐怖に満ちてセンセーショナルな著書『洗脳マシン』はその一環であったろうし、CIAの工作員によって書かれたものである可能性がある。それは冷戦期にはよくあるプロパガンダの手法であった。

しかし、ラフの「マジック・ルーム」が虚構であったとしても、MKウルトラは虚構ではなかった。CIAがアメリカのパルプSFや1947年以来発展してきたUFO神話に触発されて、心理操作を行った可能性はあるのか? 我々としてはこう言わざるを得まい。「おそらくはイエスだ」と。08←09→10






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■第8章 ユーフォロジストたちの中で

    気がつくと、円形のドーム型の部屋にいた……それはまるで真珠のような神秘的な物質でできており、繊細な色彩が光を放ちながら虹のように輝いていた。そこへ音楽が聞こえてきた。聞き覚えのあるメロディー、それは私の大好きな曲「フールズ・ラッシュ・イン」だった……私は、彼らと一緒にいることでどれほど安心できるかを悟った。彼らは私のすべての考え、夢、そして大切にしている希望を知っている存在だった。
     ――オルフェオ・アンジェルッチ『円盤の秘密』 (1955)


ラフリンのフラミンゴ・ホテルの部屋から、輝きまたたくネオンライトの列が砂漠の夜空の星々をかき消す様子を眺めていた。1995年の晴れた日に私や友人たちが目撃したものが何だったのか、私は全く真相に近づけていなかったのかもしれない。だが、私やジョン、そして何百万もの人々が魅了されてきた物語がどのようにして形をなしてきたのかは、よりハッキリと理解できるようになっていた。

空飛ぶ円盤の現象の背後に軍や情報機関がいるという信仰は、私にはUFO伝説にまつわる他の荒唐無稽な話と同じくらい見当違いで、妄想狂的であるように思われた。しかし、アメリカ空軍、海軍、CIA、NSAなど、この手の謎めいた略語集団に括られる機関が、UFOについて意図的に国民を欺き、時にはお互いに騙しあってきたことは明らかだった。それぞれが自分たちの目的のためにこの現象を利用し、それによってUFO神話の展開に影響を与えていたのだ。UFOが本当に空を飛び回り、地面に墜落し、我々に呼びかけたり、誘拐したりしていたかどうかはともかく、そうした話の背後にはすべて人間の痕跡があった。

しかし、私はもどかしさを感じていた。今にいたるまでこうした奇妙な物語は、古い書籍や記事、その時々の政府文書、逸話や風説の断片、そして多くは推測混じりの直感によって組み立てられていた。確固たる証拠はほとんどなかったが、私は何を得られるのだろう? 秘密は情報機関にとっていつも吸っている空気のようなものであり、仮にUFOの作戦が今なお秘密裏に続けられているなら、その歴史が簡単に明らかになるはずもない。情報機関の界隈に昔から伝わる格言にこういうものがある。「推測というのは、何も知らず、そして知ることが不可能な時に行うものである」

UFO伝説の最初の波を形作った戦略家やエージェントたち、つまりオリジナルの「蜃気楼の男たち Mirage Men」は、すでに皆いなくなっていた。ジョンと私が彼らと話をすることはもうできない。しかし、ビル・ライアンを追ってセルポの物語を追跡し、盛況を極めるラフリン・コンベンションへと至った我々は、彼らの後継者に出会えることを期待していた。

■完全な公開

CIAのロバートソン・パネルは1953年、民間UFO団体を厳重に監視すべきだと提言した(「監視」とはおそらく「潜入」と読みかえるべきだろう)。そこで実名を挙げて名指しされたのは、空中現象研究機構(APRO)とシビリアン・ソーサー・インスティゲーション(CSI)だった。UFOコミュニティの中の賢明な者たちが、自分たちは政府によって監視され時には干渉されていることに気づいていたとしても、彼らは「それは地球外生命体が訪問しているという真実に自分たちが近づきすぎたからだ」と信じる傾向にあった。その30年後、政府の関与について見えてきた構図はそれと全く違うものだったわけだが、それは多くのUFO研究者たちが(おそらくは薄々本当のところは知りながら)あえて目をそむけてきたものだった。こうした出来事すべての中心にいたのは、ユーフォロジーの世界における最初の内部告発者で、英雄的な研究者から裏切り者・はぐれ者へと立場を転じたウィリアム・ムーアだった。

ビル・ムーアはこの分野で最も尊敬されていた人物の一人だった。彼には40年間も埋もれていたロズウェル事件を掘り起こした大きな功績があり、彼のベストセラー本『ロズウェル事件』は、このジャンルに対する大衆のイメージをますます改善させた。しかし、1989年にラスベガスのアラジン・カジノ・ホテルで開催されたMUFON(相互UFOネットワーク)の会議において、彼が発表に立った時点ではUFOコミュニティは完全な混乱状態になっていた。この会議は、事実上、内戦の様相を呈していたのだ。比較的穏健なMUFON公認のイベントがアラジンで開催される一方で、近くの別の場所では、分派による会議が開かれた。こちらの講演者はより過激なUFO現象の「暗黒面」を説き、エイリアンによる地球の植民地化は着々と進んでおり、政府はこれを隠蔽する陰謀を謀っているなどとして警鐘を鳴らしていた。ちなみにこの主張では、政府は進んだ軍事技術を入手する見返りに、ETが恐ろしいアブダクションで人間の遺伝子を得ることを認めているということになっていた。

ムーアが「公認」イベントのステージに立ったとき、彼はこれが自分が公の場に出る最後の機会になるかもしれないことを知っていた。なぜなら彼は、ユーフォロジーの世界に生じたカオスの少なからぬ部分は自分に責任があることを知っていたのだ。彼はまさにその話を全世界に告白しようとしていたのだった。

ムーアのスピーチの記録として残っているのは、粗い画質のビデオテープが唯一のものである。音声は別途録音されているが、時折、同期がずれたり、完全に途切れたりすることがある。ムーアは、灰色か茶色のスーツを着た熊のような男で、厚いヒゲ、黒い眼鏡、そしておかっぱ頭によって顔はほとんど隠れている。演壇に上った彼は神経質な様子で、1000人に及ぶ立ち見席の聴衆を前に体を左右に揺らしていた。彼は咳払いをしてから話し始めた。「皆さん、私の友人も私に反対している方も、協力者の方も同僚の方々も、つまりはUFO研究者の皆さんということなのですが、まず自己紹介をさせてください。皆さんは私の名前を知っていると思いますが、同時にビル・ムーアとは何者で、何を企んでいるのかと疑問に思っている方も多いでしょう……自分自身は私がずっと何をしてきたかを知っているわけですが、問題は他の誰も私がしてきたことを知らなかったことなのです……これはあなた方にとって聞きたくない話かもしれませんが、それでも本当の話なのです」

それからの2時間、ムーアは落ち着いた調子ながらも力強く自らの物語を語った。その話は、UFOコミュニティに新たな視点をもたらす風穴を開けるようなものとなった。彼は、チャールズ・バーリッツ(彼自身も元陸軍情報将校だった)との共著になる2冊の書籍、『フィラデルフィア・エクスペリメント』(1979年)と『ロズウェル事件』(1980年)で成功を収めたが、その後、労使関係の専門家としての職を辞し、アリゾナ州に移り住んで執筆活動に専念することになった。また彼は、ツーソンに拠点を置くAPRO(空中現象研究機構)の特別調査部長にも就任した。

1980年9月の始め、ラジオ番組で『ロズウェル事件』の宣伝をした直後のムーアは、放送局で電話を受けた。「我々が見るところ、彼が何を言っているのか分かっているのはあなただけだと思います」。東ヨーロッパ訛りのある匿名の男性はそう言い、そのまま電話を切った。数日後、ムーアがニューメキシコ州アルバカーキの別のラジオ局にいたとき、その男は再び電話をかけてきて、同じメッセージを伝えた。ムーアはこの時、この人物と地元のレストランで会う約束をした。男は赤いネクタイをしていくということだった。ムーアは、ロバート・リンゼイの著書『ファルコンとスノーマン 友情と陰謀の真実の物語と』にちなんで、この人物に「ファルコン」という名前を付けた。ムーアはファルコンの地位や正体を明かしておらず、ただ彼は「情報機関において重要な位置にいた人物だ」とだけ語っている。

ディナーの席で、ファルコンはムーアに取引を持ちかけた。それは、ムーアが上手く立ち回れば、ファルコンはUFOコミュニティが最も求めているもの、すなわち政府によるUFO隠蔽の決定的な証拠を提供できる――というものであった。その代わり、ムーアは情報機関が何より求めているもの、つまり情報を提供することが求められた。「私は勧誘されていることに気づいた」とムーアは1989年に語っている。「でも、なぜそんなことをするのかは分からなかった」。ムーアが提案に同意すると、一通のマニラ封筒を渡された。中には空軍の文書があった。それは「プロジェクト・シルバースカイ」に触れたもので、民間人による空中「物体」の目撃情報と、「スパイク型飛行体」の回収について書かれていた。

ムーアとファルコンは9月30日に再び会った。ファルコンに同行していたのは、空軍特別捜査局(AFOSI)の若き捜査官、リチャード・ドーティであり、彼がムーアとファルコンの連絡役を務めることとなった。ムーアはすぐさま、シルバースカイの文書について二人を問い詰めた。彼は目撃者の名前を調べてみたが、該当する人物はいなかったのだ。その文書は偽造されたものだった。ファルコンは「最初のテストは合格だ」と祝福した。かくて彼は次の段階に進む準備ができた。

ファルコンは、自分が国防情報局(DIA)に所属しており、情報機関内にあってUFOに関する真実を大衆に伝えたいと考えているグループの代表なのだと明かした。ムーアは、彼らがその試みに取り組む上で信用できる人物と見込まれたのである。その見返りとしてムーアは、UFOコミュニティの中では誰が何をやっているかという情報を彼らに渡すこと、そして逆にUFOシーンに誤情報を流すことも求められた。ムーアは、偽情報ゲームに巻き込まれつつあったのだ。

実際、このゲームはすでに始まっていた。その年の初めに、ムーアはAPROの幹部から奇妙な手紙を渡された。それは、ニューメキシコ州アルバカーキのカートランド空軍基地駐在の若き空軍士官候補生、クレイグ・ウェイツェルが書いたもので、訓練中に10人の士官候補生が目撃した着陸したUFOと銀色のスーツを着た乗員について記述されていた。ウェイツェルは、その乗り物と乗員の写真を撮影していた。カートランドに戻ると、ウェイツェルは、黒いスーツとサングラス姿で黒っぽい髪の謎めいた男に接触された。ハックと名乗ったその男は、基地内のサンディア研究所の者だと言い、UFOの写真を要求してきた。動転したウェイツェルは、それらを渡してしまった。ウェイツェルは、この出来事をカートランドの警備担当者、ドーディに報告したと手紙の中で書き、手紙の最後には、墜落したUFOが基地内のマンザノ山の下に保管されていると述べていた。

常に用心深い調査者であるムーアは、ウェイツェルを追跡して彼に会った。ウェイツェルは、確かに銀色のUFOを見たと言い、それは突然加速して飛び去り、「今まで見たことのないような加速をした」と述べた。しかし、それは手紙に記載されていた場所で起きたわけではなく、搭乗者は見なかったし写真も撮っていなかった。当然ながらハック氏という不気味な男に会ったこともなかった。そして、もちろん「ドーディ氏」はリチャード・ドーティで、ウェイツェルの手紙はムーアを誘い出すための餌であった。AFOSIは狙っていた獲物を釣り上げたのだ。


ポール・ベネウィッツに会いにいったらどうかと最初にムーアに提案したのがAPRO(空中現象研究機構)だったのか、あるいはAFOSIだったのかはハッキリしない。どちらにとってもそう言って然るべき理由があった。ベネウィッツは1979年7月、マンザノの山々の上空を飛び回っている奇妙な光を撮影し始めた。さらに彼は自作の受信機で奇妙な信号を拾い始め、それはUFOから発せられているものに違いないと確信した。1980年5月、ベネウィッツがミルナ・ハンセンという若い母親と知り合ったことで、事態はさらに奇怪な方向に向かった。ハンセンと8歳の息子は、アルバカーキの北西約65マイルにあるイーグルズ・ネスト付近で、車の上に奇妙な青く輝く明るい光を目撃していた。彼女がこの出来事をAPROに報告したところ、APROはその地域の代表者をしていたベネウィッツを訪ねるよう彼女に勧めたのである。ベネウィッツの元で催眠術を施されたハンセンは、UFOに引き上げられ、そこで恐ろしいもの――すなわち、切り刻まれた牛や人体のパーツがタンクに入れられているのを見たと述べた。自分の身に起きたことへの恐怖と、答えを知っていそうなベネウィッツに対する信頼感から、ハンセンはベネウィッツ家に足繁く通うようになし、二人は不穏極まりない「感応精神病」へと陥っていった。

ハンセンは、科学者にしてUFOの専門家であるということでベネウィッツを信頼していたが、彼がAPROに送る手紙は次第に奇怪なものになっていった。例えば彼は、ハンセンを掠った宇宙人は彼女の体内に追跡装置を埋め込んでおり、その装置で彼女の一挙手一投足を追跡しているほか、その思考もコントロールしているのだと断定していた。ハンセンの身の安全とベネウィッツの精神状態を懸念したAPROは、ビル・ムーアに彼の元を訪ねて調査をするよう依頼した。一方ではアメリカ空軍もまた、ベネウィッツの元を訪ねることをムーアに求めていた。空軍が彼に吹き込んだニセ情報がどれほど成果を上げているか確認したかったのである。

アメリカの情報公開法を通じて公開されたカートランド空軍基地の内部文書には、ベネウィッツに対する工作がどれほど迅速に進行したかが記されている。ベネウィッツ博士が、カートランド基地の警備責任者であるエドワーズ少佐に最初の目撃情報を報告したのは1980年10月24日だったが、エドワーズはこの件をAFOSIのドーティに引き継いだ。彼らの報告書にはその後の経緯がこう記されている。

    1980年10月26日、[特別捜査官の] ドーティは、空軍試験・評価センターの科学顧問であるジェリー・ミラーの協力を得て……ベネウィッツ博士と彼の自宅で面談した。その場所はアルバカーキ市フォー・ヒルズ地区で、この地区はマンザノ基地の北側境界に接している。ベネウィッツ博士は……電子記録テープを何本か示してみせたが、彼によればそれはマンザノ/コヨーテ・キャニオン地区から発せられている磁気が高まっている時期の記録だった。彼はまた、アルバカーキ地域上空で撮影された飛行物体の写真もいくつか提示した。彼は、いくつかの電子監視装置をマンザノに向け、高周波の電磁パルスを記録しようとしている。ベネウィッツ博士は、これらの空中物体がこれらのパルスを発しているのだと主張している……ミラー氏は、ベネウィッツ博士が収集したデータを分析した結果、何らかの未確認飛行物体が撮影されているのは確かだとした。しかし、これらの物体がマンザノ/コヨーテ・キャニオン地域に対して脅威を与えているかどうかについては結論が得られなかった。ミラー氏は、電子記録テープは決定的なものではなく、ありきたりな [磁気の] 発信源から得られたものではないかという印象を抱いた。この地域では他に目撃情報は報告されていない。

11月10日、ベネウィッツはカートランド空軍基地に招かれ、基地内の各部署の責任者たちに自身の調査結果を明かした。彼のプレゼンテーションが終わる時まで残っていたのはAFOSI(空軍特別捜査局)とNSA(国家安全保障局)の代表者だけであったが、彼らは、どういうワケかはわからないがベネウィッツは自分たちが実験的に行っている通信を傍受していることに気づいた――その通信というのは、彼らが知る限り、フィルムに映った光とは何の関係もないものだったのだが。NSAは彼が信号を傍受するのを放置しておくことにした。それによって、どのように彼が傍受をしているのかを把握し、自分たちにとって彼が何か役立つのかどうかを見届けようとしたのである。

11月17日、AFOSIの新たな協力者であるビル・ムーアは初めて彼らのオフィスに召喚され、UFO研究の現状についてに報告するよう求められた。リチャード・ドーティは会議後、AFOSI内部の機密通信のためのテレタイプ・ディスプレイをムーアに見せた。そこには新しい文書が表示されていた。そこには「秘密」というラベルが付けされており、ベネウィッツが撮影した3枚の写真と8mmフィルム2巻についての分析が記載されていた。文書の最後には「プロジェクト・アクエリアス」に関する言及があった。

1981年2月、ファルコンとドーティは、とある文書をベネウィッツに渡すようムーアに求めた。ひと目見た時、その文書は11月にテレタイプで見たものと同じように思えたが、よく見ると微妙に改編されていることに気づいた。その文書には次のように書かれていた。

    (S/WINTEL) 米空軍は公にはUFO研究に従事していないが、空軍は依然として米空軍の施設や試験場でのUFO目撃に関心を持っている。NASAを筆頭とするいくつかの他の政府機関は、偽装を施した上で真正の目撃情報を調査している。(S/WINTEL/FSA)
    そのような偽装の一例が、メリーランド州ロックビルにある米国沿岸測地調査所のUFO報告センターである。NASAは目撃情報の結果を然るべき軍事部門にフィルタリングして渡すが、公式な情報機関のチャンネル外に情報は配信されておらず、ただ「MJ12」に対してのみ制限付きのアクセスが許される。ベネウィッツに関するケースはNASAとINSによって監視されており、両者からは今後の証拠はすべてAFOSIを通じて送付するように要求されている。

1983年、空軍情報部はこの文書について「機密情報の不正な公開の可能性」というタイトルのもとで調査を行った。彼らはその文書にいくつかの問題があることを指摘しており、特にその情報源とされていたグレイス大尉という人物は実在しないこと、また文書の形式も機密文書にふさわしくないものであることを挙げた。さらに報告書は「この文書は文法的な誤りやタイプミスが多く、全体的に見て意味をなさない」と苛立ちを込めて指摘していた。つまり、この文書は偽造されたもので、専門家にとってはあまり説得力のあるものではなかった。問題はテクニカルなものだけではなかった。文書にはより根本的な問題があった。NASAがベネウィッツを監視しているという話は馬鹿げていた。NASAはカートランドに施設を持っておらず、監視業務も行っていなかった。また、米国沿岸測地調査所は1970年には業務を停止していた。この文書には「MJ 12」という当時誰も聞いたことのなかった組織への言及があったが、その名前はそれからの30年間、UFOコミュニティを悩ませることになる。

ファルコンとドーティは、ムーアに「プロジェクト・アクエリアス」の文書をベネウィッツに渡すよう執拗に求めた。彼らがムーアに他人を欺くよう求めたのはこれが最初で、ムーアはその一線を越えることをいったんは拒んだ。ムーアとベネウィッツはすでに定期的に連絡を取りあい、友人関係を築きつつあったからである。しかし彼の「調教師」たちは、もしムーアが協力しないのであれば、彼らの関係はその瞬間に終わると明言した。

ムーアはその夏、「サンダー・サイエンティフィック」社の研究所でベネウィッツにその文書を手渡した。これはベネウィッツが待ち望んでいた証拠であった。つまりそれは空軍が彼の研究を真剣に受け止めていることを裏付けるものだったし、ベネウィッツが正しい方向に進んでいることを示すものでもあった。「サンダー・サイエンティフィック」社が盗聴されていることを知っていたムーアは、ラジオの音量を上げて会話を聞こえないようにしつつ、誰にもこの文書を見せないようベネウィッツに懇願した。しかし、それは無駄だった。カートランドで得た通信や目撃体験や、そしてミルナ・ハンセンから引き出された情報が相俟って、ベネウィッツはいま・ここでエイリアンの侵略が進行していることを確信していた。彼はすでにアメリカ空軍に警告していたが、今やその警告は世界に発信されねばならなかった。

ベネウィッツはAPRO、地元の政治家(ニューメキシコ州の上院議員を含む)、元宇宙飛行士のハリソン・シュミット、さらには大統領ロナルド・レーガンにまで手紙を書いた。レーガンへの手紙には空軍長官室からの返信があり、空軍は1969年のプロジェクト・ブルーブックの終了と共にUFOの調査を停止したという標準的な回答が返ってきた。しかし、ベネウィッツはこれが真実でないことを知っていた。彼は、その時点においてカートランドでUFOを調査している空軍関係者を名指しで挙げることができたからである。

侵略者に対する活動を強化すべく、ベネウィッツはコンピュータシステムを改造して「エイリアン」の通信を解読し、繰り返される信号を、例えば「UFO」「宇宙船」「アブダクション」といった具体的な言葉に翻訳してみた。エイリアンの計画を理解できれば、空軍が彼らの侵略を防ぐのに役立つと考えたベネウィッツは、解読されたメッセージをAFOSIの友人たちに送り始めた。彼らはベネウィッツの行動に引き続き大きな関心を払っていた。

1981年の半ば、ベネウィッツは高名な天文学者にしてUFO研究者であるJ・アレン・ハイネック教授の訪問を受けたが、ハイネックは新しいコンピュータを持参していた。UFO界の権威の訪問に、ベネウィッツは自分が重要なことに関わっているのだという確信をさらに強めたことであろう。ハイネックは、1948年にアメリカ空軍のプロジェクト・サインへの協力を依頼されて以来、UFOに深く関わっていた。当初はUFO現象に懐疑的だったハイネックだが、後にこの現象が何か実在する未知のものを示していると確信するようになり、1960年代後半には空軍に反旗を翻した。ハイネックは1972年の著書『The UFO Experience』でプロジェクト・ブルーブックを偽装と断じ、UFOとの遭遇を分類する独自のシステムを紹介した。その中には、UFOに乗船している存在との遭遇を指す「第三種接近遭遇」というカテゴリも含まれていた。この用語はスティーヴン・スピルバーグによる1977年の映画のタイトルとして使われ、映画の壮麗なるクライマックス場面には、トレードマークのパイプをくわえたハイネックがカメオ出演している。

ベネウィッツを訪問した当時、ハイネックはUFO研究センターを運営しつつ、エバンストン大学で教授職を務めていた。また、空軍から年間5千ドルの報酬を受け取っていたとも言われている。ハイネックは空軍のベネウィッツに対する工作を知っていながら、それに加わっていたのだろうか? もしそうなら、カーネル・サンダースさながらに親しまれた「科学的ユーフォロジーのゴッドファーザー」というイメージは明らかに確実に大ダメージを受けることになっただろう。しかし、ビル・ムーアの主張によれば、ハイネック自身は彼にこう語っていたという――「誰から渡されたかは彼に話さず、特別なソフトウェアが入っているコンピューターをベネウィッツに届けるように空軍に言われたんだ」

ベネウィッツは新しいコンピュータをセットアップし、それが伝えてくれる精度のより高いメッセージの解読に没頭するようになった。その新しいメッセージの一部を見るだけでも、彼がどれほどエイリアンの幻想に取り憑かれていたかは明らかだ。「勝利。我々の基地は母船から補給を受ける。時間が引き裂かれた。メッセージは星を打ち抜く。若返り方法で問題を引き起こした。6つの空。あなたに話すこと全てが助けになる」。このようなテキストが何ページにもわたって続く。ムーアは、新しいコンピュータは「すべての単語、文章の断片、時には文章全体」を、ベネウィッツの家に向けて発せられる「互いに異なった様々なエネルギー・パルス」の一つ一つに割り振っているのではないかと考えた。誰かがポール・ベネウィッツの幻想に油を注いでいた。しかし、それは誰だったのか?

ベネウィッツが送ってくる「研究プロジェクト」の手紙がカートランドの注目を集めるにつれて、監視も強化された。彼は自宅や車が侵入されていると確信し、向かいの家はエージェントが占拠していると信じるようになった。ムーアはある日、白いバンが二人のそばに――それは中から二人の写真を撮るのに格好の位置だった――停まったことを覚えている。ナンバープレートの所有者をたどると、それはコロラド州の北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)に登録されていた。アルバカーキのフォー・ヒルズ地区は、国家の情報機関の遊び場になっているかのようだった。

こうした出来事がベネウィッツの精神状態に良い影響を与えるわけはなかった。1982年、ベネウィッツはムーアに対して「基地の向こう側にあるメサ地域に光が見える」と言い出し、これはUFOが人間を遺伝子実験のために拉致している証拠だと語った。しかしムーアが調査すると、この時は軍用ヘリコプターが一帯でサーチライトを灯して捜索救助訓練を行っていたことが判明し、その事実はカートランドも認めた。しかし、すべてが幻想ではなかった。ある日、ムーアがベネウィッツの自宅を訪れたところ、家の研究室の天井近くに直径約12センチメートルの黄色い光球が浮かんでいるのを目撃した。その光はわずかに揺れ、淡くて青い輝きに包まれていた。ムーアが驚いた顔をすると、ベネウィッツは「このオーブはよく現れるんだが、正体が何なのかはわからない」と言った。

20年後にグレッグ・ビショップのインタビューを受けたリチャード・ドーティは、彼と国家安全保障局(NSA)のエージェント2人がベネウィッツの家の周辺を嗅ぎ回っていたある夜、彼らもこうした光球の一つを目撃したと主張している。「それはオレンジ色で、内側がキラキラしていた」とドーティは回想している。彼らはその時、道路の上に立っていたのだが、ドーティはNSAのエージェントたちに「あれはあんたらのものか?」と訊ねた。だが、彼らは「違う」と答えた。3人はその光がどこかから灯影されているのではないかと探してみたが、光源のようなものを見つけることはできなかった。

カートランド基地の治安部と接触を持ってから1年もたたないうちに、ベネウィッツはパラノイアのフィードバックループに陥ってしまった。そのループは彼の疑念を強化する一方、彼が自らの内心を空軍情報部にさらけ出してしまう事態をも生み出した。深刻な緊張状態に陥ることなくこのような状況が続くことはおよそありえないのだが、ベネウィッツの苦難は数年間に及び、終末が訪れるまでさらに奇妙な事態へと発展していった。ムーアが後に語ったところによれば、パラノイアに取り憑かれているにも関わらずベネウィッツは「優れた話術」を持ち、聞いてくれる人には誰にでも話し続けたという。「ベネウィッツの話を聞いた多くのUFO研究者たちは、さらなる調査をすることもなく、彼の話を鵜呑みにしていた」。その結果、ベネウィッツのパラノイア的な幻想はUFOの地下世界へと浸透していった。AFOSIは人々のUFOについての考えを直接操作し、ビル・ムーアを通じてフィードバックを得ていたのである。教科書通りの心理作戦のシナリオであった。

ビル・ムーアが新しい「雇い主」のために行っていたのは、ポール・ベネウィッツと彼を介して流した情報を監視するだけではなかった。彼のロシア語の流暢さを活かした古典的なスパイ活動もあった。ソ連国内にいるアメリカのスパイは、アメリカのUFO研究者に向け、しばしば情報を求めるようなふりをして絵はがきを送っていた。「ほとんどのはがきは無害なものだった……しかし、私が受け取ったはがきの中には(ロシアの)施設、兵器システム、そして防衛に関して暗号化された情報が含まれていたものがあった」。ムーアはこのようなはがきを受け取ると、探知不能な政府の番号に電話し、その内容を読み上げた。その時点で相手は「ありがとう」と言い、電話は切れるのだった。これは、それぞれのはがきには意図されたメッセージの一部しか含まれておらず、それらが集められて全体像が完成するという仕組みであった。連絡が取れた後、ムーアははがきをワシントンD.C.の郵便私書箱に送り、その内容が何であったのかを知ることはなかった。

ムーアや、後に彼が信頼して引き込んだ仲間たちは、ニセモノかどうかを知らされずに文書を手渡されることが時折あった。1982年初頭、ファルコンはムーアに電話をかけてきて「識別信号」――つまりはパスワードを伝えてきた。それは何かが近々彼の手元に届けられるということを示していた。次いで2月1日、或る男がムーアのところに近づいてきて、そのパスワードを言ってからマニラ封筒を手渡した。封筒には、1980年8月と9月にマンザノ周辺で目撃されたUFOに関するカートランド基地内部のセキュリティ文書が含まれていた。その文書は、ベネウィッツの話を裏付けるために捏造されたニセモノだった可能性が非常に高いが、当時のムーアには自分がアクセスを許された文書がどんなものなのかは分からなかった。

1983年、ムーアはまもなく重要な情報を受け取ることになると告げられた。そこから奇妙な「無駄足だらけ」の追跡が始まった。彼は全国の空港を飛び回り、最後にニューヨーク州のホテルに到着した。そこで、運び屋が彼の部屋にやって来て、例のマニラ封筒を手渡した。ムーアは19分間、その内容を調べることが許された。その間に彼は文書の写真を撮り、その内容をテープレコーダーに吹き込んだ。

その文書は、ジミー・カーター大統領のためのUFOについてのブリーフィング資料だとされていた。カーターはかつて、アメリカ政府がこの問題について知っているすべての情報を公にすると約束していた人物である。文書には、1981年のニセのAFOSI文書で言及されていた「プロジェクト・アクエリアス」とマジェスティック12(MJ-12)グループについて、さらなる言及がなされていた。この新たな文書が示していたメッセージは、MJ-12という秘密の政府組織が、UFOやその搭乗員の問題に対処するため、そしてETが実在していることを秘匿するために、少なくとも1950年代初頭には立ち上げられていたというものであった。これらの文書は後にムーアとAFOSIの二つのルートから他のUFO研究者たちの知るところとなったが、それがしつらえた土俵の上では、やがてUFOコミュニティが歴史上最も壊滅的な打撃を受けることになる。AFOSIによって植え付けられたエイリアンの種は、手がつけられないほどに成長し始めていた。

1989年のMUFON大会で、ムーアはプレゼンテーションの最後にUFOに関する自らの「状況評価」を発表した。彼のいくつかの発言は、現在の私たちから見ても理にかなったものであったが、その他の発言は当時のUFOコミュニティにはびこっていたパラノイア状況を反映したものだった――その影響はムーアのような地に足の着いた研究者にも及んでいたのである。ムーアは聴衆に語っている。
    ▼高度に進化した地球外文明が地球を訪れており、彼らはいま・ここに来ていることについて私たちの認識を積極的にコントロールしている
    ▼少なくとも2つの政府機関の一部はこのことを把握しており、極秘の研究プロジェクトに取り組んでいる。そのうちの1つのプロジェクトは、一部のUFOが人間以外の何者かによる高度な技術の産物であることを証明するデータを有している
    ▼アメリカ政府のカウンターインテリジェンス部門は、少なくとも40年間にわたってUFO現象に関するニセ情報を流してきた。少なくとも2つの機関の高レベルの工作員がこれに関与しており、両者はある程度協力しあっている。彼らはニセの文書を作成しつつ、UFOコミュニティの研究者や体験者について内部通報者を使って情報を収集している
    彼らはなぜこうしたことを行っているのか? ニセ情報というのは、非常に高いレベルで存在し、ごく一部のエリートだけが知らされている「本物のUFOプロジェクト」を安全保障上秘匿するために用いられているのである。
    ▼それはアメリカ政府の研究開発プロジェクトから注意をそらすために役立つ
    ▼それは、三極委員会のようなグループ――つまり宇宙からの未知の脅威を持ち出して世界統一を実現するためにUFO現象を利用しているグループにとって助けになる
    ▼それは、カウンターインテリジェンスに携わる工作員が欺瞞・ニセ情報工作の訓練をする上で格好の手段となる
    ▼それは、人間社会に自分たちの存在をゆっくり認識させていこうとしてエイリアン自身が操作しているものである

三極委員会に関するコメントは無視するとして(これは当時拡大していた「新世界秩序」の陰謀論に関して数多くあった符号の一つだった)ここになお残る事実がある。つまり、ムーアはインテリジェンス・サービスによって張り巡らされた欺瞞の網に深く関与していたにもかかわらず、依然として「地球外生命体は地球に来ている」という揺るがぬ信仰を語っていた――という事実である。

AFOSIとの関係に絡み取られてほぼ10年経った後もなお、ムーアは「UFOシナリオなんてものは丸ごとインテリジェンスの策略なのだ」といって一蹴することがなかった。これは驚くべきことだ。しかし、彼は依然として信じていたし、さらに驚くべきことに彼の「調教師」だったリック・ドーティもまた信じていた。そして今。彼が暗闇から押し出されて17年たった後、ジョンと私は彼に会う準備をしていた。(09←10→11

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■第9章 リック

    リックのような人物とふらっと会って話をする。彼は「一般人として」心を打ち明け、全てをあらいざらい話す。そんなことがあり得ると考えている人間には口あんぐりだ。そんなことはありえない。
     ――ポール・ベネウィッツ(クリスタ・ティルトン宛の手紙より)

ラフリンUFOコンベンションは今や佳境に入っていた。空気で膨らませたマンガ風の巨大なエイリアン人形を前に、ジョンと私はロビーに座り、行き交う人々を眺めては「この中にリック・ドーティがいるのだろうか」と考えていた。仮にいたとしても、我々は彼を見分けられるだろうか? グレッグ・ビショップが警告してくれたところでは、彼が本を書くためにインタビューした際、ドーティの写真は撮ったのだけれど、これまでにリック・ドーティと確認された人物は少なくとも2人いたのだという。[訳注:ここの意味はよくわからない]  しかし、そんなことを言われても我々の捜索に役立つわけではない。大会は一週間続くが、この日は平日ということもあって、辺りには年配の退職者が多かった。通り過ぎる群衆をチェックしていると、こちらを見返してくる人もいた。彼らは潜入捜査官なのか、それともこちらのたたずまいが彼らの妄想をかきたてているのか?

ビル・ライアンは何度か私たちの前を通り過ぎていった。彼も監視されていると感じているようだった。「惑星セルポからの使者」としてコンベンションに参加しているビルは皆の注目を集めていたが、それが彼を少し悩ませ始めていた。「ここでは信じられないほどの政治的かけひきだとか妄想がうごめいている」。彼は通りすがりにそう話してくれた。「誰もが、信頼できるヤツ・できないヤツを私に教えようとする。誰もが今起きていることについて一家言もっているんだ」

グレッグ・ビショップは、このコンベンションでポール・ベネウィッツについて話す予定だったが、ビルに対して言っておきたいことがあった。というのも、リック・ドーティがUFO問題についてのビルの指南役を務めていたことが分かったからだ。「ビル、注意したほうがいい。リックが一枚噛んでいるなら、あまり深入りしないほうがいい。ベネウィッツに何が起こったかは知ってるだろ。セルポは政府のニセ情報か、さもなくば詐欺だ。いずれにせよ、ポールのように火だるまにならないよう心しなければいけないぜ」

しかし、ビルは毅然としていた。「たとえ真実が10%しかなくて残りがニセ情報だとしてもだよ、これは人類史上最大の物語なんだ。見過ごすわけにはいかないよ」。インタビューの依頼が山積みになっていたビルは、スポットライトを浴びる瞬間を楽しんでいるようだった。結局のところ、人が世界を変えるような僥倖に恵まれることはほとんどない――そういうことなのだろう。

私たちは催しを見ながら、その人を待った。プエルトリコ沖の海底にあるエイリアン基地についてのプレゼンテーションには大勢の聴衆が集まっていたが、グレッグの講演はそれほど多くの観客を集めなかった。ビル・ムーアの暴露から17年経っても、人々はまだ自分の身のまわりで起きていることに興味を示そうとはしなかった。

しかし、グレッグに注目していた一団もいた。それは以前から私の目を引いていた興味深いグループだった。彼らはどの発表の時も、出口に一番近いテーブルに座っていた。しかもそれをこの数日間、ずっと続けていた。そのうち2人は大柄でがっちりした30代と思しき男たちで、きちんとした身なりをしていた(1人はあごひげを蓄え、大きなカーボーイハットの下に整えられたポニーテールをたらしていた)。この2人に挟まれて座っていたのは、60代ほどで長年風雪に晒されてきたような風体の痩せた男だった。髪は灰色で眼光は鋭く、茶色の革製フライトジャケットを着た男は、仲間たちと同様に体調万全といった風であった――それは大会の多くの参加者たちとはおそろしいまでに対照的であった。彼らは軍から監視にきた人間か、さもなくば諜報機関のエージェントではないか。私はそう考え始めた。これまで学んできたことを考えると、ここにスパイがいないほうがむしろ驚きであった。その一方で、私たちは半ば公然の秘密であるエージェント、すなわちリック・ドーティを探していた。

彼は現れるのだろうか?グレッグもビルも彼は来ると思っていたが、私たちは半信半疑だった。UFOの歴史の中で最も悪名高く、信頼されず、さらには嫌われている人物の一人が、UFO研究者でいっぱいのホテルにフラリと現れるとは思えなかった。少なくとも変装しているだろう。そんな推測に基づいて、私たちはリック・ドーティの「候補者」たちに3段階評価をつけ始めた。ハワイアンシャツにショートパンツの男? うーん、2点。もしかしたらリックはヒゲを生やしているかも? 1点。彼は背が高いのか低いのか? もしかしたら写真ではカツラをかぶっていた? 0点。

3日目の午後も半ばを過ぎて、リック・ドーティが現れる気配はなく、我々は絶望し始めていた。この無謀なミッションを始めた時だって、実際に会えるどころか、彼と連絡を取ることすら難しいだろうと思っていたのだ。彼は結局謎のままであり続けるのかもしれない。

そのとき、私の目の前を灰色のフランネルのズボンが通り過ぎた。ポケットには会議のバッジがクリップで留められている。「リック・ドーティ」。私は椅子から飛び上がり、叫んだ。「リック!」

「やあ!君たちがイギリスから来た映画のクルーかい?」

リックは、私たちが見た写真通りの姿であった。50代半ば、短く整えられて灰色がかった茶髪、ワイヤーフレームの眼鏡、白とグレーのストライプの半袖シャツで、その胸ポケットにはペン。何の特徴もない彼は、諜報員というよりは普通の公務員のように見え、まったく目立たない。ワイルド・ビル・ドノバンというよりはむしろビル・ゲイツのような印象だ。完璧だった。

「変装して来ると思っていたのに。こんなUFO会議に出席するなんて危険じゃないんですか?」

「いや」と彼は甲高い笑い声をあげた。「ここにいるほとんどの人は私のことを知らない。UFO会議に来たのは久しぶりだよ」

リックは腰を下ろして話し始めた。彼は現在、国土安全保障省でコンピュータ関係の仕事をしており、さらに弁護士としての訓練も受けていると言った。彼は、UFOに強い関心を持つ「民間人」としてここに来ているのだと繰り返し説明した。それからの数日、「民間人」という言葉はリックの口から何度も繰り返されることになる――鼻にかかった、緩やかに上下する声で。「ホテルに到着して、部屋の鍵を受け取ろうと列に並んでいた時、数人後ろに国防情報局(DIA)の知り合いが並んでいるのを見かけたよ。彼は私を見て驚き、『ここで何しているんだ?』と聞いてきた。私は『ただの民間人だよ、他の人と同じようにUFO会議を楽しんでいるんだ』と答えたよ」

「国防情報局がこの会議に来ているんですか?」

「もちろん、UFO会議には必ず情報機関の人間がいる。ここにも数人いて、何が話題になっているのか、どんな目撃談があるのか、何を見たと考えているのかを探っている。今年は中国のUFO研究者の代表団も来ている。DIAの連中は彼らが何を目的にやってきたのか非常に興味を持っているだろう。でも私は、ただの民間人としてここに来たんだ」

突然リックが顔を上げた。ビル・ライアンが私たちのテーブルに現れたのだ。

「リック!会えて嬉しいよ。また後で話そう!やあみんな!」

「やあビル、何してるんだ?一緒にどうだい?」

「いや、招待されたビデオのプライベート上映会に行くところなんだ。生きているエイリアンへのインタビューさ。君たちも連れて行きたいけど、招待されたのは6人だけなんだ。また後で!」

ビルはロビーを歩き去った。その姿は水を得た魚のようで、彼はこのコミュニティの奥の院に既に居場所を見つけてしまったようだった。

「そのビデオは見たよ」とリックは軽蔑のこもった声で言った。「デタラメだよ」

彼はしばらくの間、私たち2人を真剣な目で見つめた。「君たちはビルと一緒じゃないよね?」

「一緒? いや、一緒にやってきたわけじゃありません、そういう意味だとしたら。ここでは彼を撮影するだけで、彼のことはあまり知らないんです」

リックはほっとした様子だった。彼はこれから行かなければいけない用事があると言ったが、夕食に一緒に行かないかと尋ねてきた。私たちは喜びを隠しながら同意した。

リックが姿を消した後、我々は思わずハイタッチをせずにはいられなかった。喜びいっぱいのニセ情報オタク2人組だ。なんてこった、UFO界の謎の男、リック・ドーティが夕食に誘ってくれたのだ。次は何があるのだろう? ひょっとしてリクルート?

その日の午後、グレッグ・ビショップにリックと会い、夕食に行くことになったと話した。

「おっと、それは楽しい時間になるだろうね」。彼はそういったが、少し困惑したようでもあった。「彼は面白い話をいくつかしてくれるだろう。間違いない。でも、よく注意して聞くことだね。彼の話は、聞くたびに少しずつ内容が違ってくるから」

■影の中での生活

「コロラド・ベル」は昔の外輪船をレストランに改装した店だ。あるいはレストランを外輪船に改装したと言うべきかもしれないが、どちらが良いのか言うのは難しい。ここで、リブとフライのクラシックなアメリカ料理を食べながら(ベジタリアンのジョンはサラダだったが)リックは諜報活動の話や武勇談で私たちを楽しませてくれた。彼は1960年代後半、エリア51で働いていたことがあると言った(エリア51はしばしばUFOとの関連が語られるネバダ砂漠の只中の極秘の空軍基地である)。1980年代には、モスクワの街角でスパイを追跡するためにロシアのおばあさんに変装したこともあったという。また、ブルガリアの国防大臣が従者と不正な行動をしているのを捉えるため絵画にカメラを仕掛けたこと、ロシア軍のソフトボールチームのアルミバットにマイクロフォンと送信機を隠した話などもしてくれた。さらに彼一流のハック技術も自慢してみせた――例えば、嘘発見器のテストから逃れる方法(「尻の筋肉を締めろ」)、曲がり角の向こう側を見ることができるレーザー(ただし「もう機密情報じゃないと思うけどね」だそうだ)、紫外線の痕跡を残すスパイ・ダストといったものの話で、それらは我々をおおいに驚かせた。

これらがリック自身の経験なのか、あるいは新しい接触相手に強い印象を残そうとする時のため、彼らのコミュニティで皆が共有できるよう代々伝承されてきたスパイの物語なのかは分からなかった。リックの軍歴にはモスクワやエリア51に関する記録はないが、もしこれらが機密任務だったなら、そうした記録はおそらく残されなかっただろう。実際のところ、リック・ドーティについて多くのことを知ろうとしてもそれは実に難しい。彼が語っていないことはまだまだたくさんあるのだ。

リチャード・チャールズ・ドーティはおそらく1950年にニューヨーク州バートンで生まれた。オンライン上の情報には、彼をニューメキシコ州ロズウェル生まれとするものがある。本当ならばステキだが、それはほぼ確実に間違いだろう。ただ、ドーティ家はニューメキシコ州と強い繋がりを持っており、UFOは実際ドーティ家の血筋の中に存在している。

1951年、リックの叔父で気象学を学んだ経歴のあるエドワード・ドーティ少佐は、米空軍のプロジェクト・トゥインクルの指揮を執ることになった。このプロジェクトは、1949年後半からニューメキシコ州のいくつかの重要な軍事施設の近くで目撃された奇妙な光を監視するものだった。これらの光は多くの場合緑色の火の玉で、音もなく長距離を飛行してから垂直に落下し、地面に落ちる前に燃え尽きた。それらはロスアラモス複合施設や、近くのカートランドおよびホロマン空軍基地の上空に繰り返し出現したが、これらの施設では当時、地球上で最も機密性の高い軍事研究が行われていた。火の玉の目撃者の多くは、軍人や情報機関の関係者、科学者たちであり、彼らの豊富な知識と経験を動員してもその正体を解明することはできなかった。多くの人は、こうした光は火炎弾やロケット、隕石のいずれでもないと考えていた。隕石専門家のリンカーン・ラパズ博士は、緑色の火球を含む2つのUFO目撃を報告していたが、これらの火の玉は人工的なもので、アメリカまたはロシアの機密技術であると確信していた。これは、やはり当時ロスアラモスにいたレオン・デビッドソンとも同様の考えだった。しかし、1950年にニューメキシコへの観測ステーション設置の試みが半ばで挫折したころには緑色の火の玉は徐々に姿を消していき、1951年、ドーティ少佐がその残務管理をしている間に、プロジェクト・トゥインクルはついに閉鎖された。

エドおじさんのUFO史における役割はさておき、リックは子供の頃、空飛ぶ円盤にほとんど興味がなかった。ただ、彼の兄はそれに夢中だった(年下のリックにとってそれは笑いの種であった)。1968年9月、リックはアメリカ空軍に入隊し、テキサス州のラックランド空軍基地で基礎訓練を受け、その後同じ州のシェパード空軍基地に配属された。ここまでは確実な情報であるが、ここから先、彼をめぐる話は急激に曖昧になっていく。

ドーティの軍歴によれば、彼はシェパード基地に警備隊員として勤務した後、ベトナムのファンラン空軍基地に派遣されたのだが、その間には何か驚くべきことが起こった……という話がある。グレッグ・ビショップは著書『プロジェクト・ベータ』の中でこの出来事を描写しており、ドーティ自身も自費出版の書籍『情報解除免除 Exempt from Disclosure: The Black World of UFOs』の中で再びこの話を取り上げている。その共著者は元空軍の物理学者だったロバート・コリンズであったが、彼もまたリック同様、ビル・ムーアの言う「鳥の群れ」、すなわちUFOに興味を持つ軍内部のインサイダーの一人であった。

この書籍の中でリックは、1969年7月、ネバダ州のインディアン・スプリングス空軍基地近くの極秘施設で、彼が任務に就いていた時のことを語っている。彼は3,500フィート×4,000フィート、高さ100フィートという巨大な格納庫の外で警備をしていたのだが、その中には「実験機」が格納されていると言われていた。ある日、その格納庫の扉が開き、牽引車によって大きな空飛ぶ円盤が引き出された。それは滑走路に1時間ほど置かれ、白衣を着た男性たちがああでもないこうでもないと何やらやっていたが、それが飛び立つことはなかった。リックがそこにいた45日間、現場では何度か同じようなルーチンが繰り返された。ある午後、民間人の「ミスター・ブレイク」と呼ばれる人物がリックに、空飛ぶ円盤について何か知っているか尋ね、さらに「今日見た物体が別の惑星から来た本物の円盤だと言ったらどうする?」と問いかけた。困惑する若い警備兵にブレイク氏は、いつの日にか、君が目にした乗り物の真実を知る日がくるだろうと言った。

この話はリックの「起源神話」とでも呼べると思うのだけれど、『プロジェクト・ベータ』の中では少し異なる形で語られている。こちらのバージョンでは、事件は明らかにエリア51で起こったことになっている。巨大で黒い円盤状の物体が滑走路に引き出され、それは静かに起動すると、青い電気のコロナに包まれて地上から200フィートほど浮かび上がる。ドーティはそのようなテストを何回か目撃したが、ある時、技術者が「これは大気圏外まで行けるかもしれない」と言うのを聞いたという。さらにまた別の時であるが、指揮官が(念のため言うとこれはミスター・ブレイクではない)ドーティにこう言ったのだという。「これは一般的にUFOと呼ばれるものであるが、我々のものではない。借りているのだ」。ここでも他のバージョンと同様、ドーティは「やがてこの乗り物についてもっと知ることになるだろう」と告げられている。

ドーティの証言は、UFO関連の文献によく登場する軍絡みの大ボラの典型だ。が、ここで我々は一つの行き止まりにぶつかる。これらの話は虚構なのか? アメリカ政府は本当に異星人の宇宙船を所有しているのか? それとも、彼らはこのような事件をデッチ上げ、被験者が予期せぬ事態に直面した時に冷静さを保てるかどうか、あるいは秘密を守れるかどうかをテストしているのではないか? 仮にそうなら、もし被験者が空飛ぶ円盤について口を滑らせても大きな実害はないし、被験者はたくさんいるUFO狂の一人として見られるだけだ。しかし、リックはその手の単なるUFO狂には見えなかった。

ベトナム後、ドーティはワシントン州のマッコード空軍基地に2年間配属され、その後、西ドイツのヴィースバーデンで3年間、門兵として勤務した。1976年、26歳になった彼は、サウスダコタ州のエルスワース空軍基地に異動となった。ここで彼は初めてUFOの真の力を垣間見ることになった(エリア51での飛行試験のことは措くとして)。この頃、エルスワースには戦略爆撃機とミニットマン大陸間弾道ミサイル(ICBM)が配備されており、冷戦期のアメリカの重要な軍事拠点となっていた。1975年11月、隣接する州ではミサイルサイロがUFOの目撃に悩まされ、奇妙なキャトルミューティレーションが相次いで発生していた。これらの事件はすべて米空軍の文書に記録されており、基地内でのウワサとなり憶測の対象となっていた。

これはありそうにないことに思われるだろうが、その当時、[タブロイド紙の] 「ナショナル・エンクワイアラー」誌はUFO情報に関しておそらくは最も大胆で、かつ信頼できる情報源となっていた。空軍が公式UFO調査機関の「プロジェクト・ブルーブック」を閉鎖してから5年がたった1974年の末、エンクワイアラー誌は民間UFO研究団体APROや全米空中現象調査委員会(NICAP)、そしてアレン・ハイネックを含む科学者たちと共同で、UFOに関する「ブルーリボン」パネルを設置した。これらのUFO団体は最も興味深い事例をエンクワイアラー誌に提供し、パネルが必要と認めた場合には同誌がさらなる調査資金を提供することになっていた。同時にエンクワイアラー誌は、UFOが実際に宇宙から来たことを証明できる者には100万ドルの報酬を、またその年のベストとされた事例の目撃者には5,000ドルから10,000ドルを提供していた。

1978年2月、スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』が爆発的なヒットを記録してからわずか3か月後、サウスダコタ州ラピッドシティの消印が押された匿名の手紙がでナショナル・エンクワイアラーのフロリダ支局に届いた。その手紙は、第44ミサイル警備中隊の司令官からのものとされており、前年11月にエルスワース近くのミニットマン・ミサイルサイロで起きたセキュリティ違反事案について記していた。またこの手紙には空軍の報告書も添えられており、そこにも事件の詳細は記されていた。

その手紙と文書によれば事の顛末は次のようなものだった。違反行為を調査するためサイロに派遣された2人組のセキュリティ警戒チームは、そこで緑色に光る金属製のスーツとヘルメットを装着したヒューマノイド一体と出くわした。その「存在」は武器を発射し、警戒チームの一人が所持していたライフルを溶かし(まるで『地球が静止する日』のように)、その男は両手にひどいヤケドを負った。もう1人の兵士は、このほかに2体の人影があるのを目撃した。彼はそのうちの1人の腕を撃ち、さらにもう1人のヘルメットを撃った。だが彼らは傷を負った様子もなく、丘を越えて姿を消し、30フィートの空飛ぶ円盤に乗り込んで高速で飛び去った。手紙には、サイロ内のミサイルからは核部品がなくなっていることが後に判明したと記されていた。

エンクワイアラーの記者3人――その中には後に独り立ちして著名なUFO研究家となったボブ・プラットもいた――はエルスワースに向かい、調査を開始した。しかし、調査が進むにつれ、物語はボロボロと崩壊しはじめた。事件に関わったとされる全員に話を聞いた結果、すべてはデッチ上げだったことが分かった。空軍の報告書は巧妙に作られたニセモノだったのだ。手紙に名前の挙がった人々は確かに基地で勤務していたが、その役職は手紙に記されていたものとは異なっていた。また、ファーストネームが実際と違っていた者もいたし、場所も混同されていた。チームは合計で20の誤りを発見し、エンクワイアラーは結局その話を記事化しなかった。しかし、エルスワース文書は、アメリカの防衛能力に対してETが関心を払っている証拠なのだという売り文句でUFOコミュニティにリークされ、後にポール・ベネウィッツの興味を引くこととなった。ボブ・プラットがこれは偽造だとする文章を公にしたのは1984年のことであった。

このエルスワースの手紙の黒幕は誰だったのか? リック・ドーティは当時エルスワースで勤務していたが、彼は「自分がAFOSIに採用されたのは1978年の春だった」として、この事件への関与を否定している。しかしこれは、AFOSIが後にビル・ムーアやポール・ベネウィッツに対してしでかした事に似ている。デッチ上げが公に暴かれたにもかかわらず、エルスワース文書というのはニセ情報を研究する上でのテキストといえるものである。彼らは、狙ったグループ(この場合は「ナショナル・エンクワイアラー」とUFOコミュニティだった)に対し、少なくとも最初だけはもっともらしく聞こえるような形でバカバカしい話を伝える。一見するとその文書は本物で、そのストーリーは裏が取れているように見えた。だからエンクワイアラー誌は数千ドルと延べ数百時間を無駄にしてこの事件を調査したのである。

では、なぜAFOSIはエンクワイアラーにニセ情報を流そうとしたのか? 出版社のUFOへの熱狂に水を差そうとしたのだろうか? ボブ・プラットは後にこう語っている――UFOのストーリーはセレブの物語ほど売れなかった。にも関わらず、エンクワイアラーの出版人であるジェネローソ・ポープ・ジュニアは、何万ドルもの資金を出して自分を世界各地に派遣し、UFOの話を取材させていた、と。プラットは、ポープが本物のUFO信者であったと考えていたが、「ポープには諜報機関とのつながりがあったのでは」と疑う者たちもいた。ポープは1951年、CIAによる心理作戦の訓練を1年間受け、その翌年にエンクワイアラー誌を買い取った。彼はまた、ニクソン政権で国防長官を務めたメルビン・レアードの親友でもあった。

エルスワースのデッチ上げには、「近隣のICBMサイロで1975年に侵入事件があった」というウワサから一時的に関心をそらす役割があったのかもしれない。あるいは、『未知との遭遇』に登場するような、平和を愛する異星人をおだてるための「引き立て役」を舞台に上げようとしたのかもしれない(この映画のラストはデビルズ・タワーを舞台としていたが、これはたまたま――といって良いのかどうかは不明だが――エルスワースからほんの数マイルしか離れていない)。ちなみにこの映画はUFOへの関心を大きく再燃させ、新たな調査の再開を求める人々の声は高まっていったが、それこそは空軍が避けたかったことだった。してみるとこれは、単にAFOSIが新たに採用した人間向けにニセ情報の訓練をしただけのことだったのかもしれない。

リック・ドーティが直接関与していなかったとしても、彼がその話を耳にしていたことは確実である。1978年3月までに、彼は下士官学校で6週間の訓練を受け、1979年5月にはAFOSIの一員としてカートランド空軍基地に配属されていた。ポール・ベネウィッツに対する工作は、彼が来てから数か月後に始まることになる。

■アクエリアス計画

リックと過ごしていると、彼がどうやってポール・ベネウィッツやビル・ムーアの信頼を得たのかがよく分かった。確かに、彼の話の中には真実味の感じられないものがいくらかはあった。彼の口からこぼれ出るそうした話には、どこかで伝え聞いたものといった感じがつきまとった。しかし、それは問題ではなかった。我々が話している相手はリック・ドーティなのだし、新しい友だちとの間で少しばかりホラ話が出たって何だっていうんだ?

