このたびの参院選では新興のカルト政党が大躍進した。明らかなデマを撒き散らすことによって大衆の感情を動かすその手法は、この手の策謀に対する現代社会の脆弱さを改めて指し示したようでもある。
ここでUFO者としての小生が連想したのは、UFOの世界においても一定の影響力を保ってきたカルト的集団の存在である。たとえばユーフォロジーの世界におけるビッグネームであるところのジャック・ヴァレは1970年代、その種のカルトの危険性というものを著書『欺瞞の使者 Messengers of Deception』で説いた。ちなみにここでヴァレが取り上げたUFOカルト「ヘヴンス・ゲート」は1997年にいたって衝撃的な集団自殺事件を起こし、同書が時代を予見したものとして改めて評価されたことはよく知られているところだ。
何を言いたいのかというと、いささか我田引水になってしまうが、こうしたカルトの伸張という問題にかんしては、フリンジ・カルチャーと目されがちなユーフォロジーの知見が実はけっこう考えるヒントになったりする。
そんなこともあるので、今回はこの『欺瞞の使者』の巻末にある「エピローグ」を紹介してみたいと思った。もっともエピローグとはいってもこれを書いたのはヴァレではなく、ハワイ大学社会学部教授・デビッド・スウィフトである(どういう人物かは全然知らん)。なんで敢えてデビッド・スウィフトなのかというと、同書の内容はそれなりに屈曲していることもあるので、その概要を知るには内容を簡潔にまとめたこのエピローグがむしろ格好だと思ったからである。重ねていっておくが、ここで語られていることは決してUFOカルトにのみ当てはまる話ではないのである。
■ハワイ大学社会学部 デビッド・スウィフト教授
本書は、UFOに関して主流をなしている二つの仮説に対して異議を投げかける、もう一つ別の説を提示している。一方にある懐疑的見方はUFOの実在を否定する――そういったものは単なるインチキか幻覚、さもなければごくふつうの物体や自然現象を誤認したものだという。もう一方のアプローチは、UFOは実在しており、それは他の惑星からきた宇宙船なのだという。ジャック・ヴァレも「UFOは実在する」と結論づけてはいるが、それは宇宙船などではないと考えている。彼は、それは人間の信仰を操作するための物理的装置であり、その操作にあたっているのは、この地球上にいる人間なのではないか、ということを示唆しているのである。
我々はそのような説明をどう考えるべきなのだろう? 論拠不十分なのではないか? こじつけなのではないか?
そうも言える。だが、それは他の仮説にあっても言えることだ。UFOについて満足のいくような説明というのは一つとしてないのである。確かにその実在を否定するのは難しい――あまりに多くの天文学者、パイロット、航空管制官、その種の物体を識別する訓練を受けた人々がそれを目撃し、写真に撮り、あるいは光学機器で追跡するような体験を重ねてきた。とりわけ、レーダーと目視によって確認された目撃事例を退けることは困難だ。
しかし、UFOが実在するのであれば、それはいったい何なのか? 地球外起源説には重大な瑕疵がある。宇宙船を建造出来るような存在が宇宙のどこかに住んでいるというのは、ほとんどありそうにないことだ。* だが、宇宙について今日我々が理解しているところによれば、その惑星系を飛び出して彼らがやってくるためには、ほとんど不可能と思えるほどの時間、ないしは高速での移動を必要とするはずだ。そればかりか、ヴァレの観察によれば、たまたま居合わせた地球人と遭遇したUFOの搭乗者が、ひどく狼狽したところをみせた着陸事件が数多くあるのだという。となると、我々としては、そのような目撃事件が人為的に仕組まれたものである可能性を考えねばならない。
ヴァレの仮説にも欠点はある。それは「UFOの目撃を引き起こしているのは誰か」「それはどのようになされているのか」といった点に答えていないのだ。しかし、それは他のアプローチと同じほどには納得のいくものであるし、他に比べて、より優れている点もある――それは信頼すべき何千人もの目撃者から寄せられた報告を否定するようなことはしていないし、我々の今日知っている物理法則にも違犯することがない。加えて彼の仮説は、この現象の背後に「ある計画」が存在することを示唆し、UFOの目撃が社会に重大なる帰結を与えうることを示してもいる。
だが、こうした社会的な帰結について検証していく前に、読者の理解を助けるために、ここでヴァレ自身の科学者としての資質についてザッと触れておくことにしよう。
