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というわけで全国150万人のオカルトファンが長らく待望していたチャールズ・フォート(1874-1932)の『The Book of the Damned』(1919)が『呪われし者の書』の書名で邦訳され、このほど国書刊行会から出版された。とりあえず読んでみたので以下は感想文。

このフォートという人物については過去このブログでも何度か触れてきたけれども、19世紀末から20世紀にかけて活躍したアメリカ人で、ひとことで言うと図書館に足繁く通うなどして古今東西の奇現象にかんする膨大な記録を収集し、その結果奇現象マニアをさす「フォーティアン」などというコトバが出来てしまったぐらいの伝説の人物である。でもって彼の処女作であるところの『The Book of the Damned』というのは今日言われるところのファフロツキーズ現象にスポットを当てるなどしてその後のオカルト業界に多大な影響を与えたことで名高く、サブカル方面でも小説『涼宮ハルヒの憂鬱』の登場人物・長門有希が愛読・選出したとされる「長門有希の100冊」に入っていることはよく知られた話だ。

加えてオレの興味関心からいうと同書は「われわれは何らかの生物に所有されているのかもしれない」といった名文句でも知られており、つまりは過去地球にエイリアンが飛来していたことを示唆した箇所もあるということで実に近代ユーフォロジーの原点とも言われてきた書なのであった。

であるからして、1919年に原著が刊行されたこの本は本邦にあってもとっくに翻訳されていなければならなかった。じっさいこの本に関しては今から半世紀ほど前、我が国のオカルト研究家にしてソッチ系の翻訳家としても名高い南山宏氏が邦訳を出すというアナウンスが国書刊行会からあり、ワレワレも刊行を楽しみにしていたのだけれどもその話がいつの間にか雲散霧消して出版話が消え去ってしまったという過去がある。

ではなぜそんなことになったのかという話になるワケであるが、オレが推察するところ、その根源はこのフォートという人物のムチャクチャな英語にある。先に触れたようにこの本の翻訳本は全然出なかった。そこでオレはあるとき、英語力不如意をも顧みずじゃあ原文で読んでやろうと一念発起したのだが、受験英語しか勉強したことのないオレには全くちんぷんかんぷん。苦労して最初のほうを翻訳してみたこともあるが(→ココ)何を言ってるかようわからん文章から意訳まじりでどうにか日本語を捻り出すという作業は困難を極め、結局この試みは数ページで挫折した。それは学校で教わった英文法の知識では太刀打ちできない破格の文章というか、ポエムのような文章なのだった。

先に述べたようにして南山氏の訳業が「途絶」したのも、けっきょくそういう翻訳の壁にぶつかったためではないのか。そう考えてオレはすっかりこの本を読むことを諦めていた。だがしかし! その判断は早計であった。実のところ、南山翁はこの翻訳を断念したワケではなかったらしい。翻訳本のあとがきにもお書きだが、南山氏はこの難物を何とか征服すべくその訳業を地道に続けていたのである。こうして2026年の今、税込み5500円と高価ではあるけれども高級っぽい布張り装、マドを空けた函入りの美麗本という体裁で同書は日の目をみた。この奇書とは果たしてどんなものだったか――やたら長々しい前フリになってしまったが、以下が同書の感想文ということになる。



ということで開いてみた『呪われし者の書』であるがやはりコレはなかなか晦渋な書であった。延々と続く詩的なイメージ、やたらもってまわった言い回し。決してスムーズには読めない。だが、それでもフォートが言いたいことは比較的明確に書かれていたように思う。要するにコレは科学批判の書なのである。本書はただ一つ、手を替え品を替えそのことのみ主張しているといっても良かろう。

科学は何かっつーと「そんなことはありえん」とかいってオカルトめいた奇譚を否定する。だが、そもそも正邪、真偽というのはそんなにクッキリ腑分けできるものじゃないダロとフォートは言う。赤と黄色というのはどこで分かれるのか。両者の境界には橙色の領域があるけれども「ここからこっちは赤。向こうは黄色」なんて誰も言えんだろう。フォートはそう力説する。要するに「ここからコッチは真理。向こう側は全部インチキ」みたいな態度で科学の体系を築いてもそんなものは不完全なものに過ぎないという話である。

で、そこからフォートは「バカバカしい」といって科学に排されたものを次々に羅列していくのだが、その多くは空から降ってきたヘンなモノである。黒い雨。赤い雨。魚。蛙。ゼラチン。肉。石灰岩。スラグ。石炭。楔形の石。文字の刻まれた石。後半では空に目撃される魚雷型のモノについての論及もある。

で、彼はそういう奇譚を踏まえた「超地理学」を唱えているのだが、そこで想定されている地球の姿は相当に奇っ怪なものである。オレがちゃんと理解できているかは心許ないが、彼によれば地球の周囲にはゼラチンみたいなものでできた膜があって、隕石はソコを突破して落ちてくるらしい。で、空中にはスーパーサルガッソー海といって魚やら何やらをたたえた大海が浮かんでいるし、氷に覆われた世界、熱暑の世界といったものも浮遊している。加えて外宇宙からは「超巨大空中構造物」とでも言うべきものが地球上空に飛来しており、時に燃料にしている石炭(!)を落としていったりもする。いやそればかりか、外宇宙からやってきた訪問者はかつて地上を支配していたのだという話すら出てくる。例の「われわれは何らかの生物に所有されているのかもしれない」という名文句が出てくるのもこの文脈である。

簡単にいえばコレはそういうムチャクチャな内容の本である。「なるほどコレが天下の奇書と言われたのもムベなるかな」と思って読んでいた。だがしかし、ここから後はちょっぴり辛口の批評になってしまうのだけれども正直申し上げますとこの本、スゲー読みづらかった。

どういうことかというと、先に言ったようにもともとフォートの文章がスゲー変なせいなのだろうが、訳文もまたやたら屈折していて日本語として意味が分かりにくい。よしんば意味はなんとなく分かっても、そこで用いられる比喩やレトリックが理解できずに困惑させられる。そこでいまアトランダムにページを広げて何カ所か引用をしてみようかと思うのだが、たとえば――



あらゆる進歩は法外なものから平凡なものに向かう。つまり、疑似存在は強姦から出発して、やさしく子守歌を口ずさむことに移っていくのである(190p)




私の精神状態は、件の嵐で打ち上げられた漂着物を見つけた蛮人のようなものである。漂着物はピアノの浮きやすい部分と稚拙な彫刻のある櫂、あるいはインド産の軽い夏物衣料とロシア産の毛皮のオーバーである――つまり、科学そのものは多方面から実相に迫るとはいえ、結局は洋島の問題としてインドを考え、また、洋島の角度から解釈されたインドの問題として、ロシアを考えようとする試みなのである(174-75p)




天文学。夜警が半ダースのカンテラを見つめている。通りは掘り起こされている。その近所にはガス灯や石油ランプや電灯がある。ぱっと燃え上がるマッチ、ストーブの火、焚火。どこかで家が燃えている。自動車の灯火、ネオン――(197p)




人間特有の脂ぎった、ぴかぴかの脳味噌。やはりなんらかの使い道があるのかもしれない。異形態の生物は人間の脳味噌を潤滑油として珍重する。そこで人間狩りをするというわけである。地球への狩りの遠征――新聞各紙には竜巻と報告される(313p)



まぁ適当に「切り出した」部分だから文脈を知らないと理解できないということもあるにはあるのだろうが、とにかくこういう調子の文章が延々と続く。かなりキツい。もちろんよくワカラン部分のほとんどはレトリックを駆使して科学や天文学を批判したり皮肉ったりバカにしたりトコロなのだろうと推測できる。だがそれにしてもそのレトリックが全然わからんのはツラい。外国にいって映画館に入ってみたら周りでみんな大爆笑してるんだが自分は何がおかしいのか分からないのでボーゼンとしてしまう、みたいな感じである。

そういうことなので、イロイロ理屈を語っている部分ではなくて奇現象そのものについて書いている箇所になるとさすがにコレは意味がわかるのでホッとするんだが、そういう箇所も2、3行でまとめられているのがほとんどで、事件の日時なんかもワカラン事例が多いのでなんだか不全感も残る。具体的にはたとえば以下のような記述がバラバラバラッと散弾銃のように降り注ぐのである。



イングランドのセントオールバンズ付近では暴風雨の際に石が降った。この石はセントオールバンズ博物館に受け入れられたが、大英博物館では"真の隕石物質"ではないとされた(『ネイチャー』八九号、三四頁)(132p)


それともうひとつついでに言っとくと、フォートは何の前置きもナシに「シュチュウェドフ教授はそうしたことを考え合わせて、こう論じる」(222p)みたいなことを言い出すので、シュチュウェドフ教授なんか知らんオレとしては「なんなんそれ?」と置き去りにされてしまうことも再々あった。こういうのは詳細な訳注をつければ解決する問題かもしらんが、ソレはじめるとこの訳書は厚さが2倍になってしまう可能性もあるしソコは悩ましいところであろう。


ということで、実際にはこの本は「読んだ」というよりは「最後まで頁を繰ってみた」というのが本当のところかもしれない。南山宏氏のオカルト本翻訳には定評があったので、このクソ難解なフォート本も鮮やかに訳しきっていただけるものと期待していたのだが、おそらくあんまり意訳とかはせずに原文準拠で訳すことにしたのだろう。せっかく半世紀待ったのだからソコはなんとかしてほしかったのだが、柳瀬尚紀の翻訳した『フィネガンズ・ウェイク』も「ワケわからん」とか言われとったようだし、あんましムリをいっても仕方がないのかもしらん。


結局のところ、感想文とはいいながら「よくわからんかった」とボヤくだけのエントリーになってしまったようでスミマセン。だがしかし、それでもなおこの伝説の書が日本語の本となって世に現れたことの意味は大きい。「わからんからこその奇書なのだ」というのもこの本を読んだからこそ言えることだし、聖典というものは意味不明の方がむしろありがたかったりする。クリスチャンの家には例外なく聖書があるように、フォーティアンの書棚にはこの豪華装丁本が必ずや鎮座せねばならんとオレは思うのである。(おわり)

P.S. ただちょっと不思議だったのは、UFO本のはしりとも言えるこの本で19世紀末のアメリカを騒がせた幽霊飛行船騒動の話が全然でてこなかったことである。あるいは幽霊飛行船とは言わずにその物体に触れていたのでオレが気づかなかっただけなのかもしらんがソコはちょっとしたナゾである。飛行船にはフツーの人間が搭乗していたというナラティブはフォートの琴線に触れなんだのだろうか?



