カテゴリ: 朝日新聞を嗤ふ

今朝の天声人語はフランツ・カフカをネタにしていた。まぁオレもカフカは嫌いじゃないのでそれはそれでイイのだが、今回は日本語表現が稚拙だったのでその点を指摘しておく。

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問題は「20世紀を代表する作家がチェコ・プラハに生まれ、きのうで140年を迎えた」という表現である。この言い回しだと「カフカは実は存命で、きのう140歳になった」という誤読を誘うおそれが大きい。

筆者はたぶん「いや、だからソコは140歳じゃなくて140年と書いてるわけで。それに朝日新聞の読者はインテリばっかなンでカフカが故人なんてのはジョーシキなんだよ。誤読なんて言い出すのは無学なヤツなんでほっとけや」とでも言うのだろうが、やはり文章としてコレはおかしい。

ご説明しよう。

この文章の述語は「迎えた」という言葉であるワケだが、じゃあその「迎えた」主体は何なのか。そういう風に考えると、コレはどう考えても「カフカ」以外に主語は見当たらないのである。そうすると「カフカが140年を迎えた」という事になるワケで、これもまた日本語としてはヘンだが意味としては「カフカが140歳になった」と理解するほかないのである。

要するにかくも日本語能力を欠いた人間が看板コラムとか書いてていいのかということをオレは言いたいのだった。

念のため添削してやると「20世紀を代表する作家が140年前のきのう、チェコ・プラハに生まれた」とかサラッと書けば良いのである。オレの言語感覚だと「140年前のきのう」という表現を使うのはあんまり好かんのだが、まぁ許容範囲だとして。 (おわり)


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役所広司がカンヌ映画祭で最優秀男優賞を受賞したのだという。慶賀すべきことであろう。というわけで、今朝の「天声人語」もその話を取り上げている。

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だが、残念なことに今回も出来がよろしくない。

役所の出演したその映画は「パーフェクト・デイズ」というのだが、この作品を撮ったビム・ベンダースは小津安二郎監督に心酔しており、それ故に小津映画には欠かせない名優・笠智衆をも高く評価している。そういう経緯もあったので、贈賞式でベンダースは「私の笠智衆」という言い回しで役所広司を讃えた。

今回の「天声人語」はその逸話に全面的に乗っかってしまった。かつては
笠智衆がおり、そして現代には役所広司がいる。日本の名優の系譜に新たな一頁が加わった良かった良かった――そういう話に仕立てている。

がしかし、オレは一読、なんだか腑に落ちない感じに襲われた。よくよく考えてみると、このコラムは役所広司を讃えるというよりも、むしろ笠智衆を讃えるような構造になっている。試しに「笠智衆さん」「笠さん」という言葉が何度出てくるか数えたら6回。一方で「役所広司さん」「役所さん」は3回である。

今回の栄誉のヌシは役所広司なのである。今日のところは彼にスポットを当てる原稿を書かねばならない。なのにそこが倒錯している。役所広司だって確かに笠智衆へのリスペクトはあるだろうが内心は「オレはオレ。芸風も何も全然違うのに一緒にすなや」と思ってるのではないか。結果的に今回の「天声人語」もピント外れの内容に終わった。




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いまの天声人語の書き手の中には帰国子女がいるらしい。

この点については先に当ブログでも触れたところであるが、改めて繰り返すならば、文脈的には何の必然性もないのに「オレ(若しくはワタシ)、イタリアで高校生やってた時に現地でエゴン・シーレみたことあってさー」といって天声人語子が「自慢」する回があったのだ(もひとつ付け加えておくと、これは朝日新聞主催のエゴン・シーレ展宣伝のために書いたものであるようだ)。

その時は、なんだかこうやってお育ちの良さ・文化資本の潤沢さを誇示するような姿勢は何とも鼻持ちならないということを書いたワケだが、さて、今朝の天声人語でもまた「帰国子女ネタ」が使われていた。

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その一部をここに貼っておく。

これはそもそもどういう話かというと、村上春樹がこのあいだ『街とその不確かな壁』と題する新刊を刊行したのであるが、実はこの作品、彼が若い頃に書いた『街と、その不確かな壁』という中編を書き直したもので、今日の天声人語はそのあたりのことをネタにしている。

いや、別にそこから深い教訓とかは全く得られないので内容はどうでもイイのだが、気になったのは上にも貼った一節である。要するにここでは、「自分は英国で大学生活を送ったのだが当時現地の図書館で『街と、その不確かな壁』を読んだことがあったなぁ」ということを言っている。

「ふむ、別にアンタがイギリスでその作品を読もうが読むまいが関係ないだろ。それこそ何かの伏線なのか?」と思ってオレは先を読み進めていったのだが、なんとコレは別に何の伏線でもなく、このエピソードは全く回収されないまま終わってしまったのだった(強いていえば、春樹はのちに世界的に有名になるというくだりが関係しているという主張もありうるかもしらんが、別にこの人が英国の大学で春樹を読んだことと春樹の国際化は全く関係ないので無理筋である)。

さて、そうしてみると、この「英国で読んだ」というくだりは全く論旨に関係がない。つまるところ、「オレ(若しくはワタシ)って若い頃から世界に出て国際派だよなぁ。なんたって春樹の『街と、その不確かな壁』読んだのもイギリスだったしさぁ」ということを書き手は言いたいのだろう。ドヤ顔が見えるようである。

かくて今回の天声人語からも「帰国子女であるオレ(もしくはワタシ)ってスゲエ」という嫌味なエリート主義が行間からにじみ出てしまった。今日の書き手が前回の「イタリアでエゴン・シーレ展をみたオレ」と同一人物かどうかは定かでないが、仮にその手の書き手が二人いたとしたらそれはそれでスゲーと思う。

そしてとりあえず言えることは、前回オレが親切心から「こういう書き方は止めたほうがイイよ」と書いたことは彼らに全く伝わっていなかったということで、つまり彼らはこんな辺境ブログの天声人語批判など全く見ていないのである(当たり前だがw)。




