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さて、今回の東京五輪である。

そりゃ日本勢の活躍で我々国民もそれなりに盛り上がった大会といえなくもないが、無観客での開催というすこぶる異様な競技大会であったことは確かだし、コロナ対策そっちのけで開催をゴリ押しした政府の狂態、そして開会式・閉会式のあんなこんなのグダグダぶりなどを見せられた日にゃ、なんだか「あぁ日本はこんなにも劣化してしまったのだなあ」みたいな感慨を抱かざるを得なかった。

で、今回はそれに関連してひとつ痛感したことがあったので、そのことを指摘しておきたい。日本のスポーツ実況の劣化という話である。

これはご記憶の方も多いかもしれないが、とりわけ8月2日に行われた野球の日本対米国戦のテレビ実況は酷かった。これはTBSの初田啓介なるアナウンサーが担当した試合であったが、平凡な外野フライを「伸びた、入った、ホームラン!」などと叫んで解説の宮本慎也にたしなめられるなど、随所で大ボケをかましてくれた。ヒットと凡打の区別すらつかず、バッターの当日の打撃成績も頭に入っていなければ次の試合日程もチェックしていない。全国の野球ファンもさすがにあきれかえったらしく、この初田アナ、ツイッターでもボロクソに叩かれまくっていた。

そもそもTBSというのは、かつては「スポーツのTBS」と言われたぐらいで、スポーツ実況では民放屈指の実力を誇っていたものである。それがいつのまにかこのザマである。これはどこまで一般化できるかは分からないが、最近のアナウンサーというのは技量を磨く地道な努力・精進というものを怠っているのではないかと思った。

実際、今大会の実況に関してはもう一つ、この「初田事件」に劣らずかなり気になる出来事があった。

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    西矢椛選手



何の話かというと、今大会、スケボーの女子ストリートでは13歳の西矢椛選手が金メダルを取ったのだが、その実況でフジテレビの倉田大誠アナウンサーが

「13歳、真夏の大冒険!」

と絶叫して話題になったのだという。オレはこれを見ていなかったのだけれども、どうやらSNSなどではこれが「名実況」などと評判になったンだそうだ。

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               倉田大誠アナ

が、オレに言わせればこれは名実況でもなんでもない。

だいたい今回五輪競技になったスケボーというのは、いろいろな報道を見聞きした限りでは従来の競技とはだいぶん色合いが違うスポーツのようだ。各選手には「国家を背負っている」というような悲愴なところはない。お互いにとても仲が良くて、競技をしていても友だち同士でワイワイ遊んでいるような雰囲気がある。まぁもともとストリートスポーツということもあるのだろう、「いまの技すごい~」「いいねッ!」みたいな会話を交わしながら技量を競い合う。そんなフレンドリーな世界であるようなのだ。

ということでいうと、今回金をとった西矢選手にしてみれば、いくら「五輪の晴れ舞台」などといっても、自分にとってみれば日ごろ仲間たちと楽しくやっている競技の延長線上。気負いも何もなく無心にやったら金だった。そんな話ではなかったのか。

そこで「13歳、真夏の大冒険!」である。確かに彼女は「13歳」である。「真夏」だったというのもウソではない。しかしおそらくそれは「大冒険」なんかじゃなかった。勝手知ったる仲間たちと競い合ったその一日は、彼女にとって当たり前の「日常」ではなかったのか?

「13歳が金メダル」だというので何とか実況をドラマチックに盛り上げたい。倉田アナはそんな風に考えたのだろう。13歳がすごいことをやってのけた、これは大冒険だ――こう言いたくなった気持ちはわかる。わかるけれども、それは「実況」ではあるまい。目の前に展開されている世界から目をそむけて、自分で作り出した言葉に酔っている。あるいは「仮に彼女が金を取ったらば・・・」ということで、事前にこしらえておいたセリフだった可能性すらある。いずれにせよスポーツ実況としては邪道だろう。そして、こんなものを褒めてる連中の目も「節穴」である。

本当のプロの仕事を軽んじる。みかけを取り繕うことにばかり精を出す。そして世間も「それでいい」と思っている。これではいかんだろう。衰えゆく日本の姿はこんなところにも顔を出しているんではないか。そう、これも確かに此度の東京五輪の一断面であった。











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中共の香港支配にともなって、現地でひとり習近平の専制に反抗していた新聞「リンゴ日報」が遂に廃刊に追い込まれてしまった。ますます世界は壊れていく。合掌。

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それはそれとして、一連の報道を見てて思ったのだが、この「リンゴ日報」という名前を見ていると、何だか学級新聞みたいな軽~い感じがしてシックリこない。最凶レベルの言論弾圧の被害を受けた新聞なんだが、なんかそれに見合った重みがない。ものまねタレントの「りんごちゃん」の顔がついつい頭に浮かんでしまう。いいのかそれで。

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ちなみにこの新聞の本当の名前は何かというと、「蘋果日報」というらしい。日本語で読むと「ひんか・にっぽう」。だが、フツー日本人にこれは読めない。一般メディアでこの読めない漢字を用いるのは憚られる。「蘋果=リンゴ」なので、しょうがなく「リンゴ日報」などと翻訳するか、それがイヤなら「蘋果日報(アップル・デイリー)」などという表記を用いたりしている。しかし、この「丸カッコでアップル・デイリーをつける」作戦にしても、やっぱどうしても「ほんわかムード」を漂わせてしまうので根本的な問題解決にはならない。