ホルモン剤たっぷりの牛肉で満腹になった我々3人は――もっともジョンはレタスばっかりだったが――グレッグ・ビショップを探しに行くことにした。リックに、グレッグの著書『プロジェクト・ベータ』であなたは重要な役割を果たしていたが、自分ではあの本をどう思っているか、と尋ねた。リックは「あれは良い本だ」としつつ、「よく出来たニセ情報というのはみんなそうなんだが、あの本には正確な情報と不正確な情報が混在している」と言った。少し意外だったのは、彼があの本がそれほど売れなかったことに失望していると述べたことだ。リックは明らかに商才に富んだ人物であった。

総じていえば、リックは本というものについてあまり話したがらない傾向があった。彼は『情報解除免除 Exempt from Disclosure』にはほとんど関わっていなかったと言い、自分の名前を表紙に載せたくはなかったと述べた。ただし、改訂版の第2版にも彼の名前は記載されている。そして、我々との会話ではあまり触れたがらなかったが、リックは1980年代初頭、「出るかもしれない」とウワサされていた別の書籍プロジェクトに関与していたことがあった。その本は結局日の目を見なかったが、それが出ていればムーアやベネウィッツと関わっていた頃のリックのパーソナリティを覗き見ることができたのかもしれない。

1981年末までに、リック・ドーティとビル・ムーアの関係は次第に強固なものとなっていた。情報のやり取りは双方向で行われており、ドーティはプロジェクトのコードネームやUFO隠蔽工作に関与する人物のヒントなどをムーアに提供し、一方でムーアはUFOコミュニティ内部の最新情報をドーティに渡していた。ムーアは、ナショナル・エンクワイアラーの記事でUFOコミュニティからの信頼と尊敬を得るに至ったボブ・プラットとも密接な関係にあった。誰がこのプロジェクトを発案したのかは明確ではないが(ムーアとドーティは沈黙しており、プラットはすでに亡くなっている)、まずはドーティとムーアが、彼らが共有していた情報をまとめた本を出版する構想について話し合った可能性が高い。この本はムーアが成功を収めた『ロズウェル事件』の続編として計画されたもので、ドーティは「ロナルド・L・デイヴィス」という名義の内部情報提供者として登場し、ムーアとプラットは執筆を担当する予定だった。その本の素材は、ドーティがムーアを通じてポール・ベネウィッツに渡していたニセの政府文書と本質的には同じもので、ロズウェル事件後に始められ、なお継続している秘密のUFO調査の詳細が含まれることになっていた。

ボブ・プラットはムーアとの間の電話を全部録音していたので、そのテープから、ムーアは当初、書籍をノンフィクションとして発表することに固執していたことが明らかになっている。しかしプラットは、ムーアがドーティを通じて提供する素材には十分な証拠がないことに不安を感じていた。渋々ながらムーアはフィクション形式での出版に同意した。書名は最初『Majik 12』と名付けられたが、やがて『アクエリアス計画』と改題された。これはドーティがムーアに渡した偽造文書の名前から取った。プラットとムーアが構想したこの本は、愛国的なアメリカ兵士「D」の物語となる予定だった。主人公のDは、ベトナムでの過酷な任務から戻り、今は自国に裏切られたと感じている人物である。

Dは諜報活動部門にリクルートされ、ニセのUFO情報をバーコウィッツ博士なる人物(ほぼポール・ベネウィッツそのものだ)に提供する任務を受ける。Dはその後、サウスダコタ州のサイロにある核ミサイルに未知の物体が干渉しようとした事件を調査するよう命じられる(エルスワースでのデッチ上げ事件を題材としたもの)。Dは次第にアメリカ政府の奥深くに隠された超機密のUFOプログラムに気づいていく。これこそが「アクエリアス計画」であり、このプログラムを監督している組織が「マジェスティック」、または「MJ-12」である。

UFOをめぐる陰謀の深みに引き込まれていく中で、Dはイエス・キリスト、ムハンマド、アドルフ・ヒトラーといった歴史上の人物はすべて異星人に操られていたことを知る。ドーティからムーアに提供された情報を反映するように、Dは地球と関わっている異星人には3種類があることを知る。まずは北欧風の美しい容姿を持つヒューマノイドで(ジョージ・アダムスキーのオーソンに似た存在)、彼らは最初に地球に人類を根付かせ、密かに我々の発展を導いている。次は悪意あるグレイで、遺伝的収穫プログラムの一環として人類を誘拐したり家畜を切り刻んだりしている。そして3つ目の種族は、地球の天然資源を略奪しようとしている。アメリカ政府はこれらの異星人すべてを知っており、MJ-12を通じてそれらを監視し、時には高度な技術と引き換えに彼らと交渉していた。しかし、究極的にはMJ-12にこれらの異星人を阻止する力はなく、それ故に隠蔽工作が必要となっていた。国内に大混乱を引き起こすことなく、政府が市民に「我々の遺伝子や地球の資源は異星人の手のうちにある」と告げる――一体そんなことがどうすれば可能なのだろう? 真実に近づきすぎた我らがヒーローDは、人民には何が実際に起きているのか知る権利があると決断する。彼はビル・ムーアやボブ・プラットのような研究者たちに本物のUFO資料を漏洩し始めるが、最終的にDはMJ-12によって暗殺される。これは『未知との遭遇』の壮大な結末を悲惨な方向にひとひねりしたものになるわけだが、彼の遺体は異星人の一種族に引き渡され、彼らの惑星へと運ばれていく。

これはすべてフィクションなのか、それともリック・ドーティは本当に自らをUFOの真実を求める殉教者だと思っていたのか? 一番ありそうなことを言えば、ドーティはムーアに対して自らをそのように思わせたかったのだろう。彼とファルコンは当初、自分たちを政府のUFO政策に反対する内部告発者だと位置づけ、ムーアに本当のUFOの秘密を提供することを約束していた。作中で殉教者となるヒーローDは、いくつかの点でドーティとムーアの両方を合わせたような存在であって、真実を追求するために自らの尊厳、魂、さらには命までも危険にさらす人物だった。そうした役割というのは、ムーア自身も、1989年のMUFON講演に立った自らに投影したものだった。彼は、AFOSIと結託したのは正しいことだと本気で感じていたようであり、彼が受け取っていた情報の一部は真実であるとも信じていたようなのだ。

しかし、ドーティはどうだったのか?1989年、彼のUFOに関するニセ情報工作が公になった直後に書かれた手紙の中で、ドーティはこう述べている。

    地球が過去に他の惑星からの訪問を受けていたかどうか、私は個人的な決断を下すのに十分な情報を持っていません。もし政府での任務中にアクセスできた情報に基づいて決定を下すならば、こう言わねばならないでしょう。はい、地球は訪問を受けていました、と。しかし、私がアクセスできた情報が完全に正確であったかといえば、100%確信しているわけではありません。

これを彼が2006年に「UFOマガジン」に書いた記事と比較してみよう。「1979年初頭……私は特別区画プログラムに参加するよう指示された。このプログラムは、米国政府の地球外生物(EBE)に対する関与についてのものだった。最初のブリーフィングで、私は政府のEBEへの関与についてその背景を洗いざらい説明された」。我々はどちらのリチャード・ドーティを信じるべきか? そして、これはより重要なことだが、彼自身は何を信じているのだろう?

■イエローブック

ジョン、リック、私の3人は、グレッグ・ビショップと彼の婚約者のシグリッドと、「マディ・ラダー」というバーで会った――そこは薄暗い照明、鮮やかなネオン広告、スポーツ放送を流すテレビがあるアメリカ風の怪しげなバーで、ラフリンでは一般的なリバーボートの趣向が取り入れられていた。グレッグとリックの間にはギスギスした関係があったのかもしれないが、とりあえずは友好的な感じだった。グレッグは、あなたの言うことはあまり信じていないとリックにハッキリ言っていた(もっとも彼は誰も信じていないのかもしれないが)。一方のリックは、グレッグに対して時折トゲのある言葉を交えながらもジョークで返していた。ビールを飲んだ。というか、かなりの量を飲んだ。リックも飲んでいたが、彼が飲んでいるのを見たのはその時だけだった。

最初、UFOのことは話題に上らなかったが、酒が進むにつれて抑制が解け、最後にはなぜ我々がここに集まっているのかについて話さねばならなくなった。我々がETの訪問について懐疑的なスタンスを保っていたのに対して、ひとりリックは一歩も譲らなかった。彼はこう断言した。「ヤツらはここに来ていたんだ。アメリカ政府はヤツらのことを知っているし、証拠となる技術も持っている」

私は大声で、おそらくは大きすぎる声で、信じられないと言った。リックは最初、私の疑問の声に衝撃を受けたようで、その姿勢は自陣の防衛に回らねばならなくなった男のそれであった。より饒舌になった私は、さらに問い詰めた。するとリックは思いがけなく防御的な姿勢を取った。「そういうテクノロジーが本当にあるのは知っている。自分で扱ったからな」。彼はこう言った。

「何を扱ったんですか?」

「エイリアンの技術だ。クリスタル……ホログラフィック装置のようなものだ。それは『イエローブック』と呼ばれている。持ったこともある。長方形のクリスタルの板で、ハードカバーの本みたいだった。前面には左右にくぼみがあり、そこに親指とか指を置くと、何かが見える」

「何が見えるんです?」

「私に見えたのは言葉だ。他の人は映像を見た……言っておくけどあれは本物だった」

「パーム・パイロット [訳注:かつてあった小型電子手帳] を発展させた軍のテクノロジーかもしれないでしょう?」

「これはエイリアンの技術だ。単純なことさ。もしそこにいたなら、君もそう思うだろう。君が私を信じようが信じまいがどうでもいい。私はそこにいたんだからな」

そしてその会話は終わった。

いまこの時点で、「私は人を見抜くのが得意だから、リックが真実を語っていたことは分かる」とでも言いたいところだ。が、それはできない。私は酔っていたし、リックも酔っていたと思うし、他のみんなも酔っていた。ただ言えるのは、リックがその時に見せた防御的な態度、声に現れた高音の弱々しい感じ、肩をすくめる仕草、そうしたものすべてが小細工なしの生の姿に見えたということだ。その瞬間、私は彼を信じたのだ。

それ以降、私はこう感じている。リックは「地球は訪問を受けた」と本当に信じているのだ。彼がなぜそう信じているのか、どのようにしてそう信じるようになったのかはまた別の問題だし、我々には知る術がない。

もしかすると、リックはあまりにも長い間同じ嘘をつき続けたので、それを自分でも信じるようになったのかもしれない。しかし、私にはこう思われてならない。ブリーフィング、空飛ぶ円盤のテスト飛行、イエローブック等々、間欠泉の蒸気のように彼から湧き出してくるストーリーが作る迷路のどこかで、彼に確信を与えるような何かが起きたのではないか。

リックは何かを見せられた、あるいは少なくとも彼が信頼していた人々――友人や軍の上司――から何かを聞かされた。彼の語るスパイの話が別人の戦争体験の焼き直しと感じられるのと同じように、UFOの話のいくつかも彼自身のものではないのかもしれない。しかし、そうだったからといって必ずしもUFO問題が現実から遊離していってしまうとは言えない。アメリカ軍内部にはUFOやET(地球外生命体)への強い信仰の文化があり、ユーフォロジーにおけるアラジンの洞窟を垣間見ることを期待して軍に入ってきた者もいる。もしかしたら、本当に地球外の何かがそこに隠されているのかもしれないし、あるいはこうした遺物はすべて、単なる情報撹乱のための小道具にすぎないのかもしれない。そして、おそらくリックはそうしたものを見たのだ。

しかし、リック・ドーティを信じるかどうかにかかわらず、我々としては彼が人を欺く訓練を受けていたことも忘れてはならない。彼はカートランド空軍基地でAFOSIに所属していた時期に欺瞞工作をし、その25年後になってもなお、非常に奇妙な行動に関与していた。そして、それらはさらに多くのウワサを巻き込んでいくことになる。(10←11→12)



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■第10章 牛・盗聴器・地下のエイリアン

    第3条: 両締約国は、ミサイル警戒システムによって未確認の物体が探知された場合、またはこれらのシステムや関連する通信設備に干渉の兆候が現れ、そうした出来事が両国間の核戦争勃発のリスクを引き起こす可能性がある場合には、直ちに互いに通知をする義務を負う。
     ――米ソ偶発核戦争防止協定(1971年9月30日)

翌朝。もう会議の準備が始まろうとしている中、軽い二日酔いを引きずりながら、ジョンと私はフラミンゴの「アヴィアリー・ラウンジ」で落ちあい、常に用意されているコーヒーを喉に流し込んだ。それはユーフォロジストたちにとっての必需品だった。9時きっかりに始まる講演は午後5時まで続き、昼食の時間以外に休憩時間はなかった。本日の議題は次のようなものだった。2012年12月に何が起こるかを予測するイギリス人の話。それとはまた別のイギリス人による「英国軍がミステリーサークルの研究の隠蔽を図っている」という陰謀についての話。邪悪なネイティブアメリカンの霊がいるというユタ州の牧場についての発表。次元を超えたワームホールの話。そしてもちろんUFOである。

リック・ドーティが現れたのは午前10時半頃だった。我々に会えた彼は嬉しそうで、明るい表情だったが、実は朝の5時45分、会議に参加していた国防情報局(DIA)の知り合いに起こされてしまったということだった。DIAの職員が話をしたいというので、彼らはホテルの駐車場で会い、レンタカーに乗って町の外れまで移動し、そこで話をしたのだという。ただし、その内容は口外無用とのことだった。リックには、その日の午後にも同様な面談の予定があった。しかし彼は「こうした面談は公のものではないのだ」と言って、自分が「一般市民」として会議に参加していることを強調した。

その日のプレゼンテーションについて雑談をした。「スキンウォーカー牧場」という名で知られる、ユタ州のあの牧場はどうなんだという話になった。1990年代初頭、牧場の所有者は何頭かの牛がミューティレーションの餌食になっているのを発見した。血は抜かれ、生殖器は綺麗に切り取られ、耳(そして時には舌)は取り除かれ、直腸はくり抜かれていた。しかし、牛たちが抵抗した形跡は全くなかった。この異常なパターンには、1970年代に牧場主たちを悩ませた同様のミューティレーションを思わせるものがあった。さらに死んだ動物の近くにビッグフットのような生物が現れたり、空に奇妙な光が見えたりしたこともあった。

「スキンウォーカー? あれはデッチ上げじゃないのか?」とリックは一蹴した。「正直に言うと、こういった話の90パーセントはデタラメだ。真実はこういうことだ。宇宙人は存在している。そしてしばらく地球にいた。我々は2体を捕まえて、彼らのテクノロジーを手に入れた。そして彼らは1965年にセルポ・チームを連れて地球を去っていった。実際にあったのはそういうことだ。残りの話は全部たわごとだよ。特に例のアブダクションなんていうのはね」

「本当に?全部が全部?」

「まあ、一つだけ謎のアブダクション事件があった。(アリゾナ州)フォー・コーナーズの辺りで女性が誘拐されたんだ。ニューメキシコ、コロラド、ユタ、アリゾナの州境が接する辺りだ。あそこは岩とヘビしかない土地でね。彼女はある夜、車に赤ん坊を置き去りにしたまま連れ去られた。彼女の夫は空軍に所属していたので、AFOSIに調査を依頼したわけだ」。リックは笑ったが、突然真剣な顔つきになり、何か未知のものに直面したかのように一瞬黙り込んだ。「あれは何だったのか、結局わからなかったよ。私は家に素晴らしい望遠鏡を持っていて、それをコンピューターに繋いでいるんだ。深宇宙の天体を観察するのが好きで、そこには何があるのだろうと考えてしまう。向こうには何かがある。そう思っているよ。全体の35パーセントぐらいは分かってるると思うが、残りはね……まあ、何が起こっているのか知っているヤツはいる。それは確かなことさ」

我々が話していると、見覚えのある人物がテーブルに近づいてきた。講演の最中、2人の屈強な付き人と一緒にいた、あの風雨にさらされたような顔つきの男だ。彼は我々のテーブルを通り過ぎつつリックに目配せをし、意味ありげに「分かっているよ」といった風に頷いてみせた。我々はそれを見なかったかのように振る舞ったが、私は内心恐怖に震えていた。彼はリックと関係のあるDIAの一人なのだろうか?

スキンウォーカー牧場でのキャトル・ミューティレーションについて話しているうちに、話題はポール・ベネウィッツ伝説の中でも最も奇妙な側面へと移っていった(それはリックが直接関わっていたものでもあった)。それは新たなUFO神話の中でも特に強烈で妄想めいた部分の、その土台を作り上げたストーリーでもあった。ニューメキシコ州の小さな町・ダルシェ(ダルシー)は、アルバカーキの北方約200マイルにあって、コロラド州との境に位置するジカリラ・アパッチ族の居留地であるが、この町を見下ろすメサ(台地)の地下にはエイリアンの基地が隠されているというのだ。


会議が終わって一週間後、ジョン、グレッグ・ビショップと私はダルシェを訪れた。町に入ってまず気づくのは、その小ささと貧しさである。次に目を引くのは、周囲の景色の美しさである。緑豊かな谷は雪を頂いた壮大な岩山の間に広がっており、さらに周囲を圧するようにして、巨大な氷河を思わせるアルチュレタ・メサの壁がそびえ立っている。メサはもっともっと小じんまりした台地で、異星人の地下基地がある場所としてはあまりにお粗末なところだろうと考えていたのだ。しかしそれは実際には陸地に浮かぶ島のようで、長さは約25マイル、幅は10マイル、高さは場所によっては300フィートもある。ここならエイリアンの基地だって幾つも収まりそうだ。

ダルシェでもう一つ目を引くのは、周囲から浮いた感じの「ベスト・ウェスタン・ジカリラ・イン・アンド・カジノ」である。これは町の中心と思しき場所にあり、ハイウェイ沿いに建っている近代的で相当豪華なホテルである。入口の前には2頭の巨大なブロンズの馬が立ち上がっている。客を歓迎するのにはどうかと思うが、ホテルのスタッフは私たちを喜んで迎えてくれた。ギフトショップではUFOのTシャツまで売っていた。そこには「友だちは宇宙人の検査を受けたのに私はこのショボいTシャツだけ」と書かれていた。この目立たない場所がどうして不吉な場所としてここまでの評判を得たのか? その答えは、ポール・ベネウィッツの心の中と、AFOSIが生み出した壮大な幻影の中に隠されているのだ。

■臓器泥棒たち

1979年4月20日はリチャード・ドーティがニューメキシコ州カートランドでAFOSIの任務に就くちょうど一か月前であったが、上院議員で月面を歩いた元宇宙飛行士でもあるハリソン・シュミットはその日、アルバカーキでちょっと前例のないような会議を主催した。会議には、ニューメキシコ州、コロラド州、モンタナ州、アーカンソー州、ネブラスカ州から集まった牧場主や法執行官たちが出席し、彼らは一つの問いに対する答えを求めていた。「誰が、あるいは何が、彼らの家畜を殺し、切り刻んでいるのか?」。この会議にはポール・ベネウィッツも出席していた。そして、おそらくカートランド基地からはAFOSIの代表者も目立たないようにして参加していたのだろう。

多くの牧場主や地元の警察は、こうした殺害の下手人は人間だと確信しており、おそらくは魔女や悪魔を崇拝するカルトが関与しているのだろうと考えていた。しかし、カンザス州立大学で行われた検死が明らかにしたのは、牛は人間ではなく動物に襲われたのだということだった。それでも牧場主たちはこの説明を受け入れなかった。1974年の終わりには武装パトロールを組織し、血塗られた殺害者たちを捕らえる態勢を整えた。が、何も見つけることはできなかった。その間も家畜の死は続いてアメリカ中の牧場地帯に広がり、ついには全国ニュースにまでなった。

オクラホマ州とコロラド州で行われた公式調査はいずれも人間の関与を否定し、こうしたミューティレーションは自然死や捕食者によるものと改めて結論づけた。だが、それでもミューティレーションと見える現象はやまなかったし、ウワサも消えなかった。恐怖の波が広がっていくにつれ、ストーリーはさらに奇怪なものになっていき、ミューティレーションの現場付近で奇妙な光やヘリコプターが目撃されたという報告も増えていった。あるコロラド州の新聞は1974年、或る保安官がミューティレーションの現場で手術用の手袋やメス、そして牛の陰茎が入った軍用バッグを発見したと報じた。が、ミューティレーションにおける最も不可解な点は、犯人が音もなく現場に出入りし、痕跡を残さずに去ることだった。そのため、誰かがこの事件とUFOとの関連を考えるのは時間の問題であった。

1975年、モンタナ州は奇妙な現象の津波に見舞われた。キャトル・ミューティレーション、卵型の航空機や標識のないヘリコプターの目撃、空軍ICBMサイロ上空でのUFOの目撃。そして最も謎めいていたのは、銃撃を受けても平然としているビッグフットのような生物の出現であった。これは単なるカルトの仕業ではない。そんな疑念が強まっていった。調査のほとんどは地元の保安官が行っていた。地域の軍や空軍は何が起きているのかを知っている様子もなく、気にもかけなかった。そして連邦政府は関わり合いになるのを拒んだ。事態は収拾がつかなくなってしまい、牧場主たちは武装した民兵隊を結成して家畜を守ることになった。恐怖は地域社会に広がり、いつパニックが爆発してもおかしくはなかった。モンタナ州の高校では、学生たちが切断犯の最初の人間の標的になるというウワサが広がり、保安官が呼ばれて生徒たちを落ち着かせる事態にまでなった。それはまさに、CIAのロバートソン・パネルが1953年に警告していた非合理的なヒステリーの典型であった。

1970年代後半、ニューメキシコ州はミューティレーションの波に襲われていた。牧場主や地元の保安官は、上空を飛ぶ航空機に向けて銃をメクラ撃ちするようになり、今にも大きな事件が勃発しそうな状態になっていた。1979年のアルバカーキ会議は、シュミット上院議員が、家畜のみならず人間が傷害を負うようなことが起きる前に事態を収拾しようとした試みであった。この会議でポール・ベネウィッツは、ダルシェを拠点とするハイウェイパトロール隊員、ゲイブ・バルデスと初めて出会った。ダルシェは1975年以来、キャトル・ミューティレーションとUFO目撃に悩まされており、バルデスは地元の牧場主たちのために自ら調査を始めていたのである。

参加した会議が終わった翌週、私とジョンは、アルバカーキ郊外にある居心地の良さそうなバルデスの自宅を訪問した。現在は退職しているが、真面目で人当たりの良いメキシコ系アメリカ人である彼は、ミューティレーションの謎に今も強い関心を持っていた。1997年には、ラスベガスのホテル経営者ケビン・ビゲローが率いる超常現象研究組織「ナショナル・インスティテュート・オブ・ディスカバリー・サイエンス」のために、この問題に関する詳細な報告書を執筆していた。ちなみにビゲローは、私たちがラフリンで聞いたユタ州のスキンウォーカー牧場の調査にも資金を提供した人物である。

1970年代にまでさかのぼるバルデスの調査は、特に被害が大きかったマヌエル・ゴメスの牧場にスポットを当てていた。死んだり切断された動物のそばには、キャタピラの跡や紙片、計測器、注射器、針、ガスマスクなどが見つかった。また、ある現場では、レーダーを反射するチャフが一帯を覆っており、それは死んだ牛の口に詰め込まれていた。さらに、一部の動物は骨折していたが、手足にはロープの痕跡があり、宙吊りにされてから地面に落とされたことが示唆されていた。こんなことをした者の正体はともかく、これは人間によるもので、しかも組織的に行われたものだった。

モンタナ州と同様、ミューティレーションはUFOの目撃ラッシュと同期していた。バルデスや同僚たちは奇妙な飛行物体に何度か遭遇していた。ある時、バルデスのチームは野原でオレンジ色の光に肉薄したが、近づくとその光は消えた。それから、目には何も見えなかったのだが、彼らの頭上を芝刈り機のエンジンのようなくぐもった音が通り過ぎていった。これはまた別の時であるが、バルデスと2人の同僚は、円盤型でローターのない、まばゆいほど明るく光る物体を上空に目撃し、その真下にかがみ込むという体験もした。その物体が上空を飛び去った時に聞こえた音は「プップップッ」とか「カチカチカチ」といったもので、先進的な異星人の技術とはおよそ似つかわしくないものだったという。

ダルシェ周辺でのミューティレーションの凄まじさは、元サンディア研究所の科学者、ハワード・バージェスの関心も引きつけた。1975年7月のある晩、バージェス、バルデス、そして牧場主ゴメスの3人は、ミューティレーションの背後に人間がいるかどうかを確かめるため、直感に頼って或る行動に出た。3人は、まず100頭の牛の背中に紫外線ランプを当ててみた。すると、いくつかの牛には紫外線でしか見えない物質が付着していることが分かった。その印が付けられていたのは、すべて1歳から3歳の特定の品種であり、しかもゴメスの牧場で見つかった死んだ牛と同じ品種であった。ゴメスはすぐにこのプロファイルに合致する動物をすべて売り払った。

この発見を基に、3人は犯行の手口を再構成してみた。選ばれた牛にはカリウムとマグネシウムを含む水溶性のUVペイントで印が付けられており、これは犯行が行われる直前にマーキングがされたことを示していた。夜の闇に紛れて、犯行グループが手配した航空機がその地域に現れる。それから、周りからは見えないブラックライトのビームを使って、印の付けられた牛が特定される。選ばれた牛は、おそらくは空からライフルで鎮静剤を打ちこまれ、それからミューティレーションが行われる。それは現場の地上で行われる場合もあれば、運ばれていった他の場所でなされることもある(だから牛の中にはロープ痕が残ったものがある)。バルデスはそう考えた。バルデスは、切断犯たちはアルチュレタ・メサの頂上にある数多くの廃鉱の一つを手術室兼実験室として利用していたのだろうと言った。凄惨な作業を終えると、彼らは切断され血を抜かれた動物を牧場に戻し、それを不幸な牧場主が発見することになる――。

この問題に対するバルデスの情熱に疑いはなかったが、彼は同時に不安も感じている様子だった。ある時、彼はメサの頂上で軍事施設への入り口を発見したとほのめかしたが、さらなる情報を求められると即座に話すことを渋りだした。バルデスは何度かこうやって口を閉ざしたが、どうも彼は「言ってはならないことを言ってしまった」と感じているかのようだった。後に我々は、彼のためらいには相応な理由があったことを知った。1970年代に調査を進めていた際、彼は自分が監視されていると確信し、その疑念は電話機の受話器に仕込まれた盗聴器の発見によって裏付けられたのである。

とまれ、バルデスが私たちに語った内容は驚くべきものだった。コロラドスプリングス近郊のフォートカーソン基地はここから約300マイル北方にあるが、彼の考えによれば、軍はここからダルシェ地域までヘリコプターを飛ばしており、アルチュレタ・メサをキャトル・ミューティレーションの言質拠点として利用していた。さらに彼は、家畜切断犯の航空機に加えて「本物の」UFO、つまり空飛ぶ円盤が、おそらくは別の政府機関によって飛ばされていたのではないかとも示唆した。これは事態をさらに混乱させるため、さもなくば少なくとも地元の住民を混乱させるためだった、と彼は言った――この発言には私たちも困惑したのであるが。

では、バルデスをはじめとする人々がダルシェ上空に出現するのを目撃した、「カチカチ」という音を発する謎の航空機とは何だったのか。それは、陰謀論でよく語られる伝説の「黒くて音を立てないヘリコプター」だったのだろうか。テクノロジー時代における神話として「音を立てないヘリコプター」というのはUFOと同様強力であり、これまでずっと妄想狂が抱くもう一つの幻影と見なされていた。もっとも、もし音を立てないヘリコプターが実在するならば、なぜそれが戦場だとか一番役立つはずの都市作戦で使用されないのかという疑問が生じる。その答えは「それは実際は使用されていた」というものである。我々はそのことを最近まで知らなかっただけなのだ。音を立てないヘリコプターはただ実在するというだけでなく、1972年にはすでに飛行していたことが明らかになっている。それはヒューズ社の500P(Pは侵入者の意)と呼ばれるヘリで、操縦した者たちはこれを「ザ・クワイエット・ワン(静かなヤツ)」と呼んでいた。

国防総省の高等研究計画局(ARPA、現在のDARPA)は、1968年からサイレントヘリコプターを開発しようと試み、そのベースとしてヒューズ500という軽量観測ヘリコプターを使用していた。その成果を現場で活用したのはCIAであり、特殊作戦局航空部門用に2機を購入、南東アジアで秘密任務を行う悪名高きい「スパイ」会社、エア・アメリカに提供した。

このヘリコプターの存在に対して常々どのような議論がなされていたかを考えると皮肉なことではあるのだが、クワイエット・ワンは、ロサンゼルス警察がその活動に際してあまり騒々しくない都市用ヘリを求めていたところから生まれた。ヒューズ社は最初、500型のテールローターのブレードを2枚から4枚に増やし、それらをハサミのように配置することで、騒音を半減させた。ARPAはこのロサンゼルス警察のヘリコプターの話を聞いて静かなヘリコプターは自分たちにも非常に役立つことに気づき、さらなる研究に資金を提供した。

ヘリコプターの「ワップワップ」という音は「ブレード渦相互作用」によって生じる――言い換えれば、ブレードの先端が高速回転によって生じる小さな竜巻を叩くことで発生する。ヒューズ社は、メインローターにブレードを1枚追加し、かつブレード先端の形状を変更することで、この効果をほぼ完全に排除できることを発見した。さらに500型の排気口にはマフラーが取り付けられ、空気取り入れ口には防音板が設置され、機体全体が鉛とビニールパッドで覆われた。その結果、完全に無音ではないものの、その音はヘリコプターのそれとは思われないものに変わった。クワイエット・ワンはほぼ無音というだけではなく、ほぼ不可視でもあった。赤外線カメラを搭載し、灯火を使わずに飛行・着陸することが可能だったからだ。だが、この機能は当時の軍事技術の最先端であったものの、改良初期につきものの多くの問題に悩まされた。

クワイエット・ワンのテスト飛行はエリア51とカリフォルニアで行われたが、その飛行中にいくつかのUFO報告を引き起こした可能性がある。そして1972年、クワイエット・ワンは実戦配備された。CIAの2機の500Pがラオスのジャングル奥深くにある秘密の飛行場に運ばれたのである。クワイエット・ワンの存在は誰にも知らされていなかった。写真撮影は禁止され、このヘリ用に偵察機や衛星の目を逃れるために特別な格納庫が用意された。クワイエット・ワンは非常に静かだった。基地に駐留していた兵士たちは、このヘリが上空を通過する際、その音は遠くを飛ぶ飛行機のそれのように聞こえたと言っている。そんなシロモノを目前にした者はさぞや仰天したことだろう。しかし、そのほとんど魔法のような能力にもかかわらず、クワイエット・ワンは現場ではそれほどうまくいかなかった。1972年12月、一機は敵地背後に盗聴器を設置する任務に成功したが、もう一機は訓練中に壊れてしまった。生き残ったヘリコプターはカリフォルニア州のエドワーズ空軍基地に戻され、解体されたとされる。

クワイエット・ワンの記録はワシントンDCにあるCIAのフロント企業「パシフィック・コーポレーション」に行き着いたが、その先どうなったかは不明で、ヒューズ 500Pや他の「静かな」ヘリコプターについてそれ以降の記録は存在しない。しかしそれは、こうしたヘリが以後製造されなかったということを意味するわけではない。その予算は政府の拡大し続けるブラック・バジェットの中に隠されていた可能性がある――もちろんそんな証拠があるわけでもないが。クワイエット・ワンの話が示しているのは、このような航空機の技術が1972年末にはすでに完全に実現していたということで、「その後継機が1975年までにはモンタナ州やニューメキシコ州上空を飛ぶようになっていたかもしれない」と考えても、そこにさほどの飛躍はないということである。この地域で目撃された謎のヘリコプターとミューティレーションの因果関係を証明することはできないけれども、ゲイブ・バルデスと彼の仲間たちは、ダルシェのあの夜、頭上を急襲された。そしてミューティレーションされた家畜のそばには誰かがガスマスクや軍の備品を残していった。なお疑問は残る。誰がやったのか。そしてなぜ?

■狂った牛と平和的な爆弾

ハリソン・シュミットの会議の後、すなわち1980年に出たFBI報告書が結論づけたように、いわゆるキャトル・ミューティレーションのいくつかは動物の自然死や捕食者の襲撃によるものであって、それが不安を感じた牧場主によって何やら邪悪なものへと変えられてしまった可能性が高い。しかし、捕食動物が牛にUVペイントをつけたり、ヘリコプターを飛ばしたり、残骸を残したりしていたという考えに納得できないなら、そして人間ではない宇宙人や悪魔といったものを持ち出さないのであれば、犯人として残るのは人間である。

パニックが起きた初期、牧場主や報道機関は、犯人をカルトの信者、つまり悪魔崇拝者やウィッカ信者、あるいは変質者と考える傾向があった。未確認の目撃証言の中には、ローブを着た人々が畑や道路沿いを歩いていたというのもあるが、こうした不気味な輩に話しかけたり、その行き先を確認したりした者はおらず、この線の調査はすぐに行き詰まってしまった。ミューティレーションの現場の多くがアクセスしにくい場所にあること、動物の不審死には奇妙な光やヘリコプターの目撃がつきものであることから、調査官たちは別の方向に答えを求めることになった。

1975年にモンタナ州でミューティレーションが相次いでいた間、地元住民はその時期にICBM(大陸間弾道ミサイル)サイロの上空で目撃されていた謎の光と動物の死とを結びつけた。少なくとも幾つかの事例において、その光体は、ダルシェ周辺で「プップップッ」という音を立てながら飛んでいるのが目撃された飛行機と同じものだったのではないか?モンタナ州の核ミサイルサイロ上空を飛んでいたのは特異な照明装置を備えた静かなヘリコプターで、その目的なサイトの警備体制をテストし、担当者が謎の航空機にどう反応するかをチェックするためだったのではないか? 兵士たちは、その航空機に発砲したりスポットライトを当てたりしないよう命じられていたと言われている。もしそれらが本当にどこから来たのかわからないものであったのなら、これは奇妙な命令である。あるいは、その侵入行為は、その少し前にノースダコタ州ネコマに建設された弾道ミサイル防衛システム、「セーフガード」の目標追尾能力をテストするためだったのかもしれない。この複合システムは全国的な防衛ネットワークの一部として唯一完成したものだったが、1976年に解体された。おそらくそれは「友好的な幻の航空機」を発見するのにあまり役立たなかったのではないか? いずれにせよ、そのどちらの説でも――あるいはまた別のものでもいいのだが――地元の法執行機関が軍によってツンボ桟敷に置かれていたことの説明はつく。彼らは単に知る必要がなかったのだ。

こうしたモンタナ州での事件は地元の新聞ではしばしば報じられていたが、全国紙で取り上げられたのは4年後で、1977年に『ナショナル・エンクワイアラー』へのリークがあった後のことだった。その直後、つまり1978年にはエンクワイアラー誌にニセのエルスワース文書が送られたワケだが、そこには事件をETやUFOに結びつけようという狙いがあったようだ。それはおそらく、全国紙がさらなる調査を行うことを防ぐための策略であった。大手新聞の記者たちにとってICBM事件に関心を持つことは、すわなち変人やUFO陰謀論者、そしてより悪いことには『ナショナル・エンクワイアラー』と同列に見られてしまうことを意味していたからだ。

我々はミューティレーションが如何に行われたかについて幾つかの手がかりを得たが、なおそんなことが行われたのかという動機を問わねばならない。「ETによる遺伝子実験」説を除けば、この現象は疫学に関係していると考えるのが一番もっともらしい説明ということになる。多くの研究者は、このミューティレーションが秘密の研究や実験の一環であった可能性を提起している。切断者が取り去るのは、ふつう唇、舌、肛門、乳房、そして性器であるわけだが、これらは汚染や感染の影響を最も受けやすい部位である。つまりは動物が食物を摂取したり排泄したりする柔らかな部分であり、バクテリア、ウイルス、化学物質が最も出入りしやすい部分、そして人間からすればそうしたものを一番見つけやすい場所である。さて、それではその正体不明の人間は一体何を探していたのか?

一つの可能性は放射線である。その意味では、ダルシェ周辺というのはアメリカの核の歴史においてとりわけ特異な位置を占めている。ダルシェの南西約25マイルに位置するカーソン国立森林公園には、周囲が開けた場所に小さなプレートが設置されている。そこには次のように書かれている。

    低生産性ガス貯蔵層に刺激を与えるためアメリカで最初に行われた地下核実験の場所。29キロトンの核爆弾がこの場所の地下4227フィートで爆発した。(1967年12月10日)

この爆発は、核の平和利用を目的とした「プラウシェア計画」の一環で、天然ガスで満たされた直径80フィート、高さ335フィートの空洞を作り出し、一定の成果を収めた。残念ながらガスは爆発によって危険なレベルの放射能を帯びてしまったため、商業的価値は失われ、この場所は永遠に封鎖された。ミューティレーションを行った者たちは、このガスバギー実験による放射線が周辺地域に漏れ出し、環境に与えた影響を調べていたのではないだろうか?

より最近では、分子生物学者のコルム・ケレハーが、キャトル・ミューティレーションとプリオン関連疾患、すなわち狂牛病(BSE)と呼ばれるウシ海綿状脳症の広がりとの関係を指摘している。ケレハーが示唆するところでは、ミューティレーションは野生の鹿やエルクに見られる慢性消耗病(CWD)の発生と結びついており、CWDやBSEを引き起こすプリオンは野生の鹿から家畜の牛へと種の壁を越えて移り、最終的には人間の食物供給に入り込んだのではないかという。彼は、このプリオン感染の起源はメリーランド州のベセスダやフォート・デトリックにある米政府の研究所にまでさかのぼることができるとしており、そこには致命的な神経疾患であるクールー病に感染した人間の脳が1950年代後半からずっと保管されているのだという。

この二つの疫学的説明のいずれもが、ミューティレーション現象に関してしばしば提起される疑問の一つに答えている。もし政府や他の機関が家畜の不審死の黒幕ならば、実験用に自ら牛を購入して繁殖させればよいではないか、という問いだ。その答えは「彼らが必要とするサンプルは、最終的に私たちのハンバーガーになる牛そのものだからだ」ということになる。しかし、なぜ彼らは遺体を置き去りにするのだろうか。これは答えるのがより難しい問題である。遺体を処分するのが難しかったのかもしれないし、「牧場主が高価な家畜の保険を請求できるようにしてやろう」という意図があったのかもしれない。あるいは、「牧場主たちは恐怖のあまりさらなる調査など行わないだろう」と考えたのかもしれない。また、悪魔崇拝や血に飢えた宇宙人のウワサが広まったことで、切断者たちはその奇妙な行為によって生まれた混乱が自分たちに有利に働くと感じたのかもしれない。

本当のところは、我々にはまだ分かっていない。しかし、ミューティレーションは北米や南米で今なお続いている。牛の群れがいる場所であれば、そう遠くないところに切断者たちもいるのだろう。それはUFOの目撃報告も同じことである。

■エイリアン基地の建設方法

1979年にアルバカーキで開かれたミューティレーション会議で、ゲイブ・バルデスがポール・ベネウィッツに出会った頃までには、牛の死亡事件とUFOとを関係づける考えはしっかり確立されていた。そして、1980年5月25日、コロラドで発生したミューティレーションをテーマに、リンダ・モールトン・ハウが脚本・制作を手がけたドキュメンタリー『奇妙な収穫 A Strange Harvest』が、ET犯人説による説明を国中に広めた。このドキュメンタリーには、エイリアンに誘拐された人物に対してコロラド大学の心理学者でUFO研究者のレオ・スプリンクルが行った逆行催眠の模様も描かれていた。こうなってみれば、スプリンクルとベネウィッツがルナ・ハンセンを催眠にかけた際(彼女は同年5月初めに「アブダクションされた」といってベネウィッツに助けを求めてきたのだ)、彼女が「連れ去られた地下基地で、子牛と人間が切断されるのを目撃した」と述べたのも決して不思議なことではあるまい。

アルバカーキでの会議の後、ベネウィッツとバルデスは文通を続け、最終的にはダルシェ地域でミューティレーションの謎を解明するための共同調査を行うようになった。ダルシェは、ベネウィッツのET神話において徐々に重要性を増していき、1981年半ばまでには、彼は「エイリアンたちはアルチュレタ・メサの奥深くにある基地からアブダクションとミューティレーションのミッションを実行している」と信じるようになった。もちろん、彼はこのことをリチャード・ドーティやビル・ムーアに伝えた。この時までAFOSI(空軍特別捜査局)が行ってきた工作は、ムーアを経由して渡すニセ文書や、コンピュータを通じて送られてくる「ETのメッセージ」でベネウィッツの妄想をさらに煽ることであった。ドーティの役割は、友人としてベネウィッツに接近し、UFOやETについての彼の研究が「正しい方向に進んでいる」と穏やかに励まし、後押ししていくことだった。そこで事態はさらに劇的な展開を見せ始める。

ベネウィッツの関心をカートランドから逸らすべきタイミングだと考えたAFOSIは、彼が地下基地だと信じているアルチュレタ・メサを、よりそれらしく見せかける準備を始めた。夜の間に古びた軍事装備が曲がりくねった山道を越えてメサの頂上まで運ばれ、小屋や壊れた車両、通気孔といったものが計算づくで配置された。そこが活動の行われている場所であるかのように装ったのである。さらに低木を取り除いて、そこがヘリコプターの着陸パッドに――そしておそらくはUFOの着陸地に――見えるようにした。ドーティはさらに、雲の上に光を投影するシステムを設置したとも言っている。UFOの目撃報告を増加させて、ベネウィッツやバルデス、その他の人々を引き続きその場所に引きつけようとした、というのである。

地下基地にはスタッフもいるよう見せる必要があったため、カートランドの特殊部隊ユニットがその地域に派遣され、忙しく活動しているように見せかけた。AFOSIは、メサの反対のコロラド側にあるフォート・カーソン陸軍基地にも連絡し、その場所を訓練演習に使用するよう提案した。ドーティによれば、AFOSIはこうした陸軍演習に補助金を提供し、「こうした動きは反ソビエトの諜報活動の一環なのだ」と説明した。これはある意味で本当にそうだった。ある時、ゲイブ・バルデスとテレビクルーは、ベネウィッツと共に地元のUFO目撃についてのニュースを撮影していた。すると、ブラックホーク・ヘリコプターが彼らのヘリを追尾してきた。慌てたニュースクルーは着陸し、ブラックホークもそれに続いた。バルデスは乗っていた黒ずくめの兵士たちに対し、自分はハイウェイ・パトロールマンとしての管轄権を有していることを主張して怒りをぶつけたのだが、追い払われる前に一人の兵士のパッチをよく見た。それはフォートカーソンのエリート部隊であるデルタフォースのものだった。

ベネウィッツ自身も熟練したパイロットだったから、彼はエイリアン基地の入口を探してメサ上空を定期的に飛行していた。また、リック・ドーティとカートランドの警備主任であるエドワーズ大佐に案内され、少なくとも3回、通気孔やその他の設備が設置されている場所を見せられた(もちろんそれらの設備はAFOSIが取りつけたものである)。AFOSIの勧めもあって、ベネウィッツは基地に関する報告を定期的にUFOコミュニティに配布したが、そこには自分で撮影したボンヤリした「UFO」だとか、不明瞭なメサの地表の写真も添付した。こうした報告は、ダルシェのエイリアン基地にまつわる精巧な神話を生み出したが、そうした神話の中には基地内部の詳細な図だとか、米軍と基地内のET居住者の間の壮絶な対決を描いたストーリーなどといったものも含まれていった。

もっとも、ベネウィッツは1985年の後半、実際に何かしら普通でないものに出くわしていた可能性がある。ベネウィッツがいつものようにカメラを携えてメサ上空を飛行していると、メサの最もアクセス困難な場所の一つで、彼が言うところの「墜落したデルタ翼の航空機」を発見した。ベネウィッツはすぐに、この目撃情報をゲイブ・バルデスやビル・ムーア、ニューメキシコ州のピート・ドメニチ上院議員などを含む幅広い連絡先に報告した。彼はその墜落機の写真を数多く撮影し、いくつかを米空軍に提供したが、その他の写真は盗まれた可能性が高い。彼の当時の手紙によると、これはよくあることであった。現在残っているのは、彼の描いた墜落機の図と、片付けられた後の現場写真だけである。ベネウィッツは手紙の中でこう言っている――その残骸は米空軍が秘密裏に飛ばしていた核動力のテスト機なのだが、一帯をコントロールしているのは誰かを政府に思い知らせるべくエイリアンによって撃墜されたのだ。現場には墜落機の燃料電池から漏れ出た放射線が染みこんでおり、ベネウィッツはこのことを非常に案じていたという。

同年11月初め、ゲイブ・バルデス、ベネウィッツ、ジカリラ族の一人、そしてドメニチ上院議員から派遣された政府科学者は、ガイガーカウンター持参で苦労して現場に到達した。放射線は検出されなかったが、墜落の痕跡は見つかった。倒れた木や地面に残った溝、そしてバルデスによると、政府支給のボールペンが一本あったという。

ベネウィッツが目撃したのは墜落したステルス機だったのだろうか? それは十分にあり得ることだ。F-117A ステルス戦闘機は少なくとも1981年から飛行していたが、1988年まで極秘にされていた。ベネウィッツの描いた図により類似しているのはB-2 ステルス爆撃機であるが、その開発は1981年に始まり、1985年までには試作機が飛行していた可能性がある。もしその飛行機の一機がメサで本当に墜落したのなら、空軍が放射線の話をでっち上げて、掃除が行われる間、ベネウィッツや他の好奇心旺盛な者たちを遠ざけようとした可能性がある。この時点でドーティはすでにこの事案から外れていたが、AFOSIは依然としてベネウィッツを監視していた。「道に迷った物理学者がエイリアンを探していた場所で偶然空軍機の残骸を見つけてしまった」ということであれば、その皮肉にAFOSI本部では目を丸くした者がいたに違いない。

■ダルシェへの道

これらすべては20年以上前の話であるが、ダルシェ周辺では今でも時折UFOが報告されており、この場所には未だ揺るぎない神秘のオーラが漂っている。奇妙な過去の痕跡が、これから現代の好奇心旺盛な探求者たちによって発見されるようなことはあるのだろうか?

ゲイブ・バルデスは、ジョンと私に「かつてミューティレーションの実験室があったかもしれないメサの古い鉱山へと続くアクセス用のトンネルを知っている」と話してくれ、嬉しいことには私たちとグレッグ・ビショップをそこへ案内してくれると約束してくれた。しかし、私たちに出かける準備ができた頃には、ジカリラ族が一帯でのテレビクルーの撮影を禁止することを発表していた。一つの理由としては、ゲイブが日本の撮影クルーを許可なくメサに案内したことがあったという。秘密の実験室には行けないことに失望したが、私たちはそれでもダルシェを訪れることにした。

ジョンが山の中で撮影をしている間、グレッグと私はメサに近づき、万が一質問された場合に備えてウソの話を作り上げた。グレッグは熱心なパラグライダー乗りだったが、アルチュレタ・メサというのは小さなモーターとパラシュートを背に大空に飛び込むのには最適な場所だった。グレッグのパラシュートをトランクに積み込んだ我々は、メサの麓へと続く小さな曲がりくねった道を進み、上へ登っていく。メサの底まで約3マイルの道のりで、私たちは牛たちや雷で焼かれた木々を通り過ぎた(牛は無事だった)。グレッグと私はメサの引力、未知のものが放つ緊張感を感じ取った。それはまるでラジオ信号のように頂上から発信されているかのようだった。ここは我々にとっては巡礼の地であった。頂上に近づくにつれ、道端に明るい赤い看板が現れ始め、ここはジカリラ族の私有地であると警告していた。許可なく入ると逮捕され、多額の罰金が科せられることにもなりかねない。ダルシェの留置所で一夜を過ごすつもりはない。私たちは引き返して、町の別の場所を探索することにした。

ベストウエスタンホテルの近くにある、寒々しいコンクリートで覆われた集会所で、私たちは二人の酔っ払ったインディアン、ハンフリーとシャーマンに出会った。いずれも年齢はおそらく40代。アルコール依存症はインディアン居留地における重大な問題である。失業率は高く、インディアンの住民はダルシェで生活するためにかなりの補助金を受け取っているが、それでも多くの人が酒に溺れてしまう。

二人のうち、より酔っていたのは、狂気じみた目をした長髪のハンフリーであった。シャーマンはかなり整った外見で、悲しそうな表情をしていた。彼らは異父兄弟だと私たちに話してくれた。多くのインディアンと同じように、シャーマンは幼い頃に複数の居留地を転々としていたが、現在はダルシェが自分のふるさとだと感じていた。ハリウッドの西部劇で育った私たちは、インディアンを砂漠の住人と考えがちだが、シャーマンは、彼の部族であるアパッチ族は19世紀には緑豊かなカナダに起源を持ち、そこから南の砂漠に追いやられたんだと教えてくれた。そしてカナダに来る前は……彼らは地球の中心から来たのだという。

シャーマンは自分がアルコール依存症であることを認めたが、かつては部族の警察官をしており、ゲイブ・バルデスを知っていると言った。彼はゲイブが良い人間だと言った。彼は私たちがダルシェで何をしているのか尋ねたので、私たちはグレッグのパラグライダーのことを話し、メサから飛んでみたいのだがどうだろうと聞いてみた。するとシャーマンの顔は真剣な表情に変わった。

「いや、あそこには行けない。あそこは危険地帯だ。危ない」

私たちは耳をそばだてた。彼はUFOだとかミューティレーションに気をつけろというのだろうか?

