映画「Fukushima 50」(2020)を観た。以下感想。
この映画、東日本大震災後の福島第1原発危機をノンフィクション風に描いた作品ということで、公開当時はけっこう話題にもなった。主演は渡辺謙、佐藤浩市。
で、オレも年をとったせいか、すでに福島第1原発危機の展開なんてものはだいぶ忘れてしまっていた。なので「あぁそういやこんな感じだったんだよなぁ。当時はオレらもすげえ不安だったよ」みたいな感慨はあった。そして、「いつもタイヘンな時は現場にしわよせがきて、安全地帯でふんぞりかえってるエライさんは気楽でいいよなあ」という映画の主張自体はよくわかった。わかったんだが、しかし何かどうも釈然としない気分が残る映画であった。
それはどういうことか。
この映画の主人公である吉田昌郎所長(渡辺謙)は「アホな東電本社やトンチンカンな官邸に抗して、ひとり現場で陣頭指揮をして事故を収束に導いたエライ人」という風に描かれている。そりゃまぁこの凄まじい現場で彼がすげー獅子奮迅の働きをしたことは確かなんだが、じっさいにはこの映画で描かれていない重大な事実というものがある。
というのは(これは以前このブログでも書いたことがあるんだが)吉田氏は事故の3年前の2008年、東電の原子力設備部長というのをやっていた。これは原発関連の設備整備を担当する部署なんだそうだが、その頃、社内の調査チームから「福島第1原発には高さ10数メートルの津波がやって来る危険性がある」という報告が上がってきた。当時の吉田部長がどうしたかというと、まぁいろいろと上と相談した結果ではあるのだろうが、最終的にこれに備える津波対策というものを取らなかった。
この「ミス」は全部が全部、吉田所長の責任だったといえるのかどうかはしらん。それこそ「熱心に危険性を訴えたのだが上に潰された」みたいな可能性もある。が、最終的にその時に津波対策をしておけばあの事故は防げた可能性がある。いったん重大事故が起きれば、それこそ日本という国が破滅してしまう危険性を秘めているのが原発である。針の穴ほどの危険であってもそこは十分な手を打たねばならなかった。なのに、それを怠ってしまった。
そういう事実をココに重ねてみると、事故当時の吉田所長を「アホな上司に苦しみながらも仕事を成し遂げた偉人」みたいに単純に持ち上げていいのかという気がする。当時の彼の心中には、そうした過去の「失敗」への贖罪の念があったのではないか。いや、実際に彼がどう考えていたかは分からんが、少なくとも事実に基づくフィクションというのだから、その辺の苦い事実にまで視野を広げてこそ、この映画は単なる勧善懲悪の構図を超えた作品になりえたのではないか(ちなみに作中では吉田所長の「予想もしなかった津波がきた」みたいなモノローグが流れていたが、こういう経緯からするとこれは違うんでないかとオレは思う)。
勧善懲悪といえば、この映画に出てくる首相(佐野史郎)はえらくヒステリックで、いつもやたらと金切り声を上げて怒っている。善玉・悪玉という区分でいうと完全な悪玉である。ちなみに当時は民主党が政権を取っていたから首相は菅直人である。彼も相当に「瞬間湯沸かし器」タイプの人間だったと言われるし、現場がすげー修羅場になっておった3月12日の朝にヘリで飛んできて作業の邪魔をした(これは映画でも描かれていた)というのも事実である。
従って、こういう菅直人批判みたいな演出をするのは別におかしいことではない。ただオレなんかからすると、「政治家批判をここでもってくるなら、菅直人なんかよりもっと悪いヤツいたんじゃねーの?」という気がしないでもない。
あの時点で「まかり間違えば関東含む本州の東日本に人が住めなくなる」みたいな、そういう危険があったのは事実である。で、そりゃ吉田所長率いる現場は死を賭して仕事をしていたにせよ、官邸がコンタクトをとっておる東電本社はなんとも頼りない。そういう場面で首相が激高するのは分からんでもないし、現場にいきなり乗り込んでいくというようなミスも(とてもマズかったのだが)心情的には理解できんことはない。
そこでよくよく考えてみると、そもそも「日本の原発はメルトダウンなんか絶対起こさない」とかゆーてガンガン建設を進めてきたのは民主党が政権をとる前の自民党政権である。そんな負の遺産が時限爆弾よろしくイキナリ爆発したからって、菅直人ばっかり責めるのは酷というものであろう。
ということであれば、もっと責任を負うべき政治家というのは他にいるわけで、たとえば安倍晋三である。
これは事故以前の2006年のことであるが、このとき安倍は首相をやっていた。それで当時の安倍は、原発に詳しい共産党の吉井英勝とゆー議員から「日本の原発いうのは巨大地震で全電源喪失になって冷却できなくなる危険があるからなんとかしろ」という追及を受けていた。
ところが安倍は「原発には非常用ディーゼル発電機が置いてあるから大丈夫っしょ」とハナにもかけない。吉井議員が「しかしディーゼル発電機のバックアップとか複数系用意しとかないと危ないだろ。全然用意たりてないでしょ」とさらに追及しても「いやいやいや全電源喪失は起きないから。そんなん要らんて」ゆーて無視してしまったのだった。
それでどうなったかというと、福島第1ではその非常用ディーゼルが津波をくらってダメになってしまった。そしてあの原発事故というのは、ちゃんとした電源さえ生きていれば起きなかった。吉井議員のいうように、別のもっと安全な場所にリザーブの電力供給源を置いとけばあんな事故にはならんかったのである。
こういう事故回避のチャンスを潰してしまった安倍こそが希代の大戦犯だとオレは思うのだが、たまたま自分トコが政権失ってた時代に事故が起きたので、安倍は鼻クソほじりながら平気の平左で高見の見物をしていたのである。マトモな神経であればその時点で責任を感じて切腹するところである。
もちろん劇中で「あ、そういや数年前、国会で共産党の議員が全電源喪失の危険性訴えてたよな。まさに今回の事態じゃんかよ」みたいなセリフを言わせるのも不自然なのでそれはしょうがないのであるが、なんか「激高する菅直人を演出して事足れり」というのはいかにも浅く思われてくるのである。
というわけでいろいろ不満の残る映画というのがオレの結論である。アメリカで作ったテレビシリーズ「チェルノブイリ」なんかに比べると残念ながら格段劣っている感は否めず、いささか残念であった。