現地の人の感覚はまた別なのかもしれないが、もうちょっとこう、ガッシリした名前をつけといたら我々にも事態の重大さが浮き彫りになったんではないか。アメリカ人あたりも、ドリー・パートンの愉しい「Applejack」がついつい頭に浮かんでしまったりするんではないか。



キラキラネームはあとあと後悔するんだよな、などと「余計なお世話」的なことを考える。


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で、瀬戸大也である。

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日本を代表するスイマーである彼が、このたび不倫がバレてしまったが故に日本水泳連盟の処分を受け、「年内活動停止」の憂き目にあってしまったというニュースが世間をさわがせておる。

ちなみにNHKの報道はこんな感じである。




競泳 瀬戸大也選手 
「年内活動停止」の処分に 女性問題で
2020年10月14日 1時32分

日本の競泳陣で唯一、東京オリンピック代表に内定している瀬戸大也選手について、日本水泳連盟は13日、臨時の常務理事会を開き、瀬戸選手をめぐる女性問題が日本水連の名誉を著しく傷つけたなどとして、年内の活動を停止する処分とすることを決めました。

日本水泳連盟は、瀬戸選手が先月、女性問題を報じられ謝罪したことを受けて、12日に倫理委員会を開き本人から事情を聞いたうえで、13日、臨時の常務理事会で処分について話し合いました。

その結果、瀬戸選手の行為はスポーツマンシップに違反し、日本水連など関係団体の名誉を著しく傷つけ、競技者の資格を定めた規則に違反したとして、日本水連の公式大会への出場や、強化合宿、それに海外遠征など、年内の活動を停止する処分とすることを決めました。

瀬戸選手が処分に不服を申し立てず確定すれば、12月に行われる日本選手権などへの出場はできないことになります。

日本水泳連盟は「オリンピックの内定選手がこのような事態を招いたことは大変遺憾で、関係者に多大なご迷惑をおかけしたことを深くお詫びしたい。今後は選手の行動規範と社会的規範の教育を徹底していく」とコメントしています。

瀬戸選手コメント「一からやり直す覚悟」

日本水泳連盟が年内の活動を停止する処分を決めたことについて瀬戸選手がコメントを出しました。

瀬戸選手は「処分を厳粛に受け止め私の行動でご迷惑をおかけしている関係者や応援してくださっている皆様に改めてお詫びいたします」としています。
そのうえで「どうしたらお詫びできるかを自分自身に問い続けてきましたが、私にとってのお詫びはこれからも水泳で努力していくことだと考えています。無責任な行動で傷つけてしまった家族からの信頼を回復し、スイマーとして再び認めて頂けるよう、一からやり直す覚悟で真摯に水泳に向き合っていきたいと思います」としています。



が、オレのブログを愛読している方であれば(そんなヤツはいないがw)既に半ば予想されていることと思うが、オレの感想は

「バカバカしい」

の一語である(毎回こんなセリフばっかでスマンが)。

スポーツ選手だからといって別に聖人君子であるワケではない。いやむしろオレの持論からすれば、世界レベルのアスリートなどというのはむしろ人格破綻者でないとやってられないのである。

連中は――むろん一部に例外はあるのだが――自らの健康など省みぬ猛トレーニングに打ち込み、勝つために全てを捨て、時には悪魔と手を結んでライバルを呪殺してでも浮かび上がろうという精神の持ち主である。

であればこそ、連中が日頃のストレス解消ということで不倫するようなことがあっても、そりゃ完全に想定内である。そもそも不倫しようがしまいが、それは己が成績とは本来無関係である。無関係だからこそ何の障碍もない。だからやる。

*だいたいスポーツマンシップなどというものが絵空事であるのは、世界で最もポピュラーなスポーツであるサッカーなどを見ておればすぐ判る。審判の見てないトコでは誰だってフツーに敵のユニフォーム引っ張って妨害しとるし、別に誰も文句を言わない。つまり「それが正常」だとみんな判ってやっておるのだ


ところが、いつの世も「健全な精神は健全な肉体にやどる」ので、そういうゲスいことはやってはいけないとゆー道学者みたいなジジイが必ず現れ、「そういうのはダメです」とか言って回る。今回の処分というのもそういうジジイどもが先導して決めたのであろう。それがバカだというのである。

これは結構人口に膾炙しているので知っている人も多いと思うが、「健全な精神は健全な肉体にやどる」などという言葉はもともと存在せず、古代ローマのデキムス・ユニウス・ユウェナリスなる人物が記したオリジナルは「健全な精神ってヤツが健全な肉体にやどれば良いンだけどネ」という言葉なのだそうだ。ある意味、そういう体育バカはフツーその手の健全さを持ち合わせていないので「二つ揃ったら良かったのにネ」という皮肉ではないかと思うほどである。


だから瀬戸大也のこともほっといてやればいいのである。アスリートというのは別に人格者でなくても結果を出せば、それだけで尊敬に値する。マイク・タイソンを見よ。






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 黒川弘務・東京高検検事長の賭けマージャン疑惑について、朝日新聞社は20日、同社の50代男性社員が黒川氏とのマージャンに参加していたとして「不要不急の外出を控えるよう呼び掛けられた状況下でもあり、極めて不適切な行為でおわびする」とのコメントを出した。
©一般社団法人共同通信社


というニュースが流れている。以前からオレが言っているように「朝日≓反体制」というのは半ば「商業左翼」というか販売政策的なカンバンであって、現場の記者レベルでは体制と結構ズブズブだったりする。その辺はこのあたりのエントリーでも書いていたことである。「何をいまさら」の感アリ。

