カテゴリ: 朝日新聞を嗤ふ

本日10月3日から、また今年もノーベル賞各賞の発表が始まるのだという。いわゆるノーベル賞ウィークの始まりである。

そんなタイミングにあわせて天声人語もノーベル賞ネタをぶっ込んできた。一読、とても良いことを言っていると思った。

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要するに日本のメディアは毎年やたら「日本人受賞者」にこだわり、誰か受賞したら「日本の誉れ!」とばかりに大騒ぎするけれども実はココには欺瞞がある。たとえば日本生まれなんだけれども日本の研究環境があまりにショボいので仕事のしやすいアメリカに渡ってそのまま米国籍を取ってしまった人なんかも勝手に日本人扱いして「日本人の受賞××人目(米国籍取得者も含む)」とかワケのわからん報道をするのがデフォルトなのだった。

けさの天声人語は要するに「そういうことでいいんですかネ?」ということを書いている。ということはおそらくこれからの朝日新聞は「日本人の受賞××人目(米国籍取得者も含む)」みたいなコスい表現はやめて、日本国籍もっている人限定で「日本人ノーベル受賞者」をカウントしていくことにしたのだろう。ヨカッタヨカッタ(仮に違ってたらまた批判させてもらいますわw)



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今日は夏の高校野球の決勝戦。

そういうこともあってか、今朝の天声人語も高校野球ネタである。その内容をひと言でいうと、戦時中には高校野球も勇ましい「戦争」のアナロジーで語られ、高校球児が「戦士」扱いされたこともあったんだがそういうのってイヤだよね、平和な時代の高校野球ってイイよね――という話である。

まぁそりゃそうかもしらんけれども、しかしオレなどに言わせると、そういう不条理な軍隊式というのは今の高校野球にも根強く残っているのではないか。

例の「丸刈り」強制というのは一部に見直しの動きもあるようだが、まだまだその影響は強く残っている。

それから高校球児が真夏の炎天下で試合するのもいつのまにか「季節の風物詩」扱いされているンだが、野外に出ているだけで生命の危険が生じるようになった現代日本において2時間も試合させられたらコリャ罰ゲーム、というか虐待ではないのか。ここはひとつ、京セラドームに場所を移して「夏の京セラ大会」と改称すれば京セラから広告費用も引っ張れるだろうし、例年「死のロード」で苦しむ阪神の救済にもなり、一石三鳥である。

本当に軍隊式がイヤだというなら、今すぐやるべきことはたんとある。その辺に踏み込むことなく自社の事業を讃仰するだけでは、高校野球を軍国主義の宣伝に使った戦前の朝日新聞と何等かわらない。(おわり)







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今朝の「天声人語」について一言。

今回の内閣改造では悪名高き衆院議員・杉田水脈が総務大臣政務官に就任したのだが、今日のはこの問題に触れている。

杉田というのはゲイやレズビアンは「生産性」がないとかいってヒトをモノ扱いしたのが問題視され、結果その文章を載せた「新潮45」が廃刊になってしまうという大惨事をもたらした希代のワルである。要するに自民党の国粋主義勢力を代表する人物の一人で、こないだ亡くなった安倍晋三の「ひいき」で無理矢理比例名簿に横入りしてきて当選してしまったことでも有名だ。

ということで、今回のは「こういうクソ右翼を総務大臣政務官などに就けてはいけません」という趣旨の話であり、オレもその主張自体には全く異論はない。異論はないンだが、今回は文章作法上とても見逃せない表現があったので指摘しておくことにした。

それは、最後の文章に出てくる「それにしても」という一文である。

これはオレの年来の持論なのだが、コラムのたぐいで最後に「それにしても」とかいって流れをぶった切って話をまとめに入るのは愚の骨頂である。ちゃんとそれまでの文章の流れを踏まえて自然と着地するのがコラムの絶対条件であり、「それにしても」などと言い出すのはその努力を放棄したことのあかしである。

いやこれはコラムには限らず、たとえば「それにつけてもカネの欲しさよ」という文句はいかなる短歌のケツにつけても収まりが良い、などとしばしば言われるワケだが、つまりそういう汎用性のある言葉というのは逆にいえば創造性や独創性をテッテ的にスポイルし、凡庸なものを作り出してしまうのである。

いちおう朝日新聞の目玉コラムということになっているのだから、こういう基本ぐらいはちゃんとしていただきたい。(おわり)














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今朝の天声人語がまた酷い出来だったので、やんわりと指摘をしておこう。

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今回のテーマは「外交官の追放」という話である。このたびのロシアのウクライナ侵攻に伴って、日本からもロシアの外交官ら8人が追い出されたというニュースがあったので、それに引っかけたコラムになっている。

まぁそれはそれでいいのだが、今回のにはコラムとして読むに堪えない部分がある。冒頭部である。

どういうことかというと、ここではまず「命のビザで有名な杉浦千畝は戦前、当時のソ連当局に睨まれて外交官として着任するのを阻まれたことがあった」という話がでてくる。確かにそういう事実はあったのだが、その文章がスコブル複雑な構造になっている。

コラムはまず、「唐沢寿明さん演じる若き外交官がソ連着任を拒まれる」という映画があった、という文章から始まる。次いで「その映画は杉原千畝を描いた作品であった」という。実際の史実はどうだったかというと、映画に描かれたように杉原千畝は本当にソ連着任を拒まれた。こういう経緯があったために杉原は別の任地であるリトアニアに着任することになったのだ、という風に話は転がっていく。

が、しかし。

ここまで読んでオレは思った。冒頭の「唐沢寿明」という名前を出すことに何の意味があったのだろう? 別に唐沢が杉原を演じてようが演じてまいが、杉原が「ペルソナ・ノン・グラータ」で拒否されたことは事実なのである。唐沢云々の情報は全く余計なものである。もっといえば読者は「何か伏線あるんかいな?」と思って先を読まされることになり、そこにひっかかりというか、心的な負担が生じる。そして当然それは何の伏線でもなかった。

最近話題の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に引きつけていえば、「大泉洋さん演じる武家の棟梁が、盟友だった上総の豪族を謀殺する。鎌倉幕府を立てた源頼朝を描いた大河ドラマの一場面である。これを機に鎌倉の武士集団の統制を強化した頼朝は平家打破に奔走する」みたいなハナシであるワケだが、そうやって置き換えてみると、ここで別に大泉洋が登場する必然性はゼロであることがわかるだろう。

なんでこんな意味不明なことをやったのか。

以下はオレの推理だが、このコラムの書き手は自らの筆に自信がない。なんとかして読者に読んでもらうには冒頭の一行目にキャッチーなコトバを配すればよかろう――そう考えた彼は有名な役者である「唐沢寿明」の名前を冒頭にぶち込むことにした。コラムの展開上何の必然性もないが、一般読者は「唐沢寿明」とあるのを見ると反射的に「ん?」と反応してしまう。筆者はそのような姑息なテクニックを使ったのである。


