カテゴリ: 読書感想文

松閣オルタ先生から恵投いただいた『増補新装版 オカルト・クロニクル』(二見書房)を読みおえた。

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この方面に興味がある方なら先刻ご承知であろうが、松閣オルタ先生というのは「オカルト・クロニクル」というサイトで長年健筆を振るってこられた在野のオカルト研究家で、心霊現象からUFO事件、さらには未解決の猟奇事件にいたるまで古今東西の奇譚について山のような資料を渉猟かつ取材してその真相を探究している快男児である。

UFOファンである小生も何年前だったかは忘れたがたまさかそのサイトを発見してから快刀乱麻を断つが如き推理とその軽妙で「くすぐり」に満ちた文章をずっと愛でてきたのであるが、果たしてその宝玉の如き作品群は有能なる編集者の目にとまるところとなったのであろう、2018年にはこのサイトから幾つかの論考をピックアップした書籍「オカルト・クロニクル」が洋泉社より刊行されて洛陽の紙価を高らしめたのだった。

実はそのご、同書は思わぬ出来事に巻き込まれる。版元の洋泉社はその後つぶれ、同書はあえなく絶版となってしまったのである。が、おそらくは全国20万人のオカルトファンのカムバックコールが澎湃と高まったが故であろうと思うのだが、このたび同書は加筆された新版としてめでたく復活を果たしたのだった。

というわけで今回、なんか知らんが松閣先生から送っていただいた二見書房版を早速拝読したのであるが、小生も年々ボケが進んでいるようで洋泉社版の細部は忘却しており、今回あたかも初読のようにしてこの本を読めたのは実に喜ぶべきことであった(泣

ちなみに今回の新装版のコンテンツは前著とマルマル同じというワケではなく、そのご明らかになった新情報を踏まえての加筆がされていたり、新ネタやムック本に掲載された他の論考も収録されているので、前の本を持ってる人も買って損はない。

それで、本の内容はここでオレがいちいち紹介せずとも読んで笑っていただくのが一番良いので改めて触れないが一つだけ言っておきたいことがあって、それは何かというとこの松閣先生は基本的に文体がふざけているので見過ごしがちだけれども実はけっこう深いことを論じていたりするということである。

たとえばこの本の中では国内でおきた謎の失踪事件が二つほど取り上げられているんだが、そうしたくだりで松閣先生は民俗学者の小松和彦氏なんかを引用しつつ昔の人間には「異界に連れ去られた、天狗に連れ去られた」みたいな説明でこういう悲しむべき事件を腹におさめ、諦め、あるいは不承不承ではあれ納得する知恵みたいなものがあったけれども現代人はそうはいかんのよなあみたいな話をして慨嘆しておる(なおこれはオレ流に意訳した表現で実際にこういうコトバ遣いをしているワケではない悪しからず)。

さて、その上で松閣先生が失踪事件について持ち出す仮説はたとえば「北朝鮮工作員による拉致」説だったりするのだが、残念ながらと言うべきか、読む側からすると他のオカルトっぽい解釈なんかではなくこういう身も蓋もないこの仮説が一番すんなりと腹落ちしちゃったりするのだった。世知辛い話ではあるが、要するにオカルトは現代においてはなかなか生きづらい。なんだか寂しい。そういう時代批評になっている。

そういうわけでコレは単に読み捨ててオシマイの本ではない。再読三読に耐える本なのである。ちなみにまえがきには続編刊行のプランもあるようなことが書いてあった。従ってこの新装版はゼヒ多くの人に買ってもらって、第二弾刊行を後押ししていただかねばならない。(おわり)


【追記】そうだ、あと一つ気になったことがあって、それは松閣先生はこの本の中で時々ブラックなジョークをとばして我々読者を笑かしてくれるンだがそのつど「冗談だが」みたいな言い訳を付している。こういう風に書かないと怒って抗議してくるバカがいるからだと思うが、そんなバカは放っといてエクスキューズなしにしたほうが洒落ててエエと思うた


















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ロルフ・ヴィルヘルム・ブレードニヒ編『ジャンボジェットのネズミ』(白水社、1993年)という本を読んだ。
今回はその感想文を書いてみたいのだが、これは要するにドイツの民俗学者が当地の「都市伝説」をまとめた本である。

もっともこの本では基本的に「都市伝説」ではなく「現代伝説」という用語がもっぱら用いられている。そこには著者なりの何らかの理屈があるようなのだが、まぁそれはオレには関係のないことなので話を先に進めると、この本の原著が刊行されたのは1990年である。ちょうどベルリンの壁の崩壊直後ということもあるのだろう、旧西独に入ってくる旧東独の連中がドロボーしたりズルをしたりする話がかなり収録されていて、一般大衆の間には「チッ、統一なんかすると貧乏な東独の連中ドンドン入ってきて厄介ごとが増えるじゃねーかクソ」という身も蓋もない不快感が満ち満ちていたことがよ~くわかる(笑)。

まぁそんな具合で、現代ドイツ(といってももう30年前だが)の人々が何を恐れ、何を案じていたのか――みたいなことがジワジワッと伝わってきてなかなかに面白い本であった。と同時に、実はオレとしては本文だけでなく、この本の末尾に訳者の池田香代子氏が書いていた「あとがき」がとても面白かった。何でかいうと、この彼女の文章を読んでたら、最近の「陰謀論」の隆盛は実はこうした「現代伝説」を生み出す心理と地続きになっているんではないか、みたいな気がしてきたからだ。

なので、この「あとがき」に沿ってその辺りを説明していきたいのだが、彼女はまず、そもそもこうした「現代伝説」だとか「うわさ」といったウソくさいものが、これだけマスメディアの発達した時代になんで流布したりするんだろうか――といった問いを立てる。そこで示される考察は以下のようなものだ。



 わたしたち受け手は、情報の飽和状態にある。すると、マスメディア情報の価値が低下するらしい。誰でも知っていることは軽んじられるのだ。その延長線上に、稀少情報の価値の高騰ということが起こる。そして、稀少情報はマスメディアに乗らないのだから、マスメディアに乗らない情報こそ価値がある、というおかしな逆説が成立することになる。そうした情報の多くは、マスメディアに乗せる価値がないと判断されたものなのかもしれないのに、だ。

 この奇妙な現象の底に流れているのは、マスメディアへのそこはかという不信感だろう。本当に価値ある情報は誰かが握って流れないようにして、そこから独占的にうまい汁を吸っている、という不信の念が、わたしたちが生きている今とここをうっすらとおおっているらしいのだ。


そして



 マスメディアによるたてまえのことばやしゃれたことばに封じられたかに思えたわたしたちの肉声が、現代伝説やうわさという形をとって、ふらふらとさまよい出る。それとても、しょせんは人から聞いた話の口移しにすぎないが、しかしテレビのことばの受け売りとは決定的に違うなにかが、そこにはある。なにかとは、ひとことでいってしまえば、わたしたちの本音ということだろう。現代伝説やうわさは、圧倒的なマスメディア状況でわたしたちが自前のことばを取り戻すための装置のひとつであるらしい。


この文章は当然インターネットが一般化する以前に書かれたものであるが、「情報を一方的に押しつけてくるマスメディアへの懐疑」みたいなものは当時からあったということだろう。ただし、当時の大衆には反論・反発する手段はない。

メディアで語られていることは本当なのか。怪しい。本当の世界は違うのではないか。そのように考えた大衆が、「蟷螂の斧」かもしれないけれどもとりあえず一矢報いる手段として用いたのが「現代伝説」。釈然としない思いをはらすべく、人々はウワサみたいなものを語り出すのである。そして、池田氏はそんな「作法」に理解を示す。




 大きなことばで語りえないことに、わたしたちの生身のことばをあたえるのが現代伝説であるならば、その守備範囲はそのままわたしたちの「世間」と重なるだろう。その世間には、今、さまざまなブラックボックスが増え続けている。

 たとえば、企業というシステムを考えてみよう。企業は顧客の側にはにこやかなセールスマン顔しかみせないけれど、その笑顔の影ではなにをしているか知れたものではない。利潤の追究こそが企業の存在理由なのだから、という「邪推」は、企業がわたしたちにとってはブラックボックスであることを証している。だから現代伝説のなかでは、安くておいしいハンバーガーは食用ミミズ製ということになってしまう。

(中略)

 なにかと素材を求めては、飽くことなくこうした物語をつむぐわたしたちという奇怪な存在をみつめるとき、そこにみえてくるのは、ブラックボックスに囲まれていることには耐えられない、とつぶやいている、しごく健康な感性だ。悪趣味な物語の衝撃力を借りて、ブラックボックスをドンドンたたいているわたしたち、荒唐無稽であれなんであれ、説明を加えることによって不安を少しでも和らげ、ブラックボックスとなんとか共存しようとする、けなげなわたしたちだ。



現代伝説をつむがざるを得ない人々への共感に満ちた言葉である。

だがしかし。「自らを疎外する社会に一矢報いてやりたい」という姿勢も、現実社会に対して無力である限りは鷹揚に受け止めることができる。しかし、根拠薄弱な伝説が実際に多くの人を動かすパワーを持ってしまったらどうなるか。そう、それこそが近年の陰謀論であり、言いかえてみれば、陰謀論というのはかつての現代伝説の「正統なる末裔」ではないのか。

いうまでもなく、1990年の時点では、「現代伝説」を意図的に広めていくようなことは困難だった。しかし今はインターネットがある。いかに怪しげな言説であれ、広くメッセージを発してくことは誰にでも可能だ。

「何だか釈然としない」ことがあったら自ら声を上げ、場合によっては一つの政治勢力を形成することすらできる。アメリカあたりを考えても、「何だか多国籍企業のエスタブリッシュメントたちがガンガンカネ儲けしてるというのにオレたちの暮らしは酷くなるばかりだ一体どうなってんだ」という貧乏人たちが必死で納得できるロジックを求めたところに、ポイと差し出されたのが陰謀論。そして、多くの人たちは「なるほどそうか」ということで納得してしまった。