*追記 最初「朝日記者」としていたが、元記者だったのでタイトル訂正
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この前のエントリーで書いたように、このたびの新型コロナウイルス禍というのは歴史上の大事件である。であればこそ、日本で感染爆発が起きても全くおかしくない今、東京の片隅で暮らしている一庶民がどんなことを考えていたのかというのを記録するのも、いかほどか意味のあることかもしれぬ。ということで、今、ちょっと考えていることを書いておきたい。


オレがたまに覗きにいくブログに「江草乗の言いたい放題」というのがある。ひと言でいうと、「へそ曲がりな拗ね者が世の中に向けて罵詈雑言を発する」というタイプのブログで、つまりオレの大好きなタイプのブログである。ここで最近、書き手である江草乗氏が「みんなで引きこもり」というタイトルのエントリーを書いていた。これがとても良かった。

リンクを張っているので直接とんでいって読んで頂くのが良いのだが、どういう事を言っているかというと、要するに、これまで「引きこもり」というのは世間的にはとても後ろめたい行為であった。だが、今回のコロナウイルスの感染症というのは、とにかく人が集まってワイワイガヤガヤすると一気に感染が広まってしまう病気である。すると、事情はかなり変わってくる。そう、今までずっと白い目でみられていた「引きこもり」というのは、一転してとても好ましい行動になってしまったのである。引きこもればウイルスを移すこともなく、移されることもない。そういうことでオカミも「もう外にでないで家の中にずっといてください」と懇願しているほどである。

この江草氏はそういった動向を鋭く見抜き、この文章を次のような力強い言葉で締めくくっている。「オレも引きこもりの道を模索しないといけないのである。がんばって引きこもらないといけない」。


一読して、全くその通りであると思った。と同時に思ったのは、これまで世間は「引きこもり」をさんざんバカにしてきたけれども、そんな常識なんてものは、しょせん特定の時代・場所でしか通用しないものなのではないか、ということだった。

改めて我々が生きているこの現代社会の常識というのを確認すると、人がいっぱい集まって賑やかで経済活動が盛んに行われているような場所はスバラシイということになっている。一方で、山間の限界集落とかでほとんど人が住んでいない過疎地というのはみすぼらしくてミジメである。

あるいは、人間のキャラクターなんてものを考えてみても、社交的でいろんな人と気軽にペチャクチャおしゃべりするような人は「明るい」とかいってみんなから愛され、好かれる。逆に人見知りをしたり人付き合いが苦手だったりして、口数の少ない人間・でしゃばることのできない人間は「暗い」とかいって敬遠される。先に出てきた「引きこもり」なんていうのも、おそらくそういう価値観の中でディスられてきた。

だが、しかし。先にも言ったように、新型コロナウイルスとの戦いにおいては、この「賑やかな都会」「ペチャクチャおしゃべりする社交的人間」といった従来はプラス評価をされてきたモノが、すげえ迷惑な存在になってしまっている。とにかくそういう場所・人間は感染をドンドン広げかねず、最悪の場合「文明」を破壊してしまうのである。であるからこそ、先の江草氏の指摘の通り、ずっとさげすまれてきた「引きこもり」が、今では逆に好ましいライフスタイルになっている。

まさに180度の価値観の大転換である。確かにコロナ問題にはオレなども心を痛めているのではあるが、一方で、オレなども先のキャラクター類型でいえば「暗い」とか言われがちなタイプなので、この大逆転劇に「そらみたことか。世の中の価値観なんて別に絶対的なものじゃねえんだよ! なんなんだ、引きこもりをさんざんバカにしやがって!」的なことを口走りたい気分もいかほどかある。


で、さらに思うのである。そもそも種としての生物が生き残っていくためには、突然変異によって平均値から離れた性質をもった固体が生まれてくることが重要である。環境というものは変わる。環境が変われば、生物はそれに適合していかねばならない。だが、特定の環境で生きていくのにピッタリというような固体ばっかりだったらどうか。その集団は変化に弱い。細々とであれ、集団の中に「主流に乗れない変わったタイプ」を生かしておく。そういった連中こそが、環境に大きな変化が起きた時、ちょうど活躍できるタイプかもしれない(できないことも多いだろうがw)。

かように、時流に乗れないタイプの存在というのは、実は社会にとってはムダではない。先の江草氏の主張に沿っていえば、「家の中にずっと籠もって時が過ぎるのを待つ」というふるまいをつつがなく完遂できるのは実は大きな才能なのかもしれない。同様に、都会はエラく、田舎はミジメというのも大いなる幻想で、田舎には田舎の存在意義がちゃんとある。この騒ぎが終息したのち、そんな風に感じる人が少しでも増えていればいいのだが。







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というわけで、この3月に入って世界各国を一気に震撼させるに至った新型コロナウイルスは、我がニッポンでも着々と感染者を増やし続けているようである。

素人なりに色々なニュースなどをみていると、何となく今はどういう状況なのかが分かってくる。

結局のところ、1年だか1年半後だかしらんが、世界の科学・医学者たちが一生懸命作っているワクチンや治療薬ができるまでは、だましだまし感染の拡大を抑えていくしかないようである。

もちろん、いったん感染した人には免疫ができるので、国民の5割6割が罹患してしまうともう爆発的な感染はおこらず、つまり落ち着いていく。いわゆる「集団免疫」ができた状態である。その段階までジッと耐え忍ぶという手もないではないのだが、しかしこのウイルスの罹患者の致死率は1~2%とか言われているので、仮に日本国民1億2000万人の5割=約6000万人が罹患するとすると――そしてワクチン・治療薬がないとすると――致死率1~2%として自動的に60-120万人が死ぬ。