ヴァレはここで、「宇宙のどこかには生命が存在するかもしれない」と考えている多くの人々のことを言っているわけではない。さらにいえば、彼が直接の関心の対象としているのは、正体不明の奇妙な現象が空中で起きるのを見た多くの人々でもない。そうではなくて、ヴァレはここで、より小さなグループ、つまり空飛ぶ円盤から重要なメッセージを授けられたと称しているコンタクティーたちに焦点を当てているのだ。このようにしてヴァレが剔抉したことから一般論を引き出すとすれば、それはまずもって我々の抱える複雑な問題に対する単純明快なる解決法を提示している。ヴァレはこう警告する。「地球外生命体の介入は平和や、喜び、救済をもたらしてくれる」「円盤は我らがスペース・ブラザーズによって送りこまれたものだ」「我々がなすべきは彼らを信じることであれば、そうすれば我々の問題は解決されるだろう!」――このように語るコンタクティーたちの、疑うことを知らぬ、伝染性に満ちた信仰のうちには危険なものがあるのだ、と。
彼らが語っているのは実に魅惑的なメッセージではある。だが、こんな話を信じ込むようなお人好しが本当にいるのだろうか? その答えは「イエス」である。
UFOカルトは一つの宗教に似たものであって、現代社会に基本的なものとしてある諸問題と格闘中の人々に慰めと希望を与えている。一方で、科学と教育とは、我々を気にかけてくれる慈悲深い神への信仰というものを損なってしまった。ところが科学と教育とは、「我々はどこからきて、どこに行くのか」という問いに対しては、満足するような答えを示してこなかった。
「外宇宙から来た慈悲深き存在は我々を気にかけてくれており、想像もできないような喜びを与えてくれるのだ」という、心安らぐ信仰を我々に差し出すことによって、こうした精神的空白に円盤セクトは忍び込んできた。本書で我々が出会ったUFOカルトの人々の姿のうちに、こうした状況は的確に描き出されている。
こうした言説はUFOカルトの大方の反応をよく要約しているばかりではなく、彼らの中には教育があって、思慮深い人たちがいる――それは「こうした信奉者は無学な農夫や夢見がちな老婦人なのだ」といったステレオタイプとは全く違っている――という事実をも示している。これは次なるポイントへと我々を導いていく。こうしたカルトの未来、そして我々の未来はどうなっていくのか、という問題である。
今のところ、コンタクティーのグループは規模も小さく、UFO現象に対する真摯な探究の足を引っ張っていることを除けば、社会に対してさほどの影響を及ぼしているわけではない。だが、こうした状況はずっとそのまま変わらないままだろうか? こうしたカルトが広範な社会的運動となり、社会に対して実際に挑戦的な姿勢をとるようなことになったら、どんな状況が生じるのか?
そのような運動が勃興するとしたら、それは多くの人々がいまある状況にフラストレーションを感じ、「この運動は事態を改善してくれるのだ」という希望を感じるようになった時のことだろう。こうした希望は外部の人間にはこじつけと映るだろうが、実際のところ、運動がいったん成功を収めはじめたら、そこに便乗してくる非合理主義者は数限りなくいるだろう。一般的にいって、社会的運動に影響を与えるファクターというのものが如何なるものかといえば、それは「社会心理学ハンドブック」の次の記述によく言い表されている。
社会的運動が究極的な成功を収める上でカギとなるのは、その大きさや組織のありよう、指導者の資質、彼らの見解がいかに洗練されているか、といったものではない。それはむしろ、多くの人々が抱いている感情、憤りや心配、恐れ、関心、希望といったものを彼らがいかにうまく表現できるかにかかっているのであり、こうした運動が「広く流布している諸問題を解決するために有効ではないか」と、人々にどれほど思わせることができるかに拠っている。