だがしかし、最後まで読んでみれば何のことはない、読者は「なんだアレは撒き餌だったのか」と気づいてしまうことになる。結句、オレのような人間にこうやって突っ込まれることになる。策略は失敗におわったのである。(おわり)

PS ついで言っておくと、せっかくそうやって撒き餌に使わせてもらったのだから唐沢の出た映画の名前ぐらい書いてやれよ。しょうがないのでオレが書いておくが、それは『杉原千畝 スギハラチウネ』(2015)である



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千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希が10日の対オリックス戦で完全試合を達成した。奪三振19(日本記録タイ)という快投ぶりで脱帽するしかない。今シーズン連戦連敗の阪神に彼が来てたらなぁと思うが、いまさら詮方ナシ。

それはともかく、相当にインパクトのあった出来事ということなのだろう。今朝の天声人語はさっそくこの話をネタに取り上げていた。が、しかし、今回もちょっとおかしいのではないかと思う部分が幾つかあった。


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まず「160キロ台の速球に、猛者たちのバットが空を切る」とあるけれども、これは野球をよく知らない人間の表現である。

この日の試合についていうと決め球として機能したのはむしろフォークボールだった。奪った19三振も、うち15三振まではフォークで取った。確かに直球が早いからフォークが打てないワケだが、なんだか直球一本やりで打者をきりきり舞いさせたみたいな書きぶりである。実に素人くさい。いくら160キロの速球でも変化球全然投げられなかったらプロの打者はちゃんと攻略する。プロを舐めてはいけない。


それから佐々木朗希というと、高校時代、「連投させて故障させてはイカン」というので夏の甲子園岩手県大会決勝で投げさせてもらえなかったエピソードで有名である(それでチームは負けた)。今回の天声人語でもこの話が取り上げられていて「こんな大記録も達成できたし、あのとき無理に投げさせなくて良かったネ」という意味のことを書いている。

まぁフツーは「そうだよなー」と思って読み過ごしてしまう部分であるが、よくよく考えると、コレは「超一流選手にとっては高校野球などしょせん通過点。もっともっと成長するためには高校野球で勝つより大事なことがあるだろう」ということを言っているに等しい。

要するに「高校野球<プロ野球」「高校野球はプロ野球の踏み台」という話である(もちろんこれは超高校級選手に限った話であるが)。

オレもそういう価値観はあっていいと思う。現に春夏の甲子園はプロを目指す選手の公開セレクション大会になっている。しかし、よくよく考えると、夏の甲子園を主催している朝日新聞は「高校野球は教育の一環」とか言ってなかったか?

「 ここで無理して故障したらプロに行けなくなるかもしらんので連投は止めさせよう」という考え方が「教育的」かというと、なんか違うような気がする。そもそも教育の手段であったハズの野球が、そこでは「目的」になってしまっているのではないか。

・・・ということで、天声人語はここで「高校野球はプロへの踏み台」説をうっかり肯定してしまったのである。まぁ朝日新聞が「高校野球は教育の一環説」はウソくさいので止めたということならばそれでスジが通るが、果たしてそうなのか。

というわけで、今回もいろいろとおかしな表現が目立つ天声人語。原稿は書き上げてから20回ぐらい読み返し、過去の言動とのムジュン点とかぬるい表現がないかとか確認した上で出稿するがよかろう。(おわり)












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オレはプロ野球の阪神ファンなのだが、ご承知のように本年――すなわち2022年の開幕早々、わが阪神はなんとしょっぱなから9連敗という最低最悪のスタートを切った。ようやく昨4月5日、わが阪神は令和の新怪物・佐藤輝明の初ホームランなどもあり、最終的には4-0で快勝した。西勇輝あっぱれの完封劇である。


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さて、それはそれで大変結構な話なのだが、たまたま一夜明けての「天声人語」がその辺りに絡んだ話を書いていて、しかもその出来が豈図らんや、最悪なのだった。

どういうことか。以下に説明したい。

このコラムで冒頭紹介されるのは、1955年のシーズンで当時存在した「トンボユニオンズ」という球団が開幕12連敗を喫したというエピソードである。筆者はこのユニオンズが如何に弱小球団だったのかという話を繰り広げたあと、阪神もこの連敗記録に迫るかと思ったけれども甲子園を包むファンの歓喜のうねりの中で阪神は何とか勝ちきったとか何とかいって、最後を「負けが込んでも熱いファンはトンボと決定的に違った」と締めくくっている。

ちょっと何を言いたいのかわかんなくてしばし困惑したのだが、30秒ほど黙考した結果、これは最終的には「阪神ファンは負けが込んでもちゃんと応援をして勝利を後押しした。阪神ファンは素晴らしい」という事を言いたいのだろうと思った。うむ、まぁそれはそれでイイのであるが、気になるのは一番最後の「(阪神の)熱いファンはトンボと決定的に違った」というくだりである。

要するに「トンボユニオンズというのはあまりにも弱小でロクなファンもついていなかった、だからオマエら弱くてすぐ消滅しちまったんだよ」という事を言っているに等しく、その情けないファンを「素晴らしい阪神ファン」の引き立て役に仕立てているのである。

いや、ちょっと待ってくれ。

阪神ファンを讃えるのは良いのだが、しかしよそのチームにだって一生懸命なファンはついている。仮に弱小だって「オレがついてるぞ」といってずっとついてくるファンは絶対いる。戦後カネがなくて存続が危ぶまれた弱小・広島カープが市民からの「樽募金」とかで何とか生きながらえた――なんて話は阪神ファンのオレですらグッとくる(そうした意味で金満野球の巨人には全く共感できないのだが)。

ということでいえば、いくら戦後の泡沫球団の一つだったトンボユニオンズとて、そこには必死に応援したファンはいたハズなのである。いまだって「弱かったけどオレ好きだったんだよなー」とか心中に良き思い出を抱えて生きているジジイは絶対いるハズなのである。

オレが推測するに、この筆者は――あるいは阪神ファンなのかもしれないが――全国にファンの多い阪神ファンにゴマをすることで好感度を上げようと考えたのではないか。そこで「オマエら知らんだろうけど、戦後、スゲー弱いチームがあったんだぜ」という文脈で、つまり道化役としてトンボユニオンズを持ち出したのだった。

先に述べたように、オレは阪神ファンだが、ヨソのチームだとかファンをことさらにバカにしようとは思わない(巨人ならびに巨人ファンに対してのみそういう気分がないことはないけれども)。なぜなら彼らもまた野球ファンであり、そこにはどこかで連帯があるのだと思っているから。