いま日本で1年間に死ぬ人は約130万人だというから、仮に1年間で60万人が死ぬと平時のほぼ5割増しであり、120万人だとほぼ2倍である。もちろん、ほっといても死にそうな人が新型コロナでとどめを刺されるケースもあるハズなので単純にそれだけ増えるワケではないだろうが、まぁ実感としては毎日そこらじゅうで葬式やってる感じになるだろう。

というか、第二次世界大戦で、兵士とかじゃなくて国内で犠牲になった市民は80万人だったというから、ほとんどそれに匹敵する感じでバタバタ人が死んでいくのである。

というところまで考えてくると、なんかどんよりした気分になってきて、そういえばこんな感じ前にもあったなぁと思い出すのは、例の東日本大震災のあとの「福島第一原発が爆発するんじゃないか」と言われていた日々のことだった。

そしてこういう無残な状態は外国でも起きている。日本は現時点ではまだマシと言われており、且つ今のところは死ぬのは爺さん・婆さんメインだと言われているので、まぁ心配な親族はいるけれども、まだ50代のオレは罹患してもたぶん大丈夫だとたかをくくっているのだが、冷静に考えると我々はいま世界史的な大事件に立ち会っているのだった・・・!


そう考えると、なんだか落ち着かなくなってくる。最近、スーパーとかでトイレットペーパーやら食糧を買い占める連中が出てきてニュースになったばかりだが、おそらくそういう連中も「なんとかしなければ」ゆうて、しかし何にもできんのでついつい買い占めをして気分を落ち着かせようとしたのだろう。わからんではない。

が、オレはそんなことをしても仕方ないので、とりあえずいまオレが住んでいて、感染爆発前夜といわれている東京都の感染者数のグラフなどを作って、現実を見据えてみようと思った。そもそも罹患の有無を調べる検査はオカミが極力絞り込む方針でやっているので、実際の感染者数から比べるとその数ははるかに少ないことが予想されるのだが、なんとなく「いま我々はどこに向かっているか」を確認してみたいという話である。

もっとも理系のセンスは全然ないので、こんなグラフに何の意味があるのかもよくわからんのではあるが、とりあえずの「何かやった感」にはなる。なんとも適当なグラフではあるが、ここに貼り付けておく。のちのちこれを見て、「あぁそんなこともあったなぁ」と笑って振り返る日がくることを願いつつ。


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日本人の英語ベタは有名であるが、最近はとりわけ国際的なビジネスの場で必要だということなのだろう、経済界あたりを中心にして「聞く・話す」能力を何とかして頂きたいという声が高まっているようだ。

英語の本を読んだり書いたりするのは、まぁかなり難があるにせよ何とかなるとしても、オーラルのほうはからきしダメ。こういう日本人の弱点を強化せよ、という話である。

こうした財界のお願いにはからきし弱い政府・自民党であるから、「聞く・話す・読む・書く」のいわゆる英語4技能を全部ちゃんとできるようにしなさいということで、大学入学共通テストに民間のテストをねじ込もうとした。

したんだが、制度設計がムチャクチャであることがわかってしまい、英語民間テストの導入は先送りになったことは皆さんご承知の通りである。

だがしかし、オレなどは思うのだが、こういう「試験に出るからヒアリングやスピーキングやらないとイカンよなあ」みたいな発想で本当に実力はつくのか。

そりゃ、「一流企業に入るためには英語ちゃんと使えないと絶対ダメ」みたいな話になれば就活生は死に物狂いで勉強してそこそこ英語をモノにするんだろうが、財界のほうも入社試験で精緻な英語力の試験をするなどというのは面倒なのでそんなことはやらない。結局、「学生時代にちゃんと英語おぼえてから入社してネ」という実に安直な発想で英語を仕込む役割を他に丸投げしているのだった。


話が若干横道にそれたが、つまり、ここでオレが言いたいのは、学ぶ者に大したモチベーションがないところでいくら「英語を聞き取ったり喋ったりできるようにお勉強しましょうね」といっても、それはほとんど徒労に終わるということなのである。

じゃあ日本以外はどうなってんのかと考える。日本以外の先進国(日本はいまや先進国ではないという主張もあるがw)では誰もがかなりのレベルで英語を操っている。彼我の違いはどこにあるのか。やはりそこにはモチベーションの有無が関わっているのだろうと思う。つまり、日本以外の先進国の皆さんは、おそらく「英語でコミュニケーションしたい」という強い思いがある。なぜそんなことを考えるか。それはたぶん「世界にむけてゼヒ言いたいことがある」からなのだ。

今や英語は世界の共通語。世界人類にどうしても主張したいことがあれば英語を覚えるしかない。じゃ一生懸命やりましょう――おそらく連中のアタマの中はそういう風にできあがっているのではないか。

たとえば、最近有名になったスウェーデンの16歳の環境活動家、グレタ・トゥンベリさんという人がいる。ニュースでさんざん報道されたので皆さんご存じだろうが、要するに「地球はこのままほっとくと地球温暖化等で破滅する。ジジイどもはもうすぐ死ぬからいいが、そういう世界で生きていかなきゃならんのは我々若者なんだよ! 早く手を打ってくれよ!」という意味のことを言って世界じゅうを飛び回り、国際会議とかで発言し続けている高校生である。

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彼女はこういう話をもう怒髪天を衝くというような調子でまくし立てる。で、それは当然英語である。スウェーデン人であるから、彼女も当然、外国語として英語を学んだのであろう。オレも他人の英語を云々する能力などないけれども、フツーに立派な英語をしゃべっている(ように思う)。彼女などを見ていると、やはりそこには「オレには言いたいことがあるんだよ!」という熱い思いがまず第一にあるように思われる。