「あそこはとても危険だ。気流がメサの壁に向かって吹き返してくるから、ひょっとしたら死ぬかもしれない」

そういうことか。私たちは話題を変えてみた。あそこにはよく行くのかとシャーマンに尋ねた。

「ああ、よく行くよ。ダートバイクで行くのが好きだ」

「じゃあ、何か変わったものを見たことはあるかい? なんでこんなものが、ってヤツ」

「ああ、もちろんだよ。たまに動物の角を見つけることがあるんだ、牛の角だ。売り物になるんだ!」

その時、ハンフリーがふらふらと私たちの方へやってきた。目がぐるぐる回り、腕を振り回している。

「俺もあそこに行くよ……牛を追っていくんだ……そうさ……でもあのメサには行かないほうがいい、ああ絶対にだ。あそこでは悪いことが起こるんだ……あそこに行くやつらは、飲みすぎて……そして転落するんだ…」

ハンフリーは言った。「おい、秘密のインディアンの魔法を見たいかい?」

「もちろん」

東に数マイル離れた山々の上に集まり始めた暗い嵐の雲に向かって、ハンフリーは腕を振った。彼は詠唱し、何かポーズを取り、最初に空を、次に地面を指でさしてみせた。ささやくような、あるいは何やらつぶやくような言葉は私には理解できなかったし、おそらくアパッチ語を話せる人にも理解できなかったのではないか。それから彼は一瞬しらふに戻ったような顔で私を見た。

「自然というものをお前に見せてやろう!」

狂ったように笑いながら、ハンフリーは最後に腕を上げた。私が笑いを返そうとしたその瞬間、2つの雷が近くの丘の頂上に轟音を立てて落ちた。

私は感銘を受けた。そう伝えると、彼はもったいぶった様子で私の耳元に近寄り、ささやいた。「見たことは誰にも話すな」。それから私の手を握って笑ってみせた。良いショーを見せられたことに満足したように。

その夜、安全なベストウエスタンホテルの部屋に戻った私は、奇妙な夢を見た。ジョン、グレッグと私は、ダルシェの風景の中を歩いていた。広大な平原は険しい岩山に囲まれていた。19世紀の幌馬車隊がゆっくりと、きしみながら私たちの方に向かってきていたが、やがてその姿は遠くに消えていった。隊の先頭には、風雨に晒されたような感じの白髪交じりの男がいて、老いを感じさせない日焼けした顔はステットソン帽の乾いた革と一体化しているようであった。その男は帽子のつばに手をかけてうなずき、微笑んだ。私は笑みを返し、それから振り返ってみた。ジョンとグレッグに「時代錯誤のようだけれど心地よいものじゃないか」と言ううために。

だが再び前を向くと、その男も、幌馬車隊も姿を消していた。(11←12→13)

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■第11章 狂気の縁

    錯乱の極みというのは、かくあれかしという願望によって何かを信じてしまうことだ ――ルイ・パスツール

リック・ドーティは、ジョンと私を気に入ってくれた。私たちの側もそうだった。ラフリンでの一週間の間、彼はほとんど常に私たちと一緒にいた。そんな状況は時に私たちを不安にさせた。知り合って間もない頃、私たち三人は、ラップトップをワイヤレスでインターネットにつなぐことのできる小さなショッピングモールに行くことになった。ホテルの外の賑やかな大通りを渡っている時――それは実際にはほとんど高速道路だったのだが――私は突然、めまいがするような妄想に襲われた。その時点までにリックは、コンピュータをハッキングする自らのスキルを我々に話していたし、DIA(国防情報局)の仲間と会ったことだとか、その連中がUFO会議の参加者のうち何人かに関心をもっており、それはとりわけリックの言い方でいうところの「外国人」であることなどを明かしていた。

突然、ピンときた。コンピューターを手元に置いたリックの近くでPCをオンラインにつなぐということは、我々のことや我々の映画についての情報が詰まったマシンに、諜報機関の侵入を許すことにならないだろうか? 目の前には小さな黒い星が踊りだしたが、もう後戻りはできないことに気づいた。この波に乗って、事態を最後まで見届けるしかないのだ。

白いタイルが敷かれ、エアコンの効いた、ムサカ料理の匂いが香るモールで、私たちは同じテーブルについた。ジョンと私は片側、リックは反対側に座り、ラップトップの画面が背中合わせになるような配置だった。ワイヤレスの送信機にはパスコードが設定されていて、そのサービスを提供しているカフェは閉まっていた。我々は、リックがシステムをハックして繋げてくれるのではないかと冗談を言ったが、彼は別に異議を唱えることもなかった。しかし1分ほどしてもそういうことにはならないことが分かったので、私は振り向いて別のテーブルに座っていたラップトップのユーザーからパスワードを教えてもらった。我々はこれをエリント(電子諜報 ELINT)に対するヒューミント(人的諜報 HUMINT)の勝利だといって記録にとどめることにした。どういうわけか、それ以降リックといて不安になることはなくなった。

だからといって、彼が奇矯な行動を取らなかったわけではない。ある日の午後、私がロビーで自分のラップトップを操作していたところへ、自分のラップトップを持ったリックが近づいてきた。

「やあ、マーク!」。リックの声には秘密めかした調子があり、私は瞬時に警戒態勢に入った。「見せたいものがあるんだ」

彼はラップトップをテーブルに置いて画面を開いた。そこには異星人の写真や絵がずらりと並んでいたが、いずれも「グレイ」タイプだ。灰色の肌、無毛で膨らんだ頭、大きくて黒いアーモンド型の目、口の位置にある裂け目、鼻のところにある穴、そして鉛筆のように細い首。

「これを見てどう思うかい?」と彼は聞いた。

私はほとんど全部の写真を見たことがあったので、そうリックに伝えた。同時に、それらはすべて偽物だと思うとも伝えた。いくつかは模型で、いくつかは映画の特殊効果による創作物だ。二、三、非常によくできたものもあった。

「どうしてこれを見せているんです?」と、私は疑念を隠すことなく尋ねた。
「この中の一つは本物だ。どれだと思う?」
「全部偽物だと言ったでしょう」
「私は生きたEben エベン を見たことがあるんだ。そしてこの中の一つがその写真だ」

彼は、生物の一つを指さした。それは横を向いたグレイで、通常よりも顔は長く、気品があって意志を感じさせる表情だった――エイリアンの顔から感情を読み取れるとしたら、の話だが。腕は体の横に下ろしていて、画像は肘の上からしか写っていなかった。私は疑わしいと言った。

「これは本物だよ」とリックは主張した。「我々はこれをEBE2と呼んでいたんだが、1964年から1984年までアメリカ政府のゲストとして生きていた。私はロスアラモスでこいつがインタビューされているのを見たよ」。リックは著書『情報解除免除 Exempt from Disclosure』の中でもこの件について触れている。1983年3月5日、彼は名前が明かされていない、とある人物に連れられて、ロスアラモス国立研究所の地下深くにある部屋に入った。そこには「テーブルが二つと椅子が数脚、録音機器が置かれていて、私はドアの近くに座った」。空軍の大佐が入室し、インタビュー中は黙っているようリックに指示した。リックが「インタビューされるのは何者か」と尋ねると、「別の惑星からのゲストだ!」と言われた。5分ほど後に、身長4フィート9インチの人間とは異なるように見える生物が現れた。それはクリーム色をしたタイトなスーツを着ていて髪の毛はなく、リックは「これはEBE2だ」と教えられた。

質問者は大佐と正体不明の民間人2人で、彼らはEBE2に主として故郷の惑星やその大気について質問した。「このインタビューで興味深かったのは、EBE 2の向かいに座っていた3人が発する質問が、私には一切聞こえなかったことなんだ」。リックが聞いたのは、ETの返答だけだった。それは「完璧な英語だったが、機械的な声のように聞こえた」。EBE2は、ニューメキシコの気候は故郷を思い出させるので気に入っていると述べた。

リックと一緒にEBE 2の写真を見ていると、そこにジョンが現れた。私はEBE2を指し示し、リックが話していた話を繰り返した。「それは胸像だ」とジョンは即座に言い切った。「知り合いのUFO研究家がそれを家の暖炉の上に置いているよ」

リックの声にはかすかな苛立ちが入りこんでいた。「もしそれが胸像だとしたら、写真を元にして作られたんだ。だって私はこれが本物だと知っているからな!」

「それは胸像だ」とジョンは言い張り、そのまま立ち去った。

我々と一緒にいない時のリックは、ビル・ライアンと連れ立っていた。リックは我々に対してはセルポの話をしたがらなかったが、ビルがいるところでは必ずその話題が出た。もっとも、私たちは会議中あまりビルと話す機会がなかった。彼はこの会議では注目の的だったからだ。彼はいつ見てもジャーナリストにインタビューされたり、UFO研究家に質問されたりしていた。

木曜日の午後、ジョンと私はラウンジでリックと一緒に座り、ビルを待っていた。そこに黒い服を着た男がやって来て、同席してもいいかと尋ねてきた。我々は皆うなずいて承諾した。彼は体格こそ良かったが、どこか女性的な感じで、黒いタートルネックはいささかピチピチ過ぎるのではないかという気がした。座るや否や、その男性は自らのUFO体験を30分間にわたってしゃべり続けた。彼はまるで催眠術にかかっているか夢を見ているかのように、奇妙で声で歌うように話した。それによれば、自分はシングルファーザーで、数年前にアリゾナ州フェニックスの野外で空飛ぶ円盤を見たことがあるという。その出来事のすぐ後、彼は奇妙な男2人に会ったのだが、一人の目は赤く、もう一人の目は金色に輝いていた。一人目の男との出会いはおおむね良い感じで、電話番号も聞いた。だが、二人目との出会いはトラウマが残った。「いいですかと聞きもしないでずかずかと入り込まれたような感じ」がしたのだという。

そのおしゃべり男は二か月間、その体験を忘れていたが、ふと最初の男の電話番号を聞いていたことに気づき、電話をかけてみた。出たのはその男の妻だった。「主人は外出中です」と彼女は言い、「すみません、オーブンにエンチラーダ [メキシコ料理の一種] を入れてるところなんです」と続けた。そして彼女が電話を切った瞬間、記憶が一気に蘇ってきた。彼が覚えていたのは、ただ一つ、男たちの目のことだった。それは「花火のように回転し、閃光を放っていた」。男の話も終わりかけたところへ、ビルが現れた。彼は動揺した様子で、マニラ封筒を握りしめていた。

「みんな、話したいことがあるんだ」。私たちは黒服の男に失礼を告げ、別のテーブルに移動した。

「この封筒をロビーで渡されたんだ。誰かが僕のために置いていったらしい」。封筒には、太い緑のマーカーで「B. Ryan」と書かれていた。「ちょっと見せてくれ」とリックが言った。「封を開けるのは得意なんだ」。しかし、ビルは自分で封筒を開けた。

中には、ワープロで印刷された紙が三枚入っていた。印刷はかすれていて、プリンターのインクが切れかかっていたらしい。それは、セルポの宇宙飛行士の日誌の知られていない部分で、彼らが連れて行かれた異星人Ebenの惑星では彼らと意思疎通を取るのに苦労したことが記されていた。加えてそこには小さな紙片も入っていた。そこには手書きでのたうつ文字のようなものが書いてあり、合計16本の線が歪んだ格子を形作っていた。これはエイリアンの文字なのだろうか? 我々は何度か紙を回転させて、そのグニャグニャがどっちからどっちに向かっていくのかを確かめようとした。繰り返し出てくる文字がないかと探してもみた。しかし、何も分からなかった。ビルは中に入っていたものを封筒に戻した。

「失礼するよ、皆さん。もう行かないと。会議の主催者たちとUFOのビデオを一緒に見る約束をしているんだ」

我々は、夕食後にホテルのロビーでビルと会うことにした。翌日は彼が発表をする大切な日だった。彼が上映会に向かって走り去る姿を見ながら、私は考え込まざるを得なかった――エイリアンの真実という霧深い海を航行する船長として、ビルは自らの船を自ら操船しているといえるのだろうか。ラフリンに到着してからのこの数日、彼はアメリカのUFOコミュニティに熱烈に迎えられてきた。しかし私は、彼が誰かに操作され調教されている可能性を捨てきることができなかった――その「誰か」の正体は分からないにしても。私の最大の懸念は(それはジョンとグレッグも共有していたのだが)彼が「もう一人のポール・ベネウィッツ」になってしまうのではないか、ということだった。

■プロジェクト・ベータ

1981年の後半、UFOコミュニティに出回った「プロジェクト・ベータ:現状の要約と報告(推奨ガイドライン付き)」という文書がある。それは驚くべき文書であり、かつ今から考えればポール・ベネウィッツの壮大な妄想に満ちた悲劇的な文書でもある。その詳細な内容というのはベネウィッツのような優れたエンジニアなくしては得られなかったもので、この文書は、彼が収集し、迷宮めいたファンタジーを作り上げるのに用いたデータをまとめ上げたものなのだ。そしてこれが悲劇だというのは、精神疾患についての記録に出てくる他の有名な事案などとは異なり、この妄想がAFOSI(空軍特別調査局)からベネウィッツに与えられたニセ情報によるものであり、もっぱら彼自身の空想に基づくものだったわけではないという点にあるのだ。さらに言えばこの文書は、AFOSIがベネウィッツにニセ情報を提供するため、どれほど徹底的な操作を行ったかも明らかにしている。

25ページにわたるこの報告書は、まず「調査員 物理学者 ポール・F・ベネウィッツ」によって収集された情報の概要から始まっている。

    エイリアンの通信およびビデオチャンネルの探知と解読(いずれも地域・地球・近宇宙レベルでのもの)。エイリアンの船や地下基地のビュースクリーンからの映像を常時受信(受像内容としては典型的なエイリアン、ヒューマノイド型。時としてホモ・サピエンスと思われる存在)。

    エイリアンとの直接通信を常時確立(コンピュータと16進法コードの一種を使用。出力はグラフィックとプリントアウトによる)。エイリアンの通信ループを通じて地下基地の真の位置がエイリアンから明かされ、正確に特定された。引き続いて空中および地上からの写真撮影により、着陸用パイロン・地上の船・入り口・ビーム兵器・打ち上げポートが確認された。このほか地上には静電現象を利用した乗り物に搭乗したエイリアンも確認された。ビーム兵器の充電もやはり静電気によるものと見られる。

ベネウィッツは、異星人の心理について学んだことをまとめている。「異星人は狡猾であり、欺瞞を用い、平和構築プロセスへの意図は一切もっておらず、いかなる事前の合意にも従うつもりはない」

ここで彼は、自らがアルチュレタ・メサにいると信じている地球外生命体について語っているわけであるが、それは同時に彼の「友人たち」、つまりカートランド空軍基地の人々に向けた言葉であったのかもしれない。時折、彼は与えられた情報の矛盾点に注意を向けていたようでもある。「確かに彼らにはウソをつく傾向がある。が、ウソをついたという記憶は長持ちしないので、コンピュータから出力したものと直接比較してみれば事実は明らかになる。いわば『ひび割れから抜け落ちる』というヤツで、そこから真実は現れるのだ」。さらに彼は、異星人についてこう述べている。

    彼らは信用できない。もしエイリアンが「友人」ということになっていたとしても、差し迫った物理的脅威の時にその「友人」を呼び出した場合、その「友人」はすぐに敵側につくであろう……彼らは如何なる状況でも絶対に信用できない……彼らは完全に欺瞞的であり、死をためらうこともなく、人間や人間の命に対する道徳的な尊重は全くない……両者が署名したどのような合意も、エイリアンによって尊重されたり遵守されたりすることはない。彼らは「そんなことはない」と我々を信じさせようとするかもしれないが。

こうした発言から、無意識下ではあれ、彼には自らの状況について一瞬明晰さを発揮した瞬間があったのだ、ということを読み取らずに済ますのは難しい。ただ彼に対する工作が功を奏したおかげで、その鋭い洞察は影を投げかけている者にではなく、壁に映った影たちに向けられたのではあるが。

ベネウィッツは、エイリアンは人類を支配するために無慈悲な野望を抱いていると警告し、彼らが人間を奴隷にするためのマインドコントロール用のインプラント技術、彼らの兵器や宇宙船、そしてダルシェ(ダルシー)基地について詳述している。報告書は、この脅威を無化する唯一の方法は武力であると結論付け、ダルシェ基地への水供給を断つという精巧な計画を論じている。ベネウィッツは、ETとその乗り物に対抗するため開発した特殊なビーム兵器についても記述しており、これには軍の担当者も大いに関心を寄せたに違いない。

そして、冷ややかな最終声明で彼はこう宣言する。
    全面的に成功を収めるための鍵は「彼らは武力をのみ尊重する」ということである……アメリカ人として言うならば、今回のケースにおいては、答えを出すために我々がこれまで受け継いできた道徳的原則に頼ることはできない。そのことを認識しなければならない。交渉は不可能だ。この特定の集団は、狂犬に対するのと同じように対処する以外に方法はない。そのことを彼らは理解している……従って、この脅威に対処するにあたり、我々が「侵略者」と呼ばれる筋合いは全くない。我々は文字通り侵略されているのだから。

ベネウィッツにはかくも明確に精神的な不安定の兆候が出ていた。ところがカートランド基地の関係者は、既に手に負えなくなった事態を終わらせるのではなく、さらに別レベルの工作をするよう決定したのである。その心中は察するほかない。そしてAFOSIのベネウィッツに対するキャンペーンは少なくとも1984年まで続き、彼の精神状態はさらに悪化していった。

リック・ドーティがポール・ベネウィッツについて語る時、彼はベネウィッツを「友人」であり「素晴らしい人間」という風に語った。ドーティは我々に「ベネウィッツに起こったことをひどく後悔している」と話した。私はそれを信じた。ドーティのベネウィッツの事案への関与は1984年に終わった。彼は2年間、ドイツに配属されたのである。ビル・ムーアのAFOSI(空軍特別調査局)関係の仕事もその翌年に終わった。彼らがAFOSIの作戦が終了した後もベネウィッツと連絡を取り続けていたことは、彼らが築いた関係が真っ当なものであったことの証である。しかし、その時点では、もはやベネウィッツを救うことはできなかった。

ドーティが1986年にカートランドに戻ったとき、ベネウィッツの精神状態は著しく悪化していた。ドーティは、ベネウィッツにUFO研究をやめるよう説得しようとした。それは家族や事業、そして健康のためでもあった。それら全てが損なわれていたのである。彼はベネウィッツに「あなたがこれまで渡されてきたUFO情報はAFOSIが作ったものだ」とすら語った。しかしベネウィッツは、それを受け入れなかった。彼自身がニューメキシコ州が異星人に侵略されていると信じ込んでいるのに加えて、今では他のUFO研究者たちもその話に耳を傾けていた。彼にはオーディエンスがいたのだ。彼らは異星人の侵略から世界を救うことはできたのかもしれない。だが、ベネウィッツを彼自身から救い出すことはできなかった。

1987年、ビル・ムーアが最後にベネウィッツを訪ねたとき、彼はほとんど眠らず、食事も摂っていなかった。彼はチェーンスモーキング状態で(ムーアがグレッグ・ビショップに語ったところでは、ある時数えたら彼は45分間で28本のタバコを吸っていたという)、言葉をつなげるのに苦労していた。彼は強烈な被害妄想を抱き、ドアや窓に追加の鍵を取り付け、家じゅうに銃やナイフを隠していた。ベネウィッツはムーアやドーティに、異星人が夜中に彼の寝室に入り込み、彼に薬を注射して奇妙な行動をさせていると語った。彼は時折、砂漠の真ん中で、自分の車の運転席に座った状態で目を覚ますことがあった。グレッグ・ビショップによれば、ドーティとムーアの二人は、それぞれ別個に「ベネウィッツの右腕に針跡のようなものがある」という話をしていたという。彼は、政府機関の何者がベネウィッツに薬を注射し、それから砂漠に連れ出して異星人の恐ろしさだなどといった不条理な話を彼に植え付けているのではないかと疑った。ドーティは、ベネウィッツが自分で薬を注射しているのではないかと考えていた。しかし彼は、ベネウィッツの家の1階の窓の外に梯子の跡があるのを見たとも主張している。それはまさにベネウィッツが異星人が家に侵入している場所だと言っていたところだった。

事態がついに頂点に達したのは、1988年8月であった。61歳になったベネウィッツは、半分おかしくなっていた。彼の会社サンダー・サイエンティフィックは、成人した二人の息子によって経営されていた。家の中では、彼は妻のシンディが異星人に支配されていると非難していた。最終的には、彼が自室に砂袋を積んで立てこもるという事態に至った。

このままではいけないと家族は判断し、ポールはアルバカーキにあるプレスビテリアン・アンナ・カセマン病院の精神科施設に隔離された。そこで彼は1ヶ月間監視下に置かれた。ドーティがこの古い友人を訪ねたとき、ベネウィッツは彼のことが分からなくなっていた。

では、なぜこのような事態になったのか?

ドーティの説明はこうだ――AFOSIの作戦というのはカートランド空軍基地のセキュリティにのみ関わるものであって、1980年代半ばには終了した。一方で国家安全保障局(NSA)は、自分たちがカートランド基地から発している通信がベネウィッツに傍受されるのを防ぐため、向かいの家からニセ信号をビーム状に浴びせかけていたが、これは陸軍の作戦終了後も数年間続けられた。その理由は不明である。

NSAの関与は本当にあったのだろうか?AFOSIが作りだし、ムーアとベネウィッツに提供した政府のニセUFOメモは、政府によるUFO隠蔽の多くはNASAが元凶だと名指ししていた。ドーティは現在、このNASAというのは実際にはNSAをほのめかしていたのだと述べているが、当時のアメリカ空軍がNASAをおとしめようとした理由は十分に理解できる。NASAとアメリカ空軍は1950年代末にNASAが設立されて以来、宇宙に関する苦い対立を繰り返してきた。アメリカ空軍は常に宇宙に対して強い関心を抱いていたため、多くの航空宇宙予算が民間組織であるNASAに割り当てられることは癪の種だった。さらに、空軍はUFOという厄介ごとを押しつけられたのが気に入らなかったのかもしれない――宇宙の問題はNASAの領分じゃなかったのかよ、というワケだ。

UFOに関する空軍の広報活動は、1947年からプロジェクト・ブルーブックが閉鎖された1969年まで続いたが、それは空軍にとってずっと悪夢とでも言うべきものだった。ブルーブックの閉鎖後、空軍はUFOに関する問い合わせに対して「調査は終了しました」という定型文で回答していた。もちろんこれはウソだった。空軍がUFO事件の調査investigating(扇動 instigating かもしれないが)をやめたとしても、ファルコンやドーティ、AFOSIの活動が示すように、それについて考えることやUFO団体を監視することは明らかに継続していた(ちなみに大空を自分の縄張りだと考える空軍が調査をやめたというのはありそうもないことではある)。

UFOはその後も飛来し続けた。1975年にモンタナ州でICBM基地の目撃が報告されたのに続いて、1977年11月16日にはスティーヴン・スピルバーグの映画『未知との遭遇』が公開され、世界中でUFOに対する関心が再燃した。その流れの中にはは、国連にUFO調査機関を立ち上げようとしたグレナダの大統領、エリック・ゲイリーの試みもあった(結局は実らなかったが)。UFO目撃情報は世界中で急増し、新世代のUFO愛好家たちが生まれ、彼らは空に飛び交っているものについての真実を知りたいと願った。こうした大衆の要求にこたえて、当時のジミー・カーター大統領は、選挙活動に自らUFOを目撃した経験を公然と語りつつ、新たなUFO調査はNASAが主導すべきだと提案した。

しかし、NASAは乗り気ではなかった。「私たちはUFOの調査をやりたいとは思っていません。なぜなら、私たちに何ができるのかハッキリしないからです」。NASAの広報担当者はAP通信にそう語っている。「金属片や生物組織、布の一部といった、測定可能なUFOの証拠は全くありません。ラジオ信号すらないのです。写真は測定できるものではないですし……理論や記憶なんてものじゃらちがあかない。緑色の小人が一人でもいれば、何百万ドルもの予算がつくでしょうけどね」

いずれにしても、アメリカ空軍は困難な立場に立たされる可能性があった。もしNASAが調査を開始すれば、UFOのナゾに空軍が過去どのように取り組んできたかを蒸し返そうとするだろう。それは時間も予算もかかるだろうが、空軍にとっては少なからずバツが悪いことになりかねなかった。逆にNASAが手を出さなければ、次にUFO問題に取り組むべきは空軍だという期待が生まれるだろうが、10年前にようやくUFO問題から手を引いた空軍にしてみれば、再びその泥沼に戻るようなことも避けたかったであろう。

最終的にNASAも空軍も新たなUFO調査を強いられることは回避したが、それは際どいところであり、両組織の間に新たな遺恨を引き起こしたことは疑いようがない。従って、1981年に出回った偽造文書「アクエリアス文書」において、AFOSI が政府の秘密UFOプロジェクトの首魁としてNASAを名指しした時、空軍は注目を自分たちからそらしただけでなく、ライバルに一矢報いることにも成功したのだった。結果としてNASAは、狂気じみて胃の痛くなるようなUFO広報の悪夢をちょっぴりとではあったが体験することになった――UFOについて山のように寄せられる問い合わせに象徴されるような、そして空軍が20年以上苦しんできた広報の悪夢というものを。

AFOSIはまた、NASAというおとりを持ち出せば、ビル・ムーアがいとも簡単に引っかかってしまうことも知っていた。ムーアとバーリッツの共著『ロズウェル事件』には、NASAが隠蔽したとされる宇宙飛行士絡みのUFO事件がいくつか挙げられている。最も注目すべきは、歴史的なアポロ11号の着陸地点が他の「宇宙船」で「あふれかえっていた」ために、最終段階で変更されたという主張である。ちなみにこの本には、パイロットのバズ・オルドリンとミッションコントロールの間で交わされたとされる身も凍るようなやりとりが出てきており、その記述に対してオルドリンはムーアとベルリッツを相手取った訴訟を起こしている。

しかし、ベネウィッツ事件の真の黒幕は、ドーティがいう通り、この宇宙機関から「A」が一文字が取れただけのNSAであったかもしれない。1990年代初頭、NASAの電話交換手が好奇心旺盛なUFO研究家たちからの問い合わせに疲弊していた頃、ビル・ムーアはこんなことを言っている。――オリジナルのアクエリアス文書にはNSA(国家安全保障局)という名前が書かれていたのではないか。そして含み笑いをしながらそれをNASAに書き換えたのはAFOSIの関係者たちだったのではないか、と。

NSAはベネウィッツに関心を持っていたのだろうか? 彼が傍受していた信号が空軍のものではなくNSAのものであったとしたら、そういうこともありえただろう。加えてNSAは、「ベネウィッツは情報源として使えるかもしれない」という内容のソ連サイドの通信を傍受していた――ベネウィッツ自身がそのことを知る由はなかったのであるが。となると、AFOSIやNSAが最も恐れていたであろうシナリオというのはこういうものになる。すなわち、ベネウィッツがUFO情報を誰彼かまわずばらまくことで、その情報がカートランドで行われている何らかの秘密の研究開発プログラムにソ連の注意を引きつけてしまう――。

しかし真の疑問は、米空軍なのかNSAか、あるいは他の組織かもわからないが、何者かがポール・ベネウィッツを廃人に追い込もうとした理由である。

グレッグ・ビショップは、ベネウィッツはカートランドで行われていた極秘の航空機や衛星技術のテストに偶然出くわしてしまったのだと考えている。ベネウィッツは異星人の本物の宇宙船が極秘に飛行しているのを見てしまったのだと考えている人もいる。しかし、いずれの説も、この才能豊かではあるが脆弱な心に対して、空軍が執拗な心理的攻撃を行った理由を十分に説明するものではない。さらにこれらの説は、空軍が――あるいは別の組織かもしれないが――新しいオモチャ、それもとりわけ一番大事なエイリアンのオモチャをテストする時、それをするのに適した数マイル四方の地所を人里離れた砂漠地帯に所有しているのに、わざわざ人目のある住宅地で行った理由も説明できない。

「秘密技術」説にとって最も致命的な反論としては、もしベネウィッツが見てはならないものを見たのなら、空軍は彼に黙っているよう頼むだけでよかったはずだ、というものがある。愛国者であり、軍と契約関係にもあった彼なら、ほぼ確実にその要請に従ったことだろう。仮に彼が拒否したとしても、軍は法的に圧力をかけることができたはずだ。ブラッド・スパークスやバリー・グリーンウッドが指摘するように、政府や軍の秘密の通信を傍受したら、1934年の通信法や1917年のスパイ法に違反することになっただろう。もしベネウィッツがNSAの機微にわたる通信を傍受していたなら、彼は逮捕され、機材は押収され、事業は閉鎖されたであろう。しかし、そうはならなかった。代わりに彼は妄想を煽られた。なぜだろうか?

この事件についてのグリーンウッドとスパークスの見立てによれば、AFOSIには(そしてベネウィッツになされた工作には)より悪意に満ちた、計画的な意図があったとされる。カートランド基地のAFOSIが初めてベネウィッツを認識したのは、おそらく1979年4月にアルバカーキで開催されたハリソン・シュミットのキャトル・ミューティレーション会議だった。その翌月、リック・ドーティはエルスワースからカートランドに転任したのだが、カートランド基地ではその前年、UFOをテーマとしたニセ情報作戦を『ナショナル・エンクワイアラー』に仕掛けることに成功していた。さらに4か月後の1979年7月、ベネウィッツは自宅の近くのマンザノ山脈で光を撮影し(それはおあつらえ向きなことに彼の家から見える場所だった)、無線通信の記録も始めた。それを彼はUFOと関係したものであるに違いないと考えた。

1980年1月27日、ベネウィッツは初めてエイリアンからの通信を受信した。彼は1981年に空軍の情報参謀補佐長宛てに送った手紙の中で、こう主張した。すなわち、最初の電子通信セッションに際しては、カートランドの警備部隊の指揮官にして、ベネウィッツが最初にUFOの目撃を報告したアーネスト・エドワーズ少佐その人が立ち会い、「非公式ながら得がたい後方支援」をプロジェクト・ベータに提供してくれた、と。空軍は、最初から積極的にベネウィッツに関わり、彼の妄想を助長していたのである。1980年7月、AFOSIはカートランドでのUFO事件に関するクレイグ・ウェイツェル名の手紙をAPROに送り、APROはビル・ムーアに調査を依頼した。9月になるとムーアはファルコンとリチャード・ドーティから連絡を受け、ベネウィッツ作戦は第二段階に入った。

このように見てくると、事件は全く新しい様相を呈してくる。ベネウィッツはカートランド上空のUFOを偶然目撃したのではなかった。それらは彼のために飛ばされていた、明るく輝く撒き餌であった。一方、ウェイツェルの手紙はUFO研究者を引き寄せるために意図されたものであった。ムーアとベネウィッツは共に餌に引っかかり、捕まった。AFOSIは最初から彼らをUFO情報操作の媒体として利用しようと計画していたのである。彼らの本当の標的はベネウィッツではなく、UFOコミュニティ全体であった。

■ユーフォロジーでの戦争

AFOSIの公的な任務は、「空軍、国防総省、米国政府に対する犯罪、テロリスト、情報活動の脅威を特定し、把握し、無力化すること」である。AFOSIの活動の多くは「情報作戦」に含まれ、空軍政策指針10-7(2006年)では、これが三つの主要カテゴリー、すなわち「電子戦作戦(EW Ops)、ネットワーク戦作戦(NW Ops)、影響作戦(IFO)」に分類されている。

ここで我々の注目を引くのは「影響作戦」である。これには「軍事欺瞞(MILDEC)、作戦保安(OPSEC)、心理作戦(PSYOP)、防諜(Cl)、広報作戦(PA)、および反プロパガンダ」が含まれる。この文書によれば、こうした作戦は「我々自身を防御しつつ、敵対する人間や自動化された意志決定システムに影響を与え、妨害し、あるいは拘束するため」に展開されるもので、空軍はこれらの能力を「物理攻撃兵器によるのと同様の効果を達成するため使用する可能性がある」としている。

仮にあなたが空軍だと想像してほしい。あなたが目標とするのは空域での絶対的な優位であり、それを維持するためには、多くの秘密を守る必要がある。それはたくさんある。作戦上の秘密。戦術上の秘密。航空機・衛星・兵器に関する技術上の秘密。こうした秘密――とりわけテクノロジーの秘密――を守ることは死活問題である。UFO研究者たちはあなたの秘密計画を覗き見しようとしており、情報公開法に基づく要求を次々と送りつけ、あなたがDNAを盗むエイリアンと共謀してUFOの真実を隠蔽していると非難している。けれども、あなたはそんなものは絵空事だと知っている。UFO研究者たちの目的は、あなたが守るために何百万ドルも費やしているすべての秘密を暴露することだ。あなたが彼らを脅威と見なし、無力化しようとするのは当然のことである。

あなたのすぐ近所の住人で、UFO陰謀論を大声で唱えているポール・ベネウィッツ。UFOコミュニティで最も尊敬されているビル・ムーア。彼らをコントロールできれば、あなたはこの厄介な人々への攻撃を始めるための完璧な拠点を持つことになる。

ドーティが繰り返し我々に話したように、一度ベネウィッツに対する作戦が始まってしまえば、それは難しいことではなかった。ベネウィッツが自らの信念を保っていくためには、外からあれこれ応援してやらなくても、時折ちょっとした後押しをすれば十分だった。そしてベネウィッツはとてもよくその役割を果たした。ユーフォロジーの主流派の注目を集め、「善対悪」「我々対彼ら」「人類対異星人」という、センセーショナルだが単純な物語を広めたのである。

サイラス・ニュートンやジョージ・アダムスキーらの初期の作り話と同様に、ベネウィッツの「プロジェクト・ベータ」は、UFOコミュニティを集中させ、分裂させ、UFOに関する真剣な研究を困難にする騒音の壁を作り上げた。このテーマに真剣に取り組もうとする多くの人々は、その取り組みを断念せざるを得なかった。これは情報戦の見事な手本であったが、その代償は非常に大きかった。

ポール・ベネウィッツ問題の最終局面において、断崖の縁でよろめいていた彼は自ら身を投げたのか? それとも後ろから押されたのだろうか?

■ビルの大事な日

我々はその晩、ビル・ライアンが異星人へのインタビュー映像なるものを見た後に、彼と会うことになっていた。明日は彼の大事な日だった。いよいよ彼による「セルポ」の発表があるのだ。1時間経った。ジョン、リック、そして私はロビーで待った。しかしビルは姿を見せなかった。彼のホテルの部屋に電話をかけたが応答はなかった。ジョンが部屋を訪れノックしたが、電気は消えており、誰もいない。ビルはどこにもいなかった…。

翌朝、我々はロビーにいるビルを見つけた。彼は明らかに動揺していた。ビルによると、「セルポ文書」の情報源であるナゾの人物、アノニマスが、ラフリン・コンベンションの理事会の一員であるベテランUFO研究家、ドン・ウェアに連絡を取ってきて、ビルの講演を評価し報告するよう指示したという。ビルは、何かうまくいかないことがあって、セルポの代弁者としての役割を失うのではないかと恐れていた。しかし、これは驚くべきことではなかった。人類史上最も重要な発表の代弁者として、常に試されているというのは当然のことだった。アノニマスは見守っていたのである。

緊張していたものの、ビルは発表の前にカメラを回してのインタビューを受けることに同意した。だが、準備をしているとリックが現れた。

「みんな、ちょっと問題が起きた。誰かカメラの操作はできる? ちょっと面白いことになりそうなんだ。私のDIAの相手方が、これまで公開されたことのない映像を見せたいと言っているんだ」

「それには何が映っているんです?」とジョンが尋ねた。
「ETのインタビューだ。」
「またですか?いったい何回目なんだ?昨日見せてくれた写真とは関係があるんですか?」

「いや、違う。」リックの声には少し苛立ちがにじんでいた。「これは別物だ。この映像は誰も見たことがないし、向こうさんは君たちがドキュメンタリー用にカメラを持ち込むことを許すかもしれないぞ」

ビルはインタビューを受ける態勢に入っていて、我々に話したいことがあるような様子だった。一方でリックはUFO史上の「聖杯」を提供しようとしていた。そう、本物の「生きたエイリアン」だ。しかし、なぜDIAは我々にそれを見せようと思ったのだろう? 4日間にわたる駆け引きを経て、我々の忍耐は限界に近づいていた。「リック、今はビルの件で忙しいんです」と私は言った。「私たちがビルをインタビューしてる間は、女性カメラマンが小型のカメラで撮影できるかもしれない」

リックは、歴史的な提案を拒否されたことに少し驚いた様子だったが、自分の相手方の意思を確認すると言って立ち去った。その間に我々はビルに注意を向けた。ビルはラジオマイクを装着し、そわそわしていた。何かが彼を苛んでいることは明らかで、彼は言葉に詰まっていた。ビルは緊張するとどもる癖があるのだ。

「昨日届いた新しい文書…今日の話の中心に据えたかったんだ…あのエイリアンの文字を人々に見せて、その解読を始めたかった。でも、それができないんだ…知らせを受けたんだ…まだ話すことができないんだ」

「誰から言われたの?」と私は尋ねた。
「それは言えない。でも彼の意向には従わなければ」

「新しいものを見せられないのは残念だが、他にもたくさん話すことがあるじゃないか」
「そうだね。そうだと思う」

トイレに行ってきたビルは、インタビューのために腰を下ろした。我々はラジオマイクがまだオンになっていることを彼に伝えるのを忘れていた。

その後のビルへのインタビューはドラマチックなものとなった。この会議は彼にとって心理的な地雷原のようなものであり、彼は深刻なストレスを受けているように見えた。ビルはユーフォロジーの新たな英雄、忖度ナシで話す男として讃えられ、毎日多くの支持者やインタビュアーに囲まれていた。彼はユーフォロジーの中心部で歓迎を受け、会議の要人たちと肩を並べてはUFOやエイリアンの映像を見ていた。彼らはビルを抱擁していた。それは確かだ。しかしその目的はなんだったのだろう?

「すべての行動が監視され、分析されているような気がするんだ」と彼は言った。「すべての会話が盗聴されている」。我々は、彼がラジオマイクをつけたままトイレに行ったことは口に出さなかった。

「もう誰を信じていいのか分からない。正直なところ、これ以上耐えられるか分からない」

リックについてはどうか? ビルは彼を信頼しているのか?

「リックは本当に大きな助けになってくれた。彼はまさに導きの光だよ。UFO分野での彼の経験は私にとってとても貴重だった。この間ずっと、彼はガイドをしてくれた。彼がいなければここまでやってこれなかっただろう」

リックは具体的にはどのようにビルを助けてきたのか、またビルがセルポの話に関わるようになった当初から彼は支援していたのかどうか。そう尋ねようとしたが、ちょうどその時、リックがロビーに現れた。まるで獲物を手にした猫のように満足そうだった。

トラブルの兆しを感じたジョンは、リックをビルから遠ざけるように誘導し、私は素早くインタビューを締めくくった。リックがビルの肩越しに監視している状況では、これ以上の情報を引き出すのは難しいだろう。

我々は一緒にテーブルを囲んで座った。リックの目はキラキラと輝いていた。

「エイリアンの映像を見たよ。本当に素晴らしいやつだ。でも、撮影するのはダメだそうだ。特別な上映が行われたんだ。参加者は会議の主催者であるボブとテリー・ブラウン、DIAのエージェントが2人ほど、あと見知らぬ2人だった。ホテルの一室で、上映の準備が整えられていた。使用していた機材はパナソニックだ。政府はいつもパナソニックを使うんだ」

我々はリックのいる方に身を乗り出した。彼は映画の内容を話してくれるのだろうか? それとも政府のエージェントが映画を見る時は、どのブランドのポップコーンを食べるのかを教えてくれるのか?

「うん、映像は古いものだ―1940年代後半から1950年代初期のものだろう。車が施設の外に停まるんだ。ロスアラモスの施設に見えたな。あそこには何度も行ったことがあるんだ。外には民間と軍の車両が停まっていて、いかにもあの年代のクルマという感じだった。1人の男が建物に入り、カメラが彼を廊下の奥まで追っていく。僕の見るところ、あれはロバート・オッペンハイマーだったね」

ジョンはカメラの動きを尋ねた。それはトラックに乗っているのか、それとも三脚に据えられているのか?

「三脚に据えられて移動していったように思うね。オッペンハイマーがセキュリティドアを二つ通っていく時、少し揺れていたからな。ドアは、彼の付き添いがインターホンに話しかけた後に開いた。廊下の最後にもう一つのドアがあり、その前にMP(軍警察)が立っていた。彼の記章には“ダグラス”という名前があった。彼の制服と武器は1940年代か1950年代のものだったな。ドアが開くと…そこにいたんだ、Ebenエベンが。ノドの周りに発声器みたいなものがあって、そのせいか喋る時には機械音声のような声がしたな」

「彼らは何を話していたんです?」とビルが興奮して尋ねた。「彼らの母星についてですか?」

「いろいろなことを話していたよ。そう、Ebenエベンは自分たちの星についても話していた。それは40光年先で、二つの太陽があって、乾燥した砂漠のような風景なんだそうだ」

「まるでセルポみたいだ」。ビルは微笑んでいた。数分前の不安はすっかり消えていた。

「そうだな、そうかもしれない」。リックは答えた。

ビルは講演の準備のために立ち去った。彼の講演まであと20分だった。彼の足取りは軽く、新しい自信がみなぎっていた。リックの激励トークが功を奏したようだった。

ビルのプレゼンテーションには満員の観客が集まった。音声が何度か途切れ、少し話が長引いたかもしれないが、彼は聴衆が聞きたかった話をちゃんと話していた。米政府とETとの接触の証拠とされる資料。内部情報源の裏付け。そしてさらなる情報が控えていることのほのめかし。彼は最後まで聴衆の注目を引き続けた。

ただし、一つのテーブルだけは様子が違った。今週の初めから目にしていた男たち、つまり鋭い目をしたフライトジャケットの男と、二人の屈強な付き添いがいつものように無表情で同じテーブルに座っていたのだ。ビルがポール・マクガヴァンの名前を出した時――ちなみにマクガヴァンというのはドーティの話によればDIAの情報源で、最初にEメールでセルポのストーリーの多くの部分を補強した人物とされる――オールド・スティーリーのような目をした男は突然落ち着きを失い、テーブルを立って部屋を出て行った。ひょっとしたら彼はポール・マクガヴァンだったのだろうか? [訳注:Ol' Steely-eyes という言葉はよくわからない]

ビルの講演が終わった後、人々が質問のために列を作ったが、私はロビーに出て、残りの観客が退場する様子を見ていた。その雑踏の中から現れたリックは、私のそばに来て、ビルのプレゼンテーションについてどう思うか尋ねてきた。

「私ならもうちょっと整理して話したかもしれませんね」。私は如才なく答えた。

リックは同意した。「採点したらC+といったところだ。彼はスライドを使うべきだろうな。講演にはスライドを使わないとな、パイロットにとってのコンパスのようなものだから。アレは発表をリードしてくれる」

ビルが講演ホールから出てきた。ファンに取り囲まれ、ほとんど運ばれるようにしてテーブル席に腰を下ろした。質問に答えるビルは、とりわけ40代前半の魅力的な女性に注意を払っていた。その女性は背が低く、顔も髪も黒っぽい感じだった。ビルとその女性はしばし話し込んでいた。リックと私は「ああなるほどね」といった感じでお互いにほほえみあった。

群衆が散った後、ジョンと私はビルと話をするチャンスを得た。ビルはすべてが終わって、反応も良かったことに満足しているようだった。彼は始まる前は不安感で体が痺れるほどだったと言った。というのも、ステージに上がるちょっと前には主催者から「もし照明が消えたらすぐに地面に伏せて下さい」と言われていたのだった。主催者側もビルの発表が行われている間に何かトラブルが起きるかもしれないと忠告されており、舞台脇には万一に備えて屈強な警備員数人が舞台袖で待機していたのだという。

私は「オールド・スティーリーの目をした男」が突然出ていったことに触れ、彼がロビーをこっそり通り抜けていったことをビルに教えてやった。私は、彼がポール・マクガヴァーンなのではないかと彼に聞いてみたのだが、ビルはそれを否定し、その男からは以前話しかけられたことがあったと言った。彼はテリーという名前で、アリゾナ州出身のUFOコンタクティだった。ビルに語ったところでは、彼はあらゆるUFO会議に出席しているということだった。私は、なぜコンタクティがあんなに陰険な顔をしているのか、そしてなぜいつも両脇に大男たちをはべらせているのか、疑問に思った。彼ら全員がコンタクティだとでもいうのだろうか? あの3人はあらゆるUFO会議に揃って参加しているのだろうか?

その日の午後、我々はリックの撮影をする予定だったのでロビーで彼を待っていた。いつもそんなことはないのだが、彼は1時間ほど遅れてやってきた。その間、私は物理学者でありながらオカルトを実践しているという人物や、インターネットラジオの司会者、さらには『ハスラー』誌に会議についての記事を書くというジャーナリストと話をすることができた。リックがようやくやってきた時、彼は我々との約束を忘れていたようだったが、それでも撮影には快く応じてくれた。

私たちはホテルのエレベーターに向かったが、角を曲がると「オールド・スティーリーの目をした男」と突然出くわした。彼とリックはまるで磁石がはじきあうようにお互いに飛びのき、鉢合わせしたことに一瞬驚いた表情を浮かべ、大げさに貧乏揺すりをしたり地面に目をやったりしていた。エレベーターの扉が開くと我々は乗り込み、緊張した空気の中、2つ上のフロアに向かったが、リックと「オールド・スティーリーの目をした男」は、怒った雄猫同士のように殊更にお互いを無視しあっていた。

目的の階に到着したリックと私はホッとしてエレベーターを降り、中二階へと進んでいった。

「じゃあ、あれがポール・マクガヴァーンだったわけですか?」。私は笑いを抑えながら尋ねた。

「どうしてそれがわかったんだ?」。リックは驚いたような、それでいて嬉しそうな顔をした。

私は笑いながら、彼とその仲間を一週間ずっと観察していたこと、リックと彼の間で目配せが交わされるのを見たこと、そして彼がビルの話の中でマクガヴァーンの名前が出た途端に退席していったことを説明した。

「よくやったな。MI6で働けるんじゃないか? しかしだ。君がジョンと一緒にパンダエクスプレスで麺を食べているのを、我々がホテルのバーから見ているのは気づかなかっただろ!」。リックは破顔一笑し、満足げに私を見た。彼にとってはこういったこと全てがゲームなのだろう。そんなことを強く思った。そのゲームが何なのか、私には全くわからなかったのだけれど。

撮影はうまく進んだ。リックはカメラの前では自然体であった。彼はポール・ベネウィッツについて、そしてこういった会議を情報機関が監視する必要性について、ちょっとだけ話した。また彼は、自分はセルポに関する件には全く関わっていないのだと主張した。彼はただの民間人として興味を持っただけだというのだった。

その夜、メインホールではミステリーサークルに関する映画が上映された。ジョンと私はそれを見に行くことにした。我々は、ミステリーサークルの作り手たち(自分たちもそうだったわけだが)の仕事と、リックが関与していた情報操作の仕事の類似点ということについて考えていた。どちらのグループも秘密裏に活動し、UFOに関する新たな物語を作り出し、そしてその物語は独り歩きしていった――書籍やUFO会議、ハリウッド映画、強力な信仰の体系といったものとして。どちらのグループも、自分たちの活動を取り巻く神話がますます大きく、複雑になっていく様子をリングサイド席から見守ってきた。どちらのグループも当初は沈黙を強いられた。やがて彼らは、ビル・ムーアや一部のミステリーサークルの作り手がそうしたように沈黙を破った。だが、その時点で彼らは、神話を信じる者たちによって「自分たちが作り手であったこと」を否定されてしまった。実際のところ、ミステリーサークルの作り手と情報操作のアーティストたちの違いは、彼らはその仕事で報酬を得ているが、私たちは得ていないという点ぐらいだ。もしもUFO神話の発展に関与した組織が、自分たちの役割を明らかにしたとしても、すぐに同じように滑稽な状況に陥ってしまうだろう。信者たちは真実を知りたがっているのではない。ただ自分たちの既存の信念が確認され、詳しい話が積み重ねられていくことを望んでいるだけなのだ。

ジョンと私は暗くなったホールに入り、小麦が押しつぶされたウィルトシャーの畑の見慣れた光景を目にした。そこには、リックが一人で座っているテーブルがあった。私たちは横に座った。ミステリーサークルの専門家が異常な放射線値や遺伝子操作された作物について発言するたびに、ジョンと私は笑いをこらえるのに苦労した。私たちのチームがデザインしたいくつかのサークルも、荘厳にスクリーン上を滑っていった。私は思った。AFOSIのエージェントがUFO雑誌をめくるたびに感じているのも、こういうことなのだろうな、と。

私たちの喜んでいる姿はリックの注意を引いた。ジョンは彼に身を寄せて、「こういうサークルの中には僕が作ったものもあるんだ」と言うと、リックはびっくりしたようだった。「どうやって!?」と彼は小声で叫んだ。これには我々もリック以上に驚いた。彼は、ミステリーサークルが人間の手で作られていることを知っているはずではないか? そして彼は、我々と会う前にジョンの「サークルメーカーズ」のウェブサイトを調べていたはずではないか?

スクリーンでは、2つの光の玉が巨大なミステリーサークルを作り出す像が流れていた。この業界では「オリバーズ・キャッスル映像」として知られているものだ。「あれを作ったのは僕です」とジョンが言った。実際そうなのだった。彼は1996年、他の2人の仲間とデジタル特殊効果の技術者と一緒にこれを制作したのだ。リックは明らかに感銘を受けたようすで、観客から漏れたかすかな驚きの声にも、彼がそんな反応をしても当然だろうと思わせるものがあった。

映画が終わった後、リックはそれほど驚いてはいないのだという風を装った。「まあ、全部知ってたさ」と彼は言いながら、シャツの隅でメガネを拭いていた。「ミステリーサークルが人の手で作られていることは知っていたよ。君たちに夢を壊されたわけじゃない! でも……どうやって作ったんだ?」

外に出た我々は、クロップサークルの作り方やUFOをデッチ上げる方法、デジタルを用いたトリックなどについて話した。そして、最近ではUFOのビデオが偽物かどうかを判断するのはほぼ不可能であり、奇妙な乗り物がクッキリ映っているほど本物である可能性は低いという、とても残念な状況が生まれているといったことも。

「それでですが」とジョンが尋ねた。「あなたが今朝見たエイリアンへのインタビュー映像、それは特殊効果の産物ではなかったと明言できますか?」

「うん、あれは本物だよ。」リックの顔に狡猾そうな表情が一瞬浮かんだ。そして彼は微笑んだ。「さあ、君たちもあの映像を見に行ったらどうだい。部屋は11012号室だ。ノックすれば入れてくれるかもしれないよ」

ジョンと私は顔を見合わせ、リックとは後でホテルのバーでまた会うことにしてから、笑顔を交わしてエレベーターへと向かった。エレベーターの中に入ると、急に緊張感が高まった。計画を立てるような時間はほとんどなかった。

「じゃあ、ドアをノックして『こんにちは。エイリアンの映像を見せてくれるのはここですか?』って言えばいいんだな。ロビーにいたら誰かが近づいてきてここで特別上映があるって教えてくれた、と言えばいい。最悪、追い払われるだけだ」

「ずっと僕たちのことを監視していたかもしれないよ」。そうジョンが言った。「リックと一緒にいたことは彼らも見ていたはずだ。リックに教えられたってことは分かってるだろう」

「でもどうすればいいっていうんだ?」。私は不安を隠そうとしつつ応えた。「ノックするしかないだろう……」

廊下には誰もいなかった。そして長かった。廊下は奥に行くにつれて、閉所恐怖症になるんじゃないかと思わせるほどすぼまって見えた。気がつけば、カーペットの上にはタイルが並ぶ柄が催眠術のように何度も繰り返され、頭上では蛍光灯が点滅していた。手のひらが汗ばんできた。

前方には「起こさないでください」という札がかかったドアが見えた。この廊下にはこのドアしかない。11012号室。何の変哲もない。私たちはドアの前に立ち、耳を澄ませた。静寂。私は深呼吸をしてノックした。反応なし。いつ「オールド・スティールの眼」をした男と彼の仲間たちが廊下を突進してくるか、気が気ではなかった。「もう一度ノックして」とジョンがささやいた。

私は再びノックした。返事はなかった。私は鍵穴から中を覗いた。電気は消えていた。誰もいなかった。ドアの下にメモを差し込むことも考えたが、代わりに「起こさないでください」の札を裏返していくことにした。名刺代わりということで。

我々は急いでエレベーターに向かい、これは一体何だったのだろうと考えた。また別のゲームなのだろうか? あの部屋は誰のものなのか? DIAの上映室だったのだろうか? それともリックの部屋だったのか?

ホテルのバーに戻り、瓶ビールを飲んだ。少なくとも私たちが挑戦してみたのは確かなことだ。

私たちの会議での一週間は終わろうとしていたが、頃合いはもうギリギリということのようだ。この間、我々はほとんどの時間をUFOやETについて話をすることに費やしていた。我々を現実につなぎ止めているロープは端の方でほつれ始めていた。あと一週間この状態が続いたら、我々はいとも簡単に大海に漂流することになっただろう。あまりにも長くUFOの魅惑的な輝きを見つめていると、そうなってしまうということなのだろうか? ビル・ライアンの身に起きつつあるのもそういうことではないのか? ポール・ベネウィッツの身に起きたのもそういうことではなかったのか? (12←13→14)

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■第12章 百聞は一見にしかず

    「その目的は……テレビ画面を通じて数十億の人間の心を直接条件付けすることだ……情報をコントロールする者が世界を支配する……そこではもはやメッセージに伝えるべき内実などない。メッセージは印象的な誘惑なのだ」
     ――ロフティ・マヘルジ、アルジェリア・アクチュアリテ、1985年3月13-19日

ホテルのバーに戻った我々に、リックはまた色々な話を聞かせてくれた。それによると、ウディ・アレンは大のUFO信者で、あるとき私立探偵を雇ってその真実を探らせたことがあったのだそうだ。その探偵はアレンのクレジットカードを使って1万5000ドルを使い込み、そのまま姿を消した。リックはスティーヴン・スピルバーグの家を訪れたことがあり、彼が空軍から購入したF-16やC-130のフライトシミュレーターを見たそうだ。リックは『Xファイル』や、スピルバーグがエイリアンによるアブダクションをテーマに手がけたミニシリーズ『テイクン』のコンサルタントとしても働いていた。軍のUFO関係者の中には、このような仕事に就いた者も少なくないという。リックは『Xファイル』のエピソードの1つに吸血鬼としてカメオ出演したこともあると言っていた。

ポール・ベネウィッツの精神を乱し、UFOの研究コミュニティを汚染する計画に関与した男が、その後、テレビを通じて何百万もの熱心な視聴者たち――その多くは将来UFO研究者になったはずなのだ――に影響を与える立場にあった。そう考えると、私はいささか心穏やかではいられない気分になった。そうしたコンサルタントたちは、自分たちが作り上げた神話を大衆の意識へと拡散していった時点で、なお空軍やDIA(国防情報局)に所属していたのだろうか?