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けさの朝日新聞に、昨年まで天声人語を担当していた記者が「あのコラムを書くにあたって心がけていたこと」というようなテーマで原稿を書いていた。

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これはその一部であるが、なかなか正直に書いてあって大変宜しいと思った。

要するに「なんか世間で話題になっておるテーマがあるのでソコに引っ掛けて書かないとイカンがなかなかうまいこといかず適当に小手先で原稿をデッチ上げてしまい、読者にお叱りを受けたことがありました」ということを言外に匂わせている。

この記者がわざわざこんな辺境サイトを覗きに来るわけはないのでここでいう「読者」がオレである可能性は3ミクロンもないのだが、オレが再々述べてきたようなことは連中も如何ほどか反省しているようであると知って「少し見直したゾ」といったところである。

今後もこういう反省の上に立ち、小手先の作文技術でごまかすようなことは禁じ手としていっていただきたいものである。(おわり)


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今日からWBCの日本戦が始まるというので、けさの「天声人語」はWBCの煽り記事である。尤もその出来は今回も些か苦しい。例によって冒頭部分とオチの部分を貼っておくが、文章表現上の稚拙さが目立つ。

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ひと言で要約すると「1913年の大リーガー来日から110年を経て、今度は日本人大リーガーも参加してずいぶんとレベルの上がった日本代表が世界各国と戦うことになった。何とも晴れがましいことである」みたいなことを言っている。

ただしこのコラム、レトリックをハズしている。1913年の時は「大リーガーの場外弾で昼寝中のカラスも驚いたことであろう」みたいな記事がたまたま朝日新聞に載ったというので、最後を「今回の初戦ではカラスも驚くプレーが見られるか」と締めている。しかし残念でした、今回のWBCは国内ではもっぱら東京ドームで試合を行う。仮にあの辺にカラスの巣があったとしても場外弾でカラスが驚かされる事態は100パー起こりません(笑)。

些事といわれるかもしらんが、それぐらい調べて書いたほうがよろしい。コラムというのは、このシメがユルいといくら良いことを言っても全然心に響かないのである(今回も別に良いことは言ってないけれども)。







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久々に天声人語ネタである。

オレは常日ごろ天声人語子の高踏趣味・貴族主義にはヘキエキしているのだが、今朝のヤツがまさにその典型であつた。

どういう話かというと、ただ単に「東京都美術館でエゴン・シーレ展をやっているのを観に行きました」という、ただそれだけのことなのだが、それではコラムにならない。なので適当に理屈をデッチ上げている。それが最後のパートであって、エゴン・シーレのような「とんがった芸術」は平和な時代でないと 受け入れられないのだ皆さん平和を守りましょう、みたいなことを主張している。

ここでイロイロと疑問が兆す。

まず「とんがった芸術」というのは何なのか。とんがるも何も芸術というのはそもそも唯一無二のやむにやまれぬ表現行為であるハズだから、部外者であるアンタの主観で「これはとんがってる」「これはとんがってない」などと判定を下すのは不遜である。

さらに、百歩譲ってこの「とんがった芸術」なるものが特別なモノとして存在するとして、それが人々に理解されるためには平和が必要だという主張は正しいのだろうか。確かにこのコラムの中段にはナチスドイツが「退廃芸術」と称して一部アートをダンアツした事例が紹介されているワケだが、だからといって「平和じゃないとダメ」という一般化がどこまで可能かは相当に論証が難しい問題のような気がする。

とまぁここまで書いてきたのは実は本筋とはあまり関係ない話である。オレがこのコラムを読んでスコブル不快になったのはその冒頭部分なのだった。天声人語子は「実はオレ(ワタシかもしらんがとりあえずオレということで)、39年前にイタリアで高校生だった時にエゴン・シーレ観てるンだよね」と言っている。

だがしかし。よくよく考えると、この「若き日にイタリアでエゴン・シーレを観て衝撃を受けた」という話は最初に紹介したこのコラムの本筋とは殆ど関係がない。別にイタリアで観ようが日本で観ようがそこに本質的な違いはなく、高校生で観ようがジジイになってから観ようがこれも別に関係はない(いや「若い時に見たら違う」という議論もありえるがオレ自身がジジイだということもありここではその説は却下するw)

天声人語子は39年前におそらく親の仕事かなんかでイタリアに住んでいたのであろう。最近の「日本の安月給じゃもう死ぬので外国に脱出します」みたいな人とは違い、当時海外で生活していた人というのは相当に社会的階層が上のほうの人たちである。要するにエリートである。この39年前の話には当然そういう含意がある。

つまり天声人語子はここで「やっぱ若い頃に本場でアート鑑賞とかしてねーとホンモノはわからんよね」とさりげなく自慢をしている。そういうオレサマがコラムを披瀝しているのだからして、シモジモの者どもは謹んで静聴セヨという威圧的な空気が漂ってくるのである。

アホらしい。エゴン・シーレを観るのにそんな能書きは要らん。というか、そんな上から目線でエゴン・シーレいいよネみたいな話をされたら、フツーの人間は「けっ、そんなもん観に行くかよ」となってしまう恐れがある。逆効果である。オレが何度も注意をしてあげているのに、どうも朝日新聞の悪しきエリート主義は改まることがない。

PS ついでに言っておくと、朝日新聞社は東京都美術館でやっとるエゴン・シーレ展の主催者の一角を占めている。「なんか書いてよ」と事業部から頼まれたのかもしれない(笑)。

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本日10月3日から、また今年もノーベル賞各賞の発表が始まるのだという。いわゆるノーベル賞ウィークの始まりである。

そんなタイミングにあわせて天声人語もノーベル賞ネタをぶっ込んできた。一読、とても良いことを言っていると思った。

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要するに日本のメディアは毎年やたら「日本人受賞者」にこだわり、誰か受賞したら「日本の誉れ!」とばかりに大騒ぎするけれども実はココには欺瞞がある。たとえば日本生まれなんだけれども日本の研究環境があまりにショボいので仕事のしやすいアメリカに渡ってそのまま米国籍を取ってしまった人なんかも勝手に日本人扱いして「日本人の受賞××人目(米国籍取得者も含む)」とかワケのわからん報道をするのがデフォルトなのだった。