義憤でもなんでもいいから「まず言いたい、発信したい」という人と「試験に必要だから英語のスピーキングでもやるかー」という人では、もうハナから勝負はついているのだった。

で、トゥンベリさんについては「ありゃあオトナの入れ知恵。言わされてるんだよ」的な陰口が聞こえてきたりする。まぁ年端もいかぬ高校生があれだけ堂々と自らの主張を繰り広げるンだから、そう思いたがる人もいるかもしらんが、その主張の是非とかは別にして、あの形相でいろいろまくし立てる彼女を見ていると、何としても伝えたいことがあるのは確かではないか。


で、オレの視線はわが国の状況に戻ってくるわけだが、そもそも日本の教育の場で「他人がどう言おうとオレには絶対言いたいことがあるし、それを世界に向けて語りたい」みたいなことを子供が言い出したらどうなるか? おそらく、「なんだこの理屈っぽいガキは」とか言われて教師から目をつけられ、「もうちょっとみんなと仲良くしようよ」とかいって丸め込まれてしまうのである。

自己主張は美徳でもなんでもないという文化環境にあれば、「死んでもこれを訴えたい」なんてものは出てこない。出てこなければ「英語で世界に言いたいことがある」などという発想もありえない。エリカ様ではないが「別に~」などと斜に構えている人間には、英語を学ぼうという強力なモチベーションは絶対出てこないのである。


ということで、結論的には文化決定論みたいになって恐縮だが、こういう「出る杭は打たれる」社会ではどうしたって英語を表現のツールとして使おうというような発想は出てこないし、従って英語はうまくならない。自国の首相がウソばっかりついてるのに「まぁいいじゃん」とかいってスルーするナアナア社会、批判的思考を欠いた社会というもの自体が改まらない限り、この状況は変わるまい。













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今年の八月の猛暑は尋常でなかった。当然イロイロな方面でも言われておるように、来年もこんなンであったら東京五輪では競技者が誰か死ぬんではないか。

だがしかし今や世界屈指の利権団体と化したIOCとしては、いまさら「選手の人命が案じられますので中止します」というワケにもいかず、大会は強行されるのであろう。南無三。

まぁよくよく考えると、これなんかも良い例であるのだが、そもそも現代スポーツというのは根っこに様々な矛盾というか不条理を抱え込んでいる。

そこは、たとえばパラリンピックであっても例外ではなく、フツーの人は「あぁパラリンピックもあるんだわネ、障害があるのに頑張ってスポーツやってる人たちエライわね尊敬しちゃうわネ」という風にいちおう口に出して言うのであるが、オレに言わせればそれはポリティカル・コレクトネス的な美辞麗句であって、そもそもパラリンピックには致命的な欠陥がある。

スポーツとしてみるとアレはどうしたって面白くないのである。

その辺のリクツについては以前書いたエントリーの時点からオレの考えは寸分たりとも変わっていないので、仮に興味をおもちの方があったらこの辺をご覧いただきたい。

今回も体制と一体化したメディアはやれ「パラリンピックのチケットがいよいよ発売になった」だの、「こんな素晴らしい選手が腕を撫している」だの騒いで盛り上げを図っている。が、やはり大衆は全く乗ってこない。かくて「パラリンピックを前面に出せば日頃印象のよくないスポーツゴロたちも少しは善人っぽく見えるンではないか」といったあくどい下心だけが浮かび上がってきてしまうのだった。


いや、そもそも論で言うならば「そんな競技者のバックアップばっかりしてないで、国民が気軽にスポーツできるような環境作れよ」というような、いわば「みるスポーツ」ではなくて「やるスポーツ」に政治的リソースを転用したらどうかという議論もあるにはあった。これにはオレも全く賛成なのだが、政治家などはそんなことをしても票にはならンし、スポーツ関連で何かやろうというのであれば今まで通りIOC―電通ラインか何かに連なっておこぼれを頂戴した方がおいしい。なので何も変わらない。

やれやれという次第であるが、まぁ国民としても「人死にさえ出なければ東京五輪・パラリンピックは大成功」といった辺りにラインを設定せざるを得ないのでないか。もちろん、終了後の負の遺産の処理にはオレらの税金がふんだんに投入されるのである。




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なぜか皇室関係に圧倒的な強みをみせているNHKがまたまたスクープ、なのだそうだ。戦後の初代宮内庁長官・田島道治が昭和天皇といろいろやりとりした記録を遺していた――という特ダネである。

その一部には「拝謁記」などと称したタイトルがついていたそうで、ポイントはいろいろあるようだが、一つには、昭和天皇は敗戦後に「反省」の意を表したいなどと言っていたらしい。それは吉田茂に阻止されたようであるが、今日もなお「エライ人たち」の責任がうやむやにされてナアナアで済まされてしまうこの国の文化風土を顧みるに、昭和天皇は仮に退位に追い込まれてもよいから「反省」の言葉を語るべきであったような気がする。

もっとも、のちに天皇は記者会見で戦争責任についてどう思うか問われて、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよく分かりません」などと、そらっとぼけていた。「反省」とはいっても、たぶんそれは「国民に塗炭の苦しみを与えたから」ではなくて「いくさに負けて皇祖皇宗に申し訳が立たぬから」だったのだろう。ここで「昭和天皇みなおしたわ」などと考えたらちょっとオメデタイような気がする。