私はリックに尋ねた。もし政府がUFOやエイリアンに関する真実を知っているのなら、なぜそれを我々一般市民に隠し続ける必要があると考えているのか? 1950年代であれば、エイリアンは共産主義者と同様、恐れるべき存在だったのかもしれない。しかし、『未知との遭遇』や『ET』を体験した我々は、宇宙の隣人に出会う準備ができているのではないか? 異星人とのコンタクトがあってもそれはあまたあるニュースの一つになり、数週間か数か月間は話題になるとしても、やがてはセレブをめぐるニュースやスポーツニュースに飲み込まれてしまうのではないか?

それに、もし1947年にエイリアンとの接触があったのなら、それから何か成果が上がっているのではないか? 世界は何か変わっただろうか? 我々は今でも資源を巡って争い、環境を破壊している。クラトゥのような、銀河を股にかける警察官はどこにいるのか? 人類の技術の進歩を考えてみても飛躍的な進歩などあったろうか? フリーエネルギーはどこにあるのか? 個人で飛ばせる空飛ぶ円盤は? 物質転送装置は? 僕のジェットパックはどこにあるのか?

「君は自分で答えを言ったじゃないか」。そうリックは言った。「フリーエネルギーだよ。エイリアンはフリーエネルギーを持っているが、そのことを抑えている連中は、一般人がそれを知ったらどうなるかを恐れているんだ。無限のクリーンエネルギー源があれば、石油経済が崩壊し、世界がひっくり返るかもしれない。世界中がカオスに陥る可能性がある。彼らはそういうことを心配しているんだ」

私は納得できなかった。たとえフリーエネルギー源が出てきたとしても、使用量は記録されるだろう。つまりインフラの費用は誰かが負担しなければならないのだ。しかし、確かに移行シナリオは複雑だろうと私は認めた。突然、リックは席を立ち、テーブルを離れた。私は彼を怒らせたのだろうか? 数分後、彼は我々のためにビールを、自分にはクラブソーダを持ってきた。彼は腰を下ろし、ガラスのテーブルの反対側から笑顔をみせた。遠くのスロットマシンのチラつく光が彼の頭の周りで炎のように揺らめいていた。

「君たちが好きだよ」。彼はなお微笑みを残しながらそう言った。「君たちは賢い」

「ありがとう」。私たちもリックが好きだと言った。何かが起きつつあった。

「この一週間、一緒に多くの時間を過ごしたよな。なぜだと思ったことはあるか?」

「ええと、ただ気が合っているんだと思っていました」

「まあ、そうだな。確かに気が合っている。でも、僕のほうは君たちを観察していたんだ。君たちが本当に言っている通りの人物なのか確認する必要があったからね」

「どういう意味ですか? インターネットで調べたとか?」

「そうだ。でも指紋も採取したし、いろんなデータベースでも調べた」

ジョンと私は、お互い顔を見合わせた。信じられない。

「指紋?! 一体どうやって?」。ジョンの声は震えていた。

「それは簡単だよ」。リックは、我々が困惑するのを横目に微笑んだ。「君たちが触ったものから採取できるんだ。ビール瓶みたいなものでもね」。彼はビール瓶を1本持ち上げた。「ここには指紋がびっしりだ。でも心配しないでいい。君たちはリストには載っていない。クリーンだ。問題ない」

「何のリストですか?」

「外国のスパイじゃないか、犯罪者じゃないか。そんなことを調べたのさ」

「でも僕たちはミステリーサークルを作った。あれは犯罪だよ!」。ジョンはそわそわしつつ笑った。

「心配ない。そんなことでは逮捕しないよ!」

しばし間が空いて、空気がちょっと軽くなるのを感じた。

「そこでだ。僕はDIAや政府の友人たちと話をしていたんだが、君たちが関心をもつかもしれないような提案が彼らからあった」

おっと、何てことだ。

「君たちがかなり乏しい予算で活動しているのは知っている。それで彼らは、その点で君たちを少し助けてあげられるかもしれないと言うんだ。要するに、撮影をいくらか支援してやれるということだろうね。……ただし、もし自分たちが作っている映画の内容に関していくつか提案を受け入れる用意があれば、だが」

重苦しい空気が漂った。ジョンの顔が青ざめていた。私は少しめまいを感じた。リックがビールに何かを入れたのか? 彼は続けた。

「彼らは君たちの映画用に映像素材を提供しようとしているのかもしれない――僕が昨日見たようなものをね。あるいは、この映画プロジェクト全体を指揮する代わりに、君たちが要した時間分も含めて全予算を負担しようということかもしれない。よく分からないが、25万ドル、いや50万ドル出すつもりかもしれないね。……こういう話に興味はあるかい?」

私は咳払いをし、口を開こうとした。と、そこでジョンが話し始めた。「リック、僕たちはお金のためにやっているわけじゃないんだ。もしそうだったら、こんなことはしていない。何か別の映画を作っているだろうね」

「君たちが倫理的な人たちだということは評価しているし、だからこそ嬉しい。それが僕が君たちを好きな理由の一つなんだ。君たちは偏見を持たず、えこひいきはしない。物事の真実を知ろうとしているだけだ。その点は尊敬しているし、同じ立場だったら、僕もそうするだろう」

「そうですねえ」。私はできる限りビジネスライクに聞こえるように言った。「彼らの提案には目を通してみましょう。そのまま通すつもりはありませんが、良いアイデアや良い素材があるかもしれない。大手スタジオや広告代理店のために映画を作るようなものだと思えばいいのかもしれないですね。ただし、そこで宣伝するのはUFOなんですが!」

「そうだね、そんなふうに考えることもできるだろう。とにかく、この話について考える時間を君たちにあげるよ。僕は明日ニューメキシコに戻る予定だ。出発前にもう一度会おう。そして、来週アルバカーキでまた会えればいいね」

リックが見えなくなると、ジョンと私は同時に安堵のため息をつき、笑い出した。信じられない気持ちだった。こんなことが起こるかもしれないとは予想していたが、実際に起こるとは思ってもみなかった。それにしても、何が起きたのだろう? あれは現実だったのか、それともまたまたリックのいたずらだったのか?

私たちは、どんな提案であれ少なくとも検討はしてみるべきだということで一致した。最終的には自分たちの有利になるように事を運べるかもしれないし、優位を保つこともできるだろう。政府のニセ情報とUFOに関する映画を作るのに、実際のニセ情報を使うことができたら、これほど適切なことはないだろう。もし彼らが「ETはいる」という宣伝映画を作れと言ってきたら、そのお金をどこにつぎ込むべきかを教えてあげることになるだろう――もちろん丁寧にではあるが。そして、彼らの提案を受け入れなかった場合には、映画冒頭に次のようなテロップを入れるのも面白いかもしれない。「『ミラージュ・メン』の制作中、アメリカ国防情報局は我々に50万ドルを提供し、彼らの望む映画を作るように求めた。我々はその提案を断った」

結局のところ、リックのいかがわしい提案は実らなかった。彼は「向こうから連絡を取ってくるだろう」と言って情報畑のある人物の名前を教えてくれた。しかし、それから数週間、首を長くして待ったジョンと私は、つれない現実を受け入れねばならなくなった――米政府は我々に関心を示さなかったのか、そうでなければリックの教えてくれた人物はそもそも実在しなかったのである。いずれにせよここで言えることは、我々の映画が仮にアメリカの防衛当局から便宜を受けたとしても、それは初めての事例ではなかったということだ。

1953年当時、CIAのロバートソン・パネルは、「未確認飛行物体に付与されてしまった特別な地位や、残念ながらそれがまとってしまったナゾめいたオーラをはぎ取る」ために、「広範な教育プログラム」を立ち上げることを勧奨していた。こうした教育プログラムに関わった企業として名前が取り沙汰された会社の中にはウォルト・ディズニー社があり、同社を代表するアニメーターの一人によれば、こうした活動は2年後に実際に行われたのだという。ウォード・キンボールはウォルト・ディズニーに近い立場にあったアニメーター兼デザイナーだった。彼は『ピノキオ』のジミニー・クリケットや『ダンボ』におけるカラスたちを作り出し、ディズニーの短編映画で2度オスカーを受賞している。

1950年代半ば、キンボールはドイツのロケット科学者ウェルナー・フォン・ブラウンをフィーチャーした3つのテレビ番組、すなわち『宇宙における人類 Man in Space』『人類と月 Man and the Moon』『火星とその彼方へ Mars and Beyond』の脚本を執筆し、監督した。これらの「科学ドキュメンタリー」映画は非常に人気があり、アメリカの宇宙開発プログラムへの支持を広めたり、将来宇宙飛行士になることを夢見る子供たちを多数生み出す効果をもたらした。いかめしいが慈愛を感じさせるフォン・ブラウンはここで、4段ロケットや宇宙ステーション、そして最終的に火星やそれ以遠に人類を送り込む原子力宇宙船の計画を披露した。アイゼンハワー大統領は『宇宙における人類』を個人的にコピーしてくれるよう求めたとされ、ロシアの著名な宇宙科学者レオニード・セドフも同様な求めをしたと言われている。

ウォード・キンボールはまた、熱心なUFO愛好家でもあり、生涯にわたってその興味を持ち続けていた。1979年、彼は予告なしに「ミューチュアルUFOネットワーク」の年次会議に現れ、アメリカ空軍は1955年、ウォルト・ディズニーにUFOに関するドキュメンタリー映画を作ることを提案したことがあると語った。空軍はディズニーに実際のUFO映像を提供することを約束し、ディズニーは映画に登場させるエイリアンのキャラクター作りの仕事をアニメーターたちに命じた。しかし、結局空軍はUFO映像を提供せず、ディズニーはプロジェクトを中止するに至った。ただし、この時のエイリアンのキャラクターのうち幾つかは、一般公開されなかった15分のUFO映画に登場している。

キンボールは、空軍とディズニーがコラボした目的は、アメリカ人をETとの接触の現実に備えさせるためだと考えていた。こうした噂は、キリスト教色の強いUFO寓話ともいえるロバート・ワイズ監督の『地球が静止する日』(1951年)や、25年後のスピルバーグの啓示的映画『未知との遭遇』にもつきまとっている。スティーブン・スピルバーグやロバート・ワイズの動機がどんなものだったのかはハッキリしないが、おそらく彼らも他の我々と同じように新聞やUFO本で読んだことに影響を受けたのであり、彼らの映画はその影響の産物だった可能性は高い。

しかし、それらとは別に空軍によって完全に公認された映画も一つある。そのメッセージは明確だった。「UFOは実在する」というものだった。

■UFO: 過去、現在、未来

ボブとマーガレット・エメネガー夫妻は親しみやすくて陽気なカップルで、年齢は60代後半から70代前半である。彼らは、アーカンソー州の緑豊かな農地にあって、美しいイギリス風のアンティーク家具が並ぶ美しくて大きな家に住んでいる。夫妻が出会ったのは二人がロサンゼルスにある巨大な広告会社「グレイ」で働いていた頃で、マーガレットはデザイナー、ボブは最終的にクリエイティブ・ディレクターになった。マーガレットは愉快で弁舌鋭く、折れないタイプ。ボブも同様に快活ではあるが、性格はより穏やかでリラックスしたタイプだ。

夫妻は共に引退しているが、地域社会では活発に活動している。ボブは地元の音楽イベントを仕切り、地域のオーケストラで演奏をしている。彼は才能ある音楽家であり、ユーモアのセンスもある。1970年代初頭の人気テレビシリーズ『チンパン探偵ムッシュバラバラ Lancelot Link: Secret Chimp』の音楽を作曲したことを誇りに思っている。ちなみにこれは、主人公のチンパンジーがロックバンドで演奏しながら二重スパイとして活躍するという番組だ。


ボブとマーガレットは、ETはかつて地球を訪れたことがあり、おそらくは今でも地球にいるのではないかと信じている。マーガレットは、元サッカー選手から陰謀論者に転じたデイヴィッド・アイクの説だとか、2001年9月11日の事件にまつわる疑問、そして人間とエイリアンのハイブリッドでサイキック能力を持つ「インディゴ・キッズ」について話すのが好きだ。ボブは必ずしもマーガレットの全ての見解に同意しているわけではないが、UFOに関しては一定の知識を持っている。映画制作者として、ボブはおそらく他の一般市民よりもUFOの真相に近づいているのだが、そうした仕事をするよう仕向けたのはアメリカ空軍であった。

1970年代初頭、ボブ・エメネガーと彼の制作パートナーであるアラン・サンドラーは、古くさくなってしまった企業ブランドを復活させるような仕事で評判を得ていた(例えばリチャード・ニクソン大統領の再選キャンペーンといったものである)。1972年、彼らはペンタゴンのためにそのマジックを披露するよう依頼された。当時の国防総省は困難な状況に直面していた。ベトナム戦争は10年近くもダラダラ続き、アメリカ国民が政府に抱いていた僅かばかりの信頼はほとんど無に帰そうとしていた。国防総省には後押しが必要だったのだ。ひとつには自らの士気を高めるため、もう一つには人々に入隊を促すために。サンドラーとエメネガーはその手助けをできるのだろうか?

彼らの映画は、当時の軍内部にあって特にエキゾチックで刺激的なネタに焦点を当てることになった。エメネガーは、海軍で訓練を受けているイルカ、新たな原子融合技術、人間の心とコンピュータをつなぐインターフェース、偵察や爆弾探知の訓練を受けた犬を見たことを覚えている。いくつかの犬が頭にマイクロチップが埋め込まれているシーンもあったが、しかし、それは映画館でポップコーンを食べながら見たいようなネタではなかった。

先進的なレーザー技術やホログラフィーといった新技術も目玉の一つであった。アラン・サンドラーは、とりわけ印象的なホログラフィックのデモンストレーションを見せられた。映写室には端っこに小さな舞台があった。カーテンが開くと一人の男性が登場し、ペンタゴンの最新鋭ホログラフィー投影技術を紹介した。するとその瞬間、突然小さな鳥が舞台袖から飛び出し、その男性の肩に止まった。彼が微笑むと、その男性と鳥は消えてしまった。それ自体がデモンストレーションだったのだ。

犬やイルカ、レーザーは確かに興味深いが、それだけでは足りなかった。グレイ社の二人はもっと劇的なものを求めていた。そして、ペンタゴンの担当者はそうしたものを差し出すことになった。UFOである。サンドラーとエメネガーは、ロサンゼルス郊外のノートン空軍基地に招かれ、基地のAFOSI(空軍特別捜査局)長や、AFOSIに関係する保安担当官であり、空軍の映画取得部門の責任者でもあったポール・シャートルに会った。

空軍がUFO調査機関「プロジェクト・ブルーブック」を閉鎖してからまだ3年しか経っていない時期だった。それだけに、UFOに関するプロモーション映画をグレイ社に依頼することにはほとんど意味がなかった。しかし、ペンタゴンは真剣だった。二人は空軍のトップであるジョージ・ワインブレナー大佐とウィリアム・コールマン大佐に引き合わされた。ワインブレナーは、ライト・パターソン空軍基地にある外国技術部門(FTD)の司令官であった。FTDは今日の国家航空宇宙情報センターであるが、過去も現在も変わらることなく、空軍が保持していない技術に関する情報の中心地だった。もし本物のUFOについて知っている者がいるなら、それはワインブレナーであった。あるいはコールマンが知っていた可能性もある。彼は1960年代にブルーブックの広報連絡官を務めており、会見の時点では空軍の最高情報責任者だった。

ブルーブック時代のコールマンは、アメリカのトーク番組の司会者であるマーヴ・グリフィンにこう語ったことがある。「UFOのタイヤを蹴飛ばすことでもできたらUFOを信じますよ」。この発言に対しては「UFOにはタイヤなどない」という手紙が大量に寄せられたという。だが、コールマンが当時言及しなかったことがある。彼は1955年、B-52爆撃機でアラバマ州とフロリダ州の州境上空を飛行中、自らUFOを目撃していた。それは完璧な銀色の輝く円盤で、あまりにも至近距離であったため、彼は衝突を避けようとして巨大な爆撃機の方向を急ぎ変える必要があったという。円盤はいったん消えた後、飛行機から約2,000フィート下方、地表から100フィート付近に再び出現し、影を落とす一方で巨大な土煙を巻き上げた。

幻覚では土煙は立たない。コールマンと4人のクルーは非の打ち所のない報告書を作成し、プロジェクト・ブルーブックに提出した。コールマンが10年後にブルーブックから退くことになった時、彼は自分の報告書の記録がないことを知って驚いた。1999年にインタビューされた際、コールマンはこれを管理の不備に起因すると寛大な解釈を下していたが、UFOハンターたちは長い間、ブルーブックというのは、より秘密に行われているもう一つの作戦の隠れ蓑だと主張していた。この主張が真実であったことは、1979年に公開された1969年作成のメモ(これはブルーブックの閉鎖を記すものだった)によって最終的に証明された。その核心部分にはこうある。「国家安全保障に影響を与える可能性のある未確認飛行物体の報告は……ブルーブックのシステムの所管外である」

コールマン大佐とワインブレナー大佐は、空軍がUFOに関心を持っていることを示すのに熱心だった。空軍のファイルに自由にアクセスできると告げられたサンドラーとエメネガーは、UFOに関する映画を作ることを決めた。大佐たちは、機密情報を扱う際の危険性について映画製作者に警告しながらも、米国上空のみならず宇宙空間のものも含むUFOの膨大なデータ、写真、映像を提供することを約束した。さらに彼らは、CIAの高官を含む人たちによる至近距離からのUFO目撃の証拠だとか、とりわけ劇的な事例として1971年にホロマン空軍基地で実際に起きたETの宇宙船の着陸映像があることをほのめかした。映画『UFO: 過去、現在、未来』は、アメリカ空軍はUFOに本気で関心を持っているだけではなく、UFOとは何であり、その中に誰がいるのかを知っていることを示す作品になる予定だった。

大佐たちはこの資料を映画製作者たちに提供するためなら、どんなことでも厭わなかった。サンドラーはNASAに宇宙空間でのUFOの写真や映像を求めたが、NASAは門前払いをくらわし、そんな資料は持っていないと拒絶した。サンドラーがこのことをアメリカ空軍の担当に伝えると、空軍は「UFOが目撃されたNASAのフライト」「関係した宇宙飛行士の名前」、さらには「関係する映像のフレーム番号」にいたるまで詳しく記したペーパーを渡してくれた。この新情報を携えてNASAを再訪したサンドラーは、目当てのものを手にすることができた。もっとも、その画像にはぼやけて不鮮明なものしか映ってはいなかったのであるが。

なぜ空軍は、この程度の曖昧模糊とした資料を映画製作者たちに渡すために、多大な努力を払ったのか。これはこの事案にまつわる多くの疑問の中の一つに過ぎない。

さらに不可解なのは、コールマンを通じて映画製作者たちと接触したロバート・フレンド中佐が、彼らに語った話の内容である。フレンドはAFOSI(空軍特別捜査局)で働いていたが、1958年から1963年まで、少佐としてプロジェクト・ブルーブックの責任者を務めていた(ちなみにこのプロジェクトの要員は彼が去る頃には2名に減っていた)。

1959年7月初旬、フレンドはCIAの国家写真解釈センター(NPIC)で海軍情報部の司令官2人とCIAの職員たちと会うように求められた。U-2偵察機による写真データの分析を行うため1954年に設立されたNPICは、ワシントンDCの5番街とKストリートの区画にある駐車場ビル最上階にひっそりと置かれていた。2人の海軍司令官はメイン州のフランシス・スワンという女性を訪問してきたのだが、その女性によれば、彼女はAFFAという名の地球外生命体とテレパシーで交信しているのだという。このAFFAはOEEVという組織のリーダーで、EUNZAと呼ばれる地球での調査プロジェクトを進めているということであった。海軍の司令官たちは懐疑的であったが、スワンに複雑な技術的・天文学的な質問を投げかけると、驚いたことに彼女は正しい答えを返してきたのだという。AFFAはその後、交信チャンネルは切り替えられるので、海軍の人物を介して交信したいと提案。その海軍の司令官は同僚の発する難しい質問にちゃんと答え続けたという。[訳注:要するに海軍の軍人がチャネリングに挑戦したという話である]

この奇妙な出来事がワシントンに伝えられると、2人の司令官はCIAの写真センターに召喚された。かくて1959年7月6日、。先の海軍の人物をAFFAとの伝達役として、彼らは再び交信実験を行うことになった。ここでエイリアンが実在する証拠を求められたAFFAは、「窓のところに行け」と言った。するとその時、ごく近い距離を一機の空飛ぶ円盤がゆっくりと通過していった。驚いた列席者は近隣のレーダーセンターに問い合わせをしたが、返ってきた返答は「スコープ上には何も見えない」というものだった。彼らはこの時点でロバート・フレンドに助けを求めたのである。

3日後、フレンドは新たな交信セッションに立ち会うことになった。AFFAはこの時も前回同様、海軍の司令官を通じて話をすることになった。この時はフレンドが「空飛ぶ円盤を見たいのだが」と言ったところ、AFFAは「今はまだダメだ」と答えた。飛ぶのを見られなかったことには失望したが、海軍の司令官のトランス状態は本物だと確信したフレンドは、ライト・パターソンの上官に報告書を提出した。

ボブ・エメネガーは、フレンドを通じてこの会合についてのCIAのメモを入手したが、このメモは、NPICの創設者であり、CIAのロバートソン・パネルのために写真分析を行ったアーサー・ランダールが書いたものであると目された。このメモによってフレンドの説明通りの出来事が起きたことが裏付けられた形となり、これはエメネガーの映画の中でETとのコンタクトがあった証拠として取り上げられた。しかし、1979年にランダールとの連絡が取れた際、彼は1959年7月6日にNPICの窓のところに空飛ぶ円盤が現れたことを否定した。また彼は、件のメモを書いたことも否定した。

    私は一瞬たりとも、件の海軍将校が宇宙と交信していると信じたことはないし、UFOを見たこともない。我々がそんなデモンストレーションをやってみせろと言ったこともない。彼の説明によれば、スワン夫人は「自動書記」なるものを見せてくれたということで、もし求められれば私にも見せようということを言っていた……彼が私を [会議の出席者に] 選んだのは、私が彼の友人だったからだと思う……私は地球以外に知的生命体が存在することを信じているが、この件に関して言えば、彼に対してただただ同情と恥ずかしさを感じるばかりだった。厄介ごとに巻き込まれた男、私の友人だった男、そして上官に知られたら確実にキャリアを台無しにしてしまうような目に遭った男に対する思いとして。

もしランダールが真実を語っているなら、エメネガーに渡されたCIAのメモは誰が作成したのか。宇宙人に関する話に信憑性を与えるように詳細が改竄されたのは何故か。ランダールは、この会合が実際に行われたこと、CIAと海軍情報部が関与していたことは明確に認めている。ロバート・フレンドが調査に呼び出されたことも確かである。しかし、重要な細部――とりわけ本物の空飛ぶ円盤の出現が報告書に追加されてしまったことで、事態はよりドラマティックになり、空飛ぶ円盤の信者たちの掲げる火には油が注がれ、懐疑的な人々の疑念は膨らむことになった。この出来事は、ベネウィッツ事件に先駆けること10年前、エメネガーに対して示されたAFOSIの古典的ニセ情報作戦の一例であったように見えるのだ。

しかし、映画製作者たちにとって垂涎の的となったのは、エメネガーが聞かされたストーリー、すなわち1971年5月の早朝にホロマン空軍基地で起こったUFO着陸の話であった。彼が聞いた話では、まず最初に3機の飛行円盤が基地上空に現れ、そのうちの1機が不安定に揺れながら降下を始めた。それは地上から数フィートの高さで短時間ホバリングした後、3本の脚で着地した。偶然ではあったが、ヘリコプターに乗っていた空軍の映画撮影班はこの降下の様子を撮影しており、地上からは別の撮影班がこのシーンを捉えていた。

エメネガーはこの映画にリンクして刊行されたミリオンセラーの中で、空軍のフィルムアーキビストで、この出来事を目撃したと主張するポール・シャートルから聞いた話を描写している。


    司令官と2名の将校、それから空軍の科学者2名が到着し、不安げに待っていた。やがて、機体の側面にあるパネルが開いた。そこから外に1人、次に2人目、そして3人目が現れた。彼らは、タイトなジャンプスーツを着た人間のように見えた。背丈は我々の基準では低いかもしれず、顔色は奇妙な青灰色で、目は遠く離れて配置されていた。大きく目立つ鼻を持ち、頭部にはロープ状のデザインを思わせるヘッドピースを着用していた。

司令官と2名の科学者が前に進み、訪問者たちを迎えた。音声を介さないような形でのコミュニケーションが行われ、グループはすぐに「キング1」エリアの室内に入っていった。


その後何が起こったのか、宇宙人が何を話したのか、何を食べたのか、彼らが贈り物を持ってきたかどうか。これらは不明である。

ホロマンでの撮影を準備する中、エメネガーは管制官の一人に着陸について尋ねた。彼は「飛ぶ浴槽」のような物体が着陸するのを見たことを覚えていたが、それ以上の話はしなかった。エメネガーは火星ストリートにあるビルディング930に案内された。そこには宇宙人とその機体が滞在中保管されていたというが、今では特に異常なものはなかった。ホロマンでの撮影が完了した後、サンドラーとエメネガーは、このプロジェクトをUFOドキュメンタリーから歴史的事件に生まれ変わらせてしまう映像が届くのを待ちわびていた。しかし、映像は決して現れなかった。

落胆した様子のコールマン大佐は、こう告げた。――ペンタゴンの上層部が「今はこのとりわけ厄介な問題を掘り下げるのに良い時期ではない」と判断したのだと。当時、ウォーターゲート事件やニクソン政権の崩壊は人々を神経質にさせていたのだ。彼らは、その代わりにこの事件を「将来起こるかもしれないこと」として描くよう勧められた。せめてもの慰めとして、映画製作者たちは、何やらハッキリしない物体がホロマンの滑走路と思われる場所に降下する映像をいくつか映画に取り入れた。この映像は実際の着陸映像の一部だという噂は根強く残っているが、エメネガーはそれを「単にホロマンで実験機が着陸する様子を自分たちのカメラマンが捉えたものだ」と述べている。エイリアンとの遭遇についていえば、サンドラーとエメネガーは、ポール・シャートルの説明を基にしたアーティストの想像画で代用するしかなかった。

怒ったエメネガーは、ライト・パターソンにいるワインブレナー大佐との面会を要求し、なぜ映像が自分たちから奪われたのかを問いただした。ワインブレナーは不満そうに大声で言った。「あのミグ25のせいだ!こちらは持っているものを全部公開しているというのに、ソ連には我々が知らないものがたくさんある。もっとミグ25について知る必要がある!」。彼は前年に出版されたJ・アレン・ハイネックの『UFO体験』を本棚から取り出し、その中にある自分宛の献辞をエメネガーに見せた。「カフカの物語の一場面のようだった」。エメネガーはそう回想している。

それでは、映像は実際に存在していたのか、それとも単なる「撒き餌」だったのか? それは映画製作者たちに、自分たちの「ドキュメンタリー」はUFO現象の虚偽広告以上のものになるという確信を抱かせるためのルアーだったのだろうか?ポール・シャートルは、自分が見たのは本物だとしつつ、それは空軍が訓練用に映画スタジオから購入したフィルムだったのだろうと主張している。だが彼は、それはニセモノだと考えるにはあまりに「本物っぽかった」とも言っていて、何とも役に立たない。

『UFO: 過去・現在・未来』は、興味深いコーダ(締めくくり)で終わる。そこでは、社会学者のグループがETとの接触に関する真実をどのように公開するのが最善かを調べるため、大衆の信念のありようについて論じている。

ある社会学者は、「ETたちがあまりにも進歩していたり、アメリカの新しい友人より優れているように見えたらよろしくないのではないか」という懸念を表明している。アメリカ人が「ETたちは最初の開拓者がインディアンを扱ったように自分たちを扱うのではないか」と恐れるかもしれないから、というのだ。そこで彼は政府にこんなアピールをするよう推奨する。ETたちは「宇宙の平和、がんの治療法、太陽エネルギー」といった多くのものを提供してくれるかもしれないが、アメリカ人にだってETたちに与えられるものはいっぱいある。「ジャズ、ヤル気、カーネル・サンダースのフライドチキン」といったものがあるんだ、と。

別の社会学者は心理学者A.C.エルムズを引用している。「本当に必要とされているのは、宇宙からの敵対的な侵略者だ。そうすれば我々は一つの種として団結し、侵略者を追い出し、その後は平和に暮らすことができるだろう」。これはバーナード・ニューマンの『フライングソーサー』でおなじみのテーマである。最も興味深いのは、匿名の社会学者である。彼は、テレビでホロマンの映像のようなものが放映された時のインパクトに考えをめぐらした末、そこに登場するであろう「自称地球外起源人間型有機物 Humanoid Organisms Allegedly Extraterrestrial」という仮説的概念――略してHOAEXについて論及している。これについては我々が思うがままに解釈すればよいだろう。[訳注:舌足らずなので捕捉すると、HOAEXというのはもちろんHOAX デッチ上げのもじり。映像を信用しない人々によって「エイリアンの飛来はウソだ」という主張が盛り上がるだろうという含意]

こうした研究を集約しているのは、UFOカルト研究の古典『予言が外れるとき』(1956年)の著者、レオン・フェスティンガーである。フェスティンガーと2人の同僚は、シカゴの主婦マリオン・キーチ率いるUFOカルトに参加した。キーチはクラリオンという惑星からの宇宙人からメッセージを受け取っていた。1954年12月21日に起こるとされた世界的な洪水の予言が外れたとき、彼女の信者たちの多くはグループを去るどころか、むしろ信仰にさらに固執するようになった。フェスティンガーは、人が何かを真実であると信じているのに全ての証拠がそれを否定した場合、人は新しい信念体系に基づいて人生を再出発させるよりも、しばしば古い信念に執着し、現実との矛盾に対抗する新たな説明を生み出すということを発見した。フェスティンガーはこの反応を「認知的不協和」と呼んだが、これはUFOの分野や他のあまたの信念体系において繰り返し見られる現象である。

好奇心をそそってやまない『UFOs: 過去・現在・未来』は、『トワイライト・ゾーン』の創作者ロッド・サーリングがナレーションを担当した。それはUFOの実在を裏付ける真っ当な事例を紹介するもので、ロバート・フレンド、ウィリアム・コールマン、J.アレン・ハイネックが出演している。1974年の公開時にはそこそこの成功にとどまったが、スピルバーグの『未知との遭遇』が大ヒットした1979年に同作は再び注目された。『UFOs: それは始まっている』という新タイトルが付けられたこの拡張版には、キャトル・ミューティレーションがETによって行われている事を示唆する新たな素材や、ダルシェ周辺で行った調査について語るゲイブ・バルデスのインタビューが含まれている。

ボブ・エメネガーとUFOストーリーとの関わりはこれで終わらなかった。1980年代半ば、彼は国防音響映像局(DAVA)の高官2名から接触を受けた。1人は同局の局長ボブ・スコットで、もう1人は彼の補佐役にして、退役陸軍大将のグレン・ミラーだった。ミラーはかつてジョージ・パットン将軍と共に働き、さらにロナルド・レーガンのハリウッドでの最初のエージェントでもあった。スコットは以前、東欧を中心にアメリカ支持のプロパガンダを発信していた米国情報局で働いていた。今回も、プロジェクトを進めたのはコールマンとシャートルで、彼らはスコット、ミラー、エメネガーを引き合わせた。そして再び、空軍がUFOの秘密を公にする準備ができていると約束したのである。何回か奇妙な会合が開かれたが、そんな機会にスコットが「地球は複数のET種族の訪問を受けている」といった確信を語ったこともあった。だが、結局このプロジェクトは中止された。

1988年、ホロマン着陸事件は、『UFOカバーアップ・ライブ!』という悪趣味な番組が全国放送されたことで再び国民の前に浮上した。これは1988年10月18日に放映されたもので、番組はエメネガーがグレイ社で働いていた当時の同僚、マイケル・セリグマンがプロデュースした。彼はかつてはアカデミー賞授賞式を制作していた人物だが、エメネガーによれば、UFOの陰謀論に首を突っ込むようなことよりはカネ儲けの方にはるかに興味があった。この番組では、ボブ・エメネガーが自らの話を語り、シャートルはホロマンでの着陸映像を見た話を改めてしゃべった。

番組で最も印象的なシーンの一つは、ファルコンとコンドルという名前で紹介された空軍内部のインサイダー2人へのインタビューであった。その顔は影で隠されていたが、このインサイダーたちは驚くべき話を語った。エイリアン種族との条約について、そしてエリア51に収容されている生きたETについてである(彼らは野菜やストロベリーアイスクリームを好み、チベット音楽を聴くのが好きなのだという)。彼らは交換プログラムについても触れたが、それを「セルポ」とは呼ばなかった。この「鳥さん」たちが誰だったのかといえば、他でもない、別名ファルコンのリック・ドーティ(ただしもちろんビル・ムーアの言うオリジナルのファルコンではない)であり、別名コンドルのロバート・コリンズであった。ちなみにこの二人は、2005年に『Exempt from Disclosure』の共著者として再び手を組むことになる。

では、『UFOs: 過去・現在・未来』の目的は何だったのだろうか? 空軍はUFO問題に対する思いは一緒なのだというふりをしてUFOに関心を持つ新兵を引き付けようとしたのだろうか? それとも、ETは来ているという信仰を推し進める心理的プログラムをより広い範囲に広めようとしたのだろうか? UFOに対する一般の関心を高めながら、同時にこの問題への自らの関与を否定するというのは矛盾しているように思えるが、事がUFOに関わる限り、空軍の行動の多くは同様に矛盾している。この映画は空軍内部の意見の分裂を示しているのだろうか。あるいは、コールマンとワインブレナーの背景に見えるAFOSIや外国技術部門を念頭に入れると、むしろカウンターインテリジェンスやディスインフォメーションが目的だった可能性が高いのだろうか?

映画には確かにインパクトがあった。映画の中心にあるホロマン着陸事件は、UFOの世界で長く卓越した地位を占めることになった。『未知との遭遇』のクライマックスは、この事件を基に精巧なディスコ風の再現をしてみせたものであり、30年後にはセルポ事件の中心的な要素ともなった。しかしその前にこの事件は、AFOSIの汚い仕事によるところのもう一つの古典的事案においても重要な役割を果たすことになる。そして我々は、またもやその中心部にリック・ドーティを見ることになる。

■ETファクター

1983年までに、ポール・ベネウィッツの関心というのは、その殆どの部分がダルシェの宇宙人基地に集中するようになっていた。彼の「プロジェクト・ベータ」報告のおかげで、彼の存在と「エイリアンの侵略」というセンセーショナルなストーリーはUFOコミュニティでよく知られるようになっていた。それと同じ時期、ドーティ、ムーア、ボブ・プラットは自分たちのSF小説『アクエリアス・プロジェクト』についての議論をかわしていたのだが、そこで彼らが考えたアイデアの幾つかは、AFOSIがベネウィッツや他の研究者たちに流していたニセのUFO文書に盛り込まれていた。

そんな研究者の一人がリンダ・モールトン・ハウだった。彼女はコロラド州を拠点とするライター兼映画監督で、キャトル・ミューティレーションを扱った1980年のドキュメンタリー『奇妙な収穫』では地域エミー賞を受賞していた。彼女はキャトル・ミューティレーションの調査を通じてポール・ベネウィッツやゲイブ・バルデスと知り合い、この現象にはUFOが関わっていると確信していた。だからHBOがUFOについての映画制作を依頼してきた時、彼女はその好機を逃さなかった。『UFOs: ETファクター』というそのタイトルは、HBOが何を狙っていたのかを物語っている。それは『未知との遭遇』や『ET』の実話版だったのだ。

1983年4月、ハウはドーティからカートランド基地に招かれた。彼女がアルバカーキ空港に到着したとき、UFOは大きな話題となっていた。地元紙の一面には、1980年にカートランドのコヨーテキャニオン上空でUFO目撃が記録されたという空軍文書の公開についてのニュースが掲載されていた。また、地元の科学者ポール・ベネウィッツが、相互UFOネットワークのアルバカーキ支部でUFOについて講演を行ったことも報じられていた。

ドーティは予定通り空港でハウに会うことができず、ようやく姿を見せた時の彼は不安そうで苛立っているように見えた。彼らがカートランドへ向かう途中、ハウはホロマンでのUFOの着陸についてドーティに尋ねた。ドーティはそれは本当にあったことだと答えたが、正確な日付は1964年4月25日で、それはニューメキシコ州ソコロの外れの乾いた谷で、警官ロニー・ザモラが卵型の飛行物体が着陸するのを目撃した数時間後だったと言った。

ドーティはハウを上司のオフィスだという場所に案内し、机を挟んで座った。頑健な牧場主や軽薄なテレビ業界の連中と一緒にいることに慣れていたハウは、民間人然とした服装のドーティをあまり印象に残らないタイプだと思ったが、彼はハウの注意を引く術を知っていた。彼はハウに、彼女の映画『奇妙な収穫』は政府の人々を動揺させたと伝えた。彼女は何か重要なものに近づきつつあるというのだ。彼は、AFOSI(空軍特別調査局)のメンバーとともに、彼女がドキュメンタリーを通じて真実を伝えるのを手伝いたいのだと言った。彼が提供できるもののサンプルとして、ドーティは引き出しを開けて書類を幾つかリンダに手渡した。「上司からこれを見せるように言われています」。そう彼は言った。さらに彼は、窓から遠く離れたところにある大きな鏡の前の椅子に座って書類を読むように言った。「窓越しに監視されているということもあるかもしれませんからね」。彼はそう言った。ハウは、鏡の向こう側では誰かが彼女の反応を見ていたのではないかと今でも考えている。

この時ハウが見たのは、AFOSIが作成した「アクエリアス文書」であり、それは彼女の心を揺さぶった。「アメリカ合衆国大統領へのブリーフィングペーパー」と題されたその文書には、あまり知られていないUFO墜落事件の話が書かれていて、そこにはロズウェル事件のほか、1952年までロスアラモスで生存していたエイリアンEBEの話も書かれていた。EBEの語ったところでは、彼らの種族は数千年前から地球に来ていて、今もなお地球にいるということだった。彼らは人類を遺伝的に作りだし、霊的指導者を通じて我々の進化を導いてきたが、その中には、2千年前に「平和と愛を教えるために送られた」者も含まれていた。こうした内容の多くはビル・ムーアとボブ・プラットが彼らの本について語り合っていた話から出たもので、元はといえばエーリッヒ・フォン・デニケンの『神々の戦車』のおかげでポピュラーになっていたものだった。ムーアはそのアイデアをドーティに渡し、今やそれがハウに伝えられるに至ったというわけだ。

アクエリアス文書によれば、プロジェクト・ブルーブックというのは、極秘にされていた本物のETの技術から大衆の注意を逸らすためにのみ存在したもので、実際のUFOに関する問題はMJ-12という組織によって管理されていたとしている。その文書は、フランク・スカリーの『空飛ぶ円盤の背後で Behind the Flying Saucers』で採り上げられた後、ほとんど忘れ去られていたアズテックでのUFO墜落事件についても言及していた。これは1970年代後半、匿名の空軍情報源からの情報漏洩がうまいこと仕組まれたこともあって再び注目を浴びていたのである。この事件を掘り下げたビル・ムーアは、リック・ドーティやボブ・プラットと議論を重ねていたのだが、その内容はドーティ経由でアクエリアス文書に入り込み、それが再びUFOコミュニティに広まっていったということになる。しかも今度は政府のお墨付きという形だ。そのプロセスというのは実にグルグルと循環しているようで、めまいを覚えざるを得ないほどだ。

ドーティはハウに対して、墜落したUFO、エイリアンの遺体、ホロマンへの着陸映像、そして何とも驚くべきことに生きているイーバEBEの映像を提供しようと言った。さらに彼は、現在米国政府の「客」として滞在しているEBE3に会って、場合によってはその撮影すらできるかもしれないと仄めかした。しかし、これには一つ落とし穴があった。ハウの撮る映画では、UFOのストーリーはソコロ事件があった1964年までに限定されるというのだった。なぜこの年が切り取り線として選ばれたのかは不明だが、おそらくそれはハウをダルシェやベネウィッツの問題から遠ざけるためだったのだろう。

ハウは驚愕した。自分はついにUFOの真実を世界に伝える存在になるのだ。しかし、なぜ空軍はそんな素材をニューヨーク・タイムズやメジャーなテレビのニュース番組にではなく、彼女に与えようというのか。ドーティは、警告を発するような素振りは一切見せずに率直な調子でこう言った――個人の方が大組織より操りやすいし、簡単に信用を失墜させられるからさ、と。

ハウはHBOに「世紀の物語」に備えるように伝えたが、HBOのプロデューサーは、提供されるという映像について後々責任を問われないことを保証する書簡が欲しいと米空軍に主張した。ドーティはハウにそうした書簡を用意すると約束した。数週間が経ち、数ヶ月が経った。ドーティは、EBE1を世話していた空軍大佐とのインタビューをセッティングすることを約束したが、その前に彼女と彼女のスタッフの身元調査を行う必要があると主張した。そして、結局は何も進まなかった。HBOはその間、不安を募らせていた。映像はどこにあるのか? 1983年10月までに、ハウのHBOとの最初の契約は失効し、彼らはその映画制作を断念した。ハウは打ちひしがれた。

数年後、ドーティはハウとの間にこうしたやり取りがあったことを否定したが、ハウはやりとりが実際にあったとする宣誓供述書に署名して対抗した。彼女はまた、ドーティとの間のやり取り、そしてHBOとの間のやり取りを記した文書も明かした。なぜAFOSIがリンダ・ハウを欺こうと決めたのかは不明である。当初からHBOの制作をやめさせる計画であったのか、それともただ予期せぬ事態があってこうなったのか? 理由は正確にはわからないが、彼らがそうしたことをしたのは確かであったし、ドーティは24年後になってハウが述べたようなやり取りがあったことを認めた。その目的は、ベネウィッツに対するAFOSIのニセ情報プログラムに関連していた。ドーティの言葉によれば、「我々はリンダに良い情報と悪い情報を渡した。彼女は悪い情報を選んだ」。彼はこの件についてこれ以上の事は言っていない。

こんな風に徹底的にごまかされて自らのキャリアを害されたリンダ・ハウは、UFOの問題から完全に足を洗ってしまったのではないか――あなたはそう考えるかもしれない。だが実際は、レオン・フェスティンガーの認知的不協和理論に従うように、彼女は地球上にETが来ているというのは本当だとさらに確信するようになり、以来、その事実を記録することに生涯のほとんどを費やしている。

これはユーフォロジーの領域では何度も繰り返されるパターンであって、そこには矛盾とパラドクスがあまりに多くあるために、ビリーバーたちはETの存在を信じ続けるため込み入った理屈を日々新たに発展させていかねばならないのだ。この辺はニセ情報戦略の設計者たちであれば熟知していることであり、ハウを欺いたのを契機に、彼らはさらなる傑作を作りだそうとしたのだった。 (13←14→15)



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■第13章 悪い情報

    調査員に正しい情報を7年間与え続けてみよう。そして8年目の最初の日、あなたが彼を思うがままにしたいと考えて間違った情報を伝えたら、く彼はそれを信じてしまうかもしれない。――『心理戦ケースブック』 (1958年)


「我々はリンダに良い情報と悪い情報を渡した。彼女は悪い情報を選んだ」。リックの言葉は私の心にこびりついて離れなかった。ラフリン・コンベンションが終わろうかという頃、私はディーラーズルームに戻った。そこではたくさんの人々が自分の商品を値引きして販売していた。数多くの本、数多くの雑誌、そして大量の知識。私はちょっと悲しい気持ちになって、こんな風に考えた。ここに並んでいるのは全部悪い情報なのだろうか。仮にそうだとしたら、これはどこからやってきたのだろうか。

■ブラックゲーム

第二次世界大戦中に若き印刷工であったエリック・ハウは、何の拍子か、英国の政治戦執行部(PWE)で働くことになった。彼が部下として就いたのはデイリー・エクスプレスの元外報記者であったデニス・セフトン・デルマーであった。デルマーは英国の敵を欺き、士気をくじいてしまう策を編み出す「ブラックアート」の専門家で、自らを兵士というよりは芸術家だと見なしていた。デルマーの最も悪名高いプロジェクトの一つとして「グスタフ・ジークフリート・アインス」というラジオ局の運営があった。この局は、1941年6月から1943年12月まで、謎のドイツ貴族「デア・シェフ」(指導者の意)による反ナチスの激しい演説をドイツに向けて放送した。デア・シェフのセンセーショナルな演説は、イギリスの情報機関が集めた本当の情報と、政治的腐敗や性的放蕩といった話も含めたナチ高官への誹謗をまぜこぜにしたものだった。デルマーは次のように書いている。「我々が広めたいのはドイツ人たちに打撃を与えて彼らを混乱させてしまうようなニュースだ。それは高尚な政治的動機というよりは普通の人間の弱さに訴えかけることで人々の政府への不信を募らせ、彼らが政府に背くよう仕向けていくことになるだろう」

デルマーのもとで働いていたエリック・ハウの専門分野は印刷で、その仕事は切手や配給カードの偽造にはじまって、より精巧な出版物の製作まで手掛けていた。その一例が「仮病の人 the Malingerer」として知られる104ページの小冊子で、これはヨーロッパ全域のドイツ軍に広く流通した。この小冊子ではヴォールタートと名乗る医学博士(ドクトル・ドゥ・グッド)が、兵士たちが病気や負傷を装って軍務を回避するための様々な方法を推奨していた。その内容は激しい症状を引き起こす薬草の蒸留法から始まって、医師の処方箋の偽造法、靱帯損傷や記憶喪失を装う方法にまで触れていた。この冊子は敵に相当な影響を与えたようである。というのもすぐにドイツ製のバージョンが現れて、それが連合軍兵士の間でも広がったからである。

PWEの最も奇抜な印刷プロジェクトの一つとしては、1942年から1943年までの間に6号まで発行された偽の占星術雑誌「天頂 Der Zenit」があった。エレガントなデザインのこの雑誌は、もともと迷信深かったナチスの心理に影響を与えたのだが(ヒトラーとヒムラーはいずれもお抱えの占星術師を雇っていたほどだ)、その記事は、占星術の見地からヒトラーの主治医の選択からUボートの発進のタイミングに至るまで、ありとあらゆることに疑問を唱えていた。また、この雑誌は巧妙に歪曲されたデータやその解釈をデッチ上げるため本物の占星術師を起用しており、それは多くの真っ当な占星術師ですらしばらくは騙されてしまうほどの説得力を持っていた。こうしたブラックプロパガンダの効果はすぐに明らかになるわけではなく、数ヶ月、時には数年を要することもある。しかし、一度疑念の種が撒かれれば、それはやがて不信の森へと成長する可能性があるのだ。

デルマーのPWEはほぼ白紙の状態から立ち上げられたのだが、第二次世界大戦後、ニセ情報の技術は次第に洗練されていった。冷戦時代には、KGBやアメリカの数多くの情報機関がそれぞれ偽造専門部門を持つようになった。ソビエトがニセ情報活動に費やした金額は推定で年間約30億ドルだが、アメリカはそれを上回る規模で、CIAだけで35億ドルをブラックアート(ないしはグレイアート)に投入していたと推定される。

両陣営がよく用いた手法の一つはニュース記事を「仕込む」ことであった。それは、国内外のニュース機関にエージェントを配置したり、あまり浸透できていない地域ではジャーナリストや編集者を買収したりすることで行われた。世界的なネットワークニュースメディアの成長により、例えばナイジェリアで仕込まれた話が数ヶ月、あるいは数年後になって対立国のメディアに毒のようにしみ出していく、といったことも起きるようになった。

KGBの偽情報専門部門である「アルファ部隊」が「積極的措置」として行った工作のうち最も成功した作戦は、1983年7月16日、インドの親ソ系日刊紙『パトリオット』に掲載された投書から始まった。そのタイトルは「エイズはインドに侵入するかもしれない:アメリカの実験によって引き起こされたナゾの病」で、執筆者は匿名の「著名な科学者と人類学者」とされた。内容は、エイズウイルスはメリーランド州フォート・デトリックでペンタゴンの生物兵器専門家によって作られたもので、もともと黒人やアジア人を標的にする「エスニック・ウェポン」として開発されたことをほのめかしていた。

このストーリーが成功への足掛かりを得たのは2年後だった。1985年10月、ソ連の週刊誌『リテラトゥールナヤ・ガゼータ』は、「インドで尊敬を集めている新聞パトリオット」からの引用だとしてこの手紙を掲載した。この新たなバージョンでは、アメリカがエイズを媒介する蚊を繁殖させ、他国に駐留している米軍兵士に感染させているという話が付け加わっていた。しかし快心の一撃が放たれたのは1986年だった。この年、ジンバブエで開催されたエイズ会議で、東ドイツの3人の科学者(東ベルリン生物学研究所の前所長ヤコブ・ぜーガル教授、その妻であるリリ・ぜーガル博士、そしてロナルド・デームロウ博士である)がこのテーマに関する論文を発表したことで、学術的な権威が付与され、まじめに考察される対象になったのである。

工作は成功した。1986年8月には、この説が『ロイヤル・ソサエティ・オブ・メディシン・ジャーナル』誌上で公然と議論され、10月26日には英国の日曜紙『サンデー・エクスプレス』の一面に「エイズは実験室で作られた-衝撃の事実」という見出しが踊った。この時点で、物語は制御不能となった。クウェートの新聞『アル・オアバス』にはエスニック・ウェポンの発射シーンを撮った写真が掲載され、ロイターにより配信されたのち、1987年3月にはアメリカのCBSイブニングニュースでも報じられるに至った。インドの新聞の取るに足らない記事から始まった話が、今や何百万ものアメリカの家庭に放送され、何百万ものアメリカ人の心に浸透していった。

ソビエトはそのようなストーリーを創作したことはないと終始主張していたが、1988年末、アメリカの圧力を受けて、これ以上この話を積極的に広めないことに同意した。しかし、すでに損害は生じていた。エスニック・ウェポンには「プラス・モービフィック・プラス」というコードネームさえ与えられていた。この話は主流メディアから姿を消したが、エイズ兵器の話はアンダーグラウンドの陰謀文化の中で根強く残り、今でもインターネット上で生き続けている。

当初は否定に回っていたKGBも、ソビエト連邦崩壊後には真相を明らかにした。1992年3月19日、ロシアの新聞『イズベスチヤ』で、ロシアの情報機関長官だったエフゲニー・プリマコフ(1998年に首相になった人物である)は、そもそもの話はアルファ部隊の特別工作によるものだったと認めた。「アメリカの科学者たちの巧妙な陰謀を暴露した記事は、KGBのオフィスで作成されたものだ」と彼は述べている。「プラス・モービフィック・プラス」は、冷戦中に両陣営のニセ情報の作り手によって作られた多くの話のなかの一つに過ぎないのだろう。

読者諸兄は「こんな話とUFOにどんな関係があるのか」とお考えかもしれない。その答えはこうだ――こうした話は一から十までUFOと関係しているのだ。1980年代半ば、PWEの文書偽造技術とKGBのアルファ部隊が巧妙に用いたターゲット型プロパガンダが融合するかたちで、アメリカで力を得つつあったUFOコミュニティの団結や信用をほとんど壊滅させてしまうような攻撃が行われた――おそらくそれは、空軍が関わった情報戦の中にあって最も壊滅的な集中攻撃というべきものであった。

■MJ-12

1984年12月11日、テレビプロデューサーであり、ビル・ムーアと共にUFOの調査を行っていたジェイミー・シャンデラの元に、アルバカーキの消印が押されたマニラ封筒が届いた。その中には35mmフィルムがあり、1952年11月18日の日付が入った文書が撮影されていた。その文書は、CIAの初代長官だったロスコー・ヒレンケッター少将によって作成されたもので、現職大統領であるドワイト・アイゼンハワーに対し、マジェスティック12作戦の存在を説明するものだった。「マジェスティック」または「MJ-12」と呼ばれるグループは、1947年のロズウェルUFO墜落事件の後、その残骸と乗員を研究するために選ばれた12人の科学者、軍関係者、及び情報機関の専門家で構成されていた。文書には、グループの研究を支援するため、データを収集する組織として「プロジェクト・サイン」、次いで「プロジェクト・グラッジ」が設置されたことも記されていた。さらに文書は、1952年にUFOの目撃情報が急増したことに触れ、MJ-12プロジェクトは新しい大統領の政権下でも「厳格なセキュリティ対策を課した上で」継続されるべきだと結論づけていた。ブリーフィング文書には添付資料リストも含まれていたほか、1947年9月24日付でハリー・トルーマンが署名したメモがプロジェクトを開始する旨を伝えていた。

政府のUFO文書に関しては、この時点でムーアは散々はぐらかされるような体験をしてきたが、「マジェスティック12」というグループにはなじみがあった。というのも、それはポール・ベネウィッツに渡すようリック・ドーティから託された「アクエリアス文書」に出てきたものだったし、実際この文書は彼らが準備していた本のベースになるはずのものだった。過去何年か、彼らは小出しにされた情報をたどってきたわけだが、この新たな文書というのは辿り着いた先にあった宝物なのだろうか? これは大鉱脈なのだろうか?