そういう意味では、この天声人語には全然野球愛が感じられない。あまりに浅い。阪神ファンだからといって、そんな底の浅い「おべっか」を頂戴しても全然嬉しくはない。(おわり)


追記
なお、この翌日の4月6日の試合は、阪神が9回二死までリードしてたのにそこから追いつかれ、結局1-6でボコボコに負かされた。そのあと、スタンドでは激高した阪神ファン同士がスタンドでケンカを始めて救急車が出動するなどスゲエことになったらしい。「・・・阪神ファンを褒めたのは間違いだった。ちょっと舐めてたわ」と筆者も今頃反省しているのではないか(笑









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米アカデミー賞授賞式で、ウィル・スミスが「妻を侮辱された」といってプレゼンターを壇上で殴打した事件が話題になっている。今朝の「天声人語」はこの話を取り上げて「暴力ハンタイ!」という主張を展開している。

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この件についてはウィル・スミスを擁護する議論も一部にあるわけだが、まぁ「暴力ハンタイ!」という主張は当然あってよい。よいけれども、今回の天声人語の論理はデタラメである。

どういうことかというと、筆者は今回のウィル・スミスの殴打事件から、例の「忠臣蔵」を連想したという話を始める。要するに「忠臣蔵というのは吉良上野介をイキナリ殺害したテロ事件。あんなものを褒めるのはどうかしとる。いきなり暴力ふるったという点ではウィル・スミスも同罪である」といった意味のことを言いだすのだった(この要約はオレ流なので原稿には必ずしもこういう表現が使われているわけではない)。

しかし忠臣蔵――というか「赤穂事件」をここで引き合いに出すというのは全く的外れである。

これはよく国内の戦争責任論争で出てくる話にも通じるのだが、要するに朝日新聞はここで「昔おきた事件を現代人の倫理規範で断罪する」という挙に出ているのである。

ちなみに戦争責任論では、ネトウヨが「だって戦前は西洋の先進国はそこらじゅうに植民地作って収奪してたジャン。日本が大陸進出したのも同じようなもので、いまさら日本だけ責められるのは納得できんわ」ということをしばしば主張する。つまり「当時は当たり前だったことを現代の規範で批判されてはかなわん」と言うのだった。

実際には明治以降の日本の大陸進出というのは(とりわけ満州事変以降だが)当時の国際ルールに照らしても相当に非道なものであった。なので、このネトウヨの主張はおかしい。おかしいけれども、一般論としていえば「今の視点から昔の人々の行いをアレコレ論評する」という行為は、いわゆる「ウワメセ」で相当に下品である。

そして今回の天声人語はまさにその下品なふるまいに出てしまった。

じゃあ朝日新聞は「バスチーユ監獄を暴力で急襲するなんてのは許せない。フランス革命は平和裏にやるべきだった」とか仰るのでしょうか? そんな平和的になんてできなかったからフランス革命は起きたんじゃないスか? あるいは大化の改新(いまは乙巳の変とかいうらしいが)で中大兄皇子が蘇我入鹿を殺したのは「ゼッタイダメ」だったんでしょうか?

あるいは50年100年前の事件であればこの手の論法が通用することがあるかもしらんが、300年前の赤穂浪士について「倫理的におかしい!」とか言われても困るのである。こういう具合に、当時の状況など一切斟酌せずに「暴力はゼッタイいけませんな」と説教を始めてしまうところに朝日新聞の悪しき伝統が見え隠れする。


追記

そういえば同じく今日の朝日新聞の「論壇時評」にも気になる表現があった。
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これは外部執筆者の東大の先生の原稿なので朝日新聞自体がどうこうという話ではないのだが、冒頭、今回ロシアがウクライナに侵攻した理由についてはいろんなものを読んでみたが全然「得心」できなかった――ということを言って識者の論考にイロイロ注文をつけている。

これもどこか朝日新聞の悪しき貴族主義と通ずるところがあると思うから敢えて触れるのであるが、そんなことを言いだしたらナチス・ドイツがなんであんなことをしたのか、誰も「得心」なんかできないだろう。得心なんかできないのは百も承知、というかそれを出発点とした上で、それでも何とか了解できないものかと思ってこれまで思想家たちはナチズムとは何かを懸命に考えてきた。

ここでオレは具体的にはエーリヒ・フロムだとかハンナ・アーレントのことを頭に浮かべているのだが、つまり彼らは得心はできないにしても「あぁナチスの蛮行というのはどっかで自分たちと連なってるところがあるのかもなあ」という認識に到達したのだった。ハナから「もうアイツらの言い分なんて一ミリもわからんわ」みたいな態度を取るのは知識人としてどうなのよとオレは思う。




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13日の天声人語は竹倉史人著『土偶を読む』を肯定的に紹介していた。これはたいへんにマズい。

この竹倉という学者は人類学が専門のようで、考古学は門外漢であるらしいが、「様々な土偶はつまるところ植物をかたどったものである」という仮説を打ち出し、この本を書いた。するとそれが気鋭の学者の登竜門といわれる「サントリー学芸賞」を取ったりして、だいぶん評判になってしまった。オレの記憶では確か毎日新聞の書評で中島岳志氏も褒めていた。

だが、オレの見聞きする限り、これは考古学の世界では牽強付会の説としてトンデモ扱いされているらしい。オレも実際にこの本を読んでいるワケではないが、そもそも土偶のモチーフというものをそんな一律に決めつけるというのはかなりムリがあるのではないかという気がする。

フツーに考えても、土偶なる土人形をつくるにあたって「植物モチーフオンリだかんネ」みたいな植物シバリが作り手たちの間にコンセンサスとしてあったワケはなかろう。「いや、オレ女性像作るから」とか言いだすヤツは絶対いるに決まってるのである。

とまれ、考古学に命賭けてる連中から総スカンくってる珍説を、あたかも有望といわんばかりに紹介する。まさに学問の軽視である。

朝日新聞は日本学術会議の人事に政府が介入したのを盛んに批判しておるが、学問の世界の自立性をないがしろにし、学問をボートクしているのは朝日新聞ではないのか。










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春のセンバツ高校野球の出場校選出をめぐって、問題が起きているのだという。

一般的に、春のセンバツというのは前年秋の地方大会の結果を踏まえて出場校を決めるシステムになっている。今回問題となったのは東海地区の選考であったのだが、この東海地区には出場枠が2つある。となると、昨年秋の東海大会の優勝・準優勝校が選ばれるのが当然ということになるわけだが、先の選考委員会では準優勝の聖隷クリストファー(静岡)が落ちて、4強止まりの大垣日大(岐阜)が選ばれてしまった。「いったいどういうことなんじゃ?」と一部関係者が怒っている。そういう話である。