というわけでいまオレはしみじみと思うのだが、かつて池田氏が「けなげ」と評した大衆の思いは、「現代伝説」の世界から飛び出すことによって、いまやQアノンみたいな化け物になってしまったのではないか。オレにも「現代伝説を語るわたしたち」を大事にしたい気持ちはある。しかし、そこには思わぬ陥穽もある。この本が刊行されてから約30年。世界はそれなりに――そしておそらくはあまり嬉しくない方向へと変わってきたのである。


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最近、伝説的ユーフォロジストであるジョン・キールの『プロフェシー』を読み返しているのだが、だいぶ内容を忘れていた――というかほとんど忘れていた――こともあって(笑)いろいろと「発見」があった。

そもそもキールの文章というのはウソかマコトかハッキリしないような話をさらりと書くあたりに妙味があるワケだが、とりわけそんな観点から見るとなかなかに興味深いくだりがいろいろとあった。以下二点。

プロフェシー (ヴィレッジブックス)

ジョン・A. キール
ソニーマガジンズ
2002-09



1、ウェストバージニア州という土地

まずは、この本の舞台となっている「ウェストバージニア州」という土地に関して、である。

UFOファンには広く知られているように、この土地ではこれまでいろいろ奇妙な事件が起きてきた。本書がメインテーマとして取りあげている1966ー67年の「モスマン」騒動というのも当然その一つであるが、たとえば「3メートルの宇宙人」が出現したとされる1952年のフラットウッズ・モンスター事件なんていうのもまた名高い事件である。

*余談ながらこれは英語では10-foot-tall monsterみたいな表現が一般的であるようで、ちょうど10フィートというゴロの良さが知名度アップという面ではかなり有効だったのではないかと思う。と同時に、これはメートル表記でいっても「3メートル」となるので大変区切りがよろしい。これが仮に「身長3.5メートル」だったら我が国でもずいぶんと訴求力が削がれたのではないか*

まぁそんなことはどうでも良いので話を元に戻すと、こういう歴史があるが故に、我々UFOファンは「ウェストバージニア州というのは何だかそういう因縁のある土地柄なのではないか」というイメージを抱きがちである。で、この点に関してキールは追い打ちをかけるように、すかさず次のようなことを言うのである。



ウェストヴァージニアについて、インディアンたちは何か知っていたにちがいない。なにしろ彼らはこの土地を避けていたのだから。ヨーロッパ人がガラス玉や火酒や火薬を持ってやってくる以前、インディアン諸部族は北米大陸中に広がって、分割支配していた。(中略)それなのに地図上でただ一か所だけ、"無人地帯"と記された場所があるのだ。それがウェストヴァージニアなのである。(83p)


つまり、この辺りは昔から何だか薄気味悪い場所だったのでネイティブインディアンたちも敬遠していた土地なんだよ、ということを彼は言っている。何だかマユツバのような気もするのだが、ともかくそうやって読者をさりげなく誘導していくのがキール一流のストーリーテリングである。

ついでに、「そもそもウェストバージニア州というのはどういう土地としてイメージされているのか」というのはオレも全然知らんかったので今回改めてググってみたら、こんなことを書いているサイトがあった。



ウェストバージニア州はアメリカ国内では悪名が高いことで知られており、なかでも貧困ランキングでは毎年ワースト5に入るほどの常連です。また、世帯平均年収においてもアーカンソー州やミシシッピ州など南部の州と同様に全米で最低ランクと言われています。

ウェストバージニア州では州民の4人にひとりは肥満体質とされており、全米で最も喫煙者が多い州としても知られています。さらに、他州では通じない独特な英語や単語が日常的に使われており、ウェストバージニア州の人たちはアメリカ国内で無教養な白人に対する侮辱的な言葉である「Hillbilly」と言われることもあります。

ウェストバージニア州はバージニア州から独立した背景があり、アメリカでは東部のカントリーサイドと揶揄されることがあります。貧困で不健康な白人が多いイメージから侮辱的な見方をされてしまいがちですが、自然に溢れ人々の優しさが残る古き良きアメリカの姿が残っていることが特徴です。(サイト「公務員総研」より)


うむ、最後にちょっぴりフォローしているとはいえ、ずいぶん盛大にディスっておるなァというのが正直な感想である。アメリカの東部のほうだというので何となくハイソな感じの土地なのかと考えていたら全然違ってて、お上品な方々はあんまり住んでいないようだ。東京でいうなら足立区や葛飾区、江戸川区みたいなイメージか。

だがしかし、オレなんかは「いーじゃん、気取ってなくて」と敢えて擁護したいところもあり、なおかつそういう怪異の地ということであるならば尚更に魅力があるンではないかとも言いたい。

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2、怪異の場としての「学校」

この本ではモスマンにまつわるストーリーに限らず、1966-67年頃に一帯で起きた奇妙な出来事も広く紹介されている。とりわけウッドロウ・デレンバーガーという人物がいつもニヤニヤ笑いをしている「インドリッド・コールド」という「宇宙人」とコンタクトした話は有名で、この件についてはかなり詳しく書いてある。が、そういう耳目を引くストーリー以外にも「おや?」と思う記述はあるワケで、それはたとえば以下に引用するような事例だ。


一九六六年三月、ある美人の主婦(本人の匿名希望により、ここではケリー夫人としておく)がポイントプレザントの学校付近に車を停めて子供たちを待っていると、信じられないような代物が低空に浮かんでいるのが目に入った。きらきら輝く金属的な円盤形物体で、校庭の真上に停まっている。縁の部分にドアみたいな割れ目が開いていて、その外に人が立っていた。戸口に立っているのではなく、その物体の外の空中に立っているのだ! 体に密着して銀色のコスチュームをまとい、これまた銀色の非常に長い髪を垂らしている。(66p)


これはモスマンとは違う、ごくフツーの人間とみまがうような宇宙人(?)の出現譚であるが、おそらくはこの事例なども踏まえて、彼は別のところでこんなことも書いている。



学校の周辺には異常なほど多くの目撃例やいわゆるフォーティアン現象(論理的・科学的説明のつかぬ全事象をさす。超常現象研究の草分け、チャールズ・フォートの名にちなむ)が集中しているように見え、また目撃者中で最大の割合を占めるのは、七歳から一八歳までの学童や学生だからである。(220p)


偶然ではあるけれども、「UFOはしばしば学校周辺で目撃される」というテーゼは、オレがこの前たまたま買った「Schoolyard UFO Encounters」という本の主題にもなっている。

「学校の怪談」ではないけれども、子供たちが集団で行動している場には何故か「怪異」が引き寄せられてしまうのではないか。そんな連想が働く。むろんUFOの集団目撃といった事例であれば集団ヒステリー的な心的メカニズムで説明がつくケースも多いのかもしれないが、こういうキールの指摘には何となくザワザワっとした感情が掻きたてられるのも確かだ。

ちなみにキールが記しているこのケリー夫人(仮)の体験談は上記の「Schoolyard UFO Encounters」でも取りあげられている。逆にいうと、この本の著者のプレストン・デネットさんも、キールを読んでてその辺りに気づかされたのではないか、と想像したりする。何げない片言隻句からさまざまなイメージが膨らんでいく。こういうところがキールの真骨頂である。

というわけでキールの文章には、噛みしめれば噛みしめるほど味が出てくるスルメのようなところがある。もう死んじゃったけれども、UFOファンとしてはちゃんと読んでいきたい作家の一人であることには間違いない。




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異界のものたちと出遭って

エディ レニハン
アイルランドフューシャ奈良書店
2015-06-12




これが原著のようである↓)

皆さんよくご承知のように、アイルランドには妖精がつきものである。オレなどはそのあたりハッキリいって無知なのだが、たまさかオレの好きなUFO研究家、ジャック・ヴァレが『マゴニアへのパスポート』で「UFO現象と妖精譚はどこか似ているよネ」というテーゼを打ち出し、その本でアイルランドの妖精にかかわるストーリーを論じていたりする。これはまぁそちら方面も最小限のお勉強をせねばならンなあと思っていて、そんなところで出会ったのがこの本である。

発行所が「アイルランドフューシャ奈良書店」となっていて、その実体がよくわからんのだが、一見したところ奈良辺りのアイルランド文化愛好家のみなさんが見よう見まねで作ってみた、みたいな佇まいの本である。翻訳も「あえて語り口を残した」的なことが書いてあったが、何を言ってるかよくわからん箇所が再々あった(失礼いってゴメンナサイ)。

いや、だがしかし、ひとたび読んでみるとなかなか勉強になるのだった。

書き手はアイルランドのエディ・レニハンという人(1950年生まれ)で、これまで地域に残る妖精伝説を丹念に収集してきた人らしい。そうしたお話というのは別にそれほど大昔のものではなくて、いま生きているレニハンさんが現実に聞き取ってきた「生きているはなし」なんだよ――というのが本書の売りであろう。

*ちなみに「編集」としてキャロリン・イヴ・カンジュウロウという人の名前が出ていてこの人の関わりが今ひとつよくわからんが、たぶん構成だとか表現だとかに口を出した人ということなのだろう(ちなみにこの人は弓師の第二十代柴田勘十郎という人の奥さんで、それでダンナの屋号?みたいなのを名乗っているらしい。もっとも原著のほうには Carolyn Eve Green とのみある)。

というわけで、本書には「聞き書き」のスタイルでいろんな話が載っている。前にも書いたようにオレはこのジャンルに暗くて、たとえば妖精学で名高い井村君江さんの本だって1冊だったか買った記憶こそあるものの積ん読でどっかにいっちまったほどである。なので、本書のおはなしには「なるほどー」「そうなんかー」と感心すること実に多かった。以下メモ的に記してみると――

■アイルランドの妖精はどっかキリスト教における「堕天使」と相互互換的な存在として観念されているらしい

■彼の地の妖精は異常なまでに「ハーリング」好きで、「人数が足りないので入れ」とかいって人間を誘ったりする(棒をもってやるホッケーみたいなスポーツ)

■妖精の「砦」と称されるものが野外にはあって、そこに足を踏み入れたり荒らしたりすると日本でいうタタリ的なものを喰って酷い目にあう。ちなみに「その砦というのはなんか石垣ででも囲ってあるのだろうか?」「なんで妖精の砦だとわかるんだろう?」などと考えてずっと読んでいたが、そのあたりは最後までよくわからんかった