けさの天声人語は要するに「そういうことでいいんですかネ?」ということを書いている。ということはおそらくこれからの朝日新聞は「日本人の受賞××人目(米国籍取得者も含む)」みたいなコスい表現はやめて、日本国籍もっている人限定で「日本人ノーベル受賞者」をカウントしていくことにしたのだろう。ヨカッタヨカッタ(仮に違ってたらまた批判させてもらいますわw)



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今日は夏の高校野球の決勝戦。

そういうこともあってか、今朝の天声人語も高校野球ネタである。その内容をひと言でいうと、戦時中には高校野球も勇ましい「戦争」のアナロジーで語られ、高校球児が「戦士」扱いされたこともあったんだがそういうのってイヤだよね、平和な時代の高校野球ってイイよね――という話である。

まぁそりゃそうかもしらんけれども、しかしオレなどに言わせると、そういう不条理な軍隊式というのは今の高校野球にも根強く残っているのではないか。

例の「丸刈り」強制というのは一部に見直しの動きもあるようだが、まだまだその影響は強く残っている。

それから高校球児が真夏の炎天下で試合するのもいつのまにか「季節の風物詩」扱いされているンだが、野外に出ているだけで生命の危険が生じるようになった現代日本において2時間も試合させられたらコリャ罰ゲーム、というか虐待ではないのか。ここはひとつ、京セラドームに場所を移して「夏の京セラ大会」と改称すれば京セラから広告費用も引っ張れるだろうし、例年「死のロード」で苦しむ阪神の救済にもなり、一石三鳥である。

本当に軍隊式がイヤだというなら、今すぐやるべきことはたんとある。その辺に踏み込むことなく自社の事業を讃仰するだけでは、高校野球を軍国主義の宣伝に使った戦前の朝日新聞と何等かわらない。(おわり)







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今朝の「天声人語」について一言。

今回の内閣改造では悪名高き衆院議員・杉田水脈が総務大臣政務官に就任したのだが、今日のはこの問題に触れている。

杉田というのはゲイやレズビアンは「生産性」がないとかいってヒトをモノ扱いしたのが問題視され、結果その文章を載せた「新潮45」が廃刊になってしまうという大惨事をもたらした希代のワルである。要するに自民党の国粋主義勢力を代表する人物の一人で、こないだ亡くなった安倍晋三の「ひいき」で無理矢理比例名簿に横入りしてきて当選してしまったことでも有名だ。

ということで、今回のは「こういうクソ右翼を総務大臣政務官などに就けてはいけません」という趣旨の話であり、オレもその主張自体には全く異論はない。異論はないンだが、今回は文章作法上とても見逃せない表現があったので指摘しておくことにした。

それは、最後の文章に出てくる「それにしても」という一文である。

これはオレの年来の持論なのだが、コラムのたぐいで最後に「それにしても」とかいって流れをぶった切って話をまとめに入るのは愚の骨頂である。ちゃんとそれまでの文章の流れを踏まえて自然と着地するのがコラムの絶対条件であり、「それにしても」などと言い出すのはその努力を放棄したことのあかしである。

いやこれはコラムには限らず、たとえば「それにつけてもカネの欲しさよ」という文句はいかなる短歌のケツにつけても収まりが良い、などとしばしば言われるワケだが、つまりそういう汎用性のある言葉というのは逆にいえば創造性や独創性をテッテ的にスポイルし、凡庸なものを作り出してしまうのである。

いちおう朝日新聞の目玉コラムということになっているのだから、こういう基本ぐらいはちゃんとしていただきたい。(おわり)














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今朝の天声人語がまた酷い出来だったので、やんわりと指摘をしておこう。

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今回のテーマは「外交官の追放」という話である。このたびのロシアのウクライナ侵攻に伴って、日本からもロシアの外交官ら8人が追い出されたというニュースがあったので、それに引っかけたコラムになっている。

まぁそれはそれでいいのだが、今回のにはコラムとして読むに堪えない部分がある。冒頭部である。

どういうことかというと、ここではまず「命のビザで有名な杉浦千畝は戦前、当時のソ連当局に睨まれて外交官として着任するのを阻まれたことがあった」という話がでてくる。確かにそういう事実はあったのだが、その文章がスコブル複雑な構造になっている。

コラムはまず、「唐沢寿明さん演じる若き外交官がソ連着任を拒まれる」という映画があった、という文章から始まる。次いで「その映画は杉原千畝を描いた作品であった」という。実際の史実はどうだったかというと、映画に描かれたように杉原千畝は本当にソ連着任を拒まれた。こういう経緯があったために杉原は別の任地であるリトアニアに着任することになったのだ、という風に話は転がっていく。

が、しかし。

ここまで読んでオレは思った。冒頭の「唐沢寿明」という名前を出すことに何の意味があったのだろう? 別に唐沢が杉原を演じてようが演じてまいが、杉原が「ペルソナ・ノン・グラータ」で拒否されたことは事実なのである。唐沢云々の情報は全く余計なものである。もっといえば読者は「何か伏線あるんかいな?」と思って先を読まされることになり、そこにひっかかりというか、心的な負担が生じる。そして当然それは何の伏線でもなかった。

最近話題の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に引きつけていえば、「大泉洋さん演じる武家の棟梁が、盟友だった上総の豪族を謀殺する。鎌倉幕府を立てた源頼朝を描いた大河ドラマの一場面である。これを機に鎌倉の武士集団の統制を強化した頼朝は平家打破に奔走する」みたいなハナシであるワケだが、そうやって置き換えてみると、ここで別に大泉洋が登場する必然性はゼロであることがわかるだろう。

なんでこんな意味不明なことをやったのか。

以下はオレの推理だが、このコラムの書き手は自らの筆に自信がない。なんとかして読者に読んでもらうには冒頭の一行目にキャッチーなコトバを配すればよかろう――そう考えた彼は有名な役者である「唐沢寿明」の名前を冒頭にぶち込むことにした。コラムの展開上何の必然性もないが、一般読者は「唐沢寿明」とあるのを見ると反射的に「ん?」と反応してしまう。筆者はそのような姑息なテクニックを使ったのである。