UFOカルトは広範な聴衆にアピールする。彼らが強調する諸問題というのは、我々の時代がその存在を否定することのできない事実としてある。深遠なる変化はどんな者の身にも及んでおり、とりわけ西洋世界ではそうである。科学、テクノロジー、教育といったものは伝統的な信仰を損なってしまったが、それに十分取ってかわることのできる代用品を用意したわけではない。「神は死んだ」――しかし、その地位を受け継ぎ、我々を導き、安心させ、守ってくれるようなものはいまだ存在しない。家族は縮小し、ほとんど消滅しかかっている。今なお祖父母と同じ家、コミュニティにあって暮らしているような人間は極めて少なくなった。我々が通りですれ違う何百人もの人々の中に、自分を知っている人、自分のことを気遣ってくれる人などはほとんどいない。代々引き継がれてきた古い職業は突然消滅してしまい、人々が生涯をかけて修練してきたような技能は無価値なものとなっている。さらにいえば、こうした社会的・心理学的な意味での懸念に加え、環境汚染やエネルギー危機の脅威、あるいは核戦争がこの惑星上の声明を根絶やしにするかもしれないという懸念もまた、我々の前途に立ちはだかっているのである。
このような問題にまつわる不安感は広く拡散しているけれども、それに対する療法としては様々なものが提起されている。瞑想、政治的なアクション、ドラッグ、宗教といったものである。UFOカルトは、それでは満足できず、幻滅を感じている人々の力を借りて、こうしたものすべてに対抗している。UFOが他のものに抜きんでて支持を得るチャンスがあるとしたら、それはどんなものだろう? 円盤セクトは他のものが提供できないものを有しているのだろうか? それは「空に浮かぶ光」であり、「そこにいる何者かはあなたを助けることができるのだ」というメッセージである。
一瞥しただけでは、こんなものがそれほどの感銘を与えるとは思えないかもしれない。だが、よくよく考えてみれば、UFOというのは他の諸々にとっての手ごわいライバルと見なすに足る特質を備えていることがわかる。
第一に、UFOは他の競争相手のどれにも増して、科学や軍、政府の無能ぶりというものを浮き彫りにしている。これらはいずれも我々の社会にあっては最も力をもっている組織であるわけだが、そのどれもがUFOをうまく取り扱うことができないでいる。30年間の長きにわたって、空飛ぶ円盤は我々の指導者たちをあざわらってきた。彼らはそれを説明することができないが、かといって無視もできず、捕獲することもできなければ、追い払うこともできない。それは大衆の意識の隅っこに浮かんだような存在だが、時にはスポットライトの下に登場して人々を驚愕させ、それから暗闇の中へと退いていく――多くの場合、危害こそ与えられなかったにせよ、その体験によってひどく狼狽した目撃者たちを後に残して。物理学者たちは「それは社会科学者の扱うべき問題だ」と言い、そう言われた途端、社会科学者はこの問題を物理学者と天文学者の側に投げ返す。空軍は20年間にわたってこの問題と格闘した揚げ句、1960年代の終わりにはそこから手を引こうとした。政府はUFOの存在を否定しているが、1973年のギャラップ世論調査によれば、ほとんどのアメリカ人(93%)はUFOについて知っており、1500万人もの成人がUFOを実際に目撃したと考えている。この問題を知っているという人たちに対して「UFOは実在しているのか、想像上のものか?」と質問したところ、「実在している」と答えた人は、1966年には46%だったものが、73年には54%、78年には57%にまで増加しており、逆に「想像上のものだ」と答えたのは78年の時点でたった27%どまりだった。我々を導いてきた組織の信用度を、静穏のうちに、しかしこれほどまでに確実に損なってきたシンボル、過去にはなかった。
第二に、UFOというのは、個々の国や、世代、人種、男女の違いを超えて、あらゆる人々に強い印象を残してきた普遍的なシンボルである。その出現は特別な時代に限られているわけでもない。それは、純朴な人々の目にはキラキラと輝いている泡のようなものに見え、より学のある人の目には優れたテクノロジーの産物のように映る。が、いずれの場合も、そこに通底しているメッセージは言葉にする必要さえないほど明白明快なものだ――この驚嘆すべき物体を作った者は驚くべき知識と力を有しており、この知識と力はあなたを救ってくれるのかもしれない・・・
これは実に魅力的なメッセージだ。そして、それは、我々の抱えた複雑な問題を解消しようとして行われた常識的な試みが失敗するたびに、ますます魅惑的なものとなっていく。天からの救済という考えはますます魅力を増しつつあるように見える。
が、結局のところ、こうした信仰というのは、伝統的な宗教の教義とさほど異なったものではない。慈愛に満ちた存在が天空にいるという考えは、子供の思考のうちに、そして人類の草創期にもその起源を求めることができる。UFOの信仰は、そうした古代の信仰に単に現代科学風の意匠を付け加えているだけなのだ。今は20世紀のテクノロジーによって我々人間も空を飛べるようになり、電波天文学を唱道する人たちは「遠い宇宙の果てには文明がある」と信じるよう我々に促している時代なのだから。