【付記】

以下関連情報。チャールズ・フォートに関しては「チャールズ・フォートのふしぎな世界」と題した記事が、雑誌「UFOと宇宙」の1978年10月号、同11月号、79年2月号に掲載されている(ネットで拾ったバックナンバーで確認した)。
 

タイトルだけみると何だかフォートについて解説する記事のような感じだが、実際にはこれは翻訳記事であって、3回とも記事の末尾には「中村省三訳」とある。じゃあ一体コレは何を翻訳した記事なのかというと、そこのところはハッキリ書いていない。昔の雑誌はずいぶんと適当であったのだなと思うワケだが、確認してみたらやっぱりこれはフォートの『The Book of the Damned』を抄訳したものであった。おそらくUFO研究/翻訳で知られた中村省三氏が面白そうだなと思ったところを抜き出して適宜翻訳してみたのだろう。


第一回は第二章の翻訳である。ただし特に末尾のほうは大胆にカットしている。第二回は第7章の前のほう三分の一ぐらいの抄訳。第三回は同じく第7章のうしろ三分の一の抄訳。なお第一回の記事には簡単なフォートの紹介も付されている。
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マーティン・ガードナーのフォート論はこれが最後です。オシマイのほうは直接フォートではなく、アンソニー・スタンデンという化学者を批判することに終始していますね。そこはちょっと残念。(前回はこちら)



英国の化学者で現在は米国籍を得ているアンソニー・スタンデンは1950年、『科学は聖牛なり』と題した著書で「科学主義」を手ひどく批判し、大きな反響を呼んだ。スタンドンはセント・ジョンズで1942年から46年まで教鞭を執ったが、「カトリック・ワールド」(1950年2月号)によれば、その体験は「最終的に彼をキリスト教への改宗に導いた」。

スタンデンの見るところ、現代の科学者たちをひとかたまりのグループとしてみるならば、彼らは自信過剰にして傲慢、自惚れ屋であって、自分たちが思っているほど賢いわけではない。対して、古典主義に情熱を燃やす教育者たち――つまりモーティマー・アドラーやロバート・ハッチンズのような人々は、謙虚で控えめな人物といえるだろう。さらにジョン・デューイは、文明の未来は科学的なモノの見方が広がるかどうかにかかっていると示唆したことについて苦言を呈している。ヒレア・ベロックは「科学が広まれば広まるほど世界は悪化する」と述べていないだろうか、と(ベロックの科学に関する知識については第11章で考察したい)。

ここにはアリストテレスを称えるおなじみの太鼓の音が響いている。曰く――このギリシャの哲学者が「重い物体は軽い物体より早く落下する」と言ったのは、最終的に正しかった。なぜなら空気抵抗が物体に及ぼす影響は物体が重いほど小さいからである。そうしてみると、ガリレオがあれほどまでに賞賛されるのは如何なものだろう。それに、ガリレオはピサの斜塔から二つのおもりを一緒に落としたことなどない。それは他の塔で行ったことだったのだ、等々。だがここでスタンドンが語っていないことがある。アリストテレスは、落下物体の事例を「真空は存在しえない」という全く的外れな主張の証拠として持ち出していたのである。

スタンデンはこう告げている。「科学の第一の目的は神の御業を通じて神を学び、神を讃えることである」。社会学者たちは愚かなことに、自分たちは神学抜きで倫理の科学を発展させることができると考えている。生物化学者たちは我々に「進化のプロセスは徐々に階梯を踏んで進むものだ」と信じさせようとしている。だが実際には、「進化は大きな飛躍を経て進んできた」という考えを支持する余地も同等にある(スタンデンはここで自らの真の意図を明かしていない。もし進化が飛躍を経て進むのであれば、人間の魂は動物のそれとは歴史的にみて明らかに断絶したものであり得る――彼はそう言いたいのだ)。生物学者が「基本的に動物の生命が目指すものは快適さである」というような戯れ言を吐いたなら、「これに対して必要十分な答えはこうである――たわごとだ」

彼は結論づける。「科学者たちが我々を騙そうとしないか、我々は注意深く見守る必要がある」。チャールズ・フォートも同じ考えをこう表現した。「…もし誰も天文学者たちの言うことを確かめようとしなかったら、彼らは好きなことを何でも言える自由を得ることになる」

スタンデンは「科学は現代の偉大なる聖牛である」と記している。。少しでもユーモアのセンスを持っている科学者であれば、自分たちが科学の前に深く頭を垂れているという図に笑いを禁じ得ないだろう。だが、同じ牛なら、科学者たちはフォートが引いているこちらの話のほうをより面白がるのではないか。

1899年5月25日、トロント・グローブ紙は、或る雌牛が二頭の子羊と一頭の子牛を出産したという記事を載せた。

フォートはこうコメントしている。「これが皆の心にどう響くかはわからない。だが標準的な生物学者はどうかといえば、私が『象が自転車二台と子象一頭を生んだ』と話しても、いずれも馬鹿げた話として五十歩百歩の扱いをするだろう」

古き良きフォートよ! 空に向かって進むんだ!(おしまい)

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チャールズ・フォートの主著『呪われし者の書』については、国書刊行会が南山宏訳で邦訳書の刊行準備を進めているという話がずっとあったワケだが、これまで何十年待っても出てこない。結局は出ないのかYOという感じになっていたのだが、なんとここにきて、同社から本年いよいよ刊行成るとのアナウンスがあった(というかそれらしきXのポストがあっただけだが)。

だがまぁ流石にここまで公言してしまったのだから今度は大丈夫だろう。

あな嬉しや。

というわけで、当ブログも勝手連的協賛企画(笑)として、今回はこれまで不定期で紹介してきたマーティン・ガードナーによるチャールズ・フォート論のつづきを掲載しましょう(前回はこちら)。もちろんカードナーは正統科学の立場からフォートに対してイロイロと難癖をつけているわけだが、まぁそういう批判を受け止めた上でフォートを読むというのも立体的にその実像が浮かび上がることにつながるんではないかと思ったりするのである。というわけで以下つづき。



『野生の才能』の中には笑いを誘う部分もある。「おはようございます!」としゃべってから、うっすら漂う緑色の蒸気の中に消えた犬がいた――そんな新聞記事をフォートが否定している箇所である。フォートが問題にしたのは「犬がしゃべった」という部分ではない。彼はしゃべる動物についての切り抜きなど山ほど持っていた。問題は「うっすら漂う緑色の蒸気の中に消えた」というところだったのだ。「そんな犬の話には騙されない」と彼は言っている。だが彼は、自分がそういう線引きをしたのは、結局のところ誰もがどこかには線を引かねばならないからなのだと明言している。そして彼は、この線引きが正しいといえるのは「真実か間違いか」を分けているからだ――というような言い方は慎重に避けている。

おそらく我々は、フォートの言を真面目に受け取りすぎたあまり、彼の仕掛けたもう一つのワナにはまってしまっているのだ。彼は無知な人間にはほど遠く、現代の量子論における「不確定性原理」などを論じたところをみれば、こうした問題をもちゃんと把握していたことがわかる。「電子は『アトランダム』に動く」という考え方に反対するのは今風ではない。ではあるけれども、フォートがそうした考えに向けたあざけりには、アインシュタインやバートランド・ラッセルによって為された、よりテクニカルな批判と響き合うものがあるのだ! フォートが科学的に間違ったことを口走る時でも(じっさいそういうことは多いのだが)、それはわざとやったのか、あるいは無知であるが故にそうしたのかはよくわからないのである。

奇妙なことに、フォートはSFにはほとんど関心がなかった。彼がごくわずかであれSFを読んでいたという形跡は全くない。彼の思弁は人を楽しませてくれるもののさほど独創的ではないのだが、その理由は恐らくそこのところにある。たとえば、彼のいう「星々をのぞかせて回転する殻」という概念はおそろしく陳腐なものだし、実際のところ彼以前に或るイタリアの奇人が提唱したものである。フォートは現代のSFに強い影響を与えたというのはしばしば語られるところであるが、それは過大評価のように思われる。彼のアイデアに基づいた長編小説は十数編、短編であれば数十編ほどあるのは確かだが、そうした作品はSFというよりも「怪奇譚」に類するものだ。「テレポーテーション」というようなフォートの術語の幾つかはSFファンタジーでおなじみの言葉になったが、総じて言えば彼のアイデアというのはストーリー上の巧妙な仕掛けとしては余りにも平凡過ぎるものである。ドライザーは、フォートの著作にはSFの素材になるものがあることをH・G・ウェルズに認めさせようとしたことがあるが、うまくはいかなかった。ウェルズはフォートの思弁は面白おかしいものだけれども科学的にみればしょせんイカモノだと断じていたのである。

フォーティアン協会が今なお存続しているのは理解しがたいことである。仮に我々が、市民のほとんどが科学の何たるかをちゃんと理解している時代に生きているとしたら、科学者たちに自らの限界というものを思い起こさせてくれる組織が存続する意味はあったかもしれない。しかし、売店に占星術の雑誌が並び、ヴェリコフスキーの本が売れている現状をみれば、我々はそんな時代から如何に遠いところにいるかは明らかだ。

1931年の時点では面白おかしく楽しむことがすべてだった。だが今日、フォーティアン協会の雑誌「ダウト」は、本当ならフォートとともに葬り去られるべきだったジョークをただダラダラと垂れ流す存在になってしまった。それは、フォート流の常套句をひたすら繰り返す以上のことはしていないし、面白くもないニュースを報じ、フォートがセイヤーに遺した全く価値のないメモを印刷することしかしていない。とりわけ問題なのは――それは全く笑い事ではないのだが――近年の同誌が「ポリオの原因になる」として扁桃腺切除に反対し、 [動物の]生体解剖に攻撃を加えていることだ。さらに、本来フォートとは関係のない、編集者の政治的な偏見がしばしばニュースに差し込まれていることに問題があるのは言うまでもない。

フォーティアン協会が推している「科学者」たちですら、総じていえば凡庸で独創性を欠いている。一例を挙げよう。アルフレッド・ウィルクス・ドレイソン少将は、フォーティアンたちの間ではフォート本人に次いで尊敬を集める地位にある人物だが、彼は前世紀の後半、イングランドのウールウィッチ王立陸軍士官学校で教授を務め、地球の氷河期を地軸の傾きから説明した。

この「ドレイソン仮説」は英国、特に軍関係者の間で流行した。ドレイソンは私財を相当に投じて数多くの書籍や小冊子を出版したが、正統派の天文学がこれに反論することにはひどく腹を立てていた。フォーティアン協会会員で現代の占星術師だったアルフレッド・H・ベイリーは1922年、『ドレイソン問題』を刊行した。ちなみに読者諸兄が少将の理論を探究したいと思った場合に備えて言っておくと(まぁそんなことはないと思うけれども)同書は今もフォーティアン協会が販売している(このほかドレイソンについての貴重な参考資料としては、アルジャーノン・F・R・ド・ホーシー提督による『ドレイソニア』(1911年)や、R・A・マリオット少佐による小冊子が数冊ある)。

近年の状況について言えば、フォーティアン志向というのは、高等教育の場において微弱ながらもある程度観察可能なほどには見てとることができる。その理由としては、おそらく一つには宗教的な正統主義の復興があるし、第二に [科学が生んだ] 原子爆弾への憤りというものがあるのかもしれない。それは、ハッチンスとアドラーによる「グレート・ブックス運動」*の或る部分において絶妙なかたちで現れた。もちろんこれは公然と語られたワケではないが、グレート・ブックス運動を進めた教育者たちのことを知った者は、推進者たちの多くが(概してであるが)科学者たちを愚かな連中と見做していた事実に驚かされるだろう。「愚かだ」というのは、リベラルアーツの教授たち、とりわけグレート・ブックスにかかわる仕事に熱心な教授たちに比べて愚かだといっているのである。
 
*訳注:20世紀中盤のアメリカで、主にロバート・メイナード・ハッチンスとモーティマー・J・アドラーによって展開された教育運動。西方の古典文献(グレート・ブックス)を基盤としたリベラルアーツ教育を普及させることに主眼を置いた



ハッチンスとアドラーによる全54巻の『西洋世界のグレート・ブックス』(1952年刊)には科学の「古典」が再録されているが、それらはあまりに古く、かつ専門的すぎるため、科学史の専門家以外にはほとんど価値のないものである。ハーバード大学の科学史家であるI・バーナード・コーエン助教授は、この叢書の書評(『サタデー・レビュー』1952年9月20日号)で次のように述べている。「ここに収められた科学の『グレート・ブックス』には、一種の考古学的価値しかない。地質学のような分野が丸ごと省かれているだけでなく、過去2世紀半にわたる主な科学思想の潮流についても、そのほとんどが出てこないのである」

アナポリスのセント・ジョンズ・カレッジでは、ロバート・ハッチンズの教育観が最も成功したかたちで実践に移されているが、実際のところをいえば、科学については大混乱が生じている。学校案内は、同校では他のどんな大学にも増して数学と科学実験とが必須になっていると豪語し、コンパス、ノギス、定規のようなものに至るまで、学生が使用する全ての器具をこれ見よがしのリストに掲載している。しかし、科学史における過去の重要ポイントにばかり重きを置いているため、学生たちが現代の科学をキッチリと把握するための時間はほとんど残されていないのだ。(つづく)

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*マーティン・ガードナー『奇妙な論理Ⅱ』の邦訳で省かれた第4章「フォーティアン」のつづき。今回も引用されているフォートの文章に困惑してChatGPTのお知恵を借りるなどしたw(前回はこちら)。



この序文の最初のほうで、セイヤーはフォートについてこう書いている。「・・・タイプライターを打つ両手は抱腹絶倒ネタの源だ・・・彼は相手を怒鳴りつけ、真面目な先生方の偉そうな態度にはバカ笑い。彼らの失敗に嘲笑を浴びせ、その矛盾には大笑い。読者のことをクスクス笑い、記者連中に忍び笑いを向ける。こんなことに取り組んでいる自分自身をも嗤って、書評をみてはニヤリと笑う。挙げ句の果てに、私が実際にフォーティアン協会を組織したときにはご苦労様なことだと大笑いしたのだった」 