だがしかし、最後まで読んでみれば何のことはない、読者は「なんだアレは撒き餌だったのか」と気づいてしまうことになる。結句、オレのような人間にこうやって突っ込まれることになる。策略は失敗におわったのである。(おわり)

PS ついで言っておくと、せっかくそうやって撒き餌に使わせてもらったのだから唐沢の出た映画の名前ぐらい書いてやれよ。しょうがないのでオレが書いておくが、それは『杉原千畝 スギハラチウネ』(2015)である



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千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希が10日の対オリックス戦で完全試合を達成した。奪三振19(日本記録タイ)という快投ぶりで脱帽するしかない。今シーズン連戦連敗の阪神に彼が来てたらなぁと思うが、いまさら詮方ナシ。

それはともかく、相当にインパクトのあった出来事ということなのだろう。今朝の天声人語はさっそくこの話をネタに取り上げていた。が、しかし、今回もちょっとおかしいのではないかと思う部分が幾つかあった。


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まず「160キロ台の速球に、猛者たちのバットが空を切る」とあるけれども、これは野球をよく知らない人間の表現である。

この日の試合についていうと決め球として機能したのはむしろフォークボールだった。奪った19三振も、うち15三振まではフォークで取った。確かに直球が早いからフォークが打てないワケだが、なんだか直球一本やりで打者をきりきり舞いさせたみたいな書きぶりである。実に素人くさい。いくら160キロの速球でも変化球全然投げられなかったらプロの打者はちゃんと攻略する。プロを舐めてはいけない。


それから佐々木朗希というと、高校時代、「連投させて故障させてはイカン」というので夏の甲子園岩手県大会決勝で投げさせてもらえなかったエピソードで有名である(それでチームは負けた)。今回の天声人語でもこの話が取り上げられていて「こんな大記録も達成できたし、あのとき無理に投げさせなくて良かったネ」という意味のことを書いている。

まぁフツーは「そうだよなー」と思って読み過ごしてしまう部分であるが、よくよく考えると、コレは「超一流選手にとっては高校野球などしょせん通過点。もっともっと成長するためには高校野球で勝つより大事なことがあるだろう」ということを言っているに等しい。

要するに「高校野球<プロ野球」「高校野球はプロ野球の踏み台」という話である(もちろんこれは超高校級選手に限った話であるが)。

オレもそういう価値観はあっていいと思う。現に春夏の甲子園はプロを目指す選手の公開セレクション大会になっている。しかし、よくよく考えると、夏の甲子園を主催している朝日新聞は「高校野球は教育の一環」とか言ってなかったか?

「 ここで無理して故障したらプロに行けなくなるかもしらんので連投は止めさせよう」という考え方が「教育的」かというと、なんか違うような気がする。そもそも教育の手段であったハズの野球が、そこでは「目的」になってしまっているのではないか。

・・・ということで、天声人語はここで「高校野球はプロへの踏み台」説をうっかり肯定してしまったのである。まぁ朝日新聞が「高校野球は教育の一環説」はウソくさいので止めたということならばそれでスジが通るが、果たしてそうなのか。

というわけで、今回もいろいろとおかしな表現が目立つ天声人語。原稿は書き上げてから20回ぐらい読み返し、過去の言動とのムジュン点とかぬるい表現がないかとか確認した上で出稿するがよかろう。(おわり)












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オレはプロ野球の阪神ファンなのだが、ご承知のように本年――すなわち2022年の開幕早々、わが阪神はなんとしょっぱなから9連敗という最低最悪のスタートを切った。ようやく昨4月5日、わが阪神は令和の新怪物・佐藤輝明の初ホームランなどもあり、最終的には4-0で快勝した。西勇輝あっぱれの完封劇である。


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さて、それはそれで大変結構な話なのだが、たまたま一夜明けての「天声人語」がその辺りに絡んだ話を書いていて、しかもその出来が豈図らんや、最悪なのだった。

どういうことか。以下に説明したい。

このコラムで冒頭紹介されるのは、1955年のシーズンで当時存在した「トンボユニオンズ」という球団が開幕12連敗を喫したというエピソードである。筆者はこのユニオンズが如何に弱小球団だったのかという話を繰り広げたあと、阪神もこの連敗記録に迫るかと思ったけれども甲子園を包むファンの歓喜のうねりの中で阪神は何とか勝ちきったとか何とかいって、最後を「負けが込んでも熱いファンはトンボと決定的に違った」と締めくくっている。

ちょっと何を言いたいのかわかんなくてしばし困惑したのだが、30秒ほど黙考した結果、これは最終的には「阪神ファンは負けが込んでもちゃんと応援をして勝利を後押しした。阪神ファンは素晴らしい」という事を言いたいのだろうと思った。うむ、まぁそれはそれでイイのであるが、気になるのは一番最後の「(阪神の)熱いファンはトンボと決定的に違った」というくだりである。

要するに「トンボユニオンズというのはあまりにも弱小でロクなファンもついていなかった、だからオマエら弱くてすぐ消滅しちまったんだよ」という事を言っているに等しく、その情けないファンを「素晴らしい阪神ファン」の引き立て役に仕立てているのである。

いや、ちょっと待ってくれ。

阪神ファンを讃えるのは良いのだが、しかしよそのチームにだって一生懸命なファンはついている。仮に弱小だって「オレがついてるぞ」といってずっとついてくるファンは絶対いる。戦後カネがなくて存続が危ぶまれた弱小・広島カープが市民からの「樽募金」とかで何とか生きながらえた――なんて話は阪神ファンのオレですらグッとくる(そうした意味で金満野球の巨人には全く共感できないのだが)。

ということでいえば、いくら戦後の泡沫球団の一つだったトンボユニオンズとて、そこには必死に応援したファンはいたハズなのである。いまだって「弱かったけどオレ好きだったんだよなー」とか心中に良き思い出を抱えて生きているジジイは絶対いるハズなのである。