このような状況であるから、UFOを信じるためには別に清水の舞台から飛び降りるような覚悟は必要ないし、そうした信仰が、逃れることのできない諸問題に対して提示されるありきたりな回答に満足できないでいる多くの人々の心を引きつけるのも宜なるかな、というところがある。
では、そのような運動というのは我々にとっての脅威なのだろうか? おそらくは、そうだ。そういったものは、我々の社会を支える合理主義という土台を台無しにしてしまう可能性がある。それらは、現在のシステムを転覆させるにしても全てを自力でなし遂げる必要はない――既に存在する非合理主義の流れを、ただ強めればいいだけなのだ。
「合理よりも啓示」という思考がコンタクティーの信仰の源泉である。これは別に最近生じたものではない。人々が論理よりも天の声に、経験や実験よりも迷信に従った時代というのは過去にもあった。その結末というのはおしなべて悲惨なものだったわけだが。
さて、今や我々は「コンタクティーたちは――おそらくは地球上の或るグループによって――巧妙に操作されている」というヴァレの推論を検討するところまでやってきた。彼は正しいのだろうか? あなたの考えは私と大同小異だと思うのだが、ともあれ私としては、我々は予断に囚われずに心を開き、彼の示す証拠について熟考してみるべきだと提案したい。彼は、とても興味をそそる概念を幾つか提示している。例えば、彼は「我々は目撃者の現実感覚を歪めてしまうようなテクノロジーを既に有している」と記す。テレビは我々の意識をあまりにうまくコントロールするため、時に我々は、目前の光景がリアルなものなのか作り物なのか、実際に起きていることなのか仕組まれたものなのかが分からなくなってしまうことがある。そればかりか広告主は、我々がその商品を欲しがるようなサブリミナルな条件づけ――その際、我々は彼らのメッセージに晒されているという自覚をもてないのである――をも用いている。
そのような仕掛けがいま存在するというのなら、それより発達したテクノロジーを用いた時にはどんなことが起こるのだろう? 我々自身の進歩・発展の歴史を見れば、あらかたの想像はつく。今から一世紀前には、人間が月面を歩き、我々がそのようすを家で見たり聞いたりできるようになる――などというのは、およそありえないことと思われていただろう。今日可能性のあることが、やがて「実現された事実」として日の目をみる、というのは大いにありうることだ。
ヴァレの仮説は、これまでUFO研究者に無視されてきたUFOの或る側面――つまりコンタクティーの社会的影響力といったものを説明しようと試みている。彼らは、「あたかも」本書に列挙された幾つかの原理原則に従って操作されているかのような行動を取っている。ある現象を「あたかも・・・のように」と表現する方法は、物理学や社会学で用いられている。それは非常に有用なものたりうるが、しかし注意深く用いられねばならないものでもある。我々は結果を目的を混同してはならない。或る結果が偶然の産物だということはありうるが、目的というのは意図的なものなのだから。こうした区別をすることは、UFOのようなトピックにおいてはとりわけ重要であり、ヴァレもそのことには気づいている。彼はコンタクティーの信仰がもたらしたものを探り、それから故意に「意図の領域」にいたる境界へと足を踏み入れていく。こうした方法があればこそ、彼はコンタクティーという現象の背後にあるのかもしれない「動機」を識別することができたのである。
ヴァレは恐ろしい結末をもたらすかもしれない或る現象を説明すべく、称賛に値するような努力を積み重ねてきた。彼が正しいのか間違っているのかはわからないし、その真偽が明らかになることはこれからも決してないだろう。しかし少なくともこう言うことはできる――彼は、新旧両大陸のコンタクティー・カルトに対する観察報告を、たいへんな厚みをもったかたちで自ら積み上げ、そのことによって我々の理解を深めてくれたのである。潜在的にとても重要な意味を秘めている一つの社会運動を、才能あふれる手腕を擁して切り取ったこの研究が、社会科学者ではなく物理学者によってなされた、というのは皮肉なことではある。彼が進むべき道を指し示してくれた以上、他の研究者たちはその後に続いていってほしいものだと、私は願っている。(おわり)