「・・・チャールズ・フォートはこれ以上なく素晴らしい『ユーモアのセンス』の持ち主であり、そのユーモアは思慮深い人間が人生をどうにかこうにか耐え抜いていけるようにしてくれるものだ。これは彼の著作を読むときに決して忘れてはならないことであって、そこを忘れてしまったら、あなたは彼の策にハマることになる。彼は時にあなたを激怒させることがあるだろうが、そんなときは思い出してほしい。彼はわざと怒らせようとしているのであって、あなたが激昂したまさにその瞬間、彼は顔を上げてあなたをおちょくるポースをとっているのだ・・・」 

となると、こういう問いを発する人がいるかもしれない。もしフォートが自らの仮説を信じていなかったとすると、なぜ彼は26年もの年月を、彼自身「つまらない作業」と表現したことのある仕事――つまりロンドン・デイリーメールの25年分の記事を調べるという仕事に費やしたのか。その答えは、フォートの狂気の背後には傍目にみえる以上の大きな意味が潜んでいるから、ということになる。 

フォートはヘーゲル主義者だった。詰まるところ、存在というのは統一体である(ここでいう存在というのは、我々が観察可能な宇宙にとどまらず、およそ存在している万物という意味である)。「すべての根底にある統一体」「すべてが互いに通い合うネットワーク」というものは現にあり、それはすべてを結びつけている。彼はこう記している。「我々すべては虫やネズミ [訳注:卑称なものの比喩] であって、全てを包含しているチーズ [訳注:大いなる統一体の比喩] の異なる表現に過ぎない」。フォートは宗教的な人間ではなかったが、万物のよりあつまった総体が知性をもつ有機体である可能性を認めていた。それを神と呼んでも何ら差し障りはない。「おそらく神は――あるいは『それ』と呼ぶべきかもしれないが――彗星を垂れ流し、地震を闇雲に吐き出すような存在かもしれない・・・」 

つまり、究極の現実・真実というものはあるのだが、我々「小さな虫やネズミ」には、砕けた光、半分の真実、幻の現実が見えるだけである。あらゆるものは「ハイフンで結ばれた存在状態」にある。フォートは「現実的-非現実的」「ありそう-ありそうもない」「善-悪」「物質的-非物質的」「可溶性-不溶性」といった形容詞をたゆまず用い続けた。あらゆるものは互いに連続しあっているから、真実と虚構の境界にラインを引くようなことはできない。科学が「赤いものは受容するけれども黄色いものは排除する」となったとき、オレンジはどこに分類すればいいのだろう? 同様にして、科学が正しいとして受け入れているものに誤りを含まないものはなく、科学が切り捨てたものの中にも必ず何らかの真実が含まれている。 

この「万物は連続している」ということについて沈思熟考した末に、フォートは徹底した懐疑主義へと到達した。「他に抜きん出て勝るものナシ」という信条を掲げた古代ギリシャの懐疑主義者たちと同様に(ちなみにこの信条は「特定の信仰が他に比べてより真実である」といった考えを否定したものである)フォートは何ものをも受け入れなかった。彼はこう記した。「獅子座が形作る大鎌は、巨大な疑問符のように天空に輝いている・・・事が何であれ答えを知っている者など誰もいない」。そしてまたこう言う。「私は何も信じない。太古から岩のように固まってきた知恵や、偉大だとされてきた古今の教師たちに対して私はずっと距離を置いてきた。おそらくはそうやって孤独に身を置いてきたために、他者を歓待する私の流儀は奇妙なものになってしまったのかもしれない。玄関口にやってきたキリストやアインシュタインの面前ではドアを閉めるけれども、裏口にやってきた小さなカエルたちやヤドカリには歓迎の手を差しのべるのだ」

 

フォートは「自分が書いたものは自分でも全く信じていない」と書いたが、ここで頭に入れておくべき重要なことがある。それは、彼は自らが読んだものも一切信じることがなかったということだ。「私は・・・ハッキリいってこの本に書いたこと全てはフィクションとしてお示ししている」。彼は『ワイルド・タレント』でそう述べているが、これに付け加えてすぐさまこう記した。これがフィクションだというのは、ニュートンの『プリンキピア』、ダーウィンの『種の起源』、数学の定理だとか、印刷されたありとあらゆるアメリカ史がフィクションだというのと同じ意味で言っているのだ、と! 

フォートはすべてを疑った。その懐疑は自らの思索にも及んだ。が、彼の熱心な信奉者たちは、フォートは巷間言われているような「科学への敵対者」ではなく、知識の儚さを忘れてしまった科学者に対してのみ敵対したのだと主張した。彼らはフォート主義の健全で健康的な側面を強調している。確かに疑いのない科学理論などありえないというのは本当のことだ。あらゆる科学的「事実」が、新たな「データ」が出てくるたびに不断の修正に晒されるというのも事実である。科学者を名乗るものでそれを否定する者はいない。しかし、同じ科学理論といっても、高い確証を得られるもの・得られないものと様々あるのもまた事実。フォートはこの基本的な事実を見ようとしなかった――あるいは気がつかないふりをした。そしてこうやって見逃すことこそがフォート主義の欺瞞的で不健全な側面なのだった。もしベーカー街遊撃隊 [訳注:シャーロキアン団体] のメンバーが「シャーロック・ホームズは実在する」と考え始めたら、健全なる楽しみは消え去ってしまうだろう。同様にして、フィーティアンが「あらゆる科学理論は等しく馬鹿げている」と本気で信じるようになったら、この団体の豊かなユーモアは無知な冷笑に取って代わられてしまう。

 

フォート自身、あらゆるものは連続的であるとしつつ、不連続というものがあることも認めていた。彼はこれを一風変わった言い方で表現している。彼が言うには、或る微少な生命体が動物なのか植物なのかを判定するのは不可能だが、かといってカバとスミレのような極端な対比においては両者の判別が不可能というわけではない。「誰だって敬意を表するためにカバを束にして送ろうとはしない」。そこまで認めたのなら、真実である確率が高い理論と、それがとても低い理論との間にも同様にラインを引くことができようものだが、どうやらフォートの頭にそんな考えは浮かばなかったようだ。 

この問題はより突っ込んで考える必要がある。何故なら、それは本書の内容すべてにかかわる大きな意味を持っているからだ。仮に我々が真実と虚偽、科学と疑似科学を区別できないのだとしたら、この本はニュートンやダーウィンのような人について書かれた [フォート言うところのフィクション] ものと変わらないのかもしれない。ひとかどのファーティアンであれば「当然だ!」というところだろう。だが、「我々には区別ができる」というのは明白な事実だ。当然ながら「黄色と赤の間のオレンジ」のようにボーダーラインについての事例はとても多く、或る理論がちゃんとしたものか・まがい物か、正気なのか狂気なのか、我々がハッキリ言えないケースはある。だが極端な場合、たとえばカバとスミレのようなケースを考えれば、我々はアインシュタインの仕事の科学的価値とヴェリコフスキーの貢献度といったものをちゃんと区別できる。アインシュタインが間違っている可能性もあるし、ヴェリコフスキーが正しいわずかな可能性(その可能性はほとんどゼロなのだが)もあるにはある。しかし、連続体の両端が極端に離れている以上、一方を科学者、もう一方をニセ科学者と分類しても我々がとがめられることはない。 

フォート自身、この線引きは可能だということは分かっていたに違いない。彼は本の中で、なぜ自分はサンタクロースを無視したかについて慎重に説明している。彼はこう書いている。「私はデータ、あるいはデータと称されるものにはうるさい。そして私は、雪の上、家の屋根、それから煙突へと続く不思議な足跡の記録(ないしは記録と称するもの)には出くわしたことがないのだ・・・」。かくして、データの不在がサンタクロース実在の可能性に影響を与えたことは明らかで、フォートはそれを踏まえてサンタクロースを敢えて「閉め出した」のだった。(つづく)

 

 

 

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*マーティン・ガードナー『奇妙な論理Ⅱ』の邦訳でチャールズ・フォートを論じていた第4章「フォーティアン」がカットされていたのを悲しんで、だったら適当訳で紹介してみようという企画の超ひさしぶりの第二回。文中フォートの文章の引用があるのだが機械翻訳を駆使しても何がなんだか分からなかったので(笑)その辺はテキトーに雰囲気だけ味わってください(第1回はこちら)。

フォートが示唆するところでは、地球は総じていえばずっと静止しているものである。「それは回転するには回転しているのだろうが、その回転というのは1年かそこらで一周する公転である。誰もがそうだろうが、何が合理性を成り立たせているのかについては私なりの考えがある。それが私の考える [論敵との間の] 妥協案ということになる」。彼は、フーコーの振子のような、地球が毎日自転していることを示す伝統的な「証拠」に対してかなり詳しく反論を加えている。

地球を回る星々の動きを説明するために、フォートは、地球というのは不透明な殻によって(それはそう遠くないところにあるのだという)覆われているのだと仮定した。星というのはその殻に空いた穴で、そこから光が漏れ出すのだとする。星のまたたきというのは、おそらくはその殻の「振動」による。その殻は不動のものではない。「最も剛性のある物質でも、局所的に渦が起きることはあるだろう。それ故に星々は――あるいは『小さな穴は』といってもいいのだが――お互いに旋回しあっているのかもしれない・・・」。時として星は殻のうちのゼラチン状の部分を通じて降り注ぐ。それらが通過する際に、物質の塊を引きはがしながら。フォートは、ゼリー状の物質が空から降ってきた何百もの記録を集めた。彼は飛行士たちに向けて、「あなたたちも『干しぶどうみたいに』いつか空にくっついてしまうかもしれない」と警告した。ただ彼は、「空すべててがゼラチン質だというのは荒唐無稽だ。一部の領域だけがそうなっているという説のほうが説得力があるだろう」ともいっていた。

フォートの示唆したところによれば、星雲というのは殻の上で輝いている斑点である。暗黒星雲は不透明な斑点だ。中には「広々とした円形の洞窟に垂れ下がっている巨大な鍾乳石のように」突き出た部分があるのかもしれない。そうしたものの一つに、馬の首星雲と呼ばれるものがある。それは「蛍光色の紙吹雪が舞う狂乱の中にあって巻き込まれまいと断固孤立を守る存在の如くである。それは個体にすらみえる暗闇である。選挙の夜になぞらえれば、それは民主党の祝賀でブロードウェイの他のすべてが狂乱状態になっている下、共和党支持のウールワースビルがひとり置かれた姿のようである」。

フォートは『見よ!』でこう書いた。「星々の地には文明があるかもしれない。あるいは星々の殻のくぼんだところには、地球の植民地ともなりうる、広大で居住可能な領域があるのかもしれない」。ここには来たるべき宇宙旅行についてのフォートの詩的ビジョンが見てとれる。



時は来たれり
スローガンは響く――
空へ向かおう!