■妖精の弱点。その一、鉄が苦手である。その二、流れる水が苦手なので川を渡ることができない

■妖精の親戚的存在にバーンシーというのがいて(女性であるようだ)夜中にその泣き声がきこえると誰か死ぬらしい

■妖精封じの術をもつ人物というのは実在した。で、本書に「ビディー・アーリー」という女性にまつわる伝説がたんと出てきたので、ついついググってしまった。
その Biddy Early(1798-1874)は、ハーブを用いる、いわば民間の「薬草師」として地域の人々に半ば頼られつつ恐れられた人物だったようだ。が、カトリック勢力からは煙たがられたようで、1865年には魔女狩りの法律で告発されたという。面白い!
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これがビディ・アーリーさんらしい

■妖精たちに掠われていったところで食事をしてしまうと、もう人間界には戻れない。これは古事記の黄泉戸喫(よもつへぐい)をはじめとして、各地の神話・伝説によく出てくるモチーフでありますナ


・・・といった感じで、なかなか興味深い話が満載である。そして、とりわけ印象に残ったのは「アイルランドの妖精というのは一般にイメージされるような愛らしい存在などではなく、人間にとって非情に危険な存在である」という著者のメッセージである。それは上記の『マゴニアへのパスポート』でオレが学んだことでもあったわけだが、本書の最後に紹介されたストーリー――それは妖精の砦に畑を作ってしまった男が恐ろしい報復に遭う話なのだが――へのコメントとして、レニハンが明確に述べているところでもある。以下、引用したい。


アイルランドの妖精たちは、透き通った羽根ときらめく魔法の杖を持ち、抜け落ちた歯を枕の下に取っておく子どもたちに優しくお金を置いてくれる可愛い小さな生き物だとまだ思いたがっている人がいたら、この最後の話はそんな感情を払拭してくれるだろう。

この話が伝えるメッセージは、直截的で、明確で、詳細には身の毛がよだつ。知ったかぶりをして妖精の持ち物にちょっかいを出す人は、どういう結果になるかを覚悟しなくてはならない。









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死の海

後藤 宏行
洋泉社
2019-08-07


「オカルトめいた話も語り伝えられている不可解な事件・事故」というのはなかなか興味深いジャンルであって、最近でいえばさまざまな不思議現象・事件を扱って話題になった松閣オルタ著『オカルト・クロニクル』なんかでもこういうジャンルは一つの柱になっていた。

そのような事故の一つとして名高いのが1955年に三重県・津市で起きた

「中河原海岸水難事故」

である。

そもそもこれはどういう話かといえば、津市の中学校が夏のある日、海岸で水泳の授業をやっていた。ところがそのとき、女子生徒ばかり100人ほどが突然溺れ、36人が亡くなった。異常な潮流が原因とか何とか言われているようなのだが、最終的にはそのあたりはハッキリしていない。ただ、その時溺れかけた或る女生徒が「海中に突如出現した防空頭巾・モンペ姿の女性たちに脚を引っ張られた」という証言をした(というか、そう報じられた)。――ちょうど終戦から10年後のことである。戦時下に非業の死を遂げた人々の怨霊がこの大惨事と関係あるんではないか。以来、この事故はそんな言説とともに語られてきた。そういう話である。

いや、先に「名高い」と書いたけれどもオレなどは何となく薄ボンヤリと聞いた記憶があるような・ないような――といった程度の認識しかなかったワケだが、一昨年9月に放送されたNHKの「幻解!超常ファイル22 戦慄の心霊現象 追究スペシャル」でこの事故が取り上げられた。これを観ていたオレは「なかなか興味深いじゃねーか」と思い、だからこそこの件を調べた新刊刊行との報に「あぁアレか、じゃあ買わんといかんなー」といってさっそく注文をしたという次第なのだった。

で、ここであらかじめ結論だけ言ってしまうと、これはとても良い本であった。

先にNHKの「幻解!超常ファイル」について触れたけれども、実はその際、番組に現地で調査をしているルポライターとして登場していたのが著者の後藤宏行氏である(実際に録画を見直してみたら確かに出演していた。恰幅の良いおじさんである)。

処女作ということで、本書にはこの後藤氏の来歴などもチラチラ書かれているンだが、それによると著者はこの事故の舞台である津市に住んでいるようで、一方、怪奇現象みたいなものにはもともと興味があってライターとして活動していた時期があった。そんな因縁コレアリで、地元のこの事故については昔からチラチラ取材をして記事を書いていたというような経緯があるらしい。

そんな過去の記事をみたNHKの番組スタッフがいて「幻解!超常ファイル」の放送へと至り、さらには今回の出版へという流れがあったみたいなのだが、そういう意味では著者は本件については最適のリサーチャーということになるのであろう。

内容的にも説得力がある。ネタバレになるのでハッキリは書かないが、いわゆるオカルト的な解釈を本書は「粉砕」している。加えて、事故が地域社会に及ぼしたインパクトを深掘りしており、そのオカルト的解釈の出現を社会・歴史的文脈から読み解く試みをしている。

たまさかUFOファンであるオレは「UFO研究には証言や物理的データを押さえるだけじゃダメで、事件の解明にはその文化・社会的背景も必要だ」という考えを持っているのだが(→このあたりを参照されたい)、著者が取っているアプローチはまさにそういうものである。

ちなみに著者はかつて国会議員の秘書をやっていた経歴があるらしい(余談ながら新進党→自由党→民主党というキャリアで三重県の政治家というと、たぶんこれは故・中井洽だろう)。これはオレの偏見かもしらんが、政治家秘書というのはロマンとか夢みたいなものは一切お呼びでないクソリアリズムの世界に生きている。つまりこの著者は、オカルト的なモノに興味・関心を抱きながらも、しかし一方では夢も希望もないハードボイルドなクソリアリズムの世界をも熟知している稀有な人物なのではないか。そんなキャリアが本作にとっては実に良い方向に出たのだと思う。

途中で哲学者とかの言葉をエピグラム風に挿入したりするのはあんまり効果的でないので止めたほうがイイ、とか若干思うところはある。けれども本筋はたいへん結構かと思う。

この手の怪奇系寄りの話題となると「売らんかな」でいろいろ「盛ってしまう」のが従来のメディアの大いなる欠点である(著者自身もさりげなくその辺りを批判している)。地方在住ともなるとなかなか難しいのかもしれないが、こういうトーンで「次作」を読んでみたい気がする。

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枯れ木も山の賑わいという言葉もあるので、やはりむかしmixiレビューに書いた短い感想文をもう一本載せておこう。著者の芹沢一也氏はのちに「SYNODOS」を立ち上げた方。まだ編集長とかやってんのかな?




なかなか興味深い本でした。最近よく聞く「凶悪犯罪は激増している」言説は実は本当ではない、というところから説き起こし、じゃあなんでそんんな話になっているかというと、かつては犯罪の動機が「貧しさゆえ」とか非常にベタで了解しやすいものだったのに、最近はその手の了解が困難になってしまったから、「え~ぃ、もう動機云々なんて考えンのはやめた、とにかく訳のワカランモンスターどもを何とかしろ~」という気分が盛り上がっとる、と。

で、精神障害者やいわゆる荒れる若者を怪物視して、「どっかに囲い込んでしまえ」という風潮が広がってるのは憂慮すべきことである、とまぁ、非常に荒っぽく要約するとそういう本です。

まぁおおむね同意できる議論なンですが、一つだけ疑問を呈しておくと、この著者は精神医学に全く信を置いていないようで、それってどうよ、と思うところはある。

私の読み取る限り、彼はこんな事をいっている。――いわゆる人格障害なんていうのは「病気」ではなくて人格的な偏りであるわけだから、そこに法的な措置の網をかぶせる時にはどうしても恣意性が入ってくる。それでいいのか…。

しかし思うに、精神医学の概念といったものは厳密な自然科学的な根拠がなけりゃ恣意的だ、とまで言い切れるのかな、って個人的には思う。

いわゆる分裂病だって、代謝物質の異常といったレベルでメカニズムが明らかになってくる以前には、例えば精神科医が「これはどうしたって分裂病だ」みたいな、ある種の現象学的直観でそこそこ妥当な診断ができていたわけでしょ。なんか、かつて流行ったような反精神医学的なロジックがちょっと鼻についた。でマイナス1。(2006年06月08日)

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定期的になんか書こうと思うのだが、どうも気合いが乗らない。なので、今回はむかしmixiレビューに書いた短い感想文を転載しておこう。ちょっと触れているように、確かヒトの本から無断剽窃かなんかして話題になった曰く付きの本。絶版になったのか、あるいはただ品切れ扱いになってるだけなのかはよくわからない。基本的な方向性はけっこうイイ線行っていたと思う。




「と」学会の有力メンバーにして、「トリビアの泉」のネタ元としても名高い雑学王、唐沢俊一氏によるUFO本だというので期待して購入。

UFOをボルト&ナットの宇宙船と思ったら間違うよ、あれは人の「なんかUFOでもあったらいいな」的な願望が脳内に(w)飛ばしているものなんだよ、といった趣旨で、ほぼ全面的に同意。『何かが空を飛んでいる』の流れを汲む好著といえよう。もっとも「脳内現象」といいきるのが憚られるような不思議な現象がUFOにはつきものであり、そのあたりのダークサイドについてはイマイチ突っ込みが甘い感は否めない。もっとも新書だし、そこまで求めるのはないものねだりだろう。

ひとつ、この本の一部にブログからの剽窃疑惑がもちあがっているのは残念。万一回収にでもなったらあれだから、早めに入手されるがよかろう。(2007年06月08日)

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オカルト・クロニクル」といえば、もう何年前であったか、オレがウェブ上で偶然に遭遇したサイトであった。

一読、魅了された。オカルトという括りがいいのかどうかは知らんが、未解決事件や怪現象、奇人伝といったものなども含めてミステリアスなお話を世界各地から渉猟し、書籍・ウェブなどフルに活用して調べ上げた報告が山盛りである。