あと、ちょっとあきれたのは天皇が「再軍備必要だよねー」的なことを語っていたという話である。NHKによればこんなやりとりがあったらしい(ソース)。

天皇「侵略者のない世の中ニなれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会ニある以上軍隊ハ不得已必要だといふ事ハ残念ながら道理がある」

田島宮内庁長官「その通りでありまするが憲法の手前そんな事ハいへませぬし最近の戦争で日本が侵略者といはれた計りの事ではあり、それは禁句であります」


これはまさに田島長官の言う通りである。田島さんも流石に「あんたが言うか!」と思ったのではないか。

言うまでも無い。「日本は侵略戦争を仕掛けて世界平和をムチャクチャにしよってからに」ゆうて世界からフルボッコされとった時代に「世界にはどうしたって侵略者がおるから軍隊必要だよねー」とかノンキなことを言っておるのだ(しかもこれは1952年3月の問答であるというから、サンフランシスコ講和条約が発効する一月前、つまりなお占領下の日本での話なのである)。

もちろんソ連が火事場泥棒的に北方領土をかすめ取ったりした記憶も新しいから、そういいたくなる気持ちは分からんではないが、そもそも日本が戦争をおっぱじめたからそういう火事場泥棒に遭うようなハメになったのではあるまいか。

だいたい昭和天皇というのは、先の戦争責任の話もそうであるけれども、「原爆被害者には申し訳ないが戦争というのはそういうものなので我慢してくれ」「沖縄に米軍基地を置くのは仕方ないので地元の人たちも我慢してくれ」(いすれも意訳)みたいなことを常々語っていた。そういう意味では今回の新資料、あぁなるほどそういう人だったよねーという感想を改めて抱かせる。アレッ?と思うようなところはあまりない。「そういう人」だったのだ。


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昔から会社員としての「処世のあり方」ということについてはいろいろと考えてきた。基本的にサラリーマンというのは一生懸命がんばり、かつ「自分がいかにデキルか」といったことをアピールすることにより、出世して地位も給料も上がって部下にもいろいろ命令できて万々歳──といったことを考えているものと思われるのだが、オレはちょっと違うかった。

そんなムキになって他人蹴落として偉くなったってなんか寝覚めわりィし、ま、そこそこ好きな仕事だったらできる範囲でソコソコ頑張ってりゃいいんじゃネ、という考え方である。

で、本なんか読んでると、そういう堕落した人間にとって好ましく感じられる主張と出会うこともあって、たとえば生物学者の長谷川英祐先生あたりが唱えている「働きアリの7割はいつも休んでいる」というヤツなんかはまさにそれである(何か大昔にブログのネタにした話のような気もするが、とりあえず気にしないで先に進む)。

むかし読んだだけなので詳細は忘れたが、要するに、アリの社会──といっていいのかは知らんが──というのは、意外なことにいつも一生懸命仕事をしているのはごく一部で、多くのアリたちは普段サボっているのだという。だがしかし、実はそこには大きな意味がある。そういうことをこの長谷川先生はおっしゃるのだった。

どういうことかというと、もしアリの巣を突如大災害が襲って「ギャーこりゃ巣が崩壊すッぞ、何とか修復しないとこりゃ全滅だぞー!」みたいな修羅場が発生したとする。

そんな時、ふだんから全員がフルパワーで働きまくってたらどうなるか。みなさんかなり疲弊していて余力がないので、緊急事態に対応できる体力も余裕もない。結果、アリ社会は全滅する。

ところが普段ぐーたらしてる連中がいたらどうか。

「あ、おまいら休養十分で元気あるじゃん! このピンチ何とかしてくれよ!」ということで、連中、「そっかー、じゃあ仕方ねえなー」とかいってにわかに働き出す。で、アリの社会は何とか生き延びる。

そういう意味で、この「働かない7割」ってのは実はおおいに意味がある。この先生はそういう話をしているのだった(以上の要約はオレの記憶の中にあるもので正確かどうかは知らん。違ったらゴメン)。

当然、「あんまりガシガシ働きたくねーなー」と思っているオレのような人間からすれば心地よい議論である。この説というのは無条件で人間についても当てはまるハズなのだ。というか、当てはまるかどうかはワカランが当てはまっていてほしい。であればこそ、まぁオレのような人間を会社の片隅に飼っておくというのはとっても重要なことなのだという主張もでき、何となく心も休まるというものである。

だがしかし。

何か近年の日本経済衰退の影響であろうか、最近の会社組織というのはそういう「ナンチャッテ社員」に対してはちょっと好ましくない空気が漂ってきているような気がしてならない。例えば「成果主義」の広まりというのもそうだろうし、オレの会社なんかだと最近ナニかっつーと「気合が入ってないからダメなんだ」的な物言いをする「精神論」もニワカに燃え盛ってきてるような気がする。

そういう流れになってくると、それまで見過ごされてたこういう「働かない7割」というのは俄然「迫害」の対象となってくる。「ちゃんと働けや!なにしとんじゃワレー」的なアレ。

いや、そりゃ確かにさきほどのアリの話でいうところのスゲー緊急事態が来て、「遊んでた皆さん、いまこそあんたらの出番ですヨ!」ということになったのであれば、そりゃまあ出番なのでフル回転せにゃならんのかもしらん。

だが、エライさんたちは自分たちの無能が危機を招いたクセにいぜん上の方から下々の面々に命令しているばっかりでその地位をどかない。シモジモのものを締め上げるんじゃなくて、「自分たちは失敗しましたスミマセンあとはお願いします」といってお願いしてくるのがスジである。なに逆に威張ってんだ、「違うだろー!」と一昔前の流行語を叫びたくなってくるところである。