星々への旅。あふれる冒険者――映画ニュース――広報係やインタビュー――リラ星に向かう男は持っていくタバコの銘柄を広告することで経費を節約する。

そして、そうしたすべてはごくありふれたものとなる。

おうし座とオリオン座への個人ツアー。ベガ星の近くでの夏休み。「僕の父親が言うには、月に行く前には遺言を書いていくという時代があった」「それでも、昔の空にはどこか穏やかなものがあった。口紅や席巻、水着の看板なんてものを見上げているとだんだんイライラしてくる」



フォートはこう断言した。――上空のどこかにはスーパー・サルガッソー海というものが浮かんでいて、その中には彼いうところのジェネシストリンという島がある。こうした領域には様々な物体や生物がいて、しばしば地上に落下してくるのだと。

フォートは空から奇妙なものが振ってきたという幾千もの記録を収集した。それは虫、魚、死んだ鳥、レンガ、加工された石、鉄製品、色のついた雨、小さなカエル(しかしながらオタマジャクシが降った記録が全くなかったことに彼は困惑した)。そしてタマビキガイ。そのほとんどはスーパー・サルガッソー海に吹き寄せられてきたゴミで、その時期はともかく、それらはもともと地球や他の惑星にあったものだという。

赤い雨についてはちゃんと実証された事例がある。赤みを帯びたチリが水と混ざり合ったのだというのが従来の説明なのだ。しかし、フォートはもっと良い説明があると言った。




タンパク質でできた海、ないしは孵化中の卵の如きもの(そのプロセスで地球は発達の一つの中心となる)を流れる血の川。ジェネシストリンには超動脈があるということ。夕焼けはすなわちそれらの意識であるということ。それらは時に空をオーロラで染めるということ・・・

あるいは太陽系全体が生きた存在であるということ。つまりこの地上に降り注ぐ血の雨は、その体内からの出血だということ—— 

あるいは海に巨大な生物が存在するのと同じように、空に巨大な生物がいるということ――

あるいは特別な何か・特別な時間・特別な場所があるということ。ブルックリン橋ほどの大きさの何かが宇宙空間で生きているが、セントラルパークほどの大きさの何かがそれを殺してしまう—— 

かくて血はしたたり落ちる。



チャールズ・フォートにはこのほかにも同様に奇抜な理論が山とある。本書が終わるまでに、我々はその多くに論及する機会があることだろう。しかしいま我々は、彼の仰天モノの思弁についてどう考えるかをハッキリ決めねばなるまい。フォートはユーモアの人だったのか。それとも頭のおかしい人か。ヘクトが言ったように、彼の著作は「桁外れのジョーク」だったのか。それとも彼は自ら提唱した諸理論を本気で信じていたのか。

ティファニー・セイヤーはその辺のことを知っていて当然の人物であるが、彼はフォートの四冊の著作を収録した1941年版の単行本の序文で、明確な回答を示している。「長年にわたり彼と親交のあった者として、このように断言しても私は許されることだろう。彼はそのようなことを一切信じていなかった。……チャールズ・フォートは決して偏屈者ではなかった。彼は自らの驚くべき『仮説』を1ミリも信じていなかった。道理のわかった大人が彼の文章を読めば分かるように。彼は自らの主張を冗談めかして提示したのだ――エホバがカモノハシを、そしておそらくは人間を創造したように……」 
(つづく)
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わが国屈指のUFO/オカルト同人誌「UFO手帖」の編集長として知る人ぞ知るHN「ペンパル募集」こと秋月朗芳氏が、このほどネット上に新たなオカルトニュースサイトを立ち上げた。小生も過去「UFO手帖」に寄稿をするなどしてこの方面にはナンボかご縁&ご恩があったりするので、ちょっとこれは見過ごせない。今回はこの注目すべき試みについてご紹介しておこう。

氏が今回立ち上げたのはオカルト関連のニュースサイト「日曜版」である。
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氏についてはUFO/オカルトシーンに如何ほどか関心のある方であれば先刻ご承知であるとは思うが、改めて説明すると、氏はUFOにかんする興味関心が嵩じたあまり2005年に「Spファイル友の会」なる組織を立ち上げ、「Spファイル」なるオカルト/UFO評論同人誌の刊行を開始した業界屈指の数奇者である。

その活動はのち「UFO手帖」と称した同人誌の発行へと移行し、ほぼ1年1回のペースで刊行されてきた同誌は昨年秋には第9号を世に送り出すなど実績を積み重ねてきたワケだが、このジャンルでこの手の同人誌がずっと続いているという話はあんまり聞いたことがない。同誌はわが国のUFOシーンにおけるひとつの台風の目といっても過言ではないのである。

で、そのスタンスは「UFOはある/ない」といった近視眼的パースペクティブとは位相を異にしており、個々のUFO事件を「めでる」ような姿勢が特徴である。そこんとこは説明するのが面倒なので強引かつひと言で同誌のノリをまとめてしまうと「UFOってなんか面白ぇな」というものだと思う。そっから先は買って読んでくれというしかないのだが、ともかくそういう運動を仕切ってきた編集長が、紙媒体だけじゃなくて時々刻々生起しているオカルトめいた話題をネット上で臨機応変に語ってみたいということで立ち上げたのが今回のサイト、ということのようだ。

この「日曜版」というサイトにも立ち上げに際しての口上みたいなことは書いてあるけれども、要するに編集長はオカルトのみならず現代のポップカルチャー、IT方面のテクノロジーなどにも造詣が深い人物なので、或る意味「現実を越え出ていくもの」としてこうした各ジャンルを横断的に捉えなおし、オカルト的なるものという視点から様々なニュースをリアルタイムで紹介・観測・分析し、あるいは過去の事例を振り返ってみようと考えているようである。

運営主体はいちおう「Spファイル友の会」とは別立ての「UFO手帖出版/日曜版 編集部」ということになるそうだが、要するにこれは今・ここから始まる新たな試みなのだということだろう(なお参考までに言っておくとこれまでの「UFO手帖」も別に廃刊にするワケではないようなので子細は今後の情報を待ちたい)。

この種のオカルトニュースサイトとしては既に「TOCANA」みたいなのもあるが、とんがった在野のタレント人士が個人的な趣味みたいなのを打ち出して展開する試みというのはなかなかに新鮮である。その意気やヨシ。新装開店のサイトには、Grokが実装していま話題の「ani」をめぐるおはなしなんかも早々にアップされている。今後もコンテンツは時々刻々更新していく予定ということなので、皆さんもゼヒブックマークをして定期的に通っていただければと思う。
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ということで、今回は難解で知られるチャールズ・フォートの『呪われし者の書』冒頭部をChatGPTに翻訳してもらった。「平易に翻訳して」と注文したのだが、知能の高いChatGPTでもなかなか難しい作業であったようだ。やっぱりなんだかよくわからない。



呪われた者たちの行進である。

「呪われた者たち」とは、社会から排除された人々のことを指す。科学が排除したデータの行進が行われるであろう。

私が発掘した青ざめたデータによって率いられた呪われた者たちの大隊が行進するであろう。あなたはそれらを読むか、それらが行進するであろう。彼らの中には青白くて、炎を上げるもの、そして腐ったものがあるであろう。

彼らの中には死体、骸骨、ミイラである。それらは震え、よろめき、生命を持つ仲間によって活気づけられているであろう。眠っているのに歩く巨人たちも存在するであろう。

それらは定理であり、それらはぼろきれのようなものである。ユークリッドが無秩序の精神と腕を組んで通り過ぎるであろう。ここにはちょっとした売春婦たちが飛び交うであろう。多くは道化師である。しかし、多くは最高の品位を持つであろう。一部は暗殺者である。青白い悪臭ややつれた迷信、単なる影や生き生きとした悪意、気まぐれや愛想の良さがあるであろう。単純なものや教条的なもの、奇妙なものやグロテスクなもの、誠実なものや不誠実なもの、深遠なものや幼稚なものが存在するであろう。




*なお、ついでにオレが以前このあたりを翻訳してみた時のエントリーはこちら。
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たまさか国会図書館に行く用事があったので、資料が出てくるまでの時間を利用して端末でデジタル資料をいろいろみていたら、ちょっと面白いものに出くわした。

かつてあった月刊誌「科学朝日」に1994年1月号から1年間連載されていたシリーズ

「超常膝栗毛」である。

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リアルタイムで読んでた記憶はないけれどもオカルト業界ではけっこうよく知られた伝説的な企画で、奇しくもジョン・キールと同年同日に亡くなった超常現象研究家の志水一夫氏(1954~2009)と皆神龍太郎氏(1958~)がさまざまなオカルトネタについて基本的に懐疑的なスタンスから蘊蓄を傾ける――という実に楽しい企画であった(ただし皆神氏はこの企画では本名で登場している)。

改めて考えてみると、この手の超常ネタというのは今でもたまさかメディアで扱われるバアイがあるけれども、たいていは商業オカルト雑誌のひととか芸人まがいの人が出てきて面白おかしいことを言うバラエティ仕立てのものばっかである。ちゃんとオカルトワールドのことを知ってて、かつクリティカルなスタンスで「ダメなものはダメ」というような人はなかなかお呼びがかからない(ようにみえる)。

そういう意味ではちゃんと「分かってる」このお二方が毎月定期的に登場してたこの「超常膝栗毛」というのは今日ではなかなか得がたい企画ということになるのではないか。

仮に志水氏がご存命であったら今69歳。UAPの話題がけっこう世を騒がせている昨今、また皆神氏と組んで「新・超常膝栗毛」でも「オカルト 爺 ( ジジ ) 放談」でも何でもいいけれども面白い企画を送り出してくれたであろうに、と思う。残念。




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毎年秋の文学フリマ東京開催にあわせて発行されてきた国内屈指の超常同人誌「UFO手帖」が今年もつつがなく完成し、11月20日に東京流通センターで開催された文フリにてめでたく頒布と相成った。小生はたまさかこの雑誌に原稿を書かせていただいている利害関係者の一人であるわけだが、それ故に近々始まるであろう通販に向けて若干の宣伝にもなればよからうということで、以下、今回は僭越ながらその内容を説明させていただくことにした。

昨年刊行の前号ではなんと都合200頁に達するという大増ページで斯界を驚嘆させた「UFO手帖」だが、今号「7.0」もそのボリュームは実に192頁! いったいどういうことなんだよ何をそんなに書くことがあるんだよという皆さんの疑問も尤もであろう。さて、それでは今回の特集はいったい何かという話になるわけだが、そのタイトルはなんと「フォーティアンでいこう!」。要するに「チャールズ・フォート」がテーマなのだった。

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もっとも、「なんと」とか言っても話が見えない人がいるかもしらんので簡単に説明しておくと、チャールズ・ホイ・フォート(1874-1932年)というのは古今東西の奇現象を図書館とかに行って集めてまわったアメリカの奇人である。

たとえばであるが、空からいきなり魚やカエルみたいなものが大量に降り注いでくる「ファフロツキーズ」(Fafrotskies)という現象に注目したり、あるいは皆さんよく知っている「テレポーテーション」という言葉を編み出したり、人体自然発火現象について調べたりした人物だといえばその傑物ぶりは何となくお分かりいただけるだろう(もちろん今でいうUFOのような現象についても情報を集めてまわっている)。

そんな伝説的な人物だけに、やがては彼の名にちなんでこの手の奇現象を調べる好事家を指す「フォーティアン」などという言葉まで出来てしまったぐらいで――ちなみに今回の特集タイトルはここから来ている――さらには英国では『フォーティアン・タイムズ』などという超常専門誌が出来たほどである。要するに彼は奇現象界のレジェンドともいうべき人物なのだった。

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*今号の表紙は、従ってこの「ファフロツキーズ」に引っかけて天空から落下してくるフォートを描いているワケである。本誌専属アーティスト・窪田まみ画伯渾身の力作である


ただし、実はこれまでこの人物についてのまとまった紹介というのは日本ではあんまりなかった。そんな超常現象界のVIPであるというのに彼の本というのは我が国では全然翻訳されてこなかったのである。たとえばこれはかなり有名な話だが、1980年代には国書刊行会という出版社から、超常現象研究家である南山宏氏の翻訳でこの人の主著『呪われし者の書 The Book of the Damned』が刊行される計画があった。ところがいつまでたっても出版されない。それから30年有余年たっても、なお日の目をみていない。数年前になって突然「どうやら刊行の見通しがたったようだ!」みたいな怪情報がネットに広まったこともあった。でも、やっぱり出ない。

なんでそんなことになっているのか。

以下はオレの勝手な推測だが、彼が書いた英語の文章というのは一般的な文法を無視したようなハチャメチャな文体である(ように思える)。じっさいのところ、全然翻訳が出ないのでオレもヤケクソになり、「じゃあ自分で訳したるわ!」といって原著をめくってみたことがある。しかし、もう何十年も前に受験英語を勉強しただけの英語力しかないオレには全く歯が立たず、その野望は最初の数頁でついえた(その挫折の記録はココw=なおフォートの本の著作権は既に切れているのでヤル気がある人は勝手に翻訳して公開することが可能である)。

つまり、要するにあまりに奇っ怪な文章なので、名翻訳家として知られた南山氏をもってしても「う~ん、こりゃちょっとうまくイカンわ」ということで翻訳作業が頓挫してしまっているのではなかろうか。そこで国書刊行会の中の人が「そんなこたぁないわい! ナニ失礼なこと言うてんねん!」というのであれば、ハイわかりましたごめんなさいと土下座して謝りますので代わりにすぐ作業を開始して下さい。

あるいは真相はそんなことではなくて、超常現象のナゾが明らかになると不都合があるディープ・ステートないしはメン・イン・ブラック方面から「出版したらタダじゃすまんからな!」とかいって横ヤリが入っているのかもしらんが、そういう話だったのならば国書刊行会は脅しに屈することなく出版人の誇りにかけて引き続き出版計画を進めて下さい(要するに何でもいいから早く刊行してください笑)。

話がずいぶんと横道にそれてしまった。ともかく彼の本というのは現時点で日本語では読めない。断片的に「フォートはああ言ってる、こう言ってる」という情報はあってもなかなかよくわからん。隔靴掻痒の状態が続いていたのである。

しかし。
そんな奇現象界のレジェンドをこのまま放置しといていいのか――おそらくはこんな問題意識から今回「UFO手帖」の人々が立ち上がった。フォートはどういう人物でどんなことを考えてたのか、ちゃんと紹介してやろうじゃないか。そういう話である。

というわけで、この特集では同人の皆さんがそれぞれのアプローチでフォートにかかわる論考を執筆している。とりわけオレが驚愕したのは「UFO手帖」の名物編集長・秋月朗芳氏の恐るべき執念である。本号にもその辺のことは書いてあるけれども、編集長は今回、フォートの主著を片っ端からゴリゴリと機械翻訳にかけたらしい。すごい力業である。先に述べたようにフォートの文章は悪文であり機械翻訳でもなかなか手に負えないと思うのだが、ともかく編集長はそうやって強引にフォートの読解を推し進めた。ブルドーザーで密林に突っ込んでいくような蛮勇を振るったのである。なんと素晴らしいことだろう!