さて、そういうバックグラウンドを踏まえての本日の朝日新聞スポーツ欄の記事である。

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一読オレは「奇妙な記事だ」と思った。とりわけ「いまだ釈然としない」という冒頭の一語である。

というのも、オレの目からみると、今回の騒動はそれほど意外ではなかった。「こういうこともあるだろうな」と思った。そして、それは高校野球を担当している記者でも同じで、こういう事態が起きることは十分に予期していたハズなのである。なのにカマトトぶっている。「釈然としない」とか今更言っている。それがウソくさい。こういう偽善が朝日新聞なのだよなあと改めてオレは思うのだった。

「いや、これって十分意外でしょ? こんなおかしな話があっていいわけないでしょ」という声が聞こえてきそうだが、じゃあなんでオレは「こういうこともありうべし」と言っているのか。よろしい、以下に説明しよう。


「特に投手力で差があった。春の選抜大会では失点の多いチームは厳しい」。選考にあたった関係者はこういう発言をしているらしい。つまり大垣日大には全国で通用するマトモな投手がいるんだが秋大会ではたまたま実力が発揮できず、その間隙をついて投手力の貧弱な聖隷クリストファーが準優勝をかっさらっていきやがった、コリャ大垣日大出したほうが勝てるやろ、という理屈なのである。

まぁこういう風にあからさまに言われてしまうとちょっと鼻白んでしまうワケだが、実はこういうロジックは既に高校野球界に蔓延しているのである。

ようするに、大会関係者は春のセンバツを盛り上げたいのである。スゲー才能のある野球小僧たちが160キロの剛速球投げるとか超ハイレベルなプレイを見せて、「おぉ!」とかいって国民に驚いてほしいのである。であれば、超一流の素材をもつ選手に登場してもらうにしくはない。「才能のある選手なんか皆無のどっかの公立高校の弱小チームが力を合わせ、あれよあれよという間に強豪を連破して甲子園出場」みたいなことになると、むしろ困るのである(聖隷クリストファーはそういうチームではないだろうが、相対的にはそういう「実力もないのに勝ち上がってきやがったヤツ」扱いをされている)。

そしてこういう状況は野球名門校の側にとっても願ったりかなったりである。各地の有望な野球少年をかきあつめて甲子園にでも出りゃPR効果はバツグンである。開催者側も超一流選手に出てほしいし、高校側も「ウチにはこんなのいまっせ!」といって超一流選手を送りだしたい。実は高校野球界にはこういう共犯関係があって、その結果どういうことが起きたかというと、春夏の甲子園大会は「プロ野球予備軍のセレクション大会」になってしまったのである。

今回の一件に即していうと、そうはいっても夏の甲子園に出るには勝って勝って勝ちまくるしかないのだが、春のセンバツは都合が良いことに(笑)秋大会の結果が絶対ではなくてモロモロの事情を勘案して出場校を決めるシステムになっている。「じゃあ大垣日大のほうがええやろ」。そういう判断を下したのであろう。


さて、ここまで説明すれば、先の朝日新聞の「いまだ釈然としない」という一句が如何にわざとらしいかが分かるだろう。この記者だって、最先端の高校野球が「プロ野球予備校」に化しつつあることぐらい知っているだろう、高校野球の担当してるなら。

今回の大垣日大騒動は、たまたまあまりにもあからさまな事をしてしまったものだから、問題の本質が露呈してしまっただけの話である。

しかし、オレが長年指摘しているように朝日新聞は「夏の甲子園」の勧進元ということもあり、そういう病理の根っこになかなか迫れず、いつまでも「教育の一環としての高校野球」みたいなお題目を唱えている。まぁそういう事情もあるので「いまだ釈然としない」とかいって、いったん怒ったようなフリをしてごまかしているのだが、それでいいのか。今回の記事を読んだオレは改めてそう思った。(おわり)


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石原慎太郎が亡くなった。

これを受けて本日の「天声人語」も石原追悼である。だが、やはりというべきか、またまた粗雑なことが書いてある。

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問題なのは


それでも人気は衰えず、政界で存在感を示し続けた。それも一因だろうか。「率直」と「乱暴」の違いをわきまえられない、幼稚な政治家が相次いでしまった

というくだりである。

確かにオレなども石原は乱暴極まりない男で政治家としては失格だったと思っている。

帰属問題で中国ともめている例の尖閣諸島などは、もともと民間人が所有しておったのを「これはオレ様が責任をもって管理してやろう」(意訳)などといって都知事時代の石原が東京都として買い上げようとしたもんだから、当時の民主党の野田首相が「いや、そういうことだったら国で買いますわ」といって国有地にした。

それまでは中国もいちおう「あそこオレの領土だから」といいつつ、どっかのオヤジが所有している島であるかぎりは実際上放置していたのであるが、ここが日本の国有地ということになるといわば日本政府から「改めて言うとくがここは日本のものだからな!」とケンカを売られたに等しく、それ以降ガンガン公船を出してきては中国が「ここはオレのもの」アピールをおっぱじめたのは周知の通りである。

まぁ専制国家中国が何をゴーマンなことを言うとるかとオレなども思うけれども、しかし外交というのは如何に向こうが理不尽であっても、そこは表向き無用な争いを避ける工夫をするのが常道である。隣家の下品なオヤジが如何に気に入らなくとも、よほどのことがなければそこは殴り合いにならないよう自制するのが大人というものである。


と、余計な話をしてしまったが、要するに石原にはそういう大人の知恵がなかった。日中激突の火だねを広げたのは彼である。そういう意味では「天声人語」が石原にネガティブな評価を下しているのは正しい。

だがしかし、「天声人語」は石原憎しのあまり、余計なことを書いてしまった。「幼稚な政治家が相次いで」いるのは石原が「政界で存在感を示し続けた」ことが一因かもしれない、などと言っている。

これはちょっと無理なロジックである。如何に石原が大衆の人気者であったからといって、他の政治家が彼のスタイルを真似たとはとても思えない。なんとなれば彼は一般の世間常識からすればとても異常な男だったからである(東日本大震災の際に「天罰だ」と言ったことは有名である)。

政界においても、作家上がりの単なる変わり種として珍重された面こそあれ、フォロワーがたんといたわけではない。あんなものが政治家のロールモデルになるワケがないのである。ワガママ放題のことができたのは、政治家失格でも彼には「文壇」という帰っていく場所があったからである。

そうしてみれば現代の政治家が「幼稚」なのは別に石原どうこうとは関係ないだろう。さしあたってオレがその理由として考えているのは「国民が幼稚になったから」であるが、それはここでは触れない。

要するに「天声人語」は、石原の死をなんとか日本社会のいまに接続して意味づけようとしたのだろう。そしてそれに失敗した。世の中は「天声人語」が考えているようなそんな簡単な図式で動いているワケではないのである。(おわり)