オレが推測するに、この筆者は――あるいは阪神ファンなのかもしれないが――全国にファンの多い阪神ファンにゴマをすることで好感度を上げようと考えたのではないか。そこで「オマエら知らんだろうけど、戦後、スゲー弱いチームがあったんだぜ」という文脈で、つまり道化役としてトンボユニオンズを持ち出したのだった。

先に述べたように、オレは阪神ファンだが、ヨソのチームだとかファンをことさらにバカにしようとは思わない(巨人ならびに巨人ファンに対してのみそういう気分がないことはないけれども)。なぜなら彼らもまた野球ファンであり、そこにはどこかで連帯があるのだと思っているから。

そういう意味では、この天声人語には全然野球愛が感じられない。あまりに浅い。阪神ファンだからといって、そんな底の浅い「おべっか」を頂戴しても全然嬉しくはない。(おわり)


追記
なお、この翌日の4月6日の試合は、阪神が9回二死までリードしてたのにそこから追いつかれ、結局1-6でボコボコに負かされた。そのあと、スタンドでは激高した阪神ファン同士がスタンドでケンカを始めて救急車が出動するなどスゲエことになったらしい。「・・・阪神ファンを褒めたのは間違いだった。ちょっと舐めてたわ」と筆者も今頃反省しているのではないか(笑









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米アカデミー賞授賞式で、ウィル・スミスが「妻を侮辱された」といってプレゼンターを壇上で殴打した事件が話題になっている。今朝の「天声人語」はこの話を取り上げて「暴力ハンタイ!」という主張を展開している。

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この件についてはウィル・スミスを擁護する議論も一部にあるわけだが、まぁ「暴力ハンタイ!」という主張は当然あってよい。よいけれども、今回の天声人語の論理はデタラメである。

どういうことかというと、筆者は今回のウィル・スミスの殴打事件から、例の「忠臣蔵」を連想したという話を始める。要するに「忠臣蔵というのは吉良上野介をイキナリ殺害したテロ事件。あんなものを褒めるのはどうかしとる。いきなり暴力ふるったという点ではウィル・スミスも同罪である」といった意味のことを言いだすのだった(この要約はオレ流なので原稿には必ずしもこういう表現が使われているわけではない)。

しかし忠臣蔵――というか「赤穂事件」をここで引き合いに出すというのは全く的外れである。

これはよく国内の戦争責任論争で出てくる話にも通じるのだが、要するに朝日新聞はここで「昔おきた事件を現代人の倫理規範で断罪する」という挙に出ているのである。

ちなみに戦争責任論では、ネトウヨが「だって戦前は西洋の先進国はそこらじゅうに植民地作って収奪してたジャン。日本が大陸進出したのも同じようなもので、いまさら日本だけ責められるのは納得できんわ」ということをしばしば主張する。つまり「当時は当たり前だったことを現代の規範で批判されてはかなわん」と言うのだった。

実際には明治以降の日本の大陸進出というのは(とりわけ満州事変以降だが)当時の国際ルールに照らしても相当に非道なものであった。なので、このネトウヨの主張はおかしい。おかしいけれども、一般論としていえば「今の視点から昔の人々の行いをアレコレ論評する」という行為は、いわゆる「ウワメセ」で相当に下品である。

そして今回の天声人語はまさにその下品なふるまいに出てしまった。

じゃあ朝日新聞は「バスチーユ監獄を暴力で急襲するなんてのは許せない。フランス革命は平和裏にやるべきだった」とか仰るのでしょうか? そんな平和的になんてできなかったからフランス革命は起きたんじゃないスか? あるいは大化の改新(いまは乙巳の変とかいうらしいが)で中大兄皇子が蘇我入鹿を殺したのは「ゼッタイダメ」だったんでしょうか?

あるいは50年100年前の事件であればこの手の論法が通用することがあるかもしらんが、300年前の赤穂浪士について「倫理的におかしい!」とか言われても困るのである。こういう具合に、当時の状況など一切斟酌せずに「暴力はゼッタイいけませんな」と説教を始めてしまうところに朝日新聞の悪しき伝統が見え隠れする。


追記

そういえば同じく今日の朝日新聞の「論壇時評」にも気になる表現があった。
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これは外部執筆者の東大の先生の原稿なので朝日新聞自体がどうこうという話ではないのだが、冒頭、今回ロシアがウクライナに侵攻した理由についてはいろんなものを読んでみたが全然「得心」できなかった――ということを言って識者の論考にイロイロ注文をつけている。

これもどこか朝日新聞の悪しき貴族主義と通ずるところがあると思うから敢えて触れるのであるが、そんなことを言いだしたらナチス・ドイツがなんであんなことをしたのか、誰も「得心」なんかできないだろう。得心なんかできないのは百も承知、というかそれを出発点とした上で、それでも何とか了解できないものかと思ってこれまで思想家たちはナチズムとは何かを懸命に考えてきた。

ここでオレは具体的にはエーリヒ・フロムだとかハンナ・アーレントのことを頭に浮かべているのだが、つまり彼らは得心はできないにしても「あぁナチスの蛮行というのはどっかで自分たちと連なってるところがあるのかもなあ」という認識に到達したのだった。ハナから「もうアイツらの言い分なんて一ミリもわからんわ」みたいな態度を取るのは知識人としてどうなのよとオレは思う。




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13日の天声人語は竹倉史人著『土偶を読む』を肯定的に紹介していた。これはたいへんにマズい。

この竹倉という学者は人類学が専門のようで、考古学は門外漢であるらしいが、「様々な土偶はつまるところ植物をかたどったものである」という仮説を打ち出し、この本を書いた。するとそれが気鋭の学者の登竜門といわれる「サントリー学芸賞」を取ったりして、だいぶん評判になってしまった。オレの記憶では確か毎日新聞の書評で中島岳志氏も褒めていた。

だが、オレの見聞きする限り、これは考古学の世界では牽強付会の説としてトンデモ扱いされているらしい。オレも実際にこの本を読んでいるワケではないが、そもそも土偶のモチーフというものをそんな一律に決めつけるというのはかなりムリがあるのではないかという気がする。