かくて本号では、フォートの著作やその人生、後世の小説や映画に与えた影響などが多角的に論じられている。そうやって見えてくるフォートの神髄とは何なのかというのはこの同人誌を買って読んでいただくしかないのであるが、ひとつだけ言っとくと、オレが読みながら考えたのは「フォートというのは我々のような陰キャ系オカルトファンにとっては一つのロールモデルなんじゃねえか」ということだった。

日常生活は適当にほっといて調査作業に精を出す。ひたすら奇現象を愛でる。異界へのとば口に立ってセンス・オブ・ワンダーを噛みしめる。「こんな不思議なことがあったようだゼ」とかいってネタを広めてまわる(しかもこんな勝手な活動ができたのは親戚から思わぬ遺産が転がり込んだから、というのもイイ)。他方、「フォーティアン協会」なんてものができて神輿に乗せられそうになるとビビってしまって「オレには関係ない」といって逃げる。まさに理想……ま、健全な皆さんにとってはどうでもいい話ではあった(笑)。

とまれ我々はいま、超常界にそびえ立つチャールズ・フォートという孤峰の下へと辿り着いた。これから山頂を目指していく者たちにとって、おそらく今回の「UFO手帖」は格好のガイドとなってくれるに違いない。



さて、特集以外にも今号にはいろいろ満載である。ずいぶんと話が長くなってしまったので(老人性の挙動)以下は簡単に。

UFOにまつわる音楽・漫画・アニメ・映画などを紹介するのは既に「UFO手帖」の定番企画となっているが、今号では「UFOとUFO本」なる企画も始まった。ここでは今年刊行された『イラストで見るUFOの歴史』『UFOs 政府の軍・政府関係者たちの証言録』がレビューされている(いずれも良書)。ひとつ気がかりなのは、次号で「めぼしい本が出なかったので今年は休載です」という事態が起きないかということである。出版社の中の人たちの頑張りに期待したい。

それから、期せずして過去のUFO事件を振り返る論考が目立ったのも今号の特徴であったかもしれない。

たとえばイタリアの寒村でオバハンが宇宙人(?)に花束とストッキングを奪われた「チェンニーナ事件」の真相に迫ろうというレポートがある。他方、例の「ケネス・アーノルド事件」について「巷間伝えられてる話はウソが多いから」ということで電子顕微鏡でアラを指摘して回るような論考もある。

かつて日本のコンタクティ松村雄亮が宇宙人(?)と一緒に入った伝説の喫茶店を探して現地付近を探査したレポート、なんてのもある。実際にはその建物はもうなくなっていたのだが、辺りをウロウロしていた報告者が「あ、やべっ、オレって傍目からすりゃ完全な不審者だわ」といってうろたえる場面(意訳)がスコブル秀逸だった。おめでとう比嘉光太郎君、後ろ指さされることを自覚しつつUFO研究に一身を投じるべく一線を越えてしまった今、君は一人前のUFO者だッ!(われながら何を言ってるのかw)

それから今回オレは「ジャック・ヴァレ、あるいは老ユーフォロジストの見果てぬ夢について」というタイトルで原稿を書いてます。これは孤高のユーフォロジスト、ジャック・ヴァレが先に共著として出した『Trinity』という本の簡単なレビューなんだが、何でこんなヘンな題名なのかというと「あぁ天下のジャック・ヴァレも今回の本はちょっと勇み足だったよなぁ、でも彼も年とったし仕方ねえのかもなあ」という話である。イヤすいません、ヴァレ知らん人には何言ってるかわからんですよね(笑)。ちなみにUFO手帖には書ききれなかった細部にも触れたロングバージョン的な『Trinity』レビューはこのブログにも載せているので関心がある方はお読みください。

もう疲れたので、あとは買って読んで下さい。UFO手帖7.0のTwitterアカウントあたりをチェックしていれば、そのうち通販のお知らせがアナウンスされるでしょう。最後にもひとつだけ言っとくと、ここ数号で新しい書き手が続々登場してきたので、この同人誌はまだまだ大丈夫だと思います。ひきつづきご贔屓に。(おわり)


【追記】

チャールズ・フォートは、「チェッカー checkers」というボードゲームにヒントを得て「スーパーチェッカーズ supercheckers」なるゲームを作った人物でもあるという。これは関連の書物などにもしばしば出てくる話なのだが、この「スーパーチェッカーズ」についての情報というのはググってみてもなかなかヒットしない。

かろうじてこの件に触れた昔の新聞記事(Pittsburgh Press, February 20, 1931)を載せてるサイトは見つけたのだが、そもそもオレはチェッカーとは何なのか全然知らんので、読んでもどういうものか皆目わからんかった。ただ、この記事を読むと、フォートは自作のこの対戦ゲームでベンジャミン・デ・カセレスやティファニー・セイヤーといった連中と「おれナポレオン」「おれはシーザーだかんな」とかいって「ごっこ遊び」をしながら楽しく遊んでいたようである。心温まるエエ話である😅

というわけで、ボードゲームにお詳しい人で「スーパーチェッカーズ」の詳細をご存じの方がいたらゼヒ情報お知らせください。m(_ _)m

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 これはしばしば見かけるフォートの写真であるが、この手前に見える何だかよくわからんものが「スーパーチェッカーズ」のボードなのだそうだ

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*マーティン・ガードナー『奇妙な論理Ⅱ』の邦訳書でチャールズ・フォートを論じていた第4章「フォーティアン」がカットされていたのを悲しんで、だったら適当訳で紹介してみようという企画の1回目。途中で挫折するかもしんない。

 第4章 フォーティアン

 本書では、遅かれ早かれチャールズ・フォートを取り上げねばなるまい。私はそう考えてきた。フォートは天文学者に対して重砲の照準を向けるようなことをしてきたのだし、その想像力を自由にはばたかせ、「空」というものについて全く正統的ではない見方を提示してきた。それ故、この辺りで彼のことを紹介するのは丁度良い頃合いであろう。

 チャールズ・ホイ・フォートは1874年、ニューヨーク州オールバニに生まれた。少年時代、科学に興味を抱いた彼は、鉱物や昆虫の採集、そして時には鳥を剥製にするようなこともした。彼は大学には行かなかった。記者としてしばらく働き、さらに小説の執筆にも取り組んで短編を幾つか仕上げた後、フォートは相当な額の遺産を相続することになった。彼は自らの研究にちょっと信じられないほどの時間を費やすことになったのだが、それを可能にしたのはこの [資産が生み出す] 収入であった。それから没するまでの26年間、彼は古い雑誌や新聞を熱心に調べ、既存の科学の概念とは合致することのない、ありとあらゆる奇妙な出来事について記録を残した。その仕事のほとんどは大英博物館においてなされたものだったが、のちにニューヨークに戻った彼はブロンクスで妻のアンナと暮らしつつ、ニューヨーク公立図書館で引き続きその研究を続けた。

 彼は大柄だがシャイな熊のような人物で、茶色いセイウチひげを生やし、分厚い眼鏡をかけていた。彼の居室はノートや記事の切り抜きが詰め込まれた靴箱で一杯だった。その壁には蜘蛛と蝶々の標本が額に入れて架けられ、ガラス[ケース?]には空から落ちてきた汚らしい石綿状の塊を保管していた。彼の気晴らしといえば、自ら考案した一人遊びで、「スーパー・チェッカーズ」というゲームに興じることだった。それは数千にも及ぶ四角が配された巨大な盤面に、1千ものコマが登場するものだった。作家のティファニー・セイヤーによれば、彼の妻は夫の胸のうちで何が起きているかが全く理解できず、「彼のものを含めて全く本というものを読むことがなかった」。

 フォートには二人しか友人がいなかった。[セオドア・]ドライザーとセイヤーである。「フォートは天才である」と確信していたドライザーは、自らの出版社にかけあって、フォートの4冊の著作のうち最初の本となる『呪われし者の書』を出版させた。フォートがこの「呪われたもの」という言葉で示したのは、「教条的な科学によって排斥されたありとあらゆるモノの見方」――それはつまり彼の資料のうちにある、今は「失われてしまった精神」ということになるわけだが――であった。彼が自らに課した使命というのは、こうした資料をその呪いから「解放する」ことだった。その本は一風変わった息をつかせぬような文体で書かれているが、そこには時折、深淵なる叡智、高尚なユーモア、華麗な章句といったものが姿をのぞかせている。

 フォートの2冊目の著作『新たなる地』は、ブース・ターキントンの序文を付して1923年に刊行された。この頃までに多くのアメリカの作家たちは、フォートの言葉でいうところの科学者たちの「聖職者めいた技術」に対し、彼が面白おかしく加える攻撃に魅了されるようになっていた。1931年、セイヤーはサヴォイ・プラザで開いた歴史的な祝宴にそんな作家たちを召集し、そこでフォーティアン協会が生まれるところとなった。創設メンバーにはドライザーとセイヤーに加えて、アレクサンダー・ウールコット、ターキントン、ベン・ヘクト、バートン・ラスコー、ジョン・クーパー・ポウィスといった文学界の名士たちが顔を揃えていた。

 三番目の著作は『見よ!』(Lo!)というタイトルだった。『見よ!』という書名はセイヤーが提案したのだが、なぜそんな名前を考えたのかについて、セイヤーは以下のように記している。「そのテキストの中では、天文学者が倦むことなく計算を続けた上で、ここに新星が現れるであろう、そこに何かが見えるだろう、だから<見よ!>といって空を指さす姿が描かれているからだ――もっとも彼らが指さすその場所には何も見ることはできないのだが。この『見よ!』というタイトルに、フォートはすぐに同意した」。フォートの最後の著作『野生の英知』(Wild Talents)は、彼が1932年に亡くなって数週間後に刊行された。

 1937年、ティファニー・セイヤーは自費を投じて「フォーティアン協会マガジン」の刊行を開始した。今日「ダウト」と呼ばれている雑誌である。フォートは、未刊行のノート32箱分をセイヤーに遺贈した(この措置にドライザーは激怒した)。その雑誌を刊行した目的の一つはこうしたノートを活字化することにあって、実際にそうしたノートは雑誌に毎号掲載されるようになる。だが、その雑誌の最大の目的は、科学者たちが説明不能な事例だとか、科学者たちにケンカを売るようなストーリーを掲載することで彼らをとことん困らせてやることにあった。かくて、ある英国の天文学者があるとき自らの望遠鏡をfall offした時 [訳注:ここは意味がわかんなかった] 、「ダウト」はその出来事におおはしゃぎする記事を掲載した。こうしたニュースは、シカゴのジョージ・クリスチャン・バンプのようなフォーティアンの「通信員」、さらには読者によってセイヤーのもとに送られるのだった。