この文書をどうすべきかと考えたムーアは、しばらく手元に置いておくのがベストだろうと考えた。もっとも、限られた研究者仲間数人にはコピーを送っておくことにし、その中にはロズウェル研究者であるスタントン・フリードマンや航空宇宙産業に携わっていたリー・グラハムがいた。こうして何も起きぬまま時間が経過したことに、荷物の送り主は苛立ったのだろう。それからの数か月、ムーアとシャンデラの元にはハガキが何通か届いた。この時の消印はニュージーランドで、差し出し人はエチオピアのアディスアベバ、ボックス189とあった。ハガキには「リースズ・ピースズ」や「スートランド」といった短いフレーズが書かれていたが、ムーアたちには何の心当たりもなかった。その後、これは思いもかけない偶然が起きたというべきなのだろうが、カナダ在住のフリードマンから、「国立公文書館で最近機密解除された空軍文書があるので見てきたらどうか」とムーア、シャンデラに連絡があった。この国立公文書館がある場所は、メリーランド州スートランド。同文書館の主任アーキビストの名前はエド・リースだった。

果たせるかな、新文書コレクションのボックス189の中に、シャンデラとムーアはMJ-12文書を裏付けるように思われる証拠を発見した。その決定的証拠というのは1954年7月14日付のメモで、国家安全保障会議のメンバーで大統領補佐官のロバート・カトラーが、空軍参謀総長でMJ-12メンバーとされるネイサン・トワイニングに、MJ-12会議の日程変更を通知したものだった。

このメモにはアーカイブのカタログ番号が付いていなかったが、当時カーボンコピー用に使われていた「オニオンスキン」紙に印刷されていたため、一連の文書が撮影されていたフィルムよりは信用できそうだった。ただし、この時代のカーボンコピーにしては奇異に感じられる点もあった。この紙は折りたたまれており、まるでシャツのポケットに入れられていたもののようだった。

MJ-12文書を公開しようというシャンデラとムーアの気持ちを後押しするために、何者かが彼らににこの文書を発見させようとしていたのは明らかだ。しかし誰が? それに公文書館に密かに文書を持ち込むようなことがどうしてできたのか? 国立公文書館のセキュリティは厳重で、文書をシステムに滑り込ませることは、不可能ではないが難しい。もしそれが偽造であったとすれば、おそらく公文書館に収められる前にボックス189に挿入されたのだろう。しかし、もしそうであるならば、なぜ他の文書にはあるカタログ番号が付いていなかったのか?

ムーア、シャンデラ、そしてフリードマンはMJ-12文書を極秘にしていたが、その存在はUFOコミュニティの内輪に徐々に漏れ始めた。そして、何者かはその情報をさらに広めたいと思っていた。1986年、英国で最も有名なUFO研究者であるジェニー・ランドルズは、匿名の情報提供者から、アメリカ政府がUFOの証拠を隠蔽しているという証拠を提示された。しかし、彼女は騙されることを警戒し、その資料を受け取らなかった。

1987年初夏。同じくイギリスの新進気鋭のUFO研究者ティモシー・グッドは彼女のように選り好みはせず、エサに飛びついた。彼は、MJ-12文書を7月に出版予定の自著『アバブ・トップ・シークレット』の付録として発表することにしたのである。この話がビル・ムーアの元に伝わると、彼は公開すべき時は来たと判断し、1987年6月13日の全米UFO会議で発表した。主流メディアはすぐにこの話を取り上げ、数日内にはABCテレビの有名なニュース番組「ナイトライン」や『ニューヨーク・タイムズ』で報道された。

KGBのエイズ捏造と同様、MJ-12文書がどこか遠くの曖昧な話から全国ニュースに登場するまでには3年を要した。一方、ティモシー・グッドの『アバブ・トップ・シークレット』は国際的なベストセラーとなり、再びUFOが世間の注目を集めた。これこそが偽情報のあるべき形だった。MJ-12文書はUFOコミュニティ全体に巨大な亀裂を引き起こし、「この文書こそ長年待ち望んでいた証拠だ」として信用する者と、それはただの捏造だと考える者との間に対立が生まれた。25年が経過した今もなお、その対立は続いており、新たなMJ-12関連文書が次々と現れ、新たな論争と混乱を巻き起こしている。

1988年、FBIの防諜部門は、空軍特別捜査局(AFOSI)の依頼でMJ-12文書の調査を行った。FBIの訓練生が「トップシークレット」の印が押された文書のコピーを所持しているのが見つかったのである。これは機密情報の漏洩として、重大な連邦法違反となる可能性があった。

FBIの長期にわたる調査は、調査ジャーナリストであるハワード・ブラムが著書『アウト・ゼア』で詳述している。FBIの捜査官たちは文書のコピーを多くの政府機関に見せたが、どの機関もその文書について何も知らなかった。次に彼らは敵国であるソ連や中国に目を向けた。FBIは、CIAが冷戦工作の一環として敵対国にUFOの話を広めていたことを知ったため、MJ-12文書はその報復の一環ではないかと考えたのである。しかし、この仮説を裏付ける証拠は見つからなかった。

次にFBIは、AFOSI自体に――とりわけカートランド基地のAFOSIチームに目を向けた。だが、やはり手がかりは得られなかった。ブラムはこう記している。

    彼ら全員が、例外なくMJ-12文書の作成には関与していないと断言した。さらに問題を複雑にしたのは、多くの調査官が突然退職を決めてしまったことであった。彼らは今や民間人であり、そうなってしまえば――これは彼らが強硬に主張したところであり、或る時には呼ばれて立ち会った弁護士も繰り返し訴えたところであるが――彼らは今や民間人として憲法上のあらゆる権利を有していた。

あるFBIの捜査官は憤慨しつつこう結論づけた。「我々はこのMJ-12文書に関してワシントン中のあらゆるドアを叩いた。そこで分かったのは、政府は自分たちが何を知っているのかすらわかっていない、ということだった。秘密の層があまりにも多すぎるのだ……この文書が本物かどうかを永遠に知ることができないとしても、私には何の驚きもない」

結局、答えはAFOSIからもたらされた。彼らはこの文書が「完全な偽物」であることを認めたのである。AFOSIがMJ-12文書を作った者を知っていたとしても、それを明かすことはなかった。我々が知っているのは、リック・ドーティが捜査の一環として尋問を受けた一人であり、彼は1988年に空軍を退職し、一民間人になったということだ――ちなみに彼は西ドイツのヴィースバーデン空軍基地にいた1986年、詳細不明のある出来事の後にAFOSIを離れるよう求められていたのだという。

MJ-12文書は、カートランド基地のAFOSIがUFOコミュニティに対して行ったニセ情報キャンペーンにうまく合致していた。分かっている範囲でMJ-12について最初の論及があったのは1980年11月のことで、それはビル・ムーアがカートランドで見たアクエリアス文書の最後に登場した。この文書の唯一公開されたバージョンは、ムーアが自ら「手直し」してからポール・ベネウィッツやリンダ・ハウらに提供したものである。その最終段落にはこうある。「プロジェクト・アクエリアスについての米政府のスタンスとその帰結は依然としてトップシークレットであって、公的な情報ルート外には公開されず、そこへのアクセスもMJトゥエルブに制限されている」

「ナショナル・エンクワイアラー」の記者ボブ・プラットは、1982年1月にムーアと交わした会話の記録を残しているが、そこで彼は、のちのち小説に盛り込む予定だったMJ-12がいかなるものかについて、以下のようにスケッチしている。「政府…UFOプロジェクトはアクエリアスと呼ばれる。トップシークレットに分類され、アクセスはMJ 12に制限されている(MJは‘マジック’を意味するものと思われる)」。その一方で、ムーアとロズウェルの研究家であるスタントン・フリードマンは、もともとのアクエリアス文書に示されていた12人のメンバーというのは誰なのかについて延々と考察を重ねていた。そして、これには実に驚かざるを得ないのだが、そうやって推測した人々のうち11人は、後にジェイミー・シャンデラに郵送された文書の中に名前が記されていた。

この文書については、出所に関する問題の他に、技術面や事実関係にかかわる問題も多く存在している。中でも最も深刻なのは、ロズウェルUFO墜落事件の「現場とされる場所」である――ここにはMJ-12の存在意義がかかっている。元々のブリーフィング文書には、ETの宇宙船が発見された牧場は「ロズウェル陸軍航空基地の北西およそ75マイルの場所にある」と記されている。しかし、実際にはその場所までは空路で62マイル、道路を利用すると100マイル超となる。こんな細かいことにこだわるのは無意味だと思われるかもしれない。しかし、世界最大の秘密を守る者たちが新しくボスになる人物に報告を上げる時、事実を間違えないよう万全を期すのは当然ではないか。奇妙なことだが、ウィリアム・ムーアとチャールズ・バーリッツが墜落事件について初めて書いた『ロズウェル事件』にも、これと同じ距離が記されているのである――75マイルと。

では、誰がMJ-12文書を作成したのか。容疑者を指さすとすれば、その先にいるのは明らかにAFOSIだ。AFOSIはビル・ムーア、ボブ・プラット、スタントン・フリードマンが何気なく伝えた情報を捏造に利用したのかもしれない。しかし、その場合でも疑問は残る。もしAFOSIが偽造に関与していたとしたら、彼らは文書をAFOSIの本拠地であるアルバカーキから送付するほど間が抜けていたのだろうか。

推測できるのはこういうことだけだ。誰が文書を送ったにせよ(それは必ずしも文書の作成者や写真撮影者と同じとは限らない)、その人物は文書が基地から発せられたものだと思わせたかったのだろう。これはムーア自身も示唆していることだが、おそらく彼は「この文書が送られてきたのは、自分のAFOSIに対する貢献への論功行賞だろう」と思ったのではないか。あるいは、文書を作ったのが誰であれ、その人物はこれがニセモノだとばれても構わないと思っていたのかもしれない――バレるかどうかは重要ではなかったのかもしれないのだ。ハッキリしているのは、MJ-12文書がUFOコミュニティをターゲットに発せられたものだということだ(だから、ムーアとシャンデラが公開を控えている間に、文書は二人の英国のユーフォロジストに送られた)。そしてもう一つ明らかなことがある。作り手たちは人々がずっとUFOを信じ続けるよう仕向けたかったのだ。しかし、それは何故なのか?

■秘密とステルス

MJ-12文書が公開されたタイミングというのは、ポール・ベネウィッツをペテンにかけるところから始まった一連の工作がピークを迎えた時期でもあったわけだが、それは米空軍が当時有していた秘密技術のうち筆頭格であったF-117A「ナイトホーク」ステルス戦闘機の初期飛行とも密接なつながりがあった。このステルス戦闘機の生産決定が下されたのは1978年だったが、それはエルスワースのニセ情報事件があり、UFO墜落事件の話空軍からリークされ始めた年でもあり、そうした動きはやがてロズウェル事件の復活へとつながっていった。この飛行機の最初の試作機は1981年6月に飛行し、完成機は1983年10月にエリア51から飛び立ったが、この飛行機は1988年まで極秘扱いであった。これら初期のステルス機はネバダのエリア51や隣接するトノパ試験場でテストされていたため、航空機マニアやUFOハンターたちの目をそこからそらしてカートランドやダルシェにおびき寄せ、MJ-12文書という紙のチャフ(欺瞞情報)を使って攪乱するというのは最善の策だったのではないだろうか。

関係者間を行き交った文書のやりとりをたどってみると、こうした主張には裏付けがあるようにも思われる。AFOSIとの協力関係にあったビル・ムーアが調査をするよう指示された人物の中には、リー・グラハムという人物がいた。彼はカリフォルニア州アズサにある「エアロジェット・エレクトロシステムズ」社で、ステルス戦闘機や防衛衛星の部品を製造していた。グラハムと彼の同僚ロン・レゲールはUFOにも興味を持っていて、機密技術に関わる仕事をしている折々にそうした話をすることもあった。自分たちが製造に関わっている航空機がどのようなものかを知りたいと思ったグラハムとレゲールは、飛行中のナイトホークをひと目見ることができないかと考え、しばしばトノパに出かけては「ステルス・ハンティング」を試みていた。むろん彼らは、請負業者としてそんなことが許されないことは重々分かっていたのではあるが。

リー・グラハムが最初にムーアに連絡を取ったのは、『ロズウェル事件』を読んだ後のことで、彼らはUFOに関するデータを交換しあった。両者の関係にはAFOSI(空軍特別捜査局)も驚いたに違いない。ほどなくしてムーアは、グラハムにアクエリアス文書、次いでMJ-12文書を提供するようになったからである。グラハムは或る日、こうした文書をどのように入手したのかムーアに尋ねた。すると、ムーアは国防調査局(DIS)のバッジを見せた。DIS(現在の国防安全保障局)は、政府プロジェクトの産業安全保障を担当していた。グラハムはムーアに疑念を抱き始めた。これ以上深入りすれば、自身の機密クリアランスが危険にさらされ、仕事を失うかもしれないと心配になったのである。グラハムはUFO文書をエアロジェットのセキュリティ責任者に見せ、ムーアの行動を調査するよう提案した。

ところが、捜査対象になったのはグラハムの方だった。最終的に彼は、FBIの捜査官と民間人らしき風体をした男の訪問を受けた。彼らはグラハムに「ステルス機を追い回すようなことはやめろ」と強い調子で言った。ところが、UFOについてはこれからもどんどん話して良いし、MJ-12文書も広めていくようにと促した。この矛盾した指示というのは、1950年代にオラヴォ・フォンテスやサイラス・ニュートンに与えられたものを想起させるものがある。

後にグラハムは、FBI捜査官と一緒にいた男がマイケル・カービー少将であることを突き止めた。彼は空軍立法連絡事務所の所長で、ステルス戦闘機の飛行をはじめとするやエリア51での秘密プロジェクトを担当していた。数年後、グラハムは自身に対するDISの調査報告書を入手した。そこには、彼は国家に反逆するような人物ではないが、とりわけビル・ムーアのようなUFO愛好家に騙されて機密データを流出させてしまう恐れがあると記されていた。

グラハムのセキュリティファイルにはもう一つ、重要な人物の名前が記されていた。バリー・ヘネシー大佐である。ヘネシーの空軍での勤務歴によれば、彼は国防情報上級役員会のメンバーであり、かつ空軍長官室の対敵諜報および特別プログラム監視担当セキュリティ部長であった。そこには、彼は「安全保障と対敵防諜政策、ならびに空軍の全ての安全保障・特別アクセスプログラムの管理・監督に責任を有しており、そこには米国の防衛能力に大きな影響を与える可能性のある各種研究プロジェクトのセキュリティを保持する任務も含まれている」とあった。

彼がセキュリティ部長を務める前、MJ-12文書の公開やベネウィッツ事件が進行していた時期には、ヘネシーは国防総省でAFOSIの特別プロジェクト部門(PJ)を統括していた。1989年にリー・グラハムに送られた手紙には、PJの役割が以下のように記されていた。

「B-2およびF-117A航空機のような区分特別アクセスプログラムのためのセキュリティポリシーおよびその関連手続きを開発し、実施する。政府および産業界のプログラム参加者全員について、セキュリティに関連する活動を指導および監督する。特別な空軍の活動に対して対敵諜報およびセキュリティ支援を提供する。秘匿された場所に置かれた2つの分遣隊を運営している」

リック・ドーティとポール・ベネウィッツを邂逅させる作戦を担当していたのはヘネシー率いるPJ部門だったのだろうか? ドーティから提供された情報やムーアから得た情報を使ってアクエリアス文書やMJ-12文書を捏造したのは彼らだったのだろうか? 現在のところ、それが最良の答えということになる。となると、これが意味するのはヘネシーこそが「ファルコン」であって、ビル・ムーアに最初に接触してドーティを紹介した「赤いタイ」の男であったということだろうか? そうであれば完全につじつまがあうが、彼もムーアもそれは否定している。かくて研究者たちは別の可能性を探っているのだが、その中には、ドーティ以外に「ファルコン」たりうる者などいない、という信じがたい仮説も含まれている。だが、思い出してほしい。ドーティは、1988年10月のテレビ番組『UFOカバーアップ・ライブ!』には「ファルコン」として登場していた。

が、ファルコンが誰であろうと、この指揮系統の存在が示唆しているのは工作活動が上意下達で行われたということだ。そしてリック・ドーティは、その底辺近くにあって「現場」のエージェントとして活動していた。秘密のお宝を守るために米空軍はどんな手段を取り、どのようなことに注意を払い、UFOコミュニティに対してどんな対応を取るのか――こういった事について、ドーティ~ムーア~ベネウィッツ~グラハムと連なるエピソードは多くのことを物語っている。空軍にとって、UFO研究家は厄介な存在であり、時には必要な厄介者でもある。しかし、彼らが機微にわたるデータに手を出した時には――グラハムやおそらくポール・ベネウィッツのように――厳重に監視され、試され、時には利用され、そして時には無力化されねばならないのだ。

多くの研究者にとってのMJ-12文書は、「ロズウェルでのUFO墜落事件は本当にあったことで、その隠蔽は事件直後から始まった」ということを示すものとして、いわばUFO陰謀論における聖杯となっている。が、この問題の核心には奇妙なパラドックスがある。UFOコミュニティは、「米政府は真実を語らずウソをついてきた」と繰り返し主張するのだが、政府文書が然るべき形で提示されると、それは確たる証拠とされて真実を正当化するものになってしまう。

そうした信仰を持つ者たちにとってMJ-12文書が示しているのは、「権力の迷宮のどこかには地球外起源のUFO現象が本当にあると知っている者がいる」ということなのだ。これは即ち、いつの日にか情報開示が行われ、本当のことが暴露されるだろうということでもある。こうした情報開示は、ドナルド・キーホーの時代からこの方、UFOコミュニティにとっては希望の灯火であり続けてきた。その灯はこれからも消えることはないだろうし、意地でも灯し続けられるだろう。そして、この灯が燃え続けることは――1980年代や50年代がそうであったように――ヘネシーがやっていた仕事を今日担っている者にとっても重要なことであるに違いない。何故なら、UFOというものが消滅してしまえば、国防総省の手からは特別なプロジェクトを隠すための覆いが失われてしまうことになるからだ。


AFOSIとMJ-12文書のつながりを明確に示すデータがあるにも関わらず、信仰心篤きUFOの信奉者たちはこれを受け入れようとせず、今にいたるまでMJ-12やロズウェル墜落事件を喧伝し続けている。ここでもまた、我々は集団的な認知的不協和が働いているのを目にしているのだ。明らかになりつつある事実に直面しながらも、この現実を深く否定してしまうというアレだ。我々はここで一種の「ストックホルム症候群」が作動しているのを目撃しているのかもしれない。捕虜が捕獲者の心情に共感し始めてしまうというアレだ。MJ-12文書は1984年以来、UFOコミュニティを捕らえ続けており、政府のUFO陰謀を証明するための唯一の希望となっている。これらの文書がニセモノであることを受け入れた人間であっても、それはより深い真実があることを指し示しているニセ情報だとして擁護している者がいるのだ。そして、文書は次々と登場してくる。1990年代初頭からは、ゆっくりと拡大しつつあるもう一つの宇宙のように――あるいはロールプレイングゲームの拡張版のように――一連の新たな文書が現れ、MJ-12のシナリオにさらなる複雑さを加えてきた。これらの新しい文書のコピーはオンラインで見つけることができるが、その中でも最も想像力豊かなのは、1954年の特殊作戦マニュアル(SOM1-01)であり、地球外の宇宙船の回収作戦に関わる者へのブリーフィングガイドとなっている。

もしMJ-12文書の目的がUFOコミュニティを混乱させ、分裂させ、弱体化させることだったとすれば、それは作り手たちの期待をはるかに上回る成功を収めたと言えるだろうし、これは黒魔術の傑作とみなすべきだろう。誰がやったことであれ、彼らはJ.R.R.トールキンやジョージ・ルーカスが想像したものに匹敵する神話を生み出した。そしてそれは同じくらい長く続いていくに違いない。

■エイリアンシード

1980年代後半、MJ-12文書に含まれていた情報、ビル・ムーアやリック・ドーティが流布した文書、ポール・ベネウィッツのプロジェクト・ベータの情報といったものは、当初広まっていたUFO研究家のインナーサークルを越え出て、一般社会にも広がり始めた。この当時、インターネットは人々の生活に広まりつつあった。テキストオンリーのダイヤルイン方式の掲示板が、こうした奇妙な話を保管し、伝えるための格好の手段となっていた。

アメリカの真剣なUFO研究者たちの中には、インターネットが情報収集および共有のツールとしての潜在力を早々に認識した者もいたが、それはまた、新たに登場したコンピュータ愛好家やハッカーたちの注目も集めた。彼らの多くは(実は私もその中の一人なのだが)ロールプレイングゲームやビデオゲーム、ファンタジー、ホラー、SF文学を通じて世界を見つめて育った世代だった。こうした新たな愛好家のグループは、コンピュータ端末の下に広がるケーブルの束に足を置きつつ、その目は星々に向けるようなタイプで、UFO文化から流れ出してくる奇妙な情報のパッチワーク(それは複雑で詳細を極め、感情にアピールするものだった)を受け入れる準備はすっかりできていた。

この時期に最も影響力のあった情報のソースは、おそらくジョン・リアーであろう。彼の疎遠だった父親は、リアー・ジェットや8トラックテープレコーダーの発明者ウィリアム・リアーで、地球の大気圏の内外を自由に飛べる飛行機というのは電磁的に重力場を制御することで可能になるであろうという信念を常々公言している人物だった。ジョン・リアーは何年もの間、プロのパイロットとして働き、CIAの命を受けた「エア・アメリカ」社のミッションで東南アジアに飛ぶなど、様々な仕事をこなしてきた。腕利きのパイロットということで空軍や諜報の世界における彼の声望は高かったから、1987年後半にUFO情報を広め始めた際には、彼は一目置かれる情報ソースになっていた。

リアーがUFOに夢中になったのはその年の初めで、彼はそれ以降、可能な限り多くの情報を猛烈なスピードで集め始めた――本を読み、映画を観て、ポール・ベネウィッツやビル・ムーアといった人物と話し合ったりした。リアーがUFOに関して公に発した最初の声明は、各種の掲示板を通じて広く拡散された。それは、アクエリアス文書やMJ-12文書のニセ情報、そしてポール・ベネウィッツが体感した地下世界への妄想めいた恐怖を完全にまとめ上げたものだった。

1988年2月14日に行われたリアーへのオンラインインタビューからは、彼が広めていた情報の内容がうかがえる。その内容の多くは、今日の我々には馴染み深いものとなっている。曰く――戦略防衛構想(SDI)はロシアのミサイルを迎撃するためではなく、地球外生命体の攻撃から私たちを守るために開発されている。ロナルド・レーガンとミハイル・ゴルバチョフがアイスランドで会談を行ったのは、地球外生命体の脅威について話し合うためで、それが冷戦の緊張緩和の主な要因だった。CNNはMJ-12のメンバーによる暴露インタビューと、ロスアラモスで空軍大佐が地球外生命体とテレパシーで対話する様子の映像を放送しようとしていた。別のビデオにはETの映像装置が映っており、そこにはキリストが磔にされる場面が出てくる。一方でETたちは、ダルシェの地下基地で人間や動物を誘拐し、恐ろしい遺伝子交配実験を行っている。捕獲されたETの乗り物はエリア51で政府によって飛ばされている……そういった話が延々と続いていた。

1989年のMUFON会議でビル・ムーアが告白をした頃には、リアーが広めたこれらの話はUFOコミュニティに新たな血を注ぎ込んでいたが、一方ではそのコミュニティを分裂させてもいた。その内容はセンセーショナルで、恐怖を煽り、ほとんど馬鹿馬鹿しい内容だった。まさにSF的な悪夢そのものであったわけだが、実際それは悪夢を生み出した。ビル・ムーアとリック・ドーティが生み出してポール・ベネウィッツに伝えた話は、こうした新たな経路を通じて広がり、新たに夢中になる人々を生み出した。そうやって夢中になった人間は、明らかに政府やペンタゴンの最深部にもいた。

このような話は、新聞や雑誌、テレビのニュース、ドキュメンタリー番組(たとえば『UFO カバーアップ・ライブ!』や『未解決ミステリー』だ)といった主流メディアにも時折姿を現したである。1990年代半ば、つまり事がAFOSIの手を離れてから10年が経過した頃には、これらのアイデアは再び形を変え、今度はフィクションの世界に入り込んだ。『X-ファイル』や『ダークスカイズ』、そして大ヒット映画『インデペンデンス・デイ』は、その伝播のための非常に効果的な手段となり、20年前にスピルバーグの『未知との遭遇』が大衆の想像力に与えた影響に匹敵するものとなった。

さらにその10年後、ラフリンでのUFOコンベンションでも、同じ話は依然として語られ続けていた。新しいMJ-12文書、新しいビデオ、新しい証言者や告発者が現れ、皆同じメッセージを繰り返し伝えていた。ETは実在し、彼らはここにおり、アメリカ政府と対話しているというのである。こうしたメッセージは何度も繰り返され、語り直されるうちに、それを聞く者の記憶に永続的な痕跡を刻み込むようになる。疑わしいという気持ちを退け、真実であるとして親しみを覚えるようになってしまう。

しかし今、そのコンベンションは終わりを迎えた。ほとんどの参加者は、少なくとも次回の会合まで自分の惑星に帰っていくだろう。私とジョンは、過去1週間の狂気から解放されることに安堵していたが、一方でビル・ライアンとの別れを惜しんでいた。1週間のストレスに消耗したとはいえ、大衆の前で初めてひと仕事終えた彼は、自信と新たな使命感に満ち溢れていた。そして、新しい仕事には余得がなかったわけでもなかった。ビルは、予定していたイギリスへの帰国を取りやめ、講演の後に近づいてきた魅力的な黒髪の女性と数日間ラスベガスで過ごすことになったのである。「信じられないだろうけど」と彼は興奮気味に私たちに告げた。「彼女には人間の親は一人しかいないんだ。もう一人の親は地球外生命体なんだよ」

我々はビルの幸運を祈り、冷静に行動するよう助言した。誰もその時点では知らなかったが、セルポの大使としての彼の役割はもうすぐ終わろうとしており、さらに壮大な任務が彼を待ち受けていたのである。とまれ、私とジョンはといえば、アルバカーキに向かおうとしていた。インタビューのため、そこでリックと落ちあう約束をしていたのだ。 (14←15→16)

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■第14章 空飛ぶ円盤は実在する!

      我々がUFOの存在を認めることを拒否し続ければ、いつの日にかUFOを敵の誘導ミサイルと誤認し、最悪の事態が生じることになるだろう
       ――L.M.シャッサン将軍・NATO連合空軍調整官(1960年)

アルバカーキ空港はカートランド空軍基地のすぐお隣りにあるが、この基地は市全体のほぼ半分の広さを占めている。あなたがこの空港に着陸する際には、カートランド基地特有の設備を垣間見ることができるだろう。たとえばそこには水平方向にU字のように突き出している巨大な木製の駐機場があって、昔ながらのジェットコースターのようなたたずまいを見せているが、実のところこれは、航空機への電磁場の影響を調べるために使われているものなのだ。

この基地と同様アルバカーキ自体も広大な街で、ハッキリとした中心部というものは存在しない。かつてのルート66で現在は州間高速道40号線と呼ばれている道路は市内を東西に横断し、街の東端にあって住宅地の拡大をせき止めているサンディア山脈の壮大な峰々を貫いて走っている。そびえ立つサンディア山脈は、とりわけ夕方になると深みのあるオレンジ色の輝きを放って、国立原子力博物館や世界屈指の核兵器庫を擁する街にふさわしい装いを見せる。

私たちは町の南端にあるトラベルロッジに宿泊した。周囲には質屋や銃砲店、閉鎖されたアトミック・モーテルなど、かつての時代の名残が残っていた。私たちはこのモーテルを気に入っていたが、リックは我々がここにいるのを見て仰天していた。

「ここには泊まらない方がいい」。彼は駐車場に車を停めながら言った。「ここは無法地帯って言われてるんだ!」

そうか、撮影クルーがベッドの後ろでコカイン様のパイプを見つけたのだけれど、それで合点がいく。

「基地を見に行くかい?」とリックは尋ねた。 「もちろん!」と私たちは答えた。 「じゃあ、車に乗れ!」

カートランドの入口に向かって進んでいったところで、今はポール・ベネウィッツの息子たちが経営する「サンダーサイエンティフィック」社の看板の前を通り過ぎた。リックの心に何かがよぎったかもしれないが、顔には出さなかった。守衛所では、ジョンと私が入場を許可されるかどうか心配だったが、我々は二人ともアーミー・グリーンのジャケットを着ていたし、私の髪もいつもと違って短かかったから、ジム・リーヴス(訳注:往年のカントリー歌手)のアルバムジャケットに出てくるようなセーターを着たリックよりも、我々のほうがよっぽど軍人らしかった。

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 ジム・リーヴス

武装した警備員が運転席側の窓に近づいてきた。制服を着て銃を持ったアメリカ人に対峙すると、私はいつも何か悪いことをしているような気がしてしまうが、その兵士はジョンと私には目もくれなかった。リックがIDカードを渡すと、警備員は敬礼し、ゲートが持ち上がった。我々はそのまま進んだ。私はリックのカードを見せてもらえるか尋ねたが、彼は何も言わずにそれを財布にしまった。

最初に訪れたのは、リックがかつて勤務していたAFOSIのオフィスだった。見たところは何の変哲も無い、くすんだ色の低くて長い建物で、さしずめ害虫駆除会社が入っていてもおかしくないような改良型のプレハブだ。リックは自分がAFOSIで過ごした日々を誇りに思っており、今は他の建物に移っているカートランドのAFOSI部隊について「かつては50人以上の人員がいたのに、冷戦終結後は20人未満にまで削減されてしまった」と文句を言っていた。

基地内をドライブしながら我々は、機密に抵触しない範囲ではあったが、基地内の生活の一端を垣間見ることができた。基地は小さな工業都市のようであった。巨大なパラボラアンテナの横にはクリップボードを持ってメモを取っているTシャツ姿の男がいたが、そのアンテナは大きな格納庫の方に向けられていた。格納庫のドアは、送信されている電波を――もちろん何が送られているかはわからなかったが――受信できるよう開いていたのだが、その隙間は我々が中をのぞき込めないほどの狭さだった。クォンセット・ハット(半円筒状の兵舎)、格納庫、事務棟が並んでいたが、それらの建物の内部で何が行われているかは、外からはほとんどわからなかった。唯一目を引いたのは、SFっぽい文字で「Directed Energy Directorate(DED:指向性エネルギー局)」と書かれた建物であった。

おそらくこの施設は世界で最も進んだ軍用レーザー、マイクロ波、プラズマの研究拠点で、ミサイルを撃墜するために航空機に装備されるレーザー兵器の開発が進められている。また、DEDの別のプロジェクトとしては「スター・ファイア光学レンジ」(Starfire Optical Range)があって、2,700万ドルもする高性能望遠鏡がもっぱら衛星の追跡に使用されている。この望遠鏡は「適応光学」技術を用いることで、地球の大気の影響を受けることなく、宇宙にあるバスケットボール大の物体に焦点を合わせ続ける能力をもっている。そうやって焦点を合わせるために望遠鏡は夜空に向けてレーザーを発射しているのであるが、DEDは現在、このレーザーを衛星を無力化する兵器に転用しようとしている。 

我々は基地の住居エリアを離れ、マンザノ山脈の麓に向かった。そこはポール・ベネウィッツがUFOを撮影した場所で、彼の家からは1マイルも離れていない。リックによると、SAS(イギリス特殊空挺部隊)やその種の特殊部隊はカートランドの砂漠と山岳地帯で訓練を行っているということで、辺りを見回すと、確かに自分がアフガニスタンやパキスタンにいるような錯覚に陥ってもおかしくはない。緩い勾配を上り、ポツンと立つ巨岩の周りをめぐっていくと、舗装された道路はコヨーテ・キャニオンの山の裏手に隠された入り口へとつながっている。山の裏側に隠されたコヨーテ・キャニオンへの入り口に通じている。ここは1980年にUFO事件が起きたとされる場所だ。マンザノ山の斜面には光を反射する部材が散乱していた。一部はレーダー反射用のチャフであり、一部は航空事故の残骸のようでもあった――例えば1950年にここに墜落したB-29爆撃機のそれだ。この事故では、乗員13人全員が死亡したが、幸いにも搭載していた原子爆弾は爆発しなかった。

恐怖感を与えるような三重の電気フェンスが山を取り巻いていた。リックによれば、今ではここに電気は流されていないが、これまでに命を落とした人間は一人では済まないという。ここにはそれだけの警備体制が必要だったのだ。マンザノ兵器貯蔵エリアの建設が始まったのは1947年で、核爆発にも耐えうるシェルターが山の岩盤深くに掘り込まれた。1953年にソ連が最初の熱核兵器を完成させる前の時点で、この山にはドワイト・アイゼンハワー大統領を核攻撃から守るための地下シェルターもあった。山には合計4つの地下施設があり、そこには122の兵器庫、さらには研究施設といったものもあった。1992年までは、これらの兵器庫にはアメリカの核兵器の大部分が保管されていたが、現在では核弾頭は基地内の別の地下施設に保管されている。今日では、マンザノのトンネルはカートランドの主要な請負業者であるフィリップス研究所の施設として使用されているほか、ハリウッド映画の撮影場所としても利用されている。

地下にある本物の秘密基地を前にして――控えめに言えば「かつての秘密基地」かもしれないが――興奮を抑えることは困難だ。子供時代にお絵かきしたものやサンダーバードのファンタジーといった様々なものが一団となって興奮を巻き起こし、まるで小さな地下核実験のようにして私の背骨を駆け上がった。その爆発のパワーで、首の後ろの髪は震え出すようであった。つかのま私は、自分がかつて憧れた科学者だとか秘密工作員になっていたもう一つの人生というものを想像した。飾り気のないコンクリートの入り口でキーパッドにアクセスコードを打ち込む。その入り口は乗り物が通れるほどの大きさで、山の基地の北西斜面にある。中に入って廊下を下り、手のひらで認証する防爆ドアを通った私は、そこで核兵器の配線をいじっている白衣の科学者に挨拶をする。彼は親指を立てて挨拶を返してくれる。次の鉄製のドアは、網膜スキャンとまた別のアクセスコードを打ち込まないと開かない。これをパスして進むと背後でドアは閉まる。さらに防爆ドアがあって、その先には何と鉄のケーブルで天井から吊り下げられているものがある。1947年に地球に墜落した時にできた大きなへこみがある、ピカピカの空飛ぶ円盤だ……。

「さて、私が見せられるのはここまでだ。これ以上見せると君たちは逮捕されてしまうだろうからね」。リックはそう言って、クルマを基地の主要施設の方にUターンさせた。「君たちをホテルまで送っていくよ」

私たちは再び正体のよくわからない格納庫や低い建物が並ぶ道を通り過ぎた。私にとってこの場所は驚異と謎に満ちた場所であったが、ここで毎日働く人々にとっては職場であり、彼らの中にはおそらくポール・ベネウィッツが守ろうとして酷い目にあった秘密を知っている者もいるのだろう。

基地の正門を越え、何の特徴もない「サンダーサイエンティフィック」の建物のところまで来ると、窓にスモークが貼られたボロボロのフォード・トランジットバンが私たちの前に滑り込んできた。後部ドアにはバンパーステッカーが貼られており、そこから長髪のロックバンドの連中がギターをかき鳴らしながら飛び出してきても全く不思議ではないような感じだった。そのステッカーの中でも特に目を引いたのは、グレイタイプのエイリアンの顔を黒と白で描いたものだった。

私はその時、ポール・ベネウィッツは正しかったということに気づいた。エイリアンはここ、カートランドにいたのだ。それもずっと前から。

■ドラゴンレディとライトニングバグ

1955年8月1日、当時極秘であったネバダ州グルーム湖のテストサイト(現在ではエリア51という名の方が有名である)で、最初の試作型U-2航空機は突如大空へと舞い上がった。「ドラゴンレディ」という名で知られるこの航空機の飛行は、航空偵察の新時代を開くとともに、アメリカ空軍――とりわけ空軍のUFO調査プロジェクト「ブルーブック」にとって新たな頭痛の種となった。

1969年にブルーブックが閉鎖されるまで、ここに寄せられたUFO報告の相当な部分は、実際にはU-2やその後継機(CIAのA-12オックスカートや空軍のSR-71ブラックバードといったものだ)が目撃されたもので、CIAの歴史家ジェラルド・ヘインズによればそれは全体の半数に及んだという。 これらの偵察機はいずれもCIA科学情報局によって運用されていたものだった。初期の頃、U-2の銀色の機体はとりわけ日の出や日没時に太陽光を反射し、地上から見ても非常に目立ったことから、ブルーブックには困惑した人々からの電話がかかってくるようになった。この3機種は、商業旅客機のほぼ3倍の高度である85,000フィートから95,000フィートを飛行したが、とりわけブラックバードは驚異的な速度マッハ3.2(時速2,200マイル)を出す能力があって、ロンドン―ニューヨーク間を2時間で移動したこともあった。オックスカートとブラックバードにはパラジウム送信機も装備され、近くの民間航空機のレーダーを混乱させるため使用されることもあったようだ。

これを目撃したパイロットや地上の人々が、この世のものとは思えない何かを見たと思っても不思議ではない。こうした「UFO」の目撃が報告されると、ブルーブックの調査員たちはその報告を既知の偵察飛行と照合してから、目撃者たちが見たものは「金星」「気象観測気球」「気温逆転現象」である――などといった当時それなりに説得力のあった説明を持ち出しては、何とか彼らを納得させるという報われない仕事をしていたのである。 

由緒正しきU-2の運用は今もなお続いているが、ブラックバードは1999年に退役した。では、現在CIAや国防総省の先端的な偵察任務を担っているのは何であろうか? その役目を継いだとされる次世代機の噂は根強くある。例えば伝説的なSR-75「オーロラ」(これはステルス機同様、テスターズ社のモデルキットになっている)がそうだし、三角形をしたTR-3Bもある。こちらは世界中で定期的に目撃される「空飛ぶ三角形」UFOの正体であるとかないとか言われている。そうした事例であるが、例えば1990年3月30日、ベルギーのブリュッセルでは、多くの目撃者が角の部分にライトを灯した三角形の機体を目にして写真に収めた。ベルギー空軍はF-16戦闘機4機を飛ばして追跡したが、追いつくことはできず、レーダーも「パラジウム」技術によるものと思われる妨害を受けて為すすべがなかった。また10年後の2000年1月5日には、イリノイ州スコット空軍基地近郊で、ゆっくりと移動する巨大な三角形の機体が警察官5人によって1時間近く目撃された。こうした「空飛ぶ三角形」が正真正銘の航空機であることを疑う者はごく少数だ。真相はおそらく近日中に一般公開される。人々はそう考えているのだろう。

もっとも、今日ではほとんどの偵察任務は、軌道上の衛星だとか無人航空機(UAV)、つまりドローンによって、より効率的でよりリスクの少ない形で行われている。UAVは未来の戦争の一部として位置付けられ、その技術が進歩するにつれて役割は拡大し続けている。ただ、それは全く新しいアイデアというわけではない。第一次世界大戦中、最初のテレビ放送を実演した人物でもあるイギリスの発明家アーチボルド・ローは、爆発物を搭載した無線操縦の航空機「エアリアル・ターゲット」の開発に取り組んだ。これは未来の戦闘の様相を一変させる可能性があったが、戦争が終わると、無線誘導式ミサイルともどもその開発は中止された。1930年代には、イギリス海軍とアメリカ海軍が古い航空機を「ドローン」に改造する試みに着手した。ちなみにドローンという名称は、デ・ハビランドのタイガー・モス機「クイーン・ビー」に由来する。当初、これらの無人機は対空砲手の標的といういささか冴えない役割を担っていたが、すぐにさまざまな状況で有用性を発揮するようになった。

1950年代初頭、アメリカ空軍は「プロジェクト・バッドボーイ」と称してF-80ジェット戦闘機を無線操縦のドローンであるQF-80へと改造し、うち何機かはキノコ雲の中に飛ばして放射性の空気サンプルを収集させた。1953年にネバダ実験場で行われたアップショット・ノットホール実験では、可哀想なサルが何匹かQF-80に乗せられて高レベルの放射線にさらされた。こうした実験でサルを載せた航空機が墜落し、それがUFOの墜落や死んだエイリアンといった噂につながっていった可能性も否定しきれない。  ひょっとすると、スカリーの『空飛ぶ円盤の裏側』によって広められた噂は、このような空軍の実験機が予定区域外に飛び出してしまった場合に備えた、いわば予防的な隠れ蓑であったのかもしれない。そして、ロズウェル事件の背後でそうした出来事が本当に起きていた可能性もあるのではないだろうか? 

フランシス・ゲーリー・パワーズのU-2やボーイングRB-47偵察機がソビエトに撃墜されるという悲惨な事件を受けて、軍や情報機関は、パイロットの生命を守り、かつ将軍たちがさらなる恥辱に晒されることを防ぐためには、無人航空機の開発を急がねばならないという認識に至った。アメリカ空軍はライアン・エラノティカル・カンパニー社に自らの目的に特化した無人機を開発するよう依頼したが、その中で最も成功したのはライアン147、通称「ライトニングバグ」であった。ライトニングバグはキューバ危機の際に偵察機として頭角を現し、ベトナムでも定期的に使用されるなどして、1990年代まで運用された。同機は最も初期のモデルでも傑出した性能を誇っていた。同機はプログラム飛行可能で、巡航高度は55,000フィート、最高速度マッハ1(時速720マイル)、後続距離1,200マイルだった。その後のモデルの性能はこれをはるかに上回った。1966年に導入されたロッキードD-21「タグボード」はライトニングバグの兄弟機で、高度95,000フィートでマッハ3(時速2,700マイル)の速度を出すことができたが、極めて不安定なところがあり、公的な任務ではたった4回しか出番がなかった。ライトニングバグの翼幅は小型飛行機並みだったが、レーダー探知を回避することができ、飛行中のコントレイルを残さないように改造された後は、肉眼ではほとんど見えないほどであった。

ライトニングバグはありとあらゆる「トリック」を巧みに行うことのできる装備を搭載可能だった。例えば同機は、標的機としても偵察機としても機能した。つまり、敵国の領域を飛行し、地対空ミサイル(SAM)を誘き出し、地上の発射機とミサイル自体の両方から信号を受信し、そのデータを送信した――それをミサイルで粉々に破壊される前に行ったのである。この重要な信号諜報は、SAMサイトの位置をマッピングし、新しい誘導ミサイル技術に対して効果的な対策を開発するのに役立った。それは人間のパイロットなら引き受けたくない自殺任務であったが、自我なきライトニングバグにとっては日常業務の一部だった。

こうしたドローンには、パラジウム技術のバリエーションとして開発された「進行波管」が搭載されていた。これは実際にはレーダー増幅器で、実際よりも大きな反射を生成することができた。要するにミサイルが目標を外す確率を高めようとしたのである。さらにこの機器には、パイロットやレーダー操作員に「巨大な航空機が付近にいる」と思わせ、恐怖を与えるという効果があったかもしれない――実際そうしたことは、1957年にケント上空でミルトン・トーレスが体験したとされている。さらにこの装置は、特定の航空機のレーダー反射を模倣するように調整することもできた。これとはまた別の「シューホーン」という装置は、ライトニングバグを「レーダーの腹話術師」に変え、自らのレーダー・シグネチャーを自分がいない場所に投影することができた。これは――例えば1990年代にベルギー上空で起きた三角形の飛行物体の追跡劇がそうであったが――UFOが信じられない速度でレーダースクリーン上を飛び回ることができるのは何故かについての回答を示唆しているようでもある。後期モデルではジャイロスコープの改善により、敵のレーダーに捕捉された際に急なターンを行うことができるようになった――これもまた多くのUFOによく見られる不規則な飛行パターンに合致している。ドローンは高度150フィートほどの低空を飛行するようプログラムすることも可能で、あるドローンは電線の下から送電塔を撮影することにも成功したとされている。

夜間偵察任務のために設計されたライトニングバグには、カメラの照明用のストロボライトが装備されていた。ストロボライトは当初「写真撮影には役に立たない」とされたが、これには意外な副次効果があることが分かった。敵のパイロットや地上の兵士を混乱させる効果があるというのだ。戦闘地帯を挟んだいずれの側であれ、予備知識のないパイロットや兵士がストロボを発するドローンを目撃したらどうなるか。これがUFO伝説の世界にドラマティックな逸話を付け加えることになったであろうことは想像に難くないところだ。

ここで示した航空機、欺瞞作戦、ECM(電子攻撃)はすべて40〜50年前に存在していたものだ。その技術の大部分は機密解除されており、一般にも公開されている。だが、そこで採用されていた原理は今日も変わらず存在していて、変わった点といえば、それが遙かに高度化しているということだけだ。新世代のUAV(無人航空機)は、ファイアビー(訳注:ライアン社がライトニングバグシリーズに先駆けて開発したジェット推進式ドローン)と比べればより長く、速く、低く、そしてゆっくりと飛行できるようになっており、現代の戦争、さらにはUFO伝説にとってますます重要な役割を果たすようになっている。 

現代のドローンは防御兵器として如何なる技術的発展を成し遂げているのか――そう考えた時、「これがそうなのではないか」と長らく噂されてきたものの中に、「視覚的に消える」能力というものがある。それは能動的カモフラージュないしは適応型カモフラージュと呼ばれる技術を用いたもので、ドローンはカメレオンの如く空に溶け込んでしまうというのである。この光学的ステルス技術の起源は第二次大戦にさかのぼる。「イェフディ計画」の名の下 、イギリス空軍と米海軍は海上を飛ぶ爆撃機の翼にライトを装備した。調光器を利用することでその光は空の明るさと同等に調整され、爆撃態勢に入った飛行機の翼と胴体の輪郭をぼやかし、その視認される距離を12マイルから2マイル未満へと減じたのである。現実にはレーダーが導入されることでイェフディ計画は不要になったのだが、今日もレーダーを回避しようとするドローンの形状や配色というのは、影を作ることなく空に溶け込むよう注意深く計算されている。

1980年代の初頭以来、イェフディのコンセプトをアップデートすべく様々な試みが為されてきたが、そこではレーダー上のステルス、光学的ステルスを組み合わせて、航空機を探査機器によっても目視によっても不可視にする試みが行われてきた。ポール・ベネウィッツも他のユーフォロジストにこう語っていた――自分がマンザノ貯蔵地域で目撃した飛行機は、周囲の光を曲げて自らを「見えなくする」ことができるのだ、と。

フィクションの「スタートレック」に出てくるクリンゴンの宇宙船「バード・オブ・プレイ」(訳注:猛禽類の意)は「姿を消す」能力をもっているのだが、その名を継いだボーイングの有人機「バード・オブ・プレイ」、そしていまだ秘匿されている「先進技術観測プラットフォームATOP」(こちらはおそらくドローンである)は、いずれもこうした新たな能力を有していることをほのめかしている――ちなみにATOPのミッションパッチ(訳注:ワッペン。写真はネットから拾ったもの)にはクリンゴンの宇宙船の輪郭が描かれていて、その向こうにアメリカの国旗が見えるデザインとなっている。噂されているところでは、新世代の光学ステルス技術は電気的に帯電すると色の変える材料を使用しているとされ、機体上部に取り付けられたセンサーや光ファイバーカメラに反応して変色するのだという。「黒い三角形」を目撃した者の中には、それは上方の星空に溶け込んでいたと証言する者もいるが、それはこの技術が既に使用されている可能性があることを示唆している。
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ブラックバードやファイアビーがこれまで偵察任務で大いに役立ってきたことは確かだが、現時点において軍が空からの監視で最も効果があるとしているのは地球の数マイル上空に配された「目」である。1957年のスプートニク打ち上げは、冷戦期の新たなフロンティアを開いた。CIAと空軍は1959年、コードネーム「コロナ」と称する合同偵察衛星プロジェクトを開始したが、これによって視覚的情報収集の方法は劇的に変わり、完全に廃止されなかったにせよリスクの高い有人スパイ機ミッションへの依存度は減った。コロナ衛星が何マイルも先の地上の目標を撮影すると、そのフィルムロールは地上へと投下される。これは大気圏突入時に火に包まれることになるが、これは特別仕立ての航空機が空中でキャッチする。フィルムを入れたカプセルは大きな金属バケツというか、不格好な空飛ぶ円盤のような形をしているのだが、時には着陸地点を外すこともあった。その実例が1964年7月7日にベネズエラに落下したカプセルで、CIAは絶望的で破局を招きかねない、そしておそろしく恥辱に満ちた「バケツ探し」を強いられることになった。それは本当の意味での墜落UFO回収作業であった。同様な事故で記録に残されたものもあるが、どうやら多くの事故はそうではなかったようだ。アメリカ国家偵察局の支援を受けたコロナ・ミッションは1972年に終了したが、その存在は1992年まで秘密にされた。ミッションの終了はこの機密情報がソ連に漏れた後のことだった。ソ連は、フィルムの入ったカプセルが再突入した地点に潜水艦を待機させていたのである。

今日では米国の陸海空軍はそれぞれ独自の宇宙部門を持っている。1982年に設立された米空軍宇宙コマンドや、1992年に設立された宇宙戦センターなどがそれだ。使い回し可能な軍用の宇宙航空機やシャトルが存在するという噂も航空愛好家たちのアングラな世界ではしばしば吹き上がる。こうした航空機が姿を現したことはいまだかつてないが、UFOコミュニティの先鋭的な一部の人々の間では、仮説上の存在が堂々たる宇宙艦隊へと変貌してしまい、それは外宇宙からのありうべき脅威に対抗するために作られたのだとされている。

多くの国々がロケット計画を開始するにつれて、超大国が宇宙でしていることを隠し通すのはますます難しくなるだろう。宇宙空間は非常に混雑しはじめている。地上や空中のレーダーシステムを欺くための対策が開発されたように、宇宙へのハードウェアの打ち上げや、その軌道や再突入を隠す方法も、インテリジェンスの世界において最高レベルにいる技術者たちは見つけているのではないか。そしてこれは、当然のことながらより多くのUFOの出現を意味する。

■空のパイ

U-2、ブラックバード、ドローン、ステルス戦闘機や爆撃機――直接であれ間接的であれ、これらはすべて過去60年間のUFO伝説に寄与してきたと考えられる。これらは私たちが知っている航空機である。だが、試作段階を超えなかったもの、「闇の予算」の陰に隠れたものについてはどうだろうか。実は、これらの多くは「空飛ぶ円盤」だったのだ。

米空軍が最初に行った極秘のUFO研究は「アメリカ合衆国における飛行物体事件の分析」である。これは1949年4月に内部公開され、1985年に公開されたが、そこにはケネス・アーノルド以前の空飛ぶ円盤の目撃例がいくつか含まれていた。1947年4月には、バージニア州リッチモンドの気象局職員2名が高速で移動する円盤を目撃したし、オクラホマシティではRCAエンジニアのバイロン・サヴェージが、「完璧に丸くて平らな」大きな円盤が上空を高速で飛び、風切り音を立てるのを目撃している。

その報告書には、世界で最初に撮影されたUFOの写真とされるものも含まれており、これは1947年7月7日にウィリアム・ロードがアリゾナ州フェニックスで撮影したものである。「シュー」という音も聞こえたので、彼はこれを戦闘機だと思い、カメラを持って外へ飛び出した。しかし彼が目にしたのは、彼の頭上を高速で旋回する、靴の踵の形をした奇妙な物体であった。ロードの写真は地元の新聞に掲載され、FBIの注目を引いた。FBIは彼のネガを入手し、それらが本物の写真であると認定したが、それが何であったかは不明である。もしかするとそれは靴の踵だったのかもしれない。しかしそれはアーノルドが6月24日に目撃したものの最初のスケッチにかなり似ており、丸みを帯びた前部と直線的な側面とが相俟って、先端部は凸形になっていた。

では、その時、こうした目撃証言を説明できるような飛行物体はあったのか? 答えは、いささかスッキリしないけれども「たぶんあっただろう」というものだ。

1947年当時の新聞を購読していた大衆にとっては奇異に思われたかもしれないが、空飛ぶ円盤は全く新しいものなどではなかった。1716年、科学雑誌「デダルス・ハイパーボレウス」には円形翼の飛行機の図が掲載された。デザインしたのはスウェーデンの科学者で神秘家のエマニュエル・スウェーデンボルグで、彼自身も後に他の惑星への超越的な旅を経験することとなる。

1930年代半ば、インディアナ州北部のアラップ社は、踵の形をした単翼機のモデルを4機開発した。一方、オハイオ州では、デザイナーのスティーブン・ネメス率いるチームが、円盤形の単翼を従来のプロペラ推進式胴体の上に搭載した「ラウンドウィング」を製造した。この頃、空飛ぶ円盤はサイエンスフィクション、または「サイエンティフィクション」雑誌の表紙を飾り始めた。

第二次世界大戦が末期を迎えるまでに、その戦闘の多くが空中で行われたようになったことから、主要諸国は短い距離で離着陸できる航空機の重要性を認識するようになった。陸軍航空隊は、滑走路を爆撃することで航空機の行き来を効率的に麻痺させることができることを学んでいたし、一方で海軍は、艦船から飛行機を発着させる新しい方法を模索していた。米海軍は、チャンス・ヴォート社の航空機デザイナー、チャールズ・ジマーマンに、短距離での離着陸が可能なプロペラ駆動の戦闘機を開発するよう依頼した。これがXF5U-1「フライング・フラップジャック」を生んだ。正式に製造されたのは2機だけで、予算の超過や納期の遅れもあったため、海軍が「未来はジェット推進にこそある!」との判断を下した1947年3月にプロジェクトは中止された。よく分からない理由で海軍は完全に機能する試作機を廃棄するよう製造業者に命じ、その材料と研究に投じられた数千ドルは無駄になった。しかし、フラップジャックの改良型(これは「スキマー」として知られる)の設計図は存在しており、これはホバリングが可能であるとされている。さらに、「ジェット推進型へと進化したフラップジャックが存在する」という噂も今日に至るまで残っている。もしそうしたものが存在していたとすれば、その秘密は恐ろしいほどうまく秘匿されたことになる。皮肉なことだが、仮にそうしたものが存在していた場合、その存在を裏付ける最良の証拠は、ケネス・アーノルドが証言し、ウィリアム・ロードが撮影した踵型UFOであるということなのかもしれない。
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 XF5U-1

してみると、初期の空飛ぶ円盤の報告をスキマーないしはフラップジャック(それは1機かもしれないしもっと多かったかもしれない)の存在と結びつけるのは、非常に魅力的なアイデアということになる。海軍が試作機を廃棄するよう命じたことは、それに代わるべき何かを開発していた可能性を示唆している。ウッドストリーム・コーポレーションの副社長になったトーマス・クレア・スミスという技術者は、1946年にヴォート工場でスキマーが飛行するのを目撃したと主張している。「その飛行機は飛んだのか、だって?」。彼はある記者に語った。「間違いない。私はそれが離陸し、浮き上がって、着陸するのを見たんだ」。  スミスは、彼が見たスキマーは夜間にのみテストされていたと述べているが、おそらく1947年には昼間の飛行も試みていたのではないか。

『ECM+CIA=UFO』の著者で科学者のレオン・デイビッドソンは、最初の空飛ぶ円盤の目撃は、海軍の実験機――おそらくはXF5U-1によるものだったと確信していた。デイビッドソンは、空飛ぶ円盤の謎に対する米空軍の初期調査について、「国防省の一部門が(中略)他の部門の秘密活動が表沙汰になったものを調査している」と非難していた。確かに海軍が1946年と1947年に踵型をしたホバリング可能な飛行機を飛ばしていたとしたら、空軍をおちょくって、最大限の恥辱を与えることで大いに溜飲を下げていたことは間違いない。デイビッドソンは、空軍による最初期の目撃事例、すなわち1947年7月8日にミューロック空軍基地上空で「薄い金属製の物体」が目撃された事件は、海軍の嫌がらせに起因するものだったと信じていた。さらに彼は、1000万カンデラの明るさを持つマグネシウム製の照明装置「ヘル・ロアラー」をUFO目撃の原因として名指ししていた。実際のところ、1951年10月にコネチカット州でそのテストが行われた際には、洪水の如く多数の円盤報告が寄せられた。

しかし、1940年代と1950年代に奇妙な航空機を開発していたのは、アメリカただ一国だったわけではない。歴史の記録はこここから、砂漠の飛行場にある駐機場さながらに歪み揺らめきはじめるのだった。

■「君はフルーク・クライゼルを見たか?」

ヴェルナー・フォン・ブラウンのV2ロケットは、第二次世界大戦の流れをドイツ有利に変えかける寸前までいった。戦争が終わると、米軍の「プロジェクト・ペーパークリップ」の一環として、残っていたすべてのロケットや部品は、フォン・ブラウン、そして枢要を占めた200人以上の科学者・技術者ともどもアメリカに渡った。すべてのハードウェアと人員は最終的にオハイオ州のライト・パターソン空軍基地にある空軍技術情報部に送られた。ここは後に空軍のUFO調査の拠点となった場所でもある。58機のドイツの航空機と数百のエンジンや部品がここに運ばれたが、中で最も有名なのはV2ロケットとメッサーシュミット262ジェット戦闘機だった。

その他にも、枢軸国の航空戦兵器として開発されていた興味深い秘密兵器はあまたあったと言われている。実際に存在していたとわかっている航空機の1つはホルテンHo 229で、ヴァルターとライマールのホルテ兄弟の設計になる同機は、1944年にテスト飛行を成功させていた。戦闘爆撃機として想定された同機は翼幅55フィート。レーダー反射断面積は極小だったとされ、それ故にアメリカのB-2ステルス爆撃機の祖先とも言われている。戦争終結時にその試作機はアメリカに捕獲され、同時に他のホルテン機の設計図も押収された。実はアメリカも1944年から同種のデザインの航空機開発に取り組んでいたのだがなかなか成果が上がらず、173フィートの翼幅を持つ巨大で、しかしトラブル続きだったノースロップYB-49のテスト飛行が始まったのは1947年10月のことだった。
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 ホルテンHo 229

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  ノースロップYB-49

ロシアもまたドイツのテクノロジーを戦利品として多く手に入れており、アメリカでの最初のUFOの目撃ウエーブが起きた際には、「ホルテンの設計に基づいて作られ、ロシアのパイロットが操縦している航空機」が空飛ぶ円盤の有力候補となった。ケネス・アーノルドが最初の目撃について描いた絵のうち、2番目のものは三日月型をしていてホルテンの飛行翼に非常に似ているのだが、これは彼が最初に描いたものとはかなり異なっている。最初の絵は、米海軍のフライング・フラップジャックに似ていたのだ。この変化には何か大きな意味があるのだろうか? ひょっとしたらアーノルドは、不安感を抱いた海軍の提督たちから、絵を描き直すよう頼まれたのではないだろうか?