フツーに考えても、土偶なる土人形をつくるにあたって「植物モチーフオンリだかんネ」みたいな植物シバリが作り手たちの間にコンセンサスとしてあったワケはなかろう。「いや、オレ女性像作るから」とか言いだすヤツは絶対いるに決まってるのである。

とまれ、考古学に命賭けてる連中から総スカンくってる珍説を、あたかも有望といわんばかりに紹介する。まさに学問の軽視である。

朝日新聞は日本学術会議の人事に政府が介入したのを盛んに批判しておるが、学問の世界の自立性をないがしろにし、学問をボートクしているのは朝日新聞ではないのか。










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春のセンバツ高校野球の出場校選出をめぐって、問題が起きているのだという。

一般的に、春のセンバツというのは前年秋の地方大会の結果を踏まえて出場校を決めるシステムになっている。今回問題となったのは東海地区の選考であったのだが、この東海地区には出場枠が2つある。となると、昨年秋の東海大会の優勝・準優勝校が選ばれるのが当然ということになるわけだが、先の選考委員会では準優勝の聖隷クリストファー(静岡)が落ちて、4強止まりの大垣日大(岐阜)が選ばれてしまった。「いったいどういうことなんじゃ?」と一部関係者が怒っている。そういう話である。

さて、そういうバックグラウンドを踏まえての本日の朝日新聞スポーツ欄の記事である。

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一読オレは「奇妙な記事だ」と思った。とりわけ「いまだ釈然としない」という冒頭の一語である。

というのも、オレの目からみると、今回の騒動はそれほど意外ではなかった。「こういうこともあるだろうな」と思った。そして、それは高校野球を担当している記者でも同じで、こういう事態が起きることは十分に予期していたハズなのである。なのにカマトトぶっている。「釈然としない」とか今更言っている。それがウソくさい。こういう偽善が朝日新聞なのだよなあと改めてオレは思うのだった。

「いや、これって十分意外でしょ? こんなおかしな話があっていいわけないでしょ」という声が聞こえてきそうだが、じゃあなんでオレは「こういうこともありうべし」と言っているのか。よろしい、以下に説明しよう。


「特に投手力で差があった。春の選抜大会では失点の多いチームは厳しい」。選考にあたった関係者はこういう発言をしているらしい。つまり大垣日大には全国で通用するマトモな投手がいるんだが秋大会ではたまたま実力が発揮できず、その間隙をついて投手力の貧弱な聖隷クリストファーが準優勝をかっさらっていきやがった、コリャ大垣日大出したほうが勝てるやろ、という理屈なのである。

まぁこういう風にあからさまに言われてしまうとちょっと鼻白んでしまうワケだが、実はこういうロジックは既に高校野球界に蔓延しているのである。

ようするに、大会関係者は春のセンバツを盛り上げたいのである。スゲー才能のある野球小僧たちが160キロの剛速球投げるとか超ハイレベルなプレイを見せて、「おぉ!」とかいって国民に驚いてほしいのである。であれば、超一流の素材をもつ選手に登場してもらうにしくはない。「才能のある選手なんか皆無のどっかの公立高校の弱小チームが力を合わせ、あれよあれよという間に強豪を連破して甲子園出場」みたいなことになると、むしろ困るのである(聖隷クリストファーはそういうチームではないだろうが、相対的にはそういう「実力もないのに勝ち上がってきやがったヤツ」扱いをされている)。

そしてこういう状況は野球名門校の側にとっても願ったりかなったりである。各地の有望な野球少年をかきあつめて甲子園にでも出りゃPR効果はバツグンである。開催者側も超一流選手に出てほしいし、高校側も「ウチにはこんなのいまっせ!」といって超一流選手を送りだしたい。実は高校野球界にはこういう共犯関係があって、その結果どういうことが起きたかというと、春夏の甲子園大会は「プロ野球予備軍のセレクション大会」になってしまったのである。

今回の一件に即していうと、そうはいっても夏の甲子園に出るには勝って勝って勝ちまくるしかないのだが、春のセンバツは都合が良いことに(笑)秋大会の結果が絶対ではなくてモロモロの事情を勘案して出場校を決めるシステムになっている。「じゃあ大垣日大のほうがええやろ」。そういう判断を下したのであろう。


さて、ここまで説明すれば、先の朝日新聞の「いまだ釈然としない」という一句が如何にわざとらしいかが分かるだろう。この記者だって、最先端の高校野球が「プロ野球予備校」に化しつつあることぐらい知っているだろう、高校野球の担当してるなら。

今回の大垣日大騒動は、たまたまあまりにもあからさまな事をしてしまったものだから、問題の本質が露呈してしまっただけの話である。

しかし、オレが長年指摘しているように朝日新聞は「夏の甲子園」の勧進元ということもあり、そういう病理の根っこになかなか迫れず、いつまでも「教育の一環としての高校野球」みたいなお題目を唱えている。まぁそういう事情もあるので「いまだ釈然としない」とかいって、いったん怒ったようなフリをしてごまかしているのだが、それでいいのか。今回の記事を読んだオレは改めてそう思った。(おわり)


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石原慎太郎が亡くなった。

これを受けて本日の「天声人語」も石原追悼である。だが、やはりというべきか、またまた粗雑なことが書いてある。

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問題なのは


それでも人気は衰えず、政界で存在感を示し続けた。それも一因だろうか。「率直」と「乱暴」の違いをわきまえられない、幼稚な政治家が相次いでしまった

というくだりである。

確かにオレなども石原は乱暴極まりない男で政治家としては失格だったと思っている。

帰属問題で中国ともめている例の尖閣諸島などは、もともと民間人が所有しておったのを「これはオレ様が責任をもって管理してやろう」(意訳)などといって都知事時代の石原が東京都として買い上げようとしたもんだから、当時の民主党の野田首相が「いや、そういうことだったら国で買いますわ」といって国有地にした。