 協会が印刷したパンフレットは、その設立の目的を以下のように記した。


 フォーティアン協会は物事を深く考える者たち――つまり、仮に法というものが存在しなくてもその生き方を全く変えない男女たち、条件づけによって引き起こされる反射に従うのではなく、脳の働きに従うか、さもなくば自らのうちにある一種の神秘的な閃きに従って行為する男女の作る国際的な集まりである。(中略)メンバーには高名な科学者、物理学者、医師たちに加え、カイロプラクター、スピリチュアリスト、キリスト教徒といった者たちがおり、中にはカトリックの神父も一人いる。

 この協会には、今や人に省みられることがなく、我々が共感を寄せることがなければそのほとんどが絶びさってしまったかもしれない様々な理念に退避する場所を提供する。(中略)であるから、ここには「地球は平らである」と信じる人々も数多くいれば、動物の生体解剖に反対する者、予防接種に反対する者、ワッセルマンテストに反対する者、さらには諸国家の軍縮が良きものだと今日もなお信じている者たちもいる。

       (略)

 この協会のメンバーは、フォート主義が有する唯一のドクトリン――つまり軽々に判断を下すことなく、さしあたってはそれを受け止め、そして永遠に問い続けるという方法論をその胸に抱いている。


 いろいろな意味で、フォーティアン協会は、シャーロック・ホームズを崇敬する「ベイカー街遊撃隊」[訳注:ホームズを助けるストリートチルドレンたちの組織]の連中に似ている。 遊撃隊がホームズは実在の人物であったかのようなポーズを取っているのと同様に、フォーティアンたちは、フォートの展開した荒っぽい議論というものは、皆が受け入れている科学――すなわち「確立された非常識」(これはフォートの言葉である)と同等程度には真実なのかもしれない、というポーズを取っている。

 根本的なことを言えば、その協会というのは大いなるジョークであるわけだが、セイヤーやほとんどのメンバーはそれを極めて真面目なものだと見ているようで、誰かが「そんなものはジョークだろう」と仄めかしたときに怒ってみせる、ということもそのジョークの一部分をなしている。ついでにいえば、フォーティアンたちが連絡を取り合う際には1年を13か月とするカレンダーに基づく日付が用いられており、それは設立記念のディナーが行われた1931年を元年としている。そして、当然ながらその13番目の月は「フォート」と名づけられているのである。

 フォートの科学に対する態度を精査し、それについての結論を下す前に、我々としては彼の特異なコスモロジーを一瞥しておいたほうがよいかもしれない。

 フォートは天文学者たちに強い不信の念を抱いていた。『新たなる地』の前半部はそのほとんどすべてが、天文学者たちはクズで、物事を予見することにおいては占星術師よりも劣っており、その大きな発見は偶然に生まれたものであること、そして彼らはずるがしこくも自らの「中世の科学」が基本的に信頼に値しないことを大衆から隠している――といったことを論証するのに費やされている。

 「彼らは天王星の軌道を計算してみた」。フォートはこう記している。「が、それはどこか別の方角に行ってしまった。彼らは釈明をし、さらに計算をしてみた。彼らは何年も何年も釈明を重ね、計算をし続けたけれども、天王星はさらに別の方へ、別の方へと繰り返し逸れていってしまった」。最終的に彼らは自らのメンツを守るため、他の惑星が天王星を「摂動」させていることにした。それから50年を経て偶然海王星を見つけるまで、彼らは空の違う場所に望遠鏡を向け続けてきた。だがその海王星もまた予測不能な動きをみせた。フォートはこう言い立てた。もし天文学者たちが自分たちが考えているほど偉いのなら、海王星の向うにある別の惑星を発見してもらおうではないか、と。この文章は1930年に冥王星が発見される前に書かれたものであったが、しかしフォートは最後に勝利した。冥王星は天文学者たちが予測したよりも、はるかに小さいことが明らかになったからだ。

 フォートが自らのコスモロジーを緻密に組み立てることはなかった。だが、彼はそれについて一連の示唆的な言辞を残しており、彼自身の考えによれば、それは決して天文学者たちの唱える太陽系という概念より馬鹿げた代物だ、ということにはならなかった。「・・・泣きながら宇宙をいく手負いのもの。それは真っ当で健全なるシステムに対し、太陽表面のキズ、恐ろしい月、科学によって破壊された文明とをつきつけ、震撼させる。天上にあるライ病患者は震える領域を差し出す。さすればそこには慈悲のあるシステムから黄金の彗星が注がれるであろう・・・」

(つづく)

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たまたまNHKダークサイドミステリーのサイトに迷い込んだところ、次のようなアナウンスがあった。  

「ダークサイドミステリー」は、日本のアニメーション文化に多大な影響を受けて制作している番組であり、今回の京都アニメーションで起きた事件は、大変悲しく悔しく無念でなりません。
 
お亡くなりになられた方々とご家族に心から哀悼の意を表すとともに、
負傷なされた方々の一日も早いご回復をお祈り申し上げます。

    2019年7月19日
    「ダークサイドミステリー」制作スタッフ一同


京アニへの連帯を表明するのはたいへん結構なことだとは思うが、この理屈はいまひとつよくわからンかった。「バビル2世」みたいなことであろうか?

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UFO・超常現象にかんする同人誌として知る人ぞ知る存在である「UFO手帖」の最新刊――その名も「UFO手帖3.0」が完成し、この11月25日に開催された文学フリマ東京にて頒布された。近々通販も始まるようだしオレもちょこっと書いてるので、この機会に宣伝を兼ねて内容をザッと紹介してみたい。


おそらく多くの人がUFOと聞いてイメージするのは「宇宙人の乗ってきた宇宙船」といったものであろう。だがオレのみる限り、この同人誌を作っている「Spファイル友の会」というのは、そのようなステレオタイプからはちょっと距離を置いて、「何だかよくわからない現象」としてUFOをとらえ、ああでもないこうでもないといった議論をして楽しんでいる団体である。

そんなスタンスは今回の最新刊においても健在で、たとえば今回の特集「宇宙<そら>から来ないUFO」というのは「UFOは宇宙の果てから来てるとは限らないでしょうよ」というコンセプトから編まれたものである。

「地球の内部は空洞になっていてUFOはそこから来るんじゃねーか」「いやいやUFOは海とか湖とかに潜んでいるハズ」「つーか異次元とか未来から発進してきてんじゃネ?」等々、この業界には実はいろいろと変わった説というものがある。そのあたりの異説をザッと眺めてみましょうヤというのが今回の特集の狙いである(たぶん)。

さて、「地球内部」ということでいえば、その前提として「地球空洞説」というものを考えてみなければならん。表紙を飾るイラストは今号も本誌専属アーティストともいうべき窪田まみ画伯の手になるものであるが、その辺を暗示する意味深長かつ不気味なウサギが登場しており、まずもってワクワク感をそそられる。

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そこでページを繰ってみると冒頭、馬場秀和氏が地球空洞説の系譜をたどる「惑星とプラムプディング」という論考をものしている。19世紀初め頃に活動したアメリカの退役軍人ジョン・クリーブス・シムズあたりを嚆矢として今にいたる流れを紹介しているのだが、実はこの馬場氏、オレが勝手に「平成の戯作者」と命名しているぐらいで真面目な論考のフリをしてその中に大法螺を紛れ込ませる才人である。なので、その辺の虚実を見極めつつニヤニヤしながら読む。それが実に愉しい。

「地球空洞説」関連では、藤元直樹氏の「明治26年のシムズ地球空洞説――新聞紙『國會』に連載された「地心探検」をめぐって」も興味深いもので、シムズとその後継者たる息子の主張が明治時代には既に本邦に紹介されていたことを明らかにしている。ま、昔から奇譚好きの人というものはいたのだなぁと感慨を誘う。

次いで「海のUFOと、水の子供たち」なる項目がある。とりわけ水辺の怪異みたいな話を聞くと「ああ、そういうのは何かあるかもしれないネ」という気になってくるもので、そのあたりに触れた秋月朗芳編集長の論考などなかなかに考えさせる。

特集掉尾を飾るのは「別世界からきたUFO」のパートで、礒部剛喜氏の「マゴニア異聞の逆襲―UFO現象理論の現在」がオレ的には面白かった。「イヤでもさー、これまでアレコレ言われてきた説ってのは結局どれもこれもユダヤ・キリスト教の世界観に引っ張られたものなンじゃネ?」というもので、いわばフロイトにおける汎性欲論の如き統一場理論😲を打ち立てて個々のUFO仮説の相対化を図っちゃおう、みたいなスゲー壮大な議論であった。

以上が特集の内容紹介でした。で、えーと、こんな調子で順番に紹介していこうと思っていたのだが、はやくもこの辺で疲れてしまったので、あとは駆け足で。

常連寄稿者による常設コーナーは今回も充実しておる。

「UFOと音」(UFOが登場する音楽の話。ペンパル募集/ 雅 / 中根ユウサク / 金色髑髏)
「UFOと漫画」(渚のいん / ペンパル募集)
「この円盤がすごい!」(ものぐさ太郎α)
「アダムスキーみたいな人たち」(島村ゆに)
「UFOと文学」(馬場秀和)
「古書探訪」(中根ユウサク)
「シリーズ超常読本へのいざない」(馬場秀和)
「乗り物とUFO」(ものぐさ太郎α)
「ブルーブックもつらいよ」(雅)

――といったラインナップである。それぞれ皆さんお得意の切り口で書いているので勉強になります。で、有江富夫氏の「新編・日本初期UFO図書総目録稿(1975-1979)」というのは関連図書のデータベース。これもホント頭が下がる。

あ、そうだ、それからゼヒ触れなければならないのが、UFO本の名著『何かが空を飛んでいる』の著者、稲生平太郎氏(その正体が英文学者の横山茂雄氏であることは皆さんご承知だろう)による玉稿「新興宗教俳句の頃」である。

これは稲生氏がかつて濱口腎虚(笑)名義で伝説の雑誌「ピラミッドの友」に書いた原稿の転載であるが、かつて本邦には「新興宗教俳句」運動なるものが勃興した時期があった――というウソ設定のもと、そこから生まれたUFOや怪奇現象をテーマにした名句を紹介する、という体裁のエッセイである。あたかも高尚な文学運動を回顧するようなポーズをとりつつ、そこで紹介される迷句があまりにもキッチュなシロモノなので爆笑を誘ってしまうという仕掛けで、その落差が実に素晴らしい。

とまれ、今回もUFO好きであればいろいろと楽しめる同人誌になったと思う。通販が開始になったあかつきにはゼヒ多くの人たちに注文していただきたいものである。


(追記)言い忘れたが、今回オレは「読書感想文『ノー・リターン』を読んで」というのを書いた。ほとんどの人が知らんと思うが、1959年に米国であった「ジェリー・アーウィン事件」について再調査を試みたデヴィッド・ブーハーの『No Return』という本の紹介である。おヒマがあれば読んでネ、という感じである。ちなみにこの本についてはこのブログでもたびたび触れてきた。このヘンとかこのヘンなので興味があれば覗いてやって下さい

(追記2)やはり過去のエントリーで既刊の「UFO手帖2.0」についても短い感想文を書いていた。そっちにもリンクを貼っておこう


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「奇妙な論理」「奇妙な論理 Ⅱ」というのは、いずれもオカルトに興味をもつ人の間ではよく知られている本だ。

アメリカの科学ライター、マーチン・ガードナーが1952年に出した「In The Name of Science」(のちに「Fads and Fallacies in the Name of Science」と改題されたようだが)の翻訳本で、市場泰男の訳で現代教養文庫から出ていた。ひと言でいってしまうと、自然科学サイドからするオカルト・デバンキング本である。



*と、ここまで書いたところで検索してみたら、現代教養文庫の社会思想社が潰れたせいか、そのごハヤカワ文庫のほうからも出版されていたようである。早川版も絶版ないしは品切れのようであるが、まあ古本で容易に買える。




ま、この方面では古典的な著作であるし、とても面白いから未読の方は読んでおかれるとよろしかろう。

閑話休題。

この邦訳版の2冊の本は、実は最初に「日本の読者もきっと興味があるだろうな」という章だけをセレクトして出版し、その後、「いやいやよく考えると他の章も面白いんじゃねーか」ということで続編が出たという経過をたどったようである。これでオリジナル本の25章のうち、22章まではカバーできた。だが、最近、この「奇妙な論理 Ⅱ」を再読していて気づいたのであるが、最終的に割愛された3章のひとつは、いまだ邦訳こそ出ていないものの奇現象研究家として世界的にその名も高い、あの幻の著述家、チャールズ・フォートを取り上げたものであるらしい。