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昨日に続いて「天声人語」のことを書く。今朝の「天声人語」もオレには何だか納得がいかなかったからである。

今日の「天声人語」がどんな話だったのかというと、ひと言でいえば「とりわけ感受性の高い若い人間は自らの生涯を左右するような素晴らしい言葉と出会う瞬間がある。そういう言葉を大事にしてネ」というものである。要するに「杖言葉のススメ」みたいなものである。

実はこれ、朝日新聞が中高生を対象にやっている「私の折々のことばコンテスト」という事業の宣伝も兼ねているようで、そこは若干鼻白んでしまうところもないではないのだが、まぁそういう主張自体は悪くはない。悪くはないンだが、論の進め方に大いに問題があった。

どういう事かというと、冒頭部に置かれたエピソードがよろしくない。記事の冒頭部も貼っておくが、以下、オレ流にかみ砕いてしばし説明してみよう。

――中村メイコがボーイフレンドの永六輔を振って、別の男(つまり神津善行だろう)と結婚することになった。そのことを告げられた六輔が泣き出してしまったので、メイコはおそらくは狼狽したのだろう、「どうしよう?」ということで父親に電話をした。すると、父親(中村正常という作家のようだ)はこんなアドバイスを発したのだという。



「上を向いて帰りたまえ」と伝えたまえ。「涙がこぼれないように」とね。


それでメイコは親の言ったとおりに六輔に向けてこの言葉を発したのだが、六輔はよほどこの体験が忘れがたかっただろう、そのフレーズを後年名曲の「上を向いて歩こう」の歌詞にそのまんま用いたのだった・・・・・・とまぁこんな話である。

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で、この導入部を読んだオレは何だか腹が立った。振られたからといって泣きだす六輔も六輔であるが、メイコもメイコである。振った相手が目の前で泣いてるのに「涙がこぼれないように上を向いて歩けばいいじゃないの?」とは何たる言いぐさか。いかに父親から伝授されたからといって、そんな言葉を六輔にぶつけるのは残酷すぎるのではないか。百歩譲ってそれがどっか心に染み入る言葉であったとしても、自分を振ったメイコから説教よろしく言われる筋合いはない。「どのツラ下げて!」ってなもんである。

もちろん「六輔は後年これを歌詞に昇華させたのだから、これはこれでイイ話なのだ」という考え方もあるだろうが、それは私小説作家が「こりゃネタになるわい!」といって我が身の破滅を喜ぶような倒錯的な心理に通じるものがあり、素直に肯んじるワケにはいかない。少なくとも世間の良識を重んじるブルジョワ新聞としては筋が通らないのではないか。ひょっとしたらメイコが書いた元々の文章を読んだら、そこにはもう少し微妙なニュアンスが込められているのかもしれないが、この天声人語を読む限りではそう断ずるほかない。

というワケで、オレ的には「なんだか酷い話もあったものだ」と思ったのだが、しかるにこのコラムでは、なんだかこれが「いい話」の実例みたいになって話は後段に続いていくのだった。

   *  *  *  *  *  *  *

ここでオレがふと対置してみたくなったのは、中島みゆきの名曲「化粧」である。これは振られた女の歌である。自分はつきあっていた男が大好きなのに振られてしまった。せめて「こんなことならあいつを捨てなきゃよかったと 最後の最後にあんたに思われたい」。だから「化粧なんてどうでも思ってきたけれど 今夜死んでもいいからきれいになりたい」。彼女は切に願うのだった。

そしていよいよバスに乗って男の前から立ち去らねばならぬ瞬間がくる。しかし涙はどうしたって見せられない。というか、そんなミジメな自分は見せたくない。それが彼女なりの最後の意地なのである。だから心でこう繰り返す。「流れるな涙 心でとまれ 流れるな涙 バスが出るまで」

さて、「別離の涙」に関して人間の真実に迫っているのは中村メイコの回顧するエピソードか、それとも中島みゆきの「化粧」か。その結論は言うまでもなかろう。コラムの冒頭にこの「上を向いて歩こう」を置くのは、どうしたってムリがあるのだ。天声人語の筆者は人間にたいする洞察力が甘い。そう言わざるを得ない。(おわり)




















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読ませる新聞コラムにはオチが必要だ。そこまで読んできた読者を「あぁなるほどそうなんだ!」と納得させられるかどうかがコラムの生命線である。

さて、そこで今朝の朝日新聞「天声人語」である。一読して仰天した。最後の一句、いったい何を言いたいのか全然わからないのだ。

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要するにこのたびのトンガの火山大噴火について書いている。「大変であろう、心配だ」というようなことを言いたいらしい。だが大災害に際して大変だ心配だというのは誰でもできる。そこから一歩進んで、何か新たな切り口、新たな視点でもみせてくれるのだろうと思って読んでいくわけだが、最後「太平洋の真ん中で起きた大地の慟哭である」といってイキナリ終わってしまった。

「何ソレ? 慟哭ってナニ?」とオレは思った。

もちろん「慟哭」という言葉の意味は知っている。「悲しみに耐えきれないで大声をあげて泣くこと。号泣すること」である。つまり天声人語子は今回の噴火について「大地が嘆き悲しんで泣いているのだ」と言っているのである。いやいや違うだろう、泣きたいのは現地の住民だろうとオレは思った。大地が泣くというのは一体どういうことなのか全然わからない。

「ひょっとしたら大噴火でみんなが困っているのを見て泣いているということかな?」と思ったが、しかし自分が大爆発を起こしといてソレはないだろう。支離滅裂である。こうなってみると「慟哭」の文字につけられたルビが痛々しい。

ひょっとしたら筆者はいわゆるガイア仮説、つまり
地球を「自己調節能力を持ったひとつの生命体」と考える奇っ怪な理論にかぶれていて、環境を無茶苦茶にされた地球が泣き叫んで爆発したと言いたいのかなと思ったのだが、いかんせん文章はココで終わっているので確証がもてない。仮にそういうことを言いたいのなら、分かるように書かないとダメなので、いずれにせよ失格である。

どうしてこんなワケのわからないコラムを書いてしまったのか。

以下はオレの推測だが、たぶんこの筆者は「大噴火だ
大変だ心配だ」というコラムを書こうと思ったのだろう。だが別に内から湧き出る深い洞察があるわけでもない。ダラダラと書いていってそろそろオチを作らねばならないがアイデアもない。

「しょうがない何か雰囲気のある文句でも一発ぶちかまして終わるとするか。そうだ大地が泣いているというイメージはどうだ? なんとなくそれっぽくネ?」といって不用意にこんな文章を書いてしまったのである。もともと「擬人化」というのは天声人語お得意のテクニックである。ただ、この場合は大地を擬人化する必然性がない。論理的に考えると全く意味不明である。だが雰囲気なんかあるよネで強行突破してしまったのである。たぶん。