ヨーロッパが最初のUFO報告に沸きかえっていた1950年3月、「第二次世界大戦中に空飛ぶ円盤を開発していた」と主張する技術者たちの記事が2本、名のある新聞で報じられた。第一の記事は、ムッソリーニの元老院に席を得ていた人物で、50冊以上の本を著したイタリアの著名な技術者ジュゼッペ・ベルッツォ教授に関するものであった。彼によれば、空飛ぶ円盤は空中魚雷の一種であり、1942年以来ドイツとイタリアで開発されていたのだという。彼の声明はイタリアのいくつかの新聞に掲載され、3月24日にAP通信によって配信されるところとなった。ベルッツォは「空飛ぶ円盤には超自然的な要素などないし、火星人とも関係ない……円盤は近年の技術を生かした合理的なものに過ぎない」と語った。

それから数日たった3月30日、ドイツの『デア・シュピーゲル』誌は、ヨーロッパを舞台にしたUFOの記事の中で、ドイツ北岸のブレーマーハーフェンで米軍の運転手をしているルドルフ・シュリーバーという人物のインタビューを掲載した。彼はプラハ大学を卒業し、ドイツ空軍で大尉をしていたとのことで、ベルッツォの先を行くような話をした。すなわち、「自分は1942年からナチの空飛ぶ円盤プロジェクトに携わり、実用モデルは1945年に飛行を果たした」というのだった。シュリーバーの設計したものは中央に乗員用のキャビン、その周囲には高速回転する円形のリムがあるというもので、動力は下部に置かれたジェットタービンが生み出したのだという。この直径49フィートの航空機は驚異的な加速力を持ち、最高時速は1,200マイルに達した。シュリーバーの話は他の出版物でも報じられたが、彼はそこでさらに踏み込み、「飛行したプロトタイプは破壊されたか、さもなくばロシアの手に落ちた」「自分の作った設計図は戦後になって自宅の工房から盗まれた」と明かした。シュリーバーは、ロシアかアメリカのいずれかが彼の設計に基づいて空飛ぶ乗り物を製造しているのだと確信していた。さらに謎めいた話もある。伝えられているところによれば、この話を公にした1年後、つまり1951年になって彼は自動車事故で死亡したというのである。

シュリーバーの主張は曖昧だが、その一部については別のところで裏付けが取れている。ドイツの航空雑誌『ルティング』の1987年2月号掲載の記事によると、1943年8月または9月、チェコ共和国のプラハ北東にあるプラハ=クベリ空港で、あるドイツ人パイロットが、他の訓練生たちと共に直径20フィートの空飛ぶ円盤の試験飛行を目撃したのだという。アルミニウム製の航空機は中央にはキャビン、その外側には回転する外縁を備え、4本の脚の上に座っていた。それは地上から数フィート浮上したとのことで、シュリーバーの円盤ほどのインパクトはないが、それでも真っ当な開発プログラムが存在していたことをこの証言は示唆している。

シュリーバーの「フルーク・クライゼル」についての話はこれで済まなかった。1952年6月7日――偶然にもドナルド・キーホー少佐によるET仮説推しの著作、『空飛ぶ円盤は実在する』がアメリカの書店に並んだのと同じ月であったが――フランスの新聞『フランス・ソワール』がナチの空飛ぶ円盤に関する新たなストーリーを報じた。このときの内部告発者はリチャード・ミーテで、「自分はシュリーバーと同様、ドイツの円盤設計の主要デザイナーの一人であった」と主張していた。ミーテは円盤のテスト飛行の写真も持っており、それは9月にイタリアの新聞『イル・テンポ』に掲載された。その写真にはぼんやりとした物体しか映っておらず、空飛ぶ円盤である可能性も否定はできなかったが、それが何かはハッキリしなかった。

『フランス・ソワール』の記事の中で、ミーテは「超音速ヘリコプター」V-7という表現を用いており、それは遠くから見ると「食器セットのソーサーのように見える」「オリンピックの円盤投げの円盤と同じ形で、直径は約42メートルの巨大な金属製円形ディスク」だったと語った。ミーテによれば、V-7は12基の強力なジェットエンジンを使用し、それらは中央の軸の周りを回転して飛行した。そしてよくできた「圧縮システム」により、炎や煙を出さずに飛行できたという。ミーテは、V-7は戦争末期に大量生産される予定だったが、ロシア人たちがその部品や設計図、さらに3人の技術者を押さえてしまったのだと主張している。

これら3つの話は、ナチスの空飛ぶ円盤に関する、豊富で途切れることのない伝説の基盤となった。現在ではそこに「南極やラテンアメリカに生き残ったナチスのコミュニティ」だとか、「タイムトラベルする超人の冒険譚」までも含まれている。1970年代にはこの神話がネオナチのプロパガンダに採用され、拡張された。彼らはUFOという既に人気のあるテーマを利用し、読者を「ナチの優越性」という強力で魅力的なファンタジーに――まあそんなものは凡そありえないのだが――引き込もうとしたのである。
 

■ソビエトの円盤

シュリーバーやミーテの主張を裏付ける証拠は、この最初の報道ラッシュ以外にほとんどない。しかし、彼らが述べた「ロシアは自前の円盤を飛ばしていた」という話はどうだろうか?

CIAによる1953年のロバートソン委員会のUFOに関する報告書では、ソビエトの報道機関が空飛ぶ円盤について一切報じていないことに懸念を示している。「このテーマには明らかにうまい生かし方があるにもかかわらず、ロシアのプロパガンダがほとんど見られないということは、そこにロシア政府の公式な方針があった可能性を示しているのかもしれない」。ロシアが空飛ぶ円盤の問題について殊更に沈黙を守っていたのは、彼らもまた謎の乗り物の訪問を受けていたからなのか、それとも当時アメリカ人の多くが疑っていたように空飛ぶ円盤は彼ら自身が飛ばしていたからなのだろうか?

1950年代の3つの話が、ロシアの円盤プロジェクトが実際に存在していた可能性を示している。最初は、1952年7月9日に『ニュース・ディスパッチ』紙が報じたもので、目撃者は元市長オスカー・リンクとその娘ガブリエルだった。彼らが目撃したのはその2年前、1950年6月17日で、[ドイツの] ハッセルバッハ近郊での出来事だった。リンク親子は、わずか50フィートの距離から、キラキラした金属風で重そうな衣服を身にまとった2人の人影を目撃した。それは「極地の住人が着るような衣服」で、彼らの胸には点滅するライトがついていた。搭乗者から30フィートの距離には、クラシックな空飛ぶ円盤があった。直径は40から50フィート。周囲には、幅1フィートほどの小さな穴が18インチほどの間を空けて上下2列に並んでいた。中心部からは高さ10フィートほどの「展望塔」が突き出ていた。ガブリエルが父親に声をかけた時、搭乗者たちは驚いたような様子で円盤に駆け込んだ。外縁が回転しはじめ、機体の穴からはジェットエンジンのように火が噴き出した。円盤部は展望塔の軸に沿って真っ直ぐ上昇し、やがてキノコのような形になった。それから乗り物全体が地面と平行に移動し、大きなホイッスル音と轟音を立てて飛び去った。この他に円盤が飛び去るのを目撃した人間は2人いた。報道によればリンクはこう語った。「あれはロシアの新しい兵器だと思いました。怖かったです。ソ連は自分たちのやっていることを知られるのを嫌いますからね」

次の話はなかなかに魅力的なものなのだが、これはフランスの新聞『ル・コティディアン・ド・ラ・オート=ロワール』で1954年10月24日に報じられた。場所はフランス中部のサン=レミで、チェコ人の工場労働者ルイ・ウジュヴァリが仕事に向かっていた午前2時30分頃、ある男と出会った。男の身長は平均的で、パイロット用の飛行スーツを着て、リボルバー拳銃を持っていた。その男は最初、ウジュヴァリには理解できない言葉で話しかけてきたため、ウジュヴァリはロシア語で会話をしようとした。

そのパイロットはロシア語で尋ねた。「ここはスペインか?イタリアか?」。ウジュヴァリが「フランスだ」と教えると、パイロットはまず「ドイツまでどれくらい離れているか」と尋ね、その後、時間を尋ねた。「午前2時30分だ」とウジュヴァリは答えた。「嘘だろ」とパイロットは言った。「いまは午前4時だ」。

この奇妙で無意味なやり取りの後、パイロットは向きを変え、道端に止まっていた彼の機体の方へ向かって歩き出した。それは2枚のソーサーを合わせた形で、上部にはドームアンテナがあり、そこからはアンテナが突き出していた。明るい光が灯り、その後、その機体は「ミシン」のような高音を出しながら夜空に消えていった。

この2つの話などは、単なる作り話として、あるいは円盤問題の下手人としてソ連に疑いの目を向けさせようとCIAが捏造したものとして、躊躇することなく却下して良いのかもしれない(我々としては、米ソ双方がお互い相手を欺こうとして手練手管を凝らしていることを過小評価してはならないのだ)。だが、ここで三番目に紹介する話、つまり1955年10月4日にあった話を無視するのはかなり困難だ。

その情報源は、リチャード・ラッセル上院議員。米国上院軍事委員会の委員長であり、国防問題において最も知識を持つ人間の一人でもあった。彼の目撃情報を詳細に記した空軍の情報報告書は1955年10月14日付で、「極秘」に分類されたまま1985年まで公開されなかった。この報告書には、ラッセル上院議員と2人の同行者、すなわち彼の軍事補佐官であるハサウェイ大佐と、名前が黒塗りにされている「ビジネスマン」が、現在のアゼルバイジャンのバクー近くで列車に乗っていた時のことが記されている。時刻は午後7時を少し過ぎた夕暮れ時で、空は晴れていた。ラッセルはその時一人で車両の中にいたが、約1マイル先で奇妙な黄緑色の光が垂直に上昇し、それから列車の真上を通過するのを見た。彼は同行者を呼び、目撃したものについて説明した。するとその最中、同じ場所に再び光が現れ、再び列車の上を飛んでいった。

「長年そんなものは存在しないと言われてきたが、私たち全員がそれを見た」。10日後、空軍の調査官に対してハサウェイ大佐は語った。「その航空機は円形で、空飛ぶ円盤のようだった……それは時計回り、右回りに回転していた……ディスクの内側には2つの光があり、外側が回転してもそれらの光は動かなかった」。匿名のビジネスマンは、「上部にわずかに盛り上がったドームがあり、白い光が見えたと述べている。

ラッセルと彼のチームがアメリカに戻った後、CIAとFBIの双方がこの事件に一枚噛んできた。CIAはラッセルとハサウェイの目撃情報を「ミサイルの発射やジェット戦闘機の誤認である」として懸命に否定しようとしたが、最終的には「現時点でラッセル氏の語る目撃に裏付けが取れたとしても、こうした通常ありえない航空機が実際にアメリカ上空を飛行していると推測することはできない」と結論づけた。

上院議員とそのチームは本当に空飛ぶ円盤を目撃したのだろうか? ラッセルがアメリカの軍事界における主要人物の一人であったことを考えると、彼の旅の途中で起きたことが偶然だったとは考えにくい。彼らが目撃したものは本当に空飛ぶ円盤だったのか。それとも通常の航空機が誤認されたのか。あるいは意図的に空飛ぶ円盤にみえるよう何かを見せられたのだろうか? ロシアがもし垂直離着陸機(VTOL)のような高度な航空機を実際に飛行させていたとすれば、アメリカにそれを知られたくはなかっただろう。その逆に、もしそんなものを飛行させる技術がなかったとしたら、アメリカ人を不安にさせるために「実は技術をもっている」と思わせたかったかもしれない。

CIAもあなたと同様困惑していたのだ。が、ロシアの飛行円盤はそれほどあり得ない話ではないことも理解していた。というのも、アメリカ自身も空飛ぶ円盤を作っていたからだ。コードネームは「プロジェクトY」だった。(15←16→17

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■第15章 秘密兵器

    「じっと見続けるのよ。そうやって何か見えてきたなら、それはきっとイエス様よ」   ――1980年12月29日、テキサス州ニューキャニーでUFOを目撃したヴィッキー・ランドラムがコルビー・ランドラムにかけた言葉


人間が作った空飛ぶ円盤の歴史は錯綜している。かつて私は個々の断片をどうにかつなぎ合わせてみたことがあるのだが、その際、どうしても解き明かさねばならない問いが一つ残った。もし円盤型の飛行体が1930年代から飛んでいたのなら、なぜ空飛ぶ円盤はそののち、かくも魔術的で異世界の雰囲気を漂わせるようなオーラを持つにいたったのか?

スイスの心理学者カール・ユングはCIA長官アレン・ダレスの親友であったが、彼は晩年に至って空飛ぶ円盤に魅了され、この問題について書いた『空飛ぶ円盤――空に見られたものについての現代の神話』(1959)は今なお古典的作品とされている。ユングは、この円盤の持つ力を、全体性・完全性・完璧さのイメージであるところのマンダラと同一視することで説明しようとした――そうした特性はマンダラ以外では神にしか見られないものである。神話的な賢者ヘルメス・トリスメギストスが語るところでは、神というのは円なのだという。その円というのは、円周はどこにでもあるけれども、中心はどこにもない円である。このパラドクスに満ちた比喩というのはUFOの問題にもピッタリと当てはまる。そして、円盤に神秘性をまとわせているのはその円形の形状だけではなく、ユングの表現でいうならばあまたの報告にみられる「不可能性」 もまたそうである。つまりそこには元来夢のようで非論理的な性質があり、少なくとも [人の心に舞い降りるための] 着陸装置といったものが、イマジネーションの世界の中に常に存在していることを示唆している。

しかし、空飛ぶ円盤の神秘性が広まっていった背景に思いをいたすと、空飛ぶ円盤を単なる航空機というにとどまらず心理学的な兵器にも仕立てていこうという「プラン」のようなものがなかったか、という疑念も兆す。こうした考えは、1950年代初頭にはアメリカ自身による空飛ぶ円盤プロジェクトが進行中であったことを考慮に入れると、より意味をもってくる。

1953年2月11日、トロント・スター紙は空飛ぶ円盤はもはや幻想ではないと報じた。アブロ・カナダ社が、所有するマルトン空港でその種のものを製造していたというのである。スター紙によれば、その垂直離着陸機(VTOL)はほぼ静止した状態でホバリングし、時速1,500マイルで飛行することができるとされた。この話は大筋で本当のことだった。アブロは「プロジェクトY」、あるいはそのスベード状のデルタ形状から「アブロ・エース」として知られる航空機の開発に取り組んでいたのだ。ただしそれはモックアップとしてのみ存在し、地表から離陸できるようなものではなかった。

英国の航空機設計者ジョン・フロストは、英空軍の有名なデ・ハビランド・バンパイアの設計者であるが、VTOL航空機へのニーズの高まりに応じるため、[同社で] 「エース」を開発した。噂されたドイツの空飛ぶ円盤がそうだったように、エースもまた平面放射流タービンエンジンを搭載する予定だった。このエンジンは中央軸の周りを回転し、航空機の縁に沿って空気を押し出すもので、通称「パンケーキ」と呼ばれた。フロストは航空界の多くの人々と同様、ロシア人は既にドイツの設計に基づいて円盤型航空機を飛ばしていると確信しており、エースの設計に関してはハインケル-BMWでフルーク・クライゼルのために働いていたエンジニアから助言を求めたとされている。 [訳注:フロストはアブロ・カナダ社で当時円盤機開発に携わった人物。ここで開発したという「the Ace」の詳細は不明だが、同名の試験モデルがあったものか?]

1954年までに、カナダ政府の忍耐、そして資金はいずれもが尽きかけており、プロジェクトYは閉鎖の危機に瀕していた。そこに米空軍研究開発(R&D)部門のドナルド・パット中将が登場した。パットはフロストに20万ドルを提供して作業を継続させ、さらに1955年には――おそらく前年10月のラッセル上院議員の目撃が刺激となったのだろう――さらに75万ドルを提供した。米空軍の資金からの資金が入ったことで、「シルバーバグ」と「レディーバード」として知られる2つの円盤開発の計画が含まれたプロジェクトY2が発足した。ちょうどこの頃、おそらくは1954年10月になって、空飛ぶ円盤に関する問い合わせに対して米国防総省が発送する定型文からは、「未確認航空現象」は「米国によって開発された秘密兵器、ミサイル、または航空機である」という主張を否定する段落が削除された。 

単座の迎撃機として開発されていたレディーバードは、さらなる進化版として、速度は驚異のマッハ3.5(2600マイル以上)、飛行高度は80,000フィート、ホバリングから70,000フィートに達する時間はこれまた想定外の4分12秒という高性能を発揮することが期待されていた。この円盤機がこれほどまでの高速性能を達成できるのは、コアンダ効果を利用できるからだとされた。すなわち曲面の縁に沿って流れる空気が、さらなる揚力を生み出すという効果である。Y2計画では、円盤機の様々な使い方が提案された。その中には海軍艦船や潜水艦から発艦する艦上機、小型バージョンを用いての無人の飛行爆弾、さらにはリムの部分を強化した有人機で敵機を「スライス」するというものもあった――最後のそれは多くのパイロットが進んでやろうとはまず思わない任務ではあったが。

フロストの円盤のうち最も進んだバージョンとなったアブロ「MX-1794」は、それまでより強力なターボジェットエンジンを搭載したもので、1956年にモックアップ段階に達した。風洞試験はライト・パターソン基地で行われたが、これが「基地内に空飛ぶ円盤がある」という噂を広めるのに貢献したのは疑いがない。この試験はその後、NASAの前身であるNACAのカリフォルニア州エイムズの施設でも実施された。1794型機のプロジェクトの見通しは明るかった。1956年10月の海軍のプレゼンテーションでは、アブロが1957年1月に飛行プロトタイプ機を完成させると発表した……だが、この飛行機についての話が表に出たのはこれが最後だった。

アメリカ製の空飛ぶ円盤に何が起こったのだろうか? 航空史家のビル・ローズとトニー・バトラーは、実質的に同一の航空機のために複数のプロジェクト名が入り乱れて用いられていたのは意図的に混乱を招くためだったとみており、MX-1794は最終段階で「ブラック」に――秘密兵器になったのだと示唆している。彼らは、進行中の空飛ぶ円盤開発プログラムについて論じた1959年の文書を見たと主張しており、U-2やステルス機を生み出した有名なロッキード社のスカンクワークスがその拠点である可能性が高いと主張している。

シルバーバグの物語のほろにがい後日談をひとつ紹介しておくと、1958年にMX-1794が姿を消したのと同時に、アブロは新たなプロジェクトを発表した。VZ-9AV、通称アブロカーである。これは幅18フィート、高さ3フィートの単座型円盤型飛行機だった。もともとは陸軍用のホバージープとして設計されたものだったが、アブロカーは振動が激しく不安定で、最終的には役に立たない失敗作だということが判明した。その役目といえば、ニュース映像で滑稽なシーンを提供できることぐらいで、一部の人々は、これは真の極秘プロジェクトであるMX-1794から目をそらすための意図的な目くらましだとすら言っている。シルバーバグの資料が1995年に機密解除されるまで、一般の人々がアブロ社の円盤プロジェクトについて知っていたのはアブロカーだけであり、その結果がどうなったかといえば、自国製の円盤開発プログラムが真剣に検討されることは全くなくなってしまった。

米空軍は1961年にアブロ・カナダ社との協働をやめ、その翌年にはマルトン工場も閉鎖された。だが、空飛ぶ円盤の夢がそれで終わったわけではなかった。1958年の映画『ベル、ブック、アンド・キャンドル』に登場する魔法の猫にちなんで「パイ・ワケット」とコードネームが付けられたコンベア・レンズ防衛ミサイルは、直径約5フィートの無線操縦式円盤で、飛行機としては短命に終わったB-70バルキリー爆撃機から発射される予定であった。パイ・ワケットは有人航空機ではできない動きが可能で、時速マッハ7(約5000マイル)の速度で衝突して爆発することを想定していた。このプラットフォームは風洞試験の段階に到達したのち、1961年に開発中止になったが、小型で流線型をした円盤モデルの写真は今でも存在している。ただ、MX-1794と同様、レンズ防衛ミサイルも「ブラック」入り――つまり極秘プロジェクトに移行した可能性があり、ホワイトサンズで実物大モデルがテストされたという噂も根強い。長年にわたる小型円盤型UFOの目撃情報の多くはパイ・ワケットのようなもので説明できるという説もある。

人工的なUFOに関する議論では、長年アメリカ最大のUFO研究団体であったNICAPの創設メンバーで、オハイオ州出身のエンジニアであったトーマス・タウンゼント・ブラウンをめぐる謎も無視できない。生まれながらの発明家であったブラウンは、1921年、イオン化された電子によって推進力が発生することを発見した時、まだ16歳だった。このビーフェルト=ブラウン効果は通常は電気流体力学(EHD)と呼ばれているが、今日の「リフター」(軽量の機体が電気を動力源として使用する原理)の背後にある原理で、将来的には深宇宙の探索に役割を果たすかもしれない。

ブラウンのキャリアの多くは機密に包まれている。1930年代から1940年代にかけて、彼はいまもなお機密扱いになっている陸軍や海軍の多くのプロジェクトに参加したが、どうやらそれらはレーダーや通信衛星に関するものだったようだ。1950年代後半には、ブラウンは円盤型モデルを使った反重力研究に取り組んでいたと言われている。当時は、新聞や『メカニックス・イラストレイテッド』のような人気雑誌にも記事が載るほど反重力への関心は高まっていたのである。伝えられているところでは反重力研究はアメリカ国内の14カ所で行われていたとされ、その中のひとつ、ライト・パターソン空軍基地の航空研究所(後に航空宇宙研究所)では、アブロ社の円盤の試験が行われていた。UFOコミュニティの一部の人々は、この時期に反重力技術のブレイクスルーがあったと信じている。中でも最も可能性が高いとされるのは、ブラウンのアイデアが、重力の引っ張る力を中和する技術で僅かながらではあるが進歩を生み出したという見方である。例えば、それは電場を使って航空機の翼の抗力を減ずるといったもので、そのシステムは今日巨大なB-2ステルス爆撃機で用いられているとも言われている。

人間の手になるUFOを探求する際、もう一つ考慮すべき分野がある。あらゆる場面で原子力への熱狂があった時代の一断面ということになるが、1946年、米空軍は、航空機の推進のための原子力(NEPA)計画を立ち上げた。実際の試験飛行が始まったのは1955年で、2年間にわたって、12トンの鉛とゴム製のシールドを装備したB-36爆撃機がテキサス州とニューメキシコ州の上空で47回の試験飛行を行った。この機には空気と水で冷却される原子炉が搭載されていた。「X-6」という原子力航空機の計画も立てられ、試作エンジンも製造されたが、1961年に計画は全て中止された。しかし、それは本当に終わったのだろうか? いくつかのUFO遭遇事件では、目撃者が放射線被曝と考えられる症状を示している。1980年12月29日のキャッシュ=ランドラム事件がその最も有名な例である。 

以上が円盤型航空機の完全なる歴史だというわけでは全くない。多くの航空機設計者は、UFOの報告が絶えず流れる中、その形状を用いた実験に取り組んできた。アメリカの空軍基地の格納庫に円盤が保管されているという噂も今なお続いている。人口に膾炙したそのバリエーションとしては、1960年代にフロリダ州のマクディル空軍基地のスクラップ置き場で大きな円盤が目撃されたという話や、1980年代にアメリカ国内の極秘施設でリバースエンジニアリングが行われていたとされる反重力エイリアン再現機(ARV)3機(通称「スリーベアーズ」)の噂といったものがある。


■UFO:資金不足の優良案件

偶然なのか仕組まれたことだったのかはともかく、1950年代になると、空飛ぶ円盤は地球外に由来する知性体やテクノロジーと関連づけられるようになった。戦後の世界の覇権争いの中で、先進的な異星人のテクノロジーを握っているように匂わせることは、心理戦において強力な武器となり得た。UFOコミュニティが「アメリカ政府はUFOの真実を隠している」と訴えていたのとは反対に、冷戦がいまだかつてないほど激化する中、サイラス・ニュートン、オラヴォ・フォンテス、それからやや遅れてではあるがポール・ベネウィッツといった人物は、「米軍はイギリスなどと比べたら何百年――ことによったら何千年も進んだ異星人の技術を所有しているのだ」と信じ込むよう [当局から] 吹き込まれた。こうした異星人の乗り物は信じられない速度で移動し、瞬時に停止し、ピンの上に浮かぶことができた。音を全くたてず、目に見えない存在になることもできた。UFOはかつても、そして今も無敵だった。そして、アメリカはそうしたテクノロジーを手にしているというのである。

ベネウィッツ事件の後、こうした噂はどんどん強まっていった。「ガンホー」(「世界の軍事関係者のための雑誌」を称する雑誌だ)1988年2月号に登場したアル・フリッキーという偽名の人物は、「エリア51で異星人の乗り物の試験飛行が行われている」という話で人々の耳目を引いた最初の人間となった。ネバダ州のこの基地は、細かい事をいえばネリス空軍基地の軍事作戦エリアに属していて、現在では多くの人にその名を知られているが、当時はその存在自体が極秘であった。記事のタイトルは「ステルス――そしてその先へ:オーロラ計画と『資金不足の優良案件』(Unfunded Opportunities:UFO)についての概要」というものだった。ちなみにこの「資金不足の優良案件」というのは、ロッキード・マーチン社の「スカンクワークス」(U-2、SR-71ブラックバード、ステルス戦闘機、B-2爆撃機を開発した先進開発プログラム)の責任者であるベン・リッチが、かつて語った言葉に由来している。彼はUFOについての意見を聞かれた際、「UFOというのは資金不足の優良案件だよ」と言ったのである。この発言は如何様にも解釈できる多義的なコメントだ。彼は「スカンクワークスはアブロMX-1794のような空飛ぶ円盤を開発したが、資金が尽きてしまった」と言いたかったのだろうか? あるいは「目撃されたUFOはまだ開発段階に至っていない試作機だった」ということなのだろうか?

「ガンホー」の記事では、エリア51で――とりわけそこにある「エイリアン・テクノロジー・センター」で何が行われているかについての推測がなされているが(ちなみに編集者は「彼らはメキシコ人を研究しているのか?」と軽口を叩いている――訳注:エイリアンには外国人の意味もある)、そこにはロッキードのエンジニアのこんな匿名コメントが引用されている。「こんな風に言っておこうか。ネバダの砂漠には、ジョージ・ルーカスがよだれを垂らしてしまうようなものが飛んでいるのさ」。また、空軍の匿名士官はフリッキーにこう語っている。「我々がテスト飛行している機体は、言葉では説明しにくい。観念的な言い方だが、これをSR-71と比べることは、レオナルド・ダ・ヴィンチのパラシュートをスペースシャトルと比較するようなものだ」。フリッキーはまた、「フォースフィールド技術、重力駆動システム、『空飛ぶ円盤』のデザイン」といったものにかんする噂にも触れている。エリア51で彼らは一体どんなスーパー兵器を作っていたのだろう?

イギリスのレーダー技術の先駆者レジナルド・V・ジョーンズは、第二次世界大戦の回顧録『最も秘匿された戦争』の中で、1939年にアドルフ・ヒトラーが行った演説がイギリス諜報機関を如何に畏怖させたかを記している。外務省が翻訳したその演説の中で、ヒトラーは、ドイツは「如何なる防御も無効な秘密兵器」を持っていると自慢していた。これに続いて、ヒトラーはこう宣言した。その兵器は標的となった者たちから「視覚と聴覚を奪う」ものだ、と。

秘密情報部はジョーンズにこの秘密兵器がいかなるものであるか評価するよう要請し、彼はいかなる可能性が考えられるかを報告書にまとめた。

    空想めいた噂、つまり「地震を起こす機械」だとか「半径2マイル以内の人間を爆発で滅し去るガス」といったものを除外した上で、なお考慮に入れるべき兵器は幾つかある。以下のようなものである。
    細菌兵器
    新種のガス
    火炎兵器
    グライダー爆弾、空中魚雷、無人航空機
    長距離砲・ロケット
    新型の魚雷、機雷、潜水艦
    殺人光線、エンジン停止光線、磁気銃    

ヒトラー演説の真相は、最終的にはより現実的なものであった。ドイツ語で「武器」を意味するのは「ヴァッフェ」という言葉であるが、ジョーンズがスピーチを改めて翻訳したところ、ヒトラーは「ルフトヴァッフェ」、すなわち空軍のことを言っていたことが判明した。犠牲者を盲目にし耳を聞こえなくするという謎の力は、単に「雷に打たれた」と訳されるべきものを不適切に解釈しただけのことに過ぎなかったのだ。

ハッタリと脅しは、どの国においても重要な兵器である。戦時であれ平時であれ、もし敵国ないし潜在的な敵国が先進的なテクノロジーを手に入れたと主張するならば、それを無視することはできない。少なくとも、その主張が真実かどうかを評価するために多大な時間と資金を費やすことになる。自国でそれと同じものを作ろうとさらに資源を浪費するかもしれない。一方で、そうした脅威が市民や軍の士気にもたらす影響は、その兵器そのものと同じくらい破壊的になる可能性があるのだ。

UFO現象の初期には、ゴーストロケット、空飛ぶ円盤、緑色の火球、そのほか謎の物体のあれこれが、ソビエト連邦の進んだテクノロジーの表れなのではないかという懸念があった。1948年に円盤を追跡していたパイロットのトーマス・マンテルが死亡した後、この状況はさらに悪化した。アメリカ空軍のパイロットが、「マンテルのようになってしまうかもしれない」といって未知の航空機に立ち向かうことを恐れるようになったら、希望はすべて潰えてしまう。もしある日、空飛ぶ円盤がソビエト連邦の航空機であると判明したら、一体誰がそれに立ち向かうだろうか? そのような事態が起きてはならないのだ。そうした理由で、軍の目撃報告に対する管理を強化し、円盤に民間人が興奮するのを抑えこむことでUFOパニックを封じなければならない必要が出てきたのである。逆に、他国に「空飛ぶ円盤は無敵で、しかもアメリカの手の内にある」と信じさせたらどうなるか。敵国のパイロットがU-2や偵察気球を撃墜しようとする試みを抑制できる可能性も出てくるのである。


■スターウォーズ

超兵器をめぐる策略というのは単なる憶測にとどまるものではない。考えてみて頂きたいのだが、これと同様なシナリオは、ポール・ベネウィッツが妄想の極にあった1983年の時点で現実に存在していた。

当時、相互確証破壊(Mutually Assured Destruction)の観念は、東西両陣営を死の恐怖で縛り付けていた。CIAの予測によれば、このまま軍備拡張が続けば、ソビエト連邦は10年後にはアメリカ本土に到達可能な核弾頭21,000発を保有することになると見込まれていた。たった一度のミサイル攻撃でも壊滅的な結果を招くというのだから、CIAの予想はまさに黙示録的であった。この状況を打開するためには何かが為されねばならなかった。

その年の3月、全アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンは全国放送のスピーチで、アメリカは近日中にソビエトのミサイルに対して無敵になるだろうと発表した。彼はこう語った。我々の安全というのは、ソビエトの攻撃を抑止するための「万一の際の報復」に依存しているわけではなく、戦略弾道ミサイルがわが国や同盟国に到達する以前にそれを迎撃・破壊できるからなのだ――そう知ったアメリカ国民はこれから安心して暮らしていけるだろう、と。

レーガンの超兵器は、戦略防衛構想(SDI)、通称「スター・ウォーズ」であった。理論的には、敵ミサイルがアメリカの国土に被害を与える前に撃ち落とし、いわばアメリカとその同盟国の頭上に「漏れのないアストロドーム」を作ろうというものであった。さらに、その防弾ガラスの下で安心していられるということは、アメリカがソビエトに対して先制核攻撃を行うことが可能になるということでもあった。議会はSDIに対して懐疑的であったが、彼らの承認なしにはその開発資金を調達することはできなかった。そこで、議会に財布の紐を緩めさせ、かつスター・ウォーズ計画は至って真面目なものだとロシアに確信させるため、ペンタゴンはシンプルだが見事な策略を考案した。

4回にわたるデモンストレーションが行われた。カリフォルニア州のヴァンデンバーグ空軍基地からソビエトのICBMを模したミサイルが発射され、一方でSDIの迎撃ミサイルが南太平洋から発射された。最初の3回のテストは失敗したが、4回目のSDIミサイルは標的を直撃した。この成功の映像は世界中のテレビニュースで放送され、アメリカの軍事的優位性を決して疑ってはならないという警告が喧伝された。議会はこの成功に感銘を受け、SDIに350億ドルもの巨額の資金を投入し、ペンタゴンの計画はさらに進展した。既に経済的に破綻寸前だったロシアは、この計画に対抗できなかった。もっとも、そのすべてが壮大な演出でなかったら、そんな成功を収めることはできなかっただろう。

SDIはインチキだった。迎撃のデモンストレーションは単なる手品だった。その効果を説得力のあるものに見せかけるため、ソビエトのそれに模したICBMは、SDIミサイルが近づいた時に自爆するための爆弾を搭載していた。問題は、最初の3つの迎撃ミサイルが目標を大きく外したため、それを自爆させたらおかしな風に見えてしまうことだった。4回目の「成功した」テストでは、性能不足の迎撃ミサイルでも狙える大きな標的となるよう、標的のミサイルは人工的に加熱され、レーダーのビーコンも取り付けられた。その際、迎撃ミサイルには熱探知センサーまで装備されていたのである。標的のミサイルは時速9,000マイルで飛行しているものの、ほぼ無防備な状態であった。


SDIは、ペンタゴンの欺瞞作戦の中でも最も派手なものの一つであり、幸いなことに冷戦の緊張を緩和するのに役立った。これは、アメリカをベトナム戦争に巻き込んだ1964年の「トンキン湾事件」や、サダム・フセインの「存在しなかった大量破壊兵器」とは異なっていた。

異星人の超兵器というのも、もうひとつの軍事神話に過ぎないのだろうか? あるいは我々の地球上のテクノロジーが、もはや異星人の乗り物と区別がつかないほど進歩したということなのだろうか? それとも、ペンタゴンのUFOは大衆を騙す兵器に過ぎないのだろうか?(16←17→18

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■16章 政策の問題
    「国民の知る権利は、ロシア人の知る権利なのだ。ロシア人は、我々の新聞や雑誌、技術関係の刊行物を非常に注意深く読んでいる」
      ――CIA長官リチャード・ヘルムズ(1978年のデヴィッド・フロストによるインタビューで)


UFO神話の見取り図というのは複雑なもので、なおいくつかの部分は欠けたままだった。だが、その輪郭は徐々に姿を表しつつあった。1947年の夏、空飛ぶ円盤の目撃報告ウエーブが初めてアメリカの新聞に殺到した時点で、ライト・パターソンにいて事情に通じていた者たちは知っていた――真実の核心は見間違いや「ヒステリーめいた報道」の中に埋没しているということを。空飛ぶ円盤は「未来」にまつわるものなどではなかった。それは単に或る種の航空機を作る作業の中から生まれたもので、実際には何十年も前から存在していたのだ。航空技術諜報の研究開発チームは、ドイツが固定翼式で円形の航空機を作ることを少なくとも検討していたことは知っていたし、ロシアは既にそうしたものを作っていた可能性があることも知っていた。もっと言えば、彼らはアメリカ海軍が自前で「フライング・フラップジャック」を飛行させたことを知っていたかもしれない。

1950年代初頭までに、アメリカ空軍とCIAは秘匿すべき自前のUFO、すなわちU-2を手にしていたし、アブロ社が開発していたような新型の円盤型航空機の設計にも取り組んでいた。その10年後にはオックスカートやブルーバードが無人ドローンに護衛されながらほとんど宇宙空間に近い高度を飛行していたし、さらにその10年後にはステルス機がこっそりとデビューを果たしていた。仮に宇宙人の宇宙船が地球にやって来ていたとしても、そうした航空機がひしめいていた空の中から見つけ出すことは難しかっただろう。こうした冷戦期の秘密テクノロジーこそがUFO神話の骨組みを形作った。そこに肉付けをしたのは地上にいる人々の想像力であり、それを後押しし潤色したのはAFOSI(空軍特別調査局)やCIAといった、しばしば略語で言い表される諜報機関であった。

ジョンと私が組み上げていったストーリーは、最終的にビル・ムーアが公に告白を行った1989年の時点にまで我々を連れていった。しかし、UFOやそれにまつわる話はその後も途絶えることなく続いた。2006年11月7日にシカゴのオヘア空港で目撃されたUFOはメディアに大きな騒動を引き起こしたし、2008年1月にはテキサス州スティーブンビルでの一連の目撃事件が同様の興奮を生んだ。そして「セルポ計画」もあった。我々はこれを悪質な欺瞞工作だろうと疑っていたが、いまだ証拠を掴むには至っていなかった。我々としては、「ミラージュ・メン」は今なお活動しているのであって、UFOを巡る偽情報作戦というのは単に昔あったものというにとどまらず今もなお諜報機関にとって日常業務であることを証明する必要があった。

攻守が逆転し、私が標的になり始めたのはちょうどそうした頃合いだった。発端は、一見心配げな表情をしたリック・ドーティから転送されてきた匿名のメールだった。

「DIA(国防情報局)の高官である××(原注:実名は削除した)は、私に対して単刀直入にこう話してくれました。すなわち、英国人でフリーの映画製作者であるマーク・ピルキントンはMI6(英国の対外情報機関)の情報源である、というのです。彼は他の映画製作者をスパイするために使われ、現在はミステリーサークルに関する情報を英国情報機関に提供しているのです。彼は1998年10月以降、英国の情報機関から報酬を受け取っています……自分があなたの立場にいたら、自らの『友人の輪』にはよくよく気をつけるでしょう」

それから間もなくして、UFOの世界での知り合いが私に連絡を取ってきた。「念のため知らせておこう。誰からとは言えないが、君は英国の情報機関の人間だという警告を受けたよ...そういう話がいまアメリカ中に広まっているんだ、冗談抜きに」

UFOコミュニティと当局の間の関係は、それが最も良好な時であっても葛藤に満ちている。彼らは自国の政府がUFOに関する真実を隠していると信じているのだが、同時にその同じ政府がすべてを明らかにする黙示録的な瞬間――それを彼らは「情報開示」と呼んでいるわけだが――を熱烈に待ち望んでいる。その時、世界中の人々の目から鱗が落ちるのだ。『未知との遭遇』ですらお手軽なホームムービーに見えてくるような壮大な光のショーが展開される中、宇宙人が地球に降り立つ。そしてこれが最も重要なことなのだが、ユーフォロジストたちはそこに至るまでの間ずっと正しかったことが証明されるというのである。

軍や諜報機関の「インサイダー」になると、さらに話は複雑になる。UFOシーンには「地下基地」や「銀河間の条約」といった話で我々を楽しませてくれる内部告発者たちが満ちあふれており、彼らはその証拠だといって人目を引く文書を振りかざす。ビリーバーたちにしてみれば、こうした人々は明らかにユーフォロジーの側に立ってくれる者たちで、歓迎されるべき存在である。AFOSIを初めとする機関がそれと同じような文書を配っていることは20年前から広く知られてきたのだが、そのことはいまだ一般には浸透していないようだ。一方で、UFO現象というのは安全保障・国家機密・心理学・社会学・政治・民俗学といったものが複雑に絡み合ったもので、まれにしか起きないけれども真性の異常現象によって引き起こされているのでは――と示唆するインサイダーたちもいるのだが、彼らもまた明らかに隠蔽の一部に組み込まれている。

私自身のケースでいえば、私をMI6のエージェントだと名指しすることには、二つの目的があったのではないか。それは民間のUFOコミュニティの中に私に対する疑念をかきたてただろうし、そんなことがなければ私に話をする気になったかもしれない軍や諜報機関の関係者を躊躇させることにもなっただろう。世界の諜報機関はしばしば協力し合うものの、互いに警戒しあってもいる。機微にわたる情報を「外国人」に渡すことは、特にその者が諜報機関と関係がある場合、非常に危険な状況をもたらす可能性がある。同時に「リックは(あるいは別の誰かでもいいのだが)MI6がアメリカのUFO界にエージェントを送り込んでいることを確信している」ということになれば、「UFOのストーリーにはやはり何かがあるのだ」と思い込ませる効果があるかもしれない――結局のところ、それが何かを隠す煙幕に過ぎなかったのだとしても。おそらく彼らは、私がそんな風に考えるよう仕向けたかったのだろう。

あるいは、このMI6の話はリック自身が発したものだったのかもしれない。ジョンと私は、とても不可能だと思われたリック・ドーティとのインタビューを実現させた。しかも我々は、会えないとすら思われた彼と或る種の友人にもなっていた。しかし、我々が聞いたのは彼の言い分だけで、その話の一部が大げさであることを見抜くためには諜報の専門家の手を煩わせる必要もなかった。我々はリックが好きになったが、人々と親しくなってその信頼を得ることが彼のかつての仕事であったことも知っていた――それは彼自身が言っていたことなのだ。彼の話には信じられる部分もあったが、そうでない部分も多かった。となると我々は、単にリックがやってきた長い長いゲームにおける最新の犠牲者に過ぎなかったのだろうか?

「ビル・ムーアとリック・ドーティは共謀してMJ-12文書をデッチ上げた。それはおそらくは金儲けのため、そして不運続きで混乱状態にあったUFOコミュニティを騙すためだった」――そのような解釈がある。だがそれは通るまいと我々は考えた。ベネウィッツ事件、そしてその後のMJ-12文書のリリースが、AFOSIによって許可され実行されたより大がかりな偽情報プログラムの一環であったことは明らかだった。エアロジェット社でのリー・グラハムの調査や、後にFBIが行ったMJ-12文書に関する捜査は、明らかにこの機関の関与があったことを示していた。また、1970年代初頭にボブ・エメネガーがウィリアム・コールマン大佐と関わったことも、AFOSIが何十年とは言わぬまでも何年間かにわたってUFOシーンのはるか先を行っていたことを証明していた。

仮にジョンと私がAFOSIのUFO作戦のより新しい事例を発掘できれば、ポール・ベネウィッツに対してやったようなことが単なる一度きりのものでなく標準的な手法であって、さらには政策の一部であることを示すことができただろう。だが我々は、まさにこの調査が今や『ミラージュ・メン』の間に波紋を広げはじめていることも知っていた。時間は刻々と迫っていた。

■WHAT'S THE FREQUENCY DENNIS?

ニューメキシコ州ロズウェルは特に目立った特徴のない場所である。起伏がなく、殺風景で、相当に寂れていて、町の美人コンテストというようなものがあったとしてまず勝てる見込みはないだろうし、人気投票をしても優勝することなどありえない。牧畜地帯の奥深くに位置し、世界最大級のモッツァレラチーズの製造工場を抱えている以外、「これぞ」というものは一切ない。しかし、町というのは――それは人間も同じだが――自分で自分の運命を完全にコントロールすることはできない。実際にロズウェルはあまりにも衝撃的な事件に関わってしまったがために、人々が「かくあってほしい」と寄せる期待にこたえて存続していくようなことは不可能になってしまった。そして、仮にロズウェル事件が神話の語り部たちが語るようなものとして起こったとしても、その正確な場所は誰一人として知らない。少なくとも三つの場所が「公式なUFO墜落現場」という称号をめぐって相争っているのだ。

1947年夏に何が起こったのか。その場所はどこだったのか――そうした点についてはいまだ混乱が続いているが、にもかかわらずそうした事態がロズウェルをアメリカにおけるUFOの最重要地へと変じていくプロセスを押しとどめることはできなかった。ここでは地元銀行の看板も含めてあらゆるものが円盤型をしており、街灯は古びたプラスチック製のエイリアンの顔を乗せている。ロズウェルのUFOフェスティバルやパレード(最近では [ロックバンドの] 「ジェファーソン・スターシップ」が参加した)に訪れる観光客を迎えるため、街には数多くのモーテルがある。ファーストフード店も多く、そのいくつかは求人を出していた。若者の姿はあまり見られず、小洒落た「ロズウェル・カバーアップ・カフェ」のウェイトレスたちは爽やかな感じこそあったが結構な年配だった。通りに並ぶ建物は荒れていて、空港――そこはかつてUFOの残骸が保管されたという陸軍航空基地跡だった――へと向かう途中の住宅地はスラム街のような印象を与えた。

町が宇宙に轟く名声を得ていることを喜んでいない人々もいる。キリスト教系のカイロプラクターの事務所で話をした受付の女性は彼女の言うところの「UFOのくだらない話」について声高に不満を漏らした。彼女は墜落事件があったとされる日の数日後に生まれたが、1990年代初頭までそんな話は全然聞かなかったという。今では訪れた人たちのほとんどが彼女にUFOの話をする。強いて言えば軍が何らかの隠蔽を行った可能性はあるだろうが、それはエイリアンやUFOとは関係ないと彼女は言う。ただし、ロズウェルUFO博物館の人々にそういう話はしない。

この国際UFO博物館とリサーチセンターはかつて映画館だったメインストリートの建物を改装して設立されたのだが、この施設がロズウェルにおけるUFO熱を盛り立てるために少なくとも一定の役割を果たしたのは事実だ。この博物館は1991年に開館したが、これに取り組んだのは地元の開発業者マックス・リッテルと、ロズウェルにおけるUFOストーリーのキーマンともいえる二人の人物だった。一人はウォルター・ハウトで、「陸軍航空隊が空飛ぶ円盤を捕らえた」と報じるプレスリリースを作成した人物である。もう一人は地元の葬儀屋グレン・デニスで、彼は「墜落した乗り物に乗っていた何者かのために密封できる小ぶりな棺を準備するよう頼まれた」と主張してきた人物である。

その後、UFO研究者たちはデニスの話を細部まで検証し、あげつらったのだが、一方のハウトの役割は、彼がUFO博物館に関わるようになってからますます大きなものになったようだ。彼と事件との関わりは彼がプレス声明を書いたという紛れもない事実から始まったのだが、2007年に彼が死んだ後に宣誓供述書が公開されたことにより、それはより胡散臭いものに変じてしまった。その宣誓供述書には、自分は実際に死んだエイリアンと墜落した宇宙船を見たとあったからである。晩年のハウトは「エイリアンは地球に来ている」という考えについては曖昧で如何様にも取れることを言っていたから、死後のこの方向転換にはいささか当惑してしまう。より現実主義的な立場を取ってみれば、ここで問題になったのは「事実関係」というよりも「ビジネス」であったようにも見える。

それにもかかわらず、博物館自体は一見の価値がある。見どころとしては、ナチス時代の空飛ぶ円盤の模型ジオラマ、病院のセットの中に置かれた作りもののエイリアン(これは1994年のテレビドラマ「ロズウェル」に登場したものだ)がある。ハウトはこの人形を「ジュニア」と呼んでいたが、時折「実際の生きたエイリアン」という触れ込みでアップにした写真が出回ることがある――要するに、歴史上の出来事を適当に解釈して作ったフィクション映画の小道具が、「この事件は映画そのままに起こったものなのだ」という証拠にされてしまったわけだ。この認識上のねじれは、まるごとのUFO体験を象徴している完璧なメタファーである。

1997年5月、この博物館とロズウェルは町にとって至高の時――すなわちロズウェル事件50周年の記念日を間もなく迎えようとしていた。そしてその週末、何百人ものニュースクルーやジャーナリスト、何千人もの観光客は、ロズウェルをUFO世界の中心地へと変えた。その前年、長年UFOに関心を持ち、仕事をやめたばかりの構造エンジニア、デニス・バルサザーは、ロズウェルに引っ越してきて博物館で働き始めていた。彼はよく手入れされた白髪のヒゲにハゲ上がった頭という風体の人物で、頭は切れて人当たりも良く、いかにも誠実な中高年男性である。彼は妻のデビー、ペットのカメ9匹とともにロズウェルに住んでいるが、彼は転居以来、地元のUFOコミュニティにおいても、そして全国組織においても重要な地位を占めるメンバーになっていた。今から数年前に博物館の役員たちとはケンカ別れしたが、彼はそれ以降も毎年のUFOフェスティバルには関わっている。だが、1997年の狂騒に匹敵するような経験をしたことは今にいたるまでなかったという。

1997年5月下旬、緊張した様子の男が博物館に電話をかけてきて、こんな話をした。――自分の父親はがんで療養所に入り、余命幾ばくもない。これは直近で会いに行った時のことなのだが、父親は金属片の入った小箱を渡してきた。金属片の大きさは1ドルコイン(直径3インチ)ほど。その金属はクシャクシャに丸めても瞬時に元の形に戻ってしまい、まるで知性を持ったアルミホイルのようだった。これが何なのか尋ねたところ、父親は「自分は1947年当時、ロズウェル陸軍航空基地で軍警察官をしていたのだ」と言った。そして、「自分はUFOの残骸を片付ける手伝いをしていて砕け散った乗り物の小さな破片を拾ったのだが、そればかりか基地内の病院に歩いて向かう子供のようなエイリアンも目撃したのだ」とも言った。

臨終間際になってから博物館に告白をしてきたり、ことによってはUFOの破片を送りつけてきたりする人はそれまでいなかったわけではない。だが、この息子は誠実そうに思われた。デニス・バルサザーはオクラホマ州にいるこの男にはるばる会いに行くことにした。

デニスが出発する前にかわした最後の会話の中で、その息子は、家族の友人である退役情報将校にこの金属片のこと、そしてこれをデニスに渡すつもりだということを話したと言った。その将校は彼にUFOやETについて知っていることを二、三話したという。さらにその息子は、安全のためにその金属片は友人の家に預けているとも話した。こうした話を聞いてデニスは少し不安になったが、彼は自分が何をやっているか分かっているのだろうと思って、何も言わなかった。それから10日後に彼は旅に出た。

オクラホマのモーテルに着いたデニスは、息子の番号に電話をかけた。電話に出たのは女性で、「息子は急な用事で出かけており、翌日戻る予定だ」と言った。何やらおかしいと感じたデニスは電話帳で息子の名前を調べてみた。しかしその名前は載っていなかった。良くない予感がした。彼は息子に教えられた住所を確認し、その場所へ車で向かった。そこにあったのはトレーラーパークの中の一台のトレーラーだった。弁護士が住んでいるとは思えない場所だったが、そこでデニスは考えた。オレが見定めようとしている人間はいったい何者なのだ?