で、唐突であるが、ここでオレは先の戦争直後の日本のことを連想したりする。

ご承知のように、戦後日本にやってきたGHQは、日本の軍国主義に協力した各企業のエライさんたちを会社から追放した。結果、上のポストが空いたので、戦後は若い連中が一気に昇進して企業内で高い地位を得ることがままあったらしい。その辺は「三等重役」といった小説にも書かれている。

で、これまたご承知のように、こうして再出発した新生日本の経済というのはその後、驚異の経済成長を遂げる。ま、実際は朝鮮戦争の特需で儲けるというような時代的な追い風もあったんで、若手のバッテキがイコール企業の活性化につながったというような単純な議論にはならないのだろうが、ともかくそれはそれとして、オレ的史観からすれば古手の支配者層が追い出されたことによって企業内には新風が吹き込まれ、なにがしかのメリットが生まれたのであろう、ということになる。

となると、最近の日本経済の低迷というのも、実はしぶとく出世競争を勝ち抜いたような連中が地位にしがみついて時代遅れになってからもその場所を空けないからだ、という仮説もアリだろう。オマイラが退陣したってあとは何とかなるんだからよーアリの社会と一緒で、などと口走りたくなる。

実は、今回こんな話を書こうと思ったのにはワケがある。きのうの某Y新聞朝刊に「経団連の会長が最近仕事にメールを使いだした、これは歴代会長で初めてのことだスゴイスゴイ」みたいな記事が載り、おそらく書き手は褒めてるつもりだったんだろうが、ツイッターとかの住民に「エッ、いままで使ってなかったのかよ!」とかいって逆に呆れられてしまう──という一件があった。

ま、こういう財界の天上人のようなエライ方々だと、PCなどいじらんでも口頭で手下たちに「オマイラちゃんとやっとけや!」で済むからいーじゃんという弁護もできようが、ともかく彼らが実に浮世離れした世界にいるのは確かで、そんなんで大丈夫かという気はする。

結論。ムリして地位にしがみつかないでいいよ。あとには代わりに頑張る連中がまだまだたくさんいるから。ま、オレはそういう場所には出たくないけどね(笑)。今回はそういうことを言いたかった。

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ここんとこ、大相撲(笑)・アメフト・バスケ・体操、あるいはもっとあったかもしれないが、スポーツの世界でいろんな不祥事が花盛りである。

オレはこういうのは大変結構なことだと思う。なんとなれば、「スポーツは健全である」みたいな「誤解」が、こういう不祥事続発によって解かれていくと思うから。

スポーツは心身に悪い。

これはオレの年来のテーゼであるが、それが事実によって立証されつつあるといってもよい。参考までに、この問題について当ブログに以前書いたエントリー「だからスポーツマン=健全というのはウソだから」へのリンクを貼っておこう。



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あんまりブログを放置しているのもナンなので、今回はジャック・ヴァレの『コンフロンテーションズ』に出てくる小話を紹介。


アルプス越えの列車の中でのこと。そのコンパートメントには4人が乗っている。

大佐である軍人、若い兵士、綺麗な女性、背の低い老婦人である。

列車はトンネルに入り、この登場人物たちは数分間、完全な暗闇の世界に入り込む。

そこで突然、好奇心をかきたてるドラマが幕を開ける。情熱的なキスの音がし、続いてバシッと強くものを叩く音。

列車はトンネルを抜け、4人は黙ったまま互いの顔を見合っている。

小柄な老婦人は考える。「よくやったわ! この兵隊さん、大胆にもあの子にキスをしたんだわ。でも彼女、彼にしっぺ返しをした。こういう骨のある女の子がまだいるかと思うとホッとするわ」

可愛い女の子は首をひねる。「この若い兵隊さん、格好いいんだけど、なぜあのおばあさんにキスしたのかしら? 私にキスすることだってできたのに」

大佐は怒りで頭をカッカさせる。「酷い話だ。この男があの女の子にキスをしたっていうのに、なんで俺が叩かれなきゃならんのだ?」

若い兵士はひとりほくそ笑む。彼だけが真実を知っているのだ。「こいつは痛快だ。自分で自分の手の甲にキスをして、大佐を叩く。で、俺には何にもおとがめなしというわけだ!」



なんでUFO本にそんな小話が出てきたのかというと、このストーリーから得られる教訓はUFO事件の探求にも大いに関係があるから、なのだった。つまり「見かけを信じ込んではいけない」。



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まずはこれをお読み頂きたい。読売新聞の7月6日朝刊である。

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60歳の女性が会社からカネをガメて男に貢いだという、ま、ありがちなニュースなのだが、読んでてオレ、なんか激しく動揺してしまった。特に以下の箇所――。


被告は東京でモデルをしながら有名大学に通う女子大生の「宮崎華奈」と偽り、09年頃にソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)で知り合った当時大学生の20歳代男性とメールのやりとりなどをしていた。


これを読んで思い出したのだが、オレが大学生の頃に(もう30年以上前になってしまったが)「女子大生ブーム」というものがあった。フジテレビが伝説の深夜番組「オールナイト・フジ」などというのを放送していた時期で、つまりそれはちょっと尻の軽そうな(だがそこそこ可愛い)女子大生が大挙出演し、司会のとんねるずなどとちょっときわどい会話などしてテレビの前のもてない男(つまりオレであるw)の妄想をかきたてる、といった具合の素人参加型バラエティ番組であった(どうでもいいことだが、オレは明治大学農学部、松山香織さんがお気に入りであった。その後、民放のアナウンサーをされていたようだが、いまもお元気ですか松山さんw)