それまでは中国もいちおう「あそこオレの領土だから」といいつつ、どっかのオヤジが所有している島であるかぎりは実際上放置していたのであるが、ここが日本の国有地ということになるといわば日本政府から「改めて言うとくがここは日本のものだからな!」とケンカを売られたに等しく、それ以降ガンガン公船を出してきては中国が「ここはオレのもの」アピールをおっぱじめたのは周知の通りである。

まぁ専制国家中国が何をゴーマンなことを言うとるかとオレなども思うけれども、しかし外交というのは如何に向こうが理不尽であっても、そこは表向き無用な争いを避ける工夫をするのが常道である。隣家の下品なオヤジが如何に気に入らなくとも、よほどのことがなければそこは殴り合いにならないよう自制するのが大人というものである。


と、余計な話をしてしまったが、要するに石原にはそういう大人の知恵がなかった。日中激突の火だねを広げたのは彼である。そういう意味では「天声人語」が石原にネガティブな評価を下しているのは正しい。

だがしかし、「天声人語」は石原憎しのあまり、余計なことを書いてしまった。「幼稚な政治家が相次いで」いるのは石原が「政界で存在感を示し続けた」ことが一因かもしれない、などと言っている。

これはちょっと無理なロジックである。如何に石原が大衆の人気者であったからといって、他の政治家が彼のスタイルを真似たとはとても思えない。なんとなれば彼は一般の世間常識からすればとても異常な男だったからである(東日本大震災の際に「天罰だ」と言ったことは有名である)。

政界においても、作家上がりの単なる変わり種として珍重された面こそあれ、フォロワーがたんといたわけではない。あんなものが政治家のロールモデルになるワケがないのである。ワガママ放題のことができたのは、政治家失格でも彼には「文壇」という帰っていく場所があったからである。

そうしてみれば現代の政治家が「幼稚」なのは別に石原どうこうとは関係ないだろう。さしあたってオレがその理由として考えているのは「国民が幼稚になったから」であるが、それはここでは触れない。

要するに「天声人語」は、石原の死をなんとか日本社会のいまに接続して意味づけようとしたのだろう。そしてそれに失敗した。世の中は「天声人語」が考えているようなそんな簡単な図式で動いているワケではないのである。(おわり)

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昨日に続いて「天声人語」のことを書く。今朝の「天声人語」もオレには何だか納得がいかなかったからである。

今日の「天声人語」がどんな話だったのかというと、ひと言でいえば「とりわけ感受性の高い若い人間は自らの生涯を左右するような素晴らしい言葉と出会う瞬間がある。そういう言葉を大事にしてネ」というものである。要するに「杖言葉のススメ」みたいなものである。

実はこれ、朝日新聞が中高生を対象にやっている「私の折々のことばコンテスト」という事業の宣伝も兼ねているようで、そこは若干鼻白んでしまうところもないではないのだが、まぁそういう主張自体は悪くはない。悪くはないンだが、論の進め方に大いに問題があった。

どういう事かというと、冒頭部に置かれたエピソードがよろしくない。記事の冒頭部も貼っておくが、以下、オレ流にかみ砕いてしばし説明してみよう。

――中村メイコがボーイフレンドの永六輔を振って、別の男(つまり神津善行だろう)と結婚することになった。そのことを告げられた六輔が泣き出してしまったので、メイコはおそらくは狼狽したのだろう、「どうしよう?」ということで父親に電話をした。すると、父親(中村正常という作家のようだ)はこんなアドバイスを発したのだという。



「上を向いて帰りたまえ」と伝えたまえ。「涙がこぼれないように」とね。


それでメイコは親の言ったとおりに六輔に向けてこの言葉を発したのだが、六輔はよほどこの体験が忘れがたかっただろう、そのフレーズを後年名曲の「上を向いて歩こう」の歌詞にそのまんま用いたのだった・・・・・・とまぁこんな話である。

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で、この導入部を読んだオレは何だか腹が立った。振られたからといって泣きだす六輔も六輔であるが、メイコもメイコである。振った相手が目の前で泣いてるのに「涙がこぼれないように上を向いて歩けばいいじゃないの?」とは何たる言いぐさか。いかに父親から伝授されたからといって、そんな言葉を六輔にぶつけるのは残酷すぎるのではないか。百歩譲ってそれがどっか心に染み入る言葉であったとしても、自分を振ったメイコから説教よろしく言われる筋合いはない。「どのツラ下げて!」ってなもんである。

もちろん「六輔は後年これを歌詞に昇華させたのだから、これはこれでイイ話なのだ」という考え方もあるだろうが、それは私小説作家が「こりゃネタになるわい!」といって我が身の破滅を喜ぶような倒錯的な心理に通じるものがあり、素直に肯んじるワケにはいかない。少なくとも世間の良識を重んじるブルジョワ新聞としては筋が通らないのではないか。ひょっとしたらメイコが書いた元々の文章を読んだら、そこにはもう少し微妙なニュアンスが込められているのかもしれないが、この天声人語を読む限りではそう断ずるほかない。

というワケで、オレ的には「なんだか酷い話もあったものだ」と思ったのだが、しかるにこのコラムでは、なんだかこれが「いい話」の実例みたいになって話は後段に続いていくのだった。

   *  *  *  *  *  *  *

ここでオレがふと対置してみたくなったのは、中島みゆきの名曲「化粧」である。これは振られた女の歌である。自分はつきあっていた男が大好きなのに振られてしまった。せめて「こんなことならあいつを捨てなきゃよかったと 最後の最後にあんたに思われたい」。だから「化粧なんてどうでも思ってきたけれど 今夜死んでもいいからきれいになりたい」。彼女は切に願うのだった。

そしていよいよバスに乗って男の前から立ち去らねばならぬ瞬間がくる。しかし涙はどうしたって見せられない。というか、そんなミジメな自分は見せたくない。それが彼女なりの最後の意地なのである。だから心でこう繰り返す。「流れるな涙 心でとまれ 流れるな涙 バスが出るまで」