翌朝、デニスは息子に三度電話をかけたが、いつも留守番電話のメッセージだけが返ってきた。彼はモーテルの部屋番号を伝え、折り返し電話するようメッセージを残した。デニスは次第に胡散臭いものを感じ始めていた。

午後になって電話が鳴った。クリスティと名乗る女性が電話に出て、自分とエドという男性が一緒に行くので、午後7時にデニーズのレストランで落ち合おうと告げた。エドはダークスーツ、自分はライトグリーンのドレスを着ていくということだった。デニスは「先に着いたら禁煙席を取っておいてほしい」と頼まれた。

デニスは時間に間に合うようにデニーズに赴いた。ちょうど午後7時、先に言った通りの服装をした男女が店に入ってきて、自分たちはダラスのAFOSI(空軍特別調査局)から来た特別捜査官なのだと名乗った。彼らは、あなたはもともと会う予定だった人物とは会えないだろうと言った。次いで彼らは、その前日に息子のもとを訪れてUFOの金属片を引き取ったことを伝えた――ちなみにその物体は実際に彼が言っていたような挙動を示したという。さらに彼らは、ロズウェル博物館の電話は盗聴されており、彼が旅に出る5日前にはその予定を把握していたと告げた。

それからエドは、奇っ怪な話を幾つもデニスに話して聞かせた。ロズウェル事件は本当にあったのだということ。ETは実在しており、今も地球にいること。政府はその事実を世界に伝えたいのだが、そのためにどんな方法を取ればいいのか模索していること等々。またエドが言うには、これはロズウェルでの墜落事件の後日談だが、ETは位置情報を知らせるビーコンを砂漠に残しており、それは1960年代になって米政府によって発見されたのだという。このビーコンは73時間ごとに信号を発しており、CB無線の特定の周波数で受信できたということだった。またエドは自らの身分についてUFOの問題に特化した50人ほどのエージェントの一人なのだと語り、さらに彼の上司はCIAによって前の週に射殺されたとも言ったが、殺された理由は明らかではなかった。また、ロズウェルにはAFOSIのエージェントが3人、CIAの工作員が1人潜入しており、博物館にいるデニスとその同僚たちは、自分たちの話す内容、そして話をする相手には十分注意すべきだと警告した。彼は「何か大きなことが近々ロズウェルで起こる」とも言った。それは50周年記念のイベントののことではないな――デニスはそう思ったという。

3時間半後、エドとクリスティは立ち去ったが、後には非常に混乱し戸惑ったデニスが一人残された。注文したコーヒーを飲み干し、アイスクリームを食べ終わった彼はモーテルへと戻ったが、何から何まで意味がわからなかった。ハッキリ理解していたのは、自分が金属片を持ち帰ることはできなくなったということだけだった。

数日後、ロズウェルに戻ったデニスは、最後に一回だけということで再び息子に電話をかけてみた。今度はつながった。しかし、電話はすぐに先の2人とは違うAFOSIのエージェントに回された。無愛想でビジネスライクな態度からすると、そのエージェントがより上の位階の人物であることは明らかだった。話をした後で、エージェントは「自分の名前はチャールズだ」と名乗り、バージニア州のラングレー空軍基地に駐屯するAFOSIの一員であると告げた。チャールズは、これから金属片を持ち帰ってそれが何であるかを特定するつもりであり、こうしたことについては実績があると述べた。やりとりの最後に、チャールズは「UFO問題に関してアメリカ国民の税金は有効に使われているのだ」と主張した。それが彼から聞いた最後の言葉だった。その後、デニスは9月にもう一度オクラホマの男性に連絡を試みたが、不審な声が「間違い電話だ」と告げ、それで全ては終わった。

この話をどう考えればいいか。考え方は三つあるだろう。

その一。これは最も説得力を欠く説明であるが、すべてはデニス・バルサザーのでっち上げだというものである。確かにこれがスパイものもかくやという陰謀のただ中にデニスが登場するドラマティックでエキサイティングな物語であるのは確かだが、彼は何年間にもわたって同じストーリーを公の場で語り続けており、博物館でのかつての同僚たちから矛盾点の指摘があったわけでもない。しかも、その元同僚たちの中には彼とあからさまに仲違いしている人物もいるのだ。

その二。ロズウェルをめぐって盛り上がりをみせていた当時のメディアの狂騒の中で、何者かがロズウェル博物館、またはデニス・バルサザー個人に対して巧妙ないたずらを仕掛けた――というものである。その可能性は否定できない。いたずらとしては複雑で、数か月間にもわたって複数の人物が関与する必要があったわけだが、それだけに成功すれば仕掛け人たちの満足感は大きかったことだろう。多くの人が考えているのとは違って、いたずらというのは常に明確な目的を持っているとは限らず、それ自体が目的であったりする。UFOコミュニティは伝統的にこうした「お手軽なお遊び」を求める者たちにとって格好の餌食となっている。ここで、AFOSIや他の情報機関の悪辣なトリックスターたちが仕掛ける誤情報工作について考えてみてもよい。それは、それは特定の戦略的目的を念頭に置いているとはいえ、実際には多額の資金をかけて注意深く仕込まれたデッチ上げ工作といった形を取るのではないだろうか。

そして三つ目。荒唐無稽に思えるかもしれないが、バルサザーの話には真実味がある。ポール・ベネウィッツの身に起こったことと比較すれば、これはさほど突飛ではない。金属片は実際に存在したのだろうか? それはわからない。この作戦の目的が何であったのかも我々にはわからない。1997年当時の「Xファイル」の大人気を考えると、AFOSIのエージェントが男女ペアであったこと、彼らの上司がCIAに暗殺されたという陰謀めいた話などは、実にシャレていた。互いの機関同士の対立がそこまでエスカレートすることは現実の世界では考えにくいとしても、そうしたことはFBIのエージェントや宇宙人を題材にするテレビ番組ではまさしく起こり得ることなのだ。

さらに真実味を帯びているのは、AFOSIのエージェントが指定した待合場所だ。スパイの基本原則によれば、接触者と会う場所としては公の場が適しており、特に人の多い野外が良いとされている。隠しマイクやその他の監視機器を仕掛けられる可能性が低いからである。そもそも「デニーズ」はUFOの世界のインサイダーに人気のある場所のようだ。リック・ドーティがグレッグ・ビショップとのインタビューの場所に選んだのは「デニーズ」だったし、1980年にドーティとファルコンが初めてビル・ムーアに会ったのも「デニーズ」だった節がある。エドというAFOSIのエージェントがETやUFOについて語った内容というのも、そう、これまで我々がこれまで何度も耳にしたことのあるシロモノだ。もっとも追跡用ビーコンの話は新しいもので、これはまだあまり広まっていないようではあるが。

では、なぜアメリカ空軍はロズウェル事件を宣伝する必要があったのか? 大胆に推測してみよう。1990年代後半には、ロズウェルはアメリカのUFO神話の中心的な柱となっていた。もしロズウェルが崩れれば、空軍やその他の組織がUFO関連の作戦を展開している土台もが丸ごと崩壊してしまう可能性があったのだ。

しかし、AFOSIがUFO愛好家に伝える内容と、一般の世界に伝える内容とは必ずしも一致しない。3年前、空軍はロズウェル事件に関する1000ページに及ぶ報告書を発表した。その筆者は、空軍特別プログラムの元担当者であり、AFOSIの大佐でもあったリチャード・ウィーバーで、彼はリック・ドーティの元上司でもあった。この報告書では、当時極秘だった「モーグル気球説」が最終的な結論として提示されていた。しかし、ウィーバー自身が添付したステートメントで予言した通り、UFO関係の圧力団体はこの報告書を一蹴した。結果、第二の報告書「ロズウェル報告:事件は解決された」が作成されることとなったが、この報告書では、目撃者が語ったエイリアンというのは墜落実験で用いられたダミー人形の記憶が混同されたものであると説明されていた。この第二の報告書は1997年6月に公開されたが、これはバルサザーがAFOSIのエージェントと称する人物と会った数週間前のことだった。

かくして、我々はこんな印象を抱くに至る――アメリカ空軍は2つのチャンネルを活用しているのではないか。1つのチャンネルは一般大衆向け、つまりエイリアンの話に対する予防注射が効いている人々向けである。彼らは、物見遊山でロズウェルに来て博物館を訪れるぐらいのことはあっても、ロズウェルのUFO話をあまり真剣に受け取らないよう仕込まれる。もう一つのチャンネルは既にUFOウイルスに感染している者向けであり、これらの「治療不能」な人々は、時折その信念を刺激するようなネタが与えられる。おそらくそれは、情報機関の工作で必要とされる時が来るまで、その物語を温存してもらおうということなのだろう。そうした人々の名前を我々は知っている。サイラス・ニュートン。オラボ・フォンテス。ボブ・エメネガー。ポール・ベネウィッツ。ウィリアム・ムーア。リンダ・モールトン・ハウ。ビル・ライアン。デニス・バルサザー。しかしこれで終わりではない。それ以外にももっともっと多くの人々がいることは言うまでもない。


■ウォルター・ボズリーの秘密の生活

ウォルター・ボズリーは体格が良く陽気で社交的な40代の男性である。彼は一目で親しみを感じさせるタイプで、コミックやゲームセンターの経営者だと思われてもおかしくないようなキャラクターだ。腰まで届くほど髪を伸ばし、ウルトラ級のオタクといった雰囲気を漂わせているから、RPGの「ダンジョン&ドラゴンズ」のシナリオに出てくる完璧なダンジョンマスターもさながらという感じなのだが、それもむべなるかなである。というのも彼は、趣味の一環としてカリフォルニアの砂漠で「地球内部の空洞」への入り口を探すことに大いに時間を費やしているからだ。ウォルトは――彼はそう呼ばれるのを好むのだ――時代がかった大衆ファンタジー小説やSFをペンネームで執筆しているほか、カリフォルニアのディズニーランドにおけるフリーメーソンの象徴に関するノンフィクションも書いている。我々がウォルトに会ったのは、とめどもなく拡大していくロサンゼルスに吸収されてしまった或る町であったが、彼の仕事は思ったよりも日常的なもので、エドワーズ空軍基地と契約を結ぼうとする業者のセキュリティチェックをすることだった。彼はFBIとAFOSI(空軍特別調査局)で10年ほど勤務した経験を持っており、今の職はその信用が認められて就いたポジションだった。

ウォルトは子供の頃に強烈な体外離脱体験をしており、それ故に彼は、今ここにある世界を超えた世界というものは実在するのだと確信していた。そうした感覚は青年時代もずっと消えずに続き、彼は幽霊やUFOをはじめ、現実の周縁に存在するものについての話を貪欲に読み続けた。彼は数年間ウェストバージニア州に住んでいたことがあるが、その時期、当地でジョン・キールが著作『モスマンの黙示』に記した奇妙な現象が起こったこともそうした傾向を助長した。こうした発達期にあって彼の導き手となったのは、生涯FBIに奉職し続けた一人の親類で、好奇心旺盛なこの若者に「UFOの真実を知りたいのであればFBIに入るべきだ」と語ったのはこの人物だった。何としてもFBIに入ろうと考えたウォルトは、ジャーナリズムの学位を取得後、1988年にFBIへの入局を果たした。ウォルトはFBIで5年間働いたが、その間にロシア語を学び、監視任務の専門家として訓練を受け、物理的手段や電話を介した監視業務に取り組んだ。

1993年、ウォルトは転職してAFOSIの特別捜査官となり、ライト・パターソン空軍基地で勤務した。彼は第18格納庫の秘密について知ることを期待していたというが、彼は「仮にETのテクノロジーがかつてライト・パターソンにあったとしても、今はもうそこにはないだろう」といささか残念そうに語った。ウォルトはライト・パターソンの対スパイ部門の責任者を務めたが、彼が監視対象としたのはもう一つのUFO、すなわち「未確認の外国人スパイ Unidentified Foreign Operatives」だった。彼の履歴書によれば、ウォルトは「国家レベルで指示されたミッションを果たすべく、FBIやCIAと協力しつつ国際的な場で二重スパイ作戦を管理、設計、実行した」とのことであった。

職務に関するこの短い記述からでも多くのことが読み取れる。まず、リック・ドーティが自分勝手な行動を取っていた工作員だったという考えは排除される。AFOSIの対スパイプロジェクトが上部から指示され、国レベルで運営されていることは明らかである。ウォルトが訓練を受けている間に、カートランドのAFOSIがポール・ベネウィッツやUFOコミュニティに対して行った作戦が話に上ったことがあるかどうかを尋ねると、ウォルトはそういうことが実際にあったのを覚えていた――もっともそれは、「やってはいけないこと」の事例としてであったという。ウォルトの履歴書から分かることはまだある。AFOSIはCIAやFBIと協力して作戦を行っていたという部分で、これは「NSAはベネウィッツへの工作に関与していた」というリック・ドーティの話を補強するかたちになっている。ウォルト自身もFBIでの対諜報活動からAFOSIで似たような仕事に転じるにあたってはスムーズな移行を果たしており、これはこうした機関が行う仕事には互いに重なりあう部分があることを示唆している。

ウォルトは、自分がFBIからライト・パターソン基地のAFOSIに移ったのは、UFOをめぐる状況が本当はどうなっているかを知ろうとしたのが一つの理由だったと認めている。そして、ある意味、彼はその答えを得た。FBIでもAFOSIでも、超常現象に対して興味を持っている人間は自分だけではないことをウォルトは知った。大規模な組織であるこうした機関は、より大きな社会の縮図である――むろん訓練制度や装備がよそより充実しているのは確かではあるが(ただし必ずしも給料が良いわけではない)。あらゆる社会と同じように、様々な宗教的信念を持つ者はかなりいるし、そうした中でもUFOやミステリーに夢中になる者はとりわけ目立っているのだ。

リック・ドーティとは異なり、ウォルトは「レッド・ブック」や「イエロー・ブック」――政府の金庫に秘匿されているというET情報のことだ――を垣間見ることはなかった。彼がUFOに関する情報を得た方法はもっと微妙なものであった。秘密情報を収集する組織の要員であればさもありなんという話なのだが、奇妙なものに興味をもっている人物がいると知れば、「彼ら」は向こうからあなたを見つけ出してくれる。ウォルトは我々にこう語った。「こんな感じだよ――カフェテリアにいると誰かが横に座って話しかけてくる。『やあ。UFOがどこから来たか知ってるかい? 地球の空洞からだよ。さもなくば南極か、あるいは……』みたいにね」

ウォルトが聞いた話の多くは、遊び場で耳にする「友達の友達がこう言っていたよ」といったたぐいの話ではあったが、諜報の世界にいるということは、すなわち世界で最もエキサイティングと言えそうな遊び場にいるということだ。そこにいる友人は知られざる世界で本当は何が起こっているのかを知っていてもおかしくはないのだ。仮にその情報が二次的、三次的なものであっても、いざという時には危機を脱するため頼ることになるかもしれないような人物から聞いた内部情報は、インターネットから無作為に引っ張り出した情報とは比較にならないほどの価値をもっている。

軍や諜報機関内部のネットワークにはこうした根っからの信頼関係があるわけだが、それこそがUFOの神話が長い間掣肘されることもなく、こうした世界で生き延び繁栄してきた理由である。アポロ宇宙飛行士のエド・ミッチェルが、自ら見たことはなくても「UFOや地球外生命体が地球を訪れていることを知っている」と公言することができるのはそういう理由であり、そんな彼に皆が耳を傾けようとする。ウォルトもエド・ミッチェルも「ETは来ている」と彼らに教えた人々を信頼しているのであって、インサイダーであれば彼らを信じることになる。

ライト・パターソン、そしてAFOSIにおいて、ウォルトがUFOのストーリーに抱く思いは強固なものになっていったが、その時点ではウォルト自身も特殊捜査官としてその種の話を流布させる手助けをするようになっていた。ただしAFOSI はUFOをテーマにした作戦にかかりっきりだったわけではなく、それはウォルトが担当していた多くのプロジェクトの一つに過ぎなかった。もっともそれは広範な防諜プログラムの一部として認知されたカテゴリーだったし、その内容に興味を抱くウォルトにとっておあつらえ向きのものではあった。

自分が何をしていたのかについては、ウォルトは正確なところは教えてくれなかった。ただ、彼がしていたのは、ある極秘の航空機について、それが存在していることを知ってはならない人間に目撃されてしまった時であっても、その存在を隠し通すことだったという。そして「知ってはならない人間」というのは実はあらゆる人間であって、ウォルト自身もその例外ではなかった。彼自身もその航空機が何であるかは知らなかった。彼の任務というのは監視を怠ることなく、目撃者が「これは地球外のものだ」と信じるよう仕向けることだった。

このような状況が2年間ほど続いた後、ウォルターは限界に達した――自分が何を隠しているのか知らねばならないと思ったのである。彼は空軍の連絡調整官に「その航空機を見せてもらえるか」と尋ね、それは自分の仕事をより効果的に行う助けになると主張した。何本か電話をかけて、ウォルトの職務記録には一点の曇りもないことが確認されたようだった。数日後、彼のところに電話がかかってきた。その航空機を見ることができるというのだ。指定された日時と場所が告げられた。彼はまた別の工作員と会うことになった。指定されたのは真夜中、辺りに何もない場所だった。

その日に、ウォルトは夜の闇に車を走らせた。約束の場所には空軍のジープが暗闇の中で待っていた。ウォルトは車を停め、外に出てからジープの運転手に挨拶をした。

「飛行機はいつ来るんだ?」とウォルトは尋ねた。 「もう来てるよ」と運転手は答えた。「上を見ろ」

ウォルトは上を見たが、夜空の星明かりしか見えなかった。辺りは静かで、彼らが交わす会話と遠くを走る車の音以外には何も聞こえなかった。 「何も見えないんだが」。ウォルターは困惑して言った。「どこを見ればいいんだ?」
 「上を見ろ」と運転手は言った。

ウォルトは上を見た。しかし、何も見えなかった。彼はからかわれたのだと思った。メッセージは明らかだった――お前が見てはいけないものを見ることはできないのだ。戻らねばならない時間になった。 

「そうだ、ちょっと待て」と運転手が言った。「これを君に渡すのを忘れていた」。 彼はウォルトにゴーグルを手渡した。ウォルトはそれを着けた。 「さあ、上を見てみろ。」 ウォルトは上を見た。 「なんてこった!」

こう話す時のウォルトは、そのとき自らの体内を駆け巡ったアドレナリンの高まりを再度味わっているようで、ほとんど地面に倒れ伏しそうだった。

「それ」はいた。それは低空に浮かんでいて、手が届きそうな気がした。完全に無音で、目視では絶対に見えない。そして、完全に気違いじみていた。

ウォルトはそのとき心に浮かんだのはただ一つ、こんな思いだったという。「今まで目にしてきたものの中でこれが一番クールだ……」

それから何年経っても、ウォルトはその光景を思い出すと興奮して心がざわついたという。もちろん、その詳細については彼は何も話せないというのだったが。

「それで、どんな風に見えたんだ?」と私は尋ねた。
「おいおい、言えるわけがないだろう。それに、言うつもりもない」 
「三角形だったの? 球体? 楕円形? 四角形? ブーメラン形?」 
「驚くべきものだったということ以外、何も言えないな。仮に言いたくても、上手く説明できるかどうかもわからない。あれが何だったのか、誰もちゃんとした事は言えないと思う。ただ、我々の頭上にはとんでもないものが飛んでいるってことは信じてほしい。そして、その中には我々のものではないものがあると思う……」

「ちょっと待って」と私は口をはさんだ。「『我々のものではない』ってどういう意味?」
「つまり、そのテクノロジーは我々のものではないということだ。人間のものではない……少なくとも、我々のような人間のものではない」

私はもうちょっと情報が取れないかとさらに一押しした。奇妙な話が始まる予感にめまいがしそうだった。 「ええと、どれだけ奇妙な話をしてもいいのかい?」とウォルトは尋ねた。何だか大げさなことを言うなと私は思った。「必要ならどんなに奇妙でも構やしない」と私は答えた。ウォルトは突拍子もない話を始めた。

 「まあ、これは空軍で一緒に働いていた連中から聞いた話なんだけど……彼ら、つまりUFOを持っている者たちというのは、正確にはエイリアンではないんだ……まあ、中にはエイリアンもいるんだが……ただ我々が相手にしているのは……彼らは『我々』なんだ……彼らは『人間』なんだ……ただし別の星系、シリウスから来た人間で……彼らはタイムトラベラーなんだ……それで、この惑星に生命を植え付けたのは彼らだったんだ…」

なるほど。そういう話は以前に聞いたことがあったから、受けとめることができた。タイムトラベルがある世界にひとたび飛び込んでしまえば、タイムトラベルのシナリオは理にかなっている。それは「UFOに人間に似た搭乗者が乗っていた」という報告を説明できるだろう。それは同時に、彼らが圧倒的に優れたテクノロジーを持ちながら、いまだに我々を地球上から消し去っていない理由をも説明できる。なぜなら、彼らにとっての我々は、祖先、曾祖父母、あるいはさらにその先の祖先であり、我々がいなければ彼らは存在できなくなるからである。また、政府がUFOの真実を隠したがる理由もこれで説明がつく――もし自分たちが歴史を変えることができると知ったら、あるいは敵がそうできると知ったら、統治者にのしかかってくる圧力は如何ほどのものになるだろうか。

ウォルトの奇妙な話に、私は安心し始めていた。実際、これはそれなりに論理は通っている。私も折り合っていける考えだと思った。「そして、これはナチスとも関係があるんだ」と彼は言った。

後ろでジョンがため息をついた。気がつけば、私もウォルトをいぶかしげに見ていた。ぽかんと空いた口から空気が流れ込んでくるのがわかった。「変な話になるとは言っておいたよね?」。彼は決まり悪そうに言った。「正直言うと、どこでどういう関係があるのか正確にはわからない。だけど、ナチスが……ええと、何かしら関わっている……それで、彼らは地下に住んでいるんだと思う……」

「わかったよ」とジョンが遮った。「もう十分だ、ウォルト。これでインタビューは終わりにしよう」。

「変な話過ぎたかな?」とウォルトは尋ねた。「いいや、でももう十分な話は聞けたから……」
「変な話が過ぎたんだな、悪かった。たまにこうなるんだよ。この話は変なことだらけだからさ……」

我々は夕食を取るために地元のダイナー(ちなみに「デニーズ」ではなかった)に行った。ウォルトは我々に9月11日の攻撃に関する当局がしている説明には疑念があると語った。「政府の仕組みについて知れば知るほど、ますますこの件が狂ったものに見えてくるんだ」と彼は言った。

そして、彼の言うことは実際正しいのだ。リック・ドーティの件で我々はそれを目の当たりにしたし、それはウォルトに関しても同じだった。ボブ・エメネガーや他の内部通報者と称する者たちの話でも同様のことは語られてきた。ニュースソースに近づくほど話は奇妙になり、人はその奇妙さに感染しやすくなり、他者にも感染させやすくなる。「UFOは精神病だ」とジョン・キールはかつて言った。キールは正しかった。UFOは病的なもので、非常に伝染しやすいのである。

このような素材に触れていると、たとえ自分がその一部をデッチ上げていると知っていたとしても、人は深層心理に影響を受け、不安定になり、ほとんど可能性のないことでも信じやすくなり、信号と雑音を区別できなくなるのではないだろうか。ウォルトやリックに起こったのはこういうことではないのか? そしてそれはジョンや私にも起こる可能性があるのだろうか?

『CIAと諜報というカルト The CIA and the Cult of Intelligence』という書籍の中で、ヴィクター・マルケッティとジョン・マークスは、特殊作戦に従事する工作員にとって特に深刻となる「情緒的愛着」の問題について論じている。彼らは、中国からチベットという国を取り戻すという目撃で、1950年代後半、ダライ・ラマに忠誠を誓うチベット人を訓練したチームについて記述している――ちなみにこのミッションはそもそも絶望的なもので、多くの死者をもたらした。その後、CIAで訓練に当たっていた者たちの中からは、彼らが訓練していた相手の祈りや信念を自ら取り入れるようになった者も出てきた。同書によれば、情緒的愛着というのはとりわけ特殊作戦の分野で顕著であり、従事する将官たちは「帰属と信仰とを希求する深い心理的な欲求を持つ。こういった心理的欲求は、同時に自らが進んで引き受けた苦難・危機的状況と結びついた時、度外れた大義を奉じて不可能な目標を追い求める方向へと彼らを追いやってしまいがちだ」 

こんな風にして事は起こっているのではないか? UFOだとか、「外宇宙からの救世主」「テクノロジー的な天使」「未来からタイムトラベルでやってきた人たち」だとかいった観念にはあまりにも深く人の心を打つ何かがある。であるが故に、UFOと関わりをもった者は最終的には一人残らず「感染」をさせられてしまうのではないか? 向こう側にいる「何者か」は我々を救ってくれる――あるいはその「何者か」は少なくとも地上の生命が織りなす永遠の混乱を生き延びていけるという希望を我々に与えてくれる。我々はそう信じないではいられないということなのだろうか? 

UFO神話の根底に在るのは「常識」と「パラドクシカルな馬鹿馬鹿しさ」の対立である。これはすなわち認知的不協和であるわけだが、それがあまりにも強力で、我々のあまりに深いレベルにまで語りかけてくるので、UFO神話は人の魂に直結するルートを開いてしまう。政府はこういう事態から人々を守ろうとしているのではないか? 仮に明確な答えを持っていないということだとしても、政府が常に「ノー」と言わねばならないのは何故なのか? その素材があまりにも有害なものだからではないのだろうか?

私は「然り」と言いたい。そして、リック・ドーティやウォルター・ボズリーのような「感染者」が権力の中枢に入ったりすると、そうした感染の拡大、つまりはETウイルスの拡大をもたらしてしまう可能性は十分にある(実際に彼らはそうした行動を取った)。そこから感染が危険な状態に広がってしまうまでに、さほどの時間は要しない。(17←18→19

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■第17章 地球への降下 DOWN TO EARTH

    「この理論を試したことがあるのですか?」
    「他の惑星に行くのには十分に役立つでしょう」
     ――映画『地球が静止する日』(1951年)より
       (バーンハート教授とクラトゥの対話)


過去60年間、米空軍がUFOコミュニティとどのような奇妙なゲームを繰り広げてきたにせよ、そのゲームはまだ終わっていない。ウォルター・ボズリーやデニス・バルサザーと話したことで、ジョンと私はそう思うようになった。私の直感は、それはずっと終わることがないのだと告げていた。UFOの「真実」はいつも曲がり角のすぐ先にあるかのように感じられるのだが、まるで悪夢の中にいるかのように、どれだけ速く走ってもその曲がり角には決して近づけない。このジグソーパズルにセルポはどのように嵌まりこむのか、我々はなお考えあぐねていた。それがUFOシーンに与えた触媒効果は我々も目にしてきた。しかし、そのストーリーがどこから来たのか、あるいはUFOにまつわる壮大な物語をさらに一歩進めること以外に何か目的があったのだとして、その目的が何だったのかは皆目わからなかった。

しかし、そんなことを長々と考えていられる状況ではなかった。セルポを支持している陣営にとってはまずい事態が生じていた。出るぞ出るぞと言われていたイーヴンたちの球技の写真は全然出てこなかったから、事態を見守ってきた者たちはいらつき始めていた。さらに言えば、「リクエスト・アノニマス」とそのメッセンジャーたちの間のコミュニケーションも既に途絶していたようだった。

事態をさらに悪化させたことがある。セルポ情報のソースとされていた者たち、つまりアノニマス、ポール・マクガヴァン、ジーン・レイクスといった人物は、実はたった一人の人間(あるいは少なくとも一台のコンピュータ)が作り出した複数のキャラクターではないかという見方が浮上したのだ。この発見をしたのはスティーブン・ブロードベント。彼は英国のコンピュータ・ネットワークの専門家だが、セルポの魅力に引き込まれ、開示されたストーリーを調査するため「暴露された現実Reality Uncovered」と称するウェブサイトを立ち上げた人物だ。ネット上でスパイ小説もさながらという調査に取り組んだ結果、ブロードベントは、2005年11月にビクター・マルティネスのメールリストに送られたアノニマスの最初のメールを見つけ出した。次いで彼は、それを支持する内容のリック・ドーティならびにポール・マクガヴァンのEメール、さらには国防情報局の「インサイダー」と称する少なくとも2名の人物のメールを見つけ出したのだが、これらすべてが民生用ブロードバンドの同じIPアドレスを共有していたこと、そしてこのIPアドレスはニューメキシコ州アルバカーキにあるコンピュータネットワークのものだったことを突きとめた。この一群の人々の中で唯一サイバースペースの外で実在していることが確認されているのはリックである。これが示唆しているのは、セルポのストーリーの発信源であったかどうかはともかく、発端となったメールの発信者はリックであったということだ。

これは信じがたいことだった。リックは惑星セルポの裏側でクスクス笑いをしていたのだろうか? 仮にそうだとして、リックの背後にいたのは誰なのか?(もしそんな人物がいればの話だが)。ブロードベントの発見はフォーラムに投稿やEメールが殺到する事態を引き起こし、それは数ヶ月続いた。すべてはセルポの伝説の背後にいる黒幕を突きとめようとしてのことだった。そこにいたのはリックただひとりだったのか? ビクター・マルティネスも関わっていたのか? ビル・ムーアの「鳥たち」の中にいる別の人物なのか? 米軍、諜報機関、あるいは政府の一部? サイエントロジーは? あるいはリックとボブ・コリンズの著書『情報解除免除 Exempt from Disclosure』を出版した会社か? セルポの影響で生まれたUFOや陰謀論のウェブサイト、たとえば「Open Minds」や「Above Top Secret」などが関与している可能性は?

これは、シャーロック・ホームズですら絶望してモデムを引きちぎってしまうほどのミステリーだった。登場人物は多く、それぞれの人物について敵対者が持ち出してくる動機もほとんど説得力がなかった(ちなみに他者を告発するのはたいてい疑惑を受けたグループのメンバーだった)。誰かが完全に自白しない限り、この事件は膨大な情報、誤報、そして偽情報の重みに押しつぶされてしまうだろうと思われた。

ブロードベントの発見が示唆していたのは、リック・ドーティがビクター・マルティネスに最初の「アノニマス」名義の投稿を送り、そこからセルポの物語をスタートさせたのではないか――ということだった。リックはその後、自分自身の名で、さらには他の国防総省のインサイダーの名を騙ってセルポの情報を補強するメールを送り続けたというのである。あるいは、誰かがこうしたメールを意図的にデッチ上げ、リックがそれらを送ったかのように見せかけた可能性もある。とりわけセルポの伝説に諜報機関が関わっていた場合には。

我々にしてみれば、リックがたった一人で膨大なセルポの資料を作り出したとは信じがたかったが、彼が一枚噛んでいた可能性は否定できなかった。もしリックに責任があるのだとして、彼が死ぬまでそのことを否定をし続けるのなら、なぜ彼はそんなことをしたのか? リックは一人でもこなせる単純な諜報業務を引き受けたのだが、事がこじれた時に身代わりとして見捨てられたということなのだろうか? それとも、これは彼自身が招いた混乱なのか? 彼は、セルポの物語がどこから出てきたのかを知っているからこそ、既にボロボロになっている自らの評判をそれでもいかほどか守ろうとするが故に、その全貌を明らかにできないのではないか? あるいは、彼がUFOに関わるトリックスターとしての評判を持っていたことが、彼がその任務に選ばれた理由だったのだろうか? 巨大なブラックホールがセルポの伝説を丸ごと飲み込もうとしていた。それはリックをも巻き添えにしてしまうのだろうか?

■パイプ

ジョンと私がロスにいる間も、セルポは死の床にあって痙攣を続けていた。我々はそこで、セルポからのメッセージを最初に世に出したビクター・マルティネスを探し出すことにした。彼と会えば、この問題に新たな光を投げかけることができるのでは、と考えたのだ。しかし、当然というべきか、我々の出会いは新たな疑問を生んだだけだった。

50代前半のビクター・マルティネスはがっしりとした体格で胸板は厚く、大きなサングラスをかけ、きちんと手入れした口ひげをたくわえている。彼は早口で延々としゃべり倒す人物で、話が肝心なところにさしかかるとに大げさに腕を振り回すようなタイプだ。ビクターはパサデナにある実家に一人で暮らしており、ときおり代用教員として働いている。彼は健康上の問題をずっと抱えており(我々が会ったときも彼は病院のリストバンドを着けていた)、一方では文章の綴りや文法、句読点に非常にこだわる人物でもあった。我々は彼とグレッグ・ビショップのガレージで何度か話をしたが、ビクターはその間、床に落ちていた釘に気付いて拾い上げ、心配そうにポケットに入れるようなこともしていた。また、これほど大規模で影響力のあるメーリングリストを運営している人間にしては何とも奇妙なことだが、彼にはテクノロジー嫌いのところもある。セルポ事件が起きた頃、ビクターの自宅にはコンピュータがなく、ウェブTVのような簡単な機材を用いていたのだという。

これはビクターに会って初めて分かったことだが、彼はそれまでずっと「ETは地球を訪問している」と熱心に信じてきた人物であった。さらに彼は、地球に生命のタネを植えつけたのもETであって、その事実を政府は隠蔽しているということも確信している。彼は1980年代初頭からロサンゼルス地域のUFOグループで精力的な活動をしており、その間にビル・ムーアとも知り合っている――その関係を知った人はいささか眉をひそめるのかもしれないけれど。

ビクターは、新たに手に入れたUFO業界のインサイダーという立場にご満悦だった。誰だってそうではないか? リック・ドーティやロバート・コリンズに電話して最新のUFO情報について論じあうというのは、ホワイトハウスのゴシップについてミシェル・オバマに短縮ダイヤルをして話すようなものだ。そして、自らのメーリングリストがセルポ誕生の場となるという栄誉に浴して以来、いろいろな出来事があったけれども、彼としてはリックを信頼する気持ちに変わりはなかった。ビクターはリックを「素晴らしい友人」と呼び、セルポの物語の根っこには語られるべき真実があるのだと確信していた。言い換えてみれば、ビクターというのは、恥知らずな輩がユーフォロジーの血脈に新たなDNAを注入しようとした時、その標的にするには恰好の人物だったのだ。

私たちもリックのことは好きだったが、デッチ上げだったことが急速に知れわたってきたセルポにかんし、彼が果たした役割を弁護することはどんどん困難になっていった。新たな非難の矢が彼に向けられたが、その非難は今や我々にも及びそうになってきた。UFOシーンに巣くう情報屋たちが、我々をカートランド空軍基地に連れていったことは「違法行為だ」と言ってリックを糾弾し始めたのである。私が外国の工作員だったら話は別だが、実際にはこの件には全く違法性はなかった。何者かが私を工作員に仕立てるべくなお全力を尽くしており、そうすることでリックを厄介ごとに巻き込もうとしていたのである。リックを擁護しようとしている人間はジョンと私だけであるように思われたこともあった。しかし、後に明らかになるようにそんなことは全然なかったのだ。

■白衣の男

元CIAの科学者から呼び出しを受けたとしよう。しかもそれが30年間もUFOの世界に足を踏み入れていた人物だというのならば、これはもう応じざるを得まい。かくてジョンと私は、人生で最も恐ろしいといっても過言ではない体験をすることになった――ホームレスとしか言いようがない男が運転するイエローキャブで、世界滅亡後の荒野もかくやというデトロイトのダウンタウンを突っ走ることになったのだ。いや、たぶん彼はこのタクシーの中で寝泊まりしていただけで掛け値なしのホームレスというワケではないのだろうが、その服は垢じみてテカテカした脂で覆われ、汚らしい靴の先からはつま先が飛び出していた。そして、酷く臭かった。運転手は両手で持った茶色の紙袋から何かを吸い込みながら、高速道路を時速60マイルで飛ばしていた。そうすることで彼は注意力を高めていたのかもしれないが、この状況はあまりにも危険過ぎる。私は丁寧な口調で「お願いですから、せめて片手はハンドルに置いてください」と言わねばならなかった。

やっとのことで目的地に着いたが、受付係は我々は会おうとしている人物の名前を名簿から見つけられなかった。しかし問題はなかった。いささかビックリしたのだが、彼はもうロビーに来ていたのだ。白衣を着た彼は我々に挨拶し、力強い握手をしつつ歓迎の気持ちのこもった笑顔をみせてくれた。

キット・グリーンは圧倒的な存在感を放ち、ひと目で人を引きつけてしまうようなタイプで、「いかにもCIAにいた人物だ」と思わせるところがある。彼は羽ペンの如く鋭利にして法律文書のようにスキがなく、いいかげんな部分は全く見てとれない。彼は神経生理学の医師で、その専門知識を国家安全保障に生かしている人物であるわけだが、誰しもその物腰は彼の任務にぴったりだと思うことだろう。そんな彼はUFOにも関心を持っている。興味を抱いたのは30年ばかり前、CIAの科学技術局で「奇妙なものを管理する」部署にいた時のことだった。彼は掛け値なしに上級の科学アナリストだったのだが、その仕事の中には1970年代にホットだった遠隔透視(RV)、UFO、その他の超常現象といったものに関わる諜報活動が一部含まれていた。

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 キット・グリーン


キットは今もなお、UFOと米政府に関わる事項についての最新情報に接する立場にあるようだ。この問題についての彼の見解は非常に複雑かつ微妙なもので、UFOは一部の人々には或る種の精神的な病をもたらす可能性があるけれども、この神話の核心部には本当に奇妙で、かつ調査に値するものが潜んでいる――というものだ。

キットとジョン、そして私は数時間にわたって話をした。最初の話題はセルポであったが、驚いたことにはキットは、我々が予想した以上にこの問題を真剣に受け止めていた。「そこにはいかほどか事実があるのです」と彼は語った。「或る種の文書が存在しているんです。だから私はこの件を一概に否定しさることができません。そのストーリーが明らかに真実ではないとしてもね」。セルポ資料、あるいは少なくともその一部は、どこかの誰かに高度に体系化された形で情報を伝える目的で使われたのではないか。キットはそのように示唆した。情報の価値を評価する方法の一つとして、「その情報に引き寄せられる人物を観察せよ」というのがある。そしてセルポは、防衛諜報分野で高位にいる人々――その中にはおそらく最上層部の人もいただろう――の注意を惹きつけた。キットが興味を抱く理由としてはそれだけでもう十分だった。もっとも、我々と同様、彼もいまだ答えを得てはいないのではあったが。

キットは、長年にわたってリック・ドーティの親しい友人でもあった。彼はリックに対して好意を示し、敬意を表しつつ話したが、そんな彼にしても時折リックが当惑を強いるような行動、苛立ちを感じさせる行動を取ってきたことは認めざるを得なかった。

控えめに言ってもUFOの世界の背後で何が起こっているのかを知っているであろう人間と「拝謁」する機会を得たのだからと、私は幾つか直球勝負の質問を投げかけることにした。そして彼からは見事な直球の答えが返ってきた。

私は、ヨセミテで目撃した銀色の球体について尋ねた。「あれが何だったのか分かりますか?」

「我々はそんな風に見える偵察機をもっています」。彼はあっさりと答えたが、それ以上の詳細は明かさなかった。

我々はまた、軍や核関連の施設を調査するためUFOに「偽装」した静音ヘリを使うことがあるのかという話をした。

「そういうことがあったのはほぼ確実だと思います」とキットは言い、さらにそのような任務を行ったと主張する人物に会った経験があることをほのめかした。

地球外起源説への打撃が二発撃ち込まれた。しかし、我々が安心できる陰謀論のゾーンに入っていこうとするや否や、キットは方程式の中にエイリアンを引きずり込んだ。生物学に関する医師の知識。情報に対するアナリストの洞察力。国家安全保障に関するCIA職員としての理解。ハイストレンジ事例をも受け止めるUFOファンとしての才能。それらを一身に備えたキットの下には、時折「評価をして頂けないか」といって奇妙な資料が届けられることがあるのだという。

1995年にロンドン出身のレイ・サンティリが制作した「エイリアン解剖」の偽映像が世界的な話題になる以前から、キットは、人間とは異なる存在に対して行われた解剖報告書の噂を耳にしていた。キットはETが地球に来ている可能性は全否定できないというのだが、彼をしてそう考えさせているものの中にあって、これなどはそのごく一部を占めるに過ぎない。それ故に彼は1986年、やはりデニーズでのことであったが、物理学者のハル・パソフ、コンピュータ科学者にしてユーフォロジストのジャック・ヴァレとともに、自分たちがこの問題に関して知っていることを後に「コア・ストーリー」として知られることになるものにまとめ上げたのだった。

キットによれば、コア・ストーリーというのは簡潔に言うと次のようなものである。「ETはここに来た。回数はおそらく一度か、あるいは数回。偶然か意図的かは不明だが、アメリカ政府は彼らの乗り物を一つ入手した。問題はその乗り物を推進させるための物理学があまりに高度だったことで、何十年にもわたって我々人類はそれを理解し再現しようと奮闘してきた」

大した話ではないかもしれないが、キットのようなバックグラウンドをもち、才覚もある人物からこの情報を聞くと、頭の中で小さな核爆弾が爆発したかのような衝撃を受けた。私は彼にもう一度その発言を繰り返すよう頼んだ。すると彼は言った――「エイリアンはここに来ていた」と。キットは、アメリカが保有しているとされるETの乗り物3隻に付けられたニックネーム、すなわち「三匹のクマ」という言葉を何気なく口にした。その瞬間、以前リック・ドーティから受け取った謎めいたメールを思い出した。そのメールには「三匹のクマ」と題されたテキストが含まれており、ザッといえばソビエト連邦からアメリカのスパイを救出する空軍のミッションが記されていた。その話は実際には別のことを示していたのだろうか? 私の心は不安に揺れ、大きなパズルのピースが一つずつはまっていくような感覚を覚えた。

この男は本気(シリアス)だった。そして、彼の見立てでは事態もまた深刻(シリアス)なのだ。我々は宇宙にあって孤独ではないし、おそらく孤独だったことはずっとなかったのだろう。彼らは今もここにいるのかもしれない。問題は、我々はそれにどう対処すべきかということだ。

キットはこの問題を深く考えており、ひょっとしたら解決策を持っているのかもしれない。彼の長い独白はそんなことを感じさせたが、一方で私は「彼は以前にもこんな話をよそでしていたのではないか」と思った。

「教育を受けた分厚い人口層がある国家では、いわゆるパラフレニアを患う人々が相当な割合を占めています。パラフレニアというのは、日々の生活には支障をきたさない一種の精神病です。つまり、そういう人たちは妄想を持ちながらも、狂ってはいない。その妄想というのは、閉じ込めてコントロールすることができる。我々の多くは心の片隅に妄想を持っているわけです。これは賭けてもいいですが、私だってそうなのです」

「例えば、その妄想は宗教的なものかもしれない。私はエピスコパリアンですが、エピスコパリアンであるが故にパラフレニアだという診断を下されずに済んでいる。そしてそれはUFO愛好家も同様です。なぜなら、宗教のように巨大な社会構造体の人々が分かち持っている信仰は、妄想扱いされることがない。だから、自分たちは政府から電波攻撃を浴びていると信じている人々は、もはや狂人と診断されることはありません。そうした人々があまりにも多くいるからです」

「しかし、もしその妄想が社会構造に脅威を与えるものであれば――例えば『エイリアンがここにいて我々の赤ん坊を連れ去っている』という考えや、神は特定の信仰や肌の色の人々を憎んでいるという考えのことを言っているのですが、そのような妄想を抱く人々が集まると、互いに悪影響を及ぼしあってより病んでしまう可能性が出てくる。そして、時には集団自殺をしたり、自爆ベルトを巻いて自らを爆弾にしてしまうことだってある。だからこそ我々は、そうした人々をどう扱うか、彼らが他に危険を及ぼすのをどう防ぐかを知っておかねばなりません」

「これはUFO問題についても言えることです。もしUFOに関して語られているとても奇妙な話が事実だとしましょう。その時、我々はその情報を大衆に伝えるのに何をすれば良いでしょうか? 第一に、我々は基本的な事実と思われるものは何かと考える。文明を築いた生命体は宇宙のどこかにいるかもしれない。彼らは宇宙船に乗って我々のところを二、三度訪れ、それから帰っていったのかもしれない。彼らはその乗り物だとか何らかのテクノロジーを後に残していき、我々はその使い方を突きとめようとして多くの時間と金を費やしてきたのかもしれない。そして、こうした事は実際に起きていて、政府の外にいる誰かがそのテクノロジーを解明できるかもしれない以上、政府の中には『そうした情報は大衆に伝えねばならない』と考えている人がいるかもしれない。でも、その時、権力を持っている人たちの中から別のグループが出てきて、こう言うのです。『いや、すべてを明かしてしまうと人々はおかしくなってしまうだろう。この話は外には出せない。危険過ぎる』とね」

ジョンと私はお互いに顔を見合わせた。私は口が乾き、気温が下がったような気がした。いや、そうではなくて上がったのだろうか? もう分からなくなってしまった。事態は再び奇妙なことになってきた。キットはこういうことが実際に起こったのを知っていると言いたいのだろうか?それとも、彼が今提示したのは仮定のシナリオだったのだろうか? それとも彼が本当にあったと信じているストーリー? キットは話を続けた。

「では、どうすればいいのか?この問題に関する研究は二つに分かれるのです。一部の研究では、人々はこの情報を受け取ると狂って橋から飛び降りると言う。しかし、別の研究では、彼らが狂わないようにする方法は、恐怖を体系的に鈍磨させていくことだと言うのです」

「患者を受け持っている精神科医であれば、この問題をとても体系的なやり方で検証することができる。学生グループを使って研究している大学の社会学者であれば、巧みに構成された実験を行ってそれを確かめることができる。しかし、政府が国全体でそれを行おうとすると、事は遙かに複雑になります。そう、中には肩をすくめて『エイリアンが実在するなんてことは知ってたよ。全然大したことじゃない』という人もいるでしょう。しかし、中には狂っている人がいて、大変なトラブルを起こすかもしれないということは分かりますよね。だから我々は、彼らが知るべきこと、あるいは知る必要があることをどうやって国民に伝えるか、自問自答しないといけないのです」

「その方法ですが、まずは一つの枠組みを作り上げ、彼らが聞いた話のうち本当ではないものをより分けてしまう。そうやって残ったものをどうにかコントロールできる扱えるストーリーへと削り込んでいくのですよ。例えばこんなストーリーです。『30年以上前に3機の宇宙船が飛来し、そのうち1機を我々が捕獲した。その動作原理は解明することができず、我々はその宇宙船をクラッシュさせてしまった。必要とする物理学のうち、我々がいまだ理解するに至っていない領域が大きすぎたからだ。我々は磁気流体力学に基づく環状体のようなものを入手しており、それによって実際に乗り物を浮上させることはできたのだが、その乗り物は酷い悪臭を放つ上に数人のパイロットを死に至らしめてしまった。その件については本当に遺憾に思っているが、それも我々が他の惑星から来たこのマシンを手に入れたからこそ為したことであり、我々としてはその動作原理を知る必要があるのだ』とね」

何てことだ、彼はまたぶちかましてくれた。私は呼吸を落ち着けて、めまいが完膚なきまでのパニック発作へと転じていくのを防ごうとした。

キットは話を続けた。私の内なる葛藤には気づいていなかったようだ。彼の操作するMRI装置の内側にいなかったのは幸いだ。

「では、その話をどうやって伝えればいいのでしょう? もしそれが真実であれば、の話ですが」と彼は言い添えた。ほとんど付け足すようにではあったが。

「もしコア・ストーリーをいきなり伝えたら、人々はおかしくなってしまうでしょう。だから、10年20年をかけてゆっくりと伝えていくのです。たくさんの映画。たくさんの本、たくさんのストーリー、たくさんのインターネットミームを使って、我々の子供たちを食べる爬虫類型エイリアンだとか、最近でいえばセルポで見聞きしたような狂った話を大量に流す。そして、ある日こう言うのです。『はい、あれは全部ナンセンスだから安心して。そこまでひどくないし、心配することはありません。現実はこんな風で――』と伝えるのです。それから、本当の話をする」

「ということで、これは試行錯誤の末に確立された脱感作モデルなのです。そして、もし嘘偽りのないコア・ストーリーというものがあって、そのコア・ストーリーを広めたいと考える人々が、人を害することなくそうしたいと考えている限り、彼らはこういう風に行動することになる。たくさんのナンセンスな話を作り出してから、それを徐々に消していき、人々がだんだんと心地よくなるよう仕向けていく。そうすることで、最後に真実を提示された時、それは人々が最初に恐れていたほど怖いものではなくなっているのです。『信じられるよ』と彼らは言うでしょう。『気が違った爬虫類の話だとか、光のビームで子供が子宮から連れ去られるといった話は信じられなかった。でも、宇宙船とリバースエンジニアリングされたテクノロジーの話なら信じられる』とね」

「だから、ボブ・エメネガーの映画みたいなものの背後にある意味は、まさにそのようなものなのです。真実を知った時に人々が病気にならないように、そして彼らが冷静でいられるようにするためのものなのです」

私は催眠術にかかったような気分だった。ジョンはとても真剣な表情をしていた。彼の額には玉の汗が浮かんでいた。我々はこの旅で非常に奇妙な話をたくさん聞いてきた。そうしたものを分類して「奇妙な話」という引き出しにしまい、奇妙な話を聞きたがる人々が来たら見せてやる。それは、いとも容易いことだった。

しかし、これは違っていた。キットは違っていた。ここにいるのは、私が安心して自分の命を預けられるような人物だった。医者であるキットは、おそらく何度かはそうした場面を体験してきたことがあるだろう。ここにいるのは非常に理性的で、かつ非常に知的ではあるが、同時に我々がこれまでに会った誰よりも政府の陰謀に肉薄した人物でもあった。そして彼は、言外に「エイリアンというのは実在しているのだ」と言っているように思われた。そして彼らはまだここにいる。そして…

パニックが襲ってくる感覚、自分がこれまで築いてきた世界観の確固たる基盤が足元から消えていく感覚――私はそうしたものを何とか抑え込んだ。UFOについて長年研究してくる中で、私は天真爛漫な楽観主義と非情な懐疑主義の間を揺れ動き、最終的にはその中間に腰を落ち着けていた。宇宙に寄せた希望の小さな種を完全に否定することは決してなかったが、それを不毛の地に置いたまま育てようともしなかった。そして今――その種は寝覚めた。大きな葉を広げ、「確実性」という名の暖かく明晰な光を遮って、疑念の冷たい影で私を包み込もうとしているのを感じた。

キットが信じることができるというのなら、きっと私も信じることができるだろう。

ジョンと私はほとんど丸一日をキットと過ごしていたが、もう出発する時間だった。これはおそらく良いことだった。私は、彼がその穏やかな思慮深さの中にたたえている衝撃と畏怖とを、どれだけ受け止めきれるか分からなかった。私たちがキットに感謝を述べると、彼はタクシーを呼んでくれた。

今度の運転手は、茶色の紙袋から何かを吸い込んでいたわけではないが、やはり正気とは言い難かった。が、茫然自失で驚愕した体の我々の表情を他人が見れば、我々も同様に正気ではないように見えたに違いない。

■困難な一年

数日後、我々はアルバカーキに戻った。驚いたことに、リック・ドーティから連絡があって、我々と会って情報交換をしたいというのだった。我々は車で1時間ほどのところにある、彼の地元の商店街のデニーズで会うことにした。またもやデニーズ、であった。ありとあらゆるデニーズには、人々の会話に即座にアクセスできるよう国家安全保障局によって盗聴器が仕掛けられてるんじゃないか。私はそんな風に思った。

ジョンと私はレストランの外でリックを待った。駐車場の向かいのスーパーマーケットの近くに、軍のヘリコプターが置かれていた。その中には将来アメリカの兵士になる者もいるであろう子供たちが、ソフトドリンクやアイスクリームを手にヘリコプターに乗ったり降りたりしていた。

小型の戦車ほどもあるデカい銀色のジープが我々の隣に停まった。リックが運転席で笑みを浮かべていた。

「やあ、みんな! 撮影はしてないよね?」と彼は言った。

我々は、カメラクルーは今日の仕事を終えたので帰らせたとリックに伝えた。彼は本当に嬉しそうであり、我々もまた彼に会えて嬉しかった。彼はいかにもプライベートといういでたちで、野球帽にTシャツ、ショートパンツ、スニーカーといういでたちであった。彼の片目は腫れており、感染しているように見えた。

「そう、鼻の感染症でね。ちょっと気持ちが悪い。今年は散々だったよ。家族の健康にいろいろ問題がでてきてね」

リックとジョンはサラダを食べ、私はプライムリブを食べていた。リックはリラックスしているように見えた。

軽く雑談した後、我々はUFOの話を始めた。プロジェクト・シルバーバグについて。1950-60年代にカナダ上空で行われた円盤型飛行機のテスト飛行について。現在進行中のアメリカの円盤テストと中央ヨーロッパの王族との資金的なつながりについて。彼はそんな話をした。さらに彼は、1970年代にカートランドのコヨーテキャニオンに着陸した円盤についても語った。これがベネウィッツが見たものだった、ということなのだろうか? おそらくそうなのだろう。

これはリックとの会話にはしばしばあることなのだが、突然ホットな話題が始まった。リックによれば、OSI(米空軍特別捜査局)での任務の一つとして、彼は或る大佐の警護をしていたのだが、その人物はEBE1(彼は「イーバ」と発音した)と呼ばれる地球外生命体との連絡役だった。その大佐はもう亡くなっているが、彼の娘が父親とEBE1とのツーショットの白黒写真を見つけたのだという。もしその写真が本物と判明すれば公開されることになるだろう。そうリックは言った。 

私はリックにとても信じられないという顔をしてみせたが、彼は真顔のままだった。私は思った。彼は我々を相手に新しいネタのリハーサルをしているのではないのか。

彼はこのネタをどこから手に入れたのだろう? 誰かが提供してくれるのだろうか? それとも、彼は自らの手でこんな突拍子もないUFOネタを作り出しているのだろうか? リックは、いまだ評価されていないけれども実はポスト・モダンフィクションの天才なのだろうか? セルポ文書を書いたのは彼で、そうすることで現実と社会的想像力の境界をわざとぼやかし、どんな歴史だって所詮は神話なのだと示そうとしたのだろうか? 彼はSF作家になるべきだったのだと私は思った。警官向きではない。

リックはこんな話もした。1970年代にハル・パソフとラッセル・ターグがスタンフォード研究所で遠隔透視の研究をしていた頃、彼らはお抱えの超能力者たちに別の惑星を透視してくれと頼んだ。リックによれば、透視して得たイメージの中には、レンガ作りの小屋とエイリアンがあったという。まさにセルポだ。彼はまた、疑惑のメールアドレスの件はでっち上げだとも語った。ジョンと私は、それはそうかもしれないが、世間からみたらあなたの立場はまずいことになっているので、そこは理解したほうが良いと言った。

こんな話をしばらく続ける中で、リックはちょっとしたヒントめいたことも言ったが、それをここで洗いざらい明かすことはできない。ただ、リックが技術方面の話を好むことを知っていたので、私はボブ・エメネガーが語っていたホログラフィック技術について彼にこう尋ねてみた――あれはUFOの謎と何か関係があるんですか? リックは口数が少なくなり、話題を変えた。

ジョンと私は彼にこんなことを言った――「この取材プロジェクトを始めてから、UFOの噂というのはどんな風に作られるのかが分かってきました。それと、ある話を聞いて何ヶ月も何年も経ってから、それが突然パズルのピースのようにしてどこかにはまる。そんなことがあるのも知りました」。リックは満足そうに笑った。まるで弟子の成長を喜ぶ師匠のようだった。彼は言った。「自分が知っている人間のなかに全体像を知っている者は一人もいないが、それはわざとそういう仕組みにしているんだ。それでこそ秘密は保たれる。全ては分割され、誤情報とゴチャゴチャに混ぜ合わされているから、誰一人として迷路の中心にはたどり着くことができない」

真実は今やあまりにも深いところに埋められてしまったので、誰も答えを持っていないのではないかと私が言うと、リックは反論した。確かに誰かが青写真を持っていると確信している。ただそれが誰なのかは知らない。ハッキリしているのはそれは自分ではないということだ、と。「僕はただの豆粒だよ」と彼は言った。

数時間が過ぎた。次の目的地に向かわねばならない時間になった。リックに別れを告げ、いつかイギリスに来て下さいと告げると、彼は「ずっとネス湖を訪れたいと思っていたんだ。いつか行きたいね」と言った。

クルマが走り出し、大きな銀色の車体が砂漠の埃の中へ消えていくのを見送りながら、私はリックが大好きになっているのに気づいた。彼は詐欺師かもしれず、ある意味では危険な存在ですらあるのかもしれない。だがそれ以上に、彼は我々にとってのエイリアンであり、アルミシートにくるまれて空飛ぶ円盤に詰め込まれたエニグマであった。

しかし、その持ち主は我々なのか? それとも「彼ら」なのだろうか?