ま、そういう次第で当時の「女子大生」というのは、なんか、とても輝かしい響きを帯びた言葉であった。

そのような予備知識をもってこの記事を読んでみる。この被告は60歳だということで、オレなんかからすると少し上の世代なのだが、ま、とりあえず若い頃にこの「女子大生ブーム」を見聞きしていたことは疑いない。

そこでオレの妄想は広がるのである。

たぶんこの被告は、そうやってチヤホヤされる「華やかな女子大生」というものに憧れ、しかし、実際にそのような女子大生にはついぞなれなかった女性なのではないか。自分には決して訪れなかった輝かしいキャンパスライフ。「なんでなの? 私もあんな風にチヤホヤされたいのに。何で私の青春って、こんなつまンないわけ?」。そんな日々を、若き日の彼女は送っていたのではあるまいか?

時移ってSNS時代。

リアルな自分とは違う、「ネット上の人格」というものを装い、それらしくふるまうことのできる世界を知った時、彼女はふと、あの若き日の見果てぬ夢を思い出してしまったのではないか。そして自分に言い聞かせたのではないか。わたしは美しい女子大生。モデルもしてる。お金もたくさんもっている。それがわたし。本当のわたし。ネットの世界の中では、わたしはそういう存在になれるのよ――。

ここでオレなどはふと思い出してしまうのだが、当時、田中康夫の書いた『なんとなく、クリスタル』という小説があって、その主人公が、まさにこの「モデルもしている美しい女子大生」というヤツであった。実に象徴的なのだが、当時はそういう時代であった。

記事の最後にあるように、彼女は「心の居場所がどこにもなく、話を聞いてもらえるだけで癒やされた」。たぶんそれは、60歳女性がこれまで果たせなかった人生の夢や希望を、「その場」ではあたかもリアルなもののようにして実感できたということを意味しているのだろう。

全然美しくも格好良くもない、ブザマな青春を送ってきたオレなどからすると、「わかる」といいたいところが多分にある。「身勝手で自己中心的」と裁判官は言っており、それはその通りである。だが、オレから言わせれば、実にこれは哀しい、人間が人間であるが故の哀しい犯罪であった。



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三島由紀夫の原作を映画化した「美しい星」は、円盤愛好家にとってはなかなか興味深い作品で、オレもこのあいだ興味深く鑑賞してきたところである。

ただ、上映館もここのところけっこう絞り込まれてきているようで、一般の方々にはやや取っつきにくい映画だったのかなぁと思わんでもない。

ちなみに、まもなくやってくる6月24日は「空飛ぶ円盤の日」で、今年の6月24日は、まさにその「空飛ぶ円盤の日」誕生のきっかけとなったケネス・アーノルドの円盤目撃からちょうど70年になるのだが、そういう節目にもかかわらず、こういう映画が出来たからといって円盤ブームが盛り上がる風はさらになく、いささか淋しいものがある。

閑話休題。たまたまめくっていた「新潮45」6月号に――たぶん「美しい星」が新潮社から出版されているからということもあるのだろう――この映画にまつわる記事が載っていた。

具体的にいうと、監督へのインタビュー、それから偽史研究で知られる原田実さんの書いた「三島由紀夫と宇宙友好協会」という原稿だったのだが、これがたいへん面白かった。

結論としては、三島がこの作品に出てくる「自分が宇宙人だと思っている人たち」のモデルにしたのは、悪名高き(?)UFO研究団体CBA(宇宙友好協会)に心酔した人々ではなかったのか、という話になっていて、確かに作中の「宇宙友朋会」はCBAをもじってるという説が有力であるようだし、三島、あれでけっこうCBAに関心あったのかもしれねえなぁなるほどなぁと思わせるものがあった。

と同時に、そのような結論を導く前提として、日本のUFO研究団体の興亡史みたいなことがやや詳しく書いてある。とりわけCBAについては、オレなんかも何となく小耳に挟んだお話を断片的に聞いている感じで、いまひとつどういう流れでこういう団体が勃興(かつ没落)したのかはよくわかっていないのであるが、その辺りをコンパクトにまとめておられる。「ああ、そういう流れだったのネ」という感じである。

願わくば、こういう諸団体の興亡史みたいな話をキッチリまとめた本など読んでみたいというのがオレの年来の希望であって、関係者もだいぶ物故されているのであろうから難しいところはあるのだろうが、ま、原田さんも含めてその辺にお詳しい人にはひとつチャレンジをしてもらいたいなあという思いを新たにしたところである。

*注記その1
ただ、ある方から聞いた話によると、その「日本UFO研究団体興亡史」(仮)においてストーリー的には一番「面白い」パートになるであろうCBAについて言うと、その刊行物は古本の世界では法外な値段がついているらしく、資料あつめがとても大変であるらしい。ハードルは結構高いのかもしれない。ま、そういうの持ってるコレクターとかが書いてくれりゃいいんだけど、面倒なのか商業的に引き合わないからなのか知らんが、なかなかちゃんとしたものを書いてくれる人がいないのは残念である。

*注記その2
あと、これは全然関係のない話であるが、原田実さんのお名前を見るたびに、なんか「源田実」と混同してしまうクセがあり、なんとなく、つい「ゲンダさん」と呼びたくなってしまうのであった。これはどうすればいいのであろうか?

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CBAは、たとえばこんなのを印刷しておったようだ(写真はネットで拾ったもの)。ちなみに英文の冊子みたいなのも作っておったようで、あれやこれやでジャック・ヴァレとCBAの間にもどうやらやりとりがあったらしい




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