で、加えて特筆すべきはその主宰者・松閣オルタ氏の文体である。

そこにあるのは「ミステリーって大好きなんだよなー。けど、ま、オレもそんなマジで信じてるわけじゃないから」的な、いわば斜に構えた姿勢であって、謎に惹かれる自分を認めつつ同時に「そうそう簡単に信じてたまるか」的なツッコミを入れる。諧謔に満ちたノリツッコミ文体といえばよかろうか。そこに生じるのは自らをも客観視するところに生まれるユーモアというヤツである。

考えてみると「信じたい。が、信じられない」的なこの二律背反的感覚というのは、おそらくは子供時代に1970年代のオカルトブームの洗礼を受け、だが長じるにつれて「そうはいってもそんなのHOAXだよなあ」という「常識」に屈してきたオレなどの世代からすると、相当に普遍的なものがあるような気がする。だからこその魅力、ということになるのだろう。松閣氏はしばしば読者に対して「諸兄」などと呼びかけているのだが、多くの人々が「あぁオレもその<諸兄>の一人だわ」と思ったであろうことは疑いない。

そんなクオリティの高いサイトであるだけに、オレなども以前、これは本にするべきだなどとツイッターに書いていたのだが、今回それが本当に本になってしまった。


ほとんどはサイトの記事の再録ではあるのだが、寄る年波で老眼が進み、かつ眼精疲労に悩まされているオレなどからすると紙ベースの本はやっぱり読みやすいし、そもそも細かい内容は忘れてしまっている(笑)。書籍化は実に慶賀すべきことである。

で、感想文などと称してはいるが、なんかここまで書くのに疲れてしまったのでもう内容には触れないけれども(笑)「この世界の現実はほんとうに現実なのか。そこには何かまだウラがあるんじゃねーか。だがそうそう簡単には納得しねえからな証拠だしやがれこのヤロウ!」などと心中に思うところのある人はぜひ読んで頂きたい。そこには「現実ならざるもの」へと至る極めて細い糸がいまだ奇跡的に残されている、ようにも見えるから。

なお、「あ、わりぃ、オレはサイトで済ませるわ」という人もいるかもしらんが、著者の今後の調査活動の継続を願うのであれば「お布施」的に書籍を買うがよろしかろう。取り上げている項目についてはアマゾンのサイトなんかでも見られるけど、以下、参考のために目次だけ掲載しておこう。



もくじ
はじめに
――信奉者はタフなロマンを! 信奉者の敵は懐疑論ではなく安易な否定論だ!

ディアトロフ峠事件
――ロシア史上最も不可解な謎の事件

熊取町七名連続怪死事件
――日本版『ツイン・ピークス』の謎

青年は「虹」に何を見たのか
――地震予知に捧げた椋平廣吉の人生

セイラム魔女裁判
――はたして、村に魔女は本当にいたのか……

坪野鉱泉肝試し失踪事件
――ふたりの少女はどこへ消えたのか……

「迷宮」
――平成の怪事件・井の頭バラバラ殺人事件

「人間の足首」が次々と漂着する“怪"
――セイリッシュ海の未解決ミステリー事件

「謎多き未解決事件」
――京都長岡ワラビ採り殺人事件

ミイラ漂流船
――良栄丸の怪奇

科学が襲ってくる――
フィラデルフィア実験の狂気

岐阜県富加町「幽霊団地」
――住民を襲った「ポルターガイスト」の正体

八丈島火葬場七体人骨事件
――未解決に終わった“密室のミステリー"

獣人ヒバゴン
――昭和の闇に消えた幻の怪物

ファティマに降りた聖母
――7万人の見た奇蹟

赤城神社「主婦失踪」事件
――「神隠し」のごとく、ひとりの女性が、消えた


で、オシマイに書き残したことを若干。

■ これはアマゾンレビューなんかにも書いてた人がいたが、特に事件モノについての記述というのは得てして「ゲスい」感じに陥りがちなのだが、著者はその辺なかなか抑制が効いていて、ふざけた感じの文体とは裏腹に実は倫理感の高い方だとオレはにらんでいる。そういう意味でもオススメ

■ 著者はイラストの才もお持ちのようで、ウェブ版をみると美麗なイラストを多数掲載しておられる。書籍版のほうではさすがにそういうビジュアルは(一部小さく載ってるんだが)ほとんどプッシュされておらず、まずは書籍を買ったという方もサイトをお訪ねになると良い。本に載っていないネタもいっぱいあるし

■ オレからすると、今回の書籍にはあんまりUFOネタが出てこなかったのが残念であった。が、「UFO冬の時代」なので編集者目線からするとその辺は仕方ないのかもしれない。続刊があればヨロシク、といったところであろうか

■ 編集者といえば、オレが買った初版では冒頭のまえがきでいきなり文法的にヘンな言い回しを発見したのだが、編集者とか校閲とかはゲラの最初の数ページぐらいはちゃんと気合入れて読むものではないのか(途中でダレるのは理解するw)。「本が売れねーんだYO! 労働強化されてンだYO! 徹夜続きなんだYO! それどころじゃねーんだYO!」ということなのか

■ これはどうでもいいことだが、参考資料の項目にオレのこのサイトがチラッと載っていて、こんな人外魔境サイトにまでいちおう仁義を切って頂いたというところからして著者は人格者であるに違いない

(おわり)

























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在野の奇譚収集家がコツコツと集めた怪奇現象の「おはなし」を事典形式の本にした『日本現代怪異事典』をようやく読み終えた。


もともとコミケか何かに出して評判になり、それがきっかけで刊行された本らしいが、500ページもあって読み応え十分。というか、もう年も取って記憶力が減衰しているので、読んでるうちに最初の方の話を忘れていってしまうという体たらくである。

まあそれはそれとして、大変な労作であり、著者の健闘をたたえたい。

以下は読んでいて思ったことのメモ。

■校閲の甘さが惜しまれる
 これはツイッターのほうにも書いたが、校閲の確かさは事典の生命線である。かなりのミスが散見されたのは惜しまれる。

■松谷みよ子は偉い
 こういう本なので、先人の業績からの引用がキモになる。そういう目で見ると松谷みよ子の『現代民話考』が再三引用されており、長年こういう奇譚を集めてきた松谷さん偉かったなあと改めて思う。あと、渡辺節子/岩倉千春『夢で田中にふりむくな―ひとりでは読めない怖い話』という本もたびたび文中に出てきて、何だか非常に面白そうなのだが、こちらは絶版で入手困難であるようだ。残念である。

■「怪異」ということば
 これまたツイッターで書いた話であるけれども、タイトルにもなっている「怪異」というのは、フツー「奇怪な現象」ぐらいの意味で使われると思うのだが、この本の中では幽霊狐狸妖怪のたぐい、つまり何らかの人格的な存在をもあわせたあれやこれやをも総称して「怪異」と言っている。
 日本語としては、やっぱ何か奇異な感じがする。じゃあ、それにかわるワーディングがありうるかというとなかなか難しいのではあるが。

■地元の怪異
 オレはいま東京の郊外に住んでいるのだが、通勤に利用している某東京メトロの路線にかかわる「怪異」が一つ紹介されていた。いわゆる「異界駅」の話である。まったく歴史的な陰影のないところを突っ切って走る鉄道でもあり、この手の奇怪な話にはまったくそぐわない土地柄なのだが、人間の想像力というのはそういう空虚な土地にも何かを読み込むことができるだとすれば、それはそれで大したものじゃないか、と思ったりした。

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UFOは…飛んでいる!

ジャン-ジャック・ヴラスコ
宝島社
2008-02-21




このあいだ古本で買ったジャン-ジャック・ヴラスコ&ニコラ・モンティジアニ『UFOは…飛んでいる!』(2008年、宝島社)をとりあえずザッと読んだので、今回はその感想文。

著者のジャン-ジャック・ヴラスコというのはフランスの公的UFO調査機関のトップだった人物である(もう一人著者として名前の挙がってるニコラ・モンティジアニというのはどういう素性の人物かわからんが、おそらくライターか何かで、ヴラスコの話を聞いてこの本を実際に書いた人間ではないかと思われる。この本ではまえがきを署名入りで書いているほか、末尾にヴラスコへのインタビュアーとして登場してもいる)。

そもそも「フランスには公的UFO調査機関がある」という話は、UFOファンであればしばしば耳にするところである。だが、ご承知のように日本のUFO研究っつーのはだいたい米国方面ばっかり見てるから、そのあたりの事情が日本に紹介される機会というのはあんまりない。そういう意味で、この本はなかなかに貴重なものであると思う。

閑話休題。本書によれば、そもそもフランスには「国立宇宙研究センター」(CNES:クネス)なる機関がある。言ってみれば、米国におけるNASA、日本におけるJAXAみたいなもんと考えれば良かろう。

で、このクネスの中に1977年に開設されたのがGEPAN(ジェパン:宇宙空間における未確認の現象に対する研究を行うグループ)である。ここではUFOと言わずにフランス語のPANなるコトバを用いているので、GE"PAN"という言い方になるようであるが、ともかく「UFOとはなんぞや」を調査する部局である。

これが1988年に改名されてSEPRA(セプラ:宇宙空間における気象現象を調査する部局)、2005年にはもう一回名前を変えてGEIPAN(ジェイパン:大気圏内における未確認の現象に関する研究および情報収集を行う専門部署)となる。やってることは別に変わってないということのようだ。以上をまとめてみると次のようになる。

1977 GEPAN(ジェパン)発足
1988 SEPRA(セプラ)に改名
2005 GEIPAN(ジェイパン)に改名

この部局の代表者は最初は天文学者のクロード・ポエル(UFO関係の話ではたびたび出てくる人だ)であった。これが、発足翌年の78年にはエンジニアのアラン・エステルに変わる。で、83年に三代目として登場したのが、このヴラスコであった(ちなみに彼は、GEPANの発足時から光学エンジニアとしてその活動に参画していたようである)。

で、2005年に組織がGEIPANへと再編され、代表にエンジニアのジャック・パトネが就くまで、彼はその職責を全うする。つまりヴラスコは、GEPANジェパン時代からSEPRAセプラの最後までの計22年間にわたってフランスのUFO研究の最先端にいた人物で、そういう人物がUFOをどう見ておるのかというのが本書のキモになるわけだ。