こんど高校の国語に「論理国語」という科目ができるようだが、その授業でこんな文章を書いたら0点必至である。書いてる人はここいらでもいちど高校行って「論理国語」勉強してきたら良いんでないか。そんなことを思った今朝の天声人語であった。(おわり)



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ただでさえ過疎化が進んで人外魔境状態のブログである、定期的に何かアップしないとさらに寂寥感が漂ってくるのだつた。なので本日は手抜きでスマンが、Twitterに載せたヤツを再録してごまかすのである。

なお、時間がたつと書いてあることの意味がわかんなくなってしまうかもしらんので念のため背景説明をしておくと、たまたま今年(2021年)のプロ野球では、それぞれ前年最下位だったヤクルトとオリックスが大したカネもかけずに優勝した。そこで天声人語は「ほれみたことか」といって金満巨人を批判するネタに使ったのであるが、ここでオレは「朝日新聞も別のジャンルではおんなじようなことやってるヤン」とご丁寧に教えてあげたのだったw。


今朝の朝日新聞「天声人語」。ヤクルトとオリックスをダシに金満巨人軍を皮肉っている。それはそれでイイのだが、だったらオレがいつも言っているように、読売で実績を上げた読書委員を引き抜いてくる朝日新聞読書面の手口も反省したらどうか
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久しぶりに朝日新聞の「天声人語」を取り上げる。

けさの「天声人語」は、今年の本屋大賞を取った町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』に引っかけた話を書いている。この受賞作は「苦境にあっても誰からも顧みられない孤独な人たちをめぐる救済のものがたり」である(らしい。オレも実は読んでいないのだ)。

ちなみにこれは今回の受賞を取り上げたニュースにはもれなく書いてあるけれども、クジラの中には他の仲間たちの聞き取れない52ヘルツあたりの周波数でしか鳴くことができず、結果的に孤独に生きていかざるを得ない個体がごくまれにいるらしく、作品のタイトルはそんなエピソードを踏まえている。

まぁたいへん良さげな本である。なのでそういうのを紹介するのは大変結構なのだが、後段がいけない。天声人語子は今回の受賞作と最近のコロナ禍をひっかけた話をはじめてしまうのだった。例によってネットではカネを払わないと「天声人語」を見られないので、最後の部分をここに提示しておく。


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「コロナ下ではみんな声を出すのを控えるので人間の距離感が広まってしまう、孤独を深める人が出てきてしまう、これではいけません」というようなことを言っている。

だが、これはちょっと違うだろう。

本当の孤独というのは単に「物理的に周囲に誰もいない」「他者の声が聞こえない」といった状況とイコールではない。一番きつい孤独というのは群衆の中で感じるものだ何故なら他のみんなが仲良くやっているのにオレひとりがそこからはじき出されているのだという場面、それこそが人間にとって一番つらく悲しいものだから。

自分の声は誰にも届いていないと嘆いている人はコロナの前だろうが後だろうが常にいて、コロナだから余計に増えているとかそういうことはあるまい。

その時々の話題を二つ三つ、互いに関わりがあるかのようにくっつけて書けば時事コラムのできあがり。そういう安直な態度がこのコラムの底にすけてみえる。



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久々に天声人語をくさす。

今朝の朝日の天声人語
は、新型コロナの厄除けということで昨年から「アマビエ」が注目されているがその手の信心というのは「蘇民将来」みたいに古くからあったのだ、人間はいつもそういうものにすがりたくなるものであるなぁというゆーような話を書いておった。もちろん、ここにはいろいろと問題がある。

肥後国海中の怪(アマビエ/アマビヱ)


とりあえず今はやっているアマビエについていうと、アレは突如出現したアマビエが「これから疫病が流行するから、そんときは私の姿を描き写した絵をみんなに見せなさい」と言っていたという話であって、別に「そうしたら疫病よけになる」とゆーようなことは一切言っていない。よって、あのアマビエは信心すれば厄除けになるというような解釈を勝手に下すのは、ありていにいって「誤報」である。訂正していただきたい(笑)。

それからついでにいうと、このコラムの書き手は「蘇民将来」の話を聞いたので――とかいって蘇民将来の最古の護符が発見されたとゆー京都の長岡京市を訪ねて取材をしているのであるが、この蘇民将来の話はそこいらじゅうに広まっているものであって、たとえばオレの故郷の氏社は八坂神社なのであるが、スサノヲをまつるこの神社には(たぶん全国津々浦々)もれなく蘇民将来のおはなしが伝わっていて、実際オレなども帰省した際にはもれなく蘇民将来の由来の記されたお札を頂いて帰ってくるのである(今年は残念ながら行けなんだが)。

そういう意味でいうと、天声人語子は別にコロナ禍のなかムリに長岡京までいく必要はさらさらなく、近場の神社を探してそこに取材をかければそれで済んだのだが、何故かそういうことをしない。なんというか、こういうところに「権威のありそうなところについフラフラと寄っていってしまう」という朝日の良くない部分がにじみでている。

さらにもうひとつ言っとくと、まぁこの手の護符なんてものに新型コロナを防ぐ効用は一切ないので、いよいよ緊急事態が訪れつつあるいまの日本にあって、そんなものに頼ってしまう人間の哀しさに詠嘆してもしょうがねえだろうそんなこと言っとる場合かコノヤロウ、という感想をオレは抱いた。






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朝日新聞でオレが楽しみにしている数少ない企画のひとつ、「アロハ記者」シリーズが本日の朝刊でまた始まっていた。今回のタイトルは「こりずにアロハで猟師してみました」というのである。

エセ紳士がバッコする朝日新聞の社内にあって、この手のお行儀の悪い連載は「いかがなものか」的なマナザシを浴びていることが予想されるのであるが、こうやってたびたび紙面にサバイバってくるあたりは流石である。

そういえば、作曲家の團伊玖磨には「パイプのけむり」と称する大長編エッセイシリーズがあった。で、「続パイプのけむり」「続々パイプのけむり」あたりまではまだ分かるのだが、「なおかつパイプのけむり」「どっこいパイプのけむり」などと奇妙なタイトルをつけてはしつこく刊行を続け、このシリーズは結局27冊に及んだ。今回のアロハ記者シリーズが第何弾になるのかは知らんが、どうせならこれぐらい続けて頂きたいものである。

閑話休題。で、再開第一回目はどういう話であるかというと、アロハ記者のもとには社の内外から弟子が集まってきていて(むろん百姓の仕事を教えてほしいという弟子ではなく、ジャーナリストとしての弟子である)そこには一種の「私塾」みたいなものが生成しているのだが、筆者は別に謝礼をもらうでもなく飲み会のカネなんかも自腹を切って出している。であるならば「その分は働いて返してもらうぞ」というワケで、弟子たちをフル活用して長崎の田んぼは現在耕地面積拡大中――といったストーリーである。