さて、「別離の涙」に関して人間の真実に迫っているのは中村メイコの回顧するエピソードか、それとも中島みゆきの「化粧」か。その結論は言うまでもなかろう。コラムの冒頭にこの「上を向いて歩こう」を置くのは、どうしたってムリがあるのだ。天声人語の筆者は人間にたいする洞察力が甘い。そう言わざるを得ない。(おわり)




















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読ませる新聞コラムにはオチが必要だ。そこまで読んできた読者を「あぁなるほどそうなんだ!」と納得させられるかどうかがコラムの生命線である。

さて、そこで今朝の朝日新聞「天声人語」である。一読して仰天した。最後の一句、いったい何を言いたいのか全然わからないのだ。

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要するにこのたびのトンガの火山大噴火について書いている。「大変であろう、心配だ」というようなことを言いたいらしい。だが大災害に際して大変だ心配だというのは誰でもできる。そこから一歩進んで、何か新たな切り口、新たな視点でもみせてくれるのだろうと思って読んでいくわけだが、最後「太平洋の真ん中で起きた大地の慟哭である」といってイキナリ終わってしまった。

「何ソレ? 慟哭ってナニ?」とオレは思った。

もちろん「慟哭」という言葉の意味は知っている。「悲しみに耐えきれないで大声をあげて泣くこと。号泣すること」である。つまり天声人語子は今回の噴火について「大地が嘆き悲しんで泣いているのだ」と言っているのである。いやいや違うだろう、泣きたいのは現地の住民だろうとオレは思った。大地が泣くというのは一体どういうことなのか全然わからない。

「ひょっとしたら大噴火でみんなが困っているのを見て泣いているということかな?」と思ったが、しかし自分が大爆発を起こしといてソレはないだろう。支離滅裂である。こうなってみると「慟哭」の文字につけられたルビが痛々しい。

ひょっとしたら筆者はいわゆるガイア仮説、つまり
地球を「自己調節能力を持ったひとつの生命体」と考える奇っ怪な理論にかぶれていて、環境を無茶苦茶にされた地球が泣き叫んで爆発したと言いたいのかなと思ったのだが、いかんせん文章はココで終わっているので確証がもてない。仮にそういうことを言いたいのなら、分かるように書かないとダメなので、いずれにせよ失格である。

どうしてこんなワケのわからないコラムを書いてしまったのか。

以下はオレの推測だが、たぶんこの筆者は「大噴火だ
大変だ心配だ」というコラムを書こうと思ったのだろう。だが別に内から湧き出る深い洞察があるわけでもない。ダラダラと書いていってそろそろオチを作らねばならないがアイデアもない。

「しょうがない何か雰囲気のある文句でも一発ぶちかまして終わるとするか。そうだ大地が泣いているというイメージはどうだ? なんとなくそれっぽくネ?」といって不用意にこんな文章を書いてしまったのである。もともと「擬人化」というのは天声人語お得意のテクニックである。ただ、この場合は大地を擬人化する必然性がない。論理的に考えると全く意味不明である。だが雰囲気なんかあるよネで強行突破してしまったのである。たぶん。

こんど高校の国語に「論理国語」という科目ができるようだが、その授業でこんな文章を書いたら0点必至である。書いてる人はここいらでもいちど高校行って「論理国語」勉強してきたら良いんでないか。そんなことを思った今朝の天声人語であった。(おわり)



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ただでさえ過疎化が進んで人外魔境状態のブログである、定期的に何かアップしないとさらに寂寥感が漂ってくるのだつた。なので本日は手抜きでスマンが、Twitterに載せたヤツを再録してごまかすのである。

なお、時間がたつと書いてあることの意味がわかんなくなってしまうかもしらんので念のため背景説明をしておくと、たまたま今年(2021年)のプロ野球では、それぞれ前年最下位だったヤクルトとオリックスが大したカネもかけずに優勝した。そこで天声人語は「ほれみたことか」といって金満巨人を批判するネタに使ったのであるが、ここでオレは「朝日新聞も別のジャンルではおんなじようなことやってるヤン」とご丁寧に教えてあげたのだったw。


今朝の朝日新聞「天声人語」。ヤクルトとオリックスをダシに金満巨人軍を皮肉っている。それはそれでイイのだが、だったらオレがいつも言っているように、読売で実績を上げた読書委員を引き抜いてくる朝日新聞読書面の手口も反省したらどうか
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久しぶりに朝日新聞の「天声人語」を取り上げる。

けさの「天声人語」は、今年の本屋大賞を取った町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』に引っかけた話を書いている。この受賞作は「苦境にあっても誰からも顧みられない孤独な人たちをめぐる救済のものがたり」である(らしい。オレも実は読んでいないのだ)。

ちなみにこれは今回の受賞を取り上げたニュースにはもれなく書いてあるけれども、クジラの中には他の仲間たちの聞き取れない52ヘルツあたりの周波数でしか鳴くことができず、結果的に孤独に生きていかざるを得ない個体がごくまれにいるらしく、作品のタイトルはそんなエピソードを踏まえている。

まぁたいへん良さげな本である。なのでそういうのを紹介するのは大変結構なのだが、後段がいけない。天声人語子は今回の受賞作と最近のコロナ禍をひっかけた話をはじめてしまうのだった。例によってネットではカネを払わないと「天声人語」を見られないので、最後の部分をここに提示しておく。


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「コロナ下ではみんな声を出すのを控えるので人間の距離感が広まってしまう、孤独を深める人が出てきてしまう、これではいけません」というようなことを言っている。

だが、これはちょっと違うだろう。

本当の孤独というのは単に「物理的に周囲に誰もいない」「他者の声が聞こえない」といった状況とイコールではない。一番きつい孤独というのは群衆の中で感じるものだ何故なら他のみんなが仲良くやっているのにオレひとりがそこからはじき出されているのだという場面、それこそが人間にとって一番つらく悲しいものだから。

自分の声は誰にも届いていないと嘆いている人はコロナの前だろうが後だろうが常にいて、コロナだから余計に増えているとかそういうことはあるまい。

その時々の話題を二つ三つ、互いに関わりがあるかのようにくっつけて書けば時事コラムのできあがり。そういう安直な態度がこのコラムの底にすけてみえる。



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