ここでは詳細をすっ飛ばして言ってしまうけれども、彼の主張というのは、「(目撃者の)証言が正確で首尾一貫しているけれども、現在の科学では説明できないもの」(彼はこれをカテゴリー「パンD」と呼んでおる)というのは一定のパーセントで確かに存在するわけだが、おそらくそれらは外宇宙から飛来したものであって、そして、その動機はおそらく人類の生み出した核兵器への関心と結びついている――というもののようだ。

「ああET仮説なのかこの人は」と感心しながら読んだのだが、それはそれとして、細部にもいろいろ面白く読んだところがある。

■その方法論
彼は、GEPANの調査方法について「四面体モデル」であると言っている。つまり探求すべきポイントとしては①証言②証人③物理的データ④文化・社会的背景――の4つがあるという。

ま、証言内容を吟味し、証人が信頼に足る人物かどうかを確認し、物理的証拠を探す、というのは当然のことだが、「文化・社会的背景」というのは確かに忘れられがちなポイントである(たとえばヒル夫妻は当時は珍しかった黒人夫&白人妻のカップルとして日常的に凄いプレッシャーを抱えていた、みたいな側面だろう)。これはとても良いことを言っていると思う。

■レーダー重視
あと、GEPAN、SEPRAではことのほか航空機のからんだレーダー&目視事例を高く評価してきたことがわかる。やはり航空関係者の証言だとか物証としてのレーダー記録だとかは相当な程度まで信頼性を担保するから、そのへんのスタンスにはさすが「国家機関なんで(`・ω・´)キリッ」という雰囲気がないではない(ちなみに、そういう文脈で寺内謙寿機長の日航機アラスカ事件なんかも中に出てくる)。

■フランスの事例
上に書いたように、レーダー事例はワシントン上空乱舞事件はじめ積極的に紹介しておるのだが、必ずしもそのへんにこだわらず取り上げた事例もある。中にはソコロ事件なんかもあるが、注目したいのは地元フランスの事例である。フランス政府がUFOと認定した3ツの事例(笑)を紹介する章があって、これはなかなか面白い。具体的にいうとそのうち2ツは着陸事例で、1982年10月21日のナンシー事件、1981年1月8日のトラン・ザン・プロヴァンス事件。もうひとつは1994年1月28日のエールフランス機事件である(最後のはレーダー事例でもある)。

■フランスからみた米国
この本はけっこうUFO研究史みたいなところにも触れてて、つまりは必然的にアメリカの調査機関とかの歴史的展開についても書いている。で、ひとつ面白いなと思ったのは、米連邦議会調査局の科学技術アナリスト、マーシャ・スミスなる人物が同局の依頼を受けて作成したという調査文書「UFOの謎」(1976年3月)に高い評価を与えていることだ。


UFOを決して認めようとしない人だけでなく、UFO肯定派の人々も、スミスの文書を無視してきた。私には、このことが不思議でならなかった。UFOの歴史を偏りなく網羅したこの文書は、第一級の資料である。これを読めば、素人の読者もUFOについて客観的な見方を育てることができるだろう。(142ページ)


ここまでベタ褒めしており、実際に1981年にはGEPANとしてこの文書を仏訳したとか書いてある。恥ずかしながら、オレなんかもこの文書のことは知らんかったが、ネットにはそれらしきものが上がっている。「フランスからの視点」的なものが何か意味をもってたりするのかな、と思う。いつかこれも読んでみたいものだ。

あと、カール・グスタフ・ユングがNICAP(全米空中現象調査委員会)に入っていたというような話もあって、本の最後にはNICAPの首領、ドナルド・キーホーにユングが送った手紙なんてものまで出てくる。大西洋を超えたUFO史みたいなものがあったんかなぁなどといろいろ想像に誘ってくれるところも、この本の面白いところであろう。(おわり)


【追記】
なお、日本のUFOファンの間には、「このGEIPANというのは何と読めばいいのか問題」というのがあって、つまりフランス語に堪能なUFOファンというのはあんまり居ないというのがその背景にあるのだが、これについては「ジェイパン」説と「ゲイパン」説がある。

本書はいちおうフランス語に堪能な人が訳したと思われるのだが、ここでは「ジェイパン」としておる。ところが、やはりフランス語に堪能で現地に住んでいるとおぼしき人の書いたこのブログでは「ゲイパン」としている。

アメリカのイーグル・リバー事件における目撃者 Joe Simonton が「シモントン」なのか「サイモントン」かに次ぐ大問題といえる。

が、よく考えたら天下のNHKがたしか「幻解!超常ファイル」で、この部局の人の取材をしていた記憶がある。それを視聴すれば「天下のNHKがどういっているか」で、この問題はいちおうの決着をみることにいま気づいた。誰か見てきて。











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ジュリア・ショウ『脳はなぜ都合よく記憶するのか』読了。



 

「記憶とは何ぞや」という問題にはずっと関心があった。当ブログのメインテーマと関連づけていえば、それは実はUFOの問題なんかとも密接にかかわっている。とりわけUFOに絡むアブダクション事件、つまりエイリアンによる誘拐事件というのは、「悪夢に悩まされるようになった人が退行催眠を受けたところ、エイリアンに掠われた記憶を思い出す」といったパターンで明るみにでるケースが多い(その嚆矢といわれる1961年のヒル夫妻事件からしてこのパターンだ)。

しかしこの手の話では、「そうやって思い出した記憶は本当にあったことなんだろうか?」というツッコミが必ず入る。確かに催眠術をかけられた人は暗示にとてもかかり易くなるという。施術者のさりげない言葉で話を「作ってしまう」危険は広く指摘されているところである。

というわけで「記憶ってヤツはけっこう怪しいんじゃねーの?」という認識はUFOファンが常に心しておかねばならぬ常識である。だからオレもたまにそういった虚偽記憶の研究をしている認知心理学者のエリザベス・ロフタスあたりの本を読んできたりしたのだった。そんな流れで読んだのが今回のこの本である。

著者のジュリア・ショウはイギリスの記憶研究者だそうだ。本のカバーの著者近影ってヤツをみるとかなりの美人であるが、本の中身の方もとても良かった。けっこう文才がある人のようで、素人にも平易に読める。脳科学から認知心理学まで、ここ数年の間に出た研究論文なんかもいろいろ紹介しているから、たぶん本作には最新の研究成果がコンパクトに詰まっているのだろう。ちなみに原著『THE MEMORY ILLUSION』は昨年2016年の刊である。

さて。ひと言でいってしまうと、「記憶ってのは全然安定したものじゃなくて、簡単に改変されちゃう、実にあやふやなものなんだよ」というのがこの本の主張である。脳内における記憶のシステムというのは何だかよくわかってないところが多いようだが、どうもこの本を読むと、記憶というのは「客観的なデータ」みたいなものが脳味噌の中に収まってるんじゃなくて、脳内のいろんなニューロンを連合させてそのつど「創造」されるものと考えた方がいいらしい。そのつど作るンであれば、いろいろ歪んだりぶれたりするのも当然である。

であるからこそ著者は「あなたの小さい頃、こんなことがありましたね?」というニセの記憶を植えつける実験なんかもやっておるわけで(ロフタスなんかもやってたようだが)、しかしそれはこういう研究者にとってみればいとも簡単なことなのだった。

で、紹介されるエピソードがいちいち興味深い。

例えば、自分で体験した出来事を文章に書きだしてみると、その後の記憶はこの「書いた文章」に引っ張られてしまい、かえって不正確なものになっちまったりする、という話がある。「経験した記憶」を「記述した記憶」が押しのけてしまうという理屈で、「言語隠蔽効果」と言うそうだ。狂牛病の時に「悪玉」として有名になったプリオンなんてのも、実は長期記憶のために重要な役割を果たしてるンだって。初耳であった。

あるいは、SNSばっかりやってると、人の体験を自分のものと混同しちまうような事もあるらしい。記憶は「伝染」したり、あるいは「汚染」されたりするンである。「サブリミナル学習」なんかも全然効果ナシ。例の退行催眠にも触れているけど、これも大ウソと断言する。実に小気味良い。

あと、「フェルスエーカーズ事件」というのが紹介されていて、これは子供たちの証言で託児所の職員が逮捕された「幼児虐待」事件なんだが、どうやら子供たちは「ニセ記憶」を植えつけられていたらしく、以前読んだローレンス・ライト『悪魔を思い出す娘たち』を思い出した。そこから引き出される「証言頼りの犯罪捜査ってえのはホント危ねえんだよ」という主張も実に正当である。

こういう最新科学の成果を教えてくれる啓蒙的な本というのは実に大事であると改めて痛感した次第である。

最後に一つ気になったことを。本書では
「過誤記憶」という言葉が使われていて、これは FALSE MEMORY の訳語であると思うのだが、これまで多くの本は「虚偽記憶」という訳を用いてきた筈である。ウィキペディアをみたら、「虚偽」っつーと何か「嘘つき」みたいなイメージが連想されるので宜しくない、ということで新しい訳語が登場したということらしい。解るけれども、なんかひと言説明欲しかった。

あ、そうだもう一つあって、この本は「原注は講談社のホームページから落としてください」みたいな事が書いてあって、本の中にはその原注が無い。 せいぜい10ページかそこら、何とか入れられなかったのか、こういう本作りでいいのかと小一時間説教をしたい気分である。が、意外と最近はこういう本作りが許されちゃったりするのであろうか?
 