いやはや、こりゃすごいことになってきたなあと思う。

というのも、もともとこの企画というのは、社外でライター活動もしている朝日新聞の記者が「上の人間に睨まれて朝日をクビになっても最低限メシは食えるように自分で田んぼを作ってみよう」という初期設定のもとに始まったものである。その辺がいつのまにかどっかいっちまって、今では「都市文明や新自由主義に抗するための砦を田舎に築くのだ」みたいな話になってないか。

もちろん長編マンガとかが延々続いているうちに「最初のあの話どったの?」みたいになってしまうことはよくあるし、テレビの「鉄腕ダッシュ」なんかも最初は「地図上にダッシュ村という地名を載せたい」とかいって始まったものがいつの間にか完全に違うものになってしまった。なので、当初の意図から離れておかしな方向に逸脱していくのもアリだろう。

で、オレはこれ読んでて思ったのだが、アロハ記者は長崎だか大分だかに作りつつあるのはひとつのコミューンなのではないか。加えて注目すべきは、辛酸なめ子さんも挿絵のイラストの中で「ハーレム状態」という言葉を使って触れているが、このグループには若い女性記者・ライターが陸続と詰めかけているらしく、その限りでなるほどハーレムみたいに見えるということである。

コミューンに集まる若い女性――というと、ジジイ世代であればすぐ思い出すものがあろう、そう、キリスト者の千石イエスが作った宗教的コミュニティが世間から「洗脳してハーレム作ってるンじゃね?」とかいって糾弾された「イエスの方舟事件」である。

まぁアレなんかは実際な真面目な聖書研究サークルみたいなもので全然ハーレムとかじゃなく、いわば濡れ衣だったのであるが、とまれ我々の耳目を引いた出来事であった。確か「転移21」の山崎哲が劇にしたのを若き日のオレも観に行った記憶がある。

いや、話がやや遠回りしたけれども、今回の新シリーズは「若い女性がいっぱいいるコミューンは現代に成立するのか」という方向に暴走していったらどうか。いやどうかとかいってももう構想は固まってるだろうからムダなのだが。まぁ不定期連載だというので、その行く末を見守りたい。

追記

なお、オレはこの企画について「田舎は基本的に閉鎖的な社会で、そんな牧歌的なイイ話ばっかじゃないだろうよ」というような嫌みを再三書いてきたのだが、今回の記事で筆者は「オレは7年間もまじめに米を作り続けてきたんだよ、地域社会に根付くためにはそれぐらいのことしねえとダメなんだよ、話はそっからよ」的なタンカを切っていて(いや正確にはそこまで言ってないのだがw)オレ的にはなんかとても面白かった。




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朝日新聞にはパブリック・エディター制度というものがある。社の内外の人間に「朝日の報道姿勢を検証してもらいましょう」といって提言をしてもらう制度だと思われ――オレの記憶では確か例の「慰安婦誤報事件」を反省して作ったものであったハズだが――それはともかく、朝日の社員としてそのパブリック・エディターをやっておる山之上玲子という人が最近書いた「政権評価の声、感じ取れたか」という原稿がTwitterなどでそこそこ話題になっているらしい。

オレ流に乱暴に要約すると「朝日新聞はずっと安倍政治を批判してきたが、安倍政権への支持率はけっこう高くて、こないだの世論調査では実績を評価するという人が71%もいた。朝日はこれまでそういう人たちが考えていることを軽視したり無視してきたのかもしれない。私たち、これはちょっと反省したほうがいいかもね」という主張である。

だが、これに対するオレの感想は「バカバカしい!」の一語に尽きる。

いつも言っているように、朝日新聞は常に庶民の味方を気取っているのだが、最近の庶民はほとんどが「政治なんてもの、ま、こんなもんじゃネ?」とかいって安倍独裁政権を支持してきた。笛吹けど踊らず。こりゃどういうことなんだ? おれ達どっかヘンだったかな? 朝日新聞がそう自問したくなるのはワカル。

ワカルけれども、オレからすりゃそりゃ多くの国民がバカだからそうなっているだけの話であって、いまさら猫なで声を出して「皆さんが安倍支持した理由とか、私たちもちゃんと耳を傾けるべきでした」などと言ってもムダである何となればバカにつける薬というものは無いから。

「庶民は正義である」というタテマエがある以上、なかなか言いづらいことではあるのだろうが、山之上玲子記者もこんな下手に出る必要はさらさらなく、例えばエーリヒ・フロムでも引用して自ら自由を捨てて権力に盲従する大衆心理の愚でも説きつつ、「お前ら国民のオメデタイのにはほとほと呆れたゼ」か何かいって国民大衆にケンカを売るべきだったのである。


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さて、本日9月16日に安倍内閣は総辞職し、菅政権がスタートする。

そんなタイミングにあわせてということなのだろう、本日の天声人語は安倍政治の総括のようなことを書いている。

オレなりにまとめると、「経済政策はまずまず良かった。だが、モリカケなどの疑惑については全部誤魔化して国民が忘れるのを待つ、という姑息な手段をとってきた。なんとも酷い政権であった」といった内容である。

まぁ基本的には正しい認識だと思うのだが、一番最後のところまで読んで「ん?」と思った。


▼それでも支持は離れないだろうとおごり、世論とはそんなものだと高をくくる。安倍政権の姿を、菅政権は継承するのだろうか。


いや、「世論とはそんなものだと高をくくる」とか言われても、実際、世論はこの間ずっと安倍政権を容認してきたではないか。どんな悪辣なことをしようが選挙をすれば自民党は連戦連勝だったわけで「それでも支持は離れなかった」し、「世論とはそんなもの」だったのである。

いちおう民主主義のタテマエからいえば、選挙で勝てば「あぁ、モリカケなんてものは選挙民は大して気にしてないんだ」と考えても別に間違いではない。それを「おごり」だとか「高をくくる」とか批判されても自民党としては困ってしまう。「だって自民党勝ったでしょ?」てなもんだ。だとすれば、天声人語がここで批判するべきは「そんな自民党に平気で票を入れてしまうアホな国民」だったのである。

だが、およそ朝日新聞というのは「庶民大衆というのは権力者によって抑圧されているかわいそうな人びと」というステレオタイプをもっているので、「大衆はバカだ」ということをよう言わん。安倍がどんなヘタを打ってもここまで政権を続けてこられたのは、要するに大衆がアホだったからである。それを言わずして、安倍が「おごっている」とか言ってもムダである。結果、今回も残念ながらまったく説得力のないコラムになってしまった。言うまでもなく、菅政権はそんな「安倍政権の姿勢」を継承するのである。