■奇妙なものを信じる方法

その翌晩、アルバカーキに戻った私は、グレッグ・ビショップとバーに行き、ビールを一、二杯飲みながら、UFOやスペースミュージックについて話し合った。辺りではビリヤードの玉や酒瓶がカチャカチャとぶつかり合い、いつもながらの心安らぐ音を響かせていた。

グレッグはアメリカのUFOシーンに20年ほど関わりをもってきたが、この現象に相対した人間の側のあれこれについていえば、ありとあらゆるものを目にしてきた。自らにUFOとの遭遇経験はないものの、彼は多くの人々がUFO熱に取り憑かれるのを見てきた。彼は、横たわったウィリアム・ムーアがほとんどパニック状態になって「エイリアンは地球に来ている」と言い出した場面を覚えている。MJ-12や「鳥の会」をめぐる調査でムーアと組んだジェイミー・シャンデラが、最初は皮肉たっぷりの否定論者だったのに突然怯えた転向者になってしまったことも記憶している。理由を尋ねられたシャンデラは、「彼らからあるものを見せられたんだ」と言うばかりだった。

グレッグ自身も、1990年代半ばに偏執病に襲われたことがあった。彼はその当時、海軍情報部の関係者と称する男からUFO情報を受け取っていたのだが、彼は次第に「自分は盗聴されており、政府のエージェントは家の外にバンを停めてコンピュータからデータを抜き取っている」という確信を抱くに至った。彼は、海軍の男に行ったインタビューのカセットテープをビスケット缶の中に隠したともいう。恐怖は彼の生活を支配してしまったが、彼はある日、「もうたくさんだ」と踏ん切りをつけ、それ以上恐怖にエサを与えまいと決意した。グレッグ本人の弁によれば、彼はそれ以来完全に正気を保っている。

グレッグはどこか満足げな調子を滲ませつつ、ジョンと私は今回のミッションに着手してから変わったと言った。「最初は、君たち二人ともこの話を真剣に考えていなかった。君たちは人から聞いた話を笑いものにし、周りで起こっていることを軽視していた。でも、今は何かが違う。君たちはまだ笑いを忘れていないけれど、この現象を笑っているわけではない。軽い感じはもうない。『当たり前』の基準が変わったんだ。自分が本当に信じているものは何か、腰を据えて考えざるを得なくなっている。よくやったよ! 君たちは、神秘主義者が『深淵』と呼ぶものに入り込み、『危険の礼拝堂』へと足を踏み入れたんだ。気分がいいんじゃないか?」

私はこれまで話をした人々のことを思い返した。リック、ウォルター、キット。彼らはミラージュ・メンであり、我々にとって「三匹のクマ」のような存在であった。様々なレベルの内部情報を持ち、欺瞞のテクニックに精通し、秘匿のワザに熟達しており、奇想天外なものから不可思議なものまで様々な話を我々に聞かせてくれた。そして、彼ら自身はそうした話を信じているように見えた。

「アメリカ政府は地球外のテクノロジーを用いた物体を飛ばしている」とまことしやかに語った時、彼らは我々を騙そうとしたのだろうか? あるいは彼ら自身が何者かによって騙されていたのだろうか? それとも彼らは自分自身を欺いていたのだろうか? さもなければ――これはいささか不快なことではあるが――世界のどこかにある荒野に、我々人類のものではない、そして何やら非常に奇妙なものが存在していて、それが大気中を信じられない速度で滑走しているという事実を受け入れるしかないのだろうか?

誰を信じるべきなのか? リックと、彼のイエローブック、つまりエイリアンに由来するすべての知識を収めたホログラフィックの記録なのだろうか? ウォルトと、彼が言うところの「時間旅行をしている地下のヒューマノイド」なのか? キットと、彼が語るコア・ストーリーなのか? 信じて、なおかつ正気を保っていられるものなんてあるのか? グレッグと私は、こうした問いに害されないで済む唯一の方法は「答えは絶対得られないだろう」という事実を受け入れて生きていくことだという点で一致した。

我々はさらにビールを飲みながら、奇妙極まりない話を披露しあった。グレッグは、かつて政府のリモートビューアー(RV)だった人間が夕食中に彼をサイキック攻撃し、彼の心に暴力的なイメージを投影した話をしてくれた。私は、テキサス州オースティンで近くの丘陵に向けてクルマを走らせている途中、上空に現れた巨大な空飛ぶ円盤を一瞬見たことがあるという話をした。それはまるで映画『インデペンデンス・デイ』のシーンのようで(映画が公開されたのはその一年だった)、その大きさは確かにさしわたし何千フィートもあった。

我々は自分たちの正気が揺るがぬことを祝して乾杯をしていた。そこへ、ビールの瓶を持ったジョンが奇妙な笑みを浮かべて入ってきた。

「やあ、みんな!」。ジョンは座った。彼はどこかぎこちなく、自信がなさそうだった。次に何をすべきかをじっくり考えているかのように、彼はしばらく間を置いた。

「実は、君たちに話があるんだ。というか、助けが必要なのかもしれない……」

「もちろん。何があったんだ?大丈夫か?」

「大丈夫だとは思うんだが……キットに会って以来、何かがずっと気になってるんだ。僕は……そう、どうやら僕はこの話を信じ始めているみたいなんだ。つまり、エイリアンだとかUFOとか、政府の隠蔽工作とか、その手のものを全部ね。キットに会うまでは、自分は状況を理解していると思ってた。ミステリーサークルのことなら僕はちゃんと理解できている。でも今は、もう分からない……キットが、エイリアンの乗り物は我が方にあると信じているのならね……くそっ!こんなことになるとは思わなかった!」

我々はジョンに心配しないように言った。信じることは、愛や憎しみ、恐怖と同じく、人間の感情の中で最も強い力を発揮するものの一つで、中でも我々が扱っているものはとりわけ強力なものなのだ。

ウォルターやリックが奇妙な考えを語るのを聞いても我々は平常でいられた。そんな話はキチガイじみているといって容易に一蹴できたからだ。リックやウォルターは豊富な経験と知識を持っているが、一個人としても組織人としてもキットほどの権威があるわけではなかった。だがキットは大病院の医者で、我々と話す時も白衣を着ていた。スタンレー・ミルグラムが1960年代に行った服従と権威に関する実験を覚えているだろうか? ある人間にただ白衣を着せるだけで、その人物には他者に対する心理的な権力が与えられる――他者に従わねばならないと思わせ、信じ込ませる力が生まれるのだ。意図的かどうかは別として、キットはその存在感、ハッキリとした物言い、知識によってそのような権威を身にまとっていた。

私はジョンに、キットが「自分はクリスチャンで、エピスコパリアンだ」と言っていたことを思い出させた。それはUFOやエイリアンの話と同じくらい奇妙な信念の塊であり、事によったら「他の惑星に生命体がいる」という考えより非論理的かもしれない。にもかかわらず、我々はキットを奇妙だとは思わない。それは彼自身が説明した通りである。もし何かを信じる人が数多くいれば、それがどれほど奇妙であっても、彼らが狂人扱いされることはない。我々は彼らをミームや情報ウイルスに感染した人々と見なすかもしれないが、彼らが社会の中でうまく適合している限り、そして彼らが我々に干渉しない限り、我々も彼らを放っておくだろう。

奇妙なものを信じることは一種の技芸である。『鏡の国のアリス』に登場する白の女王は、朝食前にありえないことを6つも信じていた。そうすることで彼女は、ジョンと私が経験したような文化的ショックから自分を守っていたのである。現代においてオカルトを実践している一派の中には、信仰のメカニズムを理解するために、矛盾した信仰システムを採用するよう人々に奨励しているところもある。[訳注:ここはよくわからない]

絶対的な真実を求める試みは、常に存在論的な問題に突き当たる。特にUFOビリーバーたちの気まぐれな世界を探求している場合はなおさらにそうだ。何が起こっているかシッカリ把握したと思った瞬間、それは手元からすり抜け、後に混乱とフラストレーションを残していく。我々はジョンに言った――白か黒かという二者択一の考え方を避ける。そして我々が探求しているのは穏やかに揺れ動いている灰色の世界であることを受け入れる。それが答えになるのではないか、と。

グレッグは、こういった曖昧な領域を探求する際、自分にとってはピュロニズムが有用な枠組みになったと語った。これを彼に教えてくれたのは、異常現象の研究者および哲学者として尊敬されていた故マルチェロ・トルッツィだったが、ピュロニズムというのは、紀元前1世紀のギリシャにおける究極の懐疑主義学派である。その教えによれば、あらゆるものについて「真に知る」ことなど不可能だし、万物は懐疑されねばならない。そして幸福というのは、教条的思考を避け、永久に問い続ける姿勢の中で世界を体験することによってのみ得られるというのだった。これは西洋哲学の歴史の中で絶えず浮かび上がってきた論点で、イマニュエル・カントの苦悩、科学に皮肉を浴びせかけた作家チャールズ・フォートの思索の中に姿をみせたほか、ポストモダンの極端な相対主義の中に新たな支持者を得ることになった。純粋で誠実な懐疑論者であるピュロニストたちは、「何ものも信じないこと」と「何ものかへの不信」の間に明確な区別を設け、「悪霊に憑かれた世界」と「奇跡など起きない世界」の間に張られた綱の上を慎重に進むのである。

我々はジョンにこう言った。――こんな奇妙な領域で生き残っていくためには、我々は存在論的な宇宙飛行士、ピュロ二ズムの鎧をまとったエイリアンにならねばならない。そして、銀色の飛行船から絶えず変化し続ける風景を調査し続ける。創造力で浮かび上がり、懐疑によってバラストを取りながら……。

夜が更ける頃には、ビールと穏やかな再プログラムが功を奏したようだ。ジョンは再び落ち着きを取り戻していた。これは良い兆しだった。我々にはまだ、旅の終わりを迎える前にもう一つ訪れるべき場所が残っていたからだ。

■アラモゴード事件

リンカーン国立森林公園の緑豊かな高地とホワイトサンズ国立公園の眩しい石膏砂丘の間に挟まれたアラモゴードは、19世紀末に鉄道の町として建設され、現在ではアメリカの宇宙開発の拠点になっている。

そのモットーは「世界で最もフレンドリーな場所」だが、そう思えるかどうかは人によるだろう。この小さく、見映えの悪いロードサイドの町は、我々の空飛ぶ円盤巡礼の最終目的地であり、アメリカの冷戦時代の風景の中心に位置している。世界初の原爆実験が行われたトリニティは、北西60マイル地点に位置し、近隣のホロマン空軍基地に隣接するホワイトサンズ・ミサイル試験場の一部になっている。ちなみにこの基地は、ボブ・エメネガーの映画やセルポ文書では円盤の着陸があったとされる場所だ。アルバカーキとロスアラモスは150マイルほど北にあり、ロズウェルは北東約80マイルに位置している。この荒涼とした地球らしからぬ風景は、初期のUFO神話が形成された場所であり、異星人の本拠地でもあるのだ。

2006年まで、ホロマンはF117-Aステルス戦闘機の拠点だった。私が初めてこの地域を訪れたのは1990年代半ばだったが、ホワイトサンズの風変わりな砂丘をよじ登っている時など、この巨大で不格好な「空飛ぶ矢じり」は定期的に頭上を舞っていた。現在のホロマンには、このステルス機の後継機で、高額なため議論を呼んでいるF-22ラプターが配備されているが、こちらも製造はF117-Aと同様ロッキード・マーティン社である。

政治家の間には、主に空対空の戦闘用に設計されたF-22は、ポスト冷戦の環境においてもはや不要だとする議論もあった。他国にこれに対抗する航空機がないから、というのである。こうした米航空戦略の重点の移行はホロマンでも目に見える形で現れており、同基地は増強著しい米空軍の無人機編隊の主要な訓練の場にもなっている。MQ-1プレデター、MQ-9 リーパー(いずれも対潜水艦攻撃能力をもつ)、由緒正しきライトニングバグのハイテク版子孫ともいえる監視用ドローンのRQ-4 グローバルホークといった機種である。

ジョンと私にとって、ハイウェイ70号線から入る基地正面玄関の映像は必須だった。私は駐車場から衛兵詰所まで行き、撮影の許可を求めた。許可が下り、我々は三脚にカメラをセットして、撮ろうと考えていた映像を撮影し始めた。

私は通過する車両を撮影するカメラの後ろに立っていたが、ふと目を引くものがあった。それは100フィートほど先にある高速道路の高架下にぶら下がっていた。最初は、高架の屋根から細い糸で吊り下げられているのだろうと思った。ここでゾッとしたのだが、あれはとても大きなクモなのではないかと思った。だがすぐに、そんな考えは馬鹿げていると気づいた。糸は見えなかったし、こんなに遠くからでもあれほど大きく見えるのであれば、クモの大きさは少なくとも1フィートはあるはずだからだ。

その物体は地面から突き出ているのではないかと私は考えた。高架の真下に生えているアシの上に突き出ているように見えたのである。しかし、その物体が何かで支えられているようには見えなかった。アシはかすかに揺れていたが、その物体は揺れていなかった。実際、その物体は完全に静止していた。数秒間そっちを凝視した後、その物体は高架下にあるわけではないことに気づいた。それははるか遠くの中に、完全に静止して浮かんでいたのだ。

私はできる限り目を凝らして見たが、ローターも見えなければ、時折通り過ぎる車の音以外は何も聞こえなかった。それはヘリコプターではなかった。私はカメラを回し、ファインダーを覗き、ズームを最大限にした。その物体はあまりに遠すぎてハッキリとは見えなかったが、次第に斜めに傾いてきたようだった。暗くて不吉な感じがした。空中にいるステルス戦闘機を見たときに感じたのと同じような感覚を思い出した。とても空を飛べそうにないように思えたのだ――角が多すぎる。

私をさらに不安にさせたのは、その物体が完全に静止していたことだった。空中にこれほどピタリと静止しているものを見たことはなかった。その物体を数分間撮影したが、何も起こらなかったため、バッテリーとテープを節約しようと私は録画を止めた。それからジョンを呼んだが、彼のほうを見やるためファインダーから目を離したのはほんの3秒ほどであった。

「ジョン、これを見てくれ」と言って私はカメラに戻った。が、その物体は消えていた。

「消えたぞ!」。私は信じられずに叫んだ。「でもそんなはずはないんだ。ほんの数秒前までそこにあったんだ。どうしてこんなに素早く消えてしまったんだ?」

我々は晴れ上がった青空を隅から隅まで見てみたが、何も見えなかった。アレはあり得ないほどの速度で飛び去ったのだろうか? それとも視界から消えただけなののだろうか――光学迷彩システムを作動させるとかして? アレは我々が撮影しているのに気づいていたのだろうか?

私は早々と録画を止めてしまったことに我ながら激しい怒りを禁じ得なかった。もしアレが消えるところを捉えていたなら、このミステリーは解かれていたかもしれない――あるいは謎が深まっただけかもしれないけれど。実際はそうはならなかった。代わりに宇宙のジョーカーは再び現れ、我々にホンモノのUFOを見せつけていった。

我々は、先進的な無人機の拠点となっている空軍基地の隣にいた。ここは見慣れない航空機の目撃が期待できる場所である。だが、にも関わらず我々はここで体験したことに肝を潰していた。何が起こったわけでもないのに我を忘れていた。私は遠い空に浮かんでいる黒いドットを目撃した。振り向いてから元に戻ると、それはもう消えていた。

それではなぜ、我々はこんなにも驚き、喜びを感じているのだろうか? その理由というのは、UFOを目撃した何万人もの人々が自ら説明できないものに驚嘆した理由と同じなのだ――コックピットの中にかがみ込んでいる人、コンピュータ画面の前に座っている人の中にこれを説明できる誰かさんがいるのかもしれないが。

肩すかしの感はあっただろう。だが我々のアラモゴード事件は、UFOというのは全く見映えのしない形ではあっても衝撃と驚きとを与える能力を持っていることを思い出させてくれる、完璧な事例だった。我々はついに求めていたものを見つけたのだ。

その夜、私は3つのUFOの夢を見た。それらは夕暮れの青空に浮かぶ黒い種子のようであった。イルカのように反転し、振り子のように揺れ、踊り、喜びに満ち、生き生きとしていた。それらは手の届かない、飼い慣らされない、理解不能な存在であった。私はそのメッセージを理解した。我々の旅は終わった。(18←19→20

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■第18章 大衆を騙す武器

    1.敵の迷信を利用するため、PSYOP(心理作戦)担当者は以下の点について確信していなければならない。
     a. その迷信や信仰は現に存在しており、かつ強力である
     b. 自らには友軍に有利な結果を得るためそれを操作する能力がある
    ――「心理作戦方針No.36」 ベトナムでの心理作戦における迷信の利用(1967年5月10日)


ジョンと私が帰国してからの数ヶ月、UFOは数十年のまどろみから目を覚ました眠たげなセミさながらに次々とその姿を現すようになり、熱狂するメディアの腕にかき抱かれた。空に見える薄ボンヤリした光はタブロイド紙の一面を飾るようになった(それはほとんどの場合、中国のランタンであったけれども)。宇宙飛行士のエド・ミッチェルは、「ETは我々の中を歩き回っている」とラジオで発言した。ケーブルテレビのドキュメンタリーは古典的UFO事件に改めて考察を加え、環境問題を意識した『地球が静止する日』のリメイク版が映画館に登場した。「フォーティアンタイムズ」誌のUFO記事は、新聞報道の記事を載せて再びボリュームを増していった。

新たな覚醒のきっかけとなったのは本当にセルポだったのだろうか? それとも我々は、新しい世代がUFOのパワーを自ら発見し、新しい文化サイクルが始まったのを目にしていたのだろうか? いずれにせよ、UFOフィーバーのメカニズムは私がノーフォークUFO協会にいた当時とほとんど変わっていなかった。新たな報道が出るたびにより多くの人々が夜空を見上げ、それが新たな目撃を生み出し、さらには再びメディアの記事を作り出す。このサイクルが途切れることなく続いた。

ジョンと私が取り組んだ風変わりなミッションが後に残したものは、私の若き日のNUFOSでのプレゼンテーションがそうだったように、答えというよりは更なる疑問だった。しかし私は、心理的な意味でも対権力との関係においても少なくとも深刻なトラブルには巻き込まれることなく、このミステリーの核心部に肉薄できたように感じていた。決定的な証拠を見つけたわけではなかったが、我々が使用済みの薬莢や弾痕を幾つか見つけ出したのは確かだ。そして、それらの断片から浮かび上がってきたストーリーは明白だった。「米国の情報機関は、空飛ぶ円盤の領域に最初期から積極的に関与してきた」ということだ。そうした人々こそが「ミラージュ・メン」であり、UFOというのは彼らの依り代(ミディアム)なのだ。

一方で、リック・ドーティ、ウォルト・ボズリー、デニス・バルサザーへの取材が明らかにしたのは、アメリカのUFOコミュニティは今でも彼らの活動の場となっているらしいということだ。そして、ミラージュ・メンはアメリカの専売特許というわけはない。米国のAFOSI(空軍特別捜査局)に相当する英国の「憲兵保安部 Provost and Security Services」の元職員から聞いた話では、彼らは1990年代に英国のUFO研究者に対してUFOをテーマにした欺瞞作戦を行っていたのだという。1960年代に世界規模でUFOをめぐる欺瞞作戦が行われていたというボスコ・ネデルコヴィッチの主張も、あながち非現実的なものではないのかもしれない。

我々の旅が教えてくれたのは、たとえこの手に触れることができなくても、UFOは実在しているということだ。その事実から逃れることはできない。UFOは人類と同じくらい古くからあり、今もここに存在している。マイクロ波や太陽フレアのように、たとえ目に見えずとも、それがずっとそこにあることは分かっている。

多くのUFOは空に見える光に過ぎないのかもしれないが、その光が人生を変えることもある。空中を漂う中国のランタンであっても、然るべき場所・然るべき時間で目撃すれば、ウォルト・ボズリー言うところの「未来世界のナチス」が操縦する空飛ぶ円盤と同じくらいのインパクトを目撃者に与えるかもしれないのだ。

では、我々は本当のところUFOについてどう考えるべきなのか? それはテクノロジーの問題なのか。心理学の問題なのか。意味論の問題なのか。存在論の問題なのか。UFOは「物体」なのか「現象」なのか。未確認飛行物体なのか、それとも分類不可能なフォーティアン現象なのか。確実に言えるのは、UFOは空だけではなく、無限の想像力の領域の中でも活動しているということだ。

人々がUFOにまつわる出来事として語るストーリー・言説は、その出来事それ自体と同じくらい重要だ――ただ、その二つが全く別物になってしまうということもないではない。人が出来事を回想し、語りを繰り返す中で、中国のランタンが最終的には地底世界からやってきたナチスの空飛ぶ円盤に変わってしまうこともあるかもしれない。そして、物語られるストーリーというのは、その源から離れれば離れるほど広がり変転していくのであって、それはいわば池に投げ込まれた石が作る波紋のようなものだ。波紋は互いに干渉しあうわけだが、同様にその話を聞いた人々同士の間にも相互作用を引き起こす。その時点でこうしたストーリーは神話と化す。そしてこうした神話は、時間がたつとともに我々の想像力であるとか、世界を体験する仕方というものまで作り上げていく。これこそがUFOの真のパワーなのであって、最終的には本書もまさにその点をテーマとしているのだ。

神話の創造というのは人間にとって欠かせないものである。それは人間が最も得意とするものの中の一つなのだ。神話は役に立つ。神話は我々を導き、あまりにも奇妙すぎたり複雑すぎるため我々に理解できないものの意味をわからせてくれる。神話は難しい問いに情緒的な満足を与える答えを出してくれるのだ。我々はどうやってここに来たのか? 世界がこうなっているのは何故か? 我々がかつての友人と戦争をするのは何故か? 世界貿易センタービルはなぜ崩壊したのか? UFOはどこから来るのか?

UFOに関する一般的な考えというのは、米国の情報機関内のニセ情報の専門家――つまりそれがミラージュ・メンだ――によって作られ操作されてきた。私がここまで示唆してきたのはそういうことだ。しかし、「米国政府はエイリアンの侵略というデマ話をデッチ上げている」と考えていたとされるレオン・デヴィッドソンやウェルナー・フォン・ブラウンとは違い、私は「UFO神話を永続させよう」というグランドプランが政府内にあるとは考えていない。この伝説は自らの力で自らを維持していく力を持っている。ビリーバー、宣伝役、探究者、詐欺師といった者たちが織りなすパッチワークに支えられ、毎年新たに何千人もの人々から寄せられてくる目撃に力を与えられてはいるけれど、UFO神話は自らの内にみなぎる生命力を持っている。しかしながらこの伝説は、或る種秘密裏に行われている作戦を隠す上で使い勝手の良いカバーとなる。かくしてそれは、ちょうど都合が良いという時にはミラージュ・メンによって利用されることになる。

その結果は、進化生物学者が「断続平衡説」と呼ぶものに似ている [訳注:生物種の進化は殆ど変化のない時期と急激な変化をみる時期に区別されるという説]。UFO神話は、モーリー島事件、アズテック墜落事件、アントニオ・ビラス=ボアスの誘拐、ホロマン着陸事件、ポール・ベネウィッツ事件、マジェスティック12文書、セルポ文書などの出来事によって形作られてきた。我々は、こうした時代を画す出来事の幾つかに於いてミラージュ・メンがその背後で関与していたことを確信しているが、かといって壮大な陰謀といったものは必ずしも必要ではないし、その上現実的でもない。MJ-12文書に関するFBIの調査が示すように、情報機関の一部門が他の部門の活動をよく知らないでいるということはありうることだ。そんな状況であるからこそ、UFOが軍部や情報機関に浸透していく力は高められていったのである。

UFO神話というのは非常に複雑なものでもある。UFOが内包する経験、出来事、現象の幅はあまりにも広いので、単一の理論で説明しようとしてもそれは無理だろう。ミラージュ・メンはUFOに関する多くの事象の背後にいるのかもしれないが、彼らが捏造した文書や先端テクノロジーの話が常にあらゆる場面で見てとれるわけではない。また、UFOという枠で括られるものの中には、おそろしく奇妙で複雑で、時にはきわめて個人的な体験も含まれるが、彼らの存在でそうしたものを説明することはできない。そのパズルの答えは心理学、気象学、物理学の中に求められるべきであって、諜報活動の内にはない。

UFOというのは人間の信念に関わるものであって、その核心にある神話は今や宗教のかたちを取るようになっている。そして、UFOをめぐる信仰というのは、他の信仰と同様、我々がその教義を受け入れるか否かに関わらず人々から尊重されるべきものである。人々は常に自分が信じたいもの、自分にとって正しいと感じられるものを信じるのであり、世界中の何百万人という人たちにとって地球外生命体は「正しい」と感じられているのだ。信じることはイコール馬鹿げたことではない。月や火星には水があるし、地球に似た惑星は毎年新たに発見されている。宇宙のどこかで我々が生命と認識できるものが見つかるのは時間の問題だろう。しかし、宇宙で生命が見つかったとしても、それは生命体が地球に来たことを意味しているわけではない。仮に地球にやってくる能力をもつ生命体がいたとしても、彼らがあまりにも賢すぎたり、あるいは地球に関心がないために訪問などしないかもしれない。天体生物学者が推測しているように、地球外の生命体は微生物のかたちで地球に来ているのかもしれないし、山のようなUFO報告の中には、事によるとヨソの世界からの監視行動や、コンタクトがあったことを示すホンモノの事例があるのかもしれない。ただ、仮にそうだとしてもユーフォロジストやペンタゴンはそれを見つけていないと私は思う。そして彼らがそんな証拠を見つける時まで、UFOコミュニティは1947年以来ずっとやってきたように同じサイクルを繰り返し、奇妙なループを描き続けるのだろう。

UFO界の晴れ舞台に押し出されてから4年、ビル・ライアンはなおその場にとどまっている。彼はセルポを見捨て、今は2006年のラフリン・コンベンションで出会ったキャリー・キャシディと共に「プロジェクト・キャメロット」を運営している。ビルとキャリーはそれ以来、地球外知性体とのやりとりについて隠されている真実を明らかにすることに専念している。セルポとの交流というところから始まった話は、今ではサイボーグ兵士、地球上にいるヒューマノイド型エイリアン、火星のCIA基地、致命的なETウイルス、テレポーテーション、タイムトラベルといったところにまで広がっている。こうした新手の情報のいかほどかはAFOSIから提供されたのかどうか、我々には知るよしもない

もし諜報機関がビルをUFO神話のPRマンに仕立て上げたのだとしたら、そのやり口は完璧だったといえるだろう。しかし、私は彼らがそんなことをしたとは一ミリも思っていない。そんな必要はなかったからだ。しかし私は、ビル・ライアンは時として、穏やかであってもキッパリとした調子で「こちらが正しい方向ですよ」といったヒントを与えられていたのではないかと疑っている。その役目を果たしたのはリック・ドーティだったのか。その理由は何だったのか。それは誰のために行われたのか。その辺はずっと不明のままだ。それを知っているのは、おそらくはリック、そして彼が一緒に働いた人物だけなのだろう。そして彼らは沈黙を守っている。この間にセルポは死んでしまった。いや、死んではいないとしても少なくとも眠り続けてはいる。ヴィクター・マルティネスのメールリストには、今やUFOそっちのけでかわいらしい動物や水着モデルの写真がたくさん掲載されている。

ジョンと私は今でもリックと連絡を取っている。ミステリー・サークルについて話すこともあるけれど、リックは時折、君はMI6のエージェントなんだろうと言って私を責めたりする。おそらく、いつか私が自白することを期待しているのだろう。この本の刊行が最終段階に入った頃、しばらくぶりにリックからメールが届いたのだが、そこで彼はセルポと自らの関わりについて論及しており、「情報はワシントンDCで働く政府職員から来たものだ」とあった。加えて、ここにはより広範なUFOの物語が記されていた。

    マーク、いまUFOコミュニティにいる人間の中に真実を知っている者は一人もいないし、一次情報をもっている者もいない。彼らが述べているのは二次的、三次的なストーリーか、さもなければ悪辣な人々が作り上げたニセ文書から引き出された情報だ……アメリカ史上最も効果的なニセ情報プログラムは、まさにUFOコミュニティそれ自体から出てきたものだった。では、米政府は何故彼らに対してニセ情報作戦を展開しなければならなかったのか?

    君は信じないだろうが、真実はそこのところにあるのだ。米国の諜報機関はもはやUFOのゲームには関わっていないのだが、おおむね1952年から1985年までの間は時折関与をしていた……UFOの目撃を掘り起こすことと、機密軍事プロジェクトを秘匿することの間には微妙な一線があった。この領域で我々が行った作戦のほとんどは、機密プロジェクトをソビエトから守るためのものだった。1952年以降、我々は南西部のさまざまなテストサイトを使用し、極秘に開発した航空機――U-2、SR-71、F-117、そのほか日の目を見なかった航空機などがあった――の実験を行っていた。一般人がこうした飛行機が飛んでいるのを見た場合、我々は彼らに自分が見たものはUFOだと信じさせようとしたものだ。

    1969年にプロジェクト・ブルーブックが終了した後、UFOの調査は内部情報機関の所管となり、そのことは機密扱いとされた。何故か? 知性のある人間であれば容易に理解できるだろうね。米国の情報コミュニティはUFOの正体を知り、その追跡を試みていたのだ。常識だよ、ワトソン君!!!!!! 我々は、目撃されたものの中には、この惑星の者ではない知的生命体が操作しているものがあると知っていたんだ。私たちは情報を収集し、写真を撮影し、その情報を分析官に渡した。ロズウェル事件は本当にあったんだ。私たちはロズウェルから素晴らしいテクノロジーを得たが、1964年にはエイリアンの遺体を返還した。その時点で限定的なものながらエイリアンとのコンタクトを確立したわけだ。

リックからの連絡を受けるたびに私は思う。彼は本当は何者なのか。自らが「信じている」と語る話を、彼は何故信じられるのだろう。彼は本当に地球外の何かを見たのだろうか? 何か奇妙なことが本当に彼の身に起こったのだろうか? それとも、何かが彼に対して仕掛けられた結果、信じ込むようになったのだろうか? あるいは彼は妄想に取りつかれ、自分自身を欺き、他人をも欺いているのだろうか——キット・グリーン言うところのパラフレニアックのように?

気分がすぐれない或る日、私はこんな想像をしてみた――ベトナム戦争帰りと称して、世間の歓心を買うべく自分のものではない勲章を身につけているニセ退役兵がいるけれど、リックという人物はそのUFO版ではないのだろうか、と。しかし、真実はもっと複雑なのだろうと私は思った。リックの世界、つまり全てが諜報ずくめの世界というのはトリックスターの領域なのだ。それは我々の現実の中にある別世界であり、ルールなき世界であり、幻想と現実の間を絶えず揺れ動いている世界である。本当のUFOが隠されているのはそういう場所なのだ。

UFOはトリックスターであり、リックや彼に類した人物たちもまたトリックスターである。伝統的な文化におけるトリックスターの役割は、単に人を欺くことにとどまらず、発明や科学を推し進めることにもある。UFOが常に我々のちょっと先を行く技術を持っているように見えるのもそのためだ。トリックスターは蜘蛛に巣の作り方を教え、人間には網や罠、釣り針を作る方法を教えた。が、トリックスター自身が自分の罠にかかることもよくあることだ。リックは本当にETがここに来ていると信じているのだろうか? 私が言えるのは「そうであれば良いのだが」ということだけだ。しかし、リックが本当に信じているかどうかにかかわらず、これを信じている人は数百万人もおり、その中にはかなりの影響力を持つ者たちもいる。

ジョン・ポデスタはビル・クリントンの首席補佐官を務め、バラク・オバマが2009年にホワイトハウス入りする際には政権移行業務を担当した人物である。ワシントンで尊敬される政治家であったポデスタは、UFOへの情熱を隠していない。2001年には、クリントン夫妻の主催でXファイルをテーマにした50歳の誕生日パーティーを開き、そこでは余興としてモルダーとスカリーのパフォーマンスを披露したという。ポデスタはホワイトハウス在職中にはUFO問題に対して慎重な態度を取っていたが、2002年には、ケーブルテレビの「サイ・ファイ・チャンネル」をスポンサーとしてUFO文書を政府から引き出そうと設立された団体「情報の自由連合」の中心人物を務めた。プロジェクトの立ち上げ時、彼は記者団に対してこう語っている。「政府は25年以上経過した記録を機密解除し、この現象の本質を解明するのに役立つデータを科学者に提供すべき時期に来ている」

ニューメキシコ州知事を経験し、短期間ながら民主党の大統領候補争いにも加わったビル・リチャードソンは、クリントン政権下でエネルギー長官および国連大使を務めた人物だ。2009年にはオバマ政権下で商務長官に指名されたが、当時その身辺に関して財務調査を受けていたことから辞退を余儀なくされた(この件では程なく彼の潔白が証明されている)。この人物は、2004年に刊行された書籍『ロズウェル・ディグ・ダイアリーズ』に序文を寄せている。この本はサイ・ファイ・チャンネルの別の企画から生まれたもので、UFOの墜落現場とされる或る場所で行われた発掘作業をテーマにしたものだった。その発掘からはめぼしいものは何も見つからなかったが、リチャードソンはこう書いている。「この墜落にまつわるミステリーは、米国政府によっても独立系の研究者によってもいまだ十分に解明されていない……仮に米国政府が知っていること全てを開示すれば、万人を助けることになるだろう。アメリカ国民は真実を受け入れることができるのだ――それが如何に奇妙なものでも、逆に陳腐なものであっても」

こうした信仰はどこまで広がっていくのだろう? ジョージ・ブッシュ・ジュニアは、「私は神の導きを受けた」と世界に向けて告白することができた。ではアメリカは、地球外生命体からアドバイスを受けた大統領を受け入れるのだろうか? 1970-80年代、ジミー・カーターとロナルド・レーガンは、自らのUFO目撃体験について公に語った。彼らがこの問題について何を知っていたのか、あるいは何かしらの信念を持っていたのかは分からないが、レーガンが政治の場で何度かETに関する問いを提起したことは知られている。

UFO問題が大統領や大統領候補の命運を決めることはないだろうが、それが敵に相対する時に有効な武器となる可能性はある。2008年の大統領選挙キャンペーンのさなか、民主党の候補者デニス・クシニッチは、友人で女優のシャーリー・マクレーンからUFOの目撃体験者であることを暴露された。この2人の体験は1982年に遡るものだったが、メディアに騒乱を巻き起こした。クシニッチは評論家に吊し上げられ、テレビでの質疑応答で窮地に追い込まれた。クシニッチが大統領候補としてトップに立つことは決してなかったが、このUFOのストーリーは真面目な候補者としての彼のイメージに打撃を与えた。将来的にも候補者がUFOの話題に触れるようなことは、大衆からよほど強く求められない限り、まずありそうもない。

ただ、そうした大衆の声は実際に存在しているし、これから大きくなっていくかもしれない。フランスの「VSD」は発行部数5万を誇るフランスの人気週刊誌だが、1999年7月、90ページに及ぶ付録「UFOと防衛――我々は何に備えるべきか」をつけた号を売り出した。その編集にあたったのはCOMETAという組織で、これは「詳細調査委員会」といった意味なのだが、メンバーにはフランスの海軍提督、空軍将軍、そしてフランスの宇宙計画の元責任者が含まれていた。このリポートは、UFO現象が地球外起源であることに間違いはないとした上で、異星人の宇宙船の残骸を回収し、ETとの接触を果たしている国もあるとしたらその可能性が最も高いのは米国だと名指しした。その結論は、フランスは米国に外交的圧力をかけ、UFOについて知っていることを明らかにさせ、ETのテクノロジーを自由に使えるよう共有させるべきだというものだった。このCOMETAのリポートの背後にある真の狙いは何だったのか、後ろ盾になったのは何者かといったことはなお不明だ。しかしそのインパクトは世界に広がったようで、このリポートは地球外生命体に関するロビー活動に信用を与える効果をもたらした。

過去10年間、ディスクロージャー(情報開示)という合い言葉のもとに展開された国際的な運動は、世界各国の政府(とりわけ米政府ということになるのだが)にUFOの真実を明かすよう求める草の根の動きを生み出している。このディクスロージャー運動の支持者たちは、自分たちは真実を求めているのだと称している。しかし彼らが本当に求めているのは、UFOや地球外生命体に関して彼らがずっと抱いてきた信仰について、この件に関しては既に見限っているハズの政府から「間違いない」と言ってもらうことなのだ。その皮肉たるや、もはや感歎せざるを得ない。過去60年間にわたって、米政府の機関はずっとUFOの目撃者たちにエイリアンの実在を信じ込ませようとしてきた。* しかしディスクロージャー運動は、大統領が公にその存在を発表しない限り満足しないだろう。もっとも私に言わせれば、仮にその目標を達成しても、彼らはさらなる要求を持ち出すに違いないのだが。いったい彼らは何を求めているのだろう? DNAか? リックのいう「イエローブック」なのか? フリーエネルギー? 空飛ぶ円盤か? そんなものを差し出せる人間がいるとすれば、それはミラージュ・メンだろう。だが、もちろん彼らはそんなことはしない。する必要はないのだ。何故なら、ディスクロージャー運動がその仕事を代わりにやってくれるのだから。
 *訳注:これは本書の文脈上AFOSIなどのニセ情報工作を指しているものと思われる

ディスクロージャー運動は米国にもっぱら焦点を当てているのだが、他の国々もこれまで情報を集めてきたことを認め、UFOロビーに開示するようになってきている。カナダ、ブラジル、フランス、英国といった国々は、それぞれのUFOファイルを公開する事にいかほどか動き出しているが、大方の場合、そこからは各国政府も我々同様、好奇心をそそられつつも当惑していた様子が見て取れる。COMETAの報告書が発表された頃、英国防省の秘密調査プロジェクト「コンダイン」は、分別のあるUFO研究者の多くが到達しているのと同じ結論へとたどり着いた。つまり、よくある誤認では済ませられない真のUFOというのは少数あるけれども、そのほとんどは「闇」に包まれた飛行機や異常な自然現象から成っている、としたのである。しかしそんな結論でディスクロージャー・ロビーを満足させることは不可能だろう。彼らが聞きたがっているのは、自分たちの奉じる神話は真実だったという言葉なのだ――実際にはその神話の多くはニセ情報の専門家がデッチ上げたものに過ぎないのだが。してみると、こうしたニセ情報の専門家たちはいかほどかディスクロージャー運動の内部に入り込んでいたり、少なくともこれを至近距離から監視していたりするのではなかろうか? さらには、他国の諜報工作員もその中に入り込んでいて、米国の保有する宝石の如きテクノロジーを表に出すよう求めてしているのではないか? 私としては、この二つの疑問のいずれに対しても、その答えは「イエス」だと言ってみたい。

それでは、上空に飛んでいるものは何なのか? 私はUFOに見間違われた――あるいは意図的にUFOに見せかけた航空機やテクノロジーの幾つかを特定してきたが、それ以外のいまだ明らかになっていない何かもずっと存在してきたのであって、その中には今日なお空を飛んでいるものもあるのだろう。ある時期、空軍や海軍が自前の「空飛ぶ円盤」を配備していた可能性もあって、これもまたなお上空を飛んでいるのかもしれないし、何年かたって有用なテクノロジーに取って代わられたのかもしれない。軍が関与した極めて重要なUFO報告があり――一節には1955年にロバート・フレンドが空飛ぶ円盤を目撃した事件に関わるものだとも言われている――それがブルーブックよりも高いレベルで処理されていたことを示す証拠もある。第二次世界大戦以降、国家安全保障の分野で進んだ各セクションの縦割り化は、軍の内部で機密事項が囲い込まれる状況を生み出しているのだ。

ペンタゴンが何かを隠しているのも確実だ。2008年、エリア51にはこれまでで最大の新たな格納庫が建設されたが、一方、米国防総省が2010年予算で提案した機密予算は500億ドルに跳ね上がった。これは2008年よりも180億ドル多く、同じ年の英国の軍事予算全体をも上回るものだった。この機密予算のうち空軍の機密プロジェクトに充てられたのは、10年前の2倍以上の160億ドル。その中にはウォルト・ボズリーが目撃した「魔法の鳥」や、私が見た銀色の球体の費用が含まれていたのかもしれない。

明日のUFOを生み出すのは、今日の機密予算である。テクノロジーは、ジュール・ヴェルヌの時代の飛行船から今日のレーザー兵器・光学的遮蔽装置に至るまで、常に想像力の最先端とともに前進してきた。だが、今や科学的現実がSFの空想を超える時代が到来しているのかもしれない。我々が人間のテクノロジーと考えるものと、人間が生み出したと考えるには余りに先進的過ぎるように思われるものとを区別するのはもはや不可能になっているのではないか。実際にはそういう転換点があったのは何十年か前だったのかもしれない。が、我々には分からない。そして、そうした状況をミラージュ・メンは永続させようと望んでいる。

もっとも、いつの日か人類が地球を離れ、我々がずっと夢見てきた地球外生命体に自らなってしまうことは確実だろう。そこでディスクロージャー運動の陣営が持ち出すネタに、米国の「宇宙海軍構想」というものがある。これは地球を取り囲むアメリカの軍事宇宙船の艦隊のことで、英国のハッカー、ゲイリー・マッキノンが、2001年にペンタゴンのコンピュータネットワークにアクセスした際に見つけたと主張しているものである。

マッキノン自身も告白しているように、彼はハッカーとしては三流であったから、世界で最も卓越した軍隊の大型コンピュータ深部にまで侵入できたとは考えにくい。最も可能性が高いのはこういうことなのではないか。つまり彼は「ハニートラップ」に引っかかってしまい、まさしく彼が探し求めていた情報を――つまりは、ハッカーの心にはアピールするけれども、最終的には世界に冠たるペンタゴンのテクノロジーを称揚しているだけの一種の軍事的SFファンタジーを与えられたのではないだろうか。いま一人、やはり英国のハッカー、マシュー・ベヴァンも1996年に米空軍の大型コンピュータに行き着いた。彼もまたUFO情報を探していて、マッキノンと同様にそれを見つけたのだった。ただし彼の場合は最終的に、自分はミラージュ・メンたちが仮想世界に創り出した「ETの罠」に引っかかったと信じるに至った。

マッキノンの宇宙海軍はいつの日か現実のものとなるかもしれないが、現時点ではそれはリアルな宇宙での戦争、つまり人工衛星によって行われている情報戦の文字通りのメタファーである。仮に宇宙艦隊を作るとしても、それには現在米空軍の秘密プロジェクトに割り当てられている160億ドルを遥かに超える費用がかかるだろう。1969-72年に行われたアポロ計画による6回の月面着陸には、2008年当時のドル換算で1450億ドルを要したという推計がある。スペースシャトルが現在休止状態となっている以上、空軍がよほど倹約してお金を貯め込んでいるのでなければ、我々は『バトルスター・ギャラクティカ』の世界からはなおほど遠いところにいることになる。

リアルなUFOとは何かといえば、それは心理戦のために持ち出される想像上の兵器なのだ。虚心坦懐に考えれば分かることだが、UFOとの遭遇というのは我々が自明としている存在論を崩壊させてしまいかねないシロモノだ――そこではリアリティとファンタジーを分かつ境界だとか、因果関係を生み出す力といったものは破壊されてしまうのだ。日常の現実、記憶、夢、イマジネーションといったもの区分は我々が考えているほどハッキリとしたものではなく、UFOはそうした精神状態の間を滑らかにスライドしていく。UFOは現実でありつつ同時に非現実でもある。つまりはトリックスターのテクノロジーであり、境界を超えて働くエンジンなのだ。諜報機関それ自体と同様に、UFOは絶対的な真実などというものに囚われず、「かもしれない」という盾に身を隠している。UFOは常にそこから不確実性が湧き出してくる源であり、「AでもなくBでもない」と「AでありBである」を両立させている。私はそれをプラズマ状態――すなわち光を放ち、液体でも固体でもない物体の第4の状態になぞらえてみたい気がするのだが、それは多くのUFO報告をよく説明できるかもしれない。

そして、UFOは衝撃と畏怖とを与える究極のツールであり、大衆を騙すための完璧な兵器である。UFOがどのように出現し、如何にして我々の心に働きかけているかを理解することは、すなわちメディアから情報を浴びせかけられ、真実・半分真実・ウソ・神話といった様々なものを投げつけられているこの世界のリアリティとは何かを把握することに他ならない。そんな世界を形作っているのが、大量破壊兵器であり、911陰謀論者であり、アブグレイブ、MMR(新三種混合ワクチン)、MKウルトラ、プロジェクト・ベータなのだ。これらは時折UFOのまばゆい光によって照らされ、コントラストをみせながらその姿を日々刻々と変化させている。

ミラージュ・メンは、両極端にある二つのものを同時に我々に信じ込ませようとしている。一つは「UFOとその搭乗者は実在している」というもので、もう一つは「そんなものは一切存在しない」というものだ。長いレンジで見れば、米空軍の政策というのは、ひどく失望しきった人々を励ましながら、一方では軍人、科学者、エンジニア、天文学者といったインチキを見抜く可能性のあるプロフェッショナルを抑え込むというものだったように思われる。それは1967年にネブラスカの巡査ハーバート・シャーマーにUFOの搭乗者が語ったという言葉、「我々を信じて欲しいが、信じすぎないで欲しい」を彷彿とさせる。

もちろん、UFOはミラージュ・メンがいなくても存在し続けるだろう。彼らを必要としているのは我々なのだ。彼らは我々に地球市民としての役割を思い起こさせ、我々には国境を超越して「地球の子」となる能力があるということを思い出させてくれる。そして最終的には、アダムスキーのオーソンのように、いつの日にか我々は「宇宙の子」となのるだろう。UFO、地球外生命体、そして異世界のあらゆる住民たちは、我々の現実の一部であり、我々の一部である。そういったものは、あまりにも合理化され機械化され過ぎた社会において、我らの精神が燃え上がったものなのだ。真実は「人間は合理的な存在ではなく、生活の中に常に魔法を見出す者だ」というところにある。そして、もし魔法を見つけられなかったらどうするか。我々はそれを創り出すだろう。そこまでミラージュマンに代行してもらう必要はない。

しかし、もし本当に「それ以上の何か」があったらどうだろう? もし私がまた別の陰謀論、私自身が作り出した病んだ考えを信じ込み、自らを騙しているのだとしたらどうだろう? もしリック・ドーティの言うことの一部でも真実であるとしたら? もしキット・グリーンのコア・ストーリーに一片の真実が含まれているとしたら? もし地球外生命体が存在して今ここにいるとしたら、ミラージュ・メンは彼らについてどれほどのことを知っているのだろう? ミラージュ・メンと我々が迎え入れたエイリアンは、お互いに諜報ゲームでもしているのだろうか?

ただ、仮にこうした他者が既に我々の世界の一部になっているのだとしたら、彼らはこの世界に、そして我々に一切変化をもたらさなかったことになる。それに、いくらテクノロジーを進歩させてくれるとしても、我々が寄せる期待にこたえきれる者など何処にもいない。おそらくエイリアンも人間の神になどなりたくはないだろうから。ミラージュマンが守っているのはおそらく我々ではない。彼らなのだ。

この「欺瞞」と「霊的交流」の二つの極の間のどこかには、不可思議で素晴らしい真実があるのかもしれないし、来たるべき日を待つ未来があるかもしれない。

しかしその日まで、UFOはミラージュ・メンの領域に留まり続けるに違いない。19←20)

*最後の数頁は著者が何を言いたいのかよう分からんかったので適宜意訳(それでもまだ意味が通っていない)










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