訳者の市場氏は、このほか同様に記述を割愛したアルフレッド・ウィリアム・ローソン、ロジャー・バブソン(ちなみにこの二人が何者であるかはとんと知らぬ)とともにフォートの名を挙げ、「特異な奇人科学者個人を扱ったもので、内容が普遍性に欠け、教えられるところも少ないと感じたものですから、紙数が限られていることも考えて省略した次第です」と書いている。

ううむ、まぁ科学畑の人からすりゃあ、「フォート? なんだそんなヤツ、単なる変人だろが」と一蹴したくなるのはわかるが、この「奇妙な論理 Ⅱ」は1992年に出ているから、その時点でチャールズ・フォートについて(否定的ではあっても)それなりの紹介が日本語でなされていたら、彼への注目度はだいぶん違っていたのではないか、そして、近くようやく日の目を見るのではないかとウワサされているフォートの主著「呪われし者の書」の翻訳出版ももっと早く実現することになったのではないか、などと死んだ子の年を数えるようなこともしたくなってくる。

「市場さんちょっとそれはまずいッスよ、ローソンだバブソンだなんて連中は省いて結構ですが、やはりフォートは入れないと」と四半世紀前に戻って忠告してあげたいところだが、ただまぁ上に書いたように「呪われし者の書」がいよいよ刊行されるのであれば、結果オーライで良しとするか。(注:そのごこの本は2026年7月になって国書刊行会より『呪われし者の書』のタイトルで刊行された)

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Charles Hoy Fort(1874 - 1932)


【追記】
ネットを徘徊していたら原著「Fads and Fallacies in the Name of Science」のテキストを発見した。そのうちフォートを取り上げた章を読んでおこうと思う。余裕があれば当ブログで紹介してみたいし(→ココ)。

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以前、木曽御嶽山の神隠しの話を書いたのであるが、松谷みよ子「現代民話考Ⅰ」をめくっていて、その出所となったとおぼしき箇所をみつけたので以下に再録する(原文にはない改行を適宜入れた)。


*長野県木曽御嶽山。御嶽山は山岳信仰の聖地だが、昔は行者だけが登っていた山である。山頂の一の池、二の池、賽の河原、三の池の谷間からは突然霧がわき、古来不思議が多く、三年ごとに起こるという。

本年(昭和五十四年)七月十五日午前四時、由比さんは御嶽神社へツアーの一行と参拝に出掛けた。参拝を終えて六時、王滝口頂上山花へ戻り食事となったが、一人分朝食があまったので一人いないことがわかり調べたところ、由比ヒデオさんと判った。それから四時間探したが見つからず、夕方七時神戸へ帰ってツアーは解散した。添乗員も下山して由比さん宅へ連絡したが戻っていないので大さわぎとなった。

次の日から四日間、延百二十名の人が地獄谷からナカマタ沢と目の届く所危険をおかしすべて調べたか見つからない。山頂から宿舎まではわずか一キロで難所もない。宿舎には孫への土産を入れたバッグが残っていた。家人の話ではどこへ行ってもきちんと連絡を入れる人だったという。

ところが四日目の七月十九日、五十八歳の老人(神戸参詣団体の一員)がまた消えた。三の池で御神水を汲んで頂上へむかい岩陰にかくれ、そのまま見えなくなった。近くには隠れるところも危いところもない。日数かけて捜索したがいない。神かくしかと言われた。

三年前の十一月、学生のリーダーがみんなの後をぴったりついて唱え言葉をかけながら登っていたが、突然声が聞こえなくなった。仲間が振りむくと、リーダーの姿はもうなかったという。同じ所で行方を断った人もあったが、その人は三か月後発見された。

この山には死霊がさ迷っているといわれ、怪奇のあるときは賽の河原からうめき声がするという。強力の児野忠雄さんは霧の中に巨人(ブロッケン現象)がいてもう一つの足音が聞こえ、幽界とのドアの次元の違う所に入ってしまい、これが神かくしではないかという。行者は由比さんは死霊にひかれて死んだといい、あのあたりとさしたが由比さんはいなかった。
 放送・昭和五十四年九月二十七日放映、東京テレビ「ミステリーゾーン」より。

 ――松谷みよ子「現代民話考Ⅰ」(2003年、ちくま文庫、448~450頁)


つまり、元来は東京テレビ、とゆーかテレビ東京のオカルト番組で語られた話であったらしい。テレビ屋さんというのは「作ってしまう」人種だと思っているので、こうなるとちょっと眉に唾をつけてかからねばならないような気がするが、ともかく行方不明事件があり、何らかの怪異と関連づけて語る人がいた――というのは確かなことのように思われる。






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タイムマシンで未来からやってきたという触れ込みの例のジョン・タイター以来、「未来人が語る近未来の歴史」というジャンルがオカルト業界で確立しつつあるようだ。そういう人間がネットにいろいろ近未来のことを書き記していくというのが典型的パターンで、で、「当たった」だの「外れた」とかいって騒ぐのは、こういうのを全然信じていないオレからしてもなかなか楽しいことである。

とりわけこの手の話でよくできていると思うのは、「エヴェレットの多世界解釈」とか何とかいうよくわからん話を援用して、「多元宇宙は無数にあるので、未来人が行ったり来たりするうちに宇宙は分岐してしまい、結果的に未来人の語った通りの未来が来ないこともある」みたいな言い訳がちゃんとできる仕組みになっているところである。だから、全部当たらなくて当然よ、と開き直れるのである。賢いのである。

閑話休題。これは2011年の段階ですでに日本にも出回ってたらしく「4年遅れかよ!」とツッコミを入れられる方もいるだろうが、最近オレがようやく知ったこの手のストーリーに、2060年から来た軍人だとかと称する人間が、2010年11月から翌年2月にかけて韓国のネットに書き込みを残していった、という話がある。

オリジナルのサイトがどこにあるかも知らんし、仮に分かっても韓国語などわからんから、あくまで日本語のサイト(このNAVERまとめとか)を見るしかなく、もちろんタイムスタンプの捏造などの可能性があったとしてもその辺にツッコミをいれる術もないので、あくまで「お話」として消費する立場から言わせてもらうのだが、これ、けっこう面白かった。


「2013年の時点で北朝鮮の金正日は死亡している」というのはアタリだが、ま、健康悪そうだったのは確かであるし、「2013年に李会昌が韓国の大統領になる」とか「2012年に大恐慌が来る」とかいうのはいきなり外れ。2015年に第3次世界大戦だかが起きて中国でバタバタ人が死んで(しかし中国とどこが戦うのだ?)、そのあおりで北朝鮮が崩壊して2017年に統一韓国ができて朴槿恵が大統領になる、というのは、うーむ、今年はあと10か月しかないので、これはどう考えてもキビシイのではないか。

ところが日本に関しては「2011年頃に大地震で津波が起きて、それに伴って放射能漏れの被害が出る」と書いているらしい。ここで「なるほど、2011年3月以降に捏造されたネタだったのね」と言ってしまうのは冷血極まりない態度なので、しばし信じたフリをしておつきあいすると、一方では「2013年が終わる前、日本の政治体制は既存のシステムから完全に変更」とか言っているらしい。自民党が総選挙で大勝して第2次安倍政権が成立したのが2012年末であるから、その後の安倍の「暴走」ぶりをみれば強引に「当たった」と言い張ることもできないではない。「やるじゃん!」みたいな事を考えてしまったりして、この辺は何か妙なリアリズム(笑)。

何かこういうチグハグな未来予想みたいなものをどういう人間がどういう判断のもとに書いたのか、というのは想像してみると何だか面白い。今回のも、「ニコラ・テスラは実は未来人だった」みたいな小ネタを差し挟んでいていて工夫がしのばれた。というわけで虚構と現実のはざまに遊ぶ未来人文芸というのは、これからもイチオシの注目ジャンルである。

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このたびの御嶽山噴火のニュースを見聞きしているうちに、「ハテ、そういえば何か御嶽山にまつわる怪異譚のようなものを聞いて、ちょっと調べてみたことがあったなぁ」と思い出した。


改めて記録をひっくり返してみたのだが、この御嶽山での「神隠し」の話、浜田政彦『異次元に広がる超文明世界の謎』という本に書いてあった。

 

以下、同書263Pからの抜粋。



神々の聖地として敬度な巡礼者が山道を行き交う、いわゆる「聖地」でも神隠しは起きている。木曾の御岳山で、巡礼者が神隠しに遭ってしまう事件が起きたのだ(以下、松谷みよ子氏の収集事例) 。

  1979(昭和54)年7月15日のことである。天狗の棲む霊山として、古来、人々の信仰を集めている木曾の御嶽山で、一人の男性が消えた。この男性は御嶽山参拝ツアーの一人で、ツアー仲間と山を登っていたのであるが、ふと気がつくと男性がどこにもいないことに仲間が気がつき、事件となった。一緒に登っていた仲間たちは、消える直前まで男性の姿を目にしていたという。このときは四百人近い人数で大捜索が行われたが、男性は二度と見つからなかった。

  男性が消えてわずか4日後に、再び事件は起きた。58歳の男性が登山中に消滅したのである。男性のすぐ後方を歩いていた目撃者によると、道の前方にある大きな岩陰に、男性の姿が隠れたと思ったら、次の瞬間には消えていたという。目撃者は岩に着くとすぐに辺りを捜したが、男性の姿はどこにもなく、そのまま消えてしまったのであった。

 御嶽山ではこのほかにも、76年に登山隊のリーダーが仲聞の目の前で消滅する事件が起きている。先頭を歩くリーダーを後方から追っていた仲間たちは、消える直前までリーダーの元気な声が、すぐ前から聞こえていたという。だがほんの一瞬目を離した隙に、リーダーは掻き消えてしまったというのだ。




この浜田政彦という方はオカルト系の人のようなので怪しまれる方も多いと思うので言っておくが、ここで紹介されているエピソードは童話作家として民話採集にも取り組んでこられた松谷みよ子先生の「現代民話考」シリーズ――おそらくは「第一巻 河童・天狗・神かくし」――に出ている話のようであるし、まぁまんざら根も葉もない話ではないだろうと思う。

思うんだが、残念ながらこの本は手元になかったのでオレ的には確認できなかった(注:その後、出典を確認した)。そこで、じゃあせめて最低限のウラ取り、というわけで念のため当時の新聞を調べてみたら、確かにそれらしき「事故」のことが書いてあった(以下引用はいずれも読売新聞)。


 

1979年7月16日夕刊(字が小さくて読めないと思うが、読みたい人はクリックして確認せられたし)


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続報。1979年7月17日夕刊

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第二の事件。1979年7月19日夕刊

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新聞のほうでは、2件目の失踪者は「59歳男性」とあって微妙に記述が異なっているし、もとより「次の瞬間には消えていた」などという話は書いてないワケだが、時期的にはピッタリ符合しておる。さらなる続報は発見していないのでその後どうなったのかはよくワカランけれど、ともかく少なくともその当時、「神隠し」という話には一定のリアリティがあったのだろう。

 

何となれば、ご承知のように御嶽山は古くから山岳信仰の聖地であった。いわば何か常ならぬ世界へと開けている場、怪異であるとか何か恐ろしいことが起きてもおかしくない場として古人も観想していたのである。そんなことをアタマに置いて今回の災害のことを思うと、何か慄然としてしまうようなところがある。古人が語り継いできたような話は決して軽んじてはならぬのではないか、柄にもなくそんなことを思う。


付記

なお、御嶽山で有史以来はじめての噴火があったのは1979年10月28日。この一連の「神隠し」事件のわすか3ヶ月後であったことを言い添えておきたい。だからどうだ、ということではないけれども。





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たとえば「家」とはなんだろう?