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【追記】
と言っていたら、発足したばかりの菅内閣の支持率は74%だったそうだ(日経新聞の世論調査)。愚昧な国民はこうやって自公永久独裁政権をずっと支持し続けていくのであろう(笑




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もともと「UFOがどうこう」だとかそういうネタばっかり書いているこのブログであるから、もとより来訪者がやってくることなど殆ど期待してはいない。

それでも時として意外なリアクションというものがあるにはあって、例えばオレは朝日新聞に不定期連載されていた「アロハで田植えしてみました」「アロハで猟師してみました」という所謂「アロハ記者シリーズ」が好きで、これをネタとしてツッコミを入れつつ感想を記すエントリーを何度か当ブログにも書いてきたのだったが、この5月、その書き手である朝日新聞記者・近藤康太郎氏とおぼしき人物からのコメントが当ブログに書き込まれていたのだった(よく見たら連絡先の記載があったので迷惑があってはイカンと思って今は非公開にしてある)。

要するに「ブログで意見を頂戴したお礼に新著を寄贈したいのですが」という話であり、つまり著者はエゴサの結果、こんな辺境ブログにまでやってきたということだったのであろう。オレとしては「おぉよくぞこんなトコまで!」&「好き勝手なこと書いてるのに何と殊勝な人なのだろう!」という驚きと若干の喜びとがあったのだけれどもよくよく考えると、その厚意に甘えたりすると、今後新シリーズが始まってまたネタにしようという時に批判の筆が鈍るオソレがある(笑)。

なので、今回は自腹でその本を買ってきて感想文を書こうと思った。さいきんようやく読み終わったので、以下、その「感想文」を記すことにした。で、その新著というのは『アロハで猟師、はじめました』である(たぶん)。

アロハで猟師、はじめました
近藤康太郎
河出書房新社
2020-05-23


一言でいうと、著者は洋楽やら文芸・思想に詳しい朝日新聞の名物記者である。だが愛社精神みたいなものは持ち合わせていないアウトローで(この辺に好感を抱く)、社外でのライター活動とかもとても大事にしている人らしい。で、そういう人間なので、「このご時世、好きなこと書いて生きていくためには会社から放り出されても最低限の食い扶持が確保されていたら安穏であろう」という発想から、長崎の田舎の支局長に転じたのを機に朝の1時間だけ野良仕事をして田んぼを作るというプロジェクトを開始する。彼はその後、異動で大分の田舎の支局に移るのだが、「狩猟もすればオカズもとれて宜しかろう」ということで、この間、鉄砲撃ちや罠猟の修行なども着々と進めていったのであった。

この間の出来事は順次朝日新聞の記事に連載され、オレもそれを読んできたのであるが、すべてを書き切ることもできないのでモノしたのがこの『アロハで猟師、はじめました』ということらしい。一言でいうと、この本は田舎暮らしでもとりわけその猟師仕事の日々を記したものである。

この本、こないだ毎日新聞の書評で社会経済学の松原隆一郎氏も激賞していたけれども、結論からいうと、たいへん良い本であった。もちろんこの企画にはネタ臭が色濃く漂っている。過去のエントリーでも書いたことだが、そもそも充実した年金制度で知られる朝日新聞の記者がこれから「生活に困る」事態に陥るのというは考えにくいコトであり、「万一に備えて田んぼを作り狩猟をする」必然性はたぶん皆無である(笑)。

ただ、そんな半分冗談みたいなところからスタートしてはいるけれども、とりわけ今回の猟師シリーズは自らの手で鹿を殺す場面を詳細・精密に描いたりしている。これはマヂである。「他の生きもののいのちを頂いて生きていくしかない人間存在の哀しさ」みたいなものを真正面から見据えている。「動物かわいそう」みたいなアホを相手に商売していかなきゃいけない日本の商業新聞の限界にも果敢に挑戦している。とても良い。

もっとも、違和感がないではない。

著者はいわゆる新自由主義的な経済至上主義に違和感をもっているようで、それに対し、農作物や狩猟の獲物を融通しあうような田舎の「贈与の社会」を対置して描いている。そりゃもちろんそういう地域の絆というのは素晴らしいモノかもしれないが、もともと田舎出身のオレなどからすると、そこんとこはちょっと美化しすぎじゃねーかと思わんでもない。

田舎というのは、確かに「インナー・サークル」に入ってしまえば生きやすい。ただし、一般論ではあるがいきなりやってきた「ヨソ者」に対して田舎の人々は総じて冷たい。アイツは何者か。仕事は何だ。何しに来たのか――徹底的に観察し、詮索する。で、害がなさそうだ、地域の和を乱すようなことはなさそうだという話になって、ようやく間合いを詰めてくる。うまくいけば仲良しだ。要するに視線は内向きである。

そういえば最近のコロナ禍でも、田舎で感染者が出れば「どこの誰だ?」「アイツは何してたんだ?」と地域はパニック状態に陥り、感染者やその家族は「和を乱した連中」ということになって吊し上げられてしまう、という話も聞く。麗しき相互扶助は、実は外部に対する強い警戒・閉鎖性と表裏一体じゃないのか、日本の田舎というのは全然変わっていないんじゃねーかと思う。著者がうまいこと地域に溶け込めたのは、もちろん一流新聞の支局長という立場もあったろうし(朝日新聞の支局長というのはおよそ日本のどの地域にあってもVIPである)、文章からも伝わってくる陽性で開けっ広げなキャラというのもあったのではないか。根が陰気なオレがこんなことしようとしても、そもそも洟も引っ掛けられまい。

とまぁいろいろ思うところもあるが、都会でサラリーマンをしている身からすれば「う~ん、これでいいのかなぁ?」と思うことはままあるわけで、「いやオルタナティブはナイでは無いンだぜ」という著者の体を張った挑戦は魅力的である。眩しい。

現在は大分県日田市で仕事をしているようだが、このところの大雨で被害とかはないのだろうか? とまれ、また新聞で「続報」など読めれば、と思う。



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 黒川弘務・東京高検検事長の賭けマージャン疑惑について、朝日新聞社は20日、同社の50代男性社員が黒川氏とのマージャンに参加していたとして「不要不急の外出を控えるよう呼び掛けられた状況下でもあり、極めて不適切な行為でおわびする」とのコメントを出した。
©一般社団法人共同通信社


というニュースが流れている。以前からオレが言っているように「朝日≓反体制」というのは半ば「商業左翼」というか販売政策的なカンバンであって、現場の記者レベルでは体制と結構ズブズブだったりする。その辺はこのあたりのエントリーでも書いていたことである。「何をいまさら」の感アリ。

*追記 最初「朝日記者」としていたが、元記者だったのでタイトル訂正
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