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これが Julia Shaw。美形でアル。


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あんまり放置しているのも何なので、むかし「mixiレビュー」に書いた感想文を転載しておこう。よいお年を。



著書自身も語っているように、この本が俎上に上げているのは決して「UFOの正体とは何か」といった問題ではありません。UFOという現象の「語られ方」が時代とともにどのように変わってきたかを論じ、いわばUFOを鏡としてワレワレのモノの考え方、時代思潮がどう変わってきたのかを考えようという本です。まぁ言ってみればUFO現象をサカナにした社会・文明評論といったものなのですが、しかしなかなかユニークな本ではあります。

非常に強引に要約してみましょう。ケネス・アーノルド事件から1970年代はじめにかけてのUFOシーンというのは、「進んだテクノロジー」をもつ「宇宙人」が宇宙船に乗ってやってきているのではないか的な発想を総じて持っていた、と。「科学の進歩」が素直に信じられていた時代であり、「進んだ宇宙人」と「遅れた地球文明」の対比で奴等をイメージしていたというんですな。つまり進歩を信じられた近代主義の時代特有の「円盤」観であった、というのですな。もうひとついうと、古くはこの近代主義にみられる「何か確固としたよりどころがある」とゆー世界観を支えたのは「宗教」だったりしたわけだけど、それがこの時代には「科学」になっていたからこそ、高度に発達した文明の象徴としての円盤にみなナットクしたという話ですね。

それが73年ぐらい頃から、思想界におけるポストモダンの進行と相まって、ワレワレの周りでも「何か確固とした準拠枠みたいなもの」が崩れ始めた。大文字の「真実」なんてものはない、というわけで、そこから出てきたのがUFOシーンにおける陰謀説であったりする。アブダクションケースやらキャトルミューティレーションやら何か恐ろしげな企みに関係するものとしてUFO問題が語られるようになる。

著者は95年ぐらいからさらに事態は進展している、というのですが、そこから先に書いてあることは実はよくわかりませんでした。またじっくり再読してみたいのですが、とりあえずの印象でいえば、もはやこのポストモダン的な状況は変わることはなく、もはやUFOシーンにかかわる大きなテーゼなど成り立ちようもない、断片的な情報が浮遊するばかりの状況が続くのであろうというような事を言ってるように思われます。

著者はJ・G・バラードあたりを専門とする文学研究者のようですが、ともあれ変わり種のUFO本として(しかもメジャーな出版社から新書で出た、ということも含めて)一読に足る本とはいえそうです。



【2016/12/30時点の追記】
なお、アマゾンのレビューをザッと見てみたんだが、けっこう辛い点がついている。「方法論的に極めて粗雑かつナイーヴで、恣意的な素材に基づいて尤もらしい与太話を飛ばしている」みたいな評もあって、つまり「これは学者の書く評論じゃないだろう」という批判なのだろう。学術的じゃない、というか。
ただどうなんだろう、これは学術論文ではなくて、エッセイ寄りの評論みたいなもんじゃないのかな。「ナッツ&ボルトの宇宙船って流行らなくなったよねー、これって何か時代とリンクしてる感じあるよねー」という本なので、別に「検証」を期待しちゃったりするのは違うと思う。



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以下、ツイッターで書いたものの(ほぼ)再掲。
高橋昌一郎「反オカルト論」読了。

ハイズビル事件の立役者で、近代スピリチュアリズムの「創始者」ともされるマーガレット・フォックスが、婚約までした冒険家・医師のエリシャ・ケインから「降霊詐欺は辞めろ」と再三手紙を受け取っていたこと、そのやりとりを彼が早世した後「ケイン博士の愛の人生 The Love-Life of Dr. Kane」なる本で公開していたこと等々、知らん話が色々出てきて勉強になる。

彼女が1888年、新聞でトリックを告白したというのはよく聞く話だが、同年、ルーベン・ダベンポートがスピリチュアリズムを徹底批判する「デス・ブロウ・トゥ・スピリチュアリズム The Death-Blow to Spiritualism」なる本を出した際、全面協力していたという話も出てくる。これも知らなんだ。

STAP問題が出てくるなど「反オカルト論」というより「反科学論」ではないかと思わんこともないが、ササッと読めて面白い。なお、大川隆法によれば麻生太郎は「真田正幸」の生まれ変わりである(133p)というくだりがあるが、これは「昌幸」であろう。増刷時には修正されんことを。
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反オカルト論 (光文社新書)
高橋 昌一郎
光文社
2016-09-15



高橋昌一郎『反オカルト論』 (光文社新書)を読んでいたら、東大の進学ガイドブックに学生さんが書いた理学部数学科へのおさそい(?)のメッセージが引用されていた。以前どっかで読んだこともあるような気がしたが、ともかく次のような文章である。


東京大学理学部数学科

数学科に進学することは人生の多くのものを諦めるということである。言わずと知れた東大数学科の院試の難しさ、就職率の悪さ、学生間の関係の希薄さは言うまでもないが、加えて人間的な余裕をも諦めなければならない。数学の抽象度は日ごとに増し、数学科生は日夜数学のことを考えながら生きていくことを強いられる。某教授に言わせれば、『数学を考えようと思って考えているうちは二流である。無意識の夢の中でも考えられるようになって初めて一流である』だそう。そのような生活の果てにあるのは疲れ切った頭脳と荒廃した精神のみである。


一見とても自虐的なことが書いてあるのだが、しかし、本来の学問というのは「ありとあらゆる苦難を舐めてもなおその先を見極めたい」というやむにやまれぬ情熱に駆りたてられてやるものなのだということを暗に説いており、そういう人こそ数学の道に来て頂きたい、と言っているのである。なるほどこれは核心を衝いておるワイと思った。

そして、この言葉はおそらく、数学の研究者についてのみ当てはまるものではない。この文章の「数学」というところを他の学問に入れ替えても、その文意は十分に通じるのである(とりわけ「すぐには役立たない学問」を代入するとしっくりくる。哲学とか)。以下、○○に各自お好きな学問の名前を当てはめてお読み頂きたい。


○○科に進学することは人生の多くのものを諦めるということである。言わずと知れた東大○○科の院試の難しさ、就職率の悪さ、学生間の関係の希薄さは言うまでもないが、加えて人間的な余裕をも諦めなければならない。○○の抽象度は日ごとに増し、○○科生は日夜○○のことを考えながら生きていくことを強いられる。某教授に言わせれば、『○○を考えようと思って考えているうちは二流である。無意識の夢の中でも考えられるようになって初めて一流である』だそう。そのような生活の果てにあるのは疲れ切った頭脳と荒廃した精神のみである。


オレなども遠い昔、大学生だった時分には一瞬研究者を目指そうかと考えたことはあった。だが、やはり世俗的な欲望みたいなものを全部振り捨てて学問の道に進むような気迫や情熱は欠いていた。だからごくふつうの会社員になった。

そんなオレなどがいまさら外野からいろいろ言っても全く説得力はないのだが、最近とみに文教予算が削られて研究者の生活もかなり厳しいことになっていると聞けば、さすがに我慢にも限界はあるだろうとエールのひとつも送りたくなってくるのだった。

学者の皆さん、いろいろ大変だろうが
初心を忘れず頑張ってください!


「オカルト」がテーマのこの本の本筋からいうと若干わき道のほうの話なのだが、ちょっと琴線に触れるところがあったので書いてみた。


【追記】
なお、この『反オカルト論』 はまだ読み始めたばかりであるが、教授と助手の対談スタイルで書いてあって、幅広い人たちを対象とした啓蒙的な狙いの本のやうである(もともと週刊誌に連載していたものがベースらしい)。

とはいいながら、最初のほうに出てくる霊媒師、ミナ・"マージャリー"・クランドンのおはなしなどは、かなりスレているオレなどにとっても非常に勉強になった。

20世紀のはじめ、彼女は金持ちのお医者さんであるダンナと一緒にボストンでハイソな人々を招いた降霊会を開いておったわけだが、本書によれば、彼女はそこにノーパン&ネグリジェ的な格好で現れるのが恒例であり、そこではダンナが「身体検査」と称して賓客にヨメの体を触らせる、みたいな趣向があったようなのである。つまりこの降霊会、本来は、ヒマをもてあまして生活に刺激を求めていた有閑階級を対象に、特殊な嗜好(笑)をもつ夫妻が提供していた「おさわりバー」的な催しであったということらしい。

彼女は陰部に「エクトプラズム」のネタを仕込んでいた、みたいな話は、たしかステイシー・ホーン『超常現象を科学にした男』にも書いてあったけれど、この本を読むと「ヘンタイ」というかなんというか、もう困った人たちだと思う。

で、こういうストーリーの背景にはこのマージャリーさんがとても魅力的な女性だったという事実があるらしいのだが、ネットで写真を検索してみるかぎり、「なんで?そうなの?」という感想を抱いてしまったりする(今の基準からすると明らかなセクハラだろうが、真実探求のためなので許せ)・・・


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これが
ミナ・"マージャリー"・クランドンさん (1888–1941)




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塚田穂高著『宗教と政治の転轍点  保守合同と政教一致の宗教社会学』(花伝社)を読んだ。

今とても売れている菅野完『日本会議の研究』で、一部宗教団体のサポートを受けて日本の保守政治家に影響を与えているとされる「日本会議」への注目が高まっている折も折、そのあたりも含めてリアルな政治に戦後日本の宗教教団がどう関わってきたのかを気鋭の宗教社会学者が網羅的に描き出した研究書だというので、先日「東京ブックフェア」で二割引きで売っていたこともあってついつい買ってしまい、遅まきながら手に取ったという次第である(高かったけどw)。

オレ流に乱暴にまとめてしまうと、天皇制に親和性をもつ、つまり伝統的な保守・右翼イデオロギーに近いナショナリズムや世界観を有する教団であれば別に自前の政党を立ち上げるまでもなく自民党の右派政治家などと連携する「政治関与」を試みることが多いのだが、それとは異なる独自の教義・世界観を有する教団であれば政治団体を作って独自に「政治進出」を図ろうとする傾向がある。本書は、おおむねそのようなパターンが戦後日本の宗教―政治関係に見てとれることを論証しているのだった。

当然、話題の「日本会議」を下支えしてきた諸教団は「政治関与」系になるわけで、そういう文脈で「解脱会」や手かざしで知られる「真光」系教団などの取り組みが論じられている。

一方の「政治進出」系としては言うまでもなく「創価学会」が取り上げられているワケだが、そのほか「オウム真理教」「幸福の科学」はもちろん、「浄霊医術普及会=世界浄霊会」「アイスター=和豊帯の会=女性党」などというマイナーな組織も登場してくる。著者も本書のいろんな箇所で自慢(笑)しておるが、こういう大きな見取り図みたいなものを作った学術的な仕事というのはなかったようで、たいへんためになった。

以下はどうでもいいけれど読書中に感じたもろもろ(と若干の注文)。

一、書名にも入っている「保守合同」という言葉であるが、コレってふつうは1955年の自由党と日本民主党の合同のことを言う。その辺にポイントがあるのかなと思って読んでおったのだが、ところがいつまでたっても1955年の「保守合同」の話が出てこない。「なんで?」と首を捻っていたのだが、つまり著者は最終的に「日本会議」に結集する伝統・保守系宗教勢力の合従連衡のことを「保守合同」と言ってるみたいなのだった。これはワーディング的にちょっとどうかという気がしました(笑)

一、「オウム真理教」や「幸福の科学」はともかく、「浄霊医術普及会=世界浄霊会」「アイスター=和豊帯の会=女性党」などというのはその存在すら全く認識していなかったのでとても勉強になった(アイスターという会社が売っている「アイレディース化粧品」というのは聞いたことがあったし、何か看板なんかもそこいらじゅうで見た記憶があるが、ここが半分宗教絡みだというのは全然知らなんだ)。ホントのことをいえば、宗教―政治にかかわる戦後日本の状況には全く影響力を及ぼすこともなく散っていったこうした団体の話はあんまり一般化しても仕方ねーんじゃないかという気もしないことはないンだが、虚心坦懐に「泡沫政治団体盛衰記」として読むとスゲー面白い

一、さらにいえば、供託金なんかゼッタイ返ってこないのにあえて選挙に出る泡沫のヒトビトというのは、別に宗教団体じゃなくても常人に理解不能な信念に殉ずるという意味で或る意味の宗教性に富んでいるともいえるので(笑)もうこうなったら宗教とは関係ないところから出てきた有象無象の泡沫候補・団体をガッチリ調べてその「宗教性」を総まとめするような仕事も面白いんではないかと無茶振りしたい気分である

一、著者も書いているけれども、最初は日蓮思想を掲げて「国立戒壇建てるぞ-」などと言っていた、つまりは一般人にはやや敷居の高い特殊な政治的主張を説いていた創価学会も今じゃそんな言い分は引っ込め、公明党自体が政権与党の「現実主義」にドップリ、である。むろん、先の安保法制とかに対してはかつての反体制時代よろしく「お先棒かつぐな!」と声を上げた創価学会員も一部にいたようであるが、とにかく創価学会=公明党は「変質」してしまったようだ。「昔の価値観・世界観はどこいっちまったの?」「どこでどう変わったの?」という大いなる疑問は、今後著者に是非解明していただきたいものである

一、あと、そもそもそういう「特殊な主張」に基づいて「政治進出」を試みた他の教団が揃って死屍累々という中でなぜ唯一創価学会のみが「成功」したのか。オレなんかであれば「ま、それが戦後復興期という時代だったんだよ。時代さ、時代!」的な床屋談議で納得してもいいんだが、研究者としてはそうもいくまいから、ここいらも何か説明をしてもらえればと思う

一、「日本会議」に関係している大和教団の保積秀胤教主が2014年に新日本宗教団体連合会(新宗連)の理事長になったという話が出てくる(79p)。あれっと思ったンだが、立正佼成会を中心とした所謂「新宗教」の諸教団が作るこの新宗連というのは平和運動なんかにも取り組んでいるし、おおむねウルトラ国家主義みたいなものには反対している穏健な団体であるという印象があった。そこで若干ググってみたところ、確かに新宗連は今年8月8日付けで「靖国神社公式参拝」に反対する意見書を出したりもしている。何で「日本会議」の人がそういう団体の親玉に収まってるのか? ここは小生も勉強不足でよくわかんなかった。どういうことなのか、ヒマがあったらおいおい調べてみたいものだ(おわり)

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ここんとこ、むかし撮った写真をアップしては、何となく「このブログはまだ死んではいない」感を醸し出すことにしていたのだが、たまには何か書いたほうがよいかもなぁ、ということで今回。

さて、そもそも「心とはなんだろう」というのは永遠の謎である。で、たまにその手の脳科学本などを手に取ったりするのだが、加齢のせいか、何だか片っ端から読んだ記憶が霧消してしまう。それでもナマイキに向学心(笑)は如何ほどかあるようで、今回はこの本を手にとってみた。

今回記憶に残ったのは、「人間が何か決断するとき、オレはイマ決断しましたよ、ということを自分で意識するまさにそのタイミングに先立って、脳内現象的には既に(無意識的に)決断が済んでしまっている」という脳科学の知見である。

こういう話は、まぁ以前にも聞いたことがあるけれども、何だかいろいろと考えさせられる。

脳内のプロセスでは既に結論が出てしまっている。けれどもその時点で、いまだ意識はその結論を知らない。「意識」は蚊帳の外。「無意識」的に決まったことを、あたかもいまここで自分が決断したかのように思い込んでいる。

うむ、何だかこの辺に「意識」の本質にかかわるものがあるような気がしてならない。

我々の考える意識――というか、その「考える主体としての自我意識」というものは、決断の主体という役割を(むりやりに)演じさせられている、ということではないか。ホントの意味では主体性はないんだが、やはりここで「主体的に決めた」という主体がないと何かマズイことになるので、そういう幻想がどうしても浮上してきてしまう。というか「捏造」されてしまうのではないか。

この、「何かマズイことになる」というところがキモのような気がするのだが、きょうは既にけっこう酔っ払ってしまっているということもあり、そっから先は曖昧になってしまう。

岸田秀は「人間は本能が壊れてしまった動物なのでダイレクトに環境と渡り合えず、結果、幻想を媒介にして環境と向き合うしかすべがなくなった存在である」というような事を言っていたのだが、何かその辺とも関係があるような気もする。よくわからないけど。たぶん。

で、日進月歩の進歩をみせているという脳科学は、オレの生きているウチに、このあたりについてもうちょっとクリアカットにわかるような知見を差し出してくれるのかどうか。そこんとこは、けっこう期待しちゃってたりもする。













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ミチオ・カクという人物は「ひも理論」とやらを唱えている理論物理学者である。

「ひも理論」というと「折り畳まれている次元というものがあるのだよ」みたいな議論だったと思うのだが、その辺は生粋の文系のオレとしては正直よくわからん。ただ同時に彼は、最先端の科学技術をわかりやすく解説するという啓蒙的な仕事もしており、この本なんかもそういう一冊である。

今回はとりわけ「脳」や「こころ」に関して「現在の科学技術がこのまま発展していくとどういうことができるようになるんだろうか」みたいなことを論じている。そういうのは典型的文系のオレにとっても非常に重要なポイントであるので、買って読んでみたという次第。

感想としては、ま、陳腐だけれども、「いやホント知らん間に科学は進歩しているんだなぁ」ということに尽きる。

たとえば、最近ではMRIなんかで脳の活動状況がほぼリアルタイムで「見える」ようになりつつあり、その分解能とかをブラッシュアップさせていけば、やがては「人間の思考や認識」といったものと、「ニューロンのふるまい」(端的にいえば脳内の電気現象ですね)の関係を解明できるんではないか、というハナシになってるらしい。

そのメカニズムを解明すれば、原理的には「脳内で何か考える→電気信号→他者に伝える→再構成する」というテレパシーみたいな現象も再現できるし、その手のブレイン・マシン・インターフェース(BMI)次第で全身マヒの人だっていろいろできるようになる。最終的には、脳内の情報=記憶を電気情報としてハードディスクに「記録」できるかも、みたいなとこまでいっちまうらしい。で、逆にいえば「偽の記憶」を頭に送り込んだりすることなんかも十分射程内だ。いや、彼の議論では、「記憶」どころか「全人格」さえも原理的には記録可能だというから恐れ入る。

臨死体験とか幽体離脱みたいなテーマもチラッと出てくるし(その流れでカナダのマイケル・パーシンガーも出てくる)、「2045年問題」のカーツワイルなんかも登場する。いやぁ実に盛りだくさん。カクは「物理法則上否定しえないものは実現可能性がある」というスタンスで、実にアメリカン。楽天的である。

ただ、何かこう、「神の領域」みたいなトコに向けて人間がズンズン進軍しているのを見て、ちょっと寂しくなったりするのは何でなのか。どこまで一般化して言えるかどうかはワカランが、ワレワレ日本人には、何かどっかに「いやそうはおっしゃるけど、人間には見てはならない聖域とかやっちゃならねえタブーの領域はヤッパあるんじゃねーの」「そういう還元論でホントに人間のこころがわかりますかねえ」みたいな、論理以前の感性が残っているような気もするのでアル。

尤も科学というのは、そういうプリミティブな感性なんかはお構いなしの自動的メカニズムである。さて、オレの目の黒いウチにミチオ・カクの「予言」はどこまで実現するんだろうか。興味津々、といえばいえる。

【追記】

いろいろ書いたけれども、ともかく知的好奇心を刺激してくれる一冊であることは間違いナイ。知らんこともいろいろ書いてあって勉強にもなった。たとえば京都にはATR脳情報研究所(ググるとNTT系の3セクらしい)なんて研究機関があって、「夢の画像化」みたいなことまでやっとるらしい。けっこう日本も頑張ってるではないか。にしても、夢研究はそんなところまでいってるのか。フロイトも遠くなりにけり。










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今回はこの同人誌「空飛ぶ円盤最後の夜に」の読書感想文を書いてみたいが、その前に、まずは長々とした前振りを書かねばならない。


知る人ぞ知る円盤本の名著に『何かが空を飛んでいる』(略称「何空」)というのがある。

著者の稲生平太郎というのは英文学者の横山茂雄氏のペンネームなんだが、もともと1992年に刊行されたこの本は、ある意味で日本のUFOシーンにデカすぎる一石を投じた本なのだった。

もともと日本で「円盤」というと、「宇宙人の乗りもの?」みたいな視点で矢追さんとかメディアとかもいろいろ取り上げてきたわけで、もちろんそれは米国の初期ユーフォロジーの大立者、ドナルド・キーホーあたりが言い出して以来、とりわけ米国ではデフォルトともいってもいい問題意識であったため、その辺の事情もコミで円盤ネタを「輸入」してきた日本でも「円盤≒宇宙人」とゆーコンセンサスができてしまった、ということなのだろう。

ところがこの『何空』のスタンスは、違った。

そもそも円盤類似現象というのは大昔からあったもので、いわゆる妖精なんてゆーのは虚心坦懐にみれば「宇宙人」と五十歩百歩だったじゃないですか、そういや誘拐=アブダクションなんてのは妖精のお家芸ですゼ、円盤現象というのはことほど左様に人間存在と骨絡みになった怪奇現象なんですヨ、「宇宙人」なんて、あなた、そんなお手軽な説明じゃ割り切れんのですよ、みたいな事を説いたのだった。

ちなみに、この手の「奇現象としてのUFO」みたいなアプローチは米国のジョン・キールなんかも取り入れていたし、ヨーロッパでは「ニューウェーブ」などと呼ばれて一定の支持を集めていたらしい。ま、オレがそのあたりの事情を知ることになるのは、遥か後のことだったが。

さて、この本が刊行された1992年というのは、オレも円盤系と切れていた時代だったこともあり、この本のことはずっと知らんかった。それが2000年頃だったか、確かニフティサーブかどっかで耳にして、こいつは面白そうだと思って買おうとしたんだが、もう無かった。絶版になっておったのである。いわば幻の名著。くそッ、てなワケで、「復刊ドットコム」にリクエストを出したりしたんだが、無いものはしょうがない。で、図書館で借りて読んだ。結果はいうまでもない、あぁなるほどこいつは目からウロコだ、マスト・バイのUFO本だ、とオレは大いに感激したのだった。

ま、そのような本でもあり、復刊を望む声が朝野に満ちた結果ということなのだろう、昨年暮れに『定本 何かが空を飛んでいる』という名前で、ようやく復刊が成った。オレにとっても10数年越しの願望が叶ったのだった。


・・・とゆー、とてもとても長い前振りを受けて、ここからが本題になる。

世の中にはいろいろな人がいて、やっぱりこういう怪現象としてのUFOが大好きだということで「Spファイル」という同人誌を立ち上げた奇特な方々がいたのだった。たまたまその活動を知ったオレは感激し、その創刊時から購読をさせていただいておったわけだが、こういう方々だけに、やはり『何かが空を飛んでいる』には皆さんリスペクトをもっている。

となると、昨年の『定本 何かが空を飛んでいる』刊行は一大事件である。こいつは何とかせねばならん、ファンブックを作りましょうかという話になって、で、今回の「空飛ぶ円盤最後の夜に」が誕生した。そういう話なのである(と聞いている)。

というわけで読ませて頂いたのだが、うむ、実に良かった。

まず何と言っても感心してしまうのが、著者・稲生平太郎へのインタビュー「<他界>に魅せられて」である。もともと英文学の専門家である稲生氏、加えて小説も書けば、映画評論もし、かつてはこんな円盤本も書いていたわけであるから、一見「どういう人なんだ?」ということにもなってしまうんだが、このインタビューを読むと、その辺が全然ヘンじゃないことがわかる。

つまり、タイトルにも出てくる「他界」というのがキーワードである。

この世の中というのは、何かのっぺらぼうで淡々としていて、誰かさんの言葉を使えば「終わりなき日常」が続く世界に過ぎず、何かつまんねーな、と思うことはオレなども再々あるわけだが、いやいや、どうやらこの世界、時と場合によっちゃワケのわかんない裂け目も発生するし、破綻もするよ、条理を超えた意味不明なもの、魑魅魍魎が跋扈する時だってあるんだし、みたいなことを稲生氏は考えているらしく、だからこそ、そういう「他界」に開かれている窓として幻想文学を読んだり書いたり、奇っ怪な映画が現実感覚を崩壊させる瞬間の快感を語ったり、奇現象としての円盤を語ったりしてきたのであろう。

まぁ抽象的なことを書いてしまったけれども、その辺の「他界」への希求といったものを、インタビュアー3氏は実に巧妙に語り手から引き出している。殊勲甲、である。

あと、常連寄稿者の論考も読ませる。

オレが「平成の戯作者」と勝手に命名している馬場秀和氏の「現代詩と円盤」は、円盤系のモチーフが出てくる現代詩を紹介している。さっきの「異界」の話じゃないが、詩的イマジネーションは、確かにそうした世界に我々を導いてくれるものかもしれない。詩的言語は因果律や物理法則とか一切超越してるしな。

ものぐさ太郎α氏は、UFO前史としての19世紀末の謎の飛行船騒動の総まとめを書いておられるが、ご専門だけに流石にお詳しい。「何空」は円盤現象の超歴史性ということを言っているわけで、その精神を踏まえて19世紀末の米国という時点にスポットを当てれば、こういうレポートができてくる、ということになる。

あと編集長のペンパル募集氏のジョン・キール論。先にも述べたが、『何空』はかなりの程度、キールの問題意識と重なり合うところから出てきた本なので、これは重要なポイントである。「この世界は決してあなたが思ってるような平板なものじゃないんだよ、ヘヘヘ」みたいな感じで、終生あやしげな奇現象の話を(あえていうが)書き飛ばしてきたライターの、その思想と立ち位置がよく見えてくる。

新田五郎氏の円盤マンガレビュー、原田実氏の「超常幻書目録」は、いずれもオレがよく知らない世界なのでいろいろ書けないけれども、それぞれにご専門のフィールドから円盤世界に切り込んでおって勉強になる。

まだまだコンテンツはあるんだが、感想はこの辺でいったん打ち切らせていただこう。ただ、一つ残念だったのは、「何空」の一つの源流であったUFO研究家、ジャック・ヴァレの仕事について、もうちょっと読みたかったナということである。改めて書いておくと、ヴァレは『マゴニアへのパスポート』(1969)などで妖精譚とUFO報告の類似性を指摘し、いわゆる「ニューウエーブ」の旗手と呼ばれた人物であって、稲生インタビューにも「影響を受けた人物」として出てくる。確かこのファンブックではヴァレ論も予定している、という話を聞いたんだが、いろいろと事情があったのかしらん。ま、今後Spファイルで掲載して頂ければ、と切に願っております。

というわけで、こういうものが同人誌で出てくるというのは、なかなか、日本も捨てたものではない。この中にも書かれているけれども、円盤文化自体は滅び行くプロセスにあるようで、やや寂しいような気もするのだが、そういう意味では同人諸兄には円盤現象の看取り役(?)としてさらなるご健闘をされることを期待したい(おわり)









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「UFO体験は臨死体験と同根ではないか」というテーゼで名高いケネス・リング『オメガ・プロジェクト』はずっと家に置いてあって、耄碌が進んできたこともあり、読んだんだか放置してたんだかよくわからなくなってたンだが、このほどちゃんと読んでみた。

以下思いっきりネタバレであるが、結局のところ、人間というのは脳の側頭葉部分が何かクリティカルな状況に陥った時に臨死体験をするのであって、一方で側頭葉が強烈な電磁効果に見舞われた際にはUFO体験をしてしまうのダ、とゆー議論である。

勿論こうした議論のバックグラウンドにはカナダの脳科学者マイケル・パーシンガーの研究があるので、そこんとこ何となく尤もらしい話にはなってはいる。

*ちなみにこのパーシンガーという人はこ
の手の話にしばしば登場してくる人物であるんだが、著書は邦訳されていないようで、そのへんは隔靴掻痒の感がある。あと、「地球上には時にそうした強力な電磁効果が発現する地球光 eatrh light 現象とゆーものが発生するのだ」とゆー主張をしているポール・デブルーという人の議論もパーシンガー説の傍証として引用されていて、確かこの人はヴァレの本にも出てきているのでオレも読みたいのだが、当然ながら(笑)邦訳がない。出版社の中の人は何とかしてほしい。


閑話休題。それはそれとして、この本、最後の方になって、けっこうトバしてしまう。

臨死体験にしろUFO体験にしろ、人間のそういう体験は何か新たなる人類の「進化」を先取りしたものではないのか、みたいなことを言い出すのである。当人は本の中でヤンワリ否定してたが、やっぱこれは所謂ニューエイジの「見果てぬ夢」とゆーやつではないのだろうか。

だいたい彼は「進化」とかゆー言葉を不用意に使ってるンだが、オレの理解している限りでは今の進化論というのは突然変異+自然淘汰みたいなリクツになっている筈で、リングがここで言っている進化は「何か或る方向に向かって生物が自発的に変わっていく」みたいな、つまり現在は完全に否定されているラマルク流の「進化」説であるように思われる。そういうのをいきなり持ち出すから、ナルホド科学者の議論だよなーと思って好意的に読んでいたオレ(笑)もヒザカックン状態になってしまうのである。

ま、淘汰圧だか何だか知らんが、人間の変革を強いる力がソコで働いているというんであれば、ここは「進化」なんていう物言いはしないで、ヴァレ流の「コントロール・システム」だとか、あるいはユング流の元型(アーキタイプ)仮説でお茶を濁しておけばヨイのである(実際に本書ではその辺への言及もあるんだよネ)。

というワケで画竜点睛を欠いた感もあるけれども、パーシンガー理論を拡大援用したこういう議論はなかなか知的刺激に満ちている。その後、このフィールドがどうなってんのかは不勉強なのでよくわからんけど。とりあえずそういうことで。


p.s.
しかし、今アマゾンでみたら値段が4979円もついていたぞ。どーなっとんじゃ











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すっかり向学心というものが衰えてしまったオレではあるが、たまに勉強になりそうな本を買ってくる。で、結果的には、だいたい積ん読になる(笑)。

ではあるんだが、またその手の本を買ってきてしまった。

記憶のしくみ 上 (ブルーバックス)
エリック.R・カンデル
講談社
2013-11-21

記憶のしくみ 下 (ブルーバックス)
エリック.R・カンデル
講談社
2013-12-20


カンデルはノーベル賞をとった偉い先生でもあるが、こういう一般向けの本も書いているのは嬉しいことである。新書2冊で3300円超というのはいささか高いような気がするけれども、ユーフォロジー的にも記憶というのは大事な問題だったりするし、ちゃんと勉強しないとネ。

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