家なのかそうでないのか何ともハッキリしないものがあるとしよう。さて、それが一体どちらなのか、判断の基準を明示してどちらかであると判断を下すのは不可能なことだ。

もし人が住んでいる納屋があったとしたら、それは家=ハウスである。だが、もし「何ものかが住んでいるのが家だ」というのなら、どんな構造をしていようと関係はないのだから、鳥の巣でさえ家になってしまう。「人間が住んでいるかどうか」というのも照らすべき基準とはいえない。なぜなら、われわれは犬の住むところでさえ「ドッグ・ハウス」というのだから。建築材で出来ているのが家、ということもできない。なぜならわれわれは [氷でできた] エスキモーの家を「スノー・ハウス」というのだから――貝はヤドカリのための家であり、さかのぼっていえば、それはもともとその住み家を作り出した貝じしんの家でもあった。ワシントンのホワイトハウスと浜辺の貝のように一見してあまりに違うもの同士であっても、家であるという点においては連続性をもっているもののようにみえる。

これと同様に、たとえば電気についても、それが何であるかを言い表すことのできる人間はいない。それは「熱」とか「磁力」とか「生命活動」といったものとハッキリ分離できるようなものではない。そう、哲学者や神学者、生物学者たちは、それぞれに「生命」を定義しようとしてきたが、そうした試みも失敗してきた。なぜならハッキリとしたかたちで定義できるものはそこにはないのだから。実際のところ、およそ生命にまつわる現象というのは、化学や電磁気学、天体の運行といった場にも姿を現わしてしまうものなのだ。

濃紺の海に浮かぶ、真っ白なサンゴの島々を考えてみよう。

一見したところでは、それぞれの島は異なってみえる。見たところ、それぞれには個性があるようであり、ハッキリとした違いがあるようにみえる――しかし、それらはすべて同じ海底から突き出すようにして存在している。海と陸との相違というのもハッキリしない。海が満ちているところに陸地が生じることもあれば、土地が広がっているところに水に満ちた場所が生じることもある。

そういうわけで、もし万物が相互に地続きになっているものであるならば、或るものが「そう見える」からといって、それが見たままのものであるとは限らない。テーブルの脚であっても、もしそれが何かよそから投影されて在るものだとしたら、単なるテーブルの脚以上のものである。もしわれわれが物理的な意味で環境とひとつながりの存在だとしたら、あるいは精神的な意味で、われわれが環境とのかかわりを離れて何事かを表現することなどできないのだとしたら――われわれがふつう言っているような意味での「現実世界」に生きている人間など一人もいない。

さて、われわれがここで言っていることは二通りに捉えることができる。

ひとつは「伝統的な一元論」としてのそれ。そして、もうひとつはこういう意味合いのものだ――固有のアイデンティティをもっているようにみえるあらゆる「事物」は、どこか見えないところにあるものから投影された島々のようなものに過ぎず、詰まるところ自他を区別する確固とした境界線など有してはいない、ということ。

こうした「事物」はどこからか投影されたものに過ぎない。にもかかわらず、それらは「どこかに隠れているもの」――それは個々の事物が固有のアイデンティティを有しているということを決して認めようとしないのだ――から必死で我が身を引き剥がそうと試みる。

そうやってすべての事物が互いにつながりあった関係を頭に浮かべてみる。そこではすべてのものがそれぞれに違いをもっているようではあるが、それらが目指しているのは畢竟ひとつの目標である。つまり「自己を他から引き剥がして確固たる実在を手にいれること」である。それは「実体をもつ自己」「確固たる自分」「他との境界をもつ存在」「揺るぎなき独立」を得ることであり――あるいは、それを人間にまつわる言葉を使って言えば「個性」や「魂」を立ち上げることだ、ということもできよう。

自らをリアルなもの、肯定しうるもの、あるいは絶対的なシステム・支配するもの・組織・自己・魂・実体・個人性をもつものとして立ち上げたい――そのように考えるものはすべて、まずは自らの周囲、自己を形作っているものの周りに輪郭線を引き、次いであらゆる自己ならざる「もの」を排し、放逐し、あるいはそこから遠ざかっていくことによってのみその試みを成就することができる。

もしそのようにできなければ願いが成就することなどありえない。

だが、仮にそのように行動できたとしても、それはあらかじめ失敗が宿命づけられた悲惨な行動たらざるを得ないのだ。それはあたかも海面上に円を描きながら「円の中に立ち騒いでいる波というのは、円の外側にある波とは全然無関係だ」といっている人物(むろん内側と外側の波はつらなっているわけだ)、あるいは「認められたもの/否定されたものは劃然と区別可能なのだ」と真剣に説いている人物のふるまいにも等しい。(つづかない。記録はここで途絶えているw)




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冒頭部の超訳その2です。


従って、私は、「呪われしもの」という言葉を「追放されたもの」という意味で使っている。

だが、追放されたものという言い方には、それがいつの日にか「その場に居残るもの」に転ずる可能性もあるはずだ、という思いを込めている。

こんな風に言ってもよい。今日はここに残されたものであっても、明日どうなるかはわからない。

そして今日放り出されたものが明日になればこの場にある、ということもありうる――もちろん今日放逐されたものが、未来にあってもやはり放り出されている、ということもあるだろうけれど。

われわれとしてはこう言ってみたい。「いまここにない」と「将来においても存在しない」のはざまにも――あるいはわれわれの身の回りにある日常的なものと(いけすかない言い方だが)「実存的なもの」のはざま、といってもいいのだが――大いなる転変はあって、それは天国と地獄の間を往還する運動にもなぞらえることができる。つまり、呪われしものが、そのままずっと呪われしものであり続けるわけはない。救済があるからこそ地獄に堕ちることもある。となれば、われわれの呪われし悲惨なるものが、やがて麗しき天使に化けることもあるのではないか。さらに推論を進めていけば、やがてはそのようなものどもがかつて追い出された場所に帰還することもあるのではないか、そう思われるのだ。


われわれとしてはこう言ってみたい。いかなる者であれ自己を立ち上げようとするときには、何ものかを他者として外部に放り出さねばならぬ――つまり、一般的に或るものが「存在している」という状態は、程度の差こそあれ「内にあるもの」と「締め出されたもの」の間に存在する、それ相応にハッキリした相違点が記述されることによって成りたっている。

しかし、実際にはそれほどハッキリした相違点などない、ということもわれわれは言っておかねばなるまい。万物は、チーズを食い荒らしている虫やネズミのようなものだ。ネズミと虫――この二者ほどかけ離れたものはないようにもみえる。ネズミであればこのエサのところに一週間通うのだろうし、虫なら一か月。が、どちらの場合も外からはチーズのようすが変わっていくのが見えるだけ。結局われわれはみな虫かネズミ。そうしたものが食い荒らしているチーズの外側だけが、時に応じて様々な姿をみせるだけの話である。

あるいはこうも言える。赤色と黄色とはまったく異なる色だとはいえない。それは単に「黄色の有する彩度は赤のそれとは異なっている」というだけの話だ。つまり赤色と黄色は連続していて、だからこそ両者が溶け合う領域にはオレンジ色というものが存在するのである。

それではこの黄色と赤色の議論を踏まえて考えてみよう。すべての現象について、赤の要素を含むものを「真」、黄色の要素を含むものを「偽(ないしは架空のもの、でもよいが)」として科学的分類を試みることになったとしよう。するとその境界領域は「偽」だといえるけれども、同時にどちらとも言い難い恣意的な性格も持っていることになる。なぜならオレンジ色をした物体というのはまさにその変移する領域にあるので、事前に設定されたボーダーラインの両側とつながりをもってしまうからである。

こうやって考えていくと、われわれは次のようなことに気づかざるをえない。

つまり、分類すること、内部と外部のものを分けることには何ら根源的な根拠はなく、そうした考え方は「赤色と黄色は区別できる」というこれまで一般的だった考え方よりもむしろ道理が通っているのだ。

科学が自ら喧伝するところによれば、これまで科学は膨大なデータをその内側に取りこんできた。実際、そうでなかったら、科学というのはいったい何をしているのか、という話にもなるだろう。そして、これもまたその喧伝するところであるけれども、科学はこれまで膨大なデータをその外側に放り出してきたのである。さて、もし赤色が黄色との連続性をもっているとしたら? もし「内側にとどめ置くか」「外側に放り出すか」という基準がハッキリした分岐点をもたず、連続性をもっているのだとしたら? 科学は、最終的に受け入れられたものとそれほど変わらないものを外部に放逐するようなことをしてきたのに違いないのだ。互いにオレンジ色の中に溶け合ってしまう赤色と黄色というのは、あらゆるテスト、あらゆる基準、ある種の説が生み出されてくるプロセスを象徴的に示している――。

あるいはこうも言える。「いかなる問題であれ、すべてのものは分類し区別することができる」という主張は、「万物には判断の基準となるような確たる判別のポイントが存在する」という錯誤の上に成り立つ幻想なのだ――。

また、そのように知的思考を用いてものごとを探究する営みというのは、「事実」「物事の根源」「普遍」「法則」「定式」「三段論法の大前提」といったものを見つけ出すため続けられてきたのだった。その結果、これまでにどんな達成があったかといえば、せいぜいが「ある種の事柄は自明である」と言えるようになったことぐらいである。にもかかわらずわれわれは、何やら「証拠がある」と聞くと何かが証明されたのかという風に考えてしまう。

これが彼らのいう「探究」なのである。それは実際には何らかの達成を成し遂げることなどなかったのだが、にもかかわらず科学は、ある種の達成があったかのようにふるまい、支配者として君臨し、宣命を重ね、そしてその意に沿わないものを退けてきたのだった。(つづく)

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チャールズ・フォート『The Book of the Damned』(1919)の冒頭部分を超訳してみた。誤読をごまかす魔法の言葉、それは超訳(笑)。


「呪われしもの」たちが列をなしている。

ここで私が「呪われしもの」と言うのは、追放され、放逐されてきたもののことである。

そう、われわれはこれから科学によってこの世界から放逐されてきた、ひと連なりの事実を見ていこうとしている。

そのようにして呪いの言葉をかけられたものどもが、これまで私が掘り起こしてきた記録に導かれるようにして、これから隊列をなしてわれらの前を進んでいく。あなたはそれをこれから読み進める――いや、あなたに読まれずとも、呪われたものたちは行進を続けていくのだろう。土気色をしたもの、燃えるように熱を放つもの、腐臭を放つものと、その姿は様々ではあるけれど。

中には屍体や骸骨、ミイラのたぐいもいて、それらは、付き従ってくる「生きながらにして呪われたものたち」の力を借りてはヒクヒクピクピクと体を蠕動させたりもする。熟睡しているのに、何故か歩いている巨人が脇にいたりもする。理にかなった定理の如きものもあれば、ボロ布の如きものもある――まるでユークリッドがそうであったように、連中は「秩序などナンセンス!」とでもいった心持ちで行進を続けていくのだろう。小柄な売春婦たちはそのあたりをヒラヒラ身を翻しながら飛び歩いたりするのだろう。

多くは道化者。しかし、同時にその多くが実は端倪すべからざるものであったりする。暗殺者もいるだろう。ほのかに漂ってくる悪臭。薄気味悪い迷信。何ということもない影。どぎつい悪意。気まぐれ。優しさ。無邪気さもあれば衒学趣味も。奇っ怪なもの。グロテスクなもの。誠実。不正直。深淵なるものもあれば幼稚っぽさもある。

突き刺すような痛み。笑い。そして、ほとんど無意味なほど馬鹿丁寧に、かつ長い間、組み合わされた祈りの手。

結局のところ、どこに出しても恥ずかしくないような第一級の見かけをもちながら、同時に罪人めいてみえるものたち。

その相貌をひと言で評してみれば、威厳がありながらも何とも放埒きわまりない。その声をひと言でいえばお祈りのようであるのに、どこか喧嘩腰のようでもある。だがしかし、全体を貫く何ものかがあって、それを言葉で表現するなら「行列のようだ」ということになる。

こうしたすべてのものを「呪われている」のひと言で済ませてしまった勢力を言い表すのに、ちょうど良い言葉がある。それは「謬見に満ちた科学」。

だがどのように言われようと、それらの行進は止まらない。

チビの売春婦たちはふざけて辺りを跳ね回る。気のヘンな連中は気を散らすようなことばかりする。道化たちはおふざけをして、みんなのリズムを乱そうとする――それでも全体としてみれば行進の一体性というのは失われてはいない。そして、印象に残る個々のものどもが次々に目の前を通っていく。いつまでもいつまでも。

そうしたものどもがわれわれのこころをガッチリと捉えて離さないのは、それが人を脅かしたり馬鹿にしたり蔑んだりするからではなく、総体として統制のとれた動きを構成しつつ、次から次へとわれわれの前を行進し続けていくからにほかならない。(